新たな視点
タイ在住 野口 信也
ご存知の方も多いと思いますが、タイには仏教を信仰する方が大変多く、国民の9割以上が仏教徒と言われています。朝から托鉢に歩くお坊さんの姿が見られ、あちらこちらには多くのお寺が点在し、電車やバスにはお坊さん専用の席も設けられており、ここは仏教国であるということが実感できます。
また、日本ではお坊さんにお経をあげてもらうのは葬儀や法事などの時と決まっていますが、タイではそれ以外にもあらゆる場面でお坊さんがお経を唱えるのです。新築祝い、新車購入、また、病気の方の平癒願いなどの時にもお経をあげます。
他にも、ロッタリーと呼ばれる宝くじの当選番号を予想するお坊さんもおられるなど、仏教は人々の生活に密着した宗教なのです。仏教本来の教えからは少し離れているように思えますが、「なぜですか?」とタイ人に質問しても、あまりはっきりとした答えは返ってきません。生活に溶け込み、それが当然となっているからでしょう。
逆に、タイ人の信者さんからも、私が日本では当然のように行っていたことについて質問を受けることがよくあります。例えば、天理教ではお祈りの時にどうして四拍手するのですか? 教会のお社にある鏡にはどういう意味があるのですか? 礼拝で床に手を付く時、手を握るのはなぜですか? どうして天理教の旗は紫色なのですか?などなど…。こうした新たな視点からの質問は、自身の信仰について深く考える機会ともなるのです。
私が修養科タイ語クラスの講師をしていた時の修養科生で、修了後、しばらく日本の所属教会に滞在していた方がいました。
その方が、本部の月次祭の日、参拝していた私の所まで挨拶に来てくれました。そして、真剣な面持ちで、「先生、聞いてください。私は修養科の時、詰所で御供(ごく)さんを頂いて友人のお見舞いに行っていました。ところが今回、同じように『御供さんを下さい』と詰所の方に言うと、『お供えをしてください』と言われました。私は一人でも多くの人に御供さんをお渡しして、たすかって頂きたいと思っているのですが」とのこと。
はっきりは言いませんが、どうしてお供えをしなければ頂けないのですか?という質問のようです。
この方は、修養科を修了して信仰的にも一歩成人されたので、教会としてはお供えを、ということなのでしょう。しかし、そこまで詳しく説明をされなかったため、「なぜですか?」と疑問に思ったようです。
あまり考えたことのない質問に少し戸惑いましたが、私はおたすけに行く時、特に重病の方の時には、教祖殿のお守所へお供えをさせて頂き、そこで御供さんを頂いておたすけに行っていたので、次のようにお話をしてみました。
「その御供さんですが、教祖殿にお供えをさせて頂くと、判の押された小さい包みに入った御供さんを5つ頂くことができます。では、もし私が10円お供えしたら、一包みいくらの計算になりますか」
「2円です」
「そうですね。では、100円お供えしたらいくらですか」
「20円です」
「そうですね。では、あなたがどうしてもこの重病の方にたすかってもらいたいと、1万円お供えしたとします。そうしたら、一包みはいくらになりますか」
「2,000円です」
「そうですね。詰所の方は、お供えをすることで、御供さんの大切さをあらためてあなたに分かってもらいたかったのではないでしょうか」
そう説明をし、何とか納得して頂きました。私自身も、お供えに関しての考えを整理するとても貴重な経験となりました。
また、日頃当然のように行っている天理教のお祈り「おつとめ」について、その大切さに改めて気づいたことがあります。
それは、タイから教育省の高官の方々がおぢばがえりをされ、神殿、教祖殿をご案内した後、「全学参拝」をご覧頂いた時のことです。
この全学参拝は、天理小学校、天理中学校、天理高校の生徒をはじめ、天理教語学院などに通う外国人の生徒も、毎日学校へ行く前に教会本部の神殿に集合し、「おつとめ」を一斉につとめるのです。
タイの高官の方々は、学生たちが真剣に神名を唱えて手を振り、おつとめをする姿をジーッと見つめ、学生がおつとめを終えて登校して行く姿を見ながら、「このお祈りは月に何回ぐらいされるのですか?」と質問をされました。そこで私が「はい、毎日です」とお答えすると、一人の方が、おもむろに「この学校は日本一の学校ですね」と仰いました。それほど心に響く光景であったようです。
仏教大国のタイでさえも、時代の波に逆らうことは出来ず、信仰離れが進んでおり、タイで教育に携わる方々の中には、その影響が、特に子供たちの教師や学習に対する態度や、家庭生活の乱れにつながっていると捉える向きもあるようです。
タイのことを思い、子供たちの将来を真剣に憂うこうした方の「日本一」という言葉には、大変重みがあります。これからも、一人でも多くの方を、この人類のふるさと「ぢば」へお誘いし、共におつとめをつとめることを目標に頑張りたいと思います。
心に吹く風「見えない世界を見る」
花四月。野原もすっかり春の陽気に包まれるようになりました。小鳥のさえずりの中で草木の芽もすくすくと伸び、新緑が目に鮮やかです。新しく小学校に通い始めた近所の子供たちも、大きめのランドセルを嬉しそうに背負って通学していきます。
うちの長女がまだ幼かったころ、一つの質問をしてみました。
「アサガオの種をまいたら何が出る?」
長女は、なぜそんなことを聞くのだろうと、不思議そうな顔で「芽が出る」と即座に答えました。
「本当に芽が出る?」
私はもう一度聞き直しました。そうしたら、なぞなぞかと思ったのでしょう。「答えは何?」と聞いてきました。
確かに「芽が出る」で間違いではありません。でも、それは見える世界での話。実は見えないところで「根」が先に出ています。そのことを娘に話したら、「お父さん、ずるい」と言われてしまいました。
しかし、見えないところで根が先に出て、しっかり茎を支えるから、芽は倒れずに伸びていくことができます。それに、水分や栄養分を根が吸収するからこそ、芽も大きく成長できるのです。
われわれの目に普通に見えることは、実は見えないものに支えられている。そのことを教えたくて、娘に質問したのでした。
一事が万事。どうもこの世の中、見える世界よりも見えない世界のほうが大切なことが多いような気がします。空気は見えないけれど、空気がなかったら私たちは生きていけません。電気もそうです。
実はこの見えない世界も、ちょっとした工夫と努力で見えるようになります。アサガオの場合、どうすれば根が出るのを見ることができるでしょうか。たとえば十粒の種を並べてまいて、一日一個ずつ掘り起こしてみたらどうでしょう。もっと工夫する人は、透明な水槽に土を入れ、その端っこに種をまいて、黒い布で覆って毎日観察するかもしれません。いずれにしても、ちょっとした工夫と努力で見えない世界が見えてきます。
空気を見るためには、煙を流してやります。そうすれば、空気は「気流」という形で見えるようになります。電気を見るために電流計を通してやれば、電気は「針の動き」という形で見えるようになります。
もう少し、話を広げてみましょう。もう一つ、私たちの目には見えないけれど大切なものがあります。それは人の心です。見えない心を大切にしなかったら、人間関係はうまくいきません。
私たちの生活を見渡してみても、見えないところで心を尽くしてくれている人のおかげで、何不自由なく生活できていることは多いと思います。
水道の蛇口をひねれば水が出る。コンセントにプラグを挿せば電気が流れる。当たり前のように思いますが、その陰でどれだけ多くの人が、人の幸せを願って仕事をしていることでしょう。見えない世界に支えられていることが分かれば分かるほど、感謝する対象が増えていきます。逆に、そのことに気づかないまま過ごせば過ごすほど、当たり前だと思い込み、感謝の量は減っていくのではないでしょうか。
そして、その心という見えないものに気づくにも、アサガオの根や空気を見るのと同じように、ちょっとした工夫と努力が必要なのです。それは、心を落ち着けて想像力を働かせてみることです。なぜ年中、色とりどりの果物がスーパーに並んでいるのだろう? なぜ注文した商品が時間通りに届くのだろう? 想像力を働かせれば、そこにはたくさんの真実の心が、見えないところで尽くされていることに気づくのです。
耳を澄ませば、聞こえなかった音も聞こえるようになる。それと同じように、心を澄ませば、気づかなかったたくさんのことに気づくようになります。
心を澄ます。人の真心が分かる。見えない世界が見えてくる。感謝の量が増える。喜びが増え幸せになる。これらは一本の線上に並ぶ、幸せへの案内標識です。
(終)
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