(天理教の時間)
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第1291回2024年7月19日配信

「生き方が分からない」と嘆く少年

家族円満 中臺眞治
中臺 眞治

文:中臺 眞治

第1195回

「身上とは何か」ひたすら考え、すごい何かが見えた件(『日々陽気ぐらし』より)

身上をご守護いただくとは、どういうことか。若い頃は、病気がすっきり治ることだと思っていたのだが…。

「身上とは何か」ひたすら考え、すごい何かが見えた件

古川 真由美

身上をご守護いただくとは、どういうことだろう。

かつて私は天理教教会本部の勤務者として勤め、その21年間のほとんどを婦人科系の身上とともに過ごした。最初に手術を勧められたのは40歳を過ぎたころ。そのときはすぐに決断できず、自分にとってどうすることがベストなのか、ひたすら考え続けた。

あるとき、以前に読んで印象に残っていた、福島智 東京大学教授による『天理時報』の連載エッセー「生きるって人とつながることだ」の一節が、ふと頭に浮かんだ。

「福島よ、目が見えんってどういうことや」

全盲の盲学校教師が、全盲の中学生だった福島少年に投げかけた言葉だ。

この後、福島教授は18歳で全盲ろうの状態になるのだが、ご自身が盲ろう者になることによって、「人生において真に価値あるものは何か」を問い続けるチャンスが与えられたことは、意味のあることだったと述懐されている。

病気とは、いったい何だろう。

私は二十代、三十代のころ、病気がすっきり治り、結婚して子宝に恵まれることが、私にとってのご守護だと信じて疑わず、ずっとそう願っていた。だが、その願いは、いつのころからか「身上とは何か」「ご守護とは何か」という問いに変わる。「ご守護いただきたい」と願うばかりでは、その本質にたどり着くことはできないということに、当時の私は気づき始めていたのであろう。

結局、手術を受けたことにより、私の「病気」は治った。しかし、最初に手術を勧められてから決心するまでに二年ほどかかっている。

何かを変えるためには、何かを捨てなければならない。わが身思案やわが身の都合をすべて捨て、親神様にもたれて通る覚悟を決めることができたとき、「身上とは何か」が少し分かった気がした。

「ご守護とは何か」ということを考えるなかで、大きな影響を受けた人物がほかにもいる。

その人は、アテネ、北京、ロンドンのパラリンピック女子走り幅跳びの日本代表選手で、大学在学中に骨肉腫を発症、右足の膝から下を切断した経歴を持つ。

そんな彼女が、2013年、東京五輪招致委員会プレゼンターとして、IOC総会の最終プレゼンでスピーチを行った。そのニュースをたまたまテレビで見ていた私は、かつて経験したことがないくらい強い衝撃を受けた。そしてそれはすぐに、とてつもなく大きな感動へと変わっていった。

彼女は術後、一度は絶望の淵に沈むが、大学へ戻って陸上に取り組むようになり、変わる。

「目標を決め、それを越えることに喜びを感じ、新しい自信が生まれました。そして何より、私にとって大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではないということを学びました」

これは、言い方を変えると、私たちはいま自分に必要なものはすべて持っている、ということになるのではないか。

彼女の言葉を聞いて、いったい何枚のウロコが目から剥がれ落ちただろう。私にはそんな発想、全くなかった。きっとこれが、親神様が身上を通して私に何より教えたかったことだ、と確信した瞬間だった。「病気が治る」ということは、もちろん大事なことではあるが、ご守護の一つの側面に過ぎない。

昔、信仰の道は、ある意味「捨て方」を学ぶ道のようなものだな、と思ったことがある。私は信仰初代なので、信仰を始めて間もないころ、教えに関しては全く分からないことばかりで、とにかく知識を増やすことだけに躍起になっていた。「捨てる」ことの意味なんて、考えたこともなかった。

だが、「ご守護とは何か」を考える長い日々を過ごしていくうちに、生きるとは捨てることの連続ではないかと思うようになった。

私は身上を通して、私に必要なものは、親神様がすべてお与えくださっていることを知った。

自分のなかの捨てるものは何で、捨てないものは何なのか。時には間違えたり、失敗したりすることもあるだろう。でも心配はいらない。失敗上等。また一から始めればいいだけだ。

まだ私には、人生において真に価値あるものが何か分からない。きっと一生、その答えを追い続けていくのだろう。たぶん、それが人生だ。

 


 

一寸のほこり

 

キリスト教が、人間は皆罪人である、という根本認識の上に成り立っているとすれば、天理教は、すべての人間は心に「ほこり」を積んでいるという認識から出発していると言えるでしょう。

ほこりとは、私たち人間の良くない心遣いとして、神様が戒めておられるものですが、この点について、教祖中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」に、

  一れつにあしきとゆうてないけれど
  一寸のほこりがついたゆへなり(一 53)

と示されています。

要するに、人間にはどうにもならない根本悪のようなものはないが、ちょっとのほこりはある、ということです。しかし、この「一寸のほこり」を認めることが大切で、人間はほこりを積んでしまう存在である、という前提から出発しなければ、決して陽気ぐらしへの道は開かれないのです。

朝夕のおつとめのお歌に、「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」とあります。冒頭、「あしきをはらうて」と声に出して唱えながら、手振りにおいては、胸の前で合掌し、そこから手首を返して胸を払う動作をします。ここから、「悪しき」とは外にあるものではなく、あくまで各自の心の中にあり、ほこりと同様のものと思案できます。このように、心にほこりがあると自覚できて初めて、「たすけたまえ」と、真剣に神様に願う姿勢が出てくるわけです。

しかし、なぜ私たちは自分自身の心が理解できないのでしょうか。私たち人間の目は外向きにつけられているので、形ある物を見るには大変便利にできています。ところが、自分の心の中を見るには甚だ心許ないもので、その場合は別の目、いわゆる「心眼」ともいうべきものが必要になります。

自分の部屋に埃がいっぱい渦巻いていても、肉眼では見分けることはできません。そこへ窓を開けて太陽の光を入れると、今まできれいだと思っていた部屋が埃だらけであることに気づき、よくもまあ平気でこんな所にいられたものだ、となります。この場合の太陽の光に相当するのが、神様の教えであり、その光によって私たちは、心遣いを正していくことができるのです。

教えを聞き、ほこりが自分の中にあることを悟った人は、たとえ不都合なことが起こっても、もはやその責任を外に押しつけることはできないでしょう。

おつとめのお歌に、

  なんぎするのもこゝろから
  わがみうらみであるほどに(十下り目 7)

とあります。

難儀するようなことが起こってきても、皆それぞれの心遣いから成ってきたことであり、各自がそれまでの通り方をよくよく反省するようにとお諭しくだされています。

(終)

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