神が引き受けて居る
福岡県在住 内山 真太朗
毎年3月、おぢばで開催される、学生生徒修養会大学の部・高校卒業生コース、通称「学修」。私は長年、この学修のスタッフとして携わってきました。
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、数年間中止となりましたが、2023年、数年ぶりに開催されることとなり、3月10日から12日にかけて開催される高校卒業生コースのスタッフとしてお声がけを頂きました。
しかし当時、私の妻は4人目の子供を妊娠中で、ちょうど学修期間中と出産予定日が重なり、上3人の小さな子供たちの世話もあることから、今回は学修のスタッフを務めることは難しいだろうと考えていました。
お断りの連絡を入れようとした正にその日、学修を運営する本部学生担当委員会から連絡を頂き、今回の学修ではこのような係をおつとめ頂きたいとの打診がありました。断ろうと思っていた矢先の連絡に驚きましたが、これも神様からのお導きだと考えをあらため、妊娠中の妻と相談をしました。
そして、「人類のふるさと『おぢば』に帰ってくる学生たちを迎える大切な御用だから。自分たちの子供は親神様、教祖が必ず守って下さるよ」と二人で心を定め、学修のスタッフを務めさせて頂くことにしました。
3月7日、学修に出発する日、臨月を迎えていた妻でしたが、まだ出産の兆しはなく、学修が終わる3月12日に入院するという予定を立て、おぢばへと向かいました。
そして迎えた久しぶりの学修。大勢の学生たちが集い、スタッフたちも一緒になって春のおぢばでかけがえのない時間を過ごし、私もその一端を担わせて頂くことが出来ました。
学修も無事終わり、教会への帰路の途中、妻が入院している産婦人科から連絡がありました。「エコーで胎内を見たところ、胎児の首にへその緒が巻きついています。このままだと胎児の命に危険が及ぶので、すぐに処置をして出産に入ります」。
あまりのことに驚き、不安でいっぱいになりました。私は夜遅くに教会へ着くと一目散に神殿へ向かい、お願いづとめをつとめ、病院へと向かいました。素早く処置をして頂いたおかげで、首に巻きついたへその緒は外れ、妻は無事に元気な男の子を出産しました。その後、主治医の先生からこのような説明を受けました。
「今日入院していて本当に良かった。エコーで確認しなければ、処置が遅れて取り返しのつかない事態になっていました」。
そもそも妻を入院させたのは、私が学修のために不在になることがきっかけでした。もし学修のスタッフを断って私が側についていたら、陣痛がくるまでそのままにしていたかも知れません。そこを思い切って学修スタッフを務めたおかげで、胎児の命をつなぐことが出来たのではないか。そう考えると、断ろうと思っていた矢先の一本の電話こそ、神様のお声だったのではないでしょうか。
出産を見届け、医師の説明を受けた後、深夜に病院を出ました。夜空を見上げ、一連の出来事を振り返ると、親神様の深いお導きを感じ、涙が止まりませんでした。
神様のお言葉に、
「先は神が引き受けて居る。案じる事要らん/\」とあります。(M33.12.22)
神様の御用、また神様のお喜び下さることを第一に通っていれば、神様が必ずおたすけくださる。私はあらためて、おぢばの尊さ、神様の御用を務める大切さ、有り難さを実感させて頂きました。
麻と絹と木綿の話
日本発祥のものの中で、便利な道具はたくさんありますが、その中でも風呂敷は最高傑作の一つではないでしょうか。
風呂敷はどんな形の物でも包むことができ、使わない時には小さく折り畳んで持ち歩けます。かけてもいいし、敷いてもいい。まさに自由自在の働きです。西洋式のカバンではこうはいきません。
風呂敷の持つこうした特質は何に由来するのか、それはその開かれた姿によると言えるでしょう。丸いものでも四角いものでも、細長いものでも平たいものでも、何でも内に包み込むその大きな包容力こそ、風呂敷の一番の長所です。
このような包容力は、私たちにとっても大切なものではないか。教祖はある時、着るものに例えてお諭し下さいました。「麻と絹と木綿の話」です。
「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。
絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。
そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで」(教祖伝逸話篇 26「麻と絹と木綿の話」)
麻は夏にはとりわけ快適であっても、春夏秋冬、いつでもそうとは言えません。しかも直に色が褪せ、衣服としての価値は落ちてしまいます。
絹は軽くて、美しい光沢をもって実に上品です。しかし、取り扱いは慎重にしなければならず、頻繁に洗濯もできません。そんな意味からでしょうか、教祖は「絹のような人になったら、あかんで」と仰せられます。それは、取り澄ました美しさを求め、外側を飾ることへの執着を戒めておられるものと思います。
これら麻と絹とに対比させて、教祖は木綿について仰せられます。木綿は誰が着てもしっくりくるし、用いるのに必ずしも時と場所を選びません。何度でも洗濯ができるし、洗いざらしであってもそれなりの美しさを保っています。また使い道が広く、どのようにも使えて重宝なものです。まさにシンプルかつ、奥深い素材です。
この木綿の自在に開かれた姿、大きな包容力こそ、教祖のひながたそのものと言えるのではないでしょうか。教祖はお屋敷に寄り集う、どのような病気や事情を抱えた人々に対しても、「よう帰ってきたなあ。待っていたで」とあたたかく迎えられ、優しく教え導いて下さいました。
私たちも常に外に大きく開かれた心を持ちながら、いざという時には人の心をそっと優しく包み込む。それでこそ、人だすけの上に大いに働くことが出来るのです。
(終)
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