本当のながいき
兵庫県在住 旭 和世
私どもがお預かりさせて頂いている教会では、六年前に「こども食堂」を始めました。こども食堂を始めたきっかけは、そのスタートの少し前にさかのぼります。
当時、私は4人の子供の子育て真っ最中。三人の小学生に、末っ子は重度の心身障害児で在宅での医療的ケアをしていました。
末っ子の優子は「18トリソミー」という染色体に異常がある病気でした。病院の先生からは生涯寝たきり、一歳まで生きられる確率は一割と言われていましたが、ご守護をたくさんいただき、その頃優子は二歳を迎えようとしていました。
とはいっても自発呼吸ができないので、24時間呼吸器が手放せず、体重は新生児の赤ちゃん並みの4キロほど。発達はものすごくゆっくりで、首が据わることも、歩くことも、話すこともできず、小さなベビーベッドが彼女の居場所でした。
そんな24時間目が離せない彼女を育てながらも、教会でこども食堂ができないだろうかと考えていました。というのも、実は我が家には優子が産まれる前に、同じ18トリソミーの次男を子育てしていた経験があったので、医療的ケアにも、気持ちにも少し余裕があったのです。
次男の孝助の時は、想像を絶する医療的ケアの大変さに、ドキドキ、オロオロして気が休まることはなく、毎日が必死で余裕は全くありませんでした。私は外に出ることもなく、一日中孝助のベッドにへばりついて介護生活をしていました。
心はだんだん内向きになり、人に会うのもしんどくなり、訪問看護師さんに会う元気すらなくなっていく自分がいました。その頃はちょうど教祖130年祭の年祭活動一年目でした。「年祭の旬に一人でも多くの方にお道の素晴らしさを伝えて、おぢばに帰っていただこう!」という活気にあふれた周りの状況とは裏腹に、内向きな自分の心だけが取り残されているような気がしていました。
そんな中、教会につながる方が「孝助くんは教会の宝物だね」と言ってくださったり、近くの教会の奥さんが「和世ちゃん、孝ちゃんを連れてたとえ一軒でも二軒でもにをいがけに行くなら、私ついていくから!」と声を掛けてくださったり、「孝ちゃんに会うと元気もらえるわ!」と言って下さるかたなど、周りの皆さんの寄り添いのおかげで、私の心はだんだん外に向かうようになっていました。たとえ一軒でもにをいがけに行こう! 毎日を喜ぼう! と前を向けるようになり、大変だと思っていた日々に喜びが増えていきました。
その後、孝助は130年祭を迎える前に二歳で出直しました。突然のことに、辛い悲しい気持ちをたくさん感じながらも、それだけではない、これまでの感謝と信仰があったおかげで先を楽しみに通らせていただけることも実感していました。
その後のまさかの優子の出産! もう「喜ぶ!」しか答えはありません。忙しい中にも喜びばかりでした。
しかし、ふと「こんなにありがたい、嬉しい毎日を過ごせるようになったのも、信仰のおかげ、周りの皆さんの寄り添いのおかげ…。何か神様や地域の方々へご恩返ししなければ申し訳ないな」と思うようになり、教会に居てでもできる「にをいがけ」はないかなと考えるようになりました。
そこで、以前からやってみたいと思っていた「こども食堂」はどうだろう?と思いつきました。本当にできるのか不安もありましたが、会長である主人が心配しながらも協力してくれることになり、お料理好きな母も快く承諾してくれて、何とか活動を始めることができました。
こども食堂の日には、訪問看護師さんがその日に合わせて優子のケアに来てくださったり、優子の薬を配達していた薬剤師さんもボランティアに来てくださったりと、色々な方が教会に出入りしてくださるようになりました。コロナ禍でも活動は継続し、優子のベッドのそばでたくさんのお弁当を作ったり、子供たちの学習支援もできるようになり、教会に新鮮であたたかい空気が流れていくような気がしました。
そんな活動が軌道に乗ってきたのを見届けるかのように、優子は4歳で神様の元に戻りました。どこかで心の準備はしていたものの、やはり我が子に先立たれる寂しさは言葉にできないほど辛いことでもありました。
そんな時、ある方がこんな言葉をかけてくれました。
「孝助くんと優子ちゃんは出直したけれど、これからも周りのみんなの心に孝ちゃん、優ちゃんの名前はずっと残っていくから〝名前〟が〝生き続ける〟。それが本当の〝ながいき〟だよ」と言ってくださいました。
その言葉が本当に私の心を救ってくれました。
孝助という名前の由来は「親孝行」の〝孝〟と「人助け」の〝助〟。そして、優子の優は人の憂いに寄り添うという意味。
孝助と優子のおかげでできるようになったこども食堂の活動を通して、私たちは人の憂いに寄り添い、一人でも多くの方に喜んでもらい、助かってもらえる場所になるよう、そして何より、親神様、教祖に喜んでいただける教会になればと思って今も活動を続けています。
そんな優子の出直しから二年ほどたった頃、私たち家族に予想だにしなかったことがまたまた起こったのです。会長の弟夫婦に結婚13年目にして待望の赤ちゃんが授かったのです。もう家族中が喜んで出産を心待ちにしていました。
おふでさきに
たいないゑやどしこむのも月日なり
むまれだすのも月日せわどり (6号 131)
というお言葉がありますが、出産当日、このお言葉を痛感することになります。
お産の最中に、あろうことか母胎の子宮が破裂し、緊急の帝王切開になったのです。赤ちゃんは仮死状態、母胎の止血にも時間がかかり、母子ともに命が危ないという知らせが入りました。私たちは、にわかに信じがたい状況に驚き、なんとかご守護頂きたいと皆で必死の「お願いづとめ」をつとめさせて頂きました。
その中で、命をいただけることは当たり前ではないこと、人間の力ではどうにもならないこと、親神様・教祖におすがりするしか方法がないことに改めて思い至りました。そして、奇跡的に二人ともたすけて頂くというご守護を頂いたのです。
親子共に命を落としていてもおかしくない状況の中、本当に親神様のご守護が身にしみた出産でした。
弟夫婦は生まれた男の子を「優助」と名付けました。「優子の優と孝助の助」をとったそうです。その名前を聞いて、主人も私も驚き、まるで孝助と優子が一度に帰ってきてくれたような気がして涙が出ました。
弟夫婦は親子共にない命を助けて頂いたことを心から感謝し、「これからの人生、神様にご恩返しできるように通らせて頂きたい」と、家族揃って教会の御用に勇んで勤めてくれています。
本当に思いもよらないことが幾度となく起こってきた十数年でしたが、我が子「孝助」と「優子」がこの世に産まれさせていただけた事、一緒に色々な事を乗り越え、成し遂げてきた事は、二人が生きた証としてずっと私たちの心の中に生きています。
そして今もなお、親神様のご守護の尊さを伝え続け、親孝行し続けて「本当のながいき」をしてくれています。
三才心
母親が見守る前で、幼子たちが戯れる姿は、純真無垢そのものです。きょうだい同士、たとえ掴みあいのけんかをしても、すぐにケロッと忘れて再び遊び戯れ、母親に笑顔を向けています。何ともうるわしい、無邪気な姿です。
天理教では、「さんさい心」という表現で、素直で純粋な心の大切さを教えられています。
お言葉に、
「この道の中はこうなってもどうなっても、これ三才の子供という心になってくれにゃならん」(M36・12・22)
とあります。
また、体調の優れない六十代の男性へのお諭しに、
「めん/\はもう生まれ更わりたように成れ。すれば、さあ/\身上何も案じる事要らん。(中略)さあ/\心は今日生まれた人の心に替えて了え。生まれ児には思わく無い」(M40・1・16)
とあり、生まれたばかりの純粋な心になるよう促されています。
また、教祖をめぐって、こんな逸話も残されています。
明治九年頃のこと。年のころ五、六歳の林芳松という少年が、右手を脱臼してしまい、祖母に連れられて教祖のいらっしゃるお屋敷を訪ねました。
教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と仰り、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、「その茶碗を持って来ておくれ」と仰せになりました。
芳松少年が、右手が痛いので左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちら、こちら」と、ご自身の右手をお上げになり、痛めている右手で持つよう促されました。
威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛むはずの右手で茶碗を持とうとしたところ、不思議に持つことができました。芳松少年の素直な心を神様は見定められ、脱臼をしていた右手に結構なご守護を下されたのです。(教祖伝逸話篇49「素直な心」)
人は年とともに経験を積み成熟していきますが、その引き換えに純真な心を失い、ややもすれば神様の思いから離れてしまうことがあります。「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と、いくつになっても教祖から声を掛けて頂けるような、そんな「さんさい心」を持って通り切りたいものです。
(終)