第1344回2025年7月25日配信
令和元年台風15号
令和元年台風15号、千葉県で多くの住居が被災した。何が出来るかと思案すると、多くの教友が力を下さった。
令和元年台風15号
千葉県在住 中臺 眞治
今から6年前、令和元年9月の真夜中、強力な台風の到来により、私共の暮らす千葉県では多くの住居が被災しました。私共がお預かりしている教会も屋根が一部損傷し、雨漏りで壁が崩れる被害を受けました。轟音と共に建物は揺れ続け、停電し、私自身も恐怖を感じたのを覚えています。
夜が明け、台風が落ち着いたのを見計らって外へ出ると、道路には車が通れないほど屋根瓦やトタンなどが散乱し、電信柱が倒れている地域もありました。
被災から6日後、同じ市内に暮らす天理教の教会長さんから相談の電話がありました。「80代の信者さんが自分でブルーシートを張ろうとしているんだけど、困っているようなので行ってもらえませんか?」とのこと。「分かりました」と答えてすぐに向かいました。
聞いた住所地に到着すると、玄関前にそのご主人が立っておられたのですが、目を真っ赤に腫らして、身体は震えていました。話を伺うと、「何日も頑張ったけど、足が震えてこれ以上出来ません」とのこと。
早速2階の屋根に上がると、そこにはブルーシートと土嚢が置いてあり、ご主人が必至に作業をされた形跡がありました。
私は作業を終えた後、なぜ高齢のご主人がこんな危険なことを自分でしようと思ったのか不思議に思い、尋ねました。
「あちこちの業者に頼んだけれど、どこも百件以上待ちで、しかも築40年を超える家は受け付けできませんと断られてしまったんだよ。雨漏りで漏電しないか心配で夜も眠れなくて…」
ご主人の話を聞いて、今この街には同じ悩みを抱えて苦しんでいる方が大勢おられることを知りました。
その後、教会に戻り、妻とこれからのことについて相談しました。実はこの出来事の前日に、地域の社会福祉協議会の職員さんから「高齢者の方のお宅のブルーシートを張ってもらえませんか?」と相談の電話があったのです。
しかし、私たちには屋根に上がるための梯子もなければ、それを運ぶトラックもありません。さらにこの時、妻は次女を身ごもっており、すでに臨月を迎え、いつ生まれてくるか分からない状況でもありました。
そんな中で、私たち夫婦は神様から何を問われているのだろうか? 一通り話を終え、妻に「ブルーシート張り、させてもらいたいと思うけど、どう思う?」と尋ねると、快く賛成し、背中を押してくれました。
今、当時のことを振り返ると、自分でしたことは最初に「させてもらおう」と覚悟を決めたことぐらいで、あとはすべて神様の段取りの中で動かせて頂いたように感じています。作業の初日から、70代の高所作業車のオペレーターの方が「一緒にやろう」と仰って下さり、梯子を使わなくても作業ができました。
さらに一週間ほどしてからは、災害ボランティア団体の方々が装備の貸し出しや技術提供をして下さり、おかげで安全に活動をすることができました。また、SNSを使い、協力して下さる方を募ったところ、4か月間で延べ300人以上、天理教を信仰する方々が全国から駆けつけて下さり、沢山のブルーシートを張ることができました。
どれも神様が巡り合わせて下さった不思議な出会いだと感じ、心が勇む日々でした。また、被災した私共の教会はそのままにしていたのですが、上級の報徳分教会長を務める兄が、「せっかくだからカッコよくしよう。材料費はうちで出すから大丈夫だよ」と、経済的に厳しい状況の私たち家族を気遣うばかりでなく、とてもおしゃれで素敵な空間にしてくれました。本当にありがたかったです。
こうした被災地でのひのきしんを経験された方々からは、同じような話を度々耳にします。
「最初に被害の光景を目にした時には、こんな不条理なことがあるのかという思いが沸き起こった。でもこうした状況にも、神様の何かしらの親心が込められていると信じたくて動き始めた。そうしていざ動き始めてみると、神様の『段取り』や『先回りのご守護』と感じられる出来事がいくつもあり、神様の親心を感じた」といったお話です。
天理教の原典「おふでさき」では、
だん/\になにかの事もみへてくる
いかなるみちもみなたのしめよ (四 22)
と記されています。
このお言葉は、自分にとって都合の良いことだけではなく、たとえ不条理と感じる出来事が起きてきたとしても、そこにも神様の親心が込められているのだと信じ、勇んで通る。そうした中で、「神様によってたすけられている」という現実が立ち現れた時、陽気ぐらしへ導いてくださる親心を実感できる。そのことを教えられているのではないでしょうか。
少し話は変わるのですが、この活動に参加している天理教の信仰者は、社会福祉協議会の職員さんから「ひのきしんさん」と呼ばれていました。私たちがそのように名乗っていたわけではありませんが、「ひのきしん」という天理教用語やその意味をご存じで、そのように呼んで下さいました。
「ひのきしん」の意味について、『天理教教典』には、「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」と記されています。
ひのきしんは、神様のお働きによって生かされて生きていることを自覚し、そこから湧き上がる喜びの発露としての行いであり、周囲に向けては「一れつきょうだい」の教えに基づくたすけあいの実践へとつながっていきます。活動中、私自身がいつもこのような思いであったかどうかはともかく、駆けつけて下さった方々からは、常にそのような思いを感じていました。
令和元年台風15号での活動以降、多くの方とのつながりが生まれ、現在は教会として地域での様々なたすけ合い活動を行うようになりました。当時、被災地へひのきしんに駆けつけて下さった皆様のおかげであり、日々感謝しています。
いんねんというは心の道
病気になったり、経済的な苦境に陥ったり、人生の苦難は様々にやってきます。そうなるには社会的条件や、人間の目から見た運不運という要素もあるでしょうが、結局のところ、自分の身に降りかかってきたことは、自分の責任で受け止めなければなりません。
たとえば、子供が道で石につまずいて転んでしまい、なかなか泣き止まない時、親はどうするでしょう。石ころを手にして、「石がこんな所にあるから転んだんだ、悪いのはこの石だ!」と、石を蹴飛ばしてやる。この場合、子供は納得して泣き止むかもしれませんが、大人の世界では通用しない論理です。
これでは、お金で苦労している時、自分のせいではない、社会が悪いんだ、と泣き言をこぼしているようなもので、大人であれば、現実を直視し、それに耐えなければなりません。そして、天理教のいんねんという教理は、まさしく大人の世界の話なのです。
「いんねんというは心の道」(M40・4・8)
このお言葉がいんねんのはっきりした定義の一つです。道とは長く続くものです。つまりいんねんとして表れてくるのは、昨日今日の短い間の心の話ではないというのが大事な点です。
「人を理不尽に怒鳴りつけたら急にお腹が痛くなった」というような、すぐに短絡的に現れることなら分かりやすいのですが、そんな単純なものではないということです。
意識の流れには連続した歴史があります。その人が生きてきた年月の分だけ心の歴史があり、それが「心の道」と言われるものです。心は日々、瞬間々々に使うもので、それはすぐに消えてしまうかのように思えますが、神様の目を通して「理」として蓄積され、その人の人格を形成していきます。
お言葉にも、
「世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある」(M28・7・22)
と、はっきりと示されています。
いんねんとは言わば、心の倉庫のようなもので、毎日愚痴や不足で通っている人は、それが貯まって巨大な蔵を作っているわけですから、そこから良質な出来事は生まれにくいでしょう。日々の小さな喜びの積み重ねが、やがては大きな天の与えとなって、陽気づくめの暮らしへとつながるのです。
(終)