いつもカチカチしてる人
岡山県在住 山﨑 石根
天理教の布教方法の一つに、「神名流し」というものがあります。天理教のハッピを着て、町の中を拍子木を叩きながら歩き、「みかぐらうた」というおつとめの地歌を歌い、「天理王命」の神名を唱えます。そうして歩くことで、世の中の人に天理教を知ってもらい、親神様のご存在を広めることが出来る、まさに布教方法の一つなのです。
私は30歳の頃、奈良県天理市で勤めていた仕事を辞め、実家である教会の後継者として岡山の地に戻ってきました。そして、その頃からこの町で毎日神名流しを始め、今年で18年目に入りました。
夕方に教会を出発して、約30分間歩くのですが、私の場合は布教という側面よりも、「この町の人たちの病気や悩み事が少しでも治まり、幸せになりますように」という祈念の思いのほうが強いかも知れません。
ただ一方で、布教をして私たちの存在を知ってもらわなければ、誰かのお役に立ちたくてもスタートラインにも立てないというジレンマがあったので、「この町に天理教の教会がありますよ~」「教会にいるのはこんな人ですよ~」という、自己紹介や宣伝のような意味合いも強かったと思います。
いずれにしても、15年以上続けていますと、この町で私が歩く風景も定着してきたように思います。もとより、この地で代を重ねて信仰を続けて下さったご先祖様のお陰もありますし、のどかな田舎町だからこそというのもあるでしょうが、割と町の皆さんが私たちに対して頭を下げてくださったり、地域の活動で知り合った方々が手を振って下さったりします。
ある日、地元のお巡りさんが何かの調査で我が家を訪れた時などは、「いつもこの町を歩いて下さりありがとうございます。これからも地域を見守って下さい」とお礼を言われ、恐縮したこともありました。また、色々な場面で町の人に出会う度に、「あっ、カチカチして歩いている人ですね」と声を掛けられたりと、ちょっとした有名人にもなってきました。
神名流しに歩き始めた平成21年の元旦は、まだ次男が妻のお腹の中にいました。なので、拍子木を叩く私の後ろを、お腹の大きい妻が、2歳の長男を乗せたベビーカーを押しながら歩くといった感じでのスタートでした。
その後、私たち夫婦は5人の子どもを授かりましたので、次第に長男が歩く、次男も歩く、さらに下の子たちがベビーカーに乗ったり、私におんぶされている様子を見て、見知らぬ人から「あの子が、もうこんなに大きくなったんじゃなぁ」と話しかけられたりもしました。
そんな日々が親としてとても嬉しかったのですが、妻とは当初から、「子ども達に強制はしないでおこうね」と話し合っていました。親に言われて嫌々歩かされても、陽気ぐらしの姿を世界に映す布教にはなりませんからね。
でも有り難いことに、我が家の子ども達は喜んで一緒に歩きたがり、さらには近所の信者さんも一緒に歩いて下さるようになり、一時期はとっても賑やかな神名流しになっていました。
ところが、上の子ども達が小学生の高学年ぐらいになると、予想通りだんだん恥ずかしい年代に入って一緒に歩かなくなり、時を同じくしてコロナ時代にも入り、下の子ども達も歩けなくなりました。また、近所の信者さんも様々な事情が重なり参加できず、最近では私か妻のどちらか一人が歩くか、夫婦二人だけで歩くことがほとんどでした。
昨年9月のある日のことです。その日の午前中は教会の行事として、信者さん方と布教活動をしました。そして昼過ぎに、天理の大学に通う長男が、たまたま用事があって我が家に帰省してきました。
夕方、いつもの神名流しの時間になったので、「今日は教会の布教日だったから、一緒に行かへん?」と、何気なく長男を誘ってみました。すると、「どっちでもええ」と意外な返事が返ってきました。そして、さらに驚いたのが、「お兄ちゃんが行くなら、私も行くわぁ」と、お年頃の中3の長女が乗り気だったことです。
思いがけず、妻と長男と長女と4人で歩いた神名流し。本当に、随分久しぶりに我が子と歩いた神名流し。ここ最近、何かと反抗ばかりしていた長男が声を張り上げ、「みかぐらうた」を歌っています。出発するや否や、長女の後輩たち数人に出会ったのですが、彼女は臆することなく手を振り、後輩たちが元気よく挨拶をしてくれました。
果たしてこの日の私たちは、町の人に陽気ぐらしの姿を映せたでしょうか。もちろん天理教の教えは、信仰したらたちまち家族円満になるといったご利益信仰ではありません。むしろ喧嘩もよくするし、いつも子どもを叱ってしまうし、親子や夫婦の関係がギスギスすることもしばしばです。
でも、そんな時に拠り所とする教えがあり、それによって物事が治まるところに、信仰をしている意味があるのかなぁと思います。この日、私たち夫婦は、本当に幸せな時間を共有できたような気がして、それが有り難くて、もったいなくて、胸がいっぱいになったのです。
その日の夜、今まで敢えてしていなかったある質問を、勇気を出して子ども達にしてみました。
「ととが毎日、神名流ししているのって、みんなはどう思ってるん?」
すると、全員がまるで申し合わせたかのように「別に…」と口を揃えました。
「えっ? でも友達に何か言われへん?」と向けると、
「みんなととのこと知っとるけえ」
「いつもカチカチしてる人で有名で~」
「火の用心って思われとるで~」
と様々な反応が返ってくる中、長女だけが、「あぁ、あれは気にせんといてってみんなに言うてる」とバッサリ。
「いや、あかんがなぁ!」
と笑いながらも、子ども達の様子から、当初の目的であったこの町での自己紹介は、もう充分出来ているのかなぁと感じたのでした。
今日もまた、私たちは神名流しに歩きます。この町の人に、そして子ども達に、取り繕った陽気ぐらしの姿ではなく、偽りのない等身大の背中を見せながら、コツコツと歩き続けたいと思います。
よっしゃんえ
小さい頃から教祖のお側で薫陶を受け、生涯を信仰に捧げた者は数多くいます。飯降よしゑさんもその一人でした。幼少の頃から両親とともに足繁くお屋敷に通い、「よっしゃん、よっしゃん」と教祖に可愛がられ、導かれながら気丈に育ちました。
明治十年、十二歳のある日、指先が痛んで仕方がないので、教祖に伺ったところ、
「三味線を持て」
と仰せになりました。ところが、当時は近くに三味線を教えてくれる所などなく、「郡山へでも、習いに行きましょうか」と伺うと、教祖は、
「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうものでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや」
と仰せられ、御自身で手を取って、それから三年にわたり、よしゑさんに直き直きにおつとめの三味線を教えて下さいました。(教祖伝逸話篇53「この屋敷から」)
教祖は、
「稽古出来てなければ、道具の前に座って、心で弾け。その心を受け取る」
「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ツと鳴るやろが。そうして、稽古するのや」
と、懇ろにお仕込み下さいました。(教祖伝逸話篇54「心で弾け」)
明治十五年、十七歳の時に家族とともにお屋敷に移り住み、一家揃って入り込ませて頂いたよしゑさんは、教祖から様々なお言葉を頂戴しています。
「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」
と、一日一日誠の心を尽くし、働くことの大切さを諭されました。(教祖伝逸話篇111「朝、起こされるのと」)
また、このようなお言葉も下さいました。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」
「人間の反故(ほうぐ)を、作らんようにしておくれ」
反故とは反故(ほご)、役に立たないものという意味です。
また、
「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」
「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」
日常を明るく陽気な心で通ること。そして、衣食住の中で神様からの賜物である物の持ち味を生かしきることの大切さを教えられました。さらに、人様を反故にせぬよう、決してあきらめることなく真実を尽くして導くようお諭しくだされています。(教祖伝逸話篇112「一に愛想」)
(終)
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