(天理教の時間)
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第1375回2026年2月27日配信

おつとめメンドクサイ…

yamasaki
山﨑 石根

文:山﨑 石根

第1374回

事故で喜べた話

天理の高校に通う男の子が「学校を辞めたい」と。話し合うためにおぢばへ行くと、自動車事故に遭ってしまった。

事故で喜べた話

福岡県在住  内山 真太朗

 

私がお預かりしている教会につながる、天理の高校に通う男の子から、「学校を辞めたい」という相談がありました。一年生の夏が過ぎた辺りから精神的にしんどくなり、学校に行けなくなってしまったとのこと。

それでも何とか頑張って続けてもらいたいと、彼と話をするためにおぢばへ帰り面会しましたが、見るからに病んでしまっている様子。聞けば、精神科に通院しているといい、学校もこれ以上休めば二年生への進級は出来ないという所まで来ていました。私はこの状態では退学もやむを得ないだろうと思い、今後の相談をさせて頂くために学校と連絡を取りました。

先生方との面談まで少し時間があったので、本部神殿前の駐車場に車をとめ、参拝をしました。参拝を終え、駐車場に戻り車を発進させた途端、横から来た車とぶつかってしまいました。相手の方の無事を確認し、警察を呼んで事故処理をしてもらいましたが、車のフロント部分がぐちゃぐちゃに潰れてしまい、これはしばらく地元には帰れないのではと思いました。

警察の人に確認すると、「ライトも付くし車も動くので、大丈夫ですよ」と言われ安心しました。しかし、若者の人生を左右するこの大事な時に、神様のお鎮まり下さるおぢばの目の前で事故を起こしてしまい、これは何か神様からのメッセージが込められていると思わずにはいられませんでした。

真っ先に考えたのは、車が前進している時に事故を起こしたということは、自分は今、彼に学校を辞めさせようと思っているけれど、それを神様がお止めになっているのではないだろうかと。しかし、どう考えても今の状況では再び学校に通うことは出来そうにありません。

判断に困った私は、大教会長様にお伺いしてみようと、すぐに電話で連絡を取りました。学生本人の状況と私が起こした事故までの一連を報告したところ、このようにお話し下さいました。

「それは恐らく、車がその子の身代わりになったんだと思う。このままいけば、その子は自ら命を絶っていたかもしれない。そこを車が代わりに潰れてくれたんだから、神様から命をつないで頂いたと悟って、前を向いていこう」

なるほど、私の中には全くなかった悟りをお話し頂きました。ただ、心の中では、「車は完全に潰れたわけじゃないし、このまま地元まで帰れそうだしな…」と、大教会長様のお話に対して若干疑いの心がありました。

結果的に、その日の話し合いで学校を中退することが決まり、そのまま地元の福岡へ連れて帰ることになりました。

車の後部座席いっぱいに彼の荷物を積み、その日のうちにフェリーに乗り、翌朝福岡に到着しました。港に着いて、彼を助手席に乗せ高速道路を走っていた時です。前の車が急にブレーキをかけたので、やばい!ぶつかる!と思い、すぐにブレーキを踏み、何とかギリギリぶつからずに停止しました。と思った瞬間、後ろからドーンッ!と追突され、その反動で前の車にぶつかり、私の車は横転してしまいました。

とっさに、「あ、これ、命が終わるかな?」と覚悟しました。ところが、「あれ?どこも痛くない…」助手席の彼に「大丈夫か?」と聞くと、「大丈夫です」と言うので、「よし、脱出するぞ!」と、横転した車のドアを二人がかりでこじ開け、何とか外に出ることが出来ました。

車の上から状況を見ると、四台が絡む玉突き事故。私の車は大破し、今度は完全に再起不能となってしまいました。しかし、乗っていた私たち二人は身体のどこにも痛みがなく、無傷でした。幸い、車のうしろに満タンに積んでいた荷物がクッションとなり、割れたガラスの破片からもガードしてくれ、傷一つ負わずに済んだのです。

その時、ハッと、前日に大教会長様から言われたことを思い出しました。

「車が身代わりに…」まさにたった今、車が身代わりになって命をたすけて頂いたのです。自分の車が大破しているという絶望的な現実を前にしても、なぜか私の心はとても明るかった。命を与えて頂けたんだ、有り難い!と心底思うことが出来ました。

そして彼には、「私たちは今回の事故で命を落としてもおかしくなかった。そこを神様にたすけて頂き、命を頂いたんだから、学校は辞めることになったけど、生まれ変わったつもりで、何でも喜んで頑張らせてもらおう」と伝えることが出来ました。

教祖ご在世当時の話。増井りん先生が、猛吹雪の日、大阪からおぢばまで帰らせて頂くと、教祖は、「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ」とお言葉を下さいました。

これは今を通る私たちにとっても大切なお言葉だと思います。私たちは普段の生活の中でも、色々なトラブルや病気など、あちらにてもこちらにても、滑って、転んで、心を倒しそうな難儀な事に出合います。

しかし、そんな中でも喜びを見つけて通っていけば、親神様がどんなご守護も下さるのだという、とても力強く、心強いお言葉です。

この事故を通して、どんな事があっても、親神様、教祖にお喜び頂く心で通るという、ようぼくとしての日々の通り方を再認識させて頂くことが出来ました。

 


 

慎み

 

天理教の掲げる陽気ぐらしのキーワードに、「感謝・慎み・たすけあい」の三つがあります。その中でも「慎み」はあまり馴染みのない表現かも知れませんが、その教理的根拠となるお言葉が「おふでさき」に記されています。

 

  たん/\となに事にてもこのよふわ
  神のからだやしやんしてみよ (三 40・135)

 

人間の身体のみならず、この世界の一切のものは親神様からのかりものであり、すべての事物、現象の元である。ゆえに、絶対に無駄にせず、生かして使うことを教えられています。

教祖は監獄署に拘留されている時、差し入れられて、いらなくなった紙でコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。それは実に丈夫に作られた袋でした。教祖は、監獄署からお帰りの際、お伴の仲田儀三郎さんに、その袋をお与えになり、

「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで」

と仰せになりました。(教祖伝逸話篇138「物は大切に」)

親神様からのどんなお与えも無駄にしない慎みの心を、教祖は身をもってお示し下されたのです。

また、お言葉にも、

 「慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」(M25・1・14)

あるいは、

「慎みの心が元である」(M28・5・19)

とあります。

現在、私たちは科学技術文明の恩恵に浴して、あまりに恵まれた生活をしていますが、そのような生活が、陽気ぐらしに結びついているとは決して言えない状況です。すべては「天のあたゑ」である、という大切な思いを無視した「我さえよくば、今さえよくば」という強欲のほこりが、知らないうちに積もり重なっているのではないでしょうか。

 

  なにもかもごふよくつくしそのゆへハ
  神のりいふくみへてくるぞや (二 43)

 

この世界は親神様の身体であって、あらゆる物はその一部です。どんなものも、私たち人間には所有権のない「かりもの」であると悟ることができれば、自然と報恩の気持ちが湧き上がり、大切にせずにはおれなくなるのではないでしょうか。

さらに言えば、物は人と人とをつなぐものであり、物を大切にすることは、人を大切にすることにもつながります。

 「人間の反故を、作らんようにしておくれ」(教祖伝逸話篇121「葉っぱ一枚も」)

と、教祖は仰せ下さいました。まさに、物を大切にすることが人だすけにつながることをお示し下されたのです。

(終)

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