心の生活習慣
福岡県在住 内山 真太朗
近年、生活習慣病になる人が増えているようです。これは日々の食生活や生活リズムなど、何気ない小さな事の毎日の積み重ねが大きな要因の一つと言われていますが、人間関係で起こってくる事情も、これと同じ事なのかもしれません。
ある教会月次祭の日、おつとめも終わり、参拝者も帰られ、ひと息ついていた時、自転車に乗って教会に入ってくる人がいました。見れば、ついさっきまで一緒に月次祭を参拝していた信仰熱心な75歳の女性、タカコさん。
よく見ると、自転車に荷物をいっぱい積んでいるので、てっきりバザーに出す品を何か持ってきてくれたのかと思い、声をかけると「ちょっとしばらく教会に泊めてほしい」と言います。突然のことで驚きましたが、話を聞くと、夫婦げんかをしたとのこと。
タカコさんは、80歳になるご主人と夫婦で二人暮らし。ご主人は、若い頃は銀行マンとして支店長まで勤め上げ、社会的な信頼も非常に厚く、地域でも色んな役をつとめておられた方です。しかし、家庭では厳しく、ちょっと気に入らない事があると奥さんに当たり散らし、ひどい時には手が出てしまうこともあると言います。
教会月次祭のこの日、予定していた時間よりタカコさんの帰りが遅かった事にご主人は腹を立て、「だいたいお前は嫁としてのつとめが全く出来ていない!もう出ていけ!」と大激怒。そこまで言われると、売り言葉に買い言葉で、タカコさんは「出ていけと言われるなら出ていきます!」と言って、荷物をまとめて家を出て、行くところもないから教会に来た、ということでした。
まあ、せいぜい2、3日もすれば気持ちも落ち着いて帰るだろうと、最初は軽い気持ちで見守っていました。ところが、それから一週間経ち、二週間、三週間経っても一向に帰る気配はありません。
タカコさんは教会に来てからというもの、朝づとめ前から起きて、お掃除や洗濯、子供の世話まで、教会の用事は何でもやってくれるので助かりはしますが、ご主人の事が心配じゃないのかと尋ねると、「あの人は家事も自分でするし、一人で生きていけるから大丈夫」とキッパリ言います。
教会に来て一か月が経ち、ご主人から電話が掛かってきました。「もう帰ってきてくれ」と。私は内心、「あー良かった。これで治まる」と思い、タカコさんに電話を変わると、「あなたはこの前、私の事を全否定しましたね。私にあなたの嫁はもう務まりませんから、帰るつもりはありません」と平然と言ってのけ、電話を切ってしまいました。
これ以降も、何回もご主人から電話がありましたが、頑なに同じ返事を繰り返します。とうとう、事情を聞いたご主人の親族から連絡があり、「教会にご迷惑をおかけして申し訳ありません。ついては本人と一緒に教会に行って、タカコさんと話し合います」とのことで、早速来て頂きました。
あんなにお元気だったご主人がげっそり痩せて、歩くのもやっとの状態。奥さんに出て行かれてから一か月、まともな食事をしていなかったそうです。
教会で、一か月ぶりの夫婦再会。タカコさんと顔を合わせた瞬間、ご主人はボロボロ涙を流され、「私が悪かった。申し訳なかった。この一か月、お前のいない生活で、いかに自分が一人で生きていけないかが分かった。頼む、この通りだから帰ってきてほしい。もう一度、私にやり直すチャンスを下さい」。
大の男の魂のさんげ。それに対してタカコさんは、「私の事は先立ったと思って一人で生きて下さい。世の中には独り身の男性は大勢いますから。私はもうあなたの元には帰りません」とキッパリ言います。そこから一時間、話は平行線のままでその日は終わりました。
これはさすがに放っておく訳にはいかんと思い、とにかく私は第一にげっそり痩せたご主人が心配でしたので、それから毎日、タカコさんには内緒で、教会から食事を持って自宅にうかがい、ご主人と色々話をしながらご飯を食べることを続けました。
そして肝心なのは、タカコさんの心の向きを変えることだと思い、本人とねりあいを重ねました。しかし「ご主人も反省されているし、一度帰ったらどうでしょう」といくら説得しても、全く動く気配はありません。
タカコさんは教会生まれ、教会育ちで、おぢばの学校も卒業しており、教理や夫婦についての教えをしっかり理解しています。その上で、「私はね、結婚して40年以上、主人に何とひどい事を言われようが、ずーっと我慢して、夫を立てて通ってきました。おかげで家も建ち、たった一人の息子も立派に独り立ちしてくれました。夫婦二人になった今、もう余生は生まれ育った実家の教会で過ごしたいんです」と、年を重ねたご婦人の切実な思いを語ります。
「みかぐらうた」に、「ひとのこゝろといふものハ ちよとにわからんものなるぞ」とありますが、人の心、気持ちを変えるという事は実に難しいものです。
これはまず神様に働いてもらうより他ないと思い、私はその日から毎日、一日6回のお願いづとめ、そして12下りのてをどりをつとめさせて頂きました。それに加えて思案したのは、息子さんにこの事情をきっかけに、信仰に目を向けてもらいたいということでした。
私とは幼馴染で、当然両親の状況も知っている彼ですが、国立大学の先端技術研究者として日夜研究に励みながら、授業も担当して多忙を極め、しかも遠方に住んでいるのでどうすることも出来ないとのこと。
そこで私は、「自分たちではどうにもならない事を神様にお願いする以上は、自分たちが今まで出来なかったような事を神様に約束したいんだ。是非とも、久しぶりにおぢばがえりをして、別席を運ぶという約束をしてもらえないだろうか」と彼に話をしました。
すると彼は、「自分も何とか両親には仲直りしてもらいたいと思っている。実は大学の隣りに天理教の教会があって、お昼休みに毎日参拝に行っているんだ」と。彼は子供の頃、教会の鼓笛隊に入っていたので、参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来るのです。
そして、「別席もずっと声を掛けられていたけど、なかなか気持ちも向かなかったし時間も取れなかった。でも、こういう時に折角声を掛けてもらったから、久しぶりにおぢばがえりをしよう」と、別席を運ぶことを約束してくれました。
さて、それから3日後、約二か月近く教会にいたタカコさんが突然、「うちに帰ります」と言い出しました。え?突然どうして?と驚いて話を聞くと、「やっぱり自分の家と主人が気になるから、もう一度やり直してみます」と言って、いともあっさり帰って行きました。
数日後、さっそくご夫婦で教会にお礼に来られました。夫婦でたくさん話し合ったそうで、ご主人も笑顔を取り戻しておられました。息子さんが日々、時間を作って参拝していた真実、そして別席を運ぶと心定めをした真実を、神様がお受け取り下さった姿だと思いました。
夫婦や親子関係、仕事場での人間関係のトラブル、または借金などの金銭トラブル。これらは「心の生活習慣病」と言えるのかもしれません。
普段の家族や周囲の人たちに対する何気ない心遣い、心の生活習慣を、お道では「ほこり」と教えて頂きますが、それが積もり重なると、さまざまなトラブルや事情が起こってきます。
タカコさんとご主人のトラブルも、40年間もの日々の「心の生活習慣」がもたらした出来事だったのです。
教祖は、様々なお言葉や行いによって、日々の通り方の大切さを教えられています。教えを自らの心のほこりを払う箒として日々を通り、それによって家族がたすかり、周りの人がたすかるご守護を頂けるように、これからもつとめさせて頂きたいと思います。
尽くした理は末代
日ごろ私たちは、どれくらいの時間の幅を意識しながら生きているでしょうか。理想と情熱に燃える若き時代は、何十年先の将来を見つめていたこともあるでしょう。仕事や子育ての慌ただしさの中で、今日明日のことしか考えられない時期もあるかも知れません。その状況や年齢によって、時間の価値や感じ方が違うのは当然のことです。
いずれにしても、総じて人の視野には、自分の一生という限られた時間しか映ってこないのが普通のことのようです。人生八十年、九十年は当たり前、百年時代の到来とも言われる昨今ですが、その年月の中で、自ら成したことの結果を求めるのが人間というもの。
この教えを聞き、人間の魂は生き通しで、生まれかわり出かわりをするという「出直し」の教理を信じる者でさえ、一生の枠を超えて思案をめぐらすのは容易なことではありません。前生や来世のことは、私たちには分からない神様の領域の話です。
しかし、神様の教えの中には、「末代」という言葉がしばしば出てきます。一代、二代、三代と世代を重ね、いのちが途切れず続いてゆく。それは私たち人間にとっては大きな慶び事です。そうした視点で神様のお言葉を味わってみると、そこには悲観的な未来よりも、より発展的な未来を想像することができます。
「尽した理は一代やない、二代やない。末代捨てさしゃせん」(M28・5・16 補遺)
「人間は一代、一代と思えば何でもない。なれど、尽した理働いた理は、生涯末代の理である」 (M37・3・3)
道の上に尽くした理は、これから先、代々、いついつまでも消えることはない。目先にとらわれがちな私たちの人生観を、根本から変えるお言葉であり、まさに生き方の大転換を迫られているようです。
日々の心を尽くす行いを、必ず神様がお受け取り下さり、末代にわたって消えることのない理として残る。そのことが、どれほどの安心と救いになるでしょう。精一杯の努力をして、たとえその場は報われなくとも、まいた種が後々に芽を吹くのだと知れば、心は大いに勇み立ってきます。ともすれば、心を倒しそうになることの多い私たちを、これほど励まして下さるお言葉はないと思うのです。
(終)
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