(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1194回

「陽気ぐらし」へのベクトル(『日々陽気ぐらし』より)

コロナ禍による自粛生活で、あらためて神様のご守護を実感。今までいかに陽気ぐらしをしている〝つもり〟だったか。

「陽気ぐらし」へのベクトル

川田 真紀子

 

新型コロナウイルス感染拡大による混乱のなか、アメリカ・カリフォルニア州では、2020319日に自宅待機命令「ステイ・アット・ホーム・オーダー」が発令された。その後、数カ月に及ぶ自粛生活のなか、私は本当の意味の「陽気ぐらし」に気づき、そこへ向かうための心のベクトルを見つけた気がする。

アメリカの学校では、親の送迎やスクールバスで登下校する子どもが大半。わが家の子どもたち三人も、それぞれ別の学校に通っているので、毎日、車で三カ所の送り迎えをしなければならなかった。さらに、学校の活動や習い事があるときは、タクシードライバーのごとく、一日中、運転している日もあった。

それに加えて、コロナ禍以前はラーメン屋でアルバイトをしていたため、学校の送迎に家事にアルバイトと多忙で、ただ時間が過ぎていくだけの、感謝や喜びを感じることの少ない日々を送っていた。

子どもたちが毎日元気に学校へ行けること、自分も元気に働けること、自由に外出できること、人と会って話すこと―。すべて当たり前だと、いつしか思うようになっていた。

家族みんながそれぞれに忙しく、一緒に過ごす時間は短かったが、家族という名の絆でつながっているつもりでいた。会話が少なくても明るい言葉と態度で過ごしているつもり、「陽気ぐらし」をしている〝つもり〟だった。

しかし、自宅待機命令が出てからは、子どもたちは自宅学習になり、私もアルバイトを辞めて、子どもたちと家で過ごす生活になった。いままでのように時間に追われることはなくなり、気持ちに余裕が生まれた。朝夕のおつとめの際は、事態の収まりを子どもたちと真剣に願い、無事に元気に過ごさせていただいていることへのお礼を、親神様・教祖に申し上げた。

家族そろって食事をする時間が増えると、会話が弾むようになり、食事のとき以外でも一緒に過ごす時間や笑い合う機会が増え、私たち家族の心は次第に変わっていった。

不自由のなかで、いままで当たり前だと思っていたすべてのことは、何一つ当たり前ではなく、親神様のご守護だったのだと気づき、感謝の気持ちが芽生えた。人と握手もハグもできない、一定の距離を取ることを義務化される状況になって初めて、人とのつながりの大切さに気づいた。自分のことよりも家族や友人、知人のことを思い、気にかけ、自分にできることを探そうとする心が生まれた。

地球規模ですべての人々が同じ危機に直面し、たすけ合って乗り越えていかねばならない状況下では、国籍も人種も性別も年齢も関係なく、まさに私たちは「一れつ兄弟姉妹」なのだと、あらためて思う。

そして、いま多くの人が感じているであろう、身の周りのものへの感謝、人への思いやりの心を持ち続けることが、親神様がお望みになる「陽気ぐらし」の世界に近づき、この困難な状況を乗り越えていく歩みにつながるのではないかと思う。

私自身、国家非常事態の宣言後、多くの人が買い占めに走り、店から肉や卵、トイレットペーパーなどが消えたとき、目に見えない恐怖と不安を感じた。しかし、お与えいただいているご守護に感謝し、いまを喜ぶように心がけるうちに、小さなことにも喜びを感じるように心の向きが変わっていった。

それでも、不安で心が沈みそうなときは、おふでさきを拝読した。

  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる(十四 35)

  はや/\と心そろをてしいかりと
  つとめするならせかいをさまる(十四 92)

特に、この二つのおふでさきは勇気を与えてくれた。私たちがようぼくとして、いまできることは、周りの人のたすかりを願い、みんなで心を揃えて、真剣におつとめを勤めさせていただくことなのだと、繰り返し胸に刻んだ。

そしてある日、店で久しぶりに肉と卵が売られているのを見たとき、心から「うれしい、ありがたい」と感じて、自然と笑顔になっていた。私の心は、いつの間にか「見るもの聞くものすべてがうれしい、ありがたい」と喜び、感謝できる心に変わっていた。

私は、この数カ月間の生活を通して実感した「陽気ぐらし」へ向かう生き方を、周囲の人たちに伝えていきたい。先の見えない状況のなかでも、絶望したり誰かを責めたりするのではなく、いまある喜びを探し、互いにたすけ合うことの大切さを。そして、幸せかどうかは、物事の見方、聞き方、何より心の持ち方で変わるということを。

それは、湖に小石を投げるようなことかもしれないけれど、波紋が静かに広がって、いつしか大きな喜びの輪になることを夢見ている。

 


 

元のいんねん

 

神様は、人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたいとの思いから、この世界と人間をお創りくださいました。これが人類共通の「元のいんねん」です。

神様によって陽気ぐらしをするべく創られた人間である以上、たとえ今は苦しい姿であっても、最終的に人間は皆幸せになれる。また、そうならなければならない。それが人類の先天的な約束だということです。

では、陽気ぐらしとは、どういう条件で味わうことができるのか。おつとめのお歌に、「こゝろすみきれごくらくや」(十下り目  4)とありますが、私たちの心が澄み切ることが最大の条件となります。

この心が澄み切ることについては、「このたびむねのうち すみきりましたがありがたい」(四下り目 10)とのお歌もあります。

さて、私たちは普段、どんなことを有り難いと感じているでしょう。健康であること、お金があること、子どもが元気なこと、などなど。どれも結構なことに違いありませんが、それより何より、「心澄み切る」ことが有り難いのだと神様は仰せられます。にもかかわらず、私たちはつい目の前の出来事ばかりを追いかけ、心遣いを省みることをおろそかにしてしまいます。この神様との食い違いが、人生において苦悩を招く元なのです。

神様はそんな私たちを、陽気ぐらしにふさわしい心に立て替えようと、非常手段を用いてでも、その必要性を知らしめてくださる。それが個々の身体に表れる病気であったり、生活の中で様々に起こってくる苦難なのです。目に見えない心の形を見える形で表し、「さあ、どうする?」と心の入れ替えを促される。これが、私たちを陽気ぐらしへと導かれる神様の基本的プランのようです。

ところが人間は、ここのところが中々理解できない。陽気ぐらしをさせるために人間をお創りになったのなら、神様はなぜ私たちを苦しめようとなさるのか、と恨み言の一つも言いたくなります。

しかし神様は、「なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに」(十下り目 7)と、銘々の心遣いを反省するよう促されます。厳しいお言葉ですが、苦難の原因を外に求めている限り、心を澄み切らせることは到底叶わないのです。

(終)

 

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