最後のギュー
岡山県在住 山﨑 石根
私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。
信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。
私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。
さて、その報せは記念のお祭りの二日前の5月8日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。
報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。
ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。
賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。
その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。
私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。
今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。
すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。
父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。
さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。
6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。
しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息を引き取った」との連絡が入りました。おつとめが途中でしたので、そこから私たち二人はおつとめを最後まで続けました。それは、もちろん「生き返って欲しい」という祈りではなく、約一か月、命をつないで下さったことへの感謝のおつとめでした。
お葬式は「待ったなし」とよく言われます。諸般の事情から、亡くなったその日にみたまうつし、翌日に告別式が行われることになり、私たちは大急ぎで家族揃って奈良へと出発しました。また、天理にいる息子二人も会場に合流して、無事にお葬式が始まりました。
母の亡骸を見た妻の父は、その顔が本当に安らかな笑顔だったので、「この顔を見てたら、何も言うことあれへん」と口にしていました。
また、お葬式の斎主をつとめて下さった妻の里の教会の会長さんが、母の道すがらを偲ぶ諄辞という祭文を奏上して下さいました。その中で、母が父と苦楽を共にした大教会での伏せこみのくだりでは、会長さん自身が言葉を詰まらせ、涙声で読み上げて下さったことも、本当にありがたいなあと感じました。
さらに、教会の前会長の奥さんが弔辞を送って下さいました。それこそ奥さんも、父と母と苦楽を共にし、支えて下さいましたので、涙なしでは聞くことが出来ませんでした。
「えらい急いで、親神様のもとに抱きしめられに行っちゃったんやね。二人が毎朝、大教会の朝づとめに参拝する姿を見て、大教会の信者さんがみんな『ようぼくのお手本やな』って言って下さってたんだよ」と、本当にありがたいお手紙を届けて下さり、母をみんなで見送ることが出来たステキなお葬式になりました。
さて、我が家の三男は昔から日常的に「お母ちゃん大好き!」と妻をハグしています。三男が成長するにつれて、「そろそろお年頃だけど、大丈夫かな?」と妻は心配になる一方で、素直にそれが嬉しいという気持ちもあり、「いつまでやってくれるかな」と、普段から思っていたようです。その上で、「よく考えたら、私は自分の母親にこんなことしたことがあるかなぁ」と思うようになったのです。
「もちろん子どもの頃にはあったかも知れないけど、してあげたこと、言ってあげたこと、もう随分ないなあ…」
今年のゴールデンウィーク、妻はちょうど実家に泊まる機会があり、5月5日に出発する朝、妻は「お母さん、大好き!」と言いながら、ギューッと母を抱きしめたのでした。母は、「や~」と驚いて高い声を出しながら、照れた様子で、とても嬉しそうにしていたそうです。結果的に、それが妻と母の最後のやりとりとなりました。
妻にしてみれば、もっともっと親孝行したかったかも知れませんが、図らずもこの機会に改めて親からかけて頂いた親心を知ることが出来ました。それは、親神様が約一か月命をつないで下さったからこそで、私たちに心の準備期間を与えて下さったようにも感じます。それにしても、親神様の懐に抱かれる前に最後のハグが出来たなんて、何だか親神様も粋な計らいをされるなぁと感じました。
妻が三男に、「ありがとう。おかげでお母ちゃんも最後にギュー出来たわ」とお礼を言うと、「私たちも、いっつもギューしてるし!」と姉と妹から異議が唱えられました。
「ホンマやね。みんな、ありがとう」
今日も朝夕に、ご先祖様に、そしてお母さんに、妻と共にお礼を申し上げたいと思います。
なにかなハんとゆハんてな
教祖が教えられた「みかぐらうた」は、手振りと共に日々唱える中で、私たちに様々な気づきを与えて下さいます。
三下り目に、
六ツ むりなねがひはしてくれな
ひとすぢごゝろになりてこい
七ツ なんでもこれからひとすぢに
かみにもたれてゆきまする
とあります。
このお歌が作られたのは慶応3年、1867年のことですが、この年にお屋敷へ参拝した人々のことを記録した「御神前名記帳」という資料が残されています。
それによると、当時の人々が「眼病、足イタ、カタコリ、痔」などの身体に関する願いにとどまらず、「縁談、悪夢、物の紛失」など、実にさまざまな願い出をしていたことが分かります。
しかし教祖は、どんな願い出に対しても、「無理な願いはしてくれな」とは、仰せにならなかったのではないでしょうか。むしろ、誰に対しても、母親が子供を迎え入れるように、「よう帰ってきたなあ」と、大きな親心で迎えられ、どのような病気や事情もお引き受け下さったのだと想像できます。だからこそ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、たすけてくださる」との噂が広まり、この道が徐々に進展していったのです。
では、一体何を「無理な願い」だと仰せになっているのでしょうか。それは願う内容よりも、願う人の心について仰せ下さっているのだと思います。
直筆による「おふでさき」に、
月日にハなにかなハんとゆハんてな
みなめへ/\の心したいや (十三 120)
とあるように、親神様は私たちの心次第でどのような願いも叶えて下さるのです。
「無理な願い」とは文字通り、受け取って頂けるような「理」が無いまま願うということ。心のどこかに、「本当にたすけて頂けるのだろうか」と少しでも疑う心があるなら、到底親神様には受け取って頂けないでしょう。
「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の切なる願いに対して、「かみにもたれてゆきまする」と私たちはお答えしている訳ですから、これは大変な宣言をしていることになります。まさに、何が起きても揺らぐことのない確かな信仰が、試されていると言えるのではないでしょうか。
(終)