天理教の時間

「天理教の時間」家族円満 気づいていますか?身近にある幸せ

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第1279回

欲しい愛情のかたち

夫婦や親子の間でも、相手がどんな愛情の形を求めているか、それを正確に知ることは実に難しい。

欲しい愛情のかたち

奈良県在住・臨床心理士  宇田まゆみ

 

先日、自営でカウンセリングをしている夫が、「背中や腰が痛い」と言って、しんどそうにしていました。仕事の依頼が以前より増え、疲れがたまっていたのかも知れません。さっそく夫の背中をさすりながら、ねぎらいの言葉をかけると、「普段からもっといたわって欲しい」と言われてしまいました。私としてはいたわっているつもりだったので、少し心外に思ったのですが、夫には「妻にこのようにして欲しい」と望む形がはっきりとあったのです。

それは「普段からマッサージをして欲しい」ということでした。振り返ってみると、私はこれまで頼まれた時にしかマッサージをしたことがなく、夫に言われるまでそのことに気が付きませんでした。私にとっては、夫の好きな食事を作ることが一番のいたわりだと思っていたのですが、それは夫が一番嬉しい形とは違っていたのです。

カウンセリングの現場にいると、夫婦間でも、親子の間でも、このように双方の大事に思う視点がズレているという話をたくさん聴きます。

誰しも自分の視点でしか世界を見ることはできませんが、それは決して悪いことではありません。先の私の例でも、夫の好きな食事を作っていたわってあげたいと思う気持ちや行い自体は、悪いことではないのです。大事なのは、それが相手の望んでいる形と必ずしも一致するわけではないと理解することです。

一緒に暮らす家族同士は、時間や空間を共有しているので、知らず知らずのうちに、相手も自分と同じように感じているものだと思ってしまいます。子供のために良かれと思っている親の愛情の形が、子供の欲しい形と一致する場合はいいのですが、往々にしてズレが生じるものです。

たとえば、子供が初めて一人で電車に乗る時、不安そうな子供を叱咤激励する親もいれば、優しく抱きしめる親もいるでしょう。あるいは何もせずに見守るか、そんなものだと気にしない親もいるかもしれません。

そのような子供への態度は、親自身が自分の小さい頃に親から与えられた愛情の形の影響を受けていると言われます。その形をそのまま我が子に与える場合もあれば、それが嫌だったので、自分のして欲しかった形を我が子に与えようとする親もいます。

子供は幼い頃には、親の与えてくれる愛情の形をそのまま受け入れます。たとえそれが欲しい形ではなかったとしても、時に反発しながらでも我慢して受け入れるのです。

それが自分の親だからであり、そこに愛情があるからです。これは夫婦も同じで、そこに愛情があると分かるので、受け入れることができるのです。

でも、家族が円満でより幸せになりたいと願うなら、相手の欲しい愛情の形があると気づくことが必要です。それは自分が思っている形とは違う場合が多いので、相手に聞いてみないと分からないものです。私自身も夫に言われて初めて気がつきました。

ただ、その時は「分かった!毎日マッサージをしてあげよう」と思ったのですが、それまでの習慣になかったので、日々のやることに追われて忘れてしまうことが多く、夫に「マッサージして欲しいな」と言われて、あらためて気づくこともありました。

愛情を形にするためには、ただ気づいただけでは不十分で、それまでの自分になかった視点を意識して、自分の心を向けることが必要です。そして実践してみて感じるのは、純粋に夫が何を喜ぶだろうかと意識することで、自分の心にゆとりが生まれるということでした。心理学では、人を思いやる気持ちを持つことで、むしろ自分に余裕ができると言われます。

時間を気にしてやるべきことを忙しくこなしている自分から、ふわっと視点を広げて相手の喜ぶ形に心を向ける自分になると、相手はもちろん喜んでくれますが、同時に自分も嬉しくなるのです。

こうして自分が喜びを与えられるようになると、相手からも喜びが返ってくるようになり、より円満で幸せな家庭が築けるのです。相手の欲しい愛情の形を知り、お互いに与え合うことのできる家族でありたい。そして、そんな家族円満の輪を周囲に広げていきたいと思います。

 



ひながた

 

天保九年、四十一歳にして月日のやしろとなられた教祖の最初の行動は、日々の暮らしに困っている人々への限りない施しでした。それはおよそ常識からかけ離れた、家財を傾けてしまうほどのものでした。そこに見られるのは、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」と諭される、親神様の思召しを素直に実行されたお姿です。

こうして赤貧洗うような中、社会の底辺に降り立って過ごされた歳月は十年にも及びました。「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」とのお言葉が、新鮮な驚きをともなって心に刻み込まれます。

この徹底した通り方をもって、教祖は私たちに様々なことを教えられています。たとえば、どんな困難な状況でも心の明るさを忘れないこと、常に相手の身になって判断し行動すること。また、物事への執着を去った末に得られる、すがすがしい喜びの境地、さらには社会的な権威や格式にこだわらない生き方こそ、陽気ぐらしへ向かうための第一歩であることを示されているようにも受け取れます。

やがて、安産のご守護であるをびや許しが道あけとなって、不思議なたすけに浴する人が次々に現れます。その時すでに、立教から二十数年が経っていました。

ここで、立教に際しての、「誰が来ても神は退かぬ。今は種々(いろいろ)と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に」との親神様のお言葉が思い起こされます。

人間の感情から推し量れば、教祖のご生涯は苦渋多き、波乱に満ちたものとして映ります。そんな中で教祖は次々に、おつとめの完成に向けた段取りを進めておられます。そのことがまた、官憲の取締まりの標的となりました。

しかし、お姿をおかくしになる直前の緊迫した状況の中でも、教祖が求められたのは、あくまでおつとめの実行でした。こうして明治二十年一月二十六日、一同、拘留を覚悟の上でのおつとめが勤められたのです。

教祖は、休息所に休まれながら、この陽気なおつとめの音を聞かれ、いとも満足げに見うけられましたが、北枕で西向のまま、眠るがごとく現身をおかくしになったのです。御年、九十歳でありました。

その日、不思議にも、取り締まりの巡査は一人も来ませんでした。それはまさに、世界一れつをたすけたいという親心から教えられたおつとめの力であり、それを実行した人々の真実に他ならないのです。

(終)

次回の
更新予定

第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

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山本 達則

文:山本 達則

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