第1265回2024年1月19日配信
タイより、見知らぬあなたへ
タイの高校生に日本語を教えることに。しかしコロナ禍の影響か、生徒たちの学習意欲はまるで上がらない。
タイより、見知らぬあなたへ
タイ在住 野口 信也
私は天理教のタイ出張所へ赴任して12年になりますが、タイの方々を尊敬できることの一つは、道端でゴミ拾いをしていると、多くの行き交う人が「ありがとう」、「コープクンクラップ」、「コープクンカー」と声を掛けてくれることです。時にはタクシーの運転手がわざわざ車を止めてお礼を言ってくれたり、お店の方が飲み物をくれたりすることもあります。
天理教では、世界中の人間は親神様を親とするきょうだいで、人間の心は元々は清水のように清く、互いにたすけ合って幸せに人生を送ることができるように創造されたと教えられます。しかし、日々生活する中で、辛いこと、悲しいこと、嫌なことに遭遇し、それに対する不足の心がほこりとなって、知らず知らずのうちに積もり重なり、元々きれいであった心が濁ってしまっているのが、私たちの現状なのです。
きれいな清水のようなままの心であれば、何が正しいか、間違っているかを見分けるのは容易で、たどるべき人生の道筋がはっきりと見えてくるのかも知れません。ところが心が濁ってしまうと、本当に大切なものを見失い、正しい道の見分けがつかなくなります。すると、本来楽しいはずの人生がゆがんで見えて、自分勝手なことばかり考えたり、他人と争ったりするようになってしまうのです。
とは言え、元はきれいな心ですから、感動する物語にふれたり、良いことを目にしたりすると、心が揺さぶられ、本来のきれいな心が顔を出し、自然と人を喜ばせる言葉や行いが現れ、それによって自分自身も嬉しい気持ちになることができます。
さて、私がこちらへ赴任した頃、タイの高校から「日本語を教えに来てほしい」と依頼がありました。タイの方々は親日的感情を持ち、またアニメや歌、ゲームなどの文化流入の影響もあり、日本語の学習者がおよそ18万人いて、その80パーセントが中学生、高校生とのことです。
私はお願いされたことはできるだけ断らないようにしていますが、タイでの用務は膨大で、週2日、3コマほどの授業といえども中途半端にはできないので、ほぼ毎年続く依頼を泣く泣くお断りしていました。しかしこの度のコロナ禍で多くの日本人が帰国してしまい、教師が全くいないとのことで、いよいよお受けすることにしました。
依頼が来たのは、各学年50名ほどの生徒を抱える高校でした。一年目はコロナ禍のため、すべてオンライン授業。皆が初めての経験で四苦八苦でしたが、特に二年生のクラスはやる気が感じられず、画面に顔を出さない生徒も多く、授業を受けているのか心配になるほどでした。
課題を出すと、提出物の中に「死」や「自殺」という文字を書く生徒もいて、担任の先生に相談すると、彼ら二年生は入学当時からオンライン授業で、友人もできず、授業も思うように進まず、大変かわいそうな学年です、との返答でした。
タイの高校の授業は一日8時限あり、そのうえ土日も塾へ通わせる家庭が多いため、生徒たちは精神的にかなり疲弊しているように感じられました。また、日本のような学校のクラブ活動もないので、友人たちと楽しく真剣に取り組む活動がなく、それに加え、慣れないオンライン授業の毎日で大変な思いをしていたようです。
2022年、ようやく対面授業が再開されました。問題の学年は三年生になりましたが、最終学年にもかかわらず日本語はあまり上達していません。日本語科の生徒にとっての一大イベントである七夕まつりも、三年生は大学受験を控えているという理由から、二年生が中心で企画運営をするため、活躍の場はごくわずか。そうした様々な理由から授業に対する意欲も湧かず、タイの先生方も半ばあきらめていました。
私は少しでも生徒たちが前向きに授業を受けてくれるよう工夫をしましたが、何度注意してもゲームをやめない生徒たちを見て、「君たちのご両親は、一生懸命働いて、こんなにいい学校に君たちを入れてくれた。その君たちが今日、この教室を入った時と出て行った時で、何の成長もないまま家に帰って行ったら、ご両親はどう思いますか」と、つい強い口調で言ってしまったのです。
「彼らが悪い訳ではない。このコロナ禍をどう生きて行けばいいか分からないんだ。彼らに寄り添おう」と心に決めておきながら、大きな失敗をしてしまいました。
その後も、何か三年生が積極的に取り組み、「日本語を習って良かった」と思ってもらえることができないか考えていました。
そんなある日、タイの先生が「日本人の留学生でもいると、また雰囲気も変わるのですが」と話すのを聞いた時、コロナ前に天理高校の生徒が毎年タイへ研修旅行に来ていたことを思い出し、天理高校の生徒と一緒に何かできないかと考えました。
そして、タイの生徒たちに「見知らぬあなたへ」という題で、まだ会ったことのない日本の生徒たちに手紙を書いてもらうことにしました。
私が作った日本語の例文を元に、そこに生徒の書きたいことを加えて下書きをし、最後に便せんに自分で清書をして、封筒に入れて完成させるという流れです。
最初はしぶしぶ書いていた生徒たちも、下書きを手直しするうちに内容に変化が出てきました。受験勉強の大変さを書きながら、「あなたも無理をしないでね」と最後に相手を気遣ったり、オンライン授業の時に特に心配した生徒が、「みんなが楽しく幸せに暮らせますように」とタイ語で書いて、私に翻訳をお願いしにきたり。オンライン授業で、他者に対して攻撃的だと感じられた生徒が、とても優しい一面を持っていることも分かりました。
自身の苦しみを通して、自分と同年代のまだ会ったことのない相手を思いやる生徒たちの純粋な心に触れ、私も心を動かされました。
表書きは「見知らぬあなたへ」、裏には自分の名前を書いて、全員分の手紙が出来上がりました。
天理高校の校長先生や担当の先生のご配慮で、天理高校の50数名の生徒さんに手紙を読んでもらい、全員から丁寧な返事をいただきました。
タイの生徒は、自分の名前が書かれている返信の封筒を神妙な面持ちで受け取り、封を切り真剣に読み始めました。そのうち、友達同士で見せ合って歓声をあげたり、私に日本語の意味を聞きにくる生徒や、携帯の翻訳機能を使って懸命に読んでいる生徒がいたり。中には「『中国語を勉強している』と手紙に書いたので、中国語で返事が来た」という生徒もいました。
コロナ禍で、勉強への意欲も日本語への興味も失っていた生徒たちの心に、まだ見ぬ友達からのやさしい心遣いが響いたようで、高校生の本来あるべき生き生きした姿を見ることができました。
人の優しさや思いやりが心に届いた時、それは生きる希望や喜びとなって現れてきます。彼らには、これからもこうした経験をたくさん積んで、心豊かな大人へと育っていってほしいと思います。
息一筋が蝶や花
親として子どもが可愛いのは、当然のことです。だからこそ、わが子を「蝶よ花よ」といってどこまでも可愛がる。はたから見れば、どうかな?と思っても、親にすれば周りの目は関係ありません。ただただ、わが子が可愛いのです。その子どもが立派に成長して、社会に出て役に立ち、人さまに喜んでいただける人間になってくれれば、どれほど嬉しいことでしょう。
しかし、いくら見目麗しく優しい子に成長したとしても、息一筋が止まってしまえば、そこでお別れです。それまでの日々が思い出され、親として、辛く悲しい毎日を過ごすことになるでしょう。
神様のお言葉に、
「蝶や花のようと言うて育てる中、蝶や花と言うも息一筋が蝶や花である。これより一つの理は無い程に」(「おさしづ」M27・3・18)
とあります。
息一筋に神様の有り難いお働きがあるのであって、それならばこそのお互いです。息をしなくなれば、今世はそれで終わりということになります。
神様のご守護の世界に生かされているという真実に目覚めることが、何より大切なことです。それを知らずに、蝶よ花よと育ててみても、それは砂の上にお城を築いているようなもので、風が吹けば一夜にして崩れ去ってしまうことにもなりかねません。
神様に生かされているという真実を、すべての考え方の基盤にしながら日々を送る。その着実な歩みが、確かな人生を紡ぐことになるのです。
(終)