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    <title>天理教の時間「家族円満」</title>
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                <title>いつもカチカチしてる人</title>
        <description><![CDATA[いつもカチカチしてる人
岡山県在住　　山﨑　石根

天理教の布教方法の一つに、「神名流し」というものがあります。天理教のハッピを着て、町の中を拍子木を叩きながら歩き、「みかぐらうた」というおつとめの地歌を歌い、「天理王命」の神名を唱えます。そうして歩くことで、世の中の人に天理教を知ってもらい、親神様のご存在を広めることが出来る、まさに布教方法の一つなのです。
私は30歳の頃、奈良県天理市で勤めていた仕事を辞め、実家である教会の後継者として岡山の地に戻ってきました。そして、その頃からこの町で毎日神名流しを始め、今年で18年目に入りました。
夕方に教会を出発して、約30分間歩くのですが、私の場合は布教という側面よりも、「この町の人たちの病気や悩み事が少しでも治まり、幸せになりますように」という祈念の思いのほうが強いかも知れません。
ただ一方で、布教をして私たちの存在を知ってもらわなければ、誰かのお役に立ちたくてもスタートラインにも立てないというジレンマがあったので、「この町に天理教の教会がありますよ～」「教会にいるのはこんな人ですよ～」という、自己紹介や宣伝のような意味合いも強かったと思います。
いずれにしても、15年以上続けていますと、この町で私が歩く風景も定着してきたように思います。もとより、この地で代を重ねて信仰を続けて下さったご先祖様のお陰もありますし、のどかな田舎町だからこそというのもあるでしょうが、割と町の皆さんが私たちに対して頭を下げてくださったり、地域の活動で知り合った方々が手を振って下さったりします。
ある日、地元のお巡りさんが何かの調査で我が家を訪れた時などは、「いつもこの町を歩いて下さりありがとうございます。これからも地域を見守って下さい」とお礼を言われ、恐縮したこともありました。また、色々な場面で町の人に出会う度に、「あっ、カチカチして歩いている人ですね」と声を掛けられたりと、ちょっとした有名人にもなってきました。
神名流しに歩き始めた平成21年の元旦は、まだ次男が妻のお腹の中にいました。なので、拍子木を叩く私の後ろを、お腹の大きい妻が、２歳の長男を乗せたベビーカーを押しながら歩くといった感じでのスタートでした。
その後、私たち夫婦は５人の子どもを授かりましたので、次第に長男が歩く、次男も歩く、さらに下の子たちがベビーカーに乗ったり、私におんぶされている様子を見て、見知らぬ人から「あの子が、もうこんなに大きくなったんじゃなぁ」と話しかけられたりもしました。
そんな日々が親としてとても嬉しかったのですが、妻とは当初から、「子ども達に強制はしないでおこうね」と話し合っていました。親に言われて嫌々歩かされても、陽気ぐらしの姿を世界に映す布教にはなりませんからね。
でも有り難いことに、我が家の子ども達は喜んで一緒に歩きたがり、さらには近所の信者さんも一緒に歩いて下さるようになり、一時期はとっても賑やかな神名流しになっていました。
ところが、上の子ども達が小学生の高学年ぐらいになると、予想通りだんだん恥ずかしい年代に入って一緒に歩かなくなり、時を同じくしてコロナ時代にも入り、下の子ども達も歩けなくなりました。また、近所の信者さんも様々な事情が重なり参加できず、最近では私か妻のどちらか一人が歩くか、夫婦二人だけで歩くことがほとんどでした。
昨年９月のある日のことです。その日の午前中は教会の行事として、信者さん方と布教活動をしました。そして昼過ぎに、天理の大学に通う長男が、たまたま用事があって我が家に帰省してきました。
夕方、いつもの神名流しの時間になったので、「今日は教会の布教日だったから、一緒に行かへん？」と、何気なく長男を誘ってみました。すると、「どっちでもええ」と意外な返事が返ってきました。そして、さらに驚いたのが、「お兄ちゃんが行くなら、私も行くわぁ」と、お年頃の中３の長女が乗り気だったことです。
思いがけず、妻と長男と長女と４人で歩いた神名流し。本当に、随分久しぶりに我が子と歩いた神名流し。ここ最近、何かと反抗ばかりしていた長男が声を張り上げ、「みかぐらうた」を歌っています。出発するや否や、長女の後輩たち数人に出会ったのですが、彼女は臆することなく手を振り、後輩たちが元気よく挨拶をしてくれました。
果たしてこの日の私たちは、町の人に陽気ぐらしの姿を映せたでしょうか。もちろん天理教の教えは、信仰したらたちまち家族円満になるといったご利益信仰ではありません。むしろ喧嘩もよくするし、いつも子どもを叱ってしまうし、親子や夫婦の関係がギスギスすることもしばしばです。
でも、そんな時に拠り所とする教えがあり、それによって物事が治まるところに、信仰をしている意味があるのかなぁと思います。この日、私たち夫婦は、本当に幸せな時間を共有できたような気がして、それが有り難くて、もったいなくて、胸がいっぱいになったのです。
その日の夜、今まで敢えてしていなかったある質問を、勇気を出して子ども達にしてみました。
「ととが毎日、神名流ししているのって、みんなはどう思ってるん？」
すると、全員がまるで申し合わせたかのように「別に…」と口を揃えました。
「えっ？ でも友達に何か言われへん？」と向けると、
「みんなととのこと知っとるけえ」
「いつもカチカチしてる人で有名で～」
「火の用心って思われとるで～」
と様々な反応が返ってくる中、長女だけが、「あぁ、あれは気にせんといてってみんなに言うてる」とバッサリ。
「いや、あかんがなぁ！」
と笑いながらも、子ども達の様子から、当初の目的であったこの町での自己紹介は、もう充分出来ているのかなぁと感じたのでした。
今日もまた、私たちは神名流しに歩きます。この町の人に、そして子ども達に、取り繕った陽気ぐらしの姿ではなく、偽りのない等身大の背中を見せながら、コツコツと歩き続けたいと思います。



よっしゃんえ

小さい頃から教祖のお側で薫陶を受け、生涯を信仰に捧げた者は数多くいます。飯降よしゑさんもその一人でした。幼少の頃から両親とともに足繁くお屋敷に通い、「よっしゃん、よっしゃん」と教祖に可愛がられ、導かれながら気丈に育ちました。

明治十年、十二歳のある日、指先が痛んで仕方がないので、教祖に伺ったところ、
「三味線を持て」
と仰せになりました。ところが、当時は近くに三味線を教えてくれる所などなく、「郡山へでも、習いに行きましょうか」と伺うと、教祖は、
「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうものでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや」
と仰せられ、御自身で手を取って、それから三年にわたり、よしゑさんに直き直きにおつとめの三味線を教えて下さいました。（教祖伝逸話篇53「この屋敷から」）

教祖は、
「稽古出来てなければ、道具の前に座って、心で弾け。その心を受け取る」
「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ツと鳴るやろが。そうして、稽古するのや」
と、懇ろにお仕込み下さいました。（教祖伝逸話篇54「心で弾け」）

明治十五年、十七歳の時に家族とともにお屋敷に移り住み、一家揃って入り込ませて頂いたよしゑさんは、教祖から様々なお言葉を頂戴しています。
「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」
と、一日一日誠の心を尽くし、働くことの大切さを諭されました。（教祖伝逸話篇111「朝、起こされるのと」）

また、このようなお言葉も下さいました。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」
「人間の反故（ほうぐ）を、作らんようにしておくれ」
反故とは反故（ほご）、役に立たないものという意味です。また、
「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」
「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」
日常を明るく陽気な心で通ること。そして、衣食住の中で神様からの賜物である物の持ち味を生かしきることの大切さを教えられました。さらに、人様を反故にせぬよう、決してあきらめることなく真実を尽くして導くようお諭しくだされています。（教祖伝逸話篇112「一に愛想」）
（終）]]></description>
        <googleplay:description>いつもカチカチしてる人
岡山県在住　　山﨑　石根

天理教の布教方法の一つに、「神名流し」というものがあります。天理教のハッピを着て、町の中を拍子木を叩きながら歩き、「みかぐらうた」というおつとめの地歌を歌い、「天理王命」の神名を唱えます。そうして歩くことで、世の中の人に天理教を知ってもらい、親神様のご存在を広めることが出来る、まさに布教方法の一つなのです。
私は30歳の頃、奈良県天理市で勤めていた仕事を辞め、実家である教会の後継者として岡山の地に戻ってきました。そして、その頃からこの町で毎日神名流しを始め、今年で18年目に入りました。
夕方に教会を出発して、約30分間歩くのですが、私の場合は布教という側面よりも、「この町の人たちの病気や悩み事が少しでも治まり、幸せになりますように」という祈念の思いのほうが強いかも知れません。
ただ一方で、布教をして私たちの存在を知ってもらわなければ、誰かのお役に立ちたくてもスタートラインにも立てないというジレンマがあったので、「この町に天理教の教会がありますよ～」「教会にいるのはこんな人ですよ～」という、自己紹介や宣伝のような意味合いも強かったと思います。
いずれにしても、15年以上続けていますと、この町で私が歩く風景も定着してきたように思います。もとより、この地で代を重ねて信仰を続けて下さったご先祖様のお陰もありますし、のどかな田舎町だからこそというのもあるでしょうが、割と町の皆さんが私たちに対して頭を下げてくださったり、地域の活動で知り合った方々が手を振って下さったりします。
ある日、地元のお巡りさんが何かの調査で我が家を訪れた時などは、「いつもこの町を歩いて下さりありがとうございます。これからも地域を見守って下さい」とお礼を言われ、恐縮したこともありました。また、色々な場面で町の人に出会う度に、「あっ、カチカチして歩いている人ですね」と声を掛けられたりと、ちょっとした有名人にもなってきました。
神名流しに歩き始めた平成21年の元旦は、まだ次男が妻のお腹の中にいました。なので、拍子木を叩く私の後ろを、お腹の大きい妻が、２歳の長男を乗せたベビーカーを押しながら歩くといった感じでのスタートでした。
その後、私たち夫婦は５人の子どもを授かりましたので、次第に長男が歩く、次男も歩く、さらに下の子たちがベビーカーに乗ったり、私におんぶされている様子を見て、見知らぬ人から「あの子が、もうこんなに大きくなったんじゃなぁ」と話しかけられたりもしました。
そんな日々が親としてとても嬉しかったのですが、妻とは当初から、「子ども達に強制はしないでおこうね」と話し合っていました。親に言われて嫌々歩かされても、陽気ぐらしの姿を世界に映す布教にはなりませんからね。
でも有り難いことに、我が家の子ども達は喜んで一緒に歩きたがり、さらには近所の信者さんも一緒に歩いて下さるようになり、一時期はとっても賑やかな神名流しになっていました。
ところが、上の子ども達が小学生の高学年ぐらいになると、予想通りだんだん恥ずかしい年代に入って一緒に歩かなくなり、時を同じくしてコロナ時代にも入り、下の子ども達も歩けなくなりました。また、近所の信者さんも様々な事情が重なり参加できず、最近では私か妻のどちらか一人が歩くか、夫婦二人だけで歩くことがほとんどでした。
昨年９月のある日のことです。その日の午前中は教会の行事として、信者さん方と布教活動をしました。そして昼過ぎに、天理の大学に通う長男が、たまたま用事があって我が家に帰省してきました。
夕方、いつもの神名流しの時間になったので、「今日は教会の布教日だったから、一緒に行かへん？」と、何気なく長男を誘ってみました。すると、「どっちでもええ」と意外な返事が返ってきました。そして、さらに驚いたのが、「お兄ちゃんが行くなら、私も行くわぁ」と、お年頃の中３の長女が乗り気だったことです。
思いがけず、妻と長男と長女と４人で歩いた神名流し。本当に、随分久しぶりに我が子と歩いた神名流し。ここ最近、何かと反抗ばかりしていた長男が声を張り上げ、「みかぐらうた」を歌っています。出発するや否や、長女の後輩たち数人に出会ったのですが、彼女は臆することなく手を振り、後輩たちが元気よく挨拶をしてくれました。
果たしてこの日の私たちは、町の人に陽気ぐらしの姿を映せたでしょうか。もちろん天理教の教えは、信仰したらたちまち家族円満になるといったご利益信仰ではありません。むしろ喧嘩もよくするし、いつも子どもを叱ってしまうし、親子や夫婦の関係がギスギスすることもしばしばです。
でも、そんな時に拠り所とする教えがあり、それによって物事が治まるところに、信仰をしている意味があるのかなぁと思います。この日、私たち夫婦は、本当に幸せな時間を共有できたような気がして、それが有り難くて、もったいなくて、胸がいっぱいになったのです。
その日の夜、今まで敢えてしていなかったある質問を、勇気を出して子ども達にしてみました。
「ととが毎日、神名流ししているのって、みんなはどう思ってるん？」
すると、全員がまるで申し合わせたかのように「別に…」と口を揃えました。
「えっ？ でも友達に何か言われへん？」と向けると、
「みんなととのこと知っとるけえ」
「いつもカチカチしてる人で有名で～」
「火の用心って思われとるで～」
と様々な反応が返ってくる中、長女だけが、「あぁ、あれは気にせんといてってみんなに言うてる」とバッサリ。
「いや、あかんがなぁ！」
と笑いながらも、子ども達の様子から、当初の目的であったこの町での自己紹介は、もう充分出来ているのかなぁと感じたのでした。
今日もまた、私たちは神名流しに歩きます。この町の人に、そして子ども達に、取り繕った陽気ぐらしの姿ではなく、偽りのない等身大の背中を見せながら、コツコツと歩き続けたいと思います。



よっしゃんえ

小さい頃から教祖のお側で薫陶を受け、生涯を信仰に捧げた者は数多くいます。飯降よしゑさんもその一人でした。幼少の頃から両親とともに足繁くお屋敷に通い、「よっしゃん、よっしゃん」と教祖に可愛がられ、導かれながら気丈に育ちました。

明治十年、十二歳のある日、指先が痛んで仕方がないので、教祖に伺ったところ、
「三味線を持て」
と仰せになりました。ところが、当時は近くに三味線を教えてくれる所などなく、「郡山へでも、習いに行きましょうか」と伺うと、教祖は、
「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうものでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや」
と仰せられ、御自身で手を取って、それから三年にわたり、よしゑさんに直き直きにおつとめの三味線を教えて下さいました。（教祖伝逸話篇53「この屋敷から」）

教祖は、
「稽古出来てなければ、道具の前に座って、心で弾け。その心を受け取る」
「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ツと鳴るやろが。そうして、稽古するのや」
と、懇ろにお仕込み下さいました。（教祖伝逸話篇54「心で弾け」）

明治十五年、十七歳の時に家族とともにお屋敷に移り住み、一家揃って入り込ませて頂いたよしゑさんは、教祖から様々なお言葉を頂戴しています。
「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」
と、一日一日誠の心を尽くし、働くことの大切さを諭されました。（教祖伝逸話篇111「朝、起こされるのと」）

また、このようなお言葉も下さいました。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」
「人間の反故（ほうぐ）を、作らんようにしておくれ」
反故とは反故（ほご）、役に立たないものという意味です。また、
「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」
「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」
日常を明るく陽気な心で通ること。そして、衣食住の中で神様からの賜物である物の持ち味を生かしきることの大切さを教えられました。さらに、人様を反故にせぬよう、決してあきらめることなく真実を尽くして導くようお諭しくだされています。（教祖伝逸話篇112「一に愛想」）
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>いつもカチカチしてる人
岡山県在住　　山﨑　石根

天理教の布教方法の一つに、「神名流し」というものがあります。天理教のハッピを着て、町の中を拍子木を叩きながら歩き、「みかぐらうた」というおつとめの地歌を歌い、「天理王命」の神名を唱えます。そうして歩くことで、世の中の人に天理教を知ってもらい、親神様のご存在を広めることが出来る、まさに布教方法の一つなのです。
私は30歳の頃、奈良県天理市で勤めていた仕事を辞め、実家である教会の後継者として岡山の地に戻ってきました。そして、その頃からこの町で毎日神名流しを始め、今年で18年目に入りました。
夕方に教会を出発して、約30分間歩くのですが、私の場合は布教という側面よりも、「この町の人たちの病気や悩み事が少しでも治まり、幸せになりますように」という祈念の思いのほうが強いかも知れません。
ただ一方で、布教をして私たちの存在を知ってもらわなければ、誰かのお役に立ちたくてもスタートラインにも立てないというジレンマがあったので、「この町に天理教の教会がありますよ～」「教会にいるのはこんな人ですよ～」という、自己紹介や宣伝のような意味合いも強かったと思います。
いずれにしても、15年以上続けていますと、この町で私が歩く風景も定着してきたように思います。もとより、この地で代を重ねて信仰を続けて下さったご先祖様のお陰もありますし、のどかな田舎町だからこそというのもあるでしょうが、割と町の皆さんが私たちに対して頭を下げてくださったり、地域の活動で知り合った方々が手を振って下さったりします。
ある日、地元のお巡りさんが何かの調査で我が家を訪れた時などは、「いつもこの町を歩いて下さりありがとうございます。これからも地域を見守って下さい」とお礼を言われ、恐縮したこともありました。また、色々な場面で町の人に出会う度に、「あっ、カチカチして歩いている人ですね」と声を掛けられたりと、ちょっとした有名人にもなってきました。
神名流しに歩き始めた平成21年の元旦は、まだ次男が妻のお腹の中にいました。なので、拍子木を叩く私の後ろを、お腹の大きい妻が、２歳の長男を乗せたベビーカーを押しながら歩くといった感じでのスタートでした。
その後、私たち夫婦は５人の子どもを授かりましたので、次第に長男が歩く、次男も歩く、さらに下の子たちがベビーカーに乗ったり、私におんぶされている様子を見て、見知らぬ人から「あの子が、もうこんなに大きくなったんじゃなぁ」と話しかけられたりもしました。
そんな日々が親としてとても嬉しかったのですが、妻とは当初から、「子ども達に強制はしないでおこうね」と話し合っていました。親に言われて嫌々歩かされても、陽気ぐらしの姿を世界に映す布教にはなりませんからね。
でも有り難いことに、我が家の子ども達は喜んで一緒に歩きたがり、さらには近所の信者さんも一緒に歩いて下さるようになり、一時期はとっても賑やかな神名流しになっていました。
ところが、上の子ども達が小学生の高学年ぐらいになると、予想通りだんだん恥ずかしい年代に入って一緒に歩かなくなり、時を同じくしてコロナ時代にも入り、下の子ども達も歩けなくなりました。また、近所の信者さんも様々な事情が重なり参加できず、最近では私か妻のどちらか一人が歩くか、夫婦二人だけで歩くことがほとんどでした。
昨年９月のある日のことです。その日の午前中は教会の行事として、信者さん方と布教活動をしました。そして昼過ぎに、天理の大学に通う長男が、たまたま用事があって我が家に帰省してきました。
夕方、いつもの神名流しの時間になったので、「今日は教会の布教日だったから、一緒に行かへん？」と、何気なく長男を誘ってみました。すると、「どっちでもええ」と意外な返事が返ってきました。そして、さらに驚いたのが、「お兄ちゃんが行くなら、私も行くわぁ」と、お年頃の中３の長女が乗り気だったことです。
思いがけず、妻と長男と長女と４人で歩いた神名流し。本当に、随分久しぶりに我が子と歩いた神名流し。ここ最近、何かと反抗ばかりしていた長男が声を張り上げ、「みかぐらうた」を歌っています。出発するや否や、長女の後輩たち数人に出会ったのですが、彼女は臆することなく手を振り、後輩たちが元気よく挨拶をしてくれました。
果たしてこの日の私たちは、町の人に陽気ぐらしの姿を映せたでしょうか。もちろん天理教の教えは、信仰したらたちまち家族円満になるといったご利益信仰ではありません。むしろ喧嘩もよくするし、いつも子どもを叱ってしまうし、親子や夫婦の関係がギスギスすることもしばしばです。
でも、そんな時に拠り所とする教えがあり、それによって物事が治まるところに、信仰をしている意味があるのかなぁと思います。この日、私たち夫婦は、本当に幸せな時間を共有できたような気がして、それが有り難くて、もったいなくて、胸がいっぱいになったのです。
その日の夜、今まで敢えてしていなかったある質問を、勇気を出して子ども達にしてみました。
「ととが毎日、神名流ししているのって、みんなはどう思ってるん？」
すると、全員がまるで申し合わせたかのように「別に…」と口を揃えました。
「えっ？ でも友達に何か言われへん？」と向けると、
「みんなととのこと知っとるけえ」
「いつもカチカチしてる人で有名で～」
「火の用心って思われとるで～」
と様々な反応が返ってくる中、長女だけが、「あぁ、あれは気にせんといてってみんなに言うてる」とバッサリ。
「いや、あかんがなぁ！」
と笑いながらも、子ども達の様子から、当初の目的であったこの町での自己紹介は、もう充分出来ているのかなぁと感じたのでした。
今日もまた、私たちは神名流しに歩きます。この町の人に、そして子ども達に、取り繕った陽気ぐらしの姿ではなく、偽りのない等身大の背中を見せながら、コツコツと歩き続けたいと思います。



よっしゃんえ

小さい頃から教祖のお側で薫陶を受け、生涯を信仰に捧げた者は数多くいます。飯降よしゑさんもその一人でした。幼少の頃から両親とともに足繁くお屋敷に通い、「よっしゃん、よっしゃん」と教祖に可愛がられ、導かれながら気丈に育ちました。

明治十年、十二歳のある日、指先が痛んで仕方がないので、教祖に伺ったところ、
「三味線を持て」
と仰せになりました。ところが、当時は近くに三味線を教えてくれる所などなく、「郡山へでも、習いに行きましょうか」と伺うと、教祖は、
「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうものでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや」
と仰せられ、御自身で手を取って、それから三年にわたり、よしゑさんに直き直きにおつとめの三味線を教えて下さいました。（教祖伝逸話篇53「この屋敷から」）

教祖は、
「稽古出来てなければ、道具の前に座って、心で弾け。その心を受け取る」
「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ツと鳴るやろが。そうして、稽古するのや」
と、懇ろにお仕込み下さいました。（教祖伝逸話篇54「心で弾け」）

明治十五年、十七歳の時に家族とともにお屋敷に移り住み、一家揃って入り込ませて頂いたよしゑさんは、教祖から様々なお言葉を頂戴しています。
「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」
と、一日一日誠の心を尽くし、働くことの大切さを諭されました。（教祖伝逸話篇111「朝、起こされるのと」）

また、このようなお言葉も下さいました。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」
「人間の反故（ほうぐ）を、作らんようにしておくれ」
反故とは反故（ほご）、役に立たないものという意味です。また、
「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」
「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」
日常を明るく陽気な心で通ること。そして、衣食住の中で神様からの賜物である物の持ち味を生かしきることの大切さを教えられました。さらに、人様を反故にせぬよう、決してあきらめることなく真実を尽くして導くようお諭しくだされています。（教祖伝逸話篇112「一に愛想」）
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        <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 09:31:11 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>新たな視点</title>
        <description><![CDATA[新たな視点
タイ在住　　野口　信也

ご存知の方も多いと思いますが、タイには仏教を信仰する方が大変多く、国民の9割以上が仏教徒と言われています。朝から托鉢に歩くお坊さんの姿が見られ、あちらこちらには多くのお寺が点在し、電車やバスにはお坊さん専用の席も設けられており、ここは仏教国であるということが実感できます。
また、日本ではお坊さんにお経をあげてもらうのは葬儀や法事などの時と決まっていますが、タイではそれ以外にもあらゆる場面でお坊さんがお経を唱えるのです。新築祝い、新車購入、また、病気の方の平癒願いなどの時にもお経をあげます。
他にも、ロッタリーと呼ばれる宝くじの当選番号を予想するお坊さんもおられるなど、仏教は人々の生活に密着した宗教なのです。仏教本来の教えからは少し離れているように思えますが、「なぜですか？」とタイ人に質問しても、あまりはっきりとした答えは返ってきません。生活に溶け込み、それが当然となっているからでしょう。
逆に、タイ人の信者さんからも、私が日本では当然のように行っていたことについて質問を受けることがよくあります。例えば、天理教ではお祈りの時にどうして四拍手するのですか？ 教会のお社にある鏡にはどういう意味があるのですか？ 礼拝で床に手を付く時、手を握るのはなぜですか？ どうして天理教の旗は紫色なのですか？などなど…。こうした新たな視点からの質問は、自身の信仰について深く考える機会ともなるのです。
私が修養科タイ語クラスの講師をしていた時の修養科生で、修了後、しばらく日本の所属教会に滞在していた方がいました。
その方が、本部の月次祭の日、参拝していた私の所まで挨拶に来てくれました。そして、真剣な面持ちで、「先生、聞いてください。私は修養科の時、詰所で御供（ごく）さんを頂いて友人のお見舞いに行っていました。ところが今回、同じように『御供さんを下さい』と詰所の方に言うと、『お供えをしてください』と言われました。私は一人でも多くの人に御供さんをお渡しして、たすかって頂きたいと思っているのですが」とのこと。
はっきりは言いませんが、どうしてお供えをしなければ頂けないのですか？という質問のようです。
この方は、修養科を修了して信仰的にも一歩成人されたので、教会としてはお供えを、ということなのでしょう。しかし、そこまで詳しく説明をされなかったため、「なぜですか？」と疑問に思ったようです。
あまり考えたことのない質問に少し戸惑いましたが、私はおたすけに行く時、特に重病の方の時には、教祖殿のお守所へお供えをさせて頂き、そこで御供さんを頂いておたすけに行っていたので、次のようにお話をしてみました。
「その御供さんですが、教祖殿にお供えをさせて頂くと、判の押された小さい包みに入った御供さんを5つ頂くことができます。では、もし私が10円お供えしたら、一包みいくらの計算になりますか」
「２円です」
「そうですね。では、100円お供えしたらいくらですか」
「20円です」
「そうですね。では、あなたがどうしてもこの重病の方にたすかってもらいたいと、１万円お供えしたとします。そうしたら、一包みはいくらになりますか」
「2,000円です」
「そうですね。詰所の方は、お供えをすることで、御供さんの大切さをあらためてあなたに分かってもらいたかったのではないでしょうか」
そう説明をし、何とか納得して頂きました。私自身も、お供えに関しての考えを整理するとても貴重な経験となりました。
また、日頃当然のように行っている天理教のお祈り「おつとめ」について、その大切さに改めて気づいたことがあります。
それは、タイから教育省の高官の方々がおぢばがえりをされ、神殿、教祖殿をご案内した後、「全学参拝」をご覧頂いた時のことです。
この全学参拝は、天理小学校、天理中学校、天理高校の生徒をはじめ、天理教語学院などに通う外国人の生徒も、毎日学校へ行く前に教会本部の神殿に集合し、「おつとめ」を一斉につとめるのです。
タイの高官の方々は、学生たちが真剣に神名を唱えて手を振り、おつとめをする姿をジーッと見つめ、学生がおつとめを終えて登校して行く姿を見ながら、「このお祈りは月に何回ぐらいされるのですか？」と質問をされました。そこで私が「はい、毎日です」とお答えすると、一人の方が、おもむろに「この学校は日本一の学校ですね」と仰いました。それほど心に響く光景であったようです。
仏教大国のタイでさえも、時代の波に逆らうことは出来ず、信仰離れが進んでおり、タイで教育に携わる方々の中には、その影響が、特に子供たちの教師や学習に対する態度や、家庭生活の乱れにつながっていると捉える向きもあるようです。
タイのことを思い、子供たちの将来を真剣に憂うこうした方の「日本一」という言葉には、大変重みがあります。これからも、一人でも多くの方を、この人類のふるさと「ぢば」へお誘いし、共におつとめをつとめることを目標に頑張りたいと思います。



心に吹く風「見えない世界を見る」

花四月。野原もすっかり春の陽気に包まれるようになりました。小鳥のさえずりの中で草木の芽もすくすくと伸び、新緑が目に鮮やかです。新しく小学校に通い始めた近所の子供たちも、大きめのランドセルを嬉しそうに背負って通学していきます。
うちの長女がまだ幼かったころ、一つの質問をしてみました。
「アサガオの種をまいたら何が出る？」
長女は、なぜそんなことを聞くのだろうと、不思議そうな顔で「芽が出る」と即座に答えました。
「本当に芽が出る？」
私はもう一度聞き直しました。そうしたら、なぞなぞかと思ったのでしょう。「答えは何？」と聞いてきました。
確かに「芽が出る」で間違いではありません。でも、それは見える世界での話。実は見えないところで「根」が先に出ています。そのことを娘に話したら、「お父さん、ずるい」と言われてしまいました。
しかし、見えないところで根が先に出て、しっかり茎を支えるから、芽は倒れずに伸びていくことができます。それに、水分や栄養分を根が吸収するからこそ、芽も大きく成長できるのです。
われわれの目に普通に見えることは、実は見えないものに支えられている。そのことを教えたくて、娘に質問したのでした。
一事が万事。どうもこの世の中、見える世界よりも見えない世界のほうが大切なことが多いような気がします。空気は見えないけれど、空気がなかったら私たちは生きていけません。電気もそうです。
実はこの見えない世界も、ちょっとした工夫と努力で見えるようになります。アサガオの場合、どうすれば根が出るのを見ることができるでしょうか。たとえば十粒の種を並べてまいて、一日一個ずつ掘り起こしてみたらどうでしょう。もっと工夫する人は、透明な水槽に土を入れ、その端っこに種をまいて、黒い布で覆って毎日観察するかもしれません。いずれにしても、ちょっとした工夫と努力で見えない世界が見えてきます。
空気を見るためには、煙を流してやります。そうすれば、空気は「気流」という形で見えるようになります。電気を見るために電流計を通してやれば、電気は「針の動き」という形で見えるようになります。
もう少し、話を広げてみましょう。もう一つ、私たちの目には見えないけれど大切なものがあります。それは人の心です。見えない心を大切にしなかったら、人間関係はうまくいきません。
私たちの生活を見渡してみても、見えないところで心を尽くしてくれている人のおかげで、何不自由なく生活できていることは多いと思います。
水道の蛇口をひねれば水が出る。コンセントにプラグを挿せば電気が流れる。当たり前のように思いますが、その陰でどれだけ多くの人が、人の幸せを願って仕事をしていることでしょう。見えない世界に支えられていることが分かれば分かるほど、感謝する対象が増えていきます。逆に、そのことに気づかないまま過ごせば過ごすほど、当たり前だと思い込み、感謝の量は減っていくのではないでしょうか。
そして、その心という見えないものに気づくにも、アサガオの根や空気を見るのと同じように、ちょっとした工夫と努力が必要なのです。それは、心を落ち着けて想像力を働かせてみることです。なぜ年中、色とりどりの果物がスーパーに並んでいるのだろう？　なぜ注文した商品が時間通りに届くのだろう？　想像力を働かせれば、そこにはたくさんの真実の心が、見えないところで尽くされていることに気づくのです。
耳を澄ませば、聞こえなかった音も聞こえるようになる。それと同じように、心を澄ませば、気づかなかったたくさんのことに気づくようになります。
心を澄ます。人の真心が分かる。見えない世界が見えてくる。感謝の量が増える。喜びが増え幸せになる。これらは一本の線上に並ぶ、幸せへの案内標識です。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>新たな視点
タイ在住　　野口　信也

ご存知の方も多いと思いますが、タイには仏教を信仰する方が大変多く、国民の9割以上が仏教徒と言われています。朝から托鉢に歩くお坊さんの姿が見られ、あちらこちらには多くのお寺が点在し、電車やバスにはお坊さん専用の席も設けられており、ここは仏教国であるということが実感できます。
また、日本ではお坊さんにお経をあげてもらうのは葬儀や法事などの時と決まっていますが、タイではそれ以外にもあらゆる場面でお坊さんがお経を唱えるのです。新築祝い、新車購入、また、病気の方の平癒願いなどの時にもお経をあげます。
他にも、ロッタリーと呼ばれる宝くじの当選番号を予想するお坊さんもおられるなど、仏教は人々の生活に密着した宗教なのです。仏教本来の教えからは少し離れているように思えますが、「なぜですか？」とタイ人に質問しても、あまりはっきりとした答えは返ってきません。生活に溶け込み、それが当然となっているからでしょう。
逆に、タイ人の信者さんからも、私が日本では当然のように行っていたことについて質問を受けることがよくあります。例えば、天理教ではお祈りの時にどうして四拍手するのですか？ 教会のお社にある鏡にはどういう意味があるのですか？ 礼拝で床に手を付く時、手を握るのはなぜですか？ どうして天理教の旗は紫色なのですか？などなど…。こうした新たな視点からの質問は、自身の信仰について深く考える機会ともなるのです。
私が修養科タイ語クラスの講師をしていた時の修養科生で、修了後、しばらく日本の所属教会に滞在していた方がいました。
その方が、本部の月次祭の日、参拝していた私の所まで挨拶に来てくれました。そして、真剣な面持ちで、「先生、聞いてください。私は修養科の時、詰所で御供（ごく）さんを頂いて友人のお見舞いに行っていました。ところが今回、同じように『御供さんを下さい』と詰所の方に言うと、『お供えをしてください』と言われました。私は一人でも多くの人に御供さんをお渡しして、たすかって頂きたいと思っているのですが」とのこと。
はっきりは言いませんが、どうしてお供えをしなければ頂けないのですか？という質問のようです。
この方は、修養科を修了して信仰的にも一歩成人されたので、教会としてはお供えを、ということなのでしょう。しかし、そこまで詳しく説明をされなかったため、「なぜですか？」と疑問に思ったようです。
あまり考えたことのない質問に少し戸惑いましたが、私はおたすけに行く時、特に重病の方の時には、教祖殿のお守所へお供えをさせて頂き、そこで御供さんを頂いておたすけに行っていたので、次のようにお話をしてみました。
「その御供さんですが、教祖殿にお供えをさせて頂くと、判の押された小さい包みに入った御供さんを5つ頂くことができます。では、もし私が10円お供えしたら、一包みいくらの計算になりますか」
「２円です」
「そうですね。では、100円お供えしたらいくらですか」
「20円です」
「そうですね。では、あなたがどうしてもこの重病の方にたすかってもらいたいと、１万円お供えしたとします。そうしたら、一包みはいくらになりますか」
「2,000円です」
「そうですね。詰所の方は、お供えをすることで、御供さんの大切さをあらためてあなたに分かってもらいたかったのではないでしょうか」
そう説明をし、何とか納得して頂きました。私自身も、お供えに関しての考えを整理するとても貴重な経験となりました。
また、日頃当然のように行っている天理教のお祈り「おつとめ」について、その大切さに改めて気づいたことがあります。
それは、タイから教育省の高官の方々がおぢばがえりをされ、神殿、教祖殿をご案内した後、「全学参拝」をご覧頂いた時のことです。
この全学参拝は、天理小学校、天理中学校、天理高校の生徒をはじめ、天理教語学院などに通う外国人の生徒も、毎日学校へ行く前に教会本部の神殿に集合し、「おつとめ」を一斉につとめるのです。
タイの高官の方々は、学生たちが真剣に神名を唱えて手を振り、おつとめをする姿をジーッと見つめ、学生がおつとめを終えて登校して行く姿を見ながら、「このお祈りは月に何回ぐらいされるのですか？」と質問をされました。そこで私が「はい、毎日です」とお答えすると、一人の方が、おもむろに「この学校は日本一の学校ですね」と仰いました。それほど心に響く光景であったようです。
仏教大国のタイでさえも、時代の波に逆らうことは出来ず、信仰離れが進んでおり、タイで教育に携わる方々の中には、その影響が、特に子供たちの教師や学習に対する態度や、家庭生活の乱れにつながっていると捉える向きもあるようです。
タイのことを思い、子供たちの将来を真剣に憂うこうした方の「日本一」という言葉には、大変重みがあります。これからも、一人でも多くの方を、この人類のふるさと「ぢば」へお誘いし、共におつとめをつとめることを目標に頑張りたいと思います。



心に吹く風「見えない世界を見る」

花四月。野原もすっかり春の陽気に包まれるようになりました。小鳥のさえずりの中で草木の芽もすくすくと伸び、新緑が目に鮮やかです。新しく小学校に通い始めた近所の子供たちも、大きめのランドセルを嬉しそうに背負って通学していきます。
うちの長女がまだ幼かったころ、一つの質問をしてみました。
「アサガオの種をまいたら何が出る？」
長女は、なぜそんなことを聞くのだろうと、不思議そうな顔で「芽が出る」と即座に答えました。
「本当に芽が出る？」
私はもう一度聞き直しました。そうしたら、なぞなぞかと思ったのでしょう。「答えは何？」と聞いてきました。
確かに「芽が出る」で間違いではありません。でも、それは見える世界での話。実は見えないところで「根」が先に出ています。そのことを娘に話したら、「お父さん、ずるい」と言われてしまいました。
しかし、見えないところで根が先に出て、しっかり茎を支えるから、芽は倒れずに伸びていくことができます。それに、水分や栄養分を根が吸収するからこそ、芽も大きく成長できるのです。
われわれの目に普通に見えることは、実は見えないものに支えられている。そのことを教えたくて、娘に質問したのでした。
一事が万事。どうもこの世の中、見える世界よりも見えない世界のほうが大切なことが多いような気がします。空気は見えないけれど、空気がなかったら私たちは生きていけません。電気もそうです。
実はこの見えない世界も、ちょっとした工夫と努力で見えるようになります。アサガオの場合、どうすれば根が出るのを見ることができるでしょうか。たとえば十粒の種を並べてまいて、一日一個ずつ掘り起こしてみたらどうでしょう。もっと工夫する人は、透明な水槽に土を入れ、その端っこに種をまいて、黒い布で覆って毎日観察するかもしれません。いずれにしても、ちょっとした工夫と努力で見えない世界が見えてきます。
空気を見るためには、煙を流してやります。そうすれば、空気は「気流」という形で見えるようになります。電気を見るために電流計を通してやれば、電気は「針の動き」という形で見えるようになります。
もう少し、話を広げてみましょう。もう一つ、私たちの目には見えないけれど大切なものがあります。それは人の心です。見えない心を大切にしなかったら、人間関係はうまくいきません。
私たちの生活を見渡してみても、見えないところで心を尽くしてくれている人のおかげで、何不自由なく生活できていることは多いと思います。
水道の蛇口をひねれば水が出る。コンセントにプラグを挿せば電気が流れる。当たり前のように思いますが、その陰でどれだけ多くの人が、人の幸せを願って仕事をしていることでしょう。見えない世界に支えられていることが分かれば分かるほど、感謝する対象が増えていきます。逆に、そのことに気づかないまま過ごせば過ごすほど、当たり前だと思い込み、感謝の量は減っていくのではないでしょうか。
そして、その心という見えないものに気づくにも、アサガオの根や空気を見るのと同じように、ちょっとした工夫と努力が必要なのです。それは、心を落ち着けて想像力を働かせてみることです。なぜ年中、色とりどりの果物がスーパーに並んでいるのだろう？　なぜ注文した商品が時間通りに届くのだろう？　想像力を働かせれば、そこにはたくさんの真実の心が、見えないところで尽くされていることに気づくのです。
耳を澄ませば、聞こえなかった音も聞こえるようになる。それと同じように、心を澄ませば、気づかなかったたくさんのことに気づくようになります。
心を澄ます。人の真心が分かる。見えない世界が見えてくる。感謝の量が増える。喜びが増え幸せになる。これらは一本の線上に並ぶ、幸せへの案内標識です。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>新たな視点
タイ在住　　野口　信也

ご存知の方も多いと思いますが、タイには仏教を信仰する方が大変多く、国民の9割以上が仏教徒と言われています。朝から托鉢に歩くお坊さんの姿が見られ、あちらこちらには多くのお寺が点在し、電車やバスにはお坊さん専用の席も設けられており、ここは仏教国であるということが実感できます。
また、日本ではお坊さんにお経をあげてもらうのは葬儀や法事などの時と決まっていますが、タイではそれ以外にもあらゆる場面でお坊さんがお経を唱えるのです。新築祝い、新車購入、また、病気の方の平癒願いなどの時にもお経をあげます。
他にも、ロッタリーと呼ばれる宝くじの当選番号を予想するお坊さんもおられるなど、仏教は人々の生活に密着した宗教なのです。仏教本来の教えからは少し離れているように思えますが、「なぜですか？」とタイ人に質問しても、あまりはっきりとした答えは返ってきません。生活に溶け込み、それが当然となっているからでしょう。
逆に、タイ人の信者さんからも、私が日本では当然のように行っていたことについて質問を受けることがよくあります。例えば、天理教ではお祈りの時にどうして四拍手するのですか？ 教会のお社にある鏡にはどういう意味があるのですか？ 礼拝で床に手を付く時、手を握るのはなぜですか？ どうして天理教の旗は紫色なのですか？などなど…。こうした新たな視点からの質問は、自身の信仰について深く考える機会ともなるのです。
私が修養科タイ語クラスの講師をしていた時の修養科生で、修了後、しばらく日本の所属教会に滞在していた方がいました。
その方が、本部の月次祭の日、参拝していた私の所まで挨拶に来てくれました。そして、真剣な面持ちで、「先生、聞いてください。私は修養科の時、詰所で御供（ごく）さんを頂いて友人のお見舞いに行っていました。ところが今回、同じように『御供さんを下さい』と詰所の方に言うと、『お供えをしてください』と言われました。私は一人でも多くの人に御供さんをお渡しして、たすかって頂きたいと思っているのですが」とのこと。
はっきりは言いませんが、どうしてお供えをしなければ頂けないのですか？という質問のようです。
この方は、修養科を修了して信仰的にも一歩成人されたので、教会としてはお供えを、ということなのでしょう。しかし、そこまで詳しく説明をされなかったため、「なぜですか？」と疑問に思ったようです。
あまり考えたことのない質問に少し戸惑いましたが、私はおたすけに行く時、特に重病の方の時には、教祖殿のお守所へお供えをさせて頂き、そこで御供さんを頂いておたすけに行っていたので、次のようにお話をしてみました。
「その御供さんですが、教祖殿にお供えをさせて頂くと、判の押された小さい包みに入った御供さんを5つ頂くことができます。では、もし私が10円お供えしたら、一包みいくらの計算になりますか」
「２円です」
「そうですね。では、100円お供えしたらいくらですか」
「20円です」
「そうですね。では、あなたがどうしてもこの重病の方にたすかってもらいたいと、１万円お供えしたとします。そうしたら、一包みはいくらになりますか」
「2,000円です」
「そうですね。詰所の方は、お供えをすることで、御供さんの大切さをあらためてあなたに分かってもらいたかったのではないでしょうか」
そう説明をし、何とか納得して頂きました。私自身も、お供えに関しての考えを整理するとても貴重な経験となりました。
また、日頃当然のように行っている天理教のお祈り「おつとめ」について、その大切さに改めて気づいたことがあります。
それは、タイから教育省の高官の方々がおぢばがえりをされ、神殿、教祖殿をご案内した後、「全学参拝」をご覧頂いた時のことです。
この全学参拝は、天理小学校、天理中学校、天理高校の生徒をはじめ、天理教語学院などに通う外国人の生徒も、毎日学校へ行く前に教会本部の神殿に集合し、「おつとめ」を一斉につとめるのです。
タイの高官の方々は、学生たちが真剣に神名を唱えて手を振り、おつとめをする姿をジーッと見つめ、学生がおつとめを終えて登校して行く姿を見ながら、「このお祈りは月に何回ぐらいされるのですか？」と質問をされました。そこで私が「はい、毎日です」とお答えすると、一人の方が、おもむろに「この学校は日本一の学校ですね」と仰いました。それほど心に響く光景であったようです。
仏教大国のタイでさえも、時代の波に逆らうことは出来ず、信仰離れが進んでおり、タイで教育に携わる方々の中には、その影響が、特に子供たちの教師や学習に対する態度や、家庭生活の乱れにつながっていると捉える向きもあるようです。
タイのことを思い、子供たちの将来を真剣に憂うこうした方の「日本一」という言葉には、大変重みがあります。これからも、一人でも多くの方を、この人類のふるさと「ぢば」へお誘いし、共におつとめをつとめることを目標に頑張りたいと思います。



心に吹く風「見えない世界を見る」

花四月。野原もすっかり春の陽気に包まれるようになりました。小鳥のさえずりの中で草木の芽もすくすくと伸び、新緑が目に鮮やかです。新しく小学校に通い始めた近所の子供たちも、大きめのランドセルを嬉しそうに背負って通学していきます。
うちの長女がまだ幼かったころ、一つの質問をしてみました。
「アサガオの種をまいたら何が出る？」
長女は、なぜそんなことを聞くのだろうと、不思議そうな顔で「芽が出る」と即座に答えました。
「本当に芽が出る？」
私はもう一度聞き直しました。そうしたら、なぞなぞかと思ったのでしょう。「答えは何？」と聞いてきました。
確かに「芽が出る」で間違いではありません。でも、それは見える世界での話。実は見えないところで「根」が先に出ています。そのことを娘に話したら、「お父さん、ずるい」と言われてしまいました。
しかし、見えないところで根が先に出て、しっかり茎を支えるから、芽は倒れずに伸びていくことができます。それに、水分や栄養分を根が吸収するからこそ、芽も大きく成長できるのです。
われわれの目に普通に見えることは、実は見えないものに支えられている。そのことを教えたくて、娘に質問したのでした。
一事が万事。どうもこの世の中、見える世界よりも見えない世界のほうが大切なことが多いような気がします。空気は見えないけれど、空気がなかったら私たちは生きていけません。電気もそうです。
実はこの見えない世界も、ちょっとした工夫と努力で見えるようになります。アサガオの場合、どうすれば根が出るのを見ることができるでしょうか。たとえば十粒の種を並べてまいて、一日一個ずつ掘り起こしてみたらどうでしょう。もっと工夫する人は、透明な水槽に土を入れ、その端っこに種をまいて、黒い布で覆って毎日観察するかもしれません。いずれにしても、ちょっとした工夫と努力で見えない世界が見えてきます。
空気を見るためには、煙を流してやります。そうすれば、空気は「気流」という形で見えるようになります。電気を見るために電流計を通してやれば、電気は「針の動き」という形で見えるようになります。
もう少し、話を広げてみましょう。もう一つ、私たちの目には見えないけれど大切なものがあります。それは人の心です。見えない心を大切にしなかったら、人間関係はうまくいきません。
私たちの生活を見渡してみても、見えないところで心を尽くしてくれている人のおかげで、何不自由なく生活できていることは多いと思います。
水道の蛇口をひねれば水が出る。コンセントにプラグを挿せば電気が流れる。当たり前のように思いますが、その陰でどれだけ多くの人が、人の幸せを願って仕事をしていることでしょう。見えない世界に支えられていることが分かれば分かるほど、感謝する対象が増えていきます。逆に、そのことに気づかないまま過ごせば過ごすほど、当たり前だと思い込み、感謝の量は減っていくのではないでしょうか。
そして、その心という見えないものに気づくにも、アサガオの根や空気を見るのと同じように、ちょっとした工夫と努力が必要なのです。それは、心を落ち着けて想像力を働かせてみることです。なぜ年中、色とりどりの果物がスーパーに並んでいるのだろう？　なぜ注文した商品が時間通りに届くのだろう？　想像力を働かせれば、そこにはたくさんの真実の心が、見えないところで尽くされていることに気づくのです。
耳を澄ませば、聞こえなかった音も聞こえるようになる。それと同じように、心を澄ませば、気づかなかったたくさんのことに気づくようになります。
心を澄ます。人の真心が分かる。見えない世界が見えてくる。感謝の量が増える。喜びが増え幸せになる。これらは一本の線上に並ぶ、幸せへの案内標識です。
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        <pubDate>Fri, 03 Apr 2026 09:19:52 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>年祭の旬に</title>
        <description><![CDATA[年祭の旬に
埼玉県在住　　関根　健一

先日、家族で何気ない話をしていた折、ふと「そういえば、修養科を修了してもう一年になるね」と、昨年修養科へ行った次女のことが話題にのぼりました。
次女は思うところがあり、21歳の誕生日を前に自ら修養科を志願しました。教祖140年祭の三年千日活動の最中に、自分の意思で志願してくれたことは、父親としても教会長としても、実に嬉しい出来事でした。
思い返せば、私自身も21歳の誕生日を迎えてすぐ、修養科を志願しています。次女は私が30歳の時に生まれたので、私の修養科修了からちょうど30年という節目になります。私の修養科生活もまた、教祖110年祭の年祭活動期間中でした。
その10年前、教祖100年祭の折にはまだ小学生で、年祭の意味もよく分からずに過ごしていました。ですから私にとっては、110年祭が実質初めての年祭となり、修養科では同期の仲間たちと諭達を競うように暗記していたことを、今もよく覚えています。
私が修養科を志願する少し前のことです。近所に住む同級生の女性、Ａさんが白血病を発症したことを知りました。Ａさんとは小学校6年間と中学校一年間を同じクラスで過ごし、また彼女のお兄さんとお姉さんも、私の姉二人と同学年でした。そんなご縁で母親同士も親しくしており、私の母がＡさんのお母さんから連絡を受けたのです。
Ａさんは体調不良で受診した病院で白血病と診断され、どうしてよいか分からずにいたところ、職場の同僚から「神様にお願いしてもらおう」と誘われ、天理教の教会へ行ったとのことでした。その話を自分の母親に伝えると、「関根さんのうちも天理教だから、同じ天理教のお話を聞くなら相談してみたら？」と勧められ、私の母に連絡を下さったのです。
私は白血病のおたすけと聞き、自分に何が出来るのか戸惑いましたが、母と姉とともにすぐＡさんのお宅に伺い、お話を取り次がせて頂きました。併せておぢばがえりにもお誘いしましたが、すでに長期治療の計画が進んでいて、すぐにはお返事を頂けませんでした。
その後、数か月単位で入院と自宅療養を繰り返す生活が始まり、面会できる時期には、姉と私でおさづけの取り次ぎに通わせて頂きました。
そうした中、私が仕事の都合が折り合う時期に修養科へ行くことが決まり、Ａさんには「おぢばで病気全快をお願いさせてもらいます」と伝え、21歳になってすぐの11月から3か月、年越しの修養科生活が始まりました。
この時季に志願した理由は二つあります。一つは姉から、「あなたは周りに流されやすいから、若い人が多い春の時季は避けた方がいい」と言われたことでした。
もちろん、若い人すべてが怠けるわけではありません。しかし、様々な事情でおぢばに引き寄せられた者同士、年齢や境遇の近い人たちが集まると、どうしても「少しぐらいいいよね」という空気が生まれ、その結果、怠けてしまう傾向があるのです。
そしてもう一つは、尊敬するB先生が、11月・12月に、詰所で修養科生を指導する教養掛に当たっていたことでした。
冬の時季の修養科は志願者が少ないと聞いていましたが、実際に行ってみると、この時季としては珍しく、大教会では10名を超える志願者があり、しかもその半数が21歳の私よりも若いという異例の構成でした。さらに、修養科全体でも、この期は異例と言われるほど若い人が多いことを、修養科が始まってから知りました。
周囲の空気に流されやすいと自認していた私にとって、この状況は、修養科中も気を引き締めて通るようにとの親神様のお計らいだと受け取ることにしました。
ところが、その心構えが裏目に出たのでしょうか。良かれと思って取った行動が蛇足となり、B先生から、他人のためにと思ってしたことが、かえって迷惑になる場合もあるのだとお諭しを頂きました。
また、私がＡさんのおたすけに通っていることをご存知だったＢ先生は、私の行いを教訓にしながら、「難病の方のおたすけ」をさせて頂く責任について、ご自身の経験を交えながら親身にお仕込み下さいました。そのあたたかい言葉に、私は涙を抑えることが出来ませんでした。
それを機に、心新たに修養科生活を送ってしばらく経った、ある日のことです。その日は朝の神殿掃除ひのきしんに当たっており、身支度を整えて詰所の玄関へ向かうと、ちょうど当時所属していた上級教会の団参の一行が、夜行バスで明け方に到着したところでした。
その中に、姉に連れられてバスから降り立つＡさんとお母さんの姿がありました。修養科生活に励む私を驚かせようと、姉が内緒で誘ってくれていたのです。
ひのきしんの時間も迫っていたため、その場では挨拶もそこそこに神殿へ向かいましたが、集合時間までのわずかな間、神殿の隅で涙を流しながら親神様にお礼申し上げたことを、今も鮮明に覚えています。
この団参で初席を運んだAさんは、その後、難しい病状の中でしたが、治療が順調に進み、寛解のご守護を頂きました。そして、それを機に女子青年の活動にも率先して参加してくれるようになりました。
やがて姉が結婚して他系統の教会の所属となり、その翌年には私も結婚しました。以後は、妻が一緒にＡさん家族のおたすけに通ってくれるようになりました。
その間もＡさんは別席を運び続け、私が教会長を拝命する前年、晴れてようぼくとなり、私の就任奉告祭では、おつとめはもちろん賛者まで務めて下さいました。
家庭の事情もあり、今は頻繁に参拝出来なくなりましたが、毎月の月次祭後には欠かさずお下がりを届けにAさんのお宅を訪ねています。最近ではお母さんの介護が始まったこともあり、介護施設で働く妻が相談を受けることも増えてきました。
私にとって初めての年祭活動だった30年前に与えて頂いたこのおたすけのご縁は、振り返るほどに、Aさんを通して私自身が成長の場を与えられてきたのだと実感させられます。
現在は女性同士ということもあり、Aさんについては妻に任せることが多くなりました。これからも、教会でおつとめを通してお願いさせて頂くことが会長の務めであると肝に銘じ、共におたすけに勤しんでくれている妻に感謝しつつ、Aさん家族の幸せを願い続けていきたいと思います。



疑う心

朝夕に唱えるおつとめの地歌である「みかぐらうた」に、
　　ひとのこゝろといふものハ　　うたがひぶかいものなるぞ（六下り目 一ッ）
とあります。
人間である限り、物事に対して多少の疑いを持つのは、ある意味当然のことかも知れません。ましてや目に見えない神様の言うこと、なすこととなると、初めからすべてを信じるのはとても難しいことです。
しかし、人間には本来生きるべき正しい道があります。その教えが、人類の親である親神様の教えです。教えに沿った生き方をして、正しい道をひたすらに歩んでいけば、何も問題は起きません。しかし、「誰も見ていないから、行ってしまえ」と止まるべき所で止まらなかったり、「こっちの方向であっているだろう」と、曖昧な判断で間違った方向へ行ってしまったり。それらも全ては疑う心から来ています。
神様のお言葉をひもとくと、「神の言葉に嘘はない」という意味のお言葉が散見されます。
そのものズバリ、
「神は嘘は言わん」（Ｍ37・12・14）
また、
「これからという、これから嘘は一つも無い、という事思案せ。嘘というは何も旨い事はあろまい。真実というは、真実見えて来る。嘘と思うたら嘘になる。誠思えば誠出て来る。…神の道に嘘は無い。嘘に旨いものは無い。勇んでくる。嘘やない。結構台である」（Ｍ33・9・9）
さらには、
　　このよふをはじめた神のゆう事に　　せんに一つもちがう事なし（一 21）
と、「おふでさき」に記されています。
これらのお言葉は、いわば人々の心が疑い深い証拠とも言えます。人間が疑う心を持つこと、神様の思いに背を向けてしまうことは、陽気ぐらしを妨げる大きな要因の一つです。
人間は神様のもとに、皆お互いにきょうだいであるという自覚を持つことが大切で、この気持ちがないと、神様の教えはもとより、人間同士でさえいつまでも疑い合わねばならないことになってしまうのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>年祭の旬に
埼玉県在住　　関根　健一

先日、家族で何気ない話をしていた折、ふと「そういえば、修養科を修了してもう一年になるね」と、昨年修養科へ行った次女のことが話題にのぼりました。
次女は思うところがあり、21歳の誕生日を前に自ら修養科を志願しました。教祖140年祭の三年千日活動の最中に、自分の意思で志願してくれたことは、父親としても教会長としても、実に嬉しい出来事でした。
思い返せば、私自身も21歳の誕生日を迎えてすぐ、修養科を志願しています。次女は私が30歳の時に生まれたので、私の修養科修了からちょうど30年という節目になります。私の修養科生活もまた、教祖110年祭の年祭活動期間中でした。
その10年前、教祖100年祭の折にはまだ小学生で、年祭の意味もよく分からずに過ごしていました。ですから私にとっては、110年祭が実質初めての年祭となり、修養科では同期の仲間たちと諭達を競うように暗記していたことを、今もよく覚えています。
私が修養科を志願する少し前のことです。近所に住む同級生の女性、Ａさんが白血病を発症したことを知りました。Ａさんとは小学校6年間と中学校一年間を同じクラスで過ごし、また彼女のお兄さんとお姉さんも、私の姉二人と同学年でした。そんなご縁で母親同士も親しくしており、私の母がＡさんのお母さんから連絡を受けたのです。
Ａさんは体調不良で受診した病院で白血病と診断され、どうしてよいか分からずにいたところ、職場の同僚から「神様にお願いしてもらおう」と誘われ、天理教の教会へ行ったとのことでした。その話を自分の母親に伝えると、「関根さんのうちも天理教だから、同じ天理教のお話を聞くなら相談してみたら？」と勧められ、私の母に連絡を下さったのです。
私は白血病のおたすけと聞き、自分に何が出来るのか戸惑いましたが、母と姉とともにすぐＡさんのお宅に伺い、お話を取り次がせて頂きました。併せておぢばがえりにもお誘いしましたが、すでに長期治療の計画が進んでいて、すぐにはお返事を頂けませんでした。
その後、数か月単位で入院と自宅療養を繰り返す生活が始まり、面会できる時期には、姉と私でおさづけの取り次ぎに通わせて頂きました。
そうした中、私が仕事の都合が折り合う時期に修養科へ行くことが決まり、Ａさんには「おぢばで病気全快をお願いさせてもらいます」と伝え、21歳になってすぐの11月から3か月、年越しの修養科生活が始まりました。
この時季に志願した理由は二つあります。一つは姉から、「あなたは周りに流されやすいから、若い人が多い春の時季は避けた方がいい」と言われたことでした。
もちろん、若い人すべてが怠けるわけではありません。しかし、様々な事情でおぢばに引き寄せられた者同士、年齢や境遇の近い人たちが集まると、どうしても「少しぐらいいいよね」という空気が生まれ、その結果、怠けてしまう傾向があるのです。
そしてもう一つは、尊敬するB先生が、11月・12月に、詰所で修養科生を指導する教養掛に当たっていたことでした。
冬の時季の修養科は志願者が少ないと聞いていましたが、実際に行ってみると、この時季としては珍しく、大教会では10名を超える志願者があり、しかもその半数が21歳の私よりも若いという異例の構成でした。さらに、修養科全体でも、この期は異例と言われるほど若い人が多いことを、修養科が始まってから知りました。
周囲の空気に流されやすいと自認していた私にとって、この状況は、修養科中も気を引き締めて通るようにとの親神様のお計らいだと受け取ることにしました。
ところが、その心構えが裏目に出たのでしょうか。良かれと思って取った行動が蛇足となり、B先生から、他人のためにと思ってしたことが、かえって迷惑になる場合もあるのだとお諭しを頂きました。
また、私がＡさんのおたすけに通っていることをご存知だったＢ先生は、私の行いを教訓にしながら、「難病の方のおたすけ」をさせて頂く責任について、ご自身の経験を交えながら親身にお仕込み下さいました。そのあたたかい言葉に、私は涙を抑えることが出来ませんでした。
それを機に、心新たに修養科生活を送ってしばらく経った、ある日のことです。その日は朝の神殿掃除ひのきしんに当たっており、身支度を整えて詰所の玄関へ向かうと、ちょうど当時所属していた上級教会の団参の一行が、夜行バスで明け方に到着したところでした。
その中に、姉に連れられてバスから降り立つＡさんとお母さんの姿がありました。修養科生活に励む私を驚かせようと、姉が内緒で誘ってくれていたのです。
ひのきしんの時間も迫っていたため、その場では挨拶もそこそこに神殿へ向かいましたが、集合時間までのわずかな間、神殿の隅で涙を流しながら親神様にお礼申し上げたことを、今も鮮明に覚えています。
この団参で初席を運んだAさんは、その後、難しい病状の中でしたが、治療が順調に進み、寛解のご守護を頂きました。そして、それを機に女子青年の活動にも率先して参加してくれるようになりました。
やがて姉が結婚して他系統の教会の所属となり、その翌年には私も結婚しました。以後は、妻が一緒にＡさん家族のおたすけに通ってくれるようになりました。
その間もＡさんは別席を運び続け、私が教会長を拝命する前年、晴れてようぼくとなり、私の就任奉告祭では、おつとめはもちろん賛者まで務めて下さいました。
家庭の事情もあり、今は頻繁に参拝出来なくなりましたが、毎月の月次祭後には欠かさずお下がりを届けにAさんのお宅を訪ねています。最近ではお母さんの介護が始まったこともあり、介護施設で働く妻が相談を受けることも増えてきました。
私にとって初めての年祭活動だった30年前に与えて頂いたこのおたすけのご縁は、振り返るほどに、Aさんを通して私自身が成長の場を与えられてきたのだと実感させられます。
現在は女性同士ということもあり、Aさんについては妻に任せることが多くなりました。これからも、教会でおつとめを通してお願いさせて頂くことが会長の務めであると肝に銘じ、共におたすけに勤しんでくれている妻に感謝しつつ、Aさん家族の幸せを願い続けていきたいと思います。



疑う心

朝夕に唱えるおつとめの地歌である「みかぐらうた」に、
　　ひとのこゝろといふものハ　　うたがひぶかいものなるぞ（六下り目 一ッ）
とあります。
人間である限り、物事に対して多少の疑いを持つのは、ある意味当然のことかも知れません。ましてや目に見えない神様の言うこと、なすこととなると、初めからすべてを信じるのはとても難しいことです。
しかし、人間には本来生きるべき正しい道があります。その教えが、人類の親である親神様の教えです。教えに沿った生き方をして、正しい道をひたすらに歩んでいけば、何も問題は起きません。しかし、「誰も見ていないから、行ってしまえ」と止まるべき所で止まらなかったり、「こっちの方向であっているだろう」と、曖昧な判断で間違った方向へ行ってしまったり。それらも全ては疑う心から来ています。
神様のお言葉をひもとくと、「神の言葉に嘘はない」という意味のお言葉が散見されます。
そのものズバリ、
「神は嘘は言わん」（Ｍ37・12・14）
また、
「これからという、これから嘘は一つも無い、という事思案せ。嘘というは何も旨い事はあろまい。真実というは、真実見えて来る。嘘と思うたら嘘になる。誠思えば誠出て来る。…神の道に嘘は無い。嘘に旨いものは無い。勇んでくる。嘘やない。結構台である」（Ｍ33・9・9）
さらには、
　　このよふをはじめた神のゆう事に　　せんに一つもちがう事なし（一 21）
と、「おふでさき」に記されています。
これらのお言葉は、いわば人々の心が疑い深い証拠とも言えます。人間が疑う心を持つこと、神様の思いに背を向けてしまうことは、陽気ぐらしを妨げる大きな要因の一つです。
人間は神様のもとに、皆お互いにきょうだいであるという自覚を持つことが大切で、この気持ちがないと、神様の教えはもとより、人間同士でさえいつまでも疑い合わねばならないことになってしまうのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>年祭の旬に
埼玉県在住　　関根　健一

先日、家族で何気ない話をしていた折、ふと「そういえば、修養科を修了してもう一年になるね」と、昨年修養科へ行った次女のことが話題にのぼりました。
次女は思うところがあり、21歳の誕生日を前に自ら修養科を志願しました。教祖140年祭の三年千日活動の最中に、自分の意思で志願してくれたことは、父親としても教会長としても、実に嬉しい出来事でした。
思い返せば、私自身も21歳の誕生日を迎えてすぐ、修養科を志願しています。次女は私が30歳の時に生まれたので、私の修養科修了からちょうど30年という節目になります。私の修養科生活もまた、教祖110年祭の年祭活動期間中でした。
その10年前、教祖100年祭の折にはまだ小学生で、年祭の意味もよく分からずに過ごしていました。ですから私にとっては、110年祭が実質初めての年祭となり、修養科では同期の仲間たちと諭達を競うように暗記していたことを、今もよく覚えています。
私が修養科を志願する少し前のことです。近所に住む同級生の女性、Ａさんが白血病を発症したことを知りました。Ａさんとは小学校6年間と中学校一年間を同じクラスで過ごし、また彼女のお兄さんとお姉さんも、私の姉二人と同学年でした。そんなご縁で母親同士も親しくしており、私の母がＡさんのお母さんから連絡を受けたのです。
Ａさんは体調不良で受診した病院で白血病と診断され、どうしてよいか分からずにいたところ、職場の同僚から「神様にお願いしてもらおう」と誘われ、天理教の教会へ行ったとのことでした。その話を自分の母親に伝えると、「関根さんのうちも天理教だから、同じ天理教のお話を聞くなら相談してみたら？」と勧められ、私の母に連絡を下さったのです。
私は白血病のおたすけと聞き、自分に何が出来るのか戸惑いましたが、母と姉とともにすぐＡさんのお宅に伺い、お話を取り次がせて頂きました。併せておぢばがえりにもお誘いしましたが、すでに長期治療の計画が進んでいて、すぐにはお返事を頂けませんでした。
その後、数か月単位で入院と自宅療養を繰り返す生活が始まり、面会できる時期には、姉と私でおさづけの取り次ぎに通わせて頂きました。
そうした中、私が仕事の都合が折り合う時期に修養科へ行くことが決まり、Ａさんには「おぢばで病気全快をお願いさせてもらいます」と伝え、21歳になってすぐの11月から3か月、年越しの修養科生活が始まりました。
この時季に志願した理由は二つあります。一つは姉から、「あなたは周りに流されやすいから、若い人が多い春の時季は避けた方がいい」と言われたことでした。
もちろん、若い人すべてが怠けるわけではありません。しかし、様々な事情でおぢばに引き寄せられた者同士、年齢や境遇の近い人たちが集まると、どうしても「少しぐらいいいよね」という空気が生まれ、その結果、怠けてしまう傾向があるのです。
そしてもう一つは、尊敬するB先生が、11月・12月に、詰所で修養科生を指導する教養掛に当たっていたことでした。
冬の時季の修養科は志願者が少ないと聞いていましたが、実際に行ってみると、この時季としては珍しく、大教会では10名を超える志願者があり、しかもその半数が21歳の私よりも若いという異例の構成でした。さらに、修養科全体でも、この期は異例と言われるほど若い人が多いことを、修養科が始まってから知りました。
周囲の空気に流されやすいと自認していた私にとって、この状況は、修養科中も気を引き締めて通るようにとの親神様のお計らいだと受け取ることにしました。
ところが、その心構えが裏目に出たのでしょうか。良かれと思って取った行動が蛇足となり、B先生から、他人のためにと思ってしたことが、かえって迷惑になる場合もあるのだとお諭しを頂きました。
また、私がＡさんのおたすけに通っていることをご存知だったＢ先生は、私の行いを教訓にしながら、「難病の方のおたすけ」をさせて頂く責任について、ご自身の経験を交えながら親身にお仕込み下さいました。そのあたたかい言葉に、私は涙を抑えることが出来ませんでした。
それを機に、心新たに修養科生活を送ってしばらく経った、ある日のことです。その日は朝の神殿掃除ひのきしんに当たっており、身支度を整えて詰所の玄関へ向かうと、ちょうど当時所属していた上級教会の団参の一行が、夜行バスで明け方に到着したところでした。
その中に、姉に連れられてバスから降り立つＡさんとお母さんの姿がありました。修養科生活に励む私を驚かせようと、姉が内緒で誘ってくれていたのです。
ひのきしんの時間も迫っていたため、その場では挨拶もそこそこに神殿へ向かいましたが、集合時間までのわずかな間、神殿の隅で涙を流しながら親神様にお礼申し上げたことを、今も鮮明に覚えています。
この団参で初席を運んだAさんは、その後、難しい病状の中でしたが、治療が順調に進み、寛解のご守護を頂きました。そして、それを機に女子青年の活動にも率先して参加してくれるようになりました。
やがて姉が結婚して他系統の教会の所属となり、その翌年には私も結婚しました。以後は、妻が一緒にＡさん家族のおたすけに通ってくれるようになりました。
その間もＡさんは別席を運び続け、私が教会長を拝命する前年、晴れてようぼくとなり、私の就任奉告祭では、おつとめはもちろん賛者まで務めて下さいました。
家庭の事情もあり、今は頻繁に参拝出来なくなりましたが、毎月の月次祭後には欠かさずお下がりを届けにAさんのお宅を訪ねています。最近ではお母さんの介護が始まったこともあり、介護施設で働く妻が相談を受けることも増えてきました。
私にとって初めての年祭活動だった30年前に与えて頂いたこのおたすけのご縁は、振り返るほどに、Aさんを通して私自身が成長の場を与えられてきたのだと実感させられます。
現在は女性同士ということもあり、Aさんについては妻に任せることが多くなりました。これからも、教会でおつとめを通してお願いさせて頂くことが会長の務めであると肝に銘じ、共におたすけに勤しんでくれている妻に感謝しつつ、Aさん家族の幸せを願い続けていきたいと思います。



疑う心

朝夕に唱えるおつとめの地歌である「みかぐらうた」に、
　　ひとのこゝろといふものハ　　うたがひぶかいものなるぞ（六下り目 一ッ）
とあります。
人間である限り、物事に対して多少の疑いを持つのは、ある意味当然のことかも知れません。ましてや目に見えない神様の言うこと、なすこととなると、初めからすべてを信じるのはとても難しいことです。
しかし、人間には本来生きるべき正しい道があります。その教えが、人類の親である親神様の教えです。教えに沿った生き方をして、正しい道をひたすらに歩んでいけば、何も問題は起きません。しかし、「誰も見ていないから、行ってしまえ」と止まるべき所で止まらなかったり、「こっちの方向であっているだろう」と、曖昧な判断で間違った方向へ行ってしまったり。それらも全ては疑う心から来ています。
神様のお言葉をひもとくと、「神の言葉に嘘はない」という意味のお言葉が散見されます。
そのものズバリ、
「神は嘘は言わん」（Ｍ37・12・14）
また、
「これからという、これから嘘は一つも無い、という事思案せ。嘘というは何も旨い事はあろまい。真実というは、真実見えて来る。嘘と思うたら嘘になる。誠思えば誠出て来る。…神の道に嘘は無い。嘘に旨いものは無い。勇んでくる。嘘やない。結構台である」（Ｍ33・9・9）
さらには、
　　このよふをはじめた神のゆう事に　　せんに一つもちがう事なし（一 21）
と、「おふでさき」に記されています。
これらのお言葉は、いわば人々の心が疑い深い証拠とも言えます。人間が疑う心を持つこと、神様の思いに背を向けてしまうことは、陽気ぐらしを妨げる大きな要因の一つです。
人間は神様のもとに、皆お互いにきょうだいであるという自覚を持つことが大切で、この気持ちがないと、神様の教えはもとより、人間同士でさえいつまでも疑い合わねばならないことになってしまうのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 27 Mar 2026 09:23:52 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>縁に揺さぶられて</title>
        <description><![CDATA[縁に揺さぶられて
千葉県在住　　中臺　眞治

妻と出会って10年。結婚してからは9年が経ちました。「あばたもえくぼ」とはよく言ったもので、お互い出会った頃は足りない部分さえも魅力的に感じたものですが、結婚してからはケンカの絶えない時期もありました。
私は妻の気持ちを察するのが苦手なので、「分かり合えない夫よ、おやすみ」と茶化され、私も苦し紛れに「分かり合えない妻よ、おやすみ」と返していた時もあります。仲が良かったり悪かったり、未だに色んな時期がありますが、それでも一緒に生きてきた10年という歳月が、少しずつ私たちをたすけ合って生きられる夫婦に近づけてくれているように感じます。
妻は信仰熱心な信者家庭で生まれ育ちました。そして、大学を卒業後は保育士として勤めていましたが、32歳の時、私と結婚し、当教会に嫁いできてくれました。それまでとは大きく異なる環境に、戸惑うことも多かったと思います。
当教会には、結婚当初から身寄りのない高齢の方々が一緒に暮らしていました。また、その後も様々な事情で人生に行き詰まった方々を教会で受け入れています。そうした暮らしは、妻からすれば望んでいたような生き方ではなかっただろうと思います。しかし、そういう生き方しか出来ない私を妻は理解し、尊重してくれているのだと、有り難く感じています。
結婚して数年が経った頃、妻に「教会に来て一番しんどかったことは何だった？」と、何気なく尋ねたことがありました。私はてっきり、経済的なことに一番苦労を感じているのかなと勝手に考えていたのですが、意外な答えが返ってきました。
妻は、「教会の奥さんだからこうあらねばと考えてしまっていた時期や、どうして思うようにたすけ心が湧いてこないのだろう？と考えてしまう時期が一番苦しかった」と話してくれました。
誤解のないようにお伝えすると、妻は元々情に厚く、決して冷たい人ではありません。教会での生活に真剣に向き合ってくれていたからこそ、悩んでいたのだと思います。また、多くの困難を抱えている方々と一緒に暮らし、その生きづらさに触れれば触れるほど、自分の心が思うように動かないことに戸惑い、苦しんでいたのだと思います。
どうしたら、心の底から人にたすかって頂きたいと願える心になれるのか。その問いに私は答えを持っていません。私自身も相手のたすかりを願える時もあれば、「これ以上は無理」と限界を感じて願えなくなる時もあります。
未熟さという意味では、私も妻も何ら変わらないのです。ですが、たとえ心が伴わなくても、相手との関係を保ち続けることが大切ではないかと感じていたので、その思いを妻に伝えたこともありました。
この出来事から数年が経ったある日、部屋に戻ると、そこには泣いている妻がいました。私は戸惑い、「どうしたの？」と尋ねると、「神様、親心いっぱいだなと思って」と。それまで妻は、神様の親心を実感したことがないと話していたので、「どういうこと？」とさらに尋ねました。
妻はその日、ボーっとしながら、これまで教会で一緒に暮らしてきた人たちのことを思い返していたのです。
「最初に来たのがAさんだから良かったんだな。最初がBさんだったら、そこで私の心は折れていただろうな」 「Cさんがいた時にDさんがいてくれたから、Cさんの心は救われたんだろうな」
そうした点と点が線としてつながって、「ちょうどいい時に、ちょうどいい人と出会えるように神様が縁をつないで下さっていたんだな」と感じ、その親心が胸に迫り涙が流れてきたとのことでした。
私は時々、自分の生き方が妻の人生を犠牲にしているのではないだろうかと、悩んでしまうことがあります。ですが、この出来事以降、妻が「教会って面白いね」と時々言ってくれるようになり、私にとって大きな救いになっています。
そんな妻は、数年前から教会で「こども食堂」を実施するようになりました。妻は楽しいことを考えるのが得意なので、様々なイベントを交えながら実施しているのですが、そこでも多くの出会いがあり、今では夫婦の生きがいの一つになっています。
結婚当初は、お互い「この人とは合わない」と感じることもありましたが、時を経て振り返ってみると、妻との縁もまた神様のあたたかいご守護であったのだと感じます。
夫婦であっても心はそれぞれに違い、望む生き方も違います。だからこそ、「相手は自分との人生に納得して生きられているだろうか」と自らに問い続け、その問いに少しずつでも「イエス」と答えられる歩みを重ねていくことが、大切ではないでしょうか。
そして、その問いを夫婦に限らず、出会う人、一人々々を通して、自分自身に問い続けていきたいと思っています。



何でもない者や

通常、一つの教えの始まりには、その出現が待望されている預言者の存在や、長年の苦行と瞑想の末に悟りを開く者、あるいは海を渡って勉学に励み、その秘伝を持ち帰るといった開祖の存在があります。しかし、天理教の教祖・中山みき様「おやさま」の場合、立教以前にそういった特別な経験をされたわけではなく、そこにこの教えの特色があるのです。
次のようなお言葉があります。

「こゝに一つの処、天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。元五十年前より始まった。元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ。」（Ｍ21・1・8）

このお言葉によって、教祖の社会的なお立場が明確に示されています。「何処其処で誰それという者でない」とあるように、決して世間に名の知れた者ではなく、いち農家の主婦でありました。また「何にも知らん女一人」とあり、特別な学問を修めたり、宗教に関する専門の研究をされたわけでもありません。九歳から十一歳まで寺子屋に通われたのが唯一の学歴のようなもので、「何習うたやなし」とあるのは、そのことを指しています。
全く世間の評価からすれば、「何でもない者」であったのです。その教祖が、親神様が人間を創造された時、母親の役割を担った特別な魂を持ついんねんによって、「月日のやしろ」となられたのであり、まさに親神様のお心そのままに、教えを述べ伝え、陽気ぐらしへのお手本となる「ひながたの道」をお通り下されたのです。
これは何も、教祖のお立場を示されているばかりでなく、信仰する者一人ひとりにとっても心に治めるべきお言葉です。教祖の手足となって、陽気ぐらし世界実現に向けて人だすけの御用に働く者を「ようぼく」と呼びますが、このようぼく個々人にしても、大概は「ほん何でもない会社員」や「ほん何でもない主婦」であり、高い社会的地位や学歴を持つ者ばかりではありません。それを理由に自らを卑下したり、だから大した御用はできないなどと考える必要はまったくないのです。
親神様は、この私をようぼくとして引き寄せて下さったのだから、その思いに応えるべく精一杯つとめよう。その心意気が、親の思いに応える道なのです。「ほん何でもない者」の真実の働きを、親神様は待ち望んでおられます。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>縁に揺さぶられて
千葉県在住　　中臺　眞治

妻と出会って10年。結婚してからは9年が経ちました。「あばたもえくぼ」とはよく言ったもので、お互い出会った頃は足りない部分さえも魅力的に感じたものですが、結婚してからはケンカの絶えない時期もありました。
私は妻の気持ちを察するのが苦手なので、「分かり合えない夫よ、おやすみ」と茶化され、私も苦し紛れに「分かり合えない妻よ、おやすみ」と返していた時もあります。仲が良かったり悪かったり、未だに色んな時期がありますが、それでも一緒に生きてきた10年という歳月が、少しずつ私たちをたすけ合って生きられる夫婦に近づけてくれているように感じます。
妻は信仰熱心な信者家庭で生まれ育ちました。そして、大学を卒業後は保育士として勤めていましたが、32歳の時、私と結婚し、当教会に嫁いできてくれました。それまでとは大きく異なる環境に、戸惑うことも多かったと思います。
当教会には、結婚当初から身寄りのない高齢の方々が一緒に暮らしていました。また、その後も様々な事情で人生に行き詰まった方々を教会で受け入れています。そうした暮らしは、妻からすれば望んでいたような生き方ではなかっただろうと思います。しかし、そういう生き方しか出来ない私を妻は理解し、尊重してくれているのだと、有り難く感じています。
結婚して数年が経った頃、妻に「教会に来て一番しんどかったことは何だった？」と、何気なく尋ねたことがありました。私はてっきり、経済的なことに一番苦労を感じているのかなと勝手に考えていたのですが、意外な答えが返ってきました。
妻は、「教会の奥さんだからこうあらねばと考えてしまっていた時期や、どうして思うようにたすけ心が湧いてこないのだろう？と考えてしまう時期が一番苦しかった」と話してくれました。
誤解のないようにお伝えすると、妻は元々情に厚く、決して冷たい人ではありません。教会での生活に真剣に向き合ってくれていたからこそ、悩んでいたのだと思います。また、多くの困難を抱えている方々と一緒に暮らし、その生きづらさに触れれば触れるほど、自分の心が思うように動かないことに戸惑い、苦しんでいたのだと思います。
どうしたら、心の底から人にたすかって頂きたいと願える心になれるのか。その問いに私は答えを持っていません。私自身も相手のたすかりを願える時もあれば、「これ以上は無理」と限界を感じて願えなくなる時もあります。
未熟さという意味では、私も妻も何ら変わらないのです。ですが、たとえ心が伴わなくても、相手との関係を保ち続けることが大切ではないかと感じていたので、その思いを妻に伝えたこともありました。
この出来事から数年が経ったある日、部屋に戻ると、そこには泣いている妻がいました。私は戸惑い、「どうしたの？」と尋ねると、「神様、親心いっぱいだなと思って」と。それまで妻は、神様の親心を実感したことがないと話していたので、「どういうこと？」とさらに尋ねました。
妻はその日、ボーっとしながら、これまで教会で一緒に暮らしてきた人たちのことを思い返していたのです。
「最初に来たのがAさんだから良かったんだな。最初がBさんだったら、そこで私の心は折れていただろうな」 「Cさんがいた時にDさんがいてくれたから、Cさんの心は救われたんだろうな」
そうした点と点が線としてつながって、「ちょうどいい時に、ちょうどいい人と出会えるように神様が縁をつないで下さっていたんだな」と感じ、その親心が胸に迫り涙が流れてきたとのことでした。
私は時々、自分の生き方が妻の人生を犠牲にしているのではないだろうかと、悩んでしまうことがあります。ですが、この出来事以降、妻が「教会って面白いね」と時々言ってくれるようになり、私にとって大きな救いになっています。
そんな妻は、数年前から教会で「こども食堂」を実施するようになりました。妻は楽しいことを考えるのが得意なので、様々なイベントを交えながら実施しているのですが、そこでも多くの出会いがあり、今では夫婦の生きがいの一つになっています。
結婚当初は、お互い「この人とは合わない」と感じることもありましたが、時を経て振り返ってみると、妻との縁もまた神様のあたたかいご守護であったのだと感じます。
夫婦であっても心はそれぞれに違い、望む生き方も違います。だからこそ、「相手は自分との人生に納得して生きられているだろうか」と自らに問い続け、その問いに少しずつでも「イエス」と答えられる歩みを重ねていくことが、大切ではないでしょうか。
そして、その問いを夫婦に限らず、出会う人、一人々々を通して、自分自身に問い続けていきたいと思っています。



何でもない者や

通常、一つの教えの始まりには、その出現が待望されている預言者の存在や、長年の苦行と瞑想の末に悟りを開く者、あるいは海を渡って勉学に励み、その秘伝を持ち帰るといった開祖の存在があります。しかし、天理教の教祖・中山みき様「おやさま」の場合、立教以前にそういった特別な経験をされたわけではなく、そこにこの教えの特色があるのです。
次のようなお言葉があります。

「こゝに一つの処、天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。元五十年前より始まった。元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ。」（Ｍ21・1・8）

このお言葉によって、教祖の社会的なお立場が明確に示されています。「何処其処で誰それという者でない」とあるように、決して世間に名の知れた者ではなく、いち農家の主婦でありました。また「何にも知らん女一人」とあり、特別な学問を修めたり、宗教に関する専門の研究をされたわけでもありません。九歳から十一歳まで寺子屋に通われたのが唯一の学歴のようなもので、「何習うたやなし」とあるのは、そのことを指しています。
全く世間の評価からすれば、「何でもない者」であったのです。その教祖が、親神様が人間を創造された時、母親の役割を担った特別な魂を持ついんねんによって、「月日のやしろ」となられたのであり、まさに親神様のお心そのままに、教えを述べ伝え、陽気ぐらしへのお手本となる「ひながたの道」をお通り下されたのです。
これは何も、教祖のお立場を示されているばかりでなく、信仰する者一人ひとりにとっても心に治めるべきお言葉です。教祖の手足となって、陽気ぐらし世界実現に向けて人だすけの御用に働く者を「ようぼく」と呼びますが、このようぼく個々人にしても、大概は「ほん何でもない会社員」や「ほん何でもない主婦」であり、高い社会的地位や学歴を持つ者ばかりではありません。それを理由に自らを卑下したり、だから大した御用はできないなどと考える必要はまったくないのです。
親神様は、この私をようぼくとして引き寄せて下さったのだから、その思いに応えるべく精一杯つとめよう。その心意気が、親の思いに応える道なのです。「ほん何でもない者」の真実の働きを、親神様は待ち望んでおられます。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>縁に揺さぶられて
千葉県在住　　中臺　眞治

妻と出会って10年。結婚してからは9年が経ちました。「あばたもえくぼ」とはよく言ったもので、お互い出会った頃は足りない部分さえも魅力的に感じたものですが、結婚してからはケンカの絶えない時期もありました。
私は妻の気持ちを察するのが苦手なので、「分かり合えない夫よ、おやすみ」と茶化され、私も苦し紛れに「分かり合えない妻よ、おやすみ」と返していた時もあります。仲が良かったり悪かったり、未だに色んな時期がありますが、それでも一緒に生きてきた10年という歳月が、少しずつ私たちをたすけ合って生きられる夫婦に近づけてくれているように感じます。
妻は信仰熱心な信者家庭で生まれ育ちました。そして、大学を卒業後は保育士として勤めていましたが、32歳の時、私と結婚し、当教会に嫁いできてくれました。それまでとは大きく異なる環境に、戸惑うことも多かったと思います。
当教会には、結婚当初から身寄りのない高齢の方々が一緒に暮らしていました。また、その後も様々な事情で人生に行き詰まった方々を教会で受け入れています。そうした暮らしは、妻からすれば望んでいたような生き方ではなかっただろうと思います。しかし、そういう生き方しか出来ない私を妻は理解し、尊重してくれているのだと、有り難く感じています。
結婚して数年が経った頃、妻に「教会に来て一番しんどかったことは何だった？」と、何気なく尋ねたことがありました。私はてっきり、経済的なことに一番苦労を感じているのかなと勝手に考えていたのですが、意外な答えが返ってきました。
妻は、「教会の奥さんだからこうあらねばと考えてしまっていた時期や、どうして思うようにたすけ心が湧いてこないのだろう？と考えてしまう時期が一番苦しかった」と話してくれました。
誤解のないようにお伝えすると、妻は元々情に厚く、決して冷たい人ではありません。教会での生活に真剣に向き合ってくれていたからこそ、悩んでいたのだと思います。また、多くの困難を抱えている方々と一緒に暮らし、その生きづらさに触れれば触れるほど、自分の心が思うように動かないことに戸惑い、苦しんでいたのだと思います。
どうしたら、心の底から人にたすかって頂きたいと願える心になれるのか。その問いに私は答えを持っていません。私自身も相手のたすかりを願える時もあれば、「これ以上は無理」と限界を感じて願えなくなる時もあります。
未熟さという意味では、私も妻も何ら変わらないのです。ですが、たとえ心が伴わなくても、相手との関係を保ち続けることが大切ではないかと感じていたので、その思いを妻に伝えたこともありました。
この出来事から数年が経ったある日、部屋に戻ると、そこには泣いている妻がいました。私は戸惑い、「どうしたの？」と尋ねると、「神様、親心いっぱいだなと思って」と。それまで妻は、神様の親心を実感したことがないと話していたので、「どういうこと？」とさらに尋ねました。
妻はその日、ボーっとしながら、これまで教会で一緒に暮らしてきた人たちのことを思い返していたのです。
「最初に来たのがAさんだから良かったんだな。最初がBさんだったら、そこで私の心は折れていただろうな」 「Cさんがいた時にDさんがいてくれたから、Cさんの心は救われたんだろうな」
そうした点と点が線としてつながって、「ちょうどいい時に、ちょうどいい人と出会えるように神様が縁をつないで下さっていたんだな」と感じ、その親心が胸に迫り涙が流れてきたとのことでした。
私は時々、自分の生き方が妻の人生を犠牲にしているのではないだろうかと、悩んでしまうことがあります。ですが、この出来事以降、妻が「教会って面白いね」と時々言ってくれるようになり、私にとって大きな救いになっています。
そんな妻は、数年前から教会で「こども食堂」を実施するようになりました。妻は楽しいことを考えるのが得意なので、様々なイベントを交えながら実施しているのですが、そこでも多くの出会いがあり、今では夫婦の生きがいの一つになっています。
結婚当初は、お互い「この人とは合わない」と感じることもありましたが、時を経て振り返ってみると、妻との縁もまた神様のあたたかいご守護であったのだと感じます。
夫婦であっても心はそれぞれに違い、望む生き方も違います。だからこそ、「相手は自分との人生に納得して生きられているだろうか」と自らに問い続け、その問いに少しずつでも「イエス」と答えられる歩みを重ねていくことが、大切ではないでしょうか。
そして、その問いを夫婦に限らず、出会う人、一人々々を通して、自分自身に問い続けていきたいと思っています。



何でもない者や

通常、一つの教えの始まりには、その出現が待望されている預言者の存在や、長年の苦行と瞑想の末に悟りを開く者、あるいは海を渡って勉学に励み、その秘伝を持ち帰るといった開祖の存在があります。しかし、天理教の教祖・中山みき様「おやさま」の場合、立教以前にそういった特別な経験をされたわけではなく、そこにこの教えの特色があるのです。
次のようなお言葉があります。

「こゝに一つの処、天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。元五十年前より始まった。元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ。」（Ｍ21・1・8）

このお言葉によって、教祖の社会的なお立場が明確に示されています。「何処其処で誰それという者でない」とあるように、決して世間に名の知れた者ではなく、いち農家の主婦でありました。また「何にも知らん女一人」とあり、特別な学問を修めたり、宗教に関する専門の研究をされたわけでもありません。九歳から十一歳まで寺子屋に通われたのが唯一の学歴のようなもので、「何習うたやなし」とあるのは、そのことを指しています。
全く世間の評価からすれば、「何でもない者」であったのです。その教祖が、親神様が人間を創造された時、母親の役割を担った特別な魂を持ついんねんによって、「月日のやしろ」となられたのであり、まさに親神様のお心そのままに、教えを述べ伝え、陽気ぐらしへのお手本となる「ひながたの道」をお通り下されたのです。
これは何も、教祖のお立場を示されているばかりでなく、信仰する者一人ひとりにとっても心に治めるべきお言葉です。教祖の手足となって、陽気ぐらし世界実現に向けて人だすけの御用に働く者を「ようぼく」と呼びますが、このようぼく個々人にしても、大概は「ほん何でもない会社員」や「ほん何でもない主婦」であり、高い社会的地位や学歴を持つ者ばかりではありません。それを理由に自らを卑下したり、だから大した御用はできないなどと考える必要はまったくないのです。
親神様は、この私をようぼくとして引き寄せて下さったのだから、その思いに応えるべく精一杯つとめよう。その心意気が、親の思いに応える道なのです。「ほん何でもない者」の真実の働きを、親神様は待ち望んでおられます。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 20 Mar 2026 09:00:01 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>慎みの心</title>
        <description><![CDATA[慎みの心
大阪府在住　　山本　達則

神様のお言葉に、
「知らず／＼の道、分からず／＼の道、みす／＼の道ある。これ三つ出掛けたらどうもならん。（中略）暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん」（M24.7.24）
というお言葉があります。
自分が知らないうちに誰かを傷つけていたり、嫌な思いをさせてしまったり。教えられたことの意味が分からずに間違ってしまうことや、分かっているのにみすみす間違った行動をしてしまうことも…。これらは、私たちの日常で少なからず起きてしまうことです。
以前、電車に乗った時の話です。私が乗り込んだ時、車内には空席が沢山ありましたが、私は座席に座ることなく立っていました。次の駅に着くと沢山の方が乗り込んできて、たちまち満席になりましたが、そこに後から高齢の女性が乗って来ました。すると座っていた一人の女性がすかさず席を立ち、その高齢の女性に席を譲りました。
高齢の女性は恐縮しながらも席に着き、譲った方の女性も何事もなかったようにドア付近に立ちました。その時、私のすぐ近くにいた若い男性も、同じように高齢の女性に気がつき、腰を浮かせましたが、女性が席を立つ方が少し早かったので、男性はそのまま席に着きました。また、同じくそばに座っていたサラリーマン風の男性は、同じように高齢の女性に気づいていながら、携帯に夢中で気がつかないふりをしているように見えました。
この場面、最初に席を譲った女性に関しては、素晴らしい人だすけの行動であることに疑いの余地はありません。しかし、もう少し広くこの場面を見てみると、席を譲ろうと腰を浮かせた男性にとっては、先を越されてしまった悔しい出来事だったかもしれません。
また、気づかないふりを決め込んだ男性の様子は、私には少し不機嫌なように見えました。本来は自分も席を譲るべきだと分かっていながら、気がつかない振りをしてしまった自分と、即座に譲ることが出来た女性との違いに自己嫌悪を感じていた、とは考えすぎでしょうか。
話は変わりますが、ある時、地域の方々と街のゴミ拾いをさせて頂いた事がありました。普段歩いているだけでは気がつかないゴミが沢山あることに、改めて気づいた一方で、一緒にゴミ拾いをしている人たちの言動が気になりました。
「こんな所にポイポイとゴミを捨てる事が出来る人間は、ろくな人間やない」「誰が捨てているのか分かったら、家の前にまき散らしてやりたい」「こんなやつ、バチが当たったらええねん」などなど…。現に、駅の近くの歩道を、キョロキョロとゴミ箱を探しながら歩いている方が、結局見つからなかったのか、歩道の端っこに申し訳なさそうに、そっと空き缶を置いていく。そんな場面に遭遇したこともありました。
それにしても、街をきれいにするための行動をしながら、自分自身の心を憤懣で汚してしまっている、実に勿体ないことです。
自分ではそんなつもりが全く無いのにも関わらず、どこかで誰かに不満を抱かせてしまっている。先ほどの電車での場面がまさしくそうで、席を譲った女性は何一つ間違った事はしていません。そうした、むしろ賞賛に値するような行動でさえも、自分自身の知らない所で誰かが不満に思ってしまう事があるのです。
また、「こちらの選択が正しい」と分かっていながら、そうできないという事も多々あります。電車の中で、高齢の方に席を譲ったほうが自分自身も気持ちがスッキリすると分かっていながら、行動に移せないこともあるのです。さらには、ゴミ拾いの場面のように、折角良いことをしているにも関わらず、愚痴や不満によってみすみす心を濁してしまうこともあります。
私たち人間には、「心の自由」があります。しかしその自由は、目の前の現象に対してどう考え、どう行動するか、という所までで、その行動に対しての結果はまったく自由ではありません。
その結果を、喜べるような結果に近づかせるためには、「神様から見れば、私の行動はどこかが間違っているのかも知れない」「知らない間に誰かに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせているかも知れない」という慎みの心を持つことが大切だと思います。
その思いを持つことが出来なければ、日常の中で「なぜ？どうしてこんなことが起こるんだ？」という疑問を繰り返し、その原因を自分以外の何かに責任転嫁し続けることになりかねません。
まずは、最も身近な家庭の中でも、常に慎みの心を忘れることなく、私たちの日常を大きな視野で見て下さる神様の存在を感じながら過ごすこと。そして、目の前に起こる結果、その元は自分自身の行動にある事を忘れず、本当の「家族円満」に近づきたいと思います。



御存命の教祖

　　月日にハせかいぢううハみなわが子　　かハいいゝばいこれが一ちよ　（十七 16）


　　にんけんをはじめたしたるこのをやハ　　そんめゑでいるこれがまことや　（八 37）


可愛い我が子である世界中の人間に、陽気ぐらしをさせてやりたい。これが親神様の親心です。そして、人間を創め出したその親は、教祖・中山みき様「おやさま」としてこの地上に現れてお出でになる。
教祖は、お姿こそ世の常の人々と異なる所はないものの、そのお心は、親神様のお心そのものです。その教祖の御教えを、全人類の「をや」なる親神様の御教えであると信じることから、天理教の信仰は始まります。
教祖は十三歳の時、三昧田村の前川家から庄屋敷村の中山家に嫁がれました。中山家は代々庄屋を務める裕福な農家で、教祖は村人をはじめ多くの近隣の人々から慕われていました。
誰から見ても模範的な主婦であった教祖でしたが、四十一歳の時、親神様が入り込まれ、「月日のやしろ」となられてからは、まだ小さいお子さんがいるにもかかわらず、内蔵に籠ることが多くなりました。そして、親神様の思召しのまにまに、中山家の蔵にある物を貧しい人々に施すようになり、その施しは次第に常識の範囲を超えて、家財や先祖伝来の土地、また母屋にまで及びました。
こうして食べる物にも事欠く状態が続き、家族と共に貧のどん底に落ち切っていかれたのです。それも全ては、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」との思いと、「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」との深い親心からでした。悩み苦しむ人々をたすけるがために、自ら厳しい道中をお通りになりながら、お屋敷に寄り来る人々を迎えられたのです。
身分の高い人であっても、施しを求める人や世間から相手にされないような人であっても、どんな人でも喜ばさずには帰されんとお迎え下さる。小さい子供にも大人にも、お手元にあるお菓子や果物などをニコニコとおあげになる。
何度もご苦労下さった監獄の中でも、前の道を通る菓子売りの姿を見かけるや、見張りをしている巡査に対してでさえ、退屈しているだろうと、お菓子を買い与えたいと仰る。教えに反対する者であろうが、自らを捕えに来た者であろうが、そんなことは教祖には一切関係がない。分け隔てのない、子を思う親のお心があるだけなのです。
教祖にたすけられ、導かれた人たちは、自然に「おやさま」と「おや」を付けてお呼びするようになったと言われています。全人類の本当の親がいるなら、教祖のようなお方に違いない。お姿は人間と何ら変わることのないお方であるが、教祖こそ、全人類の親である親神様の、この地上におけるお姿なのだと信じる人が次第に増えていったのです。
（終）
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        <googleplay:description>慎みの心
大阪府在住　　山本　達則

神様のお言葉に、
「知らず／＼の道、分からず／＼の道、みす／＼の道ある。これ三つ出掛けたらどうもならん。（中略）暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん」（M24.7.24）
というお言葉があります。
自分が知らないうちに誰かを傷つけていたり、嫌な思いをさせてしまったり。教えられたことの意味が分からずに間違ってしまうことや、分かっているのにみすみす間違った行動をしてしまうことも…。これらは、私たちの日常で少なからず起きてしまうことです。
以前、電車に乗った時の話です。私が乗り込んだ時、車内には空席が沢山ありましたが、私は座席に座ることなく立っていました。次の駅に着くと沢山の方が乗り込んできて、たちまち満席になりましたが、そこに後から高齢の女性が乗って来ました。すると座っていた一人の女性がすかさず席を立ち、その高齢の女性に席を譲りました。
高齢の女性は恐縮しながらも席に着き、譲った方の女性も何事もなかったようにドア付近に立ちました。その時、私のすぐ近くにいた若い男性も、同じように高齢の女性に気がつき、腰を浮かせましたが、女性が席を立つ方が少し早かったので、男性はそのまま席に着きました。また、同じくそばに座っていたサラリーマン風の男性は、同じように高齢の女性に気づいていながら、携帯に夢中で気がつかないふりをしているように見えました。
この場面、最初に席を譲った女性に関しては、素晴らしい人だすけの行動であることに疑いの余地はありません。しかし、もう少し広くこの場面を見てみると、席を譲ろうと腰を浮かせた男性にとっては、先を越されてしまった悔しい出来事だったかもしれません。
また、気づかないふりを決め込んだ男性の様子は、私には少し不機嫌なように見えました。本来は自分も席を譲るべきだと分かっていながら、気がつかない振りをしてしまった自分と、即座に譲ることが出来た女性との違いに自己嫌悪を感じていた、とは考えすぎでしょうか。
話は変わりますが、ある時、地域の方々と街のゴミ拾いをさせて頂いた事がありました。普段歩いているだけでは気がつかないゴミが沢山あることに、改めて気づいた一方で、一緒にゴミ拾いをしている人たちの言動が気になりました。
「こんな所にポイポイとゴミを捨てる事が出来る人間は、ろくな人間やない」「誰が捨てているのか分かったら、家の前にまき散らしてやりたい」「こんなやつ、バチが当たったらええねん」などなど…。現に、駅の近くの歩道を、キョロキョロとゴミ箱を探しながら歩いている方が、結局見つからなかったのか、歩道の端っこに申し訳なさそうに、そっと空き缶を置いていく。そんな場面に遭遇したこともありました。
それにしても、街をきれいにするための行動をしながら、自分自身の心を憤懣で汚してしまっている、実に勿体ないことです。
自分ではそんなつもりが全く無いのにも関わらず、どこかで誰かに不満を抱かせてしまっている。先ほどの電車での場面がまさしくそうで、席を譲った女性は何一つ間違った事はしていません。そうした、むしろ賞賛に値するような行動でさえも、自分自身の知らない所で誰かが不満に思ってしまう事があるのです。
また、「こちらの選択が正しい」と分かっていながら、そうできないという事も多々あります。電車の中で、高齢の方に席を譲ったほうが自分自身も気持ちがスッキリすると分かっていながら、行動に移せないこともあるのです。さらには、ゴミ拾いの場面のように、折角良いことをしているにも関わらず、愚痴や不満によってみすみす心を濁してしまうこともあります。
私たち人間には、「心の自由」があります。しかしその自由は、目の前の現象に対してどう考え、どう行動するか、という所までで、その行動に対しての結果はまったく自由ではありません。
その結果を、喜べるような結果に近づかせるためには、「神様から見れば、私の行動はどこかが間違っているのかも知れない」「知らない間に誰かに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせているかも知れない」という慎みの心を持つことが大切だと思います。
その思いを持つことが出来なければ、日常の中で「なぜ？どうしてこんなことが起こるんだ？」という疑問を繰り返し、その原因を自分以外の何かに責任転嫁し続けることになりかねません。
まずは、最も身近な家庭の中でも、常に慎みの心を忘れることなく、私たちの日常を大きな視野で見て下さる神様の存在を感じながら過ごすこと。そして、目の前に起こる結果、その元は自分自身の行動にある事を忘れず、本当の「家族円満」に近づきたいと思います。



御存命の教祖

　　月日にハせかいぢううハみなわが子　　かハいいゝばいこれが一ちよ　（十七 16）


　　にんけんをはじめたしたるこのをやハ　　そんめゑでいるこれがまことや　（八 37）


可愛い我が子である世界中の人間に、陽気ぐらしをさせてやりたい。これが親神様の親心です。そして、人間を創め出したその親は、教祖・中山みき様「おやさま」としてこの地上に現れてお出でになる。
教祖は、お姿こそ世の常の人々と異なる所はないものの、そのお心は、親神様のお心そのものです。その教祖の御教えを、全人類の「をや」なる親神様の御教えであると信じることから、天理教の信仰は始まります。
教祖は十三歳の時、三昧田村の前川家から庄屋敷村の中山家に嫁がれました。中山家は代々庄屋を務める裕福な農家で、教祖は村人をはじめ多くの近隣の人々から慕われていました。
誰から見ても模範的な主婦であった教祖でしたが、四十一歳の時、親神様が入り込まれ、「月日のやしろ」となられてからは、まだ小さいお子さんがいるにもかかわらず、内蔵に籠ることが多くなりました。そして、親神様の思召しのまにまに、中山家の蔵にある物を貧しい人々に施すようになり、その施しは次第に常識の範囲を超えて、家財や先祖伝来の土地、また母屋にまで及びました。
こうして食べる物にも事欠く状態が続き、家族と共に貧のどん底に落ち切っていかれたのです。それも全ては、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」との思いと、「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」との深い親心からでした。悩み苦しむ人々をたすけるがために、自ら厳しい道中をお通りになりながら、お屋敷に寄り来る人々を迎えられたのです。
身分の高い人であっても、施しを求める人や世間から相手にされないような人であっても、どんな人でも喜ばさずには帰されんとお迎え下さる。小さい子供にも大人にも、お手元にあるお菓子や果物などをニコニコとおあげになる。
何度もご苦労下さった監獄の中でも、前の道を通る菓子売りの姿を見かけるや、見張りをしている巡査に対してでさえ、退屈しているだろうと、お菓子を買い与えたいと仰る。教えに反対する者であろうが、自らを捕えに来た者であろうが、そんなことは教祖には一切関係がない。分け隔てのない、子を思う親のお心があるだけなのです。
教祖にたすけられ、導かれた人たちは、自然に「おやさま」と「おや」を付けてお呼びするようになったと言われています。全人類の本当の親がいるなら、教祖のようなお方に違いない。お姿は人間と何ら変わることのないお方であるが、教祖こそ、全人類の親である親神様の、この地上におけるお姿なのだと信じる人が次第に増えていったのです。
（終）
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        <itunes:summary>慎みの心
大阪府在住　　山本　達則

神様のお言葉に、
「知らず／＼の道、分からず／＼の道、みす／＼の道ある。これ三つ出掛けたらどうもならん。（中略）暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん」（M24.7.24）
というお言葉があります。
自分が知らないうちに誰かを傷つけていたり、嫌な思いをさせてしまったり。教えられたことの意味が分からずに間違ってしまうことや、分かっているのにみすみす間違った行動をしてしまうことも…。これらは、私たちの日常で少なからず起きてしまうことです。
以前、電車に乗った時の話です。私が乗り込んだ時、車内には空席が沢山ありましたが、私は座席に座ることなく立っていました。次の駅に着くと沢山の方が乗り込んできて、たちまち満席になりましたが、そこに後から高齢の女性が乗って来ました。すると座っていた一人の女性がすかさず席を立ち、その高齢の女性に席を譲りました。
高齢の女性は恐縮しながらも席に着き、譲った方の女性も何事もなかったようにドア付近に立ちました。その時、私のすぐ近くにいた若い男性も、同じように高齢の女性に気がつき、腰を浮かせましたが、女性が席を立つ方が少し早かったので、男性はそのまま席に着きました。また、同じくそばに座っていたサラリーマン風の男性は、同じように高齢の女性に気づいていながら、携帯に夢中で気がつかないふりをしているように見えました。
この場面、最初に席を譲った女性に関しては、素晴らしい人だすけの行動であることに疑いの余地はありません。しかし、もう少し広くこの場面を見てみると、席を譲ろうと腰を浮かせた男性にとっては、先を越されてしまった悔しい出来事だったかもしれません。
また、気づかないふりを決め込んだ男性の様子は、私には少し不機嫌なように見えました。本来は自分も席を譲るべきだと分かっていながら、気がつかない振りをしてしまった自分と、即座に譲ることが出来た女性との違いに自己嫌悪を感じていた、とは考えすぎでしょうか。
話は変わりますが、ある時、地域の方々と街のゴミ拾いをさせて頂いた事がありました。普段歩いているだけでは気がつかないゴミが沢山あることに、改めて気づいた一方で、一緒にゴミ拾いをしている人たちの言動が気になりました。
「こんな所にポイポイとゴミを捨てる事が出来る人間は、ろくな人間やない」「誰が捨てているのか分かったら、家の前にまき散らしてやりたい」「こんなやつ、バチが当たったらええねん」などなど…。現に、駅の近くの歩道を、キョロキョロとゴミ箱を探しながら歩いている方が、結局見つからなかったのか、歩道の端っこに申し訳なさそうに、そっと空き缶を置いていく。そんな場面に遭遇したこともありました。
それにしても、街をきれいにするための行動をしながら、自分自身の心を憤懣で汚してしまっている、実に勿体ないことです。
自分ではそんなつもりが全く無いのにも関わらず、どこかで誰かに不満を抱かせてしまっている。先ほどの電車での場面がまさしくそうで、席を譲った女性は何一つ間違った事はしていません。そうした、むしろ賞賛に値するような行動でさえも、自分自身の知らない所で誰かが不満に思ってしまう事があるのです。
また、「こちらの選択が正しい」と分かっていながら、そうできないという事も多々あります。電車の中で、高齢の方に席を譲ったほうが自分自身も気持ちがスッキリすると分かっていながら、行動に移せないこともあるのです。さらには、ゴミ拾いの場面のように、折角良いことをしているにも関わらず、愚痴や不満によってみすみす心を濁してしまうこともあります。
私たち人間には、「心の自由」があります。しかしその自由は、目の前の現象に対してどう考え、どう行動するか、という所までで、その行動に対しての結果はまったく自由ではありません。
その結果を、喜べるような結果に近づかせるためには、「神様から見れば、私の行動はどこかが間違っているのかも知れない」「知らない間に誰かに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせているかも知れない」という慎みの心を持つことが大切だと思います。
その思いを持つことが出来なければ、日常の中で「なぜ？どうしてこんなことが起こるんだ？」という疑問を繰り返し、その原因を自分以外の何かに責任転嫁し続けることになりかねません。
まずは、最も身近な家庭の中でも、常に慎みの心を忘れることなく、私たちの日常を大きな視野で見て下さる神様の存在を感じながら過ごすこと。そして、目の前に起こる結果、その元は自分自身の行動にある事を忘れず、本当の「家族円満」に近づきたいと思います。



御存命の教祖

　　月日にハせかいぢううハみなわが子　　かハいいゝばいこれが一ちよ　（十七 16）


　　にんけんをはじめたしたるこのをやハ　　そんめゑでいるこれがまことや　（八 37）


可愛い我が子である世界中の人間に、陽気ぐらしをさせてやりたい。これが親神様の親心です。そして、人間を創め出したその親は、教祖・中山みき様「おやさま」としてこの地上に現れてお出でになる。
教祖は、お姿こそ世の常の人々と異なる所はないものの、そのお心は、親神様のお心そのものです。その教祖の御教えを、全人類の「をや」なる親神様の御教えであると信じることから、天理教の信仰は始まります。
教祖は十三歳の時、三昧田村の前川家から庄屋敷村の中山家に嫁がれました。中山家は代々庄屋を務める裕福な農家で、教祖は村人をはじめ多くの近隣の人々から慕われていました。
誰から見ても模範的な主婦であった教祖でしたが、四十一歳の時、親神様が入り込まれ、「月日のやしろ」となられてからは、まだ小さいお子さんがいるにもかかわらず、内蔵に籠ることが多くなりました。そして、親神様の思召しのまにまに、中山家の蔵にある物を貧しい人々に施すようになり、その施しは次第に常識の範囲を超えて、家財や先祖伝来の土地、また母屋にまで及びました。
こうして食べる物にも事欠く状態が続き、家族と共に貧のどん底に落ち切っていかれたのです。それも全ては、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」との思いと、「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」との深い親心からでした。悩み苦しむ人々をたすけるがために、自ら厳しい道中をお通りになりながら、お屋敷に寄り来る人々を迎えられたのです。
身分の高い人であっても、施しを求める人や世間から相手にされないような人であっても、どんな人でも喜ばさずには帰されんとお迎え下さる。小さい子供にも大人にも、お手元にあるお菓子や果物などをニコニコとおあげになる。
何度もご苦労下さった監獄の中でも、前の道を通る菓子売りの姿を見かけるや、見張りをしている巡査に対してでさえ、退屈しているだろうと、お菓子を買い与えたいと仰る。教えに反対する者であろうが、自らを捕えに来た者であろうが、そんなことは教祖には一切関係がない。分け隔てのない、子を思う親のお心があるだけなのです。
教祖にたすけられ、導かれた人たちは、自然に「おやさま」と「おや」を付けてお呼びするようになったと言われています。全人類の本当の親がいるなら、教祖のようなお方に違いない。お姿は人間と何ら変わることのないお方であるが、教祖こそ、全人類の親である親神様の、この地上におけるお姿なのだと信じる人が次第に増えていったのです。
（終）
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        <pubDate>Fri, 13 Mar 2026 09:34:20 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>なぜ、ごみを拾うのか</title>
        <description><![CDATA[なぜ、ごみを拾うのか
東京都在住　　松村　登美和

今月は野球のWBC・ワールドベースボールクラシックが開催されます。日本代表チームは、3月6日から10日まで、東京ドームで第一次ラウンドを戦い、そこを勝ち抜くと、アメリカに試合会場を移して、準々決勝、準決勝、決勝と試合が行われます。
前回大会は2023年の開催でしたが、どの試合も手に汗握る展開で、最後は決勝で、大谷翔平投手がアメリカに投げ勝つ感動的なラストシーンで幕を閉じました。3年前の大会は私も連日テレビにくぎ付けで、実に楽しい時間を過ごしました。
その前回大会は、日本チームの活躍が連日ニュースを賑わせましたが、その中で、野球以外のところで採り上げられた出来事もありました。
それは日本チームのベンチの綺麗さについてです。アメリカのある野球チームの監督が、SNSに決勝戦の試合中の日本ベンチの画像を投稿し、「日本のダッグアウトの綺麗さに驚く時間を取ってもいいか？」とつぶやきました。
すると、そのつぶやきに対して多くの人が賛同のコメントを返しました。なぜなら、写真に写ったベンチ内がきちんと整頓されていて、地面にはゴミ一つ落ちていなかったからです。
アメリカでは、試合中に選手がヒマワリの種の殻を地面に吐き捨てたりするのは普通のこと。かつて大リーグに在籍した日本のあるプロ野球選手によると、飲み終えたペットボトルや、食べ終えたお菓子の袋をベンチに捨てるのは通常の風景で、彼の地では「掃除する人の仕事がなくなったらどうするんだ」という空気感なのだそうです。
その日本人選手は、「日本にいる時は、落ちているごみは拾ってごみ箱に捨ててましたけど、そのように言われると、下に捨ててもいいか、という気持ちになってしまいましたね」とテレビで話していました。
また、今年は６月にサッカーのワールドカップも開催されます。この大会でも、日本人のごみ拾いが世界の注目を集めています。日本代表チームの選手やスタッフが、ロッカールームを綺麗に掃除、整頓したり、日本人サポーターが試合後にスタンドのごみ拾いをしたりする風景が恒例となっています。カタールで行われた前回４年前の大会では、国際サッカー連盟の大会組織委員会が日本のサポーターを表彰しました。
表彰式では、「自発的に動いていたことに感銘を受けた」「モロッコやチュニジアのサポーターが真似をするなど、すでに他国のモデルになっている。カタールや他の国にも広めたい」との挨拶があったそうです。
日本人サポーターの行いが良い手本となり、他国の人が真似をし始めている。その姿を自分の国や、他の国にも広めたい、と話してくれたのです。
大谷翔平選手のごみ拾いも有名です。試合中、グラウンドに落ちているごみをさりげなくポケットに入れる様子が、しばしば見られます。また、大谷選手の元チームメートで、前回WBCの最後の打席で大谷選手と対決したアメリカ代表の主将トラウト選手が、大谷選手と同じようにグラウンドでごみを拾う姿も、YouTubeで見ることが出来ます。
このごみ拾いの輪が広がる話を聞くと、天理教の神様、天理王命様のあるお言葉が頭に浮かびます。
「一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まるという」。
少し難しい言葉使いですが、「誰か一人が他人や周囲を思いやる、嘘偽りのない誠実な心を持っていれば、いずれ家庭でも職場でも、内々全体が睦まじく治まっていく」という意味です。
なぜかと言うと、誠実な姿は、少しずつでも必ず人に伝染していくからです。一人、また一人と誠実な心が伝わっていき、いずれ全体が優しい雰囲気に包まれていく。天理教では、そう教えられています。その証拠の一つが、大谷選手や、ワールドカップでのごみ拾いの広がりなのだと思います。
天理教では「誠」とは「少しでも人のよいよう、喜ぶよう、救かるように心を働かせること」と教えられています。
ですから私たちは、「ごみを拾うことで、掃除をする人の仕事を奪ってしまう」とは考えず、「ごみを拾うことで掃除をする人の手間が省けて、その人がたすかる」あるいは、「その場所が綺麗になって、みんなが気持ちよくなる」ということを考え、行動に移しているのです。
世の中には、誠の心が広がることと逆の現象、すなわち周囲への思いやりを欠いた行いや、我が身勝手な考えが広まってしまうこともあります。たとえば、以前は落ちているごみを当たり前に拾っていたのが、捨てて当たり前の風潮の中にいると、それでいいんだ、と思い始めてしまうという状況です。
さて、人に誠実な姿を伝染させる人間になるか、それとも、人を不誠実に誘導してしまう人間になるか。皆さんは、どちらの道を選びますか？
今回も、ＷＢＣとサッカーワールドカップを、お互い気持ちよく楽しみましょう。



「だけど有難い」

最近読んだ雑誌のなかに、面白い話がありました。
高校生のころ、数学が苦手だった。あるとき、数学の教師が側へやって来て、こう言った。「おまえは数学が全然だめだな。だけど心配ない。おまえのその笑顔とサービス精神があれば、きっと生きていける」。それを聞いて「ああ、そうなんだ。数学はだめだけど大丈夫なんだ」と思った。
またあるとき、父親から「おまえは働き者か、怠け者か」と尋ねられた。普段は物を言わない父が、そんなことを聞いてきたので、「怠け者」と答えたらおそらく殴られるだろうと思って、「働き者です」と答えた。すると父は「よし。頭が悪くても、真面目に働けば食べていける」と言った。そう言われて、「頭が悪くても大丈夫なんだ」と思った。
大学に入ったけれど中退した。「これで一流企業には就職できないな」と、なんだか寂しい気持ちになった。それを紛らわすために競馬場へ行った。周りを見たら寂しい人ばかりだった。そこで思った。「良い会社へ就職できなくても、寂しくても大丈夫なんだ」。馬券は外れたけれど、幸せを感じた。
変な話ですが、何か妙に面白いなと私は思いました。それはなぜかと言うと、「数学はできない。だけど大丈夫なんだ」「頭が悪くても大丈夫なんだ」「寂しくても大丈夫なんだ」。これらすべて、「思い直す」ということをしているんですね。人間は思い直すことができるのです。
河原町の初代会長に、次のような逸話があります。鍛冶屋をしているころ、転んでコブができるほど額を打って、こう言った。
 「ああ、痛い痛い、有難い」
それを見ていた人が尋ねました。
 「あんた、何が有難いねん」
それに対して、初代はこう答えました。
「いや、痛いと感じさせてもらえるのが有難いんや」
信仰していると痛くない、そんなはずはありません。痛いのですが、有難い。これは思い直しているのです。私は、それが値打ちだと思うのです。
痛いとか、つらいとか、悲しいとか、苦しいとか、信仰していたら感じない。そんなはずはないのです。やっぱり痛いときは痛い、つらいときはつらい、悲しいときは悲しいのです。しかし、初代会長をはじめ、お道を信仰した人たちは、「だけど有難い」―こう考えたのだと思うのです。
何があっても「だけど有難い」。この考え方が大事だと思うのです。うれしいことがあれば、誰だってうれしいのです。幸せなことがあれば、誰だって幸せなのです。つらい、苦しい、痛い、だけど有難い。何が有難いのか。そう言ってから、考えたらいいではありませんか。きっと浮かんでくると思います。おそらく、初代会長も「ああ、痛い痛い」と言っているときは痛かったのです。「ああ、痛い痛い、有難い」「何が有難いんや」と聞かれて、たぶん浮かんだことを言っているのだと思います。
それでは、そういうふうに「痛い痛い、有難い」「苦しいけれど有難い」「つらいけれど有難い」と、「思い直し」をしていけばどうなるのか。運命が変わるのです。初代会長がそうであったように、運命が変わる。「そんなこと言っても騙されないぞ」と思う人もいるかもしれませんが、心配ありません。なぜなら、元手は要らないからです。私の話を聞いて、やってみようと思って、やって損をする人はいないのです。
私たちの先輩は「つらいけれど有難い」「苦しいけれど有難い」―そう言って何が有難いのか、そこに神様の思召を求める思案をして、「本当に有難いな」と芯から思えるようになり、お道を通ってますます結構になったという人たちなのです。そんな人たちがいなかったら、この教会もないのです。それが嘘なら、この教会は建たないのです。
人生にはいろんなことがあります。時には、泣くに泣けないこともあるかもしれません。しかし、それは決して罰が当たっているのではないのです。親神様の「どこまでもたすけてやりたい」「陽気ぐらしを味わわせてやりたい」との親心から、お見せいただいているのです。ですから、何が有難いのかを考えてみれば、必ずその親心に突き当たります。先輩方を見習って、私たちもしっかり「だけど有難い」という心の持ち方、歩み方をさせていただきたいと思います。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>なぜ、ごみを拾うのか
東京都在住　　松村　登美和

今月は野球のWBC・ワールドベースボールクラシックが開催されます。日本代表チームは、3月6日から10日まで、東京ドームで第一次ラウンドを戦い、そこを勝ち抜くと、アメリカに試合会場を移して、準々決勝、準決勝、決勝と試合が行われます。
前回大会は2023年の開催でしたが、どの試合も手に汗握る展開で、最後は決勝で、大谷翔平投手がアメリカに投げ勝つ感動的なラストシーンで幕を閉じました。3年前の大会は私も連日テレビにくぎ付けで、実に楽しい時間を過ごしました。
その前回大会は、日本チームの活躍が連日ニュースを賑わせましたが、その中で、野球以外のところで採り上げられた出来事もありました。
それは日本チームのベンチの綺麗さについてです。アメリカのある野球チームの監督が、SNSに決勝戦の試合中の日本ベンチの画像を投稿し、「日本のダッグアウトの綺麗さに驚く時間を取ってもいいか？」とつぶやきました。
すると、そのつぶやきに対して多くの人が賛同のコメントを返しました。なぜなら、写真に写ったベンチ内がきちんと整頓されていて、地面にはゴミ一つ落ちていなかったからです。
アメリカでは、試合中に選手がヒマワリの種の殻を地面に吐き捨てたりするのは普通のこと。かつて大リーグに在籍した日本のあるプロ野球選手によると、飲み終えたペットボトルや、食べ終えたお菓子の袋をベンチに捨てるのは通常の風景で、彼の地では「掃除する人の仕事がなくなったらどうするんだ」という空気感なのだそうです。
その日本人選手は、「日本にいる時は、落ちているごみは拾ってごみ箱に捨ててましたけど、そのように言われると、下に捨ててもいいか、という気持ちになってしまいましたね」とテレビで話していました。
また、今年は６月にサッカーのワールドカップも開催されます。この大会でも、日本人のごみ拾いが世界の注目を集めています。日本代表チームの選手やスタッフが、ロッカールームを綺麗に掃除、整頓したり、日本人サポーターが試合後にスタンドのごみ拾いをしたりする風景が恒例となっています。カタールで行われた前回４年前の大会では、国際サッカー連盟の大会組織委員会が日本のサポーターを表彰しました。
表彰式では、「自発的に動いていたことに感銘を受けた」「モロッコやチュニジアのサポーターが真似をするなど、すでに他国のモデルになっている。カタールや他の国にも広めたい」との挨拶があったそうです。
日本人サポーターの行いが良い手本となり、他国の人が真似をし始めている。その姿を自分の国や、他の国にも広めたい、と話してくれたのです。
大谷翔平選手のごみ拾いも有名です。試合中、グラウンドに落ちているごみをさりげなくポケットに入れる様子が、しばしば見られます。また、大谷選手の元チームメートで、前回WBCの最後の打席で大谷選手と対決したアメリカ代表の主将トラウト選手が、大谷選手と同じようにグラウンドでごみを拾う姿も、YouTubeで見ることが出来ます。
このごみ拾いの輪が広がる話を聞くと、天理教の神様、天理王命様のあるお言葉が頭に浮かびます。
「一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まるという」。
少し難しい言葉使いですが、「誰か一人が他人や周囲を思いやる、嘘偽りのない誠実な心を持っていれば、いずれ家庭でも職場でも、内々全体が睦まじく治まっていく」という意味です。
なぜかと言うと、誠実な姿は、少しずつでも必ず人に伝染していくからです。一人、また一人と誠実な心が伝わっていき、いずれ全体が優しい雰囲気に包まれていく。天理教では、そう教えられています。その証拠の一つが、大谷選手や、ワールドカップでのごみ拾いの広がりなのだと思います。
天理教では「誠」とは「少しでも人のよいよう、喜ぶよう、救かるように心を働かせること」と教えられています。
ですから私たちは、「ごみを拾うことで、掃除をする人の仕事を奪ってしまう」とは考えず、「ごみを拾うことで掃除をする人の手間が省けて、その人がたすかる」あるいは、「その場所が綺麗になって、みんなが気持ちよくなる」ということを考え、行動に移しているのです。
世の中には、誠の心が広がることと逆の現象、すなわち周囲への思いやりを欠いた行いや、我が身勝手な考えが広まってしまうこともあります。たとえば、以前は落ちているごみを当たり前に拾っていたのが、捨てて当たり前の風潮の中にいると、それでいいんだ、と思い始めてしまうという状況です。
さて、人に誠実な姿を伝染させる人間になるか、それとも、人を不誠実に誘導してしまう人間になるか。皆さんは、どちらの道を選びますか？
今回も、ＷＢＣとサッカーワールドカップを、お互い気持ちよく楽しみましょう。



「だけど有難い」

最近読んだ雑誌のなかに、面白い話がありました。
高校生のころ、数学が苦手だった。あるとき、数学の教師が側へやって来て、こう言った。「おまえは数学が全然だめだな。だけど心配ない。おまえのその笑顔とサービス精神があれば、きっと生きていける」。それを聞いて「ああ、そうなんだ。数学はだめだけど大丈夫なんだ」と思った。
またあるとき、父親から「おまえは働き者か、怠け者か」と尋ねられた。普段は物を言わない父が、そんなことを聞いてきたので、「怠け者」と答えたらおそらく殴られるだろうと思って、「働き者です」と答えた。すると父は「よし。頭が悪くても、真面目に働けば食べていける」と言った。そう言われて、「頭が悪くても大丈夫なんだ」と思った。
大学に入ったけれど中退した。「これで一流企業には就職できないな」と、なんだか寂しい気持ちになった。それを紛らわすために競馬場へ行った。周りを見たら寂しい人ばかりだった。そこで思った。「良い会社へ就職できなくても、寂しくても大丈夫なんだ」。馬券は外れたけれど、幸せを感じた。
変な話ですが、何か妙に面白いなと私は思いました。それはなぜかと言うと、「数学はできない。だけど大丈夫なんだ」「頭が悪くても大丈夫なんだ」「寂しくても大丈夫なんだ」。これらすべて、「思い直す」ということをしているんですね。人間は思い直すことができるのです。
河原町の初代会長に、次のような逸話があります。鍛冶屋をしているころ、転んでコブができるほど額を打って、こう言った。
 「ああ、痛い痛い、有難い」
それを見ていた人が尋ねました。
 「あんた、何が有難いねん」
それに対して、初代はこう答えました。
「いや、痛いと感じさせてもらえるのが有難いんや」
信仰していると痛くない、そんなはずはありません。痛いのですが、有難い。これは思い直しているのです。私は、それが値打ちだと思うのです。
痛いとか、つらいとか、悲しいとか、苦しいとか、信仰していたら感じない。そんなはずはないのです。やっぱり痛いときは痛い、つらいときはつらい、悲しいときは悲しいのです。しかし、初代会長をはじめ、お道を信仰した人たちは、「だけど有難い」―こう考えたのだと思うのです。
何があっても「だけど有難い」。この考え方が大事だと思うのです。うれしいことがあれば、誰だってうれしいのです。幸せなことがあれば、誰だって幸せなのです。つらい、苦しい、痛い、だけど有難い。何が有難いのか。そう言ってから、考えたらいいではありませんか。きっと浮かんでくると思います。おそらく、初代会長も「ああ、痛い痛い」と言っているときは痛かったのです。「ああ、痛い痛い、有難い」「何が有難いんや」と聞かれて、たぶん浮かんだことを言っているのだと思います。
それでは、そういうふうに「痛い痛い、有難い」「苦しいけれど有難い」「つらいけれど有難い」と、「思い直し」をしていけばどうなるのか。運命が変わるのです。初代会長がそうであったように、運命が変わる。「そんなこと言っても騙されないぞ」と思う人もいるかもしれませんが、心配ありません。なぜなら、元手は要らないからです。私の話を聞いて、やってみようと思って、やって損をする人はいないのです。
私たちの先輩は「つらいけれど有難い」「苦しいけれど有難い」―そう言って何が有難いのか、そこに神様の思召を求める思案をして、「本当に有難いな」と芯から思えるようになり、お道を通ってますます結構になったという人たちなのです。そんな人たちがいなかったら、この教会もないのです。それが嘘なら、この教会は建たないのです。
人生にはいろんなことがあります。時には、泣くに泣けないこともあるかもしれません。しかし、それは決して罰が当たっているのではないのです。親神様の「どこまでもたすけてやりたい」「陽気ぐらしを味わわせてやりたい」との親心から、お見せいただいているのです。ですから、何が有難いのかを考えてみれば、必ずその親心に突き当たります。先輩方を見習って、私たちもしっかり「だけど有難い」という心の持ち方、歩み方をさせていただきたいと思います。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>なぜ、ごみを拾うのか
東京都在住　　松村　登美和

今月は野球のWBC・ワールドベースボールクラシックが開催されます。日本代表チームは、3月6日から10日まで、東京ドームで第一次ラウンドを戦い、そこを勝ち抜くと、アメリカに試合会場を移して、準々決勝、準決勝、決勝と試合が行われます。
前回大会は2023年の開催でしたが、どの試合も手に汗握る展開で、最後は決勝で、大谷翔平投手がアメリカに投げ勝つ感動的なラストシーンで幕を閉じました。3年前の大会は私も連日テレビにくぎ付けで、実に楽しい時間を過ごしました。
その前回大会は、日本チームの活躍が連日ニュースを賑わせましたが、その中で、野球以外のところで採り上げられた出来事もありました。
それは日本チームのベンチの綺麗さについてです。アメリカのある野球チームの監督が、SNSに決勝戦の試合中の日本ベンチの画像を投稿し、「日本のダッグアウトの綺麗さに驚く時間を取ってもいいか？」とつぶやきました。
すると、そのつぶやきに対して多くの人が賛同のコメントを返しました。なぜなら、写真に写ったベンチ内がきちんと整頓されていて、地面にはゴミ一つ落ちていなかったからです。
アメリカでは、試合中に選手がヒマワリの種の殻を地面に吐き捨てたりするのは普通のこと。かつて大リーグに在籍した日本のあるプロ野球選手によると、飲み終えたペットボトルや、食べ終えたお菓子の袋をベンチに捨てるのは通常の風景で、彼の地では「掃除する人の仕事がなくなったらどうするんだ」という空気感なのだそうです。
その日本人選手は、「日本にいる時は、落ちているごみは拾ってごみ箱に捨ててましたけど、そのように言われると、下に捨ててもいいか、という気持ちになってしまいましたね」とテレビで話していました。
また、今年は６月にサッカーのワールドカップも開催されます。この大会でも、日本人のごみ拾いが世界の注目を集めています。日本代表チームの選手やスタッフが、ロッカールームを綺麗に掃除、整頓したり、日本人サポーターが試合後にスタンドのごみ拾いをしたりする風景が恒例となっています。カタールで行われた前回４年前の大会では、国際サッカー連盟の大会組織委員会が日本のサポーターを表彰しました。
表彰式では、「自発的に動いていたことに感銘を受けた」「モロッコやチュニジアのサポーターが真似をするなど、すでに他国のモデルになっている。カタールや他の国にも広めたい」との挨拶があったそうです。
日本人サポーターの行いが良い手本となり、他国の人が真似をし始めている。その姿を自分の国や、他の国にも広めたい、と話してくれたのです。
大谷翔平選手のごみ拾いも有名です。試合中、グラウンドに落ちているごみをさりげなくポケットに入れる様子が、しばしば見られます。また、大谷選手の元チームメートで、前回WBCの最後の打席で大谷選手と対決したアメリカ代表の主将トラウト選手が、大谷選手と同じようにグラウンドでごみを拾う姿も、YouTubeで見ることが出来ます。
このごみ拾いの輪が広がる話を聞くと、天理教の神様、天理王命様のあるお言葉が頭に浮かびます。
「一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まるという」。
少し難しい言葉使いですが、「誰か一人が他人や周囲を思いやる、嘘偽りのない誠実な心を持っていれば、いずれ家庭でも職場でも、内々全体が睦まじく治まっていく」という意味です。
なぜかと言うと、誠実な姿は、少しずつでも必ず人に伝染していくからです。一人、また一人と誠実な心が伝わっていき、いずれ全体が優しい雰囲気に包まれていく。天理教では、そう教えられています。その証拠の一つが、大谷選手や、ワールドカップでのごみ拾いの広がりなのだと思います。
天理教では「誠」とは「少しでも人のよいよう、喜ぶよう、救かるように心を働かせること」と教えられています。
ですから私たちは、「ごみを拾うことで、掃除をする人の仕事を奪ってしまう」とは考えず、「ごみを拾うことで掃除をする人の手間が省けて、その人がたすかる」あるいは、「その場所が綺麗になって、みんなが気持ちよくなる」ということを考え、行動に移しているのです。
世の中には、誠の心が広がることと逆の現象、すなわち周囲への思いやりを欠いた行いや、我が身勝手な考えが広まってしまうこともあります。たとえば、以前は落ちているごみを当たり前に拾っていたのが、捨てて当たり前の風潮の中にいると、それでいいんだ、と思い始めてしまうという状況です。
さて、人に誠実な姿を伝染させる人間になるか、それとも、人を不誠実に誘導してしまう人間になるか。皆さんは、どちらの道を選びますか？
今回も、ＷＢＣとサッカーワールドカップを、お互い気持ちよく楽しみましょう。



「だけど有難い」

最近読んだ雑誌のなかに、面白い話がありました。
高校生のころ、数学が苦手だった。あるとき、数学の教師が側へやって来て、こう言った。「おまえは数学が全然だめだな。だけど心配ない。おまえのその笑顔とサービス精神があれば、きっと生きていける」。それを聞いて「ああ、そうなんだ。数学はだめだけど大丈夫なんだ」と思った。
またあるとき、父親から「おまえは働き者か、怠け者か」と尋ねられた。普段は物を言わない父が、そんなことを聞いてきたので、「怠け者」と答えたらおそらく殴られるだろうと思って、「働き者です」と答えた。すると父は「よし。頭が悪くても、真面目に働けば食べていける」と言った。そう言われて、「頭が悪くても大丈夫なんだ」と思った。
大学に入ったけれど中退した。「これで一流企業には就職できないな」と、なんだか寂しい気持ちになった。それを紛らわすために競馬場へ行った。周りを見たら寂しい人ばかりだった。そこで思った。「良い会社へ就職できなくても、寂しくても大丈夫なんだ」。馬券は外れたけれど、幸せを感じた。
変な話ですが、何か妙に面白いなと私は思いました。それはなぜかと言うと、「数学はできない。だけど大丈夫なんだ」「頭が悪くても大丈夫なんだ」「寂しくても大丈夫なんだ」。これらすべて、「思い直す」ということをしているんですね。人間は思い直すことができるのです。
河原町の初代会長に、次のような逸話があります。鍛冶屋をしているころ、転んでコブができるほど額を打って、こう言った。
 「ああ、痛い痛い、有難い」
それを見ていた人が尋ねました。
 「あんた、何が有難いねん」
それに対して、初代はこう答えました。
「いや、痛いと感じさせてもらえるのが有難いんや」
信仰していると痛くない、そんなはずはありません。痛いのですが、有難い。これは思い直しているのです。私は、それが値打ちだと思うのです。
痛いとか、つらいとか、悲しいとか、苦しいとか、信仰していたら感じない。そんなはずはないのです。やっぱり痛いときは痛い、つらいときはつらい、悲しいときは悲しいのです。しかし、初代会長をはじめ、お道を信仰した人たちは、「だけど有難い」―こう考えたのだと思うのです。
何があっても「だけど有難い」。この考え方が大事だと思うのです。うれしいことがあれば、誰だってうれしいのです。幸せなことがあれば、誰だって幸せなのです。つらい、苦しい、痛い、だけど有難い。何が有難いのか。そう言ってから、考えたらいいではありませんか。きっと浮かんでくると思います。おそらく、初代会長も「ああ、痛い痛い」と言っているときは痛かったのです。「ああ、痛い痛い、有難い」「何が有難いんや」と聞かれて、たぶん浮かんだことを言っているのだと思います。
それでは、そういうふうに「痛い痛い、有難い」「苦しいけれど有難い」「つらいけれど有難い」と、「思い直し」をしていけばどうなるのか。運命が変わるのです。初代会長がそうであったように、運命が変わる。「そんなこと言っても騙されないぞ」と思う人もいるかもしれませんが、心配ありません。なぜなら、元手は要らないからです。私の話を聞いて、やってみようと思って、やって損をする人はいないのです。
私たちの先輩は「つらいけれど有難い」「苦しいけれど有難い」―そう言って何が有難いのか、そこに神様の思召を求める思案をして、「本当に有難いな」と芯から思えるようになり、お道を通ってますます結構になったという人たちなのです。そんな人たちがいなかったら、この教会もないのです。それが嘘なら、この教会は建たないのです。
人生にはいろんなことがあります。時には、泣くに泣けないこともあるかもしれません。しかし、それは決して罰が当たっているのではないのです。親神様の「どこまでもたすけてやりたい」「陽気ぐらしを味わわせてやりたい」との親心から、お見せいただいているのです。ですから、何が有難いのかを考えてみれば、必ずその親心に突き当たります。先輩方を見習って、私たちもしっかり「だけど有難い」という心の持ち方、歩み方をさせていただきたいと思います。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 06 Mar 2026 09:26:51 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>おつとめメンドクサイ…</title>
        <description><![CDATA[おつとめメンドクサイ…
岡山県在住　　山﨑　石根

2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。岡山は震源地から遠く離れていたので、当初はあまり気にかけていなかったのですが、事態は刻一刻と悪化していき、私たちはメディアを通して、その被害の尋常でない様を目の当たりにすることになりました。
ちょうど翌日の12日は、当教会で「おとまり会」という子どもを対象にした行事がありました。参加してくれた小学生たちと一緒に夜の時間を過ごしたのですが、テレビは震災の報道ばかりで、原発事故に関する緊急発表などもあり、みんなでただならぬ空気を感じていたことをよく覚えています。
あの日、あの時、あの頃、恐らく日本の多くの方が、大きな不安と共に落ち着かない日々を過ごし、「被災地のために何かしたい、何かしなければ」と思いながらも、何も出来ないことへの焦燥感や無力感を抱いたのではないかと思います。そして、世の中は忽ち自粛モードになりました。
天理教教会本部では、翌日からすぐに「お願いづとめ」がつとめられました。また、12日、13日、14日の三日間、教会本部にならい、国々所々の教会でも、正午に時間を合わせて真実を込めたお願いづとめがつとめられ、私も一生懸命祈りました。
震災から二か月が経った5月12日から16日、私は招集を受け、被災地を訪れました。これは「天理教災害救援対策本部」のもとで実施された取り組みで、被災地において特に子ども達を元気づける活動をするため、天理教の中で学生や子ども達のお世話に携わっているメンバーでいくつかのチームが結成されたのです。私は以前、児童養護施設で心理職として勤務していた経験から声がかかり、被災地で「子ども会」を開催するチームに加えて頂きました。
私たちのチームは6名でしたが、折り紙やバルーンアートが得意な方、プロのマジシャンとして活躍している方、ピアノが得意でリトミックが出来る方など、頼もしいメンバーばかりでした。私たちは、「天理教災害救援ひのきしん隊」という、現地で具体的な支援活動をされている方々と同じ宿営地に宿泊し、期間中、一つの保育所と六つの避難所で実動しました。
具体的には、避難所の子ども達と90分ほどの時間枠でとにかく元気に遊ぶプログラムを組みました。バルーンアートや折り紙から始め、大縄跳びやボール遊びなど身体を使った外遊びに展開していき、最後はマジックを披露し、避難所生活のストレスを解消してもらうことを目指しました。
どの避難所でも、不自由な環境で避難生活を送っておられることに、胸が痛みました。私たちが出来たことは本当に些細な活動でしかなかったのですが、子ども達が思いっきり遊び、それを見ている大人の方々が笑顔になる、それだけでこちらの気持ちも救われました。
私たち自身ももちろん緊張もしますし、感情が大きく揺れ動きます。避難所から避難所へ移動する時には、被災地の衝撃的な辛い現状を目の当たりにするので、活動に際して気持ちのオン・オフが非常に難しかったのを覚えています。
一か所だけ訪れた保育所では、自分たちのほうが辛い立場にあるはずの子ども達が、「さんぽ」と「ありがとうの花」という手話を用いた歌を、私たちへのお礼としてプレゼントしてくれ、涙をこらえるのに必死でした。
特に私は、当時、我が子が４歳と２歳でちょうど同年代でしたので、あまりにも身近に感じてしまい、励ます側が励ましてもらっているような状況に、何だか後ろめたさまで感じてしまいました。
最後には園長先生が、「天理教さんには救援物資をたくさん頂き、炊き出しもずっとして下さり、今日は心の栄養まで頂きました」という言葉を下さり、それに支えられたような心持ちでした。
被災地から帰宅した私は、教会の信者さん方にこの時の報告をしました。原稿にまとめて話すつもりだったのですが、いざ言葉にすると、涙があふれて止まらなくなり、うまく伝えられなかったのです。それは、自分がしてきたことがあまりに小さく、何も出来なかったのではないかという申し訳なさを感じていたからだと思います。
実は、私はこの活動の他にも、瓦礫などの撤去作業を行う別チームとして被災地を訪れました。重機が入らないような場所を、人海戦術でコツコツと作業をするのですが、天理教内の多くの仲間が「自分たちに出来ることはほんのわずかかも知れないけれど、やれることは何でもさせて頂こう」と口々に語っていました。そして、皆がそれぞれ、おつとめを通して被災地の治まりを祈っていました。
天理教では、世の中に起こる出来事を、他人事ではなく「我が事」として思案するように教えて頂きます。その上で、世界中の人々のたすかりを祈念しておつとめをつとめます。
私の教会でも、父の代から何十年にもわたり、毎日「お願いづとめ」がつとめられているのですが、その際にはたすかってもらいたい人のことを具体的に思い浮かべながら祈っています。
その人の元にすぐに駆け付けることが出来なくても、あるいは具体的に何か手だすけが出来なくても、私たちは人のために願う方法を教えて頂いています。本当にありがたいなぁと身に沁みます。そして、「これからは被災地で出会った子ども達のことも思い浮かべよう…」と、私はこの時誓ったのでした。
震災が起きた前月の２月に、長女が生まれました。彼女の誕生日が訪れる度に震災のことを思い出します。
今年の２月に長女は15才になりました。もうあれから15年が経ったのです。おかげで彼女には、何度もこの出来事について話をすることが出来ました。当たり前の毎日の有り難さや、人のために何かをすることの大切さ、そして、おつとめを通して、願う心の尊さについて伝えてきたつもりです。
ところが、まだ子どもですから、理屈では分かっても、長女にとっても、弟や妹たちにとっても、教会でのおつとめはメンドクサイものです。
中一の三男がお年頃になり、だんだんおつとめを真面目につとめなくなりました。そんな時、仲の良い友人が学校に行けなくなったのです。
妻が彼に、「教祖は、人のたすかりを願う方法として、おつとめを教えて下さったんやで。そのお友達が元気になるように、祈ってみたら？」と提案しました。すると、夕方のおつとめをいつになく真剣につとめるようになったのです。
「朝はメンドクサイけど、夕づとめは一生懸命祈ってるで」と三男。まぁ、子どもにしてみれば十分かなと、微笑ましい気持ちになりました。
「世界一れつをたすけたい」というのが神様の思いです。私たち一人ひとりにとっては途方もないミッションですが、その具体的な手段がおつとめだと思うのです。
あの震災以降も、世の中では様々な災害が起こり、さらには戦争や紛争も止まず、そしてコロナのような疫病の世界的流行も経験しました。でも、その度に信仰を同じくする仲間が具体的な支援に励むと共に、ずっとずっとおつとめをつとめてくれていることが、誇らしくてたまりません。
私も、このおつとめに、いつでも心を込めて祈ってゆきたい。三男の姿に励まされ、決意を新たにしました。そして、あの日、あの時に、歌を届けてくれた子ども達を決して忘れないようにしたいと、重ねて心に決めたのでした。
教祖、「おつとめ」を教えて下さり、本当にありがとうございます。



一二三と言う

神様のお言葉に、
「一二三と言う。一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三、一つ／＼組むようなもの。成程という理治まれば、十分神が守護する」（Ｍ39・5・20）
とあります。
何をするにも、なるほどと合点がいけば、物事はスムーズに進行し、実に気分良く暮らすことができるでしょう。ただこの場合、何をもってなるほどと思うのかが問題です。自分の都合に合わせてなのか、それとも神様のお話になるほどと思うのか。常に自分の都合に合わせていくとなると、その先には何か大きなトラブルが待ち受けていないとも限りません。
原典である「おふでさき」には、
　　いまゝでにないたすけをばするからハ　　もとをしらさん事にをいてわ　（九 29）
と示されています。
元を教えてたすけることこそ、この道の本質である、ということです。親神様は先を見通しつつ、今まで誰も知らなかった人間の元、根源をお話になるわけですから、直ちにすべてを心に治めるのは難しいかもしれません。
「一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三」とあるように、親神様のお話を順序良く、一と言われたことを一と納得し、二と言われたことを二として了解していくのが、確実な道の歩み方なのです。
お言葉の後半は、「心というものは、皆んな神が守護してある」と続きます。これは、人間の心遣いまで親神様が支配しているという意味ではありません。親神様のご守護があればこそ、心を働かせることができるということです。
使った心の働きだけが、自らの肥やしとなり、生きる糧となるのです。これを得心しつつ通ってこそ、「成程という理治まれば、十分神が守護する」ということになるのではないでしょうか。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>おつとめメンドクサイ…
岡山県在住　　山﨑　石根

2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。岡山は震源地から遠く離れていたので、当初はあまり気にかけていなかったのですが、事態は刻一刻と悪化していき、私たちはメディアを通して、その被害の尋常でない様を目の当たりにすることになりました。
ちょうど翌日の12日は、当教会で「おとまり会」という子どもを対象にした行事がありました。参加してくれた小学生たちと一緒に夜の時間を過ごしたのですが、テレビは震災の報道ばかりで、原発事故に関する緊急発表などもあり、みんなでただならぬ空気を感じていたことをよく覚えています。
あの日、あの時、あの頃、恐らく日本の多くの方が、大きな不安と共に落ち着かない日々を過ごし、「被災地のために何かしたい、何かしなければ」と思いながらも、何も出来ないことへの焦燥感や無力感を抱いたのではないかと思います。そして、世の中は忽ち自粛モードになりました。
天理教教会本部では、翌日からすぐに「お願いづとめ」がつとめられました。また、12日、13日、14日の三日間、教会本部にならい、国々所々の教会でも、正午に時間を合わせて真実を込めたお願いづとめがつとめられ、私も一生懸命祈りました。
震災から二か月が経った5月12日から16日、私は招集を受け、被災地を訪れました。これは「天理教災害救援対策本部」のもとで実施された取り組みで、被災地において特に子ども達を元気づける活動をするため、天理教の中で学生や子ども達のお世話に携わっているメンバーでいくつかのチームが結成されたのです。私は以前、児童養護施設で心理職として勤務していた経験から声がかかり、被災地で「子ども会」を開催するチームに加えて頂きました。
私たちのチームは6名でしたが、折り紙やバルーンアートが得意な方、プロのマジシャンとして活躍している方、ピアノが得意でリトミックが出来る方など、頼もしいメンバーばかりでした。私たちは、「天理教災害救援ひのきしん隊」という、現地で具体的な支援活動をされている方々と同じ宿営地に宿泊し、期間中、一つの保育所と六つの避難所で実動しました。
具体的には、避難所の子ども達と90分ほどの時間枠でとにかく元気に遊ぶプログラムを組みました。バルーンアートや折り紙から始め、大縄跳びやボール遊びなど身体を使った外遊びに展開していき、最後はマジックを披露し、避難所生活のストレスを解消してもらうことを目指しました。
どの避難所でも、不自由な環境で避難生活を送っておられることに、胸が痛みました。私たちが出来たことは本当に些細な活動でしかなかったのですが、子ども達が思いっきり遊び、それを見ている大人の方々が笑顔になる、それだけでこちらの気持ちも救われました。
私たち自身ももちろん緊張もしますし、感情が大きく揺れ動きます。避難所から避難所へ移動する時には、被災地の衝撃的な辛い現状を目の当たりにするので、活動に際して気持ちのオン・オフが非常に難しかったのを覚えています。
一か所だけ訪れた保育所では、自分たちのほうが辛い立場にあるはずの子ども達が、「さんぽ」と「ありがとうの花」という手話を用いた歌を、私たちへのお礼としてプレゼントしてくれ、涙をこらえるのに必死でした。
特に私は、当時、我が子が４歳と２歳でちょうど同年代でしたので、あまりにも身近に感じてしまい、励ます側が励ましてもらっているような状況に、何だか後ろめたさまで感じてしまいました。
最後には園長先生が、「天理教さんには救援物資をたくさん頂き、炊き出しもずっとして下さり、今日は心の栄養まで頂きました」という言葉を下さり、それに支えられたような心持ちでした。
被災地から帰宅した私は、教会の信者さん方にこの時の報告をしました。原稿にまとめて話すつもりだったのですが、いざ言葉にすると、涙があふれて止まらなくなり、うまく伝えられなかったのです。それは、自分がしてきたことがあまりに小さく、何も出来なかったのではないかという申し訳なさを感じていたからだと思います。
実は、私はこの活動の他にも、瓦礫などの撤去作業を行う別チームとして被災地を訪れました。重機が入らないような場所を、人海戦術でコツコツと作業をするのですが、天理教内の多くの仲間が「自分たちに出来ることはほんのわずかかも知れないけれど、やれることは何でもさせて頂こう」と口々に語っていました。そして、皆がそれぞれ、おつとめを通して被災地の治まりを祈っていました。
天理教では、世の中に起こる出来事を、他人事ではなく「我が事」として思案するように教えて頂きます。その上で、世界中の人々のたすかりを祈念しておつとめをつとめます。
私の教会でも、父の代から何十年にもわたり、毎日「お願いづとめ」がつとめられているのですが、その際にはたすかってもらいたい人のことを具体的に思い浮かべながら祈っています。
その人の元にすぐに駆け付けることが出来なくても、あるいは具体的に何か手だすけが出来なくても、私たちは人のために願う方法を教えて頂いています。本当にありがたいなぁと身に沁みます。そして、「これからは被災地で出会った子ども達のことも思い浮かべよう…」と、私はこの時誓ったのでした。
震災が起きた前月の２月に、長女が生まれました。彼女の誕生日が訪れる度に震災のことを思い出します。
今年の２月に長女は15才になりました。もうあれから15年が経ったのです。おかげで彼女には、何度もこの出来事について話をすることが出来ました。当たり前の毎日の有り難さや、人のために何かをすることの大切さ、そして、おつとめを通して、願う心の尊さについて伝えてきたつもりです。
ところが、まだ子どもですから、理屈では分かっても、長女にとっても、弟や妹たちにとっても、教会でのおつとめはメンドクサイものです。
中一の三男がお年頃になり、だんだんおつとめを真面目につとめなくなりました。そんな時、仲の良い友人が学校に行けなくなったのです。
妻が彼に、「教祖は、人のたすかりを願う方法として、おつとめを教えて下さったんやで。そのお友達が元気になるように、祈ってみたら？」と提案しました。すると、夕方のおつとめをいつになく真剣につとめるようになったのです。
「朝はメンドクサイけど、夕づとめは一生懸命祈ってるで」と三男。まぁ、子どもにしてみれば十分かなと、微笑ましい気持ちになりました。
「世界一れつをたすけたい」というのが神様の思いです。私たち一人ひとりにとっては途方もないミッションですが、その具体的な手段がおつとめだと思うのです。
あの震災以降も、世の中では様々な災害が起こり、さらには戦争や紛争も止まず、そしてコロナのような疫病の世界的流行も経験しました。でも、その度に信仰を同じくする仲間が具体的な支援に励むと共に、ずっとずっとおつとめをつとめてくれていることが、誇らしくてたまりません。
私も、このおつとめに、いつでも心を込めて祈ってゆきたい。三男の姿に励まされ、決意を新たにしました。そして、あの日、あの時に、歌を届けてくれた子ども達を決して忘れないようにしたいと、重ねて心に決めたのでした。
教祖、「おつとめ」を教えて下さり、本当にありがとうございます。



一二三と言う

神様のお言葉に、
「一二三と言う。一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三、一つ／＼組むようなもの。成程という理治まれば、十分神が守護する」（Ｍ39・5・20）
とあります。
何をするにも、なるほどと合点がいけば、物事はスムーズに進行し、実に気分良く暮らすことができるでしょう。ただこの場合、何をもってなるほどと思うのかが問題です。自分の都合に合わせてなのか、それとも神様のお話になるほどと思うのか。常に自分の都合に合わせていくとなると、その先には何か大きなトラブルが待ち受けていないとも限りません。
原典である「おふでさき」には、
　　いまゝでにないたすけをばするからハ　　もとをしらさん事にをいてわ　（九 29）
と示されています。
元を教えてたすけることこそ、この道の本質である、ということです。親神様は先を見通しつつ、今まで誰も知らなかった人間の元、根源をお話になるわけですから、直ちにすべてを心に治めるのは難しいかもしれません。
「一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三」とあるように、親神様のお話を順序良く、一と言われたことを一と納得し、二と言われたことを二として了解していくのが、確実な道の歩み方なのです。
お言葉の後半は、「心というものは、皆んな神が守護してある」と続きます。これは、人間の心遣いまで親神様が支配しているという意味ではありません。親神様のご守護があればこそ、心を働かせることができるということです。
使った心の働きだけが、自らの肥やしとなり、生きる糧となるのです。これを得心しつつ通ってこそ、「成程という理治まれば、十分神が守護する」ということになるのではないでしょうか。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>おつとめメンドクサイ…
岡山県在住　　山﨑　石根

2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。岡山は震源地から遠く離れていたので、当初はあまり気にかけていなかったのですが、事態は刻一刻と悪化していき、私たちはメディアを通して、その被害の尋常でない様を目の当たりにすることになりました。
ちょうど翌日の12日は、当教会で「おとまり会」という子どもを対象にした行事がありました。参加してくれた小学生たちと一緒に夜の時間を過ごしたのですが、テレビは震災の報道ばかりで、原発事故に関する緊急発表などもあり、みんなでただならぬ空気を感じていたことをよく覚えています。
あの日、あの時、あの頃、恐らく日本の多くの方が、大きな不安と共に落ち着かない日々を過ごし、「被災地のために何かしたい、何かしなければ」と思いながらも、何も出来ないことへの焦燥感や無力感を抱いたのではないかと思います。そして、世の中は忽ち自粛モードになりました。
天理教教会本部では、翌日からすぐに「お願いづとめ」がつとめられました。また、12日、13日、14日の三日間、教会本部にならい、国々所々の教会でも、正午に時間を合わせて真実を込めたお願いづとめがつとめられ、私も一生懸命祈りました。
震災から二か月が経った5月12日から16日、私は招集を受け、被災地を訪れました。これは「天理教災害救援対策本部」のもとで実施された取り組みで、被災地において特に子ども達を元気づける活動をするため、天理教の中で学生や子ども達のお世話に携わっているメンバーでいくつかのチームが結成されたのです。私は以前、児童養護施設で心理職として勤務していた経験から声がかかり、被災地で「子ども会」を開催するチームに加えて頂きました。
私たちのチームは6名でしたが、折り紙やバルーンアートが得意な方、プロのマジシャンとして活躍している方、ピアノが得意でリトミックが出来る方など、頼もしいメンバーばかりでした。私たちは、「天理教災害救援ひのきしん隊」という、現地で具体的な支援活動をされている方々と同じ宿営地に宿泊し、期間中、一つの保育所と六つの避難所で実動しました。
具体的には、避難所の子ども達と90分ほどの時間枠でとにかく元気に遊ぶプログラムを組みました。バルーンアートや折り紙から始め、大縄跳びやボール遊びなど身体を使った外遊びに展開していき、最後はマジックを披露し、避難所生活のストレスを解消してもらうことを目指しました。
どの避難所でも、不自由な環境で避難生活を送っておられることに、胸が痛みました。私たちが出来たことは本当に些細な活動でしかなかったのですが、子ども達が思いっきり遊び、それを見ている大人の方々が笑顔になる、それだけでこちらの気持ちも救われました。
私たち自身ももちろん緊張もしますし、感情が大きく揺れ動きます。避難所から避難所へ移動する時には、被災地の衝撃的な辛い現状を目の当たりにするので、活動に際して気持ちのオン・オフが非常に難しかったのを覚えています。
一か所だけ訪れた保育所では、自分たちのほうが辛い立場にあるはずの子ども達が、「さんぽ」と「ありがとうの花」という手話を用いた歌を、私たちへのお礼としてプレゼントしてくれ、涙をこらえるのに必死でした。
特に私は、当時、我が子が４歳と２歳でちょうど同年代でしたので、あまりにも身近に感じてしまい、励ます側が励ましてもらっているような状況に、何だか後ろめたさまで感じてしまいました。
最後には園長先生が、「天理教さんには救援物資をたくさん頂き、炊き出しもずっとして下さり、今日は心の栄養まで頂きました」という言葉を下さり、それに支えられたような心持ちでした。
被災地から帰宅した私は、教会の信者さん方にこの時の報告をしました。原稿にまとめて話すつもりだったのですが、いざ言葉にすると、涙があふれて止まらなくなり、うまく伝えられなかったのです。それは、自分がしてきたことがあまりに小さく、何も出来なかったのではないかという申し訳なさを感じていたからだと思います。
実は、私はこの活動の他にも、瓦礫などの撤去作業を行う別チームとして被災地を訪れました。重機が入らないような場所を、人海戦術でコツコツと作業をするのですが、天理教内の多くの仲間が「自分たちに出来ることはほんのわずかかも知れないけれど、やれることは何でもさせて頂こう」と口々に語っていました。そして、皆がそれぞれ、おつとめを通して被災地の治まりを祈っていました。
天理教では、世の中に起こる出来事を、他人事ではなく「我が事」として思案するように教えて頂きます。その上で、世界中の人々のたすかりを祈念しておつとめをつとめます。
私の教会でも、父の代から何十年にもわたり、毎日「お願いづとめ」がつとめられているのですが、その際にはたすかってもらいたい人のことを具体的に思い浮かべながら祈っています。
その人の元にすぐに駆け付けることが出来なくても、あるいは具体的に何か手だすけが出来なくても、私たちは人のために願う方法を教えて頂いています。本当にありがたいなぁと身に沁みます。そして、「これからは被災地で出会った子ども達のことも思い浮かべよう…」と、私はこの時誓ったのでした。
震災が起きた前月の２月に、長女が生まれました。彼女の誕生日が訪れる度に震災のことを思い出します。
今年の２月に長女は15才になりました。もうあれから15年が経ったのです。おかげで彼女には、何度もこの出来事について話をすることが出来ました。当たり前の毎日の有り難さや、人のために何かをすることの大切さ、そして、おつとめを通して、願う心の尊さについて伝えてきたつもりです。
ところが、まだ子どもですから、理屈では分かっても、長女にとっても、弟や妹たちにとっても、教会でのおつとめはメンドクサイものです。
中一の三男がお年頃になり、だんだんおつとめを真面目につとめなくなりました。そんな時、仲の良い友人が学校に行けなくなったのです。
妻が彼に、「教祖は、人のたすかりを願う方法として、おつとめを教えて下さったんやで。そのお友達が元気になるように、祈ってみたら？」と提案しました。すると、夕方のおつとめをいつになく真剣につとめるようになったのです。
「朝はメンドクサイけど、夕づとめは一生懸命祈ってるで」と三男。まぁ、子どもにしてみれば十分かなと、微笑ましい気持ちになりました。
「世界一れつをたすけたい」というのが神様の思いです。私たち一人ひとりにとっては途方もないミッションですが、その具体的な手段がおつとめだと思うのです。
あの震災以降も、世の中では様々な災害が起こり、さらには戦争や紛争も止まず、そしてコロナのような疫病の世界的流行も経験しました。でも、その度に信仰を同じくする仲間が具体的な支援に励むと共に、ずっとずっとおつとめをつとめてくれていることが、誇らしくてたまりません。
私も、このおつとめに、いつでも心を込めて祈ってゆきたい。三男の姿に励まされ、決意を新たにしました。そして、あの日、あの時に、歌を届けてくれた子ども達を決して忘れないようにしたいと、重ねて心に決めたのでした。
教祖、「おつとめ」を教えて下さり、本当にありがとうございます。



一二三と言う

神様のお言葉に、
「一二三と言う。一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三、一つ／＼組むようなもの。成程という理治まれば、十分神が守護する」（Ｍ39・5・20）
とあります。
何をするにも、なるほどと合点がいけば、物事はスムーズに進行し、実に気分良く暮らすことができるでしょう。ただこの場合、何をもってなるほどと思うのかが問題です。自分の都合に合わせてなのか、それとも神様のお話になるほどと思うのか。常に自分の都合に合わせていくとなると、その先には何か大きなトラブルが待ち受けていないとも限りません。
原典である「おふでさき」には、
　　いまゝでにないたすけをばするからハ　　もとをしらさん事にをいてわ　（九 29）
と示されています。
元を教えてたすけることこそ、この道の本質である、ということです。親神様は先を見通しつつ、今まで誰も知らなかった人間の元、根源をお話になるわけですから、直ちにすべてを心に治めるのは難しいかもしれません。
「一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三」とあるように、親神様のお話を順序良く、一と言われたことを一と納得し、二と言われたことを二として了解していくのが、確実な道の歩み方なのです。
お言葉の後半は、「心というものは、皆んな神が守護してある」と続きます。これは、人間の心遣いまで親神様が支配しているという意味ではありません。親神様のご守護があればこそ、心を働かせることができるということです。
使った心の働きだけが、自らの肥やしとなり、生きる糧となるのです。これを得心しつつ通ってこそ、「成程という理治まれば、十分神が守護する」ということになるのではないでしょうか。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 27 Feb 2026 09:22:15 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>事故で喜べた話</title>
        <description><![CDATA[事故で喜べた話
福岡県在住　　内山　真太朗

私がお預かりしている教会につながる、天理の高校に通う男の子から、「学校を辞めたい」という相談がありました。一年生の夏が過ぎた辺りから精神的にしんどくなり、学校に行けなくなってしまったとのこと。
それでも何とか頑張って続けてもらいたいと、彼と話をするためにおぢばへ帰り面会しましたが、見るからに病んでしまっている様子。聞けば、精神科に通院しているといい、学校もこれ以上休めば二年生への進級は出来ないという所まで来ていました。私はこの状態では退学もやむを得ないだろうと思い、今後の相談をさせて頂くために学校と連絡を取りました。
先生方との面談まで少し時間があったので、本部神殿前の駐車場に車をとめ、参拝をしました。参拝を終え、駐車場に戻り車を発進させた途端、横から来た車とぶつかってしまいました。相手の方の無事を確認し、警察を呼んで事故処理をしてもらいましたが、車のフロント部分がぐちゃぐちゃに潰れてしまい、これはしばらく地元には帰れないのではと思いました。
警察の人に確認すると、「ライトも付くし車も動くので、大丈夫ですよ」と言われ安心しました。しかし、若者の人生を左右するこの大事な時に、神様のお鎮まり下さるおぢばの目の前で事故を起こしてしまい、これは何か神様からのメッセージが込められていると思わずにはいられませんでした。
真っ先に考えたのは、車が前進している時に事故を起こしたということは、自分は今、彼に学校を辞めさせようと思っているけれど、それを神様がお止めになっているのではないだろうかと。しかし、どう考えても今の状況では再び学校に通うことは出来そうにありません。
判断に困った私は、大教会長様にお伺いしてみようと、すぐに電話で連絡を取りました。学生本人の状況と私が起こした事故までの一連を報告したところ、このようにお話し下さいました。
「それは恐らく、車がその子の身代わりになったんだと思う。このままいけば、その子は自ら命を絶っていたかもしれない。そこを車が代わりに潰れてくれたんだから、神様から命をつないで頂いたと悟って、前を向いていこう」
なるほど、私の中には全くなかった悟りをお話し頂きました。ただ、心の中では、「車は完全に潰れたわけじゃないし、このまま地元まで帰れそうだしな…」と、大教会長様のお話に対して若干疑いの心がありました。
結果的に、その日の話し合いで学校を中退することが決まり、そのまま地元の福岡へ連れて帰ることになりました。
車の後部座席いっぱいに彼の荷物を積み、その日のうちにフェリーに乗り、翌朝福岡に到着しました。港に着いて、彼を助手席に乗せ高速道路を走っていた時です。前の車が急にブレーキをかけたので、やばい！ぶつかる！と思い、すぐにブレーキを踏み、何とかギリギリぶつからずに停止しました。と思った瞬間、後ろからドーンッ！と追突され、その反動で前の車にぶつかり、私の車は横転してしまいました。
とっさに、「あ、これ、命が終わるかな？」と覚悟しました。ところが、「あれ？どこも痛くない…」助手席の彼に「大丈夫か？」と聞くと、「大丈夫です」と言うので、「よし、脱出するぞ！」と、横転した車のドアを二人がかりでこじ開け、何とか外に出ることが出来ました。
車の上から状況を見ると、四台が絡む玉突き事故。私の車は大破し、今度は完全に再起不能となってしまいました。しかし、乗っていた私たち二人は身体のどこにも痛みがなく、無傷でした。幸い、車のうしろに満タンに積んでいた荷物がクッションとなり、割れたガラスの破片からもガードしてくれ、傷一つ負わずに済んだのです。
その時、ハッと、前日に大教会長様から言われたことを思い出しました。
「車が身代わりに…」まさにたった今、車が身代わりになって命をたすけて頂いたのです。自分の車が大破しているという絶望的な現実を前にしても、なぜか私の心はとても明るかった。命を与えて頂けたんだ、有り難い！と心底思うことが出来ました。
そして彼には、「私たちは今回の事故で命を落としてもおかしくなかった。そこを神様にたすけて頂き、命を頂いたんだから、学校は辞めることになったけど、生まれ変わったつもりで、何でも喜んで頑張らせてもらおう」と伝えることが出来ました。
教祖ご在世当時の話。増井りん先生が、猛吹雪の日、大阪からおぢばまで帰らせて頂くと、教祖は、「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあ／＼親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ」とお言葉を下さいました。
これは今を通る私たちにとっても大切なお言葉だと思います。私たちは普段の生活の中でも、色々なトラブルや病気など、あちらにてもこちらにても、滑って、転んで、心を倒しそうな難儀な事に出合います。
しかし、そんな中でも喜びを見つけて通っていけば、親神様がどんなご守護も下さるのだという、とても力強く、心強いお言葉です。
この事故を通して、どんな事があっても、親神様、教祖にお喜び頂く心で通るという、ようぼくとしての日々の通り方を再認識させて頂くことが出来ました。



慎み

天理教の掲げる陽気ぐらしのキーワードに、「感謝・慎み・たすけあい」の三つがあります。その中でも「慎み」はあまり馴染みのない表現かも知れませんが、その教理的根拠となるお言葉が「おふでさき」に記されています。

　　たん／＼となに事にてもこのよふわ　　神のからだやしやんしてみよ　（三 40・135）

人間の身体のみならず、この世界の一切のものは親神様からのかりものであり、すべての事物、現象の元である。ゆえに、絶対に無駄にせず、生かして使うことを教えられています。
教祖は監獄署に拘留されている時、差し入れられて、いらなくなった紙でコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。それは実に丈夫に作られた袋でした。教祖は、監獄署からお帰りの際、お伴の仲田儀三郎さんに、その袋をお与えになり、
「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで」
と仰せになりました。（教祖伝逸話篇138「物は大切に」）
親神様からのどんなお与えも無駄にしない慎みの心を、教祖は身をもってお示し下されたのです。
また、お言葉にも、
　「慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」（Ｍ25・1・14）
あるいは、
「慎みの心が元である」（Ｍ28・5・19）
とあります。
現在、私たちは科学技術文明の恩恵に浴して、あまりに恵まれた生活をしていますが、そのような生活が、陽気ぐらしに結びついているとは決して言えない状況です。すべては「天のあたゑ」である、という大切な思いを無視した「我さえよくば、今さえよくば」という強欲のほこりが、知らないうちに積もり重なっているのではないでしょうか。

　　なにもかもごふよくつくしそのゆへハ　　神のりいふくみへてくるぞや　（二 43）

この世界は親神様の身体であって、あらゆる物はその一部です。どんなものも、私たち人間には所有権のない「かりもの」であると悟ることができれば、自然と報恩の気持ちが湧き上がり、大切にせずにはおれなくなるのではないでしょうか。
さらに言えば、物は人と人とをつなぐものであり、物を大切にすることは、人を大切にすることにもつながります。
　「人間の反故を、作らんようにしておくれ」（教祖伝逸話篇121「葉っぱ一枚も」）
と、教祖は仰せ下さいました。まさに、物を大切にすることが人だすけにつながることをお示し下されたのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>事故で喜べた話
福岡県在住　　内山　真太朗

私がお預かりしている教会につながる、天理の高校に通う男の子から、「学校を辞めたい」という相談がありました。一年生の夏が過ぎた辺りから精神的にしんどくなり、学校に行けなくなってしまったとのこと。
それでも何とか頑張って続けてもらいたいと、彼と話をするためにおぢばへ帰り面会しましたが、見るからに病んでしまっている様子。聞けば、精神科に通院しているといい、学校もこれ以上休めば二年生への進級は出来ないという所まで来ていました。私はこの状態では退学もやむを得ないだろうと思い、今後の相談をさせて頂くために学校と連絡を取りました。
先生方との面談まで少し時間があったので、本部神殿前の駐車場に車をとめ、参拝をしました。参拝を終え、駐車場に戻り車を発進させた途端、横から来た車とぶつかってしまいました。相手の方の無事を確認し、警察を呼んで事故処理をしてもらいましたが、車のフロント部分がぐちゃぐちゃに潰れてしまい、これはしばらく地元には帰れないのではと思いました。
警察の人に確認すると、「ライトも付くし車も動くので、大丈夫ですよ」と言われ安心しました。しかし、若者の人生を左右するこの大事な時に、神様のお鎮まり下さるおぢばの目の前で事故を起こしてしまい、これは何か神様からのメッセージが込められていると思わずにはいられませんでした。
真っ先に考えたのは、車が前進している時に事故を起こしたということは、自分は今、彼に学校を辞めさせようと思っているけれど、それを神様がお止めになっているのではないだろうかと。しかし、どう考えても今の状況では再び学校に通うことは出来そうにありません。
判断に困った私は、大教会長様にお伺いしてみようと、すぐに電話で連絡を取りました。学生本人の状況と私が起こした事故までの一連を報告したところ、このようにお話し下さいました。
「それは恐らく、車がその子の身代わりになったんだと思う。このままいけば、その子は自ら命を絶っていたかもしれない。そこを車が代わりに潰れてくれたんだから、神様から命をつないで頂いたと悟って、前を向いていこう」
なるほど、私の中には全くなかった悟りをお話し頂きました。ただ、心の中では、「車は完全に潰れたわけじゃないし、このまま地元まで帰れそうだしな…」と、大教会長様のお話に対して若干疑いの心がありました。
結果的に、その日の話し合いで学校を中退することが決まり、そのまま地元の福岡へ連れて帰ることになりました。
車の後部座席いっぱいに彼の荷物を積み、その日のうちにフェリーに乗り、翌朝福岡に到着しました。港に着いて、彼を助手席に乗せ高速道路を走っていた時です。前の車が急にブレーキをかけたので、やばい！ぶつかる！と思い、すぐにブレーキを踏み、何とかギリギリぶつからずに停止しました。と思った瞬間、後ろからドーンッ！と追突され、その反動で前の車にぶつかり、私の車は横転してしまいました。
とっさに、「あ、これ、命が終わるかな？」と覚悟しました。ところが、「あれ？どこも痛くない…」助手席の彼に「大丈夫か？」と聞くと、「大丈夫です」と言うので、「よし、脱出するぞ！」と、横転した車のドアを二人がかりでこじ開け、何とか外に出ることが出来ました。
車の上から状況を見ると、四台が絡む玉突き事故。私の車は大破し、今度は完全に再起不能となってしまいました。しかし、乗っていた私たち二人は身体のどこにも痛みがなく、無傷でした。幸い、車のうしろに満タンに積んでいた荷物がクッションとなり、割れたガラスの破片からもガードしてくれ、傷一つ負わずに済んだのです。
その時、ハッと、前日に大教会長様から言われたことを思い出しました。
「車が身代わりに…」まさにたった今、車が身代わりになって命をたすけて頂いたのです。自分の車が大破しているという絶望的な現実を前にしても、なぜか私の心はとても明るかった。命を与えて頂けたんだ、有り難い！と心底思うことが出来ました。
そして彼には、「私たちは今回の事故で命を落としてもおかしくなかった。そこを神様にたすけて頂き、命を頂いたんだから、学校は辞めることになったけど、生まれ変わったつもりで、何でも喜んで頑張らせてもらおう」と伝えることが出来ました。
教祖ご在世当時の話。増井りん先生が、猛吹雪の日、大阪からおぢばまで帰らせて頂くと、教祖は、「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあ／＼親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ」とお言葉を下さいました。
これは今を通る私たちにとっても大切なお言葉だと思います。私たちは普段の生活の中でも、色々なトラブルや病気など、あちらにてもこちらにても、滑って、転んで、心を倒しそうな難儀な事に出合います。
しかし、そんな中でも喜びを見つけて通っていけば、親神様がどんなご守護も下さるのだという、とても力強く、心強いお言葉です。
この事故を通して、どんな事があっても、親神様、教祖にお喜び頂く心で通るという、ようぼくとしての日々の通り方を再認識させて頂くことが出来ました。



慎み

天理教の掲げる陽気ぐらしのキーワードに、「感謝・慎み・たすけあい」の三つがあります。その中でも「慎み」はあまり馴染みのない表現かも知れませんが、その教理的根拠となるお言葉が「おふでさき」に記されています。

　　たん／＼となに事にてもこのよふわ　　神のからだやしやんしてみよ　（三 40・135）

人間の身体のみならず、この世界の一切のものは親神様からのかりものであり、すべての事物、現象の元である。ゆえに、絶対に無駄にせず、生かして使うことを教えられています。
教祖は監獄署に拘留されている時、差し入れられて、いらなくなった紙でコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。それは実に丈夫に作られた袋でした。教祖は、監獄署からお帰りの際、お伴の仲田儀三郎さんに、その袋をお与えになり、
「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで」
と仰せになりました。（教祖伝逸話篇138「物は大切に」）
親神様からのどんなお与えも無駄にしない慎みの心を、教祖は身をもってお示し下されたのです。
また、お言葉にも、
　「慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」（Ｍ25・1・14）
あるいは、
「慎みの心が元である」（Ｍ28・5・19）
とあります。
現在、私たちは科学技術文明の恩恵に浴して、あまりに恵まれた生活をしていますが、そのような生活が、陽気ぐらしに結びついているとは決して言えない状況です。すべては「天のあたゑ」である、という大切な思いを無視した「我さえよくば、今さえよくば」という強欲のほこりが、知らないうちに積もり重なっているのではないでしょうか。

　　なにもかもごふよくつくしそのゆへハ　　神のりいふくみへてくるぞや　（二 43）

この世界は親神様の身体であって、あらゆる物はその一部です。どんなものも、私たち人間には所有権のない「かりもの」であると悟ることができれば、自然と報恩の気持ちが湧き上がり、大切にせずにはおれなくなるのではないでしょうか。
さらに言えば、物は人と人とをつなぐものであり、物を大切にすることは、人を大切にすることにもつながります。
　「人間の反故を、作らんようにしておくれ」（教祖伝逸話篇121「葉っぱ一枚も」）
と、教祖は仰せ下さいました。まさに、物を大切にすることが人だすけにつながることをお示し下されたのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>事故で喜べた話
福岡県在住　　内山　真太朗

私がお預かりしている教会につながる、天理の高校に通う男の子から、「学校を辞めたい」という相談がありました。一年生の夏が過ぎた辺りから精神的にしんどくなり、学校に行けなくなってしまったとのこと。
それでも何とか頑張って続けてもらいたいと、彼と話をするためにおぢばへ帰り面会しましたが、見るからに病んでしまっている様子。聞けば、精神科に通院しているといい、学校もこれ以上休めば二年生への進級は出来ないという所まで来ていました。私はこの状態では退学もやむを得ないだろうと思い、今後の相談をさせて頂くために学校と連絡を取りました。
先生方との面談まで少し時間があったので、本部神殿前の駐車場に車をとめ、参拝をしました。参拝を終え、駐車場に戻り車を発進させた途端、横から来た車とぶつかってしまいました。相手の方の無事を確認し、警察を呼んで事故処理をしてもらいましたが、車のフロント部分がぐちゃぐちゃに潰れてしまい、これはしばらく地元には帰れないのではと思いました。
警察の人に確認すると、「ライトも付くし車も動くので、大丈夫ですよ」と言われ安心しました。しかし、若者の人生を左右するこの大事な時に、神様のお鎮まり下さるおぢばの目の前で事故を起こしてしまい、これは何か神様からのメッセージが込められていると思わずにはいられませんでした。
真っ先に考えたのは、車が前進している時に事故を起こしたということは、自分は今、彼に学校を辞めさせようと思っているけれど、それを神様がお止めになっているのではないだろうかと。しかし、どう考えても今の状況では再び学校に通うことは出来そうにありません。
判断に困った私は、大教会長様にお伺いしてみようと、すぐに電話で連絡を取りました。学生本人の状況と私が起こした事故までの一連を報告したところ、このようにお話し下さいました。
「それは恐らく、車がその子の身代わりになったんだと思う。このままいけば、その子は自ら命を絶っていたかもしれない。そこを車が代わりに潰れてくれたんだから、神様から命をつないで頂いたと悟って、前を向いていこう」
なるほど、私の中には全くなかった悟りをお話し頂きました。ただ、心の中では、「車は完全に潰れたわけじゃないし、このまま地元まで帰れそうだしな…」と、大教会長様のお話に対して若干疑いの心がありました。
結果的に、その日の話し合いで学校を中退することが決まり、そのまま地元の福岡へ連れて帰ることになりました。
車の後部座席いっぱいに彼の荷物を積み、その日のうちにフェリーに乗り、翌朝福岡に到着しました。港に着いて、彼を助手席に乗せ高速道路を走っていた時です。前の車が急にブレーキをかけたので、やばい！ぶつかる！と思い、すぐにブレーキを踏み、何とかギリギリぶつからずに停止しました。と思った瞬間、後ろからドーンッ！と追突され、その反動で前の車にぶつかり、私の車は横転してしまいました。
とっさに、「あ、これ、命が終わるかな？」と覚悟しました。ところが、「あれ？どこも痛くない…」助手席の彼に「大丈夫か？」と聞くと、「大丈夫です」と言うので、「よし、脱出するぞ！」と、横転した車のドアを二人がかりでこじ開け、何とか外に出ることが出来ました。
車の上から状況を見ると、四台が絡む玉突き事故。私の車は大破し、今度は完全に再起不能となってしまいました。しかし、乗っていた私たち二人は身体のどこにも痛みがなく、無傷でした。幸い、車のうしろに満タンに積んでいた荷物がクッションとなり、割れたガラスの破片からもガードしてくれ、傷一つ負わずに済んだのです。
その時、ハッと、前日に大教会長様から言われたことを思い出しました。
「車が身代わりに…」まさにたった今、車が身代わりになって命をたすけて頂いたのです。自分の車が大破しているという絶望的な現実を前にしても、なぜか私の心はとても明るかった。命を与えて頂けたんだ、有り難い！と心底思うことが出来ました。
そして彼には、「私たちは今回の事故で命を落としてもおかしくなかった。そこを神様にたすけて頂き、命を頂いたんだから、学校は辞めることになったけど、生まれ変わったつもりで、何でも喜んで頑張らせてもらおう」と伝えることが出来ました。
教祖ご在世当時の話。増井りん先生が、猛吹雪の日、大阪からおぢばまで帰らせて頂くと、教祖は、「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあ／＼親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ」とお言葉を下さいました。
これは今を通る私たちにとっても大切なお言葉だと思います。私たちは普段の生活の中でも、色々なトラブルや病気など、あちらにてもこちらにても、滑って、転んで、心を倒しそうな難儀な事に出合います。
しかし、そんな中でも喜びを見つけて通っていけば、親神様がどんなご守護も下さるのだという、とても力強く、心強いお言葉です。
この事故を通して、どんな事があっても、親神様、教祖にお喜び頂く心で通るという、ようぼくとしての日々の通り方を再認識させて頂くことが出来ました。



慎み

天理教の掲げる陽気ぐらしのキーワードに、「感謝・慎み・たすけあい」の三つがあります。その中でも「慎み」はあまり馴染みのない表現かも知れませんが、その教理的根拠となるお言葉が「おふでさき」に記されています。

　　たん／＼となに事にてもこのよふわ　　神のからだやしやんしてみよ　（三 40・135）

人間の身体のみならず、この世界の一切のものは親神様からのかりものであり、すべての事物、現象の元である。ゆえに、絶対に無駄にせず、生かして使うことを教えられています。
教祖は監獄署に拘留されている時、差し入れられて、いらなくなった紙でコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。それは実に丈夫に作られた袋でした。教祖は、監獄署からお帰りの際、お伴の仲田儀三郎さんに、その袋をお与えになり、
「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで」
と仰せになりました。（教祖伝逸話篇138「物は大切に」）
親神様からのどんなお与えも無駄にしない慎みの心を、教祖は身をもってお示し下されたのです。
また、お言葉にも、
　「慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」（Ｍ25・1・14）
あるいは、
「慎みの心が元である」（Ｍ28・5・19）
とあります。
現在、私たちは科学技術文明の恩恵に浴して、あまりに恵まれた生活をしていますが、そのような生活が、陽気ぐらしに結びついているとは決して言えない状況です。すべては「天のあたゑ」である、という大切な思いを無視した「我さえよくば、今さえよくば」という強欲のほこりが、知らないうちに積もり重なっているのではないでしょうか。

　　なにもかもごふよくつくしそのゆへハ　　神のりいふくみへてくるぞや　（二 43）

この世界は親神様の身体であって、あらゆる物はその一部です。どんなものも、私たち人間には所有権のない「かりもの」であると悟ることができれば、自然と報恩の気持ちが湧き上がり、大切にせずにはおれなくなるのではないでしょうか。
さらに言えば、物は人と人とをつなぐものであり、物を大切にすることは、人を大切にすることにもつながります。
　「人間の反故を、作らんようにしておくれ」（教祖伝逸話篇121「葉っぱ一枚も」）
と、教祖は仰せ下さいました。まさに、物を大切にすることが人だすけにつながることをお示し下されたのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 20 Feb 2026 09:19:09 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>楽しい夏のセミナー</title>
        <description><![CDATA[楽しい夏のセミナー
フランス在住　　長谷川　善久

天理教の教会では、親子三世代が一緒に暮らしている様子は、割とどこにでもあるものだと思います。しかし、日本とフランスにおける三世代同居の割合を調べてみると、日本が9.4％、フランスではわずか1％ほどであり、かつどちらの国も年々減少傾向にあるようです。
おじいちゃん、おばあちゃんが孫と一緒に平穏な日々を過ごす天理教の教会は、そのライフスタイルだけをとっても、社会的に希少価値が高まっていることが分かります。
フランスにあるヨーロッパ出張所も大所帯で生活しています。現在、同じ敷地内で寝食を共にしているスタッフは、上は50代後半から下は１歳まで、一家族、一夫婦、６人の独身者の計13人が暮らしています。ここに日中は外から通う70代後半のひのきしん者が一人、30代の勤務者が一人加わって、毎日神様の御用を賑やかにつとめています。
正直に言って、このような共同生活ではストレスも溜まりやすいもの。まして日本人が外国に住んでいるのですからなおさらです。それだけに、普段から生活の意識を自分中心に置くのではなく、親神様、教祖を中心にして、人様をしっかりと内側に引き寄せる努力が大切になってきます。
お互いに関心を持ち合い、ささいなことからでも、温かいコミュニケーションを通して信頼関係を保つことは欠かせません。私も所長の務めとして、お互いが自然に円滑に触れ合えるような雰囲気を作り上げることを、絶えず意識しています。
色々と苦労は絶えませんが、最近の社会学や心理学の研究でも、「共同生活は人々の幸福感に良い影響を与える」と分かってきたように、実際、私自身の経験からもこの説に間違いはないと思っています。
そんな、ストレスも溜まれば幸福感も高まる共同生活空間である出張所を会場に、昨年の夏、宿泊型の教理セミナーが開催されました。
一週間にわたる授業では、形式にとらわれることなく、生徒は疑問に思ったことはいつでも質問ができます。また、教え方も講師の自由裁量を認めていて、例えば教祖の道すがらについては、劇画『教祖物語』の場面描写を用いた授業もありました。
私が講師を担当した『みかぐらうた』では、お歌の意味の理解に加えて、受講生が一人で歌えるようになることを目標にした、日本人に対してはやらないであろう指導を行いました。
と言うのも、フランスでもみかぐらうたは日本語で歌われており、フランス人には簡単には覚えられません。参拝に来るほとんどの方は、翻訳冊子を見れば意味は理解出来ますが、日本人信者のように自信を持って歌うことは難しいのです。
もし一人ひとりが、鳴物に合わせてみかぐらうたを歌う事が出来るようになれば、彼らももっと、おつとめに心を込めることが出来るようになり、月に一度の月次祭も楽しく参拝出来るのではないかと思いついたのです。
そこで、日本語が出来ないのに、日本のアニメソングをカラオケで上手に歌う外国人にヒントを得て、独自にみかぐらうたのカラオケを作成しました。そして、授業では一人ずつ何度も何度も繰り返し歌いながら、言葉の意味は同時に理解出来なくても、教祖が教えられた言葉の響きや調べを身体で感じてもらうよう努めたのです。人生で一度もカラオケに行ったことがないという人もいましたが、勇気を出して一人で歌ってもらいました。
そのようなセミナーの初級クラス参加者５名の中に、子供のない高齢者夫婦がいました。この夫婦は古くから出張所にご縁があり、一度おぢばがえりしたこともあったのですが、旦那さんの気難しい性格と様々な状況が重なり、信仰に対して距離を取る時間が長く続いていたのです。
そんな夫婦でしたので、セミナーに参加されると聞いた時は、もしかしたら旦那さんによって、場が乱されるような展開があるかも知れないと、若干の不安が頭をよぎりました。
セミナーでは、朝、昼、夜の三食を講師やスタッフも受講生に混ざって一緒にとります。毎食20名以上が一緒に食べる賑やかな時間となっていました。普段は二人だけで過ごしているこの夫婦にしてみれば、最初は慣れない状況に戸惑ったと思います。このような団体生活を初めて経験し、精神的な疲労も溜まるでしょうし、加えて机に座って勉強することに対するストレスもあるだろうことは予見出来ていました。
そこで私がとった方策はただ一つ、講師はもちろんのこと、フランス語の出来ないスタッフに対しても、食事の時に日本人同士で固まるのではなく、意識してフランス人受講生の隣りに座ること。そして彼らと一言でも二言でも言葉を交わして、コミュニケーションを取ってもらうことです。
戸惑いの顔を見せる若いスタッフもいましたが、とにかくどんな手段でもいいので、自分から積極的に受講生にアプローチする努力を続けるようお願いしました。
そうしたところ、最初は緊張した雰囲気が漂っていた食事の場が、日が経つにつれて次第に和らいでいきました。実際、食堂に笑い声が絶えることはなく、食事にかける時間も徐々に長くなり、場合によっては一時間を超えることも珍しくなくなっていました。
おてふり、鳴物の指導は主に若いスタッフが担当していましたが、食事の時間を通して生まれた信頼関係が指導の未熟さをカバーしてくれ、参加者は親子ほど年齢の違う若い講師に対しても、リスペクトをもって積極的に学んでくれたのです。
こうして、一週間を通してスタッフ全員と受講生全員が家族のようにつながり合ったセミナーの最後の懇親会では、全員での大合唱も飛び出し、楽しい夜を過ごすことが出来ました。セミナーが始まる前に私が持っていた不安は、全くの杞憂に終わったのです。
その不安の要素となっていた旦那さんに、終了後感想を求めると、「出張所の若い人達の生き生きとした姿に感動した。彼らを見ているだけで元気になれる。このような天理教のコミュニティーのメンバーでいられて本当に幸せだ」と語ってくれました。
懇親会のカラオケ大会では、旦那さんは初めて人前でマイクを握って熱唱し、場の盛り上げに一役買ってくれました。そんな彼の姿に、スタッフ全員が、この夏のセミナーが大成功に終わった喜びを感じたのでした。



夫婦

　　このよのぢいとてんとをかたどりて　　　ふうふをこしらへきたるでな　　これハこのよのはじめだし

このお歌は、天理教の朝夕のおつとめで唱える「みかぐらうた」の一節です。
「自然のすべてが天地の間で生成発展するように、夫婦があって新しい命が宿り、家族ができ、社会が形成される。夫婦こそ人間世界のすべての始まりであり、元である」と、これ以上ないほど端的にお示し下されています。
夫婦や結婚の形も時代と共に様変わりしています。お見合い結婚はもう過去のもの、恋愛結婚が主流となり、今やＳＮＳ上での出会いから関係が発展して夫婦となるのも、当たり前の現象となってきました。しかし、どのような出会いにも、その蔭ではちゃんと神様が働いて下さっているというのが、次のお言葉です。

「縁談というは、そう難しいようなものやない。一人があれと言うた処が行くものやない。あれとこれと心寄り合うがいんねん。いんねんなら両方から寄り合うてこうと言う。いんねんがありゃこそ、これまで縁談一条治まって居る」（Ｍ27・9・21）

結婚とは自分だけで決められるものではない。双方が歩み寄って夫婦となるのはもちろんですが、そこには出会うべくして出会ったいんねんというものがある。そのいんねんという捉え方が、結婚生活を支える上で、特に夫婦の関係が危機を迎えた時にとても大切な土台となるのです。
そして何より、陽気ぐらしへ向けて、二人の心が寄り合い、心の成人に向けて励まし合うためにこそ夫婦というものがあることを忘れてはなりません。
「おつとめ」は、お互いが向き合うのではなく、横並びになって、それぞれが一対一で親神様に向き合い、親心を求めて真剣につとめます。それは、時に向かい合ってぶつかり合うこともある夫婦の日常の中で、一人ひとりが安らかに自らの心を顧みる貴重な時間です。
おつとめでそれぞれが自らの通り方を反省し、あらためて横に並んでいる相手と向き合った時、夫婦とは共に成人を目指す仲間であると、認識を新たにする。それが、夫婦で信仰をする上での一つの大きな喜びではないでしょうか。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>楽しい夏のセミナー
フランス在住　　長谷川　善久

天理教の教会では、親子三世代が一緒に暮らしている様子は、割とどこにでもあるものだと思います。しかし、日本とフランスにおける三世代同居の割合を調べてみると、日本が9.4％、フランスではわずか1％ほどであり、かつどちらの国も年々減少傾向にあるようです。
おじいちゃん、おばあちゃんが孫と一緒に平穏な日々を過ごす天理教の教会は、そのライフスタイルだけをとっても、社会的に希少価値が高まっていることが分かります。
フランスにあるヨーロッパ出張所も大所帯で生活しています。現在、同じ敷地内で寝食を共にしているスタッフは、上は50代後半から下は１歳まで、一家族、一夫婦、６人の独身者の計13人が暮らしています。ここに日中は外から通う70代後半のひのきしん者が一人、30代の勤務者が一人加わって、毎日神様の御用を賑やかにつとめています。
正直に言って、このような共同生活ではストレスも溜まりやすいもの。まして日本人が外国に住んでいるのですからなおさらです。それだけに、普段から生活の意識を自分中心に置くのではなく、親神様、教祖を中心にして、人様をしっかりと内側に引き寄せる努力が大切になってきます。
お互いに関心を持ち合い、ささいなことからでも、温かいコミュニケーションを通して信頼関係を保つことは欠かせません。私も所長の務めとして、お互いが自然に円滑に触れ合えるような雰囲気を作り上げることを、絶えず意識しています。
色々と苦労は絶えませんが、最近の社会学や心理学の研究でも、「共同生活は人々の幸福感に良い影響を与える」と分かってきたように、実際、私自身の経験からもこの説に間違いはないと思っています。
そんな、ストレスも溜まれば幸福感も高まる共同生活空間である出張所を会場に、昨年の夏、宿泊型の教理セミナーが開催されました。
一週間にわたる授業では、形式にとらわれることなく、生徒は疑問に思ったことはいつでも質問ができます。また、教え方も講師の自由裁量を認めていて、例えば教祖の道すがらについては、劇画『教祖物語』の場面描写を用いた授業もありました。
私が講師を担当した『みかぐらうた』では、お歌の意味の理解に加えて、受講生が一人で歌えるようになることを目標にした、日本人に対してはやらないであろう指導を行いました。
と言うのも、フランスでもみかぐらうたは日本語で歌われており、フランス人には簡単には覚えられません。参拝に来るほとんどの方は、翻訳冊子を見れば意味は理解出来ますが、日本人信者のように自信を持って歌うことは難しいのです。
もし一人ひとりが、鳴物に合わせてみかぐらうたを歌う事が出来るようになれば、彼らももっと、おつとめに心を込めることが出来るようになり、月に一度の月次祭も楽しく参拝出来るのではないかと思いついたのです。
そこで、日本語が出来ないのに、日本のアニメソングをカラオケで上手に歌う外国人にヒントを得て、独自にみかぐらうたのカラオケを作成しました。そして、授業では一人ずつ何度も何度も繰り返し歌いながら、言葉の意味は同時に理解出来なくても、教祖が教えられた言葉の響きや調べを身体で感じてもらうよう努めたのです。人生で一度もカラオケに行ったことがないという人もいましたが、勇気を出して一人で歌ってもらいました。
そのようなセミナーの初級クラス参加者５名の中に、子供のない高齢者夫婦がいました。この夫婦は古くから出張所にご縁があり、一度おぢばがえりしたこともあったのですが、旦那さんの気難しい性格と様々な状況が重なり、信仰に対して距離を取る時間が長く続いていたのです。
そんな夫婦でしたので、セミナーに参加されると聞いた時は、もしかしたら旦那さんによって、場が乱されるような展開があるかも知れないと、若干の不安が頭をよぎりました。
セミナーでは、朝、昼、夜の三食を講師やスタッフも受講生に混ざって一緒にとります。毎食20名以上が一緒に食べる賑やかな時間となっていました。普段は二人だけで過ごしているこの夫婦にしてみれば、最初は慣れない状況に戸惑ったと思います。このような団体生活を初めて経験し、精神的な疲労も溜まるでしょうし、加えて机に座って勉強することに対するストレスもあるだろうことは予見出来ていました。
そこで私がとった方策はただ一つ、講師はもちろんのこと、フランス語の出来ないスタッフに対しても、食事の時に日本人同士で固まるのではなく、意識してフランス人受講生の隣りに座ること。そして彼らと一言でも二言でも言葉を交わして、コミュニケーションを取ってもらうことです。
戸惑いの顔を見せる若いスタッフもいましたが、とにかくどんな手段でもいいので、自分から積極的に受講生にアプローチする努力を続けるようお願いしました。
そうしたところ、最初は緊張した雰囲気が漂っていた食事の場が、日が経つにつれて次第に和らいでいきました。実際、食堂に笑い声が絶えることはなく、食事にかける時間も徐々に長くなり、場合によっては一時間を超えることも珍しくなくなっていました。
おてふり、鳴物の指導は主に若いスタッフが担当していましたが、食事の時間を通して生まれた信頼関係が指導の未熟さをカバーしてくれ、参加者は親子ほど年齢の違う若い講師に対しても、リスペクトをもって積極的に学んでくれたのです。
こうして、一週間を通してスタッフ全員と受講生全員が家族のようにつながり合ったセミナーの最後の懇親会では、全員での大合唱も飛び出し、楽しい夜を過ごすことが出来ました。セミナーが始まる前に私が持っていた不安は、全くの杞憂に終わったのです。
その不安の要素となっていた旦那さんに、終了後感想を求めると、「出張所の若い人達の生き生きとした姿に感動した。彼らを見ているだけで元気になれる。このような天理教のコミュニティーのメンバーでいられて本当に幸せだ」と語ってくれました。
懇親会のカラオケ大会では、旦那さんは初めて人前でマイクを握って熱唱し、場の盛り上げに一役買ってくれました。そんな彼の姿に、スタッフ全員が、この夏のセミナーが大成功に終わった喜びを感じたのでした。



夫婦

　　このよのぢいとてんとをかたどりて　　　ふうふをこしらへきたるでな　　これハこのよのはじめだし

このお歌は、天理教の朝夕のおつとめで唱える「みかぐらうた」の一節です。
「自然のすべてが天地の間で生成発展するように、夫婦があって新しい命が宿り、家族ができ、社会が形成される。夫婦こそ人間世界のすべての始まりであり、元である」と、これ以上ないほど端的にお示し下されています。
夫婦や結婚の形も時代と共に様変わりしています。お見合い結婚はもう過去のもの、恋愛結婚が主流となり、今やＳＮＳ上での出会いから関係が発展して夫婦となるのも、当たり前の現象となってきました。しかし、どのような出会いにも、その蔭ではちゃんと神様が働いて下さっているというのが、次のお言葉です。

「縁談というは、そう難しいようなものやない。一人があれと言うた処が行くものやない。あれとこれと心寄り合うがいんねん。いんねんなら両方から寄り合うてこうと言う。いんねんがありゃこそ、これまで縁談一条治まって居る」（Ｍ27・9・21）

結婚とは自分だけで決められるものではない。双方が歩み寄って夫婦となるのはもちろんですが、そこには出会うべくして出会ったいんねんというものがある。そのいんねんという捉え方が、結婚生活を支える上で、特に夫婦の関係が危機を迎えた時にとても大切な土台となるのです。
そして何より、陽気ぐらしへ向けて、二人の心が寄り合い、心の成人に向けて励まし合うためにこそ夫婦というものがあることを忘れてはなりません。
「おつとめ」は、お互いが向き合うのではなく、横並びになって、それぞれが一対一で親神様に向き合い、親心を求めて真剣につとめます。それは、時に向かい合ってぶつかり合うこともある夫婦の日常の中で、一人ひとりが安らかに自らの心を顧みる貴重な時間です。
おつとめでそれぞれが自らの通り方を反省し、あらためて横に並んでいる相手と向き合った時、夫婦とは共に成人を目指す仲間であると、認識を新たにする。それが、夫婦で信仰をする上での一つの大きな喜びではないでしょうか。
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        <itunes:summary>楽しい夏のセミナー
フランス在住　　長谷川　善久

天理教の教会では、親子三世代が一緒に暮らしている様子は、割とどこにでもあるものだと思います。しかし、日本とフランスにおける三世代同居の割合を調べてみると、日本が9.4％、フランスではわずか1％ほどであり、かつどちらの国も年々減少傾向にあるようです。
おじいちゃん、おばあちゃんが孫と一緒に平穏な日々を過ごす天理教の教会は、そのライフスタイルだけをとっても、社会的に希少価値が高まっていることが分かります。
フランスにあるヨーロッパ出張所も大所帯で生活しています。現在、同じ敷地内で寝食を共にしているスタッフは、上は50代後半から下は１歳まで、一家族、一夫婦、６人の独身者の計13人が暮らしています。ここに日中は外から通う70代後半のひのきしん者が一人、30代の勤務者が一人加わって、毎日神様の御用を賑やかにつとめています。
正直に言って、このような共同生活ではストレスも溜まりやすいもの。まして日本人が外国に住んでいるのですからなおさらです。それだけに、普段から生活の意識を自分中心に置くのではなく、親神様、教祖を中心にして、人様をしっかりと内側に引き寄せる努力が大切になってきます。
お互いに関心を持ち合い、ささいなことからでも、温かいコミュニケーションを通して信頼関係を保つことは欠かせません。私も所長の務めとして、お互いが自然に円滑に触れ合えるような雰囲気を作り上げることを、絶えず意識しています。
色々と苦労は絶えませんが、最近の社会学や心理学の研究でも、「共同生活は人々の幸福感に良い影響を与える」と分かってきたように、実際、私自身の経験からもこの説に間違いはないと思っています。
そんな、ストレスも溜まれば幸福感も高まる共同生活空間である出張所を会場に、昨年の夏、宿泊型の教理セミナーが開催されました。
一週間にわたる授業では、形式にとらわれることなく、生徒は疑問に思ったことはいつでも質問ができます。また、教え方も講師の自由裁量を認めていて、例えば教祖の道すがらについては、劇画『教祖物語』の場面描写を用いた授業もありました。
私が講師を担当した『みかぐらうた』では、お歌の意味の理解に加えて、受講生が一人で歌えるようになることを目標にした、日本人に対してはやらないであろう指導を行いました。
と言うのも、フランスでもみかぐらうたは日本語で歌われており、フランス人には簡単には覚えられません。参拝に来るほとんどの方は、翻訳冊子を見れば意味は理解出来ますが、日本人信者のように自信を持って歌うことは難しいのです。
もし一人ひとりが、鳴物に合わせてみかぐらうたを歌う事が出来るようになれば、彼らももっと、おつとめに心を込めることが出来るようになり、月に一度の月次祭も楽しく参拝出来るのではないかと思いついたのです。
そこで、日本語が出来ないのに、日本のアニメソングをカラオケで上手に歌う外国人にヒントを得て、独自にみかぐらうたのカラオケを作成しました。そして、授業では一人ずつ何度も何度も繰り返し歌いながら、言葉の意味は同時に理解出来なくても、教祖が教えられた言葉の響きや調べを身体で感じてもらうよう努めたのです。人生で一度もカラオケに行ったことがないという人もいましたが、勇気を出して一人で歌ってもらいました。
そのようなセミナーの初級クラス参加者５名の中に、子供のない高齢者夫婦がいました。この夫婦は古くから出張所にご縁があり、一度おぢばがえりしたこともあったのですが、旦那さんの気難しい性格と様々な状況が重なり、信仰に対して距離を取る時間が長く続いていたのです。
そんな夫婦でしたので、セミナーに参加されると聞いた時は、もしかしたら旦那さんによって、場が乱されるような展開があるかも知れないと、若干の不安が頭をよぎりました。
セミナーでは、朝、昼、夜の三食を講師やスタッフも受講生に混ざって一緒にとります。毎食20名以上が一緒に食べる賑やかな時間となっていました。普段は二人だけで過ごしているこの夫婦にしてみれば、最初は慣れない状況に戸惑ったと思います。このような団体生活を初めて経験し、精神的な疲労も溜まるでしょうし、加えて机に座って勉強することに対するストレスもあるだろうことは予見出来ていました。
そこで私がとった方策はただ一つ、講師はもちろんのこと、フランス語の出来ないスタッフに対しても、食事の時に日本人同士で固まるのではなく、意識してフランス人受講生の隣りに座ること。そして彼らと一言でも二言でも言葉を交わして、コミュニケーションを取ってもらうことです。
戸惑いの顔を見せる若いスタッフもいましたが、とにかくどんな手段でもいいので、自分から積極的に受講生にアプローチする努力を続けるようお願いしました。
そうしたところ、最初は緊張した雰囲気が漂っていた食事の場が、日が経つにつれて次第に和らいでいきました。実際、食堂に笑い声が絶えることはなく、食事にかける時間も徐々に長くなり、場合によっては一時間を超えることも珍しくなくなっていました。
おてふり、鳴物の指導は主に若いスタッフが担当していましたが、食事の時間を通して生まれた信頼関係が指導の未熟さをカバーしてくれ、参加者は親子ほど年齢の違う若い講師に対しても、リスペクトをもって積極的に学んでくれたのです。
こうして、一週間を通してスタッフ全員と受講生全員が家族のようにつながり合ったセミナーの最後の懇親会では、全員での大合唱も飛び出し、楽しい夜を過ごすことが出来ました。セミナーが始まる前に私が持っていた不安は、全くの杞憂に終わったのです。
その不安の要素となっていた旦那さんに、終了後感想を求めると、「出張所の若い人達の生き生きとした姿に感動した。彼らを見ているだけで元気になれる。このような天理教のコミュニティーのメンバーでいられて本当に幸せだ」と語ってくれました。
懇親会のカラオケ大会では、旦那さんは初めて人前でマイクを握って熱唱し、場の盛り上げに一役買ってくれました。そんな彼の姿に、スタッフ全員が、この夏のセミナーが大成功に終わった喜びを感じたのでした。



夫婦

　　このよのぢいとてんとをかたどりて　　　ふうふをこしらへきたるでな　　これハこのよのはじめだし

このお歌は、天理教の朝夕のおつとめで唱える「みかぐらうた」の一節です。
「自然のすべてが天地の間で生成発展するように、夫婦があって新しい命が宿り、家族ができ、社会が形成される。夫婦こそ人間世界のすべての始まりであり、元である」と、これ以上ないほど端的にお示し下されています。
夫婦や結婚の形も時代と共に様変わりしています。お見合い結婚はもう過去のもの、恋愛結婚が主流となり、今やＳＮＳ上での出会いから関係が発展して夫婦となるのも、当たり前の現象となってきました。しかし、どのような出会いにも、その蔭ではちゃんと神様が働いて下さっているというのが、次のお言葉です。

「縁談というは、そう難しいようなものやない。一人があれと言うた処が行くものやない。あれとこれと心寄り合うがいんねん。いんねんなら両方から寄り合うてこうと言う。いんねんがありゃこそ、これまで縁談一条治まって居る」（Ｍ27・9・21）

結婚とは自分だけで決められるものではない。双方が歩み寄って夫婦となるのはもちろんですが、そこには出会うべくして出会ったいんねんというものがある。そのいんねんという捉え方が、結婚生活を支える上で、特に夫婦の関係が危機を迎えた時にとても大切な土台となるのです。
そして何より、陽気ぐらしへ向けて、二人の心が寄り合い、心の成人に向けて励まし合うためにこそ夫婦というものがあることを忘れてはなりません。
「おつとめ」は、お互いが向き合うのではなく、横並びになって、それぞれが一対一で親神様に向き合い、親心を求めて真剣につとめます。それは、時に向かい合ってぶつかり合うこともある夫婦の日常の中で、一人ひとりが安らかに自らの心を顧みる貴重な時間です。
おつとめでそれぞれが自らの通り方を反省し、あらためて横に並んでいる相手と向き合った時、夫婦とは共に成人を目指す仲間であると、認識を新たにする。それが、夫婦で信仰をする上での一つの大きな喜びではないでしょうか。
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        <pubDate>Fri, 13 Feb 2026 11:00:41 +0000</pubDate>
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                <title>地域に「誠」の心を</title>
        <description><![CDATA[地域に「誠」の心を
埼玉県在住　　関根　健一

一昨年の春から、地域で「Clean up ＆ Coffee Club」（クリーンアップ・アンド・コーヒークラブ）という新たな活動を始めました。頭文字をとってCCC（シーシーシー）と呼ばれる活動で、コロナ禍になり、人とのつながりが疎遠になってしまったことを憂いた青年が、東京で始めたものです。
活動はシンプルで、簡単に言えば地域のゴミ拾いなのですが、ただ街をきれいにすることだけではなく、地域で友達を作ること、そして地域において「ただ居るだけでいい場」を作ることを目的としています。運営本部は一般社団法人化もしており、やりたいと思った人が気軽に始められるようなサポート体制も出来ていて、今では全国50か所以上で開催されています。
私も東京都内で始まった活動の様子をSNSで知り、ちょうど公民館で行っていた地域交流のイベントがコロナ禍で出来なくなった時期でもあったので、いつか地元でも開催したいと思っていました。
そんな矢先に、知人を通して開催方法や本部担当者への連絡先などを知り、準備を進めることが出来ました。そして、手探りながら地元富士見市の名を冠した、第一回「CCC富士見」の開催に至り、現在、一年半以上続けることが出来ています。
このイベントは親子連れの参加者も多く、子供たちにはいつも助けられています。我れ先にゴミを見つけ、自分の背丈に近い長さのゴミばさみを使い、一生懸命にゴミを拾ってくれる姿は、微笑ましく映ると共に、我々大人たちを勇んだ気持ちにさせてくれます。
そして、ゴミ拾いをしていて気付くのが、タバコの吸い殻の多さです。携帯灰皿が普及して、紙タバコから電子タバコに変える人が増えてきたこともあって、昔ほど落ちてはいないものの、数でいうと他のゴミに比べて圧倒的に多いのが現状です。
CCCの参加者の中には、ほとんど喫煙者がいないこともあり、タバコの吸い殻が落ちていると、「どうしてこんなにタバコの吸い殻が多いんだろう。だからタバコ吸う人って嫌い」と、誰からともなく愚痴がこぼれ始めます。
確かに吸わない人から見れば、タバコは生活に全く必要がないどころか、目の前で吸われれば副流煙が発生し、悪影響さえあるものです。私も昔からタバコが嫌いなので、その気持ちはよく分かります。
そんな会話が耳に入ってきた時に、ふと昔聞いた上級教会の親奥様の言葉が頭の中を過りました。
「教会はね、心のゴミを捨てに来るところなんだよ。でもね、たまにゴミを拾って帰る人がいるの。せっかく教会に運んで来たのに、ゴミを拾って帰っちゃもったいないよね」。
教会でお茶を頂きながら談笑していた時の何気ない一言でしたが、なぜかその言葉が心に残って、今でも一緒に聞いていた妻と時折思い出して話題に上ります。
教会では、おつとめやひのきしんをつとめることで、心の埃を落として帰ります。ですが、たまにせっかく落とした埃を拾うかのように、他人の悪口や不満を垂れ流して帰る人がいるのが残念なんだ、という意味で仰ったのだと記憶しています。
ともすると、周りの人に同調して悪口を言ってしまいそうになる私に、親奥様の言葉がブレーキをかけてくれた気がしました。
私が地元で始めた「CCC」の表向きの目的は、地域に仲間を作ることですが、私自身は心の中で親神様、教祖への感謝を忘れずに「ひのきしん」の精神でゴミ拾いをしています。
自分たちが暮らす街を汚すのは、もちろん褒められた行為ではありませんが、ゴミを捨てた人を責める前に、こうしてゴミを拾えるのも親神様のご守護によって身体が動かせるからであることを実感します。参加者に天理教の教えを具体的に説くわけではありませんが、やがては皆さんに、私の行いを通して「成程」と思ってもらえるように心がけています。
神様のお言葉に、「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」とあります。
 「誠」を辞書で調べると、「言葉や行いに作りごとがない。真実の心」と出てきます。一方、大正時代に宮森与三郎という先人の先生が、「誠」についてこう書き残しています。
「誠というのは、心と口と行いの三つがそろわねば誠やござりません。誠の話するくらいの人は、世界にはささらでかき集めるほどある。口でどれほど誠なことを言うても、誠なことをせなかったら、それは誠ではございません」。
CCCの活動で言えば、ゴミ拾いという行いに、感謝の心が伴っていること、そして言葉で参加者の方たちを勇ませること。そのように、心と口と行いが揃うように実行してこその「誠」である。この活動を通して、今の私に必要なことを教えて下さっていると感じました。
地域の活動の中で、参加者の皆さんに言葉でストレートに伝えることは難しくとも、常に誠の行いを心がけていれば、親神様のご守護の有り難さ、教祖のひながたの素晴らしさが伝わると信じて、この活動を続けていきたいと思います。



だけど有難い「たすかるキーワード」

よく、物事に「ひたむき」に取り組むという言い方をします。「ひたむき」という言葉は、一生懸命、健気に、一途に、真面目になど、そういう意味を含んでいると思います。このことが私は大事だと思います。
子供がひたむきに、一途に、一生懸命、健気に努力している姿は、親神様からご覧になれば、「いじらしい」とお感じになると思うのです。をやが「いじらしい」とお感じになったら、絶対に救いの手が伸びる。たすけてくださる。私は、たすかる元は「いじらしい」と感じていただけるかどうかだと言ってもいいような気がするのです。
私の育ての母・富子は水泳選手でした。母は信仰のうえでは全くの一信者、一ようぼくでしたから、河原町大教会長であった父のところへ嫁ぐときは、ずいぶん不安だったようです。
その母に、長老の役員先生が、こう言ったそうです。
「奥さん、心配せんでよろしい。奥さんが一生懸命つとめているその姿を、神様が『いじらしいな』とお思いになったら、絶対、身は立っていく。一生懸命、健気につとめている姿さえ受け取っていただいたら間違いない」
母は「『なるほど』と思って努力した」という話を聞いたことがあります。私もそれを聞いて、なるほどと思いました。「布教の家」の若者が、人生経験も少なく、おたすけの体験も無いなかで、大きな成果を上げるのも、このいじらしい姿があるからだと思います。
結婚したカップルにも、私はよくこの話をします。いじらしい夫婦になろう。いきなり立派な夫婦になれるわけがない。しかし、教祖から「いじらしい」と思ってもらえるような夫婦にはなれる。「いじらしい」という言葉は、たすかるキーワードだと思います。
（終）
]]></description>
        <googleplay:description>地域に「誠」の心を
埼玉県在住　　関根　健一

一昨年の春から、地域で「Clean up ＆ Coffee Club」（クリーンアップ・アンド・コーヒークラブ）という新たな活動を始めました。頭文字をとってCCC（シーシーシー）と呼ばれる活動で、コロナ禍になり、人とのつながりが疎遠になってしまったことを憂いた青年が、東京で始めたものです。
活動はシンプルで、簡単に言えば地域のゴミ拾いなのですが、ただ街をきれいにすることだけではなく、地域で友達を作ること、そして地域において「ただ居るだけでいい場」を作ることを目的としています。運営本部は一般社団法人化もしており、やりたいと思った人が気軽に始められるようなサポート体制も出来ていて、今では全国50か所以上で開催されています。
私も東京都内で始まった活動の様子をSNSで知り、ちょうど公民館で行っていた地域交流のイベントがコロナ禍で出来なくなった時期でもあったので、いつか地元でも開催したいと思っていました。
そんな矢先に、知人を通して開催方法や本部担当者への連絡先などを知り、準備を進めることが出来ました。そして、手探りながら地元富士見市の名を冠した、第一回「CCC富士見」の開催に至り、現在、一年半以上続けることが出来ています。
このイベントは親子連れの参加者も多く、子供たちにはいつも助けられています。我れ先にゴミを見つけ、自分の背丈に近い長さのゴミばさみを使い、一生懸命にゴミを拾ってくれる姿は、微笑ましく映ると共に、我々大人たちを勇んだ気持ちにさせてくれます。
そして、ゴミ拾いをしていて気付くのが、タバコの吸い殻の多さです。携帯灰皿が普及して、紙タバコから電子タバコに変える人が増えてきたこともあって、昔ほど落ちてはいないものの、数でいうと他のゴミに比べて圧倒的に多いのが現状です。
CCCの参加者の中には、ほとんど喫煙者がいないこともあり、タバコの吸い殻が落ちていると、「どうしてこんなにタバコの吸い殻が多いんだろう。だからタバコ吸う人って嫌い」と、誰からともなく愚痴がこぼれ始めます。
確かに吸わない人から見れば、タバコは生活に全く必要がないどころか、目の前で吸われれば副流煙が発生し、悪影響さえあるものです。私も昔からタバコが嫌いなので、その気持ちはよく分かります。
そんな会話が耳に入ってきた時に、ふと昔聞いた上級教会の親奥様の言葉が頭の中を過りました。
「教会はね、心のゴミを捨てに来るところなんだよ。でもね、たまにゴミを拾って帰る人がいるの。せっかく教会に運んで来たのに、ゴミを拾って帰っちゃもったいないよね」。
教会でお茶を頂きながら談笑していた時の何気ない一言でしたが、なぜかその言葉が心に残って、今でも一緒に聞いていた妻と時折思い出して話題に上ります。
教会では、おつとめやひのきしんをつとめることで、心の埃を落として帰ります。ですが、たまにせっかく落とした埃を拾うかのように、他人の悪口や不満を垂れ流して帰る人がいるのが残念なんだ、という意味で仰ったのだと記憶しています。
ともすると、周りの人に同調して悪口を言ってしまいそうになる私に、親奥様の言葉がブレーキをかけてくれた気がしました。
私が地元で始めた「CCC」の表向きの目的は、地域に仲間を作ることですが、私自身は心の中で親神様、教祖への感謝を忘れずに「ひのきしん」の精神でゴミ拾いをしています。
自分たちが暮らす街を汚すのは、もちろん褒められた行為ではありませんが、ゴミを捨てた人を責める前に、こうしてゴミを拾えるのも親神様のご守護によって身体が動かせるからであることを実感します。参加者に天理教の教えを具体的に説くわけではありませんが、やがては皆さんに、私の行いを通して「成程」と思ってもらえるように心がけています。
神様のお言葉に、「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」とあります。
 「誠」を辞書で調べると、「言葉や行いに作りごとがない。真実の心」と出てきます。一方、大正時代に宮森与三郎という先人の先生が、「誠」についてこう書き残しています。
「誠というのは、心と口と行いの三つがそろわねば誠やござりません。誠の話するくらいの人は、世界にはささらでかき集めるほどある。口でどれほど誠なことを言うても、誠なことをせなかったら、それは誠ではございません」。
CCCの活動で言えば、ゴミ拾いという行いに、感謝の心が伴っていること、そして言葉で参加者の方たちを勇ませること。そのように、心と口と行いが揃うように実行してこその「誠」である。この活動を通して、今の私に必要なことを教えて下さっていると感じました。
地域の活動の中で、参加者の皆さんに言葉でストレートに伝えることは難しくとも、常に誠の行いを心がけていれば、親神様のご守護の有り難さ、教祖のひながたの素晴らしさが伝わると信じて、この活動を続けていきたいと思います。



だけど有難い「たすかるキーワード」

よく、物事に「ひたむき」に取り組むという言い方をします。「ひたむき」という言葉は、一生懸命、健気に、一途に、真面目になど、そういう意味を含んでいると思います。このことが私は大事だと思います。
子供がひたむきに、一途に、一生懸命、健気に努力している姿は、親神様からご覧になれば、「いじらしい」とお感じになると思うのです。をやが「いじらしい」とお感じになったら、絶対に救いの手が伸びる。たすけてくださる。私は、たすかる元は「いじらしい」と感じていただけるかどうかだと言ってもいいような気がするのです。
私の育ての母・富子は水泳選手でした。母は信仰のうえでは全くの一信者、一ようぼくでしたから、河原町大教会長であった父のところへ嫁ぐときは、ずいぶん不安だったようです。
その母に、長老の役員先生が、こう言ったそうです。
「奥さん、心配せんでよろしい。奥さんが一生懸命つとめているその姿を、神様が『いじらしいな』とお思いになったら、絶対、身は立っていく。一生懸命、健気につとめている姿さえ受け取っていただいたら間違いない」
母は「『なるほど』と思って努力した」という話を聞いたことがあります。私もそれを聞いて、なるほどと思いました。「布教の家」の若者が、人生経験も少なく、おたすけの体験も無いなかで、大きな成果を上げるのも、このいじらしい姿があるからだと思います。
結婚したカップルにも、私はよくこの話をします。いじらしい夫婦になろう。いきなり立派な夫婦になれるわけがない。しかし、教祖から「いじらしい」と思ってもらえるような夫婦にはなれる。「いじらしい」という言葉は、たすかるキーワードだと思います。
（終）
</googleplay:description>
        <itunes:summary>地域に「誠」の心を
埼玉県在住　　関根　健一

一昨年の春から、地域で「Clean up ＆ Coffee Club」（クリーンアップ・アンド・コーヒークラブ）という新たな活動を始めました。頭文字をとってCCC（シーシーシー）と呼ばれる活動で、コロナ禍になり、人とのつながりが疎遠になってしまったことを憂いた青年が、東京で始めたものです。
活動はシンプルで、簡単に言えば地域のゴミ拾いなのですが、ただ街をきれいにすることだけではなく、地域で友達を作ること、そして地域において「ただ居るだけでいい場」を作ることを目的としています。運営本部は一般社団法人化もしており、やりたいと思った人が気軽に始められるようなサポート体制も出来ていて、今では全国50か所以上で開催されています。
私も東京都内で始まった活動の様子をSNSで知り、ちょうど公民館で行っていた地域交流のイベントがコロナ禍で出来なくなった時期でもあったので、いつか地元でも開催したいと思っていました。
そんな矢先に、知人を通して開催方法や本部担当者への連絡先などを知り、準備を進めることが出来ました。そして、手探りながら地元富士見市の名を冠した、第一回「CCC富士見」の開催に至り、現在、一年半以上続けることが出来ています。
このイベントは親子連れの参加者も多く、子供たちにはいつも助けられています。我れ先にゴミを見つけ、自分の背丈に近い長さのゴミばさみを使い、一生懸命にゴミを拾ってくれる姿は、微笑ましく映ると共に、我々大人たちを勇んだ気持ちにさせてくれます。
そして、ゴミ拾いをしていて気付くのが、タバコの吸い殻の多さです。携帯灰皿が普及して、紙タバコから電子タバコに変える人が増えてきたこともあって、昔ほど落ちてはいないものの、数でいうと他のゴミに比べて圧倒的に多いのが現状です。
CCCの参加者の中には、ほとんど喫煙者がいないこともあり、タバコの吸い殻が落ちていると、「どうしてこんなにタバコの吸い殻が多いんだろう。だからタバコ吸う人って嫌い」と、誰からともなく愚痴がこぼれ始めます。
確かに吸わない人から見れば、タバコは生活に全く必要がないどころか、目の前で吸われれば副流煙が発生し、悪影響さえあるものです。私も昔からタバコが嫌いなので、その気持ちはよく分かります。
そんな会話が耳に入ってきた時に、ふと昔聞いた上級教会の親奥様の言葉が頭の中を過りました。
「教会はね、心のゴミを捨てに来るところなんだよ。でもね、たまにゴミを拾って帰る人がいるの。せっかく教会に運んで来たのに、ゴミを拾って帰っちゃもったいないよね」。
教会でお茶を頂きながら談笑していた時の何気ない一言でしたが、なぜかその言葉が心に残って、今でも一緒に聞いていた妻と時折思い出して話題に上ります。
教会では、おつとめやひのきしんをつとめることで、心の埃を落として帰ります。ですが、たまにせっかく落とした埃を拾うかのように、他人の悪口や不満を垂れ流して帰る人がいるのが残念なんだ、という意味で仰ったのだと記憶しています。
ともすると、周りの人に同調して悪口を言ってしまいそうになる私に、親奥様の言葉がブレーキをかけてくれた気がしました。
私が地元で始めた「CCC」の表向きの目的は、地域に仲間を作ることですが、私自身は心の中で親神様、教祖への感謝を忘れずに「ひのきしん」の精神でゴミ拾いをしています。
自分たちが暮らす街を汚すのは、もちろん褒められた行為ではありませんが、ゴミを捨てた人を責める前に、こうしてゴミを拾えるのも親神様のご守護によって身体が動かせるからであることを実感します。参加者に天理教の教えを具体的に説くわけではありませんが、やがては皆さんに、私の行いを通して「成程」と思ってもらえるように心がけています。
神様のお言葉に、「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」とあります。
 「誠」を辞書で調べると、「言葉や行いに作りごとがない。真実の心」と出てきます。一方、大正時代に宮森与三郎という先人の先生が、「誠」についてこう書き残しています。
「誠というのは、心と口と行いの三つがそろわねば誠やござりません。誠の話するくらいの人は、世界にはささらでかき集めるほどある。口でどれほど誠なことを言うても、誠なことをせなかったら、それは誠ではございません」。
CCCの活動で言えば、ゴミ拾いという行いに、感謝の心が伴っていること、そして言葉で参加者の方たちを勇ませること。そのように、心と口と行いが揃うように実行してこその「誠」である。この活動を通して、今の私に必要なことを教えて下さっていると感じました。
地域の活動の中で、参加者の皆さんに言葉でストレートに伝えることは難しくとも、常に誠の行いを心がけていれば、親神様のご守護の有り難さ、教祖のひながたの素晴らしさが伝わると信じて、この活動を続けていきたいと思います。



だけど有難い「たすかるキーワード」

よく、物事に「ひたむき」に取り組むという言い方をします。「ひたむき」という言葉は、一生懸命、健気に、一途に、真面目になど、そういう意味を含んでいると思います。このことが私は大事だと思います。
子供がひたむきに、一途に、一生懸命、健気に努力している姿は、親神様からご覧になれば、「いじらしい」とお感じになると思うのです。をやが「いじらしい」とお感じになったら、絶対に救いの手が伸びる。たすけてくださる。私は、たすかる元は「いじらしい」と感じていただけるかどうかだと言ってもいいような気がするのです。
私の育ての母・富子は水泳選手でした。母は信仰のうえでは全くの一信者、一ようぼくでしたから、河原町大教会長であった父のところへ嫁ぐときは、ずいぶん不安だったようです。
その母に、長老の役員先生が、こう言ったそうです。
「奥さん、心配せんでよろしい。奥さんが一生懸命つとめているその姿を、神様が『いじらしいな』とお思いになったら、絶対、身は立っていく。一生懸命、健気につとめている姿さえ受け取っていただいたら間違いない」
母は「『なるほど』と思って努力した」という話を聞いたことがあります。私もそれを聞いて、なるほどと思いました。「布教の家」の若者が、人生経験も少なく、おたすけの体験も無いなかで、大きな成果を上げるのも、このいじらしい姿があるからだと思います。
結婚したカップルにも、私はよくこの話をします。いじらしい夫婦になろう。いきなり立派な夫婦になれるわけがない。しかし、教祖から「いじらしい」と思ってもらえるような夫婦にはなれる。「いじらしい」という言葉は、たすかるキーワードだと思います。
（終）
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        <pubDate>Fri, 06 Feb 2026 09:23:02 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>をやの代り</title>
        <description><![CDATA[をやの代り
千葉県在住　　中臺　眞治

今から四年前のある日、市役所から電話がかかってきました。
「60代の男性を一人、今日から数日でいいので天理教さんで預かってもらえませんか？ 一人にすると自殺してしまう可能性が高くて…。入院させてあげたいんですが、それにはどうしても時間がかかるんです」とのこと。
私は「大丈夫ですよ。どうぞ連れてきてください」と答え、その方が来るのを待ちました。
40分ほどして、市役所の職員さんがその方を連れて来られました。早速部屋までご案内したのですが、その方は部屋の前までは来たものの、一向に中に入ろうとしませんでした。
私と職員さんが「どうぞどうぞ」と言っても、首を何度も横に振りながら、「ダメだ。自分は悪い人間なんだ！死ぬべきなんだ！」と繰り返すばかりで、私たちも戸惑ってしまいました。
「大丈夫ですよ。何も気にしないでください」と何度伝えても首を横に振るばかり。そんなやり取りを20分ほど繰り返していました。
罪悪感や自己嫌悪の感情に心が支配され、あきらかに心を病んでしまっている様子でした。どうしたら良いのだろうかと途方に暮れていたその時、当時4歳だった娘が近づいてきました。
そして、その男性の横に立ち、顔を見上げながらゆっくりと穏やかな声で、
「おじさん、ここはね、神様がいるところだから、大丈夫だよ」
と言ったのです。
すると男性は「うん」と大きくうなずいて、部屋の中へと入っていきました。その光景を見た市役所の職員さんは、娘に「そうだよね。ここには神様がいるもんね」と笑顔で言ってくれたのでした。
その日の夜、妻に一連の出来事を話すと、「え？それ、まこちゃんが言ったの？」と驚き、ぽろぽろ泣きながら娘に近づいて、たっぷりたっぷり褒めていました。後日、男性は無事に入院することができ、市役所の職員さんもとても喜んで下さいました。
この出来事から4年が経ち、娘は8歳になりました。つい先日の話になるのですが、学校から帰ってくるなりその日の出来事を聞かせてくれました。
「先生がね、蜂に２回刺されたんだって。でもね、大丈夫だったんだって。何でだろうね？って聞くからね、それはね、神様がたすけてくれているんだよって教えてあげたんだ」とのこと。
私はその言葉を聞いてとてもあたたかい気持ちになり、「それはとても大切なことを教えてあげたね。お父さん嬉しいよ」と伝えました。
今後、子供たちがどんな大人に育っていくか、どんな運命を辿っていくかは私には分かりません。しかし、どうであったとしても、自分の人生をしっかり受け止め、前向きに生きていってほしいと願っています。そして、そのための支えとして、信仰を伝えていきたいと考えています。
時々夫婦で、「どうしたら子供たちに信仰が伝わっていくのだろうか？」と話し合うことがあります。8歳と6歳の子供たちに「おつとめの時間だよー」と声をかけても、「今は遊んでるからムリー」と返される始末。なかなか先は長いなと感じています。
子育てについて、天理教では「をやの代りをするのや」（Ｍ21.7.7）と教えて下さっています。ここでいう「をや」とは神様のことであり、「をやの代りをするのや」とは、子育ては神様の代わりをさせて頂くものであるということを意味しています。
人間世界を創造し、今も絶えずご守護をお与え下さっている神様の代わりとは、何とも身の引き締まる思いがします。それは、子育てを通して、私たち夫婦が神様の大きな親心にどれだけ近づいていけるのかが問われているということです。そう考えると、親としての自分をとても未熟に感じてしまいます。
少し話は変わるのですが、私はこれまでの人生で「親孝行」や「親孝心」という言葉を意識して生活したことはほとんどありません。両親のことを思い浮かべた時、感謝や尊敬という感情が自然と湧いてくるからです。
なぜ、今、自分がそのように思えているのか。それは、両親が神様の大きな親心に近づく努力を日々積み重ねていたからであり、どんな時も神様の代わりとして、真実込めて私たちきょうだいを育ててくれていたからだと思います。
そうして振り返ると、両親に対する感謝や尊敬の思いは、自分の努力で身に付けたものではなく、「をやの代り」をしていた両親が与えてくれたものであったのだと気付かされ、さらなる感謝の気持ちが湧いてくるのです。



ひとすぢごゝろ

　六ツ　むりなねがひはしてくれな　　　　ひとすぢごゝろになりてこい

　七ツ　なんでもこれからひとすぢに　　　　かみにもたれてゆきまする　（三下り目）

教祖は、日々唱える「みかぐらうた」の中で、このように教えられています。この二首は、「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の呼びかけに対して、「かみにもたれてゆきまする」と人間の側からお誓い申し上げる形式になっています。
「ひとすじ」とは、信仰の世界だけでなく、社会の中で広く使われている言葉です。たとえば、ある一つの仕事をコツコツと長年続けている人は、その道一筋だと言われます。また、自らに課した約束事をひたすら守り続ける人にも、この言葉が当てはまるでしょう。
その上で、信仰における「ひとすぢごゝろ」とはいかなるものか。それは、どんな時にも親神様の思いに心を合わせて生きる姿勢を貫くことです。自らの考えを押し通していく一筋ではなく、我が身思案を捨て去って、親神様のお計らいに身をゆだねていく生き方です。
この親神様の思いに叶う一筋心は、実は私たち人間が本来持っている資質であると言えます。それは、この世の元初りにおいて、親神様が人間を創造されるにあたり、その雛型と道具を引き寄せられる場面によって明らかです。教典第三章「元の理」に、このように記されています。

「そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよ（泥鰌）の中に、うを（魚）とみ（蛇）とが混っている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた」

親神様は、人間を生み出す雛型となるものの「一すじ心なるを見澄ました上」で、承知をさせて貰い受けられている。すなわち私たち人間には、あらかじめ一筋心という特性が備えられており、またそのような心の働きを親神様は私たちに求めておられるのです。
「ひとすぢごゝろになりてこい」との呼びかけに対して、「かみにもたれてゆきまする」と親神様に宣言をしているわけですから、これは何としても実現させたいものです。
目に見えない親神様に身を預けるためには、ひたすら我欲を捨て、親神様への信頼ひとすじに通り切る。もたれるという語感からは、やや消極的な印象が感じられますが、むしろ積極的な心の大転換が必要です。

　　どのよふな事をするにも月日にて　　もたれていればあふなけハない　（十一 38）

どのような事が起きても、神の思いにもたれていれば決して危ないことはないのだと、私たちの元の親、実の親である親神様はそう断言して下さっています。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>をやの代り
千葉県在住　　中臺　眞治

今から四年前のある日、市役所から電話がかかってきました。
「60代の男性を一人、今日から数日でいいので天理教さんで預かってもらえませんか？ 一人にすると自殺してしまう可能性が高くて…。入院させてあげたいんですが、それにはどうしても時間がかかるんです」とのこと。
私は「大丈夫ですよ。どうぞ連れてきてください」と答え、その方が来るのを待ちました。
40分ほどして、市役所の職員さんがその方を連れて来られました。早速部屋までご案内したのですが、その方は部屋の前までは来たものの、一向に中に入ろうとしませんでした。
私と職員さんが「どうぞどうぞ」と言っても、首を何度も横に振りながら、「ダメだ。自分は悪い人間なんだ！死ぬべきなんだ！」と繰り返すばかりで、私たちも戸惑ってしまいました。
「大丈夫ですよ。何も気にしないでください」と何度伝えても首を横に振るばかり。そんなやり取りを20分ほど繰り返していました。
罪悪感や自己嫌悪の感情に心が支配され、あきらかに心を病んでしまっている様子でした。どうしたら良いのだろうかと途方に暮れていたその時、当時4歳だった娘が近づいてきました。
そして、その男性の横に立ち、顔を見上げながらゆっくりと穏やかな声で、
「おじさん、ここはね、神様がいるところだから、大丈夫だよ」
と言ったのです。
すると男性は「うん」と大きくうなずいて、部屋の中へと入っていきました。その光景を見た市役所の職員さんは、娘に「そうだよね。ここには神様がいるもんね」と笑顔で言ってくれたのでした。
その日の夜、妻に一連の出来事を話すと、「え？それ、まこちゃんが言ったの？」と驚き、ぽろぽろ泣きながら娘に近づいて、たっぷりたっぷり褒めていました。後日、男性は無事に入院することができ、市役所の職員さんもとても喜んで下さいました。
この出来事から4年が経ち、娘は8歳になりました。つい先日の話になるのですが、学校から帰ってくるなりその日の出来事を聞かせてくれました。
「先生がね、蜂に２回刺されたんだって。でもね、大丈夫だったんだって。何でだろうね？って聞くからね、それはね、神様がたすけてくれているんだよって教えてあげたんだ」とのこと。
私はその言葉を聞いてとてもあたたかい気持ちになり、「それはとても大切なことを教えてあげたね。お父さん嬉しいよ」と伝えました。
今後、子供たちがどんな大人に育っていくか、どんな運命を辿っていくかは私には分かりません。しかし、どうであったとしても、自分の人生をしっかり受け止め、前向きに生きていってほしいと願っています。そして、そのための支えとして、信仰を伝えていきたいと考えています。
時々夫婦で、「どうしたら子供たちに信仰が伝わっていくのだろうか？」と話し合うことがあります。8歳と6歳の子供たちに「おつとめの時間だよー」と声をかけても、「今は遊んでるからムリー」と返される始末。なかなか先は長いなと感じています。
子育てについて、天理教では「をやの代りをするのや」（Ｍ21.7.7）と教えて下さっています。ここでいう「をや」とは神様のことであり、「をやの代りをするのや」とは、子育ては神様の代わりをさせて頂くものであるということを意味しています。
人間世界を創造し、今も絶えずご守護をお与え下さっている神様の代わりとは、何とも身の引き締まる思いがします。それは、子育てを通して、私たち夫婦が神様の大きな親心にどれだけ近づいていけるのかが問われているということです。そう考えると、親としての自分をとても未熟に感じてしまいます。
少し話は変わるのですが、私はこれまでの人生で「親孝行」や「親孝心」という言葉を意識して生活したことはほとんどありません。両親のことを思い浮かべた時、感謝や尊敬という感情が自然と湧いてくるからです。
なぜ、今、自分がそのように思えているのか。それは、両親が神様の大きな親心に近づく努力を日々積み重ねていたからであり、どんな時も神様の代わりとして、真実込めて私たちきょうだいを育ててくれていたからだと思います。
そうして振り返ると、両親に対する感謝や尊敬の思いは、自分の努力で身に付けたものではなく、「をやの代り」をしていた両親が与えてくれたものであったのだと気付かされ、さらなる感謝の気持ちが湧いてくるのです。



ひとすぢごゝろ

　六ツ　むりなねがひはしてくれな　　　　ひとすぢごゝろになりてこい

　七ツ　なんでもこれからひとすぢに　　　　かみにもたれてゆきまする　（三下り目）

教祖は、日々唱える「みかぐらうた」の中で、このように教えられています。この二首は、「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の呼びかけに対して、「かみにもたれてゆきまする」と人間の側からお誓い申し上げる形式になっています。
「ひとすじ」とは、信仰の世界だけでなく、社会の中で広く使われている言葉です。たとえば、ある一つの仕事をコツコツと長年続けている人は、その道一筋だと言われます。また、自らに課した約束事をひたすら守り続ける人にも、この言葉が当てはまるでしょう。
その上で、信仰における「ひとすぢごゝろ」とはいかなるものか。それは、どんな時にも親神様の思いに心を合わせて生きる姿勢を貫くことです。自らの考えを押し通していく一筋ではなく、我が身思案を捨て去って、親神様のお計らいに身をゆだねていく生き方です。
この親神様の思いに叶う一筋心は、実は私たち人間が本来持っている資質であると言えます。それは、この世の元初りにおいて、親神様が人間を創造されるにあたり、その雛型と道具を引き寄せられる場面によって明らかです。教典第三章「元の理」に、このように記されています。

「そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよ（泥鰌）の中に、うを（魚）とみ（蛇）とが混っている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた」

親神様は、人間を生み出す雛型となるものの「一すじ心なるを見澄ました上」で、承知をさせて貰い受けられている。すなわち私たち人間には、あらかじめ一筋心という特性が備えられており、またそのような心の働きを親神様は私たちに求めておられるのです。
「ひとすぢごゝろになりてこい」との呼びかけに対して、「かみにもたれてゆきまする」と親神様に宣言をしているわけですから、これは何としても実現させたいものです。
目に見えない親神様に身を預けるためには、ひたすら我欲を捨て、親神様への信頼ひとすじに通り切る。もたれるという語感からは、やや消極的な印象が感じられますが、むしろ積極的な心の大転換が必要です。

　　どのよふな事をするにも月日にて　　もたれていればあふなけハない　（十一 38）

どのような事が起きても、神の思いにもたれていれば決して危ないことはないのだと、私たちの元の親、実の親である親神様はそう断言して下さっています。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>をやの代り
千葉県在住　　中臺　眞治

今から四年前のある日、市役所から電話がかかってきました。
「60代の男性を一人、今日から数日でいいので天理教さんで預かってもらえませんか？ 一人にすると自殺してしまう可能性が高くて…。入院させてあげたいんですが、それにはどうしても時間がかかるんです」とのこと。
私は「大丈夫ですよ。どうぞ連れてきてください」と答え、その方が来るのを待ちました。
40分ほどして、市役所の職員さんがその方を連れて来られました。早速部屋までご案内したのですが、その方は部屋の前までは来たものの、一向に中に入ろうとしませんでした。
私と職員さんが「どうぞどうぞ」と言っても、首を何度も横に振りながら、「ダメだ。自分は悪い人間なんだ！死ぬべきなんだ！」と繰り返すばかりで、私たちも戸惑ってしまいました。
「大丈夫ですよ。何も気にしないでください」と何度伝えても首を横に振るばかり。そんなやり取りを20分ほど繰り返していました。
罪悪感や自己嫌悪の感情に心が支配され、あきらかに心を病んでしまっている様子でした。どうしたら良いのだろうかと途方に暮れていたその時、当時4歳だった娘が近づいてきました。
そして、その男性の横に立ち、顔を見上げながらゆっくりと穏やかな声で、
「おじさん、ここはね、神様がいるところだから、大丈夫だよ」
と言ったのです。
すると男性は「うん」と大きくうなずいて、部屋の中へと入っていきました。その光景を見た市役所の職員さんは、娘に「そうだよね。ここには神様がいるもんね」と笑顔で言ってくれたのでした。
その日の夜、妻に一連の出来事を話すと、「え？それ、まこちゃんが言ったの？」と驚き、ぽろぽろ泣きながら娘に近づいて、たっぷりたっぷり褒めていました。後日、男性は無事に入院することができ、市役所の職員さんもとても喜んで下さいました。
この出来事から4年が経ち、娘は8歳になりました。つい先日の話になるのですが、学校から帰ってくるなりその日の出来事を聞かせてくれました。
「先生がね、蜂に２回刺されたんだって。でもね、大丈夫だったんだって。何でだろうね？って聞くからね、それはね、神様がたすけてくれているんだよって教えてあげたんだ」とのこと。
私はその言葉を聞いてとてもあたたかい気持ちになり、「それはとても大切なことを教えてあげたね。お父さん嬉しいよ」と伝えました。
今後、子供たちがどんな大人に育っていくか、どんな運命を辿っていくかは私には分かりません。しかし、どうであったとしても、自分の人生をしっかり受け止め、前向きに生きていってほしいと願っています。そして、そのための支えとして、信仰を伝えていきたいと考えています。
時々夫婦で、「どうしたら子供たちに信仰が伝わっていくのだろうか？」と話し合うことがあります。8歳と6歳の子供たちに「おつとめの時間だよー」と声をかけても、「今は遊んでるからムリー」と返される始末。なかなか先は長いなと感じています。
子育てについて、天理教では「をやの代りをするのや」（Ｍ21.7.7）と教えて下さっています。ここでいう「をや」とは神様のことであり、「をやの代りをするのや」とは、子育ては神様の代わりをさせて頂くものであるということを意味しています。
人間世界を創造し、今も絶えずご守護をお与え下さっている神様の代わりとは、何とも身の引き締まる思いがします。それは、子育てを通して、私たち夫婦が神様の大きな親心にどれだけ近づいていけるのかが問われているということです。そう考えると、親としての自分をとても未熟に感じてしまいます。
少し話は変わるのですが、私はこれまでの人生で「親孝行」や「親孝心」という言葉を意識して生活したことはほとんどありません。両親のことを思い浮かべた時、感謝や尊敬という感情が自然と湧いてくるからです。
なぜ、今、自分がそのように思えているのか。それは、両親が神様の大きな親心に近づく努力を日々積み重ねていたからであり、どんな時も神様の代わりとして、真実込めて私たちきょうだいを育ててくれていたからだと思います。
そうして振り返ると、両親に対する感謝や尊敬の思いは、自分の努力で身に付けたものではなく、「をやの代り」をしていた両親が与えてくれたものであったのだと気付かされ、さらなる感謝の気持ちが湧いてくるのです。



ひとすぢごゝろ

　六ツ　むりなねがひはしてくれな　　　　ひとすぢごゝろになりてこい

　七ツ　なんでもこれからひとすぢに　　　　かみにもたれてゆきまする　（三下り目）

教祖は、日々唱える「みかぐらうた」の中で、このように教えられています。この二首は、「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の呼びかけに対して、「かみにもたれてゆきまする」と人間の側からお誓い申し上げる形式になっています。
「ひとすじ」とは、信仰の世界だけでなく、社会の中で広く使われている言葉です。たとえば、ある一つの仕事をコツコツと長年続けている人は、その道一筋だと言われます。また、自らに課した約束事をひたすら守り続ける人にも、この言葉が当てはまるでしょう。
その上で、信仰における「ひとすぢごゝろ」とはいかなるものか。それは、どんな時にも親神様の思いに心を合わせて生きる姿勢を貫くことです。自らの考えを押し通していく一筋ではなく、我が身思案を捨て去って、親神様のお計らいに身をゆだねていく生き方です。
この親神様の思いに叶う一筋心は、実は私たち人間が本来持っている資質であると言えます。それは、この世の元初りにおいて、親神様が人間を創造されるにあたり、その雛型と道具を引き寄せられる場面によって明らかです。教典第三章「元の理」に、このように記されています。

「そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよ（泥鰌）の中に、うを（魚）とみ（蛇）とが混っている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた」

親神様は、人間を生み出す雛型となるものの「一すじ心なるを見澄ました上」で、承知をさせて貰い受けられている。すなわち私たち人間には、あらかじめ一筋心という特性が備えられており、またそのような心の働きを親神様は私たちに求めておられるのです。
「ひとすぢごゝろになりてこい」との呼びかけに対して、「かみにもたれてゆきまする」と親神様に宣言をしているわけですから、これは何としても実現させたいものです。
目に見えない親神様に身を預けるためには、ひたすら我欲を捨て、親神様への信頼ひとすじに通り切る。もたれるという語感からは、やや消極的な印象が感じられますが、むしろ積極的な心の大転換が必要です。

　　どのよふな事をするにも月日にて　　もたれていればあふなけハない　（十一 38）

どのような事が起きても、神の思いにもたれていれば決して危ないことはないのだと、私たちの元の親、実の親である親神様はそう断言して下さっています。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 30 Jan 2026 09:25:55 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>気が付かないまま、守られている</title>
        <description><![CDATA[気が付かないまま、守られている
東京都在住　　松村　登美和

先日、インターネットを見ていると、「生活定点」という名前の生活意識調査が目に留まりました。国内の大手広告代理店の研究所が二年に一度行っている調査で、2024年の調査結果が発表されていました。
質問の一つに、「あなたは幸せですか？」という問いがあり、その回答に「幸せ」と答えた人が73.5％、「不幸せ」と答えた人が5.3％、「どちらともいえない」と答えた人が21.2％という結果でした。それを見て、私は「幸せ」と答えた人が思ったより多いなと感じ、なんとなくホッとしました。
続いて関連質問を見ていくと、「あなたが欲しいものは何ですか？ 三つまで回答してください」というものがありました。
これに対する答えの上位3つは、「お金」が61.8％、「健康」が47.1％、「安定した暮らし」が41.7％。これについては、やはりお金を求める人が多いよな、と思ったのが率直な感想でした。
ちなみに余談ですが、私は現在60歳です。この調査では年代別の集計もされているのですが、「欲しいもの」に対する60代の回答の１位は、「お金」ではなく「若さ」でした。ここは実に共感を覚えるところでした。
さて、「欲しいもの」の１位、２位が「お金、健康」、３位が「安定した暮らし」という結果を見て、しみじみ思ったことがあります。それは、お金があり、体が健康であっても、「暮らしが安定している」こととイコールではない、ということです。
私は30年近く天理教の教会長を務めていますが、この間、多くの人と出会ってきました。その中には、お金は持っているけれども、暮らしが安定しているとは感じていない人、身体に疾患があっても、暮らしはしっかり安定している人など、様々な人がいます。要は、自分の心のあり方、物事の受け止め方によって、暮らしが安定するかどうかが決まってくる、そのように感じます。
その「暮らしが安定する物事の受け止め方」を身につけることが出来るのが、天理教の信仰の有り難いところです。
少し紹介したいと思いますが、天理教の神様は、天理王命（てんりおうのみこと）というお名前で、親しみを込めて私たちは「親神様」とお呼びしています。
この親神様は、十全の守護を下される神様です。「十全」とは、十分完全ということ。つまり何も欠けることなく完全に、私たち人間や、人間が生きている地上のあらゆることをお守り下されている神様、ということです。
その御守護の具体的な働きを、天理教の教祖「おやさま」は、イメージしやすいように、神様の名前を付けて教えて下さいました。その一つに「くもよみのみこと」という名前のお働きがあります。
「くもよみのみこと。人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理」と教えられています。
飲み食い出入りとは、口から食べて、胃で消化して、腸で栄養を吸収し、血液に乗せて体の隅々に養分を行き渡らせ、お尻から不要物を排泄する。つまり、消化器系や循環器系の働きのことです。
水気上げ下げとは、空から雨が降り、地面に浸み込んで、土の中の養分もろとも稲や野菜が吸収し、育つ。そして水分は蒸発して空に上がり、雲となり、また雨が降る。そうした地球環境の循環の御守護のことです。親神様はそのように、私たちが普段あまり意識をしていない中で、確実に私たちを生かし、守って下さっているのです。
以前、とあるご婦人に、この親神様の御守護の話をしました。するとその方が「なるほど、よく分かります」と仰いました。天理教のことは全くご存知ない方だったので、「どうして分かるんですか？」と逆に聞き返しました。
そのご婦人が言うには、一年前に息子さんが結婚をした。ところが奥さんになった方は食が細く、体も細い。ご婦人は心配して、お嫁さんに「無理をしてでも食べなさい」と促して、食事の量を増やしました。
すると、ふっくら健康そうに見える体になったのに、ある日突然体調を崩し、倒れてしまった。診察を受けると、「お母さんも結果を一緒に聞いてください」と同席を求められました。悪い病気かと思い、恐る恐る病院へ行くと、「お嫁さんはどこも悪くありません」と。
「この人は痩せているけれど、体は内臓も筋肉もとても健康です。ただ、生来全身の血管が細い。無理にたくさん食べて体が大きくなったことで、栄養を届ける血流が追いつかず、心臓が一生懸命に動きすぎて、負担がかかっている状態なんです。お母さん、この人はこの体で十分元気なのだから、無理に食べさせなくて大丈夫です」。お医者さんから、そう言われたのです。
ご婦人は、「人間の目で見て不健康そう、と私は思っていたけれど、実はそれが守られている姿だったんですね。神様の御守護って、そういうことなんですね」と話して下さいました。
お金の有る無し、体の具合、年齢など、それぞれ人により状況は違うと思います。ですが「自分は人と比べて違う」と焦ったり悩んだりすることは、目の前にある幸せを、見落としたり見過ごしたりすることにつながります。
親神様は、一人ひとり、その人その人にふさわしい形で、間違いなく御守護を下されています。
もし、いま「不幸せ」だと感じている方は、「もしかしたら、不幸せばかりではないのかもしれない」と、そして、いま「どちらともいえない」と感じている方は、「もしかしたら、幸せがあるのかもしれない」と、一度考えてみてはどうでしょうか。



むらかたはやくにたすけたい

江戸末期、この教えが伝え始められた頃は、人口のおよそ八割の人々が農業に従事していたと言われています。お言葉に出て来る「村方」とは、その農家の人たちのことを指します。
直筆による「おふでさき」に、

　　村かたハなをもたすけをせへている　　はやくしやんをしてくれるよふ　（四 78）

とあるように、教祖は近隣の村方の人々をとても気にかけておられます。「一に百姓たすけたい」と仰せになったのも、困窮する農家の多い時代、人々が食糧に困らぬように陽気ぐらしへ導いてやりたいという、まさに人類の母親ゆえの思召しからであると言えましょう。
その一方で、「みかぐらうた」に、

　　むらかたはやくにたすけたい　　なれどこゝろがわからいで　(四下り目 六ッ)

とあるように、そうした教祖の親心が、当時、お屋敷の近隣に住む人々にはなかなか伝わらなかったのです。
人々は、普段から身近に教祖に接しているがゆえに、その心安さもあって、教祖が神のやしろとなられたことを理解できなかったようです。ましてや、「貧に落ち切れ」との神様の思わくのままに、食べ物や着る物、家財道具や金銭、田畑まで次々に施されるのですから、驚くのも無理のないことでしょう。
そうしたなか、誤解を解かなければたすけの道が前へ進まないとの思いから、教祖自らお針の師匠をつとめられたり、また息子の秀司さんは寺子屋を開き、近所の子供たちに読み書きなどを教えられました。こうして村人たちは少しずつ、教祖の行いが憑き物や気の違いによるものではないことを理解していったのです。
このような逸話が残っています。
明治八年九月二十七日、この日は、教祖の末女・こかん様の出直した日です。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと聞いては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに出ました。
葬式の翌日、後仕舞の膳の席で、村人たちがこかん様の生前の思い出を語っていました。そして教祖に思いを致し、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった」と、中には涙を流す者さえありました。
そこで「わし等も、村方で講を結ばして頂こうやないか」と相談がまとまり、その由を教祖に申し上げました。講とは村々における信者の集まりのことで、いわば賑やかにおつとめがつとめられるわけですから、教祖は大層お喜び下さいました。
こうして、最初はお屋敷へ疑いの目を向けていた村方の人々へも、徐々にこの教えが広まっていったのでした。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>気が付かないまま、守られている
東京都在住　　松村　登美和

先日、インターネットを見ていると、「生活定点」という名前の生活意識調査が目に留まりました。国内の大手広告代理店の研究所が二年に一度行っている調査で、2024年の調査結果が発表されていました。
質問の一つに、「あなたは幸せですか？」という問いがあり、その回答に「幸せ」と答えた人が73.5％、「不幸せ」と答えた人が5.3％、「どちらともいえない」と答えた人が21.2％という結果でした。それを見て、私は「幸せ」と答えた人が思ったより多いなと感じ、なんとなくホッとしました。
続いて関連質問を見ていくと、「あなたが欲しいものは何ですか？ 三つまで回答してください」というものがありました。
これに対する答えの上位3つは、「お金」が61.8％、「健康」が47.1％、「安定した暮らし」が41.7％。これについては、やはりお金を求める人が多いよな、と思ったのが率直な感想でした。
ちなみに余談ですが、私は現在60歳です。この調査では年代別の集計もされているのですが、「欲しいもの」に対する60代の回答の１位は、「お金」ではなく「若さ」でした。ここは実に共感を覚えるところでした。
さて、「欲しいもの」の１位、２位が「お金、健康」、３位が「安定した暮らし」という結果を見て、しみじみ思ったことがあります。それは、お金があり、体が健康であっても、「暮らしが安定している」こととイコールではない、ということです。
私は30年近く天理教の教会長を務めていますが、この間、多くの人と出会ってきました。その中には、お金は持っているけれども、暮らしが安定しているとは感じていない人、身体に疾患があっても、暮らしはしっかり安定している人など、様々な人がいます。要は、自分の心のあり方、物事の受け止め方によって、暮らしが安定するかどうかが決まってくる、そのように感じます。
その「暮らしが安定する物事の受け止め方」を身につけることが出来るのが、天理教の信仰の有り難いところです。
少し紹介したいと思いますが、天理教の神様は、天理王命（てんりおうのみこと）というお名前で、親しみを込めて私たちは「親神様」とお呼びしています。
この親神様は、十全の守護を下される神様です。「十全」とは、十分完全ということ。つまり何も欠けることなく完全に、私たち人間や、人間が生きている地上のあらゆることをお守り下されている神様、ということです。
その御守護の具体的な働きを、天理教の教祖「おやさま」は、イメージしやすいように、神様の名前を付けて教えて下さいました。その一つに「くもよみのみこと」という名前のお働きがあります。
「くもよみのみこと。人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理」と教えられています。
飲み食い出入りとは、口から食べて、胃で消化して、腸で栄養を吸収し、血液に乗せて体の隅々に養分を行き渡らせ、お尻から不要物を排泄する。つまり、消化器系や循環器系の働きのことです。
水気上げ下げとは、空から雨が降り、地面に浸み込んで、土の中の養分もろとも稲や野菜が吸収し、育つ。そして水分は蒸発して空に上がり、雲となり、また雨が降る。そうした地球環境の循環の御守護のことです。親神様はそのように、私たちが普段あまり意識をしていない中で、確実に私たちを生かし、守って下さっているのです。
以前、とあるご婦人に、この親神様の御守護の話をしました。するとその方が「なるほど、よく分かります」と仰いました。天理教のことは全くご存知ない方だったので、「どうして分かるんですか？」と逆に聞き返しました。
そのご婦人が言うには、一年前に息子さんが結婚をした。ところが奥さんになった方は食が細く、体も細い。ご婦人は心配して、お嫁さんに「無理をしてでも食べなさい」と促して、食事の量を増やしました。
すると、ふっくら健康そうに見える体になったのに、ある日突然体調を崩し、倒れてしまった。診察を受けると、「お母さんも結果を一緒に聞いてください」と同席を求められました。悪い病気かと思い、恐る恐る病院へ行くと、「お嫁さんはどこも悪くありません」と。
「この人は痩せているけれど、体は内臓も筋肉もとても健康です。ただ、生来全身の血管が細い。無理にたくさん食べて体が大きくなったことで、栄養を届ける血流が追いつかず、心臓が一生懸命に動きすぎて、負担がかかっている状態なんです。お母さん、この人はこの体で十分元気なのだから、無理に食べさせなくて大丈夫です」。お医者さんから、そう言われたのです。
ご婦人は、「人間の目で見て不健康そう、と私は思っていたけれど、実はそれが守られている姿だったんですね。神様の御守護って、そういうことなんですね」と話して下さいました。
お金の有る無し、体の具合、年齢など、それぞれ人により状況は違うと思います。ですが「自分は人と比べて違う」と焦ったり悩んだりすることは、目の前にある幸せを、見落としたり見過ごしたりすることにつながります。
親神様は、一人ひとり、その人その人にふさわしい形で、間違いなく御守護を下されています。
もし、いま「不幸せ」だと感じている方は、「もしかしたら、不幸せばかりではないのかもしれない」と、そして、いま「どちらともいえない」と感じている方は、「もしかしたら、幸せがあるのかもしれない」と、一度考えてみてはどうでしょうか。



むらかたはやくにたすけたい

江戸末期、この教えが伝え始められた頃は、人口のおよそ八割の人々が農業に従事していたと言われています。お言葉に出て来る「村方」とは、その農家の人たちのことを指します。
直筆による「おふでさき」に、

　　村かたハなをもたすけをせへている　　はやくしやんをしてくれるよふ　（四 78）

とあるように、教祖は近隣の村方の人々をとても気にかけておられます。「一に百姓たすけたい」と仰せになったのも、困窮する農家の多い時代、人々が食糧に困らぬように陽気ぐらしへ導いてやりたいという、まさに人類の母親ゆえの思召しからであると言えましょう。
その一方で、「みかぐらうた」に、

　　むらかたはやくにたすけたい　　なれどこゝろがわからいで　(四下り目 六ッ)

とあるように、そうした教祖の親心が、当時、お屋敷の近隣に住む人々にはなかなか伝わらなかったのです。
人々は、普段から身近に教祖に接しているがゆえに、その心安さもあって、教祖が神のやしろとなられたことを理解できなかったようです。ましてや、「貧に落ち切れ」との神様の思わくのままに、食べ物や着る物、家財道具や金銭、田畑まで次々に施されるのですから、驚くのも無理のないことでしょう。
そうしたなか、誤解を解かなければたすけの道が前へ進まないとの思いから、教祖自らお針の師匠をつとめられたり、また息子の秀司さんは寺子屋を開き、近所の子供たちに読み書きなどを教えられました。こうして村人たちは少しずつ、教祖の行いが憑き物や気の違いによるものではないことを理解していったのです。
このような逸話が残っています。
明治八年九月二十七日、この日は、教祖の末女・こかん様の出直した日です。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと聞いては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに出ました。
葬式の翌日、後仕舞の膳の席で、村人たちがこかん様の生前の思い出を語っていました。そして教祖に思いを致し、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった」と、中には涙を流す者さえありました。
そこで「わし等も、村方で講を結ばして頂こうやないか」と相談がまとまり、その由を教祖に申し上げました。講とは村々における信者の集まりのことで、いわば賑やかにおつとめがつとめられるわけですから、教祖は大層お喜び下さいました。
こうして、最初はお屋敷へ疑いの目を向けていた村方の人々へも、徐々にこの教えが広まっていったのでした。
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東京都在住　　松村　登美和

先日、インターネットを見ていると、「生活定点」という名前の生活意識調査が目に留まりました。国内の大手広告代理店の研究所が二年に一度行っている調査で、2024年の調査結果が発表されていました。
質問の一つに、「あなたは幸せですか？」という問いがあり、その回答に「幸せ」と答えた人が73.5％、「不幸せ」と答えた人が5.3％、「どちらともいえない」と答えた人が21.2％という結果でした。それを見て、私は「幸せ」と答えた人が思ったより多いなと感じ、なんとなくホッとしました。
続いて関連質問を見ていくと、「あなたが欲しいものは何ですか？ 三つまで回答してください」というものがありました。
これに対する答えの上位3つは、「お金」が61.8％、「健康」が47.1％、「安定した暮らし」が41.7％。これについては、やはりお金を求める人が多いよな、と思ったのが率直な感想でした。
ちなみに余談ですが、私は現在60歳です。この調査では年代別の集計もされているのですが、「欲しいもの」に対する60代の回答の１位は、「お金」ではなく「若さ」でした。ここは実に共感を覚えるところでした。
さて、「欲しいもの」の１位、２位が「お金、健康」、３位が「安定した暮らし」という結果を見て、しみじみ思ったことがあります。それは、お金があり、体が健康であっても、「暮らしが安定している」こととイコールではない、ということです。
私は30年近く天理教の教会長を務めていますが、この間、多くの人と出会ってきました。その中には、お金は持っているけれども、暮らしが安定しているとは感じていない人、身体に疾患があっても、暮らしはしっかり安定している人など、様々な人がいます。要は、自分の心のあり方、物事の受け止め方によって、暮らしが安定するかどうかが決まってくる、そのように感じます。
その「暮らしが安定する物事の受け止め方」を身につけることが出来るのが、天理教の信仰の有り難いところです。
少し紹介したいと思いますが、天理教の神様は、天理王命（てんりおうのみこと）というお名前で、親しみを込めて私たちは「親神様」とお呼びしています。
この親神様は、十全の守護を下される神様です。「十全」とは、十分完全ということ。つまり何も欠けることなく完全に、私たち人間や、人間が生きている地上のあらゆることをお守り下されている神様、ということです。
その御守護の具体的な働きを、天理教の教祖「おやさま」は、イメージしやすいように、神様の名前を付けて教えて下さいました。その一つに「くもよみのみこと」という名前のお働きがあります。
「くもよみのみこと。人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理」と教えられています。
飲み食い出入りとは、口から食べて、胃で消化して、腸で栄養を吸収し、血液に乗せて体の隅々に養分を行き渡らせ、お尻から不要物を排泄する。つまり、消化器系や循環器系の働きのことです。
水気上げ下げとは、空から雨が降り、地面に浸み込んで、土の中の養分もろとも稲や野菜が吸収し、育つ。そして水分は蒸発して空に上がり、雲となり、また雨が降る。そうした地球環境の循環の御守護のことです。親神様はそのように、私たちが普段あまり意識をしていない中で、確実に私たちを生かし、守って下さっているのです。
以前、とあるご婦人に、この親神様の御守護の話をしました。するとその方が「なるほど、よく分かります」と仰いました。天理教のことは全くご存知ない方だったので、「どうして分かるんですか？」と逆に聞き返しました。
そのご婦人が言うには、一年前に息子さんが結婚をした。ところが奥さんになった方は食が細く、体も細い。ご婦人は心配して、お嫁さんに「無理をしてでも食べなさい」と促して、食事の量を増やしました。
すると、ふっくら健康そうに見える体になったのに、ある日突然体調を崩し、倒れてしまった。診察を受けると、「お母さんも結果を一緒に聞いてください」と同席を求められました。悪い病気かと思い、恐る恐る病院へ行くと、「お嫁さんはどこも悪くありません」と。
「この人は痩せているけれど、体は内臓も筋肉もとても健康です。ただ、生来全身の血管が細い。無理にたくさん食べて体が大きくなったことで、栄養を届ける血流が追いつかず、心臓が一生懸命に動きすぎて、負担がかかっている状態なんです。お母さん、この人はこの体で十分元気なのだから、無理に食べさせなくて大丈夫です」。お医者さんから、そう言われたのです。
ご婦人は、「人間の目で見て不健康そう、と私は思っていたけれど、実はそれが守られている姿だったんですね。神様の御守護って、そういうことなんですね」と話して下さいました。
お金の有る無し、体の具合、年齢など、それぞれ人により状況は違うと思います。ですが「自分は人と比べて違う」と焦ったり悩んだりすることは、目の前にある幸せを、見落としたり見過ごしたりすることにつながります。
親神様は、一人ひとり、その人その人にふさわしい形で、間違いなく御守護を下されています。
もし、いま「不幸せ」だと感じている方は、「もしかしたら、不幸せばかりではないのかもしれない」と、そして、いま「どちらともいえない」と感じている方は、「もしかしたら、幸せがあるのかもしれない」と、一度考えてみてはどうでしょうか。



むらかたはやくにたすけたい

江戸末期、この教えが伝え始められた頃は、人口のおよそ八割の人々が農業に従事していたと言われています。お言葉に出て来る「村方」とは、その農家の人たちのことを指します。
直筆による「おふでさき」に、

　　村かたハなをもたすけをせへている　　はやくしやんをしてくれるよふ　（四 78）

とあるように、教祖は近隣の村方の人々をとても気にかけておられます。「一に百姓たすけたい」と仰せになったのも、困窮する農家の多い時代、人々が食糧に困らぬように陽気ぐらしへ導いてやりたいという、まさに人類の母親ゆえの思召しからであると言えましょう。
その一方で、「みかぐらうた」に、

　　むらかたはやくにたすけたい　　なれどこゝろがわからいで　(四下り目 六ッ)

とあるように、そうした教祖の親心が、当時、お屋敷の近隣に住む人々にはなかなか伝わらなかったのです。
人々は、普段から身近に教祖に接しているがゆえに、その心安さもあって、教祖が神のやしろとなられたことを理解できなかったようです。ましてや、「貧に落ち切れ」との神様の思わくのままに、食べ物や着る物、家財道具や金銭、田畑まで次々に施されるのですから、驚くのも無理のないことでしょう。
そうしたなか、誤解を解かなければたすけの道が前へ進まないとの思いから、教祖自らお針の師匠をつとめられたり、また息子の秀司さんは寺子屋を開き、近所の子供たちに読み書きなどを教えられました。こうして村人たちは少しずつ、教祖の行いが憑き物や気の違いによるものではないことを理解していったのです。
このような逸話が残っています。
明治八年九月二十七日、この日は、教祖の末女・こかん様の出直した日です。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと聞いては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに出ました。
葬式の翌日、後仕舞の膳の席で、村人たちがこかん様の生前の思い出を語っていました。そして教祖に思いを致し、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった」と、中には涙を流す者さえありました。
そこで「わし等も、村方で講を結ばして頂こうやないか」と相談がまとまり、その由を教祖に申し上げました。講とは村々における信者の集まりのことで、いわば賑やかにおつとめがつとめられるわけですから、教祖は大層お喜び下さいました。
こうして、最初はお屋敷へ疑いの目を向けていた村方の人々へも、徐々にこの教えが広まっていったのでした。
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        <pubDate>Fri, 23 Jan 2026 09:00:31 +0000</pubDate>
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                <title>サードマン現象（後編）</title>
        <description><![CDATA[サードマン現象（後編）

　　　　　　助産師　　目黒　和加子

リスナーの皆さん、NHK総合テレビで人気だった『爆笑問題のニッポンの教養』という番組を覚えていますか？　これは、お笑いコンビ・爆笑問題の二人が大学教授や研究者をはじめ、その道のプロフェッショナルの現場を訪問する番組でした。
あの日の主役は、著名な心臓外科医A先生。タイトルは『天才心臓外科医の告白』。
A先生は、最新の医療機器を見せながら手術方法を爆笑問題の二人に説明しつつ、「実はね。手術中、僕の中に神様が降りてくる時があるんですよ」と言ったのです。そして、その意味を説明し始めました。
「手術前の検査データから手術の難しさを予想して臨むんですが、切開して心臓を見ると想定外に状態の悪い時があります。『これはマズイ、自分には無理かもしれない』と頭の中は真っ白になり、もう祈るしかないという心境になるんです。
そういう時に神様が降りてくる。神様が降りてくると頭の中は冴え渡り、普段の手術の時よりも手先がシャープに動く、というか動かされている。もはや自分の手という感覚ではない。
さほど重症でなく手術した患者さんよりも、想定外に状態が悪く神様が手術した患者さんの方が術後の回復が早く、退院後も良好に過ごしておられます」。そう笑顔で語っていました。
「私と同じような経験してる医療職者がいてはる。しかもあのA先生やん」と嬉しい反面、「不思議を感じているのは私だけで、周りの人と共有したことはないよなぁ」と、何かすっきりしません。
そんなある日、サードマンの存在を決定づけるお産に当たるのです。
その日は夜勤。出勤すると、初産婦の田辺さんが分娩室に入るところでした。日勤からの申し送りでは、胎児の推定体重は3500グラムとかなり大きく、産道を下りれずに途中で停滞しているとのこと。それから一時間息み続けましたが、胎児は産道の途中で止まったまま。田辺さんは力尽きて言葉も出ません。
すると胎児心拍が一気に低下。この医院には、吸引分娩や鉗子分娩の器械も装置もありません。手術室もないので帝王切開もできません。産婦のお腹を押すしかないのです。
体重100キロを超える巨体の院長が、全力で田辺さんのお腹をグイグイ押しますが、全く動きません。院長の汗が田辺さんのお腹に滴り落ちています。「トン……、トン……、」胎児心拍は今にも止まりそう。15分後、とうとう心拍が停止してしまいました。
「もうこれ以上、力が出ません。ご主人さん代わりに押して！」パニックになる院長。
「何を言うんだ、それでも医者か！」怒り出すご主人。分娩台の上の産婦を挟んで言い合いになっています。
分娩室が修羅場と化す中、オロオロする私に院長が「そうや、目黒さん押してみて」と言ったのです。
「相撲取りのような院長が15分押しても動かへんのに、私が押して出るわけないやん」と思いつつ、出来ませんとは言えない雰囲気。産婦の息みに合わせて全力でお腹を押しましたが、胎児は微動だにしません。
「心拍停止して5分、もうダメや」と諦めかけた時、田辺さんが「助産師さん…赤ちゃんをたすけてください」と、か細い声を発したのです。
「こうなったら神さんしかない！」自分の寿命を差し出す覚悟を決めました。
「次の陣痛で底力出して息むんよ。私も命がけで押すからね！」
精魂尽き果てる寸前の田辺さんと自分に喝を入れ、全力でお腹を押しました。すると、拍子抜けするぐらいスルスルッと出てきたのです。しかし、出てはきたものの赤ちゃんの全身は群青色で心拍は停止したまま。ぐったりして産声をあげません。
「ここで諦めてなるものか！まだ間に合う！」がっくり肩を落とす院長に喝を入れました。
再び身を捨てる覚悟を決め、あらゆる蘇生処置を施すと心拍が戻ってきたのです。「ふんぎゃ～」と呻くような産声をあげ、自発呼吸が始まりました。
弱々しい産声はだんだん力強くなり、身体の色も群青色から紫色、紫色からピンク色へと変化していきました。手足を動かし始め、筋肉の緊張もしっかりしてきたのです。
3750グラムの男の子。この赤ちゃんの、へその緒と胎盤の中に流れる血液、臍帯血のpH値は6.89。見たことのない数字です。pH値が7.0を下回ると限りなく死に近づきます。pH値が書かれた紙を持ったまま、全身の毛が逆立つのを感じました。
廊下から蘇生の様子をガラス越しに見ていたご主人に、「状態は安定しました。もう大丈夫です」と伝えると、「ありがとうございます！ 目黒さんにたすけて頂いたことは一生忘れません」私の腰にしがみつき、泣き崩れています。
「私がたすけたように見えるけど、それは違う。お産の神さんがたすけてくれはったんよ。神さんがたすけたんやから、社会の役に立つ子に育ててくれはる？」
「約束します、約束します！ この子の名前は浩（ひろ）です。ありがとうございます…」
ご主人の泣き声が、夜の廊下に響いていました。
それから二年が経ち、二人目を妊娠中の田辺さんが、里帰り分娩で実家に帰る前に私に会いに来られました。
「お産のことは怖い思い出になってしまって、夫婦の間で話すことはなかったんですが、浩の一歳の誕生日の日に主人が、『浩は社会の役に立つ人に育てる』と言い出したんです。訳を聞くと、『お産の後、目黒さんが、私がたすけたのと違う、お産の神さんがたすけてくれはったんよ。神さんがたすけたんやから、社会の役に立つ子に育ててねって言わはった。だから約束したんや』って。それを聞いて私、やっぱりって納得したんです。
目黒さんが一回目に私のお腹を押した手は、冷たい手でした。喝を入れられて二回目、目黒さんの冷たい手の他に温かい二本の手、合計四本の手が私のお腹を押してたんです。温度差があったのではっきり分かりました。
本当にお産の神様がたすけてくれたんですね。浩はお約束通り、社会の役に立つよう育てていきます」
ニコニコしながら、そう言ってくれたのです。
「手が四本って…。あの時、教祖も一緒にお腹を押してはったんや…」
サードマンの存在を産婦さんと共有し、あの時も、この時も、教祖が側にいて加勢して下さっていたことを確信したのでした。



水にたとえて

教祖は、私たち人間が得心しやすいように、生活に根差したあらゆる例えを用いて教えを説かれています。例えば、人の心は「水」に例えられています。

　　これからハ水にたとゑてはなしする　　すむとにごりでさとりとるなり　（三 7）

透き通るように澄んだ水もあれば、濁っている水もある。それに例えて話しをするから、しっかり悟りとるようにと仰せられます。
『天理教教典』には、

「人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁っているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた」

と記されています。
また、親神様の思いに添わない、自己中心的な心遣いを「ほこり」に例えて戒められ、

        せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ　　神がほふけやしかとみでいよ　（三 52）

と、そうした「ほこり」の心遣いを払うためには、親神様の教えを箒として、絶えず心の掃除をすることが大切であると諭されています。
水や箒など、誰もが生活に必要なものに例えてお教えくださるのは、水槽に少しずつ水を蓄える如く、徐々に私たちに深い思わくを理解させていこうとの親心からなのです。
それと同様に、直筆による「おふでさき」では、親神様の呼び方、「神名」についても、最初は「神」といい、次に「月日」と呼び、更には「をや」という呼び方を用いて、徐々に身近な存在として理解できるようにご配慮下さっています。

　　にんけんもこ共かわいであろをがな　　それをふもふてしやんしてくれ　　　（一四 34）

　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　　　（一四 35）

人間も子供が可愛くて仕方がないであろう、神もそれと同じであると、私たちが我が子を慈しむ親心によせて、お教え下されています。
親神様はすべてにわたりご守護下さる絶対的な神であると同時に、ただ仰ぎ見るばかりの遠い存在では決してないということ、日頃のささいな喜びや悲しみまでも、すべてを打ち明け、すがることの出来る親身の親であり、どこまでも身近な存在であることを教えられています。
たとえそのお姿は見えなくとも、日常の暮らしにおけるどんな場面においても、親神様は私たちのすぐそばにおられるのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>サードマン現象（後編）

　　　　　　助産師　　目黒　和加子

リスナーの皆さん、NHK総合テレビで人気だった『爆笑問題のニッポンの教養』という番組を覚えていますか？　これは、お笑いコンビ・爆笑問題の二人が大学教授や研究者をはじめ、その道のプロフェッショナルの現場を訪問する番組でした。
あの日の主役は、著名な心臓外科医A先生。タイトルは『天才心臓外科医の告白』。
A先生は、最新の医療機器を見せながら手術方法を爆笑問題の二人に説明しつつ、「実はね。手術中、僕の中に神様が降りてくる時があるんですよ」と言ったのです。そして、その意味を説明し始めました。
「手術前の検査データから手術の難しさを予想して臨むんですが、切開して心臓を見ると想定外に状態の悪い時があります。『これはマズイ、自分には無理かもしれない』と頭の中は真っ白になり、もう祈るしかないという心境になるんです。
そういう時に神様が降りてくる。神様が降りてくると頭の中は冴え渡り、普段の手術の時よりも手先がシャープに動く、というか動かされている。もはや自分の手という感覚ではない。
さほど重症でなく手術した患者さんよりも、想定外に状態が悪く神様が手術した患者さんの方が術後の回復が早く、退院後も良好に過ごしておられます」。そう笑顔で語っていました。
「私と同じような経験してる医療職者がいてはる。しかもあのA先生やん」と嬉しい反面、「不思議を感じているのは私だけで、周りの人と共有したことはないよなぁ」と、何かすっきりしません。
そんなある日、サードマンの存在を決定づけるお産に当たるのです。
その日は夜勤。出勤すると、初産婦の田辺さんが分娩室に入るところでした。日勤からの申し送りでは、胎児の推定体重は3500グラムとかなり大きく、産道を下りれずに途中で停滞しているとのこと。それから一時間息み続けましたが、胎児は産道の途中で止まったまま。田辺さんは力尽きて言葉も出ません。
すると胎児心拍が一気に低下。この医院には、吸引分娩や鉗子分娩の器械も装置もありません。手術室もないので帝王切開もできません。産婦のお腹を押すしかないのです。
体重100キロを超える巨体の院長が、全力で田辺さんのお腹をグイグイ押しますが、全く動きません。院長の汗が田辺さんのお腹に滴り落ちています。「トン……、トン……、」胎児心拍は今にも止まりそう。15分後、とうとう心拍が停止してしまいました。
「もうこれ以上、力が出ません。ご主人さん代わりに押して！」パニックになる院長。
「何を言うんだ、それでも医者か！」怒り出すご主人。分娩台の上の産婦を挟んで言い合いになっています。
分娩室が修羅場と化す中、オロオロする私に院長が「そうや、目黒さん押してみて」と言ったのです。
「相撲取りのような院長が15分押しても動かへんのに、私が押して出るわけないやん」と思いつつ、出来ませんとは言えない雰囲気。産婦の息みに合わせて全力でお腹を押しましたが、胎児は微動だにしません。
「心拍停止して5分、もうダメや」と諦めかけた時、田辺さんが「助産師さん…赤ちゃんをたすけてください」と、か細い声を発したのです。
「こうなったら神さんしかない！」自分の寿命を差し出す覚悟を決めました。
「次の陣痛で底力出して息むんよ。私も命がけで押すからね！」
精魂尽き果てる寸前の田辺さんと自分に喝を入れ、全力でお腹を押しました。すると、拍子抜けするぐらいスルスルッと出てきたのです。しかし、出てはきたものの赤ちゃんの全身は群青色で心拍は停止したまま。ぐったりして産声をあげません。
「ここで諦めてなるものか！まだ間に合う！」がっくり肩を落とす院長に喝を入れました。
再び身を捨てる覚悟を決め、あらゆる蘇生処置を施すと心拍が戻ってきたのです。「ふんぎゃ～」と呻くような産声をあげ、自発呼吸が始まりました。
弱々しい産声はだんだん力強くなり、身体の色も群青色から紫色、紫色からピンク色へと変化していきました。手足を動かし始め、筋肉の緊張もしっかりしてきたのです。
3750グラムの男の子。この赤ちゃんの、へその緒と胎盤の中に流れる血液、臍帯血のpH値は6.89。見たことのない数字です。pH値が7.0を下回ると限りなく死に近づきます。pH値が書かれた紙を持ったまま、全身の毛が逆立つのを感じました。
廊下から蘇生の様子をガラス越しに見ていたご主人に、「状態は安定しました。もう大丈夫です」と伝えると、「ありがとうございます！ 目黒さんにたすけて頂いたことは一生忘れません」私の腰にしがみつき、泣き崩れています。
「私がたすけたように見えるけど、それは違う。お産の神さんがたすけてくれはったんよ。神さんがたすけたんやから、社会の役に立つ子に育ててくれはる？」
「約束します、約束します！ この子の名前は浩（ひろ）です。ありがとうございます…」
ご主人の泣き声が、夜の廊下に響いていました。
それから二年が経ち、二人目を妊娠中の田辺さんが、里帰り分娩で実家に帰る前に私に会いに来られました。
「お産のことは怖い思い出になってしまって、夫婦の間で話すことはなかったんですが、浩の一歳の誕生日の日に主人が、『浩は社会の役に立つ人に育てる』と言い出したんです。訳を聞くと、『お産の後、目黒さんが、私がたすけたのと違う、お産の神さんがたすけてくれはったんよ。神さんがたすけたんやから、社会の役に立つ子に育ててねって言わはった。だから約束したんや』って。それを聞いて私、やっぱりって納得したんです。
目黒さんが一回目に私のお腹を押した手は、冷たい手でした。喝を入れられて二回目、目黒さんの冷たい手の他に温かい二本の手、合計四本の手が私のお腹を押してたんです。温度差があったのではっきり分かりました。
本当にお産の神様がたすけてくれたんですね。浩はお約束通り、社会の役に立つよう育てていきます」
ニコニコしながら、そう言ってくれたのです。
「手が四本って…。あの時、教祖も一緒にお腹を押してはったんや…」
サードマンの存在を産婦さんと共有し、あの時も、この時も、教祖が側にいて加勢して下さっていたことを確信したのでした。



水にたとえて

教祖は、私たち人間が得心しやすいように、生活に根差したあらゆる例えを用いて教えを説かれています。例えば、人の心は「水」に例えられています。

　　これからハ水にたとゑてはなしする　　すむとにごりでさとりとるなり　（三 7）

透き通るように澄んだ水もあれば、濁っている水もある。それに例えて話しをするから、しっかり悟りとるようにと仰せられます。
『天理教教典』には、

「人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁っているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた」

と記されています。
また、親神様の思いに添わない、自己中心的な心遣いを「ほこり」に例えて戒められ、

        せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ　　神がほふけやしかとみでいよ　（三 52）

と、そうした「ほこり」の心遣いを払うためには、親神様の教えを箒として、絶えず心の掃除をすることが大切であると諭されています。
水や箒など、誰もが生活に必要なものに例えてお教えくださるのは、水槽に少しずつ水を蓄える如く、徐々に私たちに深い思わくを理解させていこうとの親心からなのです。
それと同様に、直筆による「おふでさき」では、親神様の呼び方、「神名」についても、最初は「神」といい、次に「月日」と呼び、更には「をや」という呼び方を用いて、徐々に身近な存在として理解できるようにご配慮下さっています。

　　にんけんもこ共かわいであろをがな　　それをふもふてしやんしてくれ　　　（一四 34）

　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　　　（一四 35）

人間も子供が可愛くて仕方がないであろう、神もそれと同じであると、私たちが我が子を慈しむ親心によせて、お教え下されています。
親神様はすべてにわたりご守護下さる絶対的な神であると同時に、ただ仰ぎ見るばかりの遠い存在では決してないということ、日頃のささいな喜びや悲しみまでも、すべてを打ち明け、すがることの出来る親身の親であり、どこまでも身近な存在であることを教えられています。
たとえそのお姿は見えなくとも、日常の暮らしにおけるどんな場面においても、親神様は私たちのすぐそばにおられるのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>サードマン現象（後編）

　　　　　　助産師　　目黒　和加子

リスナーの皆さん、NHK総合テレビで人気だった『爆笑問題のニッポンの教養』という番組を覚えていますか？　これは、お笑いコンビ・爆笑問題の二人が大学教授や研究者をはじめ、その道のプロフェッショナルの現場を訪問する番組でした。
あの日の主役は、著名な心臓外科医A先生。タイトルは『天才心臓外科医の告白』。
A先生は、最新の医療機器を見せながら手術方法を爆笑問題の二人に説明しつつ、「実はね。手術中、僕の中に神様が降りてくる時があるんですよ」と言ったのです。そして、その意味を説明し始めました。
「手術前の検査データから手術の難しさを予想して臨むんですが、切開して心臓を見ると想定外に状態の悪い時があります。『これはマズイ、自分には無理かもしれない』と頭の中は真っ白になり、もう祈るしかないという心境になるんです。
そういう時に神様が降りてくる。神様が降りてくると頭の中は冴え渡り、普段の手術の時よりも手先がシャープに動く、というか動かされている。もはや自分の手という感覚ではない。
さほど重症でなく手術した患者さんよりも、想定外に状態が悪く神様が手術した患者さんの方が術後の回復が早く、退院後も良好に過ごしておられます」。そう笑顔で語っていました。
「私と同じような経験してる医療職者がいてはる。しかもあのA先生やん」と嬉しい反面、「不思議を感じているのは私だけで、周りの人と共有したことはないよなぁ」と、何かすっきりしません。
そんなある日、サードマンの存在を決定づけるお産に当たるのです。
その日は夜勤。出勤すると、初産婦の田辺さんが分娩室に入るところでした。日勤からの申し送りでは、胎児の推定体重は3500グラムとかなり大きく、産道を下りれずに途中で停滞しているとのこと。それから一時間息み続けましたが、胎児は産道の途中で止まったまま。田辺さんは力尽きて言葉も出ません。
すると胎児心拍が一気に低下。この医院には、吸引分娩や鉗子分娩の器械も装置もありません。手術室もないので帝王切開もできません。産婦のお腹を押すしかないのです。
体重100キロを超える巨体の院長が、全力で田辺さんのお腹をグイグイ押しますが、全く動きません。院長の汗が田辺さんのお腹に滴り落ちています。「トン……、トン……、」胎児心拍は今にも止まりそう。15分後、とうとう心拍が停止してしまいました。
「もうこれ以上、力が出ません。ご主人さん代わりに押して！」パニックになる院長。
「何を言うんだ、それでも医者か！」怒り出すご主人。分娩台の上の産婦を挟んで言い合いになっています。
分娩室が修羅場と化す中、オロオロする私に院長が「そうや、目黒さん押してみて」と言ったのです。
「相撲取りのような院長が15分押しても動かへんのに、私が押して出るわけないやん」と思いつつ、出来ませんとは言えない雰囲気。産婦の息みに合わせて全力でお腹を押しましたが、胎児は微動だにしません。
「心拍停止して5分、もうダメや」と諦めかけた時、田辺さんが「助産師さん…赤ちゃんをたすけてください」と、か細い声を発したのです。
「こうなったら神さんしかない！」自分の寿命を差し出す覚悟を決めました。
「次の陣痛で底力出して息むんよ。私も命がけで押すからね！」
精魂尽き果てる寸前の田辺さんと自分に喝を入れ、全力でお腹を押しました。すると、拍子抜けするぐらいスルスルッと出てきたのです。しかし、出てはきたものの赤ちゃんの全身は群青色で心拍は停止したまま。ぐったりして産声をあげません。
「ここで諦めてなるものか！まだ間に合う！」がっくり肩を落とす院長に喝を入れました。
再び身を捨てる覚悟を決め、あらゆる蘇生処置を施すと心拍が戻ってきたのです。「ふんぎゃ～」と呻くような産声をあげ、自発呼吸が始まりました。
弱々しい産声はだんだん力強くなり、身体の色も群青色から紫色、紫色からピンク色へと変化していきました。手足を動かし始め、筋肉の緊張もしっかりしてきたのです。
3750グラムの男の子。この赤ちゃんの、へその緒と胎盤の中に流れる血液、臍帯血のpH値は6.89。見たことのない数字です。pH値が7.0を下回ると限りなく死に近づきます。pH値が書かれた紙を持ったまま、全身の毛が逆立つのを感じました。
廊下から蘇生の様子をガラス越しに見ていたご主人に、「状態は安定しました。もう大丈夫です」と伝えると、「ありがとうございます！ 目黒さんにたすけて頂いたことは一生忘れません」私の腰にしがみつき、泣き崩れています。
「私がたすけたように見えるけど、それは違う。お産の神さんがたすけてくれはったんよ。神さんがたすけたんやから、社会の役に立つ子に育ててくれはる？」
「約束します、約束します！ この子の名前は浩（ひろ）です。ありがとうございます…」
ご主人の泣き声が、夜の廊下に響いていました。
それから二年が経ち、二人目を妊娠中の田辺さんが、里帰り分娩で実家に帰る前に私に会いに来られました。
「お産のことは怖い思い出になってしまって、夫婦の間で話すことはなかったんですが、浩の一歳の誕生日の日に主人が、『浩は社会の役に立つ人に育てる』と言い出したんです。訳を聞くと、『お産の後、目黒さんが、私がたすけたのと違う、お産の神さんがたすけてくれはったんよ。神さんがたすけたんやから、社会の役に立つ子に育ててねって言わはった。だから約束したんや』って。それを聞いて私、やっぱりって納得したんです。
目黒さんが一回目に私のお腹を押した手は、冷たい手でした。喝を入れられて二回目、目黒さんの冷たい手の他に温かい二本の手、合計四本の手が私のお腹を押してたんです。温度差があったのではっきり分かりました。
本当にお産の神様がたすけてくれたんですね。浩はお約束通り、社会の役に立つよう育てていきます」
ニコニコしながら、そう言ってくれたのです。
「手が四本って…。あの時、教祖も一緒にお腹を押してはったんや…」
サードマンの存在を産婦さんと共有し、あの時も、この時も、教祖が側にいて加勢して下さっていたことを確信したのでした。



水にたとえて

教祖は、私たち人間が得心しやすいように、生活に根差したあらゆる例えを用いて教えを説かれています。例えば、人の心は「水」に例えられています。

　　これからハ水にたとゑてはなしする　　すむとにごりでさとりとるなり　（三 7）

透き通るように澄んだ水もあれば、濁っている水もある。それに例えて話しをするから、しっかり悟りとるようにと仰せられます。
『天理教教典』には、

「人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁っているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた」

と記されています。
また、親神様の思いに添わない、自己中心的な心遣いを「ほこり」に例えて戒められ、

        せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ　　神がほふけやしかとみでいよ　（三 52）

と、そうした「ほこり」の心遣いを払うためには、親神様の教えを箒として、絶えず心の掃除をすることが大切であると諭されています。
水や箒など、誰もが生活に必要なものに例えてお教えくださるのは、水槽に少しずつ水を蓄える如く、徐々に私たちに深い思わくを理解させていこうとの親心からなのです。
それと同様に、直筆による「おふでさき」では、親神様の呼び方、「神名」についても、最初は「神」といい、次に「月日」と呼び、更には「をや」という呼び方を用いて、徐々に身近な存在として理解できるようにご配慮下さっています。

　　にんけんもこ共かわいであろをがな　　それをふもふてしやんしてくれ　　　（一四 34）

　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　　　（一四 35）

人間も子供が可愛くて仕方がないであろう、神もそれと同じであると、私たちが我が子を慈しむ親心によせて、お教え下されています。
親神様はすべてにわたりご守護下さる絶対的な神であると同時に、ただ仰ぎ見るばかりの遠い存在では決してないということ、日頃のささいな喜びや悲しみまでも、すべてを打ち明け、すがることの出来る親身の親であり、どこまでも身近な存在であることを教えられています。
たとえそのお姿は見えなくとも、日常の暮らしにおけるどんな場面においても、親神様は私たちのすぐそばにおられるのです。
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        <pubDate>Fri, 16 Jan 2026 09:29:47 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>サードマン現象（前編）</title>
        <description><![CDATA[サードマン現象（前編）
助産師　　目黒　和加子

「勝手に促進剤を中止するとは、どういうことだ！」
「夜通し促進剤を続けるなんてありえません。子宮筋が疲労して子宮破裂の可能性があります！ 母と子に危険が及ぶと判断し、中止しました！」
職員通用口を開けるなり耳に飛び込んできたのは、大声で怒鳴り合う声。院長と夜勤助産師の池田さんが、休憩室で大ゲンカの真っ最中です。
「すぐに促進剤を始めるぞ！」と言い放ち、部屋を出ていく院長。その背中を睨みつける池田さん。一体、何があったのでしょう。
その二日前、破水で来院した初産婦の原さんは丸一日待っても陣痛が来ず、前日の朝から分娩促進剤の点滴を始めました。胎児を取り巻く卵膜が破れ、羊水が漏れ出すことを破水といいます。破水すると細菌が子宮内に侵入し、胎児が感染の危険にさらされます。自然に陣痛が来なければ薬で陣痛を起こし、お産を進めます。
17時の時点で子宮口は半分の5センチ開大。通常はここで点滴を止め、夜は子宮を休ませます。子宮は促進剤で強制的にギュッと縮んだり戻ったりをさせ続けられるので、疲れてくるのです。
院長は「20時まで点滴を続けよう」と言いました。20時になり内診しましたが、子宮口は5センチと変わりません。今度は「23時まで続ける」と言い、車で外出。23時に外出先から電話で、「明日の朝まで点滴続行しておいて」と指示を出しました。この時も子宮口は5センチのまま。
池田さんは、「子宮が疲労して分娩が停止しています。促進剤を中止して子宮を休ませてください」と上申しましたが聞き入れてもらえず、中止を自分で判断しました。
翌朝、院長が来てみると促進剤は前日の23時で中止されていて、バトルとなったようです。
申し送りを受けた日勤の私。怒りが治まらない池田さんに、「今日のところはゆっくり休んで」と声をかけ、原さんのいる陣痛室に行くと、とんでもないことになっていました。
引きつった顔の原さんがお腹を抱えて息み、強烈な痛みで言葉も出ない様子。促進剤の点滴量を調整するポンプの設定が、なんと通常の倍の量になっているではありませんか。院長が早くお産にしようと量を多くしたので、子宮の収縮が強くなり過ぎ、過強陣痛となっているのです。
すぐに促進剤を中止。分娩室に入れて内診すると、子宮口はほぼ全開大。このままお産になると判断し、病衣をめくるとお腹に薄茶色の縄のようなものが浮かび上がっています。
「まさか、これって…。バンドル収縮輪や！」
助産学の教科書でしか見たことのない、子宮破裂の前に現れる「バンドル収縮輪」が目の前に。
「まずい。このままでは子宮が破裂して母児共に命がない！」
バンドル収縮輪を見た院長は青ざめ、「T病院に搬送をお願いしてきますッ！」と大慌てで電話をしています。
すぐに救急車が到着。原さんとご主人を乗せ、T病院へ出発するその時、「僕は外来診療があるので、目黒さんが乗って行って」と院長。
「何言うてるんですか！ ドクターが行かないと途中で何かあったらどうするんですか！」
「日勤の医者は僕一人やし、外来の患者さんを待たせてるので」と、立ち去ってしまったのです。
そのやりとりを聞いていた救急隊員が、偶然にも私が以前に分娩介助した秋本さんのご主人でした。
「目黒さん、どうする？」
「押し問答してても時間のムダや。秋本さん、突っ走って！」
「任せてください！」
救急車は原さんとご主人と私を乗せ、飛ぶようにT病院へ。この車中で私は不思議な体験をしたのです。
震える原さんの手を握り、「すぐに着くからね」と励ましつつも、バンドル収縮輪は一層くっきりと浮かび上がり、破裂寸前。
「神さん、私の寿命、好きなだけ差し上げます。原さんと赤ちゃんをたすけてください！」と身を捨てる覚悟を決めました。
「あ、Ｔ病院が見えた」。一瞬気が緩んだその時、気づいたのです。誰かが私の背中をさすっていることに…。
振り返ってみると、ご主人は椅子に腰かけて震えています。
「ご主人と私との間に誰かいてる…。これは何？」
不思議に包まれると同時に、Ｔ病院に到着。分娩室に運び入れ、3分後に出産。子宮破裂はギリギリのところで回避されました。
Ｔ病院からの帰りのタクシーの中。ドキドキが治まらず、深呼吸すると背中がスースーするのに気づきました。
「あれ、ブラジャーのホックが外れてるわ。なんで外れてんのやろ？」
ブラジャーのホックは簡単に外れません。なぜ、外れているのか。女性のリスナーさんは分かりますよね。背中を強くさすられたから外れたのです。
頭の中がザワザワしながら、思い出したのは、数か月前にNHK教育テレビで見た「地球ドラマチック」という番組。テーマは「サードマン現象」。第三の存在という意味です。
「サードマン現象とは、遭難や漂流、災害現場などで絶体絶命の極限状態に置かれた時、奇跡の生還へと導いてくれる目に見えない第三者の存在を感じること」と説明されていました。
その時は、「なんやそれ。根拠のないこと言うて」と流していたのですが、「けど、スースーする背中は現実や。私の背中をさすっていたのはサードマンなんやろか？」と思案をめぐらせていると、過去に同じような経験を何度もしていることに気づいたのです。
「子宮が収縮せず胎盤剥離面から大出血したMさんの時、産道から子宮の中に手を入れて圧迫止血する私のそばに誰か居てた。息遣いを感じたよな」
「へその緒が四重に巻きついて産道で動けなくなったYちゃんの時、誰かが私の背中にくっついて、二人羽織状態で赤ちゃんを取り上げたっけ」
「薬剤性ショックで血圧低下したFさんの時は、頭の中がコンピューターのようになって、優先順位をはじき出して抜かりなく処置できた。あの時は自分の頭の中が自分じゃないみたいやった。危機一髪の時に出てくるのは、いったい誰なんやろう？」
そんなある日、私の周りに現れるサードマンが分かったのです。それを教えてくれたのは、これまたNHKのテレビ番組。
その正体は…来週の後編で。



夫婦揃うて

大阪で左官業を営んでいた梅谷四郎兵衛さんは、入信して間もない頃、教祖から「夫婦揃うて信心しなされや」とのお言葉を頂きました。四郎兵衛さんは早速、妻のタネさんに「この道というものは、一人だけではいかぬのだそうであるから、おまえも、ともども信心してくれねばならぬ」と話したところ、タネさんはこれに素直に従い、夫婦で熱心に信仰を始めました。（教祖伝逸話篇92 「夫婦揃うて」）
信仰の先人の中では、おしどり夫婦の代表のような四郎兵衛さんとタネさん夫妻。四郎兵衛さんはおたすけに出向く際には、タネさんに場所や人物、お願いの筋を必ず詳しく伝え、タネさんもそれを一心に受け、留守番をしながら必死にたすかりを願ったと伝えられています。
明治十五年、教祖が奈良監獄署へ拘留された時の話です。この時、四郎兵衛さんはお屋敷に滞在しながら、朝暗いうちから起きて、奈良までの約12㎞の道のりを差し入れのために通っていました。
奈良に着く頃に、ようやく空が白み初め、九時頃に差し入れ物を届けてからお屋敷へ戻る毎日でした。ある時は、監獄署の門の中へ黙って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったから、かえる事ならん」と警官に脅かされたり、帰ったら帰ったで、お屋敷の入り口では張り番の警官にとがめられ、一晩中取り調べを受けるなど、毎晩二時間ぐらいしか寝る間がない有様でした。
十二日間の拘留の末、教祖は大勢の人々に迎えられ、お元気にお屋敷へ帰られました。すると教祖は四郎兵衛さんをお呼びになり、
「四郎兵衛さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで」
と仰せられました。
四郎兵衛さんは不思議に思いました。監獄署では、差入れ物をするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかっていないのです。それに、自分のそのような行動を、他の誰かが申し上げているはずもありません。
ところが、その頃、大阪で留守番をしていた妻のタネさんが、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をしていたのです。(教祖伝逸話篇106「蔭膳」)
四郎兵衛さんとタネさんが、夫婦で心を一つに合わせ、教祖を思うその真実を見抜き見通され、教祖はそのようにお声を掛けられたのです。

お言葉に、
　　ふたりのこゝろををさめいよ　　なにかのことをもあらはれる（四下り目 二ッ）
とあります。
どんな中でも夫婦が心を一つに治め、一すじ心で通る中に、陽気ぐらしへの道が開かれることをお教え下されています。
（終）
]]></description>
        <googleplay:description>サードマン現象（前編）
助産師　　目黒　和加子

「勝手に促進剤を中止するとは、どういうことだ！」
「夜通し促進剤を続けるなんてありえません。子宮筋が疲労して子宮破裂の可能性があります！ 母と子に危険が及ぶと判断し、中止しました！」
職員通用口を開けるなり耳に飛び込んできたのは、大声で怒鳴り合う声。院長と夜勤助産師の池田さんが、休憩室で大ゲンカの真っ最中です。
「すぐに促進剤を始めるぞ！」と言い放ち、部屋を出ていく院長。その背中を睨みつける池田さん。一体、何があったのでしょう。
その二日前、破水で来院した初産婦の原さんは丸一日待っても陣痛が来ず、前日の朝から分娩促進剤の点滴を始めました。胎児を取り巻く卵膜が破れ、羊水が漏れ出すことを破水といいます。破水すると細菌が子宮内に侵入し、胎児が感染の危険にさらされます。自然に陣痛が来なければ薬で陣痛を起こし、お産を進めます。
17時の時点で子宮口は半分の5センチ開大。通常はここで点滴を止め、夜は子宮を休ませます。子宮は促進剤で強制的にギュッと縮んだり戻ったりをさせ続けられるので、疲れてくるのです。
院長は「20時まで点滴を続けよう」と言いました。20時になり内診しましたが、子宮口は5センチと変わりません。今度は「23時まで続ける」と言い、車で外出。23時に外出先から電話で、「明日の朝まで点滴続行しておいて」と指示を出しました。この時も子宮口は5センチのまま。
池田さんは、「子宮が疲労して分娩が停止しています。促進剤を中止して子宮を休ませてください」と上申しましたが聞き入れてもらえず、中止を自分で判断しました。
翌朝、院長が来てみると促進剤は前日の23時で中止されていて、バトルとなったようです。
申し送りを受けた日勤の私。怒りが治まらない池田さんに、「今日のところはゆっくり休んで」と声をかけ、原さんのいる陣痛室に行くと、とんでもないことになっていました。
引きつった顔の原さんがお腹を抱えて息み、強烈な痛みで言葉も出ない様子。促進剤の点滴量を調整するポンプの設定が、なんと通常の倍の量になっているではありませんか。院長が早くお産にしようと量を多くしたので、子宮の収縮が強くなり過ぎ、過強陣痛となっているのです。
すぐに促進剤を中止。分娩室に入れて内診すると、子宮口はほぼ全開大。このままお産になると判断し、病衣をめくるとお腹に薄茶色の縄のようなものが浮かび上がっています。
「まさか、これって…。バンドル収縮輪や！」
助産学の教科書でしか見たことのない、子宮破裂の前に現れる「バンドル収縮輪」が目の前に。
「まずい。このままでは子宮が破裂して母児共に命がない！」
バンドル収縮輪を見た院長は青ざめ、「T病院に搬送をお願いしてきますッ！」と大慌てで電話をしています。
すぐに救急車が到着。原さんとご主人を乗せ、T病院へ出発するその時、「僕は外来診療があるので、目黒さんが乗って行って」と院長。
「何言うてるんですか！ ドクターが行かないと途中で何かあったらどうするんですか！」
「日勤の医者は僕一人やし、外来の患者さんを待たせてるので」と、立ち去ってしまったのです。
そのやりとりを聞いていた救急隊員が、偶然にも私が以前に分娩介助した秋本さんのご主人でした。
「目黒さん、どうする？」
「押し問答してても時間のムダや。秋本さん、突っ走って！」
「任せてください！」
救急車は原さんとご主人と私を乗せ、飛ぶようにT病院へ。この車中で私は不思議な体験をしたのです。
震える原さんの手を握り、「すぐに着くからね」と励ましつつも、バンドル収縮輪は一層くっきりと浮かび上がり、破裂寸前。
「神さん、私の寿命、好きなだけ差し上げます。原さんと赤ちゃんをたすけてください！」と身を捨てる覚悟を決めました。
「あ、Ｔ病院が見えた」。一瞬気が緩んだその時、気づいたのです。誰かが私の背中をさすっていることに…。
振り返ってみると、ご主人は椅子に腰かけて震えています。
「ご主人と私との間に誰かいてる…。これは何？」
不思議に包まれると同時に、Ｔ病院に到着。分娩室に運び入れ、3分後に出産。子宮破裂はギリギリのところで回避されました。
Ｔ病院からの帰りのタクシーの中。ドキドキが治まらず、深呼吸すると背中がスースーするのに気づきました。
「あれ、ブラジャーのホックが外れてるわ。なんで外れてんのやろ？」
ブラジャーのホックは簡単に外れません。なぜ、外れているのか。女性のリスナーさんは分かりますよね。背中を強くさすられたから外れたのです。
頭の中がザワザワしながら、思い出したのは、数か月前にNHK教育テレビで見た「地球ドラマチック」という番組。テーマは「サードマン現象」。第三の存在という意味です。
「サードマン現象とは、遭難や漂流、災害現場などで絶体絶命の極限状態に置かれた時、奇跡の生還へと導いてくれる目に見えない第三者の存在を感じること」と説明されていました。
その時は、「なんやそれ。根拠のないこと言うて」と流していたのですが、「けど、スースーする背中は現実や。私の背中をさすっていたのはサードマンなんやろか？」と思案をめぐらせていると、過去に同じような経験を何度もしていることに気づいたのです。
「子宮が収縮せず胎盤剥離面から大出血したMさんの時、産道から子宮の中に手を入れて圧迫止血する私のそばに誰か居てた。息遣いを感じたよな」
「へその緒が四重に巻きついて産道で動けなくなったYちゃんの時、誰かが私の背中にくっついて、二人羽織状態で赤ちゃんを取り上げたっけ」
「薬剤性ショックで血圧低下したFさんの時は、頭の中がコンピューターのようになって、優先順位をはじき出して抜かりなく処置できた。あの時は自分の頭の中が自分じゃないみたいやった。危機一髪の時に出てくるのは、いったい誰なんやろう？」
そんなある日、私の周りに現れるサードマンが分かったのです。それを教えてくれたのは、これまたNHKのテレビ番組。
その正体は…来週の後編で。



夫婦揃うて

大阪で左官業を営んでいた梅谷四郎兵衛さんは、入信して間もない頃、教祖から「夫婦揃うて信心しなされや」とのお言葉を頂きました。四郎兵衛さんは早速、妻のタネさんに「この道というものは、一人だけではいかぬのだそうであるから、おまえも、ともども信心してくれねばならぬ」と話したところ、タネさんはこれに素直に従い、夫婦で熱心に信仰を始めました。（教祖伝逸話篇92 「夫婦揃うて」）
信仰の先人の中では、おしどり夫婦の代表のような四郎兵衛さんとタネさん夫妻。四郎兵衛さんはおたすけに出向く際には、タネさんに場所や人物、お願いの筋を必ず詳しく伝え、タネさんもそれを一心に受け、留守番をしながら必死にたすかりを願ったと伝えられています。
明治十五年、教祖が奈良監獄署へ拘留された時の話です。この時、四郎兵衛さんはお屋敷に滞在しながら、朝暗いうちから起きて、奈良までの約12㎞の道のりを差し入れのために通っていました。
奈良に着く頃に、ようやく空が白み初め、九時頃に差し入れ物を届けてからお屋敷へ戻る毎日でした。ある時は、監獄署の門の中へ黙って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったから、かえる事ならん」と警官に脅かされたり、帰ったら帰ったで、お屋敷の入り口では張り番の警官にとがめられ、一晩中取り調べを受けるなど、毎晩二時間ぐらいしか寝る間がない有様でした。
十二日間の拘留の末、教祖は大勢の人々に迎えられ、お元気にお屋敷へ帰られました。すると教祖は四郎兵衛さんをお呼びになり、
「四郎兵衛さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで」
と仰せられました。
四郎兵衛さんは不思議に思いました。監獄署では、差入れ物をするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかっていないのです。それに、自分のそのような行動を、他の誰かが申し上げているはずもありません。
ところが、その頃、大阪で留守番をしていた妻のタネさんが、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をしていたのです。(教祖伝逸話篇106「蔭膳」)
四郎兵衛さんとタネさんが、夫婦で心を一つに合わせ、教祖を思うその真実を見抜き見通され、教祖はそのようにお声を掛けられたのです。

お言葉に、
　　ふたりのこゝろををさめいよ　　なにかのことをもあらはれる（四下り目 二ッ）
とあります。
どんな中でも夫婦が心を一つに治め、一すじ心で通る中に、陽気ぐらしへの道が開かれることをお教え下されています。
（終）
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        <itunes:summary>サードマン現象（前編）
助産師　　目黒　和加子

「勝手に促進剤を中止するとは、どういうことだ！」
「夜通し促進剤を続けるなんてありえません。子宮筋が疲労して子宮破裂の可能性があります！ 母と子に危険が及ぶと判断し、中止しました！」
職員通用口を開けるなり耳に飛び込んできたのは、大声で怒鳴り合う声。院長と夜勤助産師の池田さんが、休憩室で大ゲンカの真っ最中です。
「すぐに促進剤を始めるぞ！」と言い放ち、部屋を出ていく院長。その背中を睨みつける池田さん。一体、何があったのでしょう。
その二日前、破水で来院した初産婦の原さんは丸一日待っても陣痛が来ず、前日の朝から分娩促進剤の点滴を始めました。胎児を取り巻く卵膜が破れ、羊水が漏れ出すことを破水といいます。破水すると細菌が子宮内に侵入し、胎児が感染の危険にさらされます。自然に陣痛が来なければ薬で陣痛を起こし、お産を進めます。
17時の時点で子宮口は半分の5センチ開大。通常はここで点滴を止め、夜は子宮を休ませます。子宮は促進剤で強制的にギュッと縮んだり戻ったりをさせ続けられるので、疲れてくるのです。
院長は「20時まで点滴を続けよう」と言いました。20時になり内診しましたが、子宮口は5センチと変わりません。今度は「23時まで続ける」と言い、車で外出。23時に外出先から電話で、「明日の朝まで点滴続行しておいて」と指示を出しました。この時も子宮口は5センチのまま。
池田さんは、「子宮が疲労して分娩が停止しています。促進剤を中止して子宮を休ませてください」と上申しましたが聞き入れてもらえず、中止を自分で判断しました。
翌朝、院長が来てみると促進剤は前日の23時で中止されていて、バトルとなったようです。
申し送りを受けた日勤の私。怒りが治まらない池田さんに、「今日のところはゆっくり休んで」と声をかけ、原さんのいる陣痛室に行くと、とんでもないことになっていました。
引きつった顔の原さんがお腹を抱えて息み、強烈な痛みで言葉も出ない様子。促進剤の点滴量を調整するポンプの設定が、なんと通常の倍の量になっているではありませんか。院長が早くお産にしようと量を多くしたので、子宮の収縮が強くなり過ぎ、過強陣痛となっているのです。
すぐに促進剤を中止。分娩室に入れて内診すると、子宮口はほぼ全開大。このままお産になると判断し、病衣をめくるとお腹に薄茶色の縄のようなものが浮かび上がっています。
「まさか、これって…。バンドル収縮輪や！」
助産学の教科書でしか見たことのない、子宮破裂の前に現れる「バンドル収縮輪」が目の前に。
「まずい。このままでは子宮が破裂して母児共に命がない！」
バンドル収縮輪を見た院長は青ざめ、「T病院に搬送をお願いしてきますッ！」と大慌てで電話をしています。
すぐに救急車が到着。原さんとご主人を乗せ、T病院へ出発するその時、「僕は外来診療があるので、目黒さんが乗って行って」と院長。
「何言うてるんですか！ ドクターが行かないと途中で何かあったらどうするんですか！」
「日勤の医者は僕一人やし、外来の患者さんを待たせてるので」と、立ち去ってしまったのです。
そのやりとりを聞いていた救急隊員が、偶然にも私が以前に分娩介助した秋本さんのご主人でした。
「目黒さん、どうする？」
「押し問答してても時間のムダや。秋本さん、突っ走って！」
「任せてください！」
救急車は原さんとご主人と私を乗せ、飛ぶようにT病院へ。この車中で私は不思議な体験をしたのです。
震える原さんの手を握り、「すぐに着くからね」と励ましつつも、バンドル収縮輪は一層くっきりと浮かび上がり、破裂寸前。
「神さん、私の寿命、好きなだけ差し上げます。原さんと赤ちゃんをたすけてください！」と身を捨てる覚悟を決めました。
「あ、Ｔ病院が見えた」。一瞬気が緩んだその時、気づいたのです。誰かが私の背中をさすっていることに…。
振り返ってみると、ご主人は椅子に腰かけて震えています。
「ご主人と私との間に誰かいてる…。これは何？」
不思議に包まれると同時に、Ｔ病院に到着。分娩室に運び入れ、3分後に出産。子宮破裂はギリギリのところで回避されました。
Ｔ病院からの帰りのタクシーの中。ドキドキが治まらず、深呼吸すると背中がスースーするのに気づきました。
「あれ、ブラジャーのホックが外れてるわ。なんで外れてんのやろ？」
ブラジャーのホックは簡単に外れません。なぜ、外れているのか。女性のリスナーさんは分かりますよね。背中を強くさすられたから外れたのです。
頭の中がザワザワしながら、思い出したのは、数か月前にNHK教育テレビで見た「地球ドラマチック」という番組。テーマは「サードマン現象」。第三の存在という意味です。
「サードマン現象とは、遭難や漂流、災害現場などで絶体絶命の極限状態に置かれた時、奇跡の生還へと導いてくれる目に見えない第三者の存在を感じること」と説明されていました。
その時は、「なんやそれ。根拠のないこと言うて」と流していたのですが、「けど、スースーする背中は現実や。私の背中をさすっていたのはサードマンなんやろか？」と思案をめぐらせていると、過去に同じような経験を何度もしていることに気づいたのです。
「子宮が収縮せず胎盤剥離面から大出血したMさんの時、産道から子宮の中に手を入れて圧迫止血する私のそばに誰か居てた。息遣いを感じたよな」
「へその緒が四重に巻きついて産道で動けなくなったYちゃんの時、誰かが私の背中にくっついて、二人羽織状態で赤ちゃんを取り上げたっけ」
「薬剤性ショックで血圧低下したFさんの時は、頭の中がコンピューターのようになって、優先順位をはじき出して抜かりなく処置できた。あの時は自分の頭の中が自分じゃないみたいやった。危機一髪の時に出てくるのは、いったい誰なんやろう？」
そんなある日、私の周りに現れるサードマンが分かったのです。それを教えてくれたのは、これまたNHKのテレビ番組。
その正体は…来週の後編で。



夫婦揃うて

大阪で左官業を営んでいた梅谷四郎兵衛さんは、入信して間もない頃、教祖から「夫婦揃うて信心しなされや」とのお言葉を頂きました。四郎兵衛さんは早速、妻のタネさんに「この道というものは、一人だけではいかぬのだそうであるから、おまえも、ともども信心してくれねばならぬ」と話したところ、タネさんはこれに素直に従い、夫婦で熱心に信仰を始めました。（教祖伝逸話篇92 「夫婦揃うて」）
信仰の先人の中では、おしどり夫婦の代表のような四郎兵衛さんとタネさん夫妻。四郎兵衛さんはおたすけに出向く際には、タネさんに場所や人物、お願いの筋を必ず詳しく伝え、タネさんもそれを一心に受け、留守番をしながら必死にたすかりを願ったと伝えられています。
明治十五年、教祖が奈良監獄署へ拘留された時の話です。この時、四郎兵衛さんはお屋敷に滞在しながら、朝暗いうちから起きて、奈良までの約12㎞の道のりを差し入れのために通っていました。
奈良に着く頃に、ようやく空が白み初め、九時頃に差し入れ物を届けてからお屋敷へ戻る毎日でした。ある時は、監獄署の門の中へ黙って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったから、かえる事ならん」と警官に脅かされたり、帰ったら帰ったで、お屋敷の入り口では張り番の警官にとがめられ、一晩中取り調べを受けるなど、毎晩二時間ぐらいしか寝る間がない有様でした。
十二日間の拘留の末、教祖は大勢の人々に迎えられ、お元気にお屋敷へ帰られました。すると教祖は四郎兵衛さんをお呼びになり、
「四郎兵衛さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで」
と仰せられました。
四郎兵衛さんは不思議に思いました。監獄署では、差入れ物をするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかっていないのです。それに、自分のそのような行動を、他の誰かが申し上げているはずもありません。
ところが、その頃、大阪で留守番をしていた妻のタネさんが、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をしていたのです。(教祖伝逸話篇106「蔭膳」)
四郎兵衛さんとタネさんが、夫婦で心を一つに合わせ、教祖を思うその真実を見抜き見通され、教祖はそのようにお声を掛けられたのです。

お言葉に、
　　ふたりのこゝろををさめいよ　　なにかのことをもあらはれる（四下り目 二ッ）
とあります。
どんな中でも夫婦が心を一つに治め、一すじ心で通る中に、陽気ぐらしへの道が開かれることをお教え下されています。
（終）
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        <pubDate>Fri, 09 Jan 2026 09:21:52 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>ピンポンが押せなくて…</title>
        <description><![CDATA[ピンポンが押せなくて…
兵庫県在住　　旭　和世

ある日、中学生の娘が「今日友達に天理教の布教してきた～」と言います。「ええ？そうなん？どんな布教したん？」と聞くと、
「うちの家は、普通の家と違ってお寺っぽいから不思議がられるねん。だから、うちは天理教の教会やで～って紹介したら、友達が『私のおばあちゃん家の近くにも天理教あるわ～』とか、『結構色々な所にあるよな～』って盛り上がってさ～」と嬉しそうに話しています。
若い人達の間で、自分の推しや好きなものを友達に紹介したり広めることを「布教」と言うのが流行りのようで…。道を伝える「伝道」とはまたちょっと違った意味にはなりますが、娘がそうやって教会について楽しく紹介してくれたことを嬉しく思いました。
私自身も天理教の教会で生まれ、育てて頂いたので、友達が家に来ると、神殿のぼんぼりなどを見て「大きいお雛さんやな～」とか、「広くていいなあ」などと言われてちょっと嬉しかったことを思い出します。
でも、だんだん成長するにつれて、友達に説明したり、天理教について話したりすることが難しいなあと思うようになりました。時々、親について行って神名流しをしたり、戸別訪問をすることがありましたが、特に母は電車に乗っていても、病院や買い物に行っても、隣にいて仲良くなった人にいつでも神様のお話をするような人でした。内心、「お母さんすごいな～。私は恥ずかしくてそんな話できないわ～」とずっと思っていました。
そんな中でも、教会に出入りされる方が、神様のお話を聞いて心の向きが変わり、幸せになっていく姿をたくさん見せて頂いてきたので、「やっぱり神様はおられるんだ。これは真実の教えなんだ」と実感することも度々でした。
その後、私は教会の後継者さんとご縁があり、教会に嫁がせてもらいました。ところが、育児や日々の生活に必死で、布教・にをいがけに出ることがほとんどなくなっていました。「こんなことでいいんだろうか」と思いながらも、外に出ずにいると、どんどん気持ちが沈んでいって、喜べない自分に自己嫌悪がつのる毎日でした。
そんな時、近くの教会の同年代の奥さんにその悩みを打ち明けたことがきっかけで、「一緒ににをいがけをしよう！」となり、近隣の奥さん達にも声をかけ、月に数回にをいがけに回らせて頂けるようになりました。みんな子育て道中で、それぞれ悩みや事情を抱えながらも、子供達を連れて神名流し、路傍講演、戸別訪問が出来るようになりました。
中でも、私が緊張するのは戸別訪問です。インターホンを押すのに勇気が要って、「もし出て来られたら何て言おう…」とドキドキしながら回っていました。
そして、ドキドキしながらも思い出したのは、若い頃、大阪にある「花園布教修練所」で三カ月間、布教の勉強をさせてもらっていた時のことでした。寮生活をしながら、毎朝にをいがけに出る時にみんなで掛け合う言葉がありました。

匂いが掛からなんだら掛からんでよろしい
お救けがあがらなんだらあがらんでよろしい
食えなんだら食わんでよろしい
そんなこと神様のなさる事や
あんたはただ歩いたらええのや
雨の日も風の日も毎日な
歩けんようになったら座ったらええ
神様の領分と人間の領分
はっきり分けることが肝心や
賢うなったら道は通れん
喜び湧いてこん
神様の邪魔をしているようなものや
この道は実行
ひながたの道通るより他に道はない

この言葉が頭に浮かんできました。
そうか、自分に何が出来るのか、何を話すのかとオロオロしていたけれど、そうじゃなかった！
神様の領分！ 神様のなさること！ だから私は、教祖のお供をさせてもらったらいいんだと、心が軽くなり、勇気が湧いてきました。
すると、嫌そうな顔をされたり、ちょっと怒られたりしながらも、頭を下げて「ありがとうございました」とお礼を言って、そのお家の幸せを祈りながら回れるようになりました。
そして不思議なことに、普段の生活の中でも、それまで喜べなかったことがとても小さなことに感じられたり、にをいがけで断られる度に、知らず知らずのうちに高慢になっていた自分の心を低くして頂いているなあ、ありがたいなあと、喜びがどんどん増えていきました。
そんなある日、大教会の団参を控え、一人でも多くの方におぢばに帰って頂きたいと、教会につながる方や、まだおぢばに帰ったことのない方に声をかけていました。もう一人、もう一人と思っても、なかなかいい返事はありませんでした。
そんな中、花園布教修練所で教えて頂いた言葉がまた浮かんできました。
「信仰は裏付けが大切。ご守護頂くには、理づくりや伏せ込みが大切だよ」と聞かせて頂いていたので、とにかく理づくりのために歩かせてもらおうと、時間を見つけては歩いていました。
そして、いよいよ団参の前日です。その日もお誘いに歩いていました。けれど、いつものようにお断りばかり…。もう少し、もう少しと歩きましたが、とうとう時間が来て、肩を落としながらトボトボと坂道を歩いて帰ろうとしていました。
すると、坂の途中で一本の電話がかかってきたのです。以前、団参にお誘いしていた未信者のおじさんでした。
「旭さん、明日、なんか天理に行く言うてはりましたなあ。ぼく、それ行きますわ」とのことです。
私はとても驚き、「あ～、親神様が働いて下さったんだ、教祖が導いて下さったんだ」と胸が熱くなりました。その方はその後、別席を運ばれ、ようぼくになって下さいました。

「どんな所にをい掛かるも神が働くから掛かる」（Ｍ26.7.12）

というお言葉がありますが、私のこんなつたない「理づくり」にも、神様のお働きを見せて頂けたことに、心から喜びを感じました。そして、神様に受け取って頂けるための理づくりの大切さを、実感した出来事でもありました。
「自分の智恵や力には限界があるけど、神様のご守護は無限大だよ」と、よく母が言っていた意味がようやく理解できた気がしました。
インターホンがなかなか押せず悶々としていたあの日のことを思うと、またこうやって、にをいがけに歩けるようになって本当に良かった。今でもインターホンを押す時はドキドキしますが、あの頃のドキドキとは少し違って、「この扉の向こうには、どんな方が待っていて下さるのかな。教祖が導いて下さる方だから、きっと前生からご縁のある方だろうな」と思えるような、楽しみなドキドキに変わっています。
そして、私が連れて一緒に歩いていた子供達はと言うと…。今では成長し、にをいがけに出る私に「よくやるわ～」と言います。
かつて私が母に抱いていた気持ちと同じだなあと、微笑ましく思いつつ、一緒に歩いた日々は、子供たちにとってきっと無駄にはならないと信じて、先を楽しみにしています。



だけど有難い「初詣はするものの…」

年の初めに、大勢の人が初詣に行きます。そして「家内安全」「家運長久」「商売繁盛」などをお願いします。なぜ、そうしたことをお願いするかというと、自分の力では実現できないからです。その際、大半の人はタダでお願いはしないものです。お賽銭を上げます。「良い年＝一一一四円」、あるいは「福来い＝二九五一円」などと縁起の良い数を金額にしてお願いするのです。それくらいのお供えでたくさんお願いするのは、ちょっと厚かましいのではとも思いますが、それはさておき、一生懸命にお願いをします。
しかし、どうでしょう。年末になって「おかげで家内安全で過ごせました」とお礼に来る人で神社が溢れ返るといった話を聞いたことはありません。毎年ひっそりと年の瀬を迎えます。そして新しい年を迎えると、いきなり大勢の人が初詣に訪れて、また「家内安全」「家運長久」「商売繁盛」を願うのです。要するに、願いっ放しなのです。お願いが叶っても、お礼はしない。
私たちは、親神様のご守護のおかげで生きているということを知っています。一年間、家族が元気に過ごさせていただけたこと一つをとっても、どれほど有難いことかと思わずにいられません。そうしたことを忘れることなく、お礼をさせていただかなければならないと思います。
今年一年、家族のうえに、自分自身のうえにお見せいただいたこと、頂戴したご守護をしっかりと噛み締める。そして、ご恩を感じたなら、ご恩報じの道を歩ませていただく。実はそうすることが、いま頂戴している幸せを深く味わい、さらに次の幸せの種を蒔くことになるのです。
世界では大きなテロ事件がたびたび起こり、ずいぶん警戒しているという話を聞きます。自爆テロをする人たちは、自爆すれば死んで天国へ行けると教えられているのです。イスラム教だけではありません。キリスト教も仏教も皆、死後の安寧、死んで天国や極楽へ行く道を説いています。
教祖は、「こゝはこのよのごくらくや」と教えてくださいました。人間は、この世で陽気ぐらしを味わわせていただくのであり、死んでから行く天国はないのです。出直してもまた、この世に生まれ替わってくるのです。そのことが分かれば、自爆テロをするような人は出てこないはずです。
私たちは、陽気ぐらし世界実現の御用にお使いいただくようぼくです。一日も早く、一人でも多くの人に、この道を伝え、そして、生きて極楽を味わえる世界に立て替わるよう、共に働かせていただきたいと思います。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>ピンポンが押せなくて…
兵庫県在住　　旭　和世

ある日、中学生の娘が「今日友達に天理教の布教してきた～」と言います。「ええ？そうなん？どんな布教したん？」と聞くと、
「うちの家は、普通の家と違ってお寺っぽいから不思議がられるねん。だから、うちは天理教の教会やで～って紹介したら、友達が『私のおばあちゃん家の近くにも天理教あるわ～』とか、『結構色々な所にあるよな～』って盛り上がってさ～」と嬉しそうに話しています。
若い人達の間で、自分の推しや好きなものを友達に紹介したり広めることを「布教」と言うのが流行りのようで…。道を伝える「伝道」とはまたちょっと違った意味にはなりますが、娘がそうやって教会について楽しく紹介してくれたことを嬉しく思いました。
私自身も天理教の教会で生まれ、育てて頂いたので、友達が家に来ると、神殿のぼんぼりなどを見て「大きいお雛さんやな～」とか、「広くていいなあ」などと言われてちょっと嬉しかったことを思い出します。
でも、だんだん成長するにつれて、友達に説明したり、天理教について話したりすることが難しいなあと思うようになりました。時々、親について行って神名流しをしたり、戸別訪問をすることがありましたが、特に母は電車に乗っていても、病院や買い物に行っても、隣にいて仲良くなった人にいつでも神様のお話をするような人でした。内心、「お母さんすごいな～。私は恥ずかしくてそんな話できないわ～」とずっと思っていました。
そんな中でも、教会に出入りされる方が、神様のお話を聞いて心の向きが変わり、幸せになっていく姿をたくさん見せて頂いてきたので、「やっぱり神様はおられるんだ。これは真実の教えなんだ」と実感することも度々でした。
その後、私は教会の後継者さんとご縁があり、教会に嫁がせてもらいました。ところが、育児や日々の生活に必死で、布教・にをいがけに出ることがほとんどなくなっていました。「こんなことでいいんだろうか」と思いながらも、外に出ずにいると、どんどん気持ちが沈んでいって、喜べない自分に自己嫌悪がつのる毎日でした。
そんな時、近くの教会の同年代の奥さんにその悩みを打ち明けたことがきっかけで、「一緒ににをいがけをしよう！」となり、近隣の奥さん達にも声をかけ、月に数回にをいがけに回らせて頂けるようになりました。みんな子育て道中で、それぞれ悩みや事情を抱えながらも、子供達を連れて神名流し、路傍講演、戸別訪問が出来るようになりました。
中でも、私が緊張するのは戸別訪問です。インターホンを押すのに勇気が要って、「もし出て来られたら何て言おう…」とドキドキしながら回っていました。
そして、ドキドキしながらも思い出したのは、若い頃、大阪にある「花園布教修練所」で三カ月間、布教の勉強をさせてもらっていた時のことでした。寮生活をしながら、毎朝にをいがけに出る時にみんなで掛け合う言葉がありました。

匂いが掛からなんだら掛からんでよろしい
お救けがあがらなんだらあがらんでよろしい
食えなんだら食わんでよろしい
そんなこと神様のなさる事や
あんたはただ歩いたらええのや
雨の日も風の日も毎日な
歩けんようになったら座ったらええ
神様の領分と人間の領分
はっきり分けることが肝心や
賢うなったら道は通れん
喜び湧いてこん
神様の邪魔をしているようなものや
この道は実行
ひながたの道通るより他に道はない

この言葉が頭に浮かんできました。
そうか、自分に何が出来るのか、何を話すのかとオロオロしていたけれど、そうじゃなかった！
神様の領分！ 神様のなさること！ だから私は、教祖のお供をさせてもらったらいいんだと、心が軽くなり、勇気が湧いてきました。
すると、嫌そうな顔をされたり、ちょっと怒られたりしながらも、頭を下げて「ありがとうございました」とお礼を言って、そのお家の幸せを祈りながら回れるようになりました。
そして不思議なことに、普段の生活の中でも、それまで喜べなかったことがとても小さなことに感じられたり、にをいがけで断られる度に、知らず知らずのうちに高慢になっていた自分の心を低くして頂いているなあ、ありがたいなあと、喜びがどんどん増えていきました。
そんなある日、大教会の団参を控え、一人でも多くの方におぢばに帰って頂きたいと、教会につながる方や、まだおぢばに帰ったことのない方に声をかけていました。もう一人、もう一人と思っても、なかなかいい返事はありませんでした。
そんな中、花園布教修練所で教えて頂いた言葉がまた浮かんできました。
「信仰は裏付けが大切。ご守護頂くには、理づくりや伏せ込みが大切だよ」と聞かせて頂いていたので、とにかく理づくりのために歩かせてもらおうと、時間を見つけては歩いていました。
そして、いよいよ団参の前日です。その日もお誘いに歩いていました。けれど、いつものようにお断りばかり…。もう少し、もう少しと歩きましたが、とうとう時間が来て、肩を落としながらトボトボと坂道を歩いて帰ろうとしていました。
すると、坂の途中で一本の電話がかかってきたのです。以前、団参にお誘いしていた未信者のおじさんでした。
「旭さん、明日、なんか天理に行く言うてはりましたなあ。ぼく、それ行きますわ」とのことです。
私はとても驚き、「あ～、親神様が働いて下さったんだ、教祖が導いて下さったんだ」と胸が熱くなりました。その方はその後、別席を運ばれ、ようぼくになって下さいました。

「どんな所にをい掛かるも神が働くから掛かる」（Ｍ26.7.12）

というお言葉がありますが、私のこんなつたない「理づくり」にも、神様のお働きを見せて頂けたことに、心から喜びを感じました。そして、神様に受け取って頂けるための理づくりの大切さを、実感した出来事でもありました。
「自分の智恵や力には限界があるけど、神様のご守護は無限大だよ」と、よく母が言っていた意味がようやく理解できた気がしました。
インターホンがなかなか押せず悶々としていたあの日のことを思うと、またこうやって、にをいがけに歩けるようになって本当に良かった。今でもインターホンを押す時はドキドキしますが、あの頃のドキドキとは少し違って、「この扉の向こうには、どんな方が待っていて下さるのかな。教祖が導いて下さる方だから、きっと前生からご縁のある方だろうな」と思えるような、楽しみなドキドキに変わっています。
そして、私が連れて一緒に歩いていた子供達はと言うと…。今では成長し、にをいがけに出る私に「よくやるわ～」と言います。
かつて私が母に抱いていた気持ちと同じだなあと、微笑ましく思いつつ、一緒に歩いた日々は、子供たちにとってきっと無駄にはならないと信じて、先を楽しみにしています。



だけど有難い「初詣はするものの…」

年の初めに、大勢の人が初詣に行きます。そして「家内安全」「家運長久」「商売繁盛」などをお願いします。なぜ、そうしたことをお願いするかというと、自分の力では実現できないからです。その際、大半の人はタダでお願いはしないものです。お賽銭を上げます。「良い年＝一一一四円」、あるいは「福来い＝二九五一円」などと縁起の良い数を金額にしてお願いするのです。それくらいのお供えでたくさんお願いするのは、ちょっと厚かましいのではとも思いますが、それはさておき、一生懸命にお願いをします。
しかし、どうでしょう。年末になって「おかげで家内安全で過ごせました」とお礼に来る人で神社が溢れ返るといった話を聞いたことはありません。毎年ひっそりと年の瀬を迎えます。そして新しい年を迎えると、いきなり大勢の人が初詣に訪れて、また「家内安全」「家運長久」「商売繁盛」を願うのです。要するに、願いっ放しなのです。お願いが叶っても、お礼はしない。
私たちは、親神様のご守護のおかげで生きているということを知っています。一年間、家族が元気に過ごさせていただけたこと一つをとっても、どれほど有難いことかと思わずにいられません。そうしたことを忘れることなく、お礼をさせていただかなければならないと思います。
今年一年、家族のうえに、自分自身のうえにお見せいただいたこと、頂戴したご守護をしっかりと噛み締める。そして、ご恩を感じたなら、ご恩報じの道を歩ませていただく。実はそうすることが、いま頂戴している幸せを深く味わい、さらに次の幸せの種を蒔くことになるのです。
世界では大きなテロ事件がたびたび起こり、ずいぶん警戒しているという話を聞きます。自爆テロをする人たちは、自爆すれば死んで天国へ行けると教えられているのです。イスラム教だけではありません。キリスト教も仏教も皆、死後の安寧、死んで天国や極楽へ行く道を説いています。
教祖は、「こゝはこのよのごくらくや」と教えてくださいました。人間は、この世で陽気ぐらしを味わわせていただくのであり、死んでから行く天国はないのです。出直してもまた、この世に生まれ替わってくるのです。そのことが分かれば、自爆テロをするような人は出てこないはずです。
私たちは、陽気ぐらし世界実現の御用にお使いいただくようぼくです。一日も早く、一人でも多くの人に、この道を伝え、そして、生きて極楽を味わえる世界に立て替わるよう、共に働かせていただきたいと思います。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>ピンポンが押せなくて…
兵庫県在住　　旭　和世

ある日、中学生の娘が「今日友達に天理教の布教してきた～」と言います。「ええ？そうなん？どんな布教したん？」と聞くと、
「うちの家は、普通の家と違ってお寺っぽいから不思議がられるねん。だから、うちは天理教の教会やで～って紹介したら、友達が『私のおばあちゃん家の近くにも天理教あるわ～』とか、『結構色々な所にあるよな～』って盛り上がってさ～」と嬉しそうに話しています。
若い人達の間で、自分の推しや好きなものを友達に紹介したり広めることを「布教」と言うのが流行りのようで…。道を伝える「伝道」とはまたちょっと違った意味にはなりますが、娘がそうやって教会について楽しく紹介してくれたことを嬉しく思いました。
私自身も天理教の教会で生まれ、育てて頂いたので、友達が家に来ると、神殿のぼんぼりなどを見て「大きいお雛さんやな～」とか、「広くていいなあ」などと言われてちょっと嬉しかったことを思い出します。
でも、だんだん成長するにつれて、友達に説明したり、天理教について話したりすることが難しいなあと思うようになりました。時々、親について行って神名流しをしたり、戸別訪問をすることがありましたが、特に母は電車に乗っていても、病院や買い物に行っても、隣にいて仲良くなった人にいつでも神様のお話をするような人でした。内心、「お母さんすごいな～。私は恥ずかしくてそんな話できないわ～」とずっと思っていました。
そんな中でも、教会に出入りされる方が、神様のお話を聞いて心の向きが変わり、幸せになっていく姿をたくさん見せて頂いてきたので、「やっぱり神様はおられるんだ。これは真実の教えなんだ」と実感することも度々でした。
その後、私は教会の後継者さんとご縁があり、教会に嫁がせてもらいました。ところが、育児や日々の生活に必死で、布教・にをいがけに出ることがほとんどなくなっていました。「こんなことでいいんだろうか」と思いながらも、外に出ずにいると、どんどん気持ちが沈んでいって、喜べない自分に自己嫌悪がつのる毎日でした。
そんな時、近くの教会の同年代の奥さんにその悩みを打ち明けたことがきっかけで、「一緒ににをいがけをしよう！」となり、近隣の奥さん達にも声をかけ、月に数回にをいがけに回らせて頂けるようになりました。みんな子育て道中で、それぞれ悩みや事情を抱えながらも、子供達を連れて神名流し、路傍講演、戸別訪問が出来るようになりました。
中でも、私が緊張するのは戸別訪問です。インターホンを押すのに勇気が要って、「もし出て来られたら何て言おう…」とドキドキしながら回っていました。
そして、ドキドキしながらも思い出したのは、若い頃、大阪にある「花園布教修練所」で三カ月間、布教の勉強をさせてもらっていた時のことでした。寮生活をしながら、毎朝にをいがけに出る時にみんなで掛け合う言葉がありました。

匂いが掛からなんだら掛からんでよろしい
お救けがあがらなんだらあがらんでよろしい
食えなんだら食わんでよろしい
そんなこと神様のなさる事や
あんたはただ歩いたらええのや
雨の日も風の日も毎日な
歩けんようになったら座ったらええ
神様の領分と人間の領分
はっきり分けることが肝心や
賢うなったら道は通れん
喜び湧いてこん
神様の邪魔をしているようなものや
この道は実行
ひながたの道通るより他に道はない

この言葉が頭に浮かんできました。
そうか、自分に何が出来るのか、何を話すのかとオロオロしていたけれど、そうじゃなかった！
神様の領分！ 神様のなさること！ だから私は、教祖のお供をさせてもらったらいいんだと、心が軽くなり、勇気が湧いてきました。
すると、嫌そうな顔をされたり、ちょっと怒られたりしながらも、頭を下げて「ありがとうございました」とお礼を言って、そのお家の幸せを祈りながら回れるようになりました。
そして不思議なことに、普段の生活の中でも、それまで喜べなかったことがとても小さなことに感じられたり、にをいがけで断られる度に、知らず知らずのうちに高慢になっていた自分の心を低くして頂いているなあ、ありがたいなあと、喜びがどんどん増えていきました。
そんなある日、大教会の団参を控え、一人でも多くの方におぢばに帰って頂きたいと、教会につながる方や、まだおぢばに帰ったことのない方に声をかけていました。もう一人、もう一人と思っても、なかなかいい返事はありませんでした。
そんな中、花園布教修練所で教えて頂いた言葉がまた浮かんできました。
「信仰は裏付けが大切。ご守護頂くには、理づくりや伏せ込みが大切だよ」と聞かせて頂いていたので、とにかく理づくりのために歩かせてもらおうと、時間を見つけては歩いていました。
そして、いよいよ団参の前日です。その日もお誘いに歩いていました。けれど、いつものようにお断りばかり…。もう少し、もう少しと歩きましたが、とうとう時間が来て、肩を落としながらトボトボと坂道を歩いて帰ろうとしていました。
すると、坂の途中で一本の電話がかかってきたのです。以前、団参にお誘いしていた未信者のおじさんでした。
「旭さん、明日、なんか天理に行く言うてはりましたなあ。ぼく、それ行きますわ」とのことです。
私はとても驚き、「あ～、親神様が働いて下さったんだ、教祖が導いて下さったんだ」と胸が熱くなりました。その方はその後、別席を運ばれ、ようぼくになって下さいました。

「どんな所にをい掛かるも神が働くから掛かる」（Ｍ26.7.12）

というお言葉がありますが、私のこんなつたない「理づくり」にも、神様のお働きを見せて頂けたことに、心から喜びを感じました。そして、神様に受け取って頂けるための理づくりの大切さを、実感した出来事でもありました。
「自分の智恵や力には限界があるけど、神様のご守護は無限大だよ」と、よく母が言っていた意味がようやく理解できた気がしました。
インターホンがなかなか押せず悶々としていたあの日のことを思うと、またこうやって、にをいがけに歩けるようになって本当に良かった。今でもインターホンを押す時はドキドキしますが、あの頃のドキドキとは少し違って、「この扉の向こうには、どんな方が待っていて下さるのかな。教祖が導いて下さる方だから、きっと前生からご縁のある方だろうな」と思えるような、楽しみなドキドキに変わっています。
そして、私が連れて一緒に歩いていた子供達はと言うと…。今では成長し、にをいがけに出る私に「よくやるわ～」と言います。
かつて私が母に抱いていた気持ちと同じだなあと、微笑ましく思いつつ、一緒に歩いた日々は、子供たちにとってきっと無駄にはならないと信じて、先を楽しみにしています。



だけど有難い「初詣はするものの…」

年の初めに、大勢の人が初詣に行きます。そして「家内安全」「家運長久」「商売繁盛」などをお願いします。なぜ、そうしたことをお願いするかというと、自分の力では実現できないからです。その際、大半の人はタダでお願いはしないものです。お賽銭を上げます。「良い年＝一一一四円」、あるいは「福来い＝二九五一円」などと縁起の良い数を金額にしてお願いするのです。それくらいのお供えでたくさんお願いするのは、ちょっと厚かましいのではとも思いますが、それはさておき、一生懸命にお願いをします。
しかし、どうでしょう。年末になって「おかげで家内安全で過ごせました」とお礼に来る人で神社が溢れ返るといった話を聞いたことはありません。毎年ひっそりと年の瀬を迎えます。そして新しい年を迎えると、いきなり大勢の人が初詣に訪れて、また「家内安全」「家運長久」「商売繁盛」を願うのです。要するに、願いっ放しなのです。お願いが叶っても、お礼はしない。
私たちは、親神様のご守護のおかげで生きているということを知っています。一年間、家族が元気に過ごさせていただけたこと一つをとっても、どれほど有難いことかと思わずにいられません。そうしたことを忘れることなく、お礼をさせていただかなければならないと思います。
今年一年、家族のうえに、自分自身のうえにお見せいただいたこと、頂戴したご守護をしっかりと噛み締める。そして、ご恩を感じたなら、ご恩報じの道を歩ませていただく。実はそうすることが、いま頂戴している幸せを深く味わい、さらに次の幸せの種を蒔くことになるのです。
世界では大きなテロ事件がたびたび起こり、ずいぶん警戒しているという話を聞きます。自爆テロをする人たちは、自爆すれば死んで天国へ行けると教えられているのです。イスラム教だけではありません。キリスト教も仏教も皆、死後の安寧、死んで天国や極楽へ行く道を説いています。
教祖は、「こゝはこのよのごくらくや」と教えてくださいました。人間は、この世で陽気ぐらしを味わわせていただくのであり、死んでから行く天国はないのです。出直してもまた、この世に生まれ替わってくるのです。そのことが分かれば、自爆テロをするような人は出てこないはずです。
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（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 02 Jan 2026 09:00:15 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>心の生活習慣</title>
        <description><![CDATA[心の生活習慣
福岡県在住　　内山　真太朗

近年、生活習慣病になる人が増えているようです。これは日々の食生活や生活リズムなど、何気ない小さな事の毎日の積み重ねが大きな要因の一つと言われていますが、人間関係で起こってくる事情も、これと同じ事なのかもしれません。
ある教会月次祭の日、おつとめも終わり、参拝者も帰られ、ひと息ついていた時、自転車に乗って教会に入ってくる人がいました。見れば、ついさっきまで一緒に月次祭を参拝していた信仰熱心な75歳の女性、タカコさん。
よく見ると、自転車に荷物をいっぱい積んでいるので、てっきりバザーに出す品を何か持ってきてくれたのかと思い、声をかけると「ちょっとしばらく教会に泊めてほしい」と言います。突然のことで驚きましたが、話を聞くと、夫婦げんかをしたとのこと。
タカコさんは、80歳になるご主人と夫婦で二人暮らし。ご主人は、若い頃は銀行マンとして支店長まで勤め上げ、社会的な信頼も非常に厚く、地域でも色んな役をつとめておられた方です。しかし、家庭では厳しく、ちょっと気に入らない事があると奥さんに当たり散らし、ひどい時には手が出てしまうこともあると言います。
教会月次祭のこの日、予定していた時間よりタカコさんの帰りが遅かった事にご主人は腹を立て、「だいたいお前は嫁としてのつとめが全く出来ていない！もう出ていけ！」と大激怒。そこまで言われると、売り言葉に買い言葉で、タカコさんは「出ていけと言われるなら出ていきます！」と言って、荷物をまとめて家を出て、行くところもないから教会に来た、ということでした。
まあ、せいぜい２、３日もすれば気持ちも落ち着いて帰るだろうと、最初は軽い気持ちで見守っていました。ところが、それから一週間経ち、二週間、三週間経っても一向に帰る気配はありません。
タカコさんは教会に来てからというもの、朝づとめ前から起きて、お掃除や洗濯、子供の世話まで、教会の用事は何でもやってくれるので助かりはしますが、ご主人の事が心配じゃないのかと尋ねると、「あの人は家事も自分でするし、一人で生きていけるから大丈夫」とキッパリ言います。
教会に来て一か月が経ち、ご主人から電話が掛かってきました。「もう帰ってきてくれ」と。私は内心、「あー良かった。これで治まる」と思い、タカコさんに電話を変わると、「あなたはこの前、私の事を全否定しましたね。私にあなたの嫁はもう務まりませんから、帰るつもりはありません」と平然と言ってのけ、電話を切ってしまいました。
これ以降も、何回もご主人から電話がありましたが、頑なに同じ返事を繰り返します。とうとう、事情を聞いたご主人の親族から連絡があり、「教会にご迷惑をおかけして申し訳ありません。ついては本人と一緒に教会に行って、タカコさんと話し合います」とのことで、早速来て頂きました。
あんなにお元気だったご主人がげっそり痩せて、歩くのもやっとの状態。奥さんに出て行かれてから一か月、まともな食事をしていなかったそうです。
教会で、一か月ぶりの夫婦再会。タカコさんと顔を合わせた瞬間、ご主人はボロボロ涙を流され、「私が悪かった。申し訳なかった。この一か月、お前のいない生活で、いかに自分が一人で生きていけないかが分かった。頼む、この通りだから帰ってきてほしい。もう一度、私にやり直すチャンスを下さい」。
大の男の魂のさんげ。それに対してタカコさんは、「私の事は先立ったと思って一人で生きて下さい。世の中には独り身の男性は大勢いますから。私はもうあなたの元には帰りません」とキッパリ言います。そこから一時間、話は平行線のままでその日は終わりました。
これはさすがに放っておく訳にはいかんと思い、とにかく私は第一にげっそり痩せたご主人が心配でしたので、それから毎日、タカコさんには内緒で、教会から食事を持って自宅にうかがい、ご主人と色々話をしながらご飯を食べることを続けました。
そして肝心なのは、タカコさんの心の向きを変えることだと思い、本人とねりあいを重ねました。しかし「ご主人も反省されているし、一度帰ったらどうでしょう」といくら説得しても、全く動く気配はありません。
タカコさんは教会生まれ、教会育ちで、おぢばの学校も卒業しており、教理や夫婦についての教えをしっかり理解しています。その上で、「私はね、結婚して40年以上、主人に何とひどい事を言われようが、ずーっと我慢して、夫を立てて通ってきました。おかげで家も建ち、たった一人の息子も立派に独り立ちしてくれました。夫婦二人になった今、もう余生は生まれ育った実家の教会で過ごしたいんです」と、年を重ねたご婦人の切実な思いを語ります。
「みかぐらうた」に、「ひとのこゝろといふものハ　ちよとにわからんものなるぞ」とありますが、人の心、気持ちを変えるという事は実に難しいものです。
これはまず神様に働いてもらうより他ないと思い、私はその日から毎日、一日6回のお願いづとめ、そして12下りのてをどりをつとめさせて頂きました。それに加えて思案したのは、息子さんにこの事情をきっかけに、信仰に目を向けてもらいたいということでした。
私とは幼馴染で、当然両親の状況も知っている彼ですが、国立大学の先端技術研究者として日夜研究に励みながら、授業も担当して多忙を極め、しかも遠方に住んでいるのでどうすることも出来ないとのこと。
そこで私は、「自分たちではどうにもならない事を神様にお願いする以上は、自分たちが今まで出来なかったような事を神様に約束したいんだ。是非とも、久しぶりにおぢばがえりをして、別席を運ぶという約束をしてもらえないだろうか」と彼に話をしました。
すると彼は、「自分も何とか両親には仲直りしてもらいたいと思っている。実は大学の隣りに天理教の教会があって、お昼休みに毎日参拝に行っているんだ」と。彼は子供の頃、教会の鼓笛隊に入っていたので、参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来るのです。
そして、「別席もずっと声を掛けられていたけど、なかなか気持ちも向かなかったし時間も取れなかった。でも、こういう時に折角声を掛けてもらったから、久しぶりにおぢばがえりをしよう」と、別席を運ぶことを約束してくれました。
さて、それから3日後、約二か月近く教会にいたタカコさんが突然、「うちに帰ります」と言い出しました。え？突然どうして？と驚いて話を聞くと、「やっぱり自分の家と主人が気になるから、もう一度やり直してみます」と言って、いともあっさり帰って行きました。
数日後、さっそくご夫婦で教会にお礼に来られました。夫婦でたくさん話し合ったそうで、ご主人も笑顔を取り戻しておられました。息子さんが日々、時間を作って参拝していた真実、そして別席を運ぶと心定めをした真実を、神様がお受け取り下さった姿だと思いました。
夫婦や親子関係、仕事場での人間関係のトラブル、または借金などの金銭トラブル。これらは「心の生活習慣病」と言えるのかもしれません。
普段の家族や周囲の人たちに対する何気ない心遣い、心の生活習慣を、お道では「ほこり」と教えて頂きますが、それが積もり重なると、さまざまなトラブルや事情が起こってきます。
タカコさんとご主人のトラブルも、40年間もの日々の「心の生活習慣」がもたらした出来事だったのです。
教祖は、様々なお言葉や行いによって、日々の通り方の大切さを教えられています。教えを自らの心のほこりを払う箒として日々を通り、それによって家族がたすかり、周りの人がたすかるご守護を頂けるように、これからもつとめさせて頂きたいと思います。



尽くした理は末代

日ごろ私たちは、どれくらいの時間の幅を意識しながら生きているでしょうか。理想と情熱に燃える若き時代は、何十年先の将来を見つめていたこともあるでしょう。仕事や子育ての慌ただしさの中で、今日明日のことしか考えられない時期もあるかも知れません。その状況や年齢によって、時間の価値や感じ方が違うのは当然のことです。
いずれにしても、総じて人の視野には、自分の一生という限られた時間しか映ってこないのが普通のことのようです。人生八十年、九十年は当たり前、百年時代の到来とも言われる昨今ですが、その年月の中で、自ら成したことの結果を求めるのが人間というもの。
この教えを聞き、人間の魂は生き通しで、生まれかわり出かわりをするという「出直し」の教理を信じる者でさえ、一生の枠を超えて思案をめぐらすのは容易なことではありません。前生や来世のことは、私たちには分からない神様の領域の話です。
しかし、神様の教えの中には、「末代」という言葉がしばしば出てきます。一代、二代、三代と世代を重ね、いのちが途切れず続いてゆく。それは私たち人間にとっては大きな慶び事です。そうした視点で神様のお言葉を味わってみると、そこには悲観的な未来よりも、より発展的な未来を想像することができます。

「尽した理は一代やない、二代やない。末代捨てさしゃせん」（Ｍ28・5・16 補遺）
「人間は一代、一代と思えば何でもない。なれど、尽した理働いた理は、生涯末代の理である」　（Ｍ37・3・3）

道の上に尽くした理は、これから先、代々、いついつまでも消えることはない。目先にとらわれがちな私たちの人生観を、根本から変えるお言葉であり、まさに生き方の大転換を迫られているようです。
日々の心を尽くす行いを、必ず神様がお受け取り下さり、末代にわたって消えることのない理として残る。そのことが、どれほどの安心と救いになるでしょう。精一杯の努力をして、たとえその場は報われなくとも、まいた種が後々に芽を吹くのだと知れば、心は大いに勇み立ってきます。ともすれば、心を倒しそうになることの多い私たちを、これほど励まして下さるお言葉はないと思うのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>心の生活習慣
福岡県在住　　内山　真太朗

近年、生活習慣病になる人が増えているようです。これは日々の食生活や生活リズムなど、何気ない小さな事の毎日の積み重ねが大きな要因の一つと言われていますが、人間関係で起こってくる事情も、これと同じ事なのかもしれません。
ある教会月次祭の日、おつとめも終わり、参拝者も帰られ、ひと息ついていた時、自転車に乗って教会に入ってくる人がいました。見れば、ついさっきまで一緒に月次祭を参拝していた信仰熱心な75歳の女性、タカコさん。
よく見ると、自転車に荷物をいっぱい積んでいるので、てっきりバザーに出す品を何か持ってきてくれたのかと思い、声をかけると「ちょっとしばらく教会に泊めてほしい」と言います。突然のことで驚きましたが、話を聞くと、夫婦げんかをしたとのこと。
タカコさんは、80歳になるご主人と夫婦で二人暮らし。ご主人は、若い頃は銀行マンとして支店長まで勤め上げ、社会的な信頼も非常に厚く、地域でも色んな役をつとめておられた方です。しかし、家庭では厳しく、ちょっと気に入らない事があると奥さんに当たり散らし、ひどい時には手が出てしまうこともあると言います。
教会月次祭のこの日、予定していた時間よりタカコさんの帰りが遅かった事にご主人は腹を立て、「だいたいお前は嫁としてのつとめが全く出来ていない！もう出ていけ！」と大激怒。そこまで言われると、売り言葉に買い言葉で、タカコさんは「出ていけと言われるなら出ていきます！」と言って、荷物をまとめて家を出て、行くところもないから教会に来た、ということでした。
まあ、せいぜい２、３日もすれば気持ちも落ち着いて帰るだろうと、最初は軽い気持ちで見守っていました。ところが、それから一週間経ち、二週間、三週間経っても一向に帰る気配はありません。
タカコさんは教会に来てからというもの、朝づとめ前から起きて、お掃除や洗濯、子供の世話まで、教会の用事は何でもやってくれるので助かりはしますが、ご主人の事が心配じゃないのかと尋ねると、「あの人は家事も自分でするし、一人で生きていけるから大丈夫」とキッパリ言います。
教会に来て一か月が経ち、ご主人から電話が掛かってきました。「もう帰ってきてくれ」と。私は内心、「あー良かった。これで治まる」と思い、タカコさんに電話を変わると、「あなたはこの前、私の事を全否定しましたね。私にあなたの嫁はもう務まりませんから、帰るつもりはありません」と平然と言ってのけ、電話を切ってしまいました。
これ以降も、何回もご主人から電話がありましたが、頑なに同じ返事を繰り返します。とうとう、事情を聞いたご主人の親族から連絡があり、「教会にご迷惑をおかけして申し訳ありません。ついては本人と一緒に教会に行って、タカコさんと話し合います」とのことで、早速来て頂きました。
あんなにお元気だったご主人がげっそり痩せて、歩くのもやっとの状態。奥さんに出て行かれてから一か月、まともな食事をしていなかったそうです。
教会で、一か月ぶりの夫婦再会。タカコさんと顔を合わせた瞬間、ご主人はボロボロ涙を流され、「私が悪かった。申し訳なかった。この一か月、お前のいない生活で、いかに自分が一人で生きていけないかが分かった。頼む、この通りだから帰ってきてほしい。もう一度、私にやり直すチャンスを下さい」。
大の男の魂のさんげ。それに対してタカコさんは、「私の事は先立ったと思って一人で生きて下さい。世の中には独り身の男性は大勢いますから。私はもうあなたの元には帰りません」とキッパリ言います。そこから一時間、話は平行線のままでその日は終わりました。
これはさすがに放っておく訳にはいかんと思い、とにかく私は第一にげっそり痩せたご主人が心配でしたので、それから毎日、タカコさんには内緒で、教会から食事を持って自宅にうかがい、ご主人と色々話をしながらご飯を食べることを続けました。
そして肝心なのは、タカコさんの心の向きを変えることだと思い、本人とねりあいを重ねました。しかし「ご主人も反省されているし、一度帰ったらどうでしょう」といくら説得しても、全く動く気配はありません。
タカコさんは教会生まれ、教会育ちで、おぢばの学校も卒業しており、教理や夫婦についての教えをしっかり理解しています。その上で、「私はね、結婚して40年以上、主人に何とひどい事を言われようが、ずーっと我慢して、夫を立てて通ってきました。おかげで家も建ち、たった一人の息子も立派に独り立ちしてくれました。夫婦二人になった今、もう余生は生まれ育った実家の教会で過ごしたいんです」と、年を重ねたご婦人の切実な思いを語ります。
「みかぐらうた」に、「ひとのこゝろといふものハ　ちよとにわからんものなるぞ」とありますが、人の心、気持ちを変えるという事は実に難しいものです。
これはまず神様に働いてもらうより他ないと思い、私はその日から毎日、一日6回のお願いづとめ、そして12下りのてをどりをつとめさせて頂きました。それに加えて思案したのは、息子さんにこの事情をきっかけに、信仰に目を向けてもらいたいということでした。
私とは幼馴染で、当然両親の状況も知っている彼ですが、国立大学の先端技術研究者として日夜研究に励みながら、授業も担当して多忙を極め、しかも遠方に住んでいるのでどうすることも出来ないとのこと。
そこで私は、「自分たちではどうにもならない事を神様にお願いする以上は、自分たちが今まで出来なかったような事を神様に約束したいんだ。是非とも、久しぶりにおぢばがえりをして、別席を運ぶという約束をしてもらえないだろうか」と彼に話をしました。
すると彼は、「自分も何とか両親には仲直りしてもらいたいと思っている。実は大学の隣りに天理教の教会があって、お昼休みに毎日参拝に行っているんだ」と。彼は子供の頃、教会の鼓笛隊に入っていたので、参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来るのです。
そして、「別席もずっと声を掛けられていたけど、なかなか気持ちも向かなかったし時間も取れなかった。でも、こういう時に折角声を掛けてもらったから、久しぶりにおぢばがえりをしよう」と、別席を運ぶことを約束してくれました。
さて、それから3日後、約二か月近く教会にいたタカコさんが突然、「うちに帰ります」と言い出しました。え？突然どうして？と驚いて話を聞くと、「やっぱり自分の家と主人が気になるから、もう一度やり直してみます」と言って、いともあっさり帰って行きました。
数日後、さっそくご夫婦で教会にお礼に来られました。夫婦でたくさん話し合ったそうで、ご主人も笑顔を取り戻しておられました。息子さんが日々、時間を作って参拝していた真実、そして別席を運ぶと心定めをした真実を、神様がお受け取り下さった姿だと思いました。
夫婦や親子関係、仕事場での人間関係のトラブル、または借金などの金銭トラブル。これらは「心の生活習慣病」と言えるのかもしれません。
普段の家族や周囲の人たちに対する何気ない心遣い、心の生活習慣を、お道では「ほこり」と教えて頂きますが、それが積もり重なると、さまざまなトラブルや事情が起こってきます。
タカコさんとご主人のトラブルも、40年間もの日々の「心の生活習慣」がもたらした出来事だったのです。
教祖は、様々なお言葉や行いによって、日々の通り方の大切さを教えられています。教えを自らの心のほこりを払う箒として日々を通り、それによって家族がたすかり、周りの人がたすかるご守護を頂けるように、これからもつとめさせて頂きたいと思います。



尽くした理は末代

日ごろ私たちは、どれくらいの時間の幅を意識しながら生きているでしょうか。理想と情熱に燃える若き時代は、何十年先の将来を見つめていたこともあるでしょう。仕事や子育ての慌ただしさの中で、今日明日のことしか考えられない時期もあるかも知れません。その状況や年齢によって、時間の価値や感じ方が違うのは当然のことです。
いずれにしても、総じて人の視野には、自分の一生という限られた時間しか映ってこないのが普通のことのようです。人生八十年、九十年は当たり前、百年時代の到来とも言われる昨今ですが、その年月の中で、自ら成したことの結果を求めるのが人間というもの。
この教えを聞き、人間の魂は生き通しで、生まれかわり出かわりをするという「出直し」の教理を信じる者でさえ、一生の枠を超えて思案をめぐらすのは容易なことではありません。前生や来世のことは、私たちには分からない神様の領域の話です。
しかし、神様の教えの中には、「末代」という言葉がしばしば出てきます。一代、二代、三代と世代を重ね、いのちが途切れず続いてゆく。それは私たち人間にとっては大きな慶び事です。そうした視点で神様のお言葉を味わってみると、そこには悲観的な未来よりも、より発展的な未来を想像することができます。

「尽した理は一代やない、二代やない。末代捨てさしゃせん」（Ｍ28・5・16 補遺）
「人間は一代、一代と思えば何でもない。なれど、尽した理働いた理は、生涯末代の理である」　（Ｍ37・3・3）

道の上に尽くした理は、これから先、代々、いついつまでも消えることはない。目先にとらわれがちな私たちの人生観を、根本から変えるお言葉であり、まさに生き方の大転換を迫られているようです。
日々の心を尽くす行いを、必ず神様がお受け取り下さり、末代にわたって消えることのない理として残る。そのことが、どれほどの安心と救いになるでしょう。精一杯の努力をして、たとえその場は報われなくとも、まいた種が後々に芽を吹くのだと知れば、心は大いに勇み立ってきます。ともすれば、心を倒しそうになることの多い私たちを、これほど励まして下さるお言葉はないと思うのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>心の生活習慣
福岡県在住　　内山　真太朗

近年、生活習慣病になる人が増えているようです。これは日々の食生活や生活リズムなど、何気ない小さな事の毎日の積み重ねが大きな要因の一つと言われていますが、人間関係で起こってくる事情も、これと同じ事なのかもしれません。
ある教会月次祭の日、おつとめも終わり、参拝者も帰られ、ひと息ついていた時、自転車に乗って教会に入ってくる人がいました。見れば、ついさっきまで一緒に月次祭を参拝していた信仰熱心な75歳の女性、タカコさん。
よく見ると、自転車に荷物をいっぱい積んでいるので、てっきりバザーに出す品を何か持ってきてくれたのかと思い、声をかけると「ちょっとしばらく教会に泊めてほしい」と言います。突然のことで驚きましたが、話を聞くと、夫婦げんかをしたとのこと。
タカコさんは、80歳になるご主人と夫婦で二人暮らし。ご主人は、若い頃は銀行マンとして支店長まで勤め上げ、社会的な信頼も非常に厚く、地域でも色んな役をつとめておられた方です。しかし、家庭では厳しく、ちょっと気に入らない事があると奥さんに当たり散らし、ひどい時には手が出てしまうこともあると言います。
教会月次祭のこの日、予定していた時間よりタカコさんの帰りが遅かった事にご主人は腹を立て、「だいたいお前は嫁としてのつとめが全く出来ていない！もう出ていけ！」と大激怒。そこまで言われると、売り言葉に買い言葉で、タカコさんは「出ていけと言われるなら出ていきます！」と言って、荷物をまとめて家を出て、行くところもないから教会に来た、ということでした。
まあ、せいぜい２、３日もすれば気持ちも落ち着いて帰るだろうと、最初は軽い気持ちで見守っていました。ところが、それから一週間経ち、二週間、三週間経っても一向に帰る気配はありません。
タカコさんは教会に来てからというもの、朝づとめ前から起きて、お掃除や洗濯、子供の世話まで、教会の用事は何でもやってくれるので助かりはしますが、ご主人の事が心配じゃないのかと尋ねると、「あの人は家事も自分でするし、一人で生きていけるから大丈夫」とキッパリ言います。
教会に来て一か月が経ち、ご主人から電話が掛かってきました。「もう帰ってきてくれ」と。私は内心、「あー良かった。これで治まる」と思い、タカコさんに電話を変わると、「あなたはこの前、私の事を全否定しましたね。私にあなたの嫁はもう務まりませんから、帰るつもりはありません」と平然と言ってのけ、電話を切ってしまいました。
これ以降も、何回もご主人から電話がありましたが、頑なに同じ返事を繰り返します。とうとう、事情を聞いたご主人の親族から連絡があり、「教会にご迷惑をおかけして申し訳ありません。ついては本人と一緒に教会に行って、タカコさんと話し合います」とのことで、早速来て頂きました。
あんなにお元気だったご主人がげっそり痩せて、歩くのもやっとの状態。奥さんに出て行かれてから一か月、まともな食事をしていなかったそうです。
教会で、一か月ぶりの夫婦再会。タカコさんと顔を合わせた瞬間、ご主人はボロボロ涙を流され、「私が悪かった。申し訳なかった。この一か月、お前のいない生活で、いかに自分が一人で生きていけないかが分かった。頼む、この通りだから帰ってきてほしい。もう一度、私にやり直すチャンスを下さい」。
大の男の魂のさんげ。それに対してタカコさんは、「私の事は先立ったと思って一人で生きて下さい。世の中には独り身の男性は大勢いますから。私はもうあなたの元には帰りません」とキッパリ言います。そこから一時間、話は平行線のままでその日は終わりました。
これはさすがに放っておく訳にはいかんと思い、とにかく私は第一にげっそり痩せたご主人が心配でしたので、それから毎日、タカコさんには内緒で、教会から食事を持って自宅にうかがい、ご主人と色々話をしながらご飯を食べることを続けました。
そして肝心なのは、タカコさんの心の向きを変えることだと思い、本人とねりあいを重ねました。しかし「ご主人も反省されているし、一度帰ったらどうでしょう」といくら説得しても、全く動く気配はありません。
タカコさんは教会生まれ、教会育ちで、おぢばの学校も卒業しており、教理や夫婦についての教えをしっかり理解しています。その上で、「私はね、結婚して40年以上、主人に何とひどい事を言われようが、ずーっと我慢して、夫を立てて通ってきました。おかげで家も建ち、たった一人の息子も立派に独り立ちしてくれました。夫婦二人になった今、もう余生は生まれ育った実家の教会で過ごしたいんです」と、年を重ねたご婦人の切実な思いを語ります。
「みかぐらうた」に、「ひとのこゝろといふものハ　ちよとにわからんものなるぞ」とありますが、人の心、気持ちを変えるという事は実に難しいものです。
これはまず神様に働いてもらうより他ないと思い、私はその日から毎日、一日6回のお願いづとめ、そして12下りのてをどりをつとめさせて頂きました。それに加えて思案したのは、息子さんにこの事情をきっかけに、信仰に目を向けてもらいたいということでした。
私とは幼馴染で、当然両親の状況も知っている彼ですが、国立大学の先端技術研究者として日夜研究に励みながら、授業も担当して多忙を極め、しかも遠方に住んでいるのでどうすることも出来ないとのこと。
そこで私は、「自分たちではどうにもならない事を神様にお願いする以上は、自分たちが今まで出来なかったような事を神様に約束したいんだ。是非とも、久しぶりにおぢばがえりをして、別席を運ぶという約束をしてもらえないだろうか」と彼に話をしました。
すると彼は、「自分も何とか両親には仲直りしてもらいたいと思っている。実は大学の隣りに天理教の教会があって、お昼休みに毎日参拝に行っているんだ」と。彼は子供の頃、教会の鼓笛隊に入っていたので、参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来るのです。
そして、「別席もずっと声を掛けられていたけど、なかなか気持ちも向かなかったし時間も取れなかった。でも、こういう時に折角声を掛けてもらったから、久しぶりにおぢばがえりをしよう」と、別席を運ぶことを約束してくれました。
さて、それから3日後、約二か月近く教会にいたタカコさんが突然、「うちに帰ります」と言い出しました。え？突然どうして？と驚いて話を聞くと、「やっぱり自分の家と主人が気になるから、もう一度やり直してみます」と言って、いともあっさり帰って行きました。
数日後、さっそくご夫婦で教会にお礼に来られました。夫婦でたくさん話し合ったそうで、ご主人も笑顔を取り戻しておられました。息子さんが日々、時間を作って参拝していた真実、そして別席を運ぶと心定めをした真実を、神様がお受け取り下さった姿だと思いました。
夫婦や親子関係、仕事場での人間関係のトラブル、または借金などの金銭トラブル。これらは「心の生活習慣病」と言えるのかもしれません。
普段の家族や周囲の人たちに対する何気ない心遣い、心の生活習慣を、お道では「ほこり」と教えて頂きますが、それが積もり重なると、さまざまなトラブルや事情が起こってきます。
タカコさんとご主人のトラブルも、40年間もの日々の「心の生活習慣」がもたらした出来事だったのです。
教祖は、様々なお言葉や行いによって、日々の通り方の大切さを教えられています。教えを自らの心のほこりを払う箒として日々を通り、それによって家族がたすかり、周りの人がたすかるご守護を頂けるように、これからもつとめさせて頂きたいと思います。



尽くした理は末代

日ごろ私たちは、どれくらいの時間の幅を意識しながら生きているでしょうか。理想と情熱に燃える若き時代は、何十年先の将来を見つめていたこともあるでしょう。仕事や子育ての慌ただしさの中で、今日明日のことしか考えられない時期もあるかも知れません。その状況や年齢によって、時間の価値や感じ方が違うのは当然のことです。
いずれにしても、総じて人の視野には、自分の一生という限られた時間しか映ってこないのが普通のことのようです。人生八十年、九十年は当たり前、百年時代の到来とも言われる昨今ですが、その年月の中で、自ら成したことの結果を求めるのが人間というもの。
この教えを聞き、人間の魂は生き通しで、生まれかわり出かわりをするという「出直し」の教理を信じる者でさえ、一生の枠を超えて思案をめぐらすのは容易なことではありません。前生や来世のことは、私たちには分からない神様の領域の話です。
しかし、神様の教えの中には、「末代」という言葉がしばしば出てきます。一代、二代、三代と世代を重ね、いのちが途切れず続いてゆく。それは私たち人間にとっては大きな慶び事です。そうした視点で神様のお言葉を味わってみると、そこには悲観的な未来よりも、より発展的な未来を想像することができます。

「尽した理は一代やない、二代やない。末代捨てさしゃせん」（Ｍ28・5・16 補遺）
「人間は一代、一代と思えば何でもない。なれど、尽した理働いた理は、生涯末代の理である」　（Ｍ37・3・3）

道の上に尽くした理は、これから先、代々、いついつまでも消えることはない。目先にとらわれがちな私たちの人生観を、根本から変えるお言葉であり、まさに生き方の大転換を迫られているようです。
日々の心を尽くす行いを、必ず神様がお受け取り下さり、末代にわたって消えることのない理として残る。そのことが、どれほどの安心と救いになるでしょう。精一杯の努力をして、たとえその場は報われなくとも、まいた種が後々に芽を吹くのだと知れば、心は大いに勇み立ってきます。ともすれば、心を倒しそうになることの多い私たちを、これほど励まして下さるお言葉はないと思うのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 26 Dec 2025 11:55:51 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>あるタイ人の若者と天理教の出会い</title>
        <description><![CDATA[あるタイ人の若者と天理教の出会い
タイ在住　　野口　信也

タイにはラームカムヘーン大学という、高校卒業資格を持つタイ人であれば誰でも入学できる大学があり、40万人を超える学生が学んでいます。ただ、入学が簡単で学生数が多いため、講義はモニター越しで行われることがほとんど。やる気のある者には広く門戸を開いて受け入れるが、真剣に学ばない者は卒業できないという、日本にはないタイプの大学です。
ある時、この大学に通っていたK君と知り合いになりました。彼は、私が再留学した時に住んでいたアパートの駐車場にある店舗で雑貨を販売していました。K君はとても気のいい人で、アパートの住人や警備員など、誰とでも気さくに話し、私もすぐに彼と仲良くなりました。
K君は人付き合いが良く、友達も多いのですが、勉強が少し苦手なようで、大学卒業は難しいかな、といった感じでした。
K君は私と仲良くなるにつれ、タイ出張所へ参拝に来たり、子供会などの行事に参加したり、時には友人を誘って参拝に来るなど、次第に天理教に関心を持ってくれるようになりました。そこでK君には、大学を卒業出来なくても、仕事を始める前に、少しでも天理教のことを学んでもらいたいと思うようになりました。
天理教には、人生で本当の幸せをつかむための心の使い方と身の行い方を、人類のふるさと「ぢば」で３カ月間学ぶ「修養科」という所があります。たすかりたいという心から、たすけたいという心、人のために尽くす心に生まれ変わる場所です。
1988年から、修養科にも隔年でタイ語クラスが開催されるようになり、K君にもぜひ修養科に入ってもらいたいと思っていました。しかし、修養科の費用や日本での滞在費、航空券代など、とても当時の彼にはそうした費用は捻出できません。また、私が費用を出してまで行ってもらう意味があるのかどうかと悩んでいました。
そうした時、ある先生から、「子供が成人するまで面倒を見るのが親の役目。費用は親の立場である導いた者が負担させてもらう。そうすることで、導かれた信者さん自身はおぢばで伏せ込んだ徳を頂き、費用を出し導いた者は半分徳を頂くことになります」とのお話を聞きました。それで決心がつき、K君に話をしてみると、大学のことも気にかかっていたようですが、日本へ３か月間行けるという楽しみが勝り、すぐに承諾してくれました。
そうしてK君は、翌年の５月から開催された修養科タイ語クラスに入学しました。一か月が経った頃、K君の関係者から、大学での試験にパスして卒業に必要な単位を取得できたとの連絡があり、K君は涙を流して喜びました。彼にとっては、本当に人生のいい分岐点になったのだなと感じました。
さて、修養科を終えタイへ戻ったK君、次は就職です。悩んだ末、高校時代から付き合っている彼女の勧めで公務員の試験を受けました。９年かかってようやく大学を卒業した彼はすでに29歳、何とかギリギリの点数で採用され、雑用係からのスタートとなりました。
その２年後、タイ出張所で行われた、修養科に志願する人たちの事前研修会でK君に修養科の感想を話してもらいました。彼は、授業はタイ語だったので問題はなかったけれど、生活する詰所ではタイ語が通じなかったことや、日本人の修養科生との共同生活での苦労などを語り、「でも、私の人生にとってはよい経験になりました」と話してくれました。
そして35歳の時、レクリエーション課長に就任した彼は、ようやく高校時代から付き合ってきた彼女と結婚しました。タイ出張所で天理教式の結婚式を挙げ、その後、タイ式結婚式、披露宴と続きました。
K君の田舎から、彼の母親と家族がバンコクへやって来ました。彼は「僕は９番目の子供で、一番の問題児だった。その僕がこんなに盛大な式を挙げられて本当に嬉しい」と話しました。また、K君の奥さんと家族からは、「天理教のおかげで彼は変わりました」と、お礼を言って頂きました。
それもそのはず、就職してからのK君は、何か思うことがあったのか、大学の土曜日、日曜日コースへ通い始め、就職前に取得した経営管理学士の他、政治学士の資格を取得しました。その後、超難関のチュラロンコン大学の法学部も卒業し、バンコク都内の病院の法律顧問を始めたりと、仕事も順調なようでした。
そして2011年、私がタイ出張所へ赴任してからは、修養科の費用やその時の滞在費、航空券代などを返済したいと、私の銀行口座に毎月少しずつ振り込みをしてくれるようになりました。それは、教祖140年祭へ向けてのお供えと併せて、現在も続いています。
その後も彼は時間を惜しんで勉強し、法学修士、政治学修士の資格を取得しました。さらに大学院で環境開発管理博士号を取得、バンコク都庁の広報室長を経て環境局長に就任し、メディアにも登場するようになりました。まさに昇り竜の如き出世です。
異例の速さの昇進で、コネもなく、権力にも興味のないK君自身が不思議がっているほどでした。ただ、一番下っ端の雑用係からスタートした彼は、どの立場の人に対しても気さくに声をかけるなど、優しくて人望があり、それが一つの大きな要因になったのかもしれません。
私がタイ出張所に赴任してから、ひのきしんデーなどの対外行事では、K君は関係者に連絡を取り、適切な場所や人を紹介してくれています。彼が環境局長の時には、天理大学から、国際交流プロジェクトに参加する学生に向けた研修を開きたいとの依頼がありました。早速彼に連絡をすると、バンコクのチャオプラヤー川という大きな川での清掃作業の企画が立ち上がり、26名の学生らに対して、15台の船と約80名ほどのスタッフでサポートしてくれました。
また、2024年9月、天理教の青年会本部がタイへの布教キャラバン隊派遣を検討するため、真柱継承者の中山大亮様を筆頭に、青年会委員のメンバーが来訪した際には、青年会とタイの天理教信者が共に活動を行えるように尽力してくれました。
この時は、バンコク都内の係官たちも準備段階から快くお手伝い下さり、電車公園という大きな公園で、子供たちの遊具のペンキ塗り作業を約120名の方々と共に行うことが出来ました。
するとその直後、2024年10月1日付で、K君はバンコク都庁事務次官に任命されました。バンコク都庁職員10万人を指揮する最高指導者の数名の中に選ばれたわけですから、一般採用の彼にすれば、ほぼ最高到達点といっても過言ではないでしょう。タイの信者さんたちもそうですが、Ｋ君本人が一番驚いたようでした。
Ｋ君とは月一回の割合で二人っきりで飲みに行きますが、何よりも一人息子が医者になってくれたことが嬉しいと話してくれます。仕事でも、これまで自分が要職につけたことを大変不思議に感じ、喜んでいるようですが、家族のことが彼にとっては特に嬉しいようです。
彼自身は大きな声で「天理教の信仰のおかげです」とは言わないのですが、言葉や態度の端々に神様への感謝が感じられます。退官後は病気がちな妻と一緒に、もう一度修養科へ行きたい、そう言ってくれています。どんな言葉より彼の信仰に対する思いが伝わってきました。



これが天理や

教祖はよく、お屋敷へやってきた若者と力比べをすることがありました。そうして神の厳然たる力を示されるとともに、信仰の要諦についてお教え下されています。

明治12年秋、大阪の中川文吉さんが、突然眼を患い、失明寸前の状態となりました。近所に住む井筒梅治郎さんのおたすけにより、三日のうちに鮮やかな御守護を頂いた文吉さんは、翌明治十三年、お礼詣りに初めてお屋敷へ帰らせて頂きました。
教祖は、文吉さんに親しくお会いになり、「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう」と仰せになりました。
日頃から力自慢の文吉さんは、このお言葉に苦笑を禁じ得ませんでしたが、拒むわけにもいかず、たくましい両腕を差し出しました。すると教祖は、静かに文吉さんの左手首を握られ、次いで文吉さんに、右手で教祖ご自身の左手首を力の限り握り締めるようにと、仰せられました。
文吉さんは仰せ通り、力いっぱい教祖の手首を握りました。すると不思議なことに、反対に自分の左手首が折れるかと思うほどの痛みを感じたのです。
文吉さんは、思わず「堪忍して下さい」と叫びました。すると教祖は、
「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」
と仰せになりました。（教祖伝逸話篇75「これが天理や」）

スポーツにおけるトレーニングでも、力を入れ、負荷をかけることによって体力はついていきます。信仰において鍛える部分は、唯一自由に使うことを許されている「心」。この信仰は「願い通りの守護」ではなく、「心通りの守護」であると教えられます。子供の方から力を入れるとは、即ち親神様にもたれて精一杯信仰の実践に努めることです。
親神様は、私たちが日常、どれほど真実を尽くし、心を尽くして働いているか、その力の入れ具合をご覧下さっています。「この人はこれだけの基礎体力があるはずなのに、まだまだ出し惜しみ、使い惜しみをしているな」と判断されれば、親神様も力をフッとゆるめてしまわれるかも知れません。
日々、信仰実践によって基礎体力をあげながら、いざという時は、力の限りを総動員して親神様にもたれ切る。その時親神様は、ビックリするほどのご守護をお見せ下さるに違いありません。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>あるタイ人の若者と天理教の出会い
タイ在住　　野口　信也

タイにはラームカムヘーン大学という、高校卒業資格を持つタイ人であれば誰でも入学できる大学があり、40万人を超える学生が学んでいます。ただ、入学が簡単で学生数が多いため、講義はモニター越しで行われることがほとんど。やる気のある者には広く門戸を開いて受け入れるが、真剣に学ばない者は卒業できないという、日本にはないタイプの大学です。
ある時、この大学に通っていたK君と知り合いになりました。彼は、私が再留学した時に住んでいたアパートの駐車場にある店舗で雑貨を販売していました。K君はとても気のいい人で、アパートの住人や警備員など、誰とでも気さくに話し、私もすぐに彼と仲良くなりました。
K君は人付き合いが良く、友達も多いのですが、勉強が少し苦手なようで、大学卒業は難しいかな、といった感じでした。
K君は私と仲良くなるにつれ、タイ出張所へ参拝に来たり、子供会などの行事に参加したり、時には友人を誘って参拝に来るなど、次第に天理教に関心を持ってくれるようになりました。そこでK君には、大学を卒業出来なくても、仕事を始める前に、少しでも天理教のことを学んでもらいたいと思うようになりました。
天理教には、人生で本当の幸せをつかむための心の使い方と身の行い方を、人類のふるさと「ぢば」で３カ月間学ぶ「修養科」という所があります。たすかりたいという心から、たすけたいという心、人のために尽くす心に生まれ変わる場所です。
1988年から、修養科にも隔年でタイ語クラスが開催されるようになり、K君にもぜひ修養科に入ってもらいたいと思っていました。しかし、修養科の費用や日本での滞在費、航空券代など、とても当時の彼にはそうした費用は捻出できません。また、私が費用を出してまで行ってもらう意味があるのかどうかと悩んでいました。
そうした時、ある先生から、「子供が成人するまで面倒を見るのが親の役目。費用は親の立場である導いた者が負担させてもらう。そうすることで、導かれた信者さん自身はおぢばで伏せ込んだ徳を頂き、費用を出し導いた者は半分徳を頂くことになります」とのお話を聞きました。それで決心がつき、K君に話をしてみると、大学のことも気にかかっていたようですが、日本へ３か月間行けるという楽しみが勝り、すぐに承諾してくれました。
そうしてK君は、翌年の５月から開催された修養科タイ語クラスに入学しました。一か月が経った頃、K君の関係者から、大学での試験にパスして卒業に必要な単位を取得できたとの連絡があり、K君は涙を流して喜びました。彼にとっては、本当に人生のいい分岐点になったのだなと感じました。
さて、修養科を終えタイへ戻ったK君、次は就職です。悩んだ末、高校時代から付き合っている彼女の勧めで公務員の試験を受けました。９年かかってようやく大学を卒業した彼はすでに29歳、何とかギリギリの点数で採用され、雑用係からのスタートとなりました。
その２年後、タイ出張所で行われた、修養科に志願する人たちの事前研修会でK君に修養科の感想を話してもらいました。彼は、授業はタイ語だったので問題はなかったけれど、生活する詰所ではタイ語が通じなかったことや、日本人の修養科生との共同生活での苦労などを語り、「でも、私の人生にとってはよい経験になりました」と話してくれました。
そして35歳の時、レクリエーション課長に就任した彼は、ようやく高校時代から付き合ってきた彼女と結婚しました。タイ出張所で天理教式の結婚式を挙げ、その後、タイ式結婚式、披露宴と続きました。
K君の田舎から、彼の母親と家族がバンコクへやって来ました。彼は「僕は９番目の子供で、一番の問題児だった。その僕がこんなに盛大な式を挙げられて本当に嬉しい」と話しました。また、K君の奥さんと家族からは、「天理教のおかげで彼は変わりました」と、お礼を言って頂きました。
それもそのはず、就職してからのK君は、何か思うことがあったのか、大学の土曜日、日曜日コースへ通い始め、就職前に取得した経営管理学士の他、政治学士の資格を取得しました。その後、超難関のチュラロンコン大学の法学部も卒業し、バンコク都内の病院の法律顧問を始めたりと、仕事も順調なようでした。
そして2011年、私がタイ出張所へ赴任してからは、修養科の費用やその時の滞在費、航空券代などを返済したいと、私の銀行口座に毎月少しずつ振り込みをしてくれるようになりました。それは、教祖140年祭へ向けてのお供えと併せて、現在も続いています。
その後も彼は時間を惜しんで勉強し、法学修士、政治学修士の資格を取得しました。さらに大学院で環境開発管理博士号を取得、バンコク都庁の広報室長を経て環境局長に就任し、メディアにも登場するようになりました。まさに昇り竜の如き出世です。
異例の速さの昇進で、コネもなく、権力にも興味のないK君自身が不思議がっているほどでした。ただ、一番下っ端の雑用係からスタートした彼は、どの立場の人に対しても気さくに声をかけるなど、優しくて人望があり、それが一つの大きな要因になったのかもしれません。
私がタイ出張所に赴任してから、ひのきしんデーなどの対外行事では、K君は関係者に連絡を取り、適切な場所や人を紹介してくれています。彼が環境局長の時には、天理大学から、国際交流プロジェクトに参加する学生に向けた研修を開きたいとの依頼がありました。早速彼に連絡をすると、バンコクのチャオプラヤー川という大きな川での清掃作業の企画が立ち上がり、26名の学生らに対して、15台の船と約80名ほどのスタッフでサポートしてくれました。
また、2024年9月、天理教の青年会本部がタイへの布教キャラバン隊派遣を検討するため、真柱継承者の中山大亮様を筆頭に、青年会委員のメンバーが来訪した際には、青年会とタイの天理教信者が共に活動を行えるように尽力してくれました。
この時は、バンコク都内の係官たちも準備段階から快くお手伝い下さり、電車公園という大きな公園で、子供たちの遊具のペンキ塗り作業を約120名の方々と共に行うことが出来ました。
するとその直後、2024年10月1日付で、K君はバンコク都庁事務次官に任命されました。バンコク都庁職員10万人を指揮する最高指導者の数名の中に選ばれたわけですから、一般採用の彼にすれば、ほぼ最高到達点といっても過言ではないでしょう。タイの信者さんたちもそうですが、Ｋ君本人が一番驚いたようでした。
Ｋ君とは月一回の割合で二人っきりで飲みに行きますが、何よりも一人息子が医者になってくれたことが嬉しいと話してくれます。仕事でも、これまで自分が要職につけたことを大変不思議に感じ、喜んでいるようですが、家族のことが彼にとっては特に嬉しいようです。
彼自身は大きな声で「天理教の信仰のおかげです」とは言わないのですが、言葉や態度の端々に神様への感謝が感じられます。退官後は病気がちな妻と一緒に、もう一度修養科へ行きたい、そう言ってくれています。どんな言葉より彼の信仰に対する思いが伝わってきました。



これが天理や

教祖はよく、お屋敷へやってきた若者と力比べをすることがありました。そうして神の厳然たる力を示されるとともに、信仰の要諦についてお教え下されています。

明治12年秋、大阪の中川文吉さんが、突然眼を患い、失明寸前の状態となりました。近所に住む井筒梅治郎さんのおたすけにより、三日のうちに鮮やかな御守護を頂いた文吉さんは、翌明治十三年、お礼詣りに初めてお屋敷へ帰らせて頂きました。
教祖は、文吉さんに親しくお会いになり、「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう」と仰せになりました。
日頃から力自慢の文吉さんは、このお言葉に苦笑を禁じ得ませんでしたが、拒むわけにもいかず、たくましい両腕を差し出しました。すると教祖は、静かに文吉さんの左手首を握られ、次いで文吉さんに、右手で教祖ご自身の左手首を力の限り握り締めるようにと、仰せられました。
文吉さんは仰せ通り、力いっぱい教祖の手首を握りました。すると不思議なことに、反対に自分の左手首が折れるかと思うほどの痛みを感じたのです。
文吉さんは、思わず「堪忍して下さい」と叫びました。すると教祖は、
「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」
と仰せになりました。（教祖伝逸話篇75「これが天理や」）

スポーツにおけるトレーニングでも、力を入れ、負荷をかけることによって体力はついていきます。信仰において鍛える部分は、唯一自由に使うことを許されている「心」。この信仰は「願い通りの守護」ではなく、「心通りの守護」であると教えられます。子供の方から力を入れるとは、即ち親神様にもたれて精一杯信仰の実践に努めることです。
親神様は、私たちが日常、どれほど真実を尽くし、心を尽くして働いているか、その力の入れ具合をご覧下さっています。「この人はこれだけの基礎体力があるはずなのに、まだまだ出し惜しみ、使い惜しみをしているな」と判断されれば、親神様も力をフッとゆるめてしまわれるかも知れません。
日々、信仰実践によって基礎体力をあげながら、いざという時は、力の限りを総動員して親神様にもたれ切る。その時親神様は、ビックリするほどのご守護をお見せ下さるに違いありません。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>あるタイ人の若者と天理教の出会い
タイ在住　　野口　信也

タイにはラームカムヘーン大学という、高校卒業資格を持つタイ人であれば誰でも入学できる大学があり、40万人を超える学生が学んでいます。ただ、入学が簡単で学生数が多いため、講義はモニター越しで行われることがほとんど。やる気のある者には広く門戸を開いて受け入れるが、真剣に学ばない者は卒業できないという、日本にはないタイプの大学です。
ある時、この大学に通っていたK君と知り合いになりました。彼は、私が再留学した時に住んでいたアパートの駐車場にある店舗で雑貨を販売していました。K君はとても気のいい人で、アパートの住人や警備員など、誰とでも気さくに話し、私もすぐに彼と仲良くなりました。
K君は人付き合いが良く、友達も多いのですが、勉強が少し苦手なようで、大学卒業は難しいかな、といった感じでした。
K君は私と仲良くなるにつれ、タイ出張所へ参拝に来たり、子供会などの行事に参加したり、時には友人を誘って参拝に来るなど、次第に天理教に関心を持ってくれるようになりました。そこでK君には、大学を卒業出来なくても、仕事を始める前に、少しでも天理教のことを学んでもらいたいと思うようになりました。
天理教には、人生で本当の幸せをつかむための心の使い方と身の行い方を、人類のふるさと「ぢば」で３カ月間学ぶ「修養科」という所があります。たすかりたいという心から、たすけたいという心、人のために尽くす心に生まれ変わる場所です。
1988年から、修養科にも隔年でタイ語クラスが開催されるようになり、K君にもぜひ修養科に入ってもらいたいと思っていました。しかし、修養科の費用や日本での滞在費、航空券代など、とても当時の彼にはそうした費用は捻出できません。また、私が費用を出してまで行ってもらう意味があるのかどうかと悩んでいました。
そうした時、ある先生から、「子供が成人するまで面倒を見るのが親の役目。費用は親の立場である導いた者が負担させてもらう。そうすることで、導かれた信者さん自身はおぢばで伏せ込んだ徳を頂き、費用を出し導いた者は半分徳を頂くことになります」とのお話を聞きました。それで決心がつき、K君に話をしてみると、大学のことも気にかかっていたようですが、日本へ３か月間行けるという楽しみが勝り、すぐに承諾してくれました。
そうしてK君は、翌年の５月から開催された修養科タイ語クラスに入学しました。一か月が経った頃、K君の関係者から、大学での試験にパスして卒業に必要な単位を取得できたとの連絡があり、K君は涙を流して喜びました。彼にとっては、本当に人生のいい分岐点になったのだなと感じました。
さて、修養科を終えタイへ戻ったK君、次は就職です。悩んだ末、高校時代から付き合っている彼女の勧めで公務員の試験を受けました。９年かかってようやく大学を卒業した彼はすでに29歳、何とかギリギリの点数で採用され、雑用係からのスタートとなりました。
その２年後、タイ出張所で行われた、修養科に志願する人たちの事前研修会でK君に修養科の感想を話してもらいました。彼は、授業はタイ語だったので問題はなかったけれど、生活する詰所ではタイ語が通じなかったことや、日本人の修養科生との共同生活での苦労などを語り、「でも、私の人生にとってはよい経験になりました」と話してくれました。
そして35歳の時、レクリエーション課長に就任した彼は、ようやく高校時代から付き合ってきた彼女と結婚しました。タイ出張所で天理教式の結婚式を挙げ、その後、タイ式結婚式、披露宴と続きました。
K君の田舎から、彼の母親と家族がバンコクへやって来ました。彼は「僕は９番目の子供で、一番の問題児だった。その僕がこんなに盛大な式を挙げられて本当に嬉しい」と話しました。また、K君の奥さんと家族からは、「天理教のおかげで彼は変わりました」と、お礼を言って頂きました。
それもそのはず、就職してからのK君は、何か思うことがあったのか、大学の土曜日、日曜日コースへ通い始め、就職前に取得した経営管理学士の他、政治学士の資格を取得しました。その後、超難関のチュラロンコン大学の法学部も卒業し、バンコク都内の病院の法律顧問を始めたりと、仕事も順調なようでした。
そして2011年、私がタイ出張所へ赴任してからは、修養科の費用やその時の滞在費、航空券代などを返済したいと、私の銀行口座に毎月少しずつ振り込みをしてくれるようになりました。それは、教祖140年祭へ向けてのお供えと併せて、現在も続いています。
その後も彼は時間を惜しんで勉強し、法学修士、政治学修士の資格を取得しました。さらに大学院で環境開発管理博士号を取得、バンコク都庁の広報室長を経て環境局長に就任し、メディアにも登場するようになりました。まさに昇り竜の如き出世です。
異例の速さの昇進で、コネもなく、権力にも興味のないK君自身が不思議がっているほどでした。ただ、一番下っ端の雑用係からスタートした彼は、どの立場の人に対しても気さくに声をかけるなど、優しくて人望があり、それが一つの大きな要因になったのかもしれません。
私がタイ出張所に赴任してから、ひのきしんデーなどの対外行事では、K君は関係者に連絡を取り、適切な場所や人を紹介してくれています。彼が環境局長の時には、天理大学から、国際交流プロジェクトに参加する学生に向けた研修を開きたいとの依頼がありました。早速彼に連絡をすると、バンコクのチャオプラヤー川という大きな川での清掃作業の企画が立ち上がり、26名の学生らに対して、15台の船と約80名ほどのスタッフでサポートしてくれました。
また、2024年9月、天理教の青年会本部がタイへの布教キャラバン隊派遣を検討するため、真柱継承者の中山大亮様を筆頭に、青年会委員のメンバーが来訪した際には、青年会とタイの天理教信者が共に活動を行えるように尽力してくれました。
この時は、バンコク都内の係官たちも準備段階から快くお手伝い下さり、電車公園という大きな公園で、子供たちの遊具のペンキ塗り作業を約120名の方々と共に行うことが出来ました。
するとその直後、2024年10月1日付で、K君はバンコク都庁事務次官に任命されました。バンコク都庁職員10万人を指揮する最高指導者の数名の中に選ばれたわけですから、一般採用の彼にすれば、ほぼ最高到達点といっても過言ではないでしょう。タイの信者さんたちもそうですが、Ｋ君本人が一番驚いたようでした。
Ｋ君とは月一回の割合で二人っきりで飲みに行きますが、何よりも一人息子が医者になってくれたことが嬉しいと話してくれます。仕事でも、これまで自分が要職につけたことを大変不思議に感じ、喜んでいるようですが、家族のことが彼にとっては特に嬉しいようです。
彼自身は大きな声で「天理教の信仰のおかげです」とは言わないのですが、言葉や態度の端々に神様への感謝が感じられます。退官後は病気がちな妻と一緒に、もう一度修養科へ行きたい、そう言ってくれています。どんな言葉より彼の信仰に対する思いが伝わってきました。



これが天理や

教祖はよく、お屋敷へやってきた若者と力比べをすることがありました。そうして神の厳然たる力を示されるとともに、信仰の要諦についてお教え下されています。

明治12年秋、大阪の中川文吉さんが、突然眼を患い、失明寸前の状態となりました。近所に住む井筒梅治郎さんのおたすけにより、三日のうちに鮮やかな御守護を頂いた文吉さんは、翌明治十三年、お礼詣りに初めてお屋敷へ帰らせて頂きました。
教祖は、文吉さんに親しくお会いになり、「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう」と仰せになりました。
日頃から力自慢の文吉さんは、このお言葉に苦笑を禁じ得ませんでしたが、拒むわけにもいかず、たくましい両腕を差し出しました。すると教祖は、静かに文吉さんの左手首を握られ、次いで文吉さんに、右手で教祖ご自身の左手首を力の限り握り締めるようにと、仰せられました。
文吉さんは仰せ通り、力いっぱい教祖の手首を握りました。すると不思議なことに、反対に自分の左手首が折れるかと思うほどの痛みを感じたのです。
文吉さんは、思わず「堪忍して下さい」と叫びました。すると教祖は、
「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」
と仰せになりました。（教祖伝逸話篇75「これが天理や」）

スポーツにおけるトレーニングでも、力を入れ、負荷をかけることによって体力はついていきます。信仰において鍛える部分は、唯一自由に使うことを許されている「心」。この信仰は「願い通りの守護」ではなく、「心通りの守護」であると教えられます。子供の方から力を入れるとは、即ち親神様にもたれて精一杯信仰の実践に努めることです。
親神様は、私たちが日常、どれほど真実を尽くし、心を尽くして働いているか、その力の入れ具合をご覧下さっています。「この人はこれだけの基礎体力があるはずなのに、まだまだ出し惜しみ、使い惜しみをしているな」と判断されれば、親神様も力をフッとゆるめてしまわれるかも知れません。
日々、信仰実践によって基礎体力をあげながら、いざという時は、力の限りを総動員して親神様にもたれ切る。その時親神様は、ビックリするほどのご守護をお見せ下さるに違いありません。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 19 Dec 2025 09:24:18 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>陽気ぐらしの扉は自分で…</title>
        <description><![CDATA[陽気ぐらしの扉は自分で…
大阪府在住　　山本　達則

家族の存在は当たり前で、それ自体に幸せを感じることを、忘れがちになってしまうことが多いように思います。それどころか、時には煩わしい存在になったりする事も少なくないと思います。
家族だからこそ言えること、言ってもらえることがある。それは本当は、自分自身にとってとても大切な存在のはずですが、かけがえのないものなのだと気づく時は、それを失った時だということもあるのではないでしょうか。
でも、それは「当たり前だ」という思いがもたらすのです。全ての人が、当たり前に与えられるわけではありません。
ある家族の話です。
会社員のAさんは、奥さんとの間に高校生の男の子と中学生の女の子、二人の子がいるごく普通の家庭を築いています。Aさんのお母さんは91歳で亡くなりましたが、そのお母さんが晩年に、とても趣深いお話しを聞かせて下さいました。
お母さんは、戦後の混乱期に、実に数奇な人生を歩まれた方でした。彼女は長崎で生まれ、幼い頃に被爆し、その影響で視覚に障害がありました。戦後、一人の男性と出会い、子供を授かります。しかし、男性の家族から厳しい反対にあい、結婚どころか、子供の認知もしてもらえませんでした。彼女はそれでも子供を産み、育てて行くことを決意しました。
今以上に私生児に対する風当たりの強かった当時、その厳しい視線にさらされ、視覚のハンデを背負いながらも、必死にAさんを育てました。
そんな時、お母さんは天理教の教えに出会い、教会に足を運ぶようになりました。そして、会長さんに諭された言葉によって、大きな勇気を得ました。
「あなたもあなたの子供さんも、決して不幸ではなく、ましてや神様から罰を与えられている訳でもありません。『お父さんがいない』というご守護を頂けたんですよ。
父親がいて母親がいて子供がいる、というご守護ももちろんあって、それが当たり前だと思ってしまいがちだけど、決してそうではない。世の中には結婚どころか、出会いすらないという方もいるし、いくら子供が欲しいと思っても、授からない人もたくさんいます。目が普通に見えるのは、当たり前ではない。見えない方もたくさんおられる中で、あなたは見えにくいというご守護を頂いたんです。その上であなたは子供を与えて頂いた。素晴らしいご守護ですよね。
でもね、そのような現実を喜ぶのは言葉で言うほど簡単ではありません。けれど、それを喜べるように心を切り替えて、生活していくのが天理教の教えなんです。今の状況を心の底から喜べるようになったら、きっと神様が次の喜びを下さいますよ」
そして会長さんは、「だから、二人で教会においで」と優しく言って下さったそうです。
それから、二人は教会に住み込みました。お母さんは教会で教えを学び、ひのきしんに励みながら、昼間は外で働いて必死にＡさんを育てました。教会には８年間住み込み、その後、お母さんを応援して下さる方が現れ、教会を出て親子二人での生活が始まりました。
親子は本当に仲良く、いつもお互いを労わり合い、教会にもしっかりとつながりながら、日々を過ごしました。
お母さんは、「私は周囲の人から『大変ね』とか『頑張ってね』と励まされることが多い人生でしたけど、実は私自身は大変だと思ったことはないんですよ」と笑顔で話して下さいました。
そしてＡさんは、高校卒業後、公務員として務めることになりました。Aさんは真面目に働き、親子でコツコツ貯めたお金で念願のマイホームを手に入れ、その数年後、Ａさんは一人の女性と出会い、結婚することになりました。
ほどなく子供も授かり、親子３代仲睦まじい家族の形ができました。お母さんの喜びようは、例えようのないものだったと思います。
そしてお母さんは、息子さん家族の幸せな姿を見ながら、91歳の長寿を全うし、出直しました。自分自身が心から望んだ「家族」に見守られながら、安らかな最期を迎えることが出来たのです。
お母さんは生前、Ａさん家族の姿を見ながら、いつも「凄いね、凄いね」と口癖のように言っていたそうです。Ａさんが「何がそんなに凄いの？」と聞くと、「二人が出会って、結婚して、子供も授かって、一つ屋根の下で仲良く生活出来るって、凄いことよ。お母さんは、それをあなたにしてあげられなかったもの」と。
そして、お母さんの出直す直前の言葉をAさんが教えて下さいました。
「お母さんは、もしかしたら人と比べて大変な人生だったかも知れないけど、人よりたくさんの喜びもあったのよ。だって、人が当たり前に手にしているものでも、無いことが多かったから、それが得られた時の喜びはとても大きかったの。
お母さんは、あなたにたくさんいい思いをさせてもらって、嬉しいことの多い人生だった。ありがとう」
「当たり前」だと思っている姿に、心の底から感謝の気持ちが湧いてきた時。それが、陽気ぐらしへの扉を、自ら押し開けようとしている時なのかも知れません。



人を救けるのやで

欲の心を取り払った捨て身の覚悟が大きなご守護につながるというお話が、『教祖伝逸話篇』には数多く残されています。
明治15年3月頃のこと。胸を病んで医者から不治と宣告された小西定吉さんは、近所の人からにをいをかけられ、病身を押して、夫婦揃っておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂きました。妻のイエさんは、この時二人目の子供を妊娠中でした。
イエさんが安産の許しである、をびや許しを頂いた時、定吉さんが「この神様は、をびやだけの神様でございますか」とお伺いすると、教祖は、「そうやない。万病救ける神やで」と仰せられました。そこで定吉さんは、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか」とお尋ねしました。すると教祖は、「心配いらんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ」と、親心溢れるお言葉を下さいました。
このお言葉が強く胸に食い込んだ定吉さんは、心の中で堅く決意をしました。家へ帰ると、手許にある限りの現金をまとめて、全て妻のイエさんに渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊（てんりおうのみこと）」と書いて床の間に張り、「なむてんりわうのみこと　なむてんりわうのみこと」と、一心に神名を唱えてお願いしました。
部屋の外へ出るのは、用を足す時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いをしました。すると不思議にも、日ならずして顔色も良くなり、咳も止まり、長い間の苦しみからすっかりお救け頂いたのです。
また、妻のイエさんも楽々と男の子を安産させて頂いたので、早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖にお礼を申し上げると、「心一条に成ったので、救かったのや」と仰せられ、大層喜んで下さいました。
定吉さんが、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。そこで再び定吉さんが、「どうしたら、人さんが救かりますか」とお尋ねすると、教祖は「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」とお諭し下さいました。（教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」）
「みかぐらうた」に、
　　よくのないものなけれども　　かみのまへにハよくはない（五下り目 四ッ）
　　なんでもこれからひとすぢに　　かみにもたれてゆきまする （三下り目 七ッ）
とあります。
私たちに欲の心のあることを、親神様は重々ご承知です。その上で、「神の前」で真剣にたすかりを願う時、欲の心は自然に取り払われるのだと教えて下さいます。定吉さんの捨て身の覚悟の一すじ心の祈りを、親神様はお受け取り下さったのです。
その後、定吉さんが教祖の仰せ通りに、自分の救かった話を取り次ぎながら、人だすけの上に邁進したことは言うまでもありません。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>陽気ぐらしの扉は自分で…
大阪府在住　　山本　達則

家族の存在は当たり前で、それ自体に幸せを感じることを、忘れがちになってしまうことが多いように思います。それどころか、時には煩わしい存在になったりする事も少なくないと思います。
家族だからこそ言えること、言ってもらえることがある。それは本当は、自分自身にとってとても大切な存在のはずですが、かけがえのないものなのだと気づく時は、それを失った時だということもあるのではないでしょうか。
でも、それは「当たり前だ」という思いがもたらすのです。全ての人が、当たり前に与えられるわけではありません。
ある家族の話です。
会社員のAさんは、奥さんとの間に高校生の男の子と中学生の女の子、二人の子がいるごく普通の家庭を築いています。Aさんのお母さんは91歳で亡くなりましたが、そのお母さんが晩年に、とても趣深いお話しを聞かせて下さいました。
お母さんは、戦後の混乱期に、実に数奇な人生を歩まれた方でした。彼女は長崎で生まれ、幼い頃に被爆し、その影響で視覚に障害がありました。戦後、一人の男性と出会い、子供を授かります。しかし、男性の家族から厳しい反対にあい、結婚どころか、子供の認知もしてもらえませんでした。彼女はそれでも子供を産み、育てて行くことを決意しました。
今以上に私生児に対する風当たりの強かった当時、その厳しい視線にさらされ、視覚のハンデを背負いながらも、必死にAさんを育てました。
そんな時、お母さんは天理教の教えに出会い、教会に足を運ぶようになりました。そして、会長さんに諭された言葉によって、大きな勇気を得ました。
「あなたもあなたの子供さんも、決して不幸ではなく、ましてや神様から罰を与えられている訳でもありません。『お父さんがいない』というご守護を頂けたんですよ。
父親がいて母親がいて子供がいる、というご守護ももちろんあって、それが当たり前だと思ってしまいがちだけど、決してそうではない。世の中には結婚どころか、出会いすらないという方もいるし、いくら子供が欲しいと思っても、授からない人もたくさんいます。目が普通に見えるのは、当たり前ではない。見えない方もたくさんおられる中で、あなたは見えにくいというご守護を頂いたんです。その上であなたは子供を与えて頂いた。素晴らしいご守護ですよね。
でもね、そのような現実を喜ぶのは言葉で言うほど簡単ではありません。けれど、それを喜べるように心を切り替えて、生活していくのが天理教の教えなんです。今の状況を心の底から喜べるようになったら、きっと神様が次の喜びを下さいますよ」
そして会長さんは、「だから、二人で教会においで」と優しく言って下さったそうです。
それから、二人は教会に住み込みました。お母さんは教会で教えを学び、ひのきしんに励みながら、昼間は外で働いて必死にＡさんを育てました。教会には８年間住み込み、その後、お母さんを応援して下さる方が現れ、教会を出て親子二人での生活が始まりました。
親子は本当に仲良く、いつもお互いを労わり合い、教会にもしっかりとつながりながら、日々を過ごしました。
お母さんは、「私は周囲の人から『大変ね』とか『頑張ってね』と励まされることが多い人生でしたけど、実は私自身は大変だと思ったことはないんですよ」と笑顔で話して下さいました。
そしてＡさんは、高校卒業後、公務員として務めることになりました。Aさんは真面目に働き、親子でコツコツ貯めたお金で念願のマイホームを手に入れ、その数年後、Ａさんは一人の女性と出会い、結婚することになりました。
ほどなく子供も授かり、親子３代仲睦まじい家族の形ができました。お母さんの喜びようは、例えようのないものだったと思います。
そしてお母さんは、息子さん家族の幸せな姿を見ながら、91歳の長寿を全うし、出直しました。自分自身が心から望んだ「家族」に見守られながら、安らかな最期を迎えることが出来たのです。
お母さんは生前、Ａさん家族の姿を見ながら、いつも「凄いね、凄いね」と口癖のように言っていたそうです。Ａさんが「何がそんなに凄いの？」と聞くと、「二人が出会って、結婚して、子供も授かって、一つ屋根の下で仲良く生活出来るって、凄いことよ。お母さんは、それをあなたにしてあげられなかったもの」と。
そして、お母さんの出直す直前の言葉をAさんが教えて下さいました。
「お母さんは、もしかしたら人と比べて大変な人生だったかも知れないけど、人よりたくさんの喜びもあったのよ。だって、人が当たり前に手にしているものでも、無いことが多かったから、それが得られた時の喜びはとても大きかったの。
お母さんは、あなたにたくさんいい思いをさせてもらって、嬉しいことの多い人生だった。ありがとう」
「当たり前」だと思っている姿に、心の底から感謝の気持ちが湧いてきた時。それが、陽気ぐらしへの扉を、自ら押し開けようとしている時なのかも知れません。



人を救けるのやで

欲の心を取り払った捨て身の覚悟が大きなご守護につながるというお話が、『教祖伝逸話篇』には数多く残されています。
明治15年3月頃のこと。胸を病んで医者から不治と宣告された小西定吉さんは、近所の人からにをいをかけられ、病身を押して、夫婦揃っておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂きました。妻のイエさんは、この時二人目の子供を妊娠中でした。
イエさんが安産の許しである、をびや許しを頂いた時、定吉さんが「この神様は、をびやだけの神様でございますか」とお伺いすると、教祖は、「そうやない。万病救ける神やで」と仰せられました。そこで定吉さんは、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか」とお尋ねしました。すると教祖は、「心配いらんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ」と、親心溢れるお言葉を下さいました。
このお言葉が強く胸に食い込んだ定吉さんは、心の中で堅く決意をしました。家へ帰ると、手許にある限りの現金をまとめて、全て妻のイエさんに渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊（てんりおうのみこと）」と書いて床の間に張り、「なむてんりわうのみこと　なむてんりわうのみこと」と、一心に神名を唱えてお願いしました。
部屋の外へ出るのは、用を足す時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いをしました。すると不思議にも、日ならずして顔色も良くなり、咳も止まり、長い間の苦しみからすっかりお救け頂いたのです。
また、妻のイエさんも楽々と男の子を安産させて頂いたので、早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖にお礼を申し上げると、「心一条に成ったので、救かったのや」と仰せられ、大層喜んで下さいました。
定吉さんが、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。そこで再び定吉さんが、「どうしたら、人さんが救かりますか」とお尋ねすると、教祖は「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」とお諭し下さいました。（教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」）
「みかぐらうた」に、
　　よくのないものなけれども　　かみのまへにハよくはない（五下り目 四ッ）
　　なんでもこれからひとすぢに　　かみにもたれてゆきまする （三下り目 七ッ）
とあります。
私たちに欲の心のあることを、親神様は重々ご承知です。その上で、「神の前」で真剣にたすかりを願う時、欲の心は自然に取り払われるのだと教えて下さいます。定吉さんの捨て身の覚悟の一すじ心の祈りを、親神様はお受け取り下さったのです。
その後、定吉さんが教祖の仰せ通りに、自分の救かった話を取り次ぎながら、人だすけの上に邁進したことは言うまでもありません。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>陽気ぐらしの扉は自分で…
大阪府在住　　山本　達則

家族の存在は当たり前で、それ自体に幸せを感じることを、忘れがちになってしまうことが多いように思います。それどころか、時には煩わしい存在になったりする事も少なくないと思います。
家族だからこそ言えること、言ってもらえることがある。それは本当は、自分自身にとってとても大切な存在のはずですが、かけがえのないものなのだと気づく時は、それを失った時だということもあるのではないでしょうか。
でも、それは「当たり前だ」という思いがもたらすのです。全ての人が、当たり前に与えられるわけではありません。
ある家族の話です。
会社員のAさんは、奥さんとの間に高校生の男の子と中学生の女の子、二人の子がいるごく普通の家庭を築いています。Aさんのお母さんは91歳で亡くなりましたが、そのお母さんが晩年に、とても趣深いお話しを聞かせて下さいました。
お母さんは、戦後の混乱期に、実に数奇な人生を歩まれた方でした。彼女は長崎で生まれ、幼い頃に被爆し、その影響で視覚に障害がありました。戦後、一人の男性と出会い、子供を授かります。しかし、男性の家族から厳しい反対にあい、結婚どころか、子供の認知もしてもらえませんでした。彼女はそれでも子供を産み、育てて行くことを決意しました。
今以上に私生児に対する風当たりの強かった当時、その厳しい視線にさらされ、視覚のハンデを背負いながらも、必死にAさんを育てました。
そんな時、お母さんは天理教の教えに出会い、教会に足を運ぶようになりました。そして、会長さんに諭された言葉によって、大きな勇気を得ました。
「あなたもあなたの子供さんも、決して不幸ではなく、ましてや神様から罰を与えられている訳でもありません。『お父さんがいない』というご守護を頂けたんですよ。
父親がいて母親がいて子供がいる、というご守護ももちろんあって、それが当たり前だと思ってしまいがちだけど、決してそうではない。世の中には結婚どころか、出会いすらないという方もいるし、いくら子供が欲しいと思っても、授からない人もたくさんいます。目が普通に見えるのは、当たり前ではない。見えない方もたくさんおられる中で、あなたは見えにくいというご守護を頂いたんです。その上であなたは子供を与えて頂いた。素晴らしいご守護ですよね。
でもね、そのような現実を喜ぶのは言葉で言うほど簡単ではありません。けれど、それを喜べるように心を切り替えて、生活していくのが天理教の教えなんです。今の状況を心の底から喜べるようになったら、きっと神様が次の喜びを下さいますよ」
そして会長さんは、「だから、二人で教会においで」と優しく言って下さったそうです。
それから、二人は教会に住み込みました。お母さんは教会で教えを学び、ひのきしんに励みながら、昼間は外で働いて必死にＡさんを育てました。教会には８年間住み込み、その後、お母さんを応援して下さる方が現れ、教会を出て親子二人での生活が始まりました。
親子は本当に仲良く、いつもお互いを労わり合い、教会にもしっかりとつながりながら、日々を過ごしました。
お母さんは、「私は周囲の人から『大変ね』とか『頑張ってね』と励まされることが多い人生でしたけど、実は私自身は大変だと思ったことはないんですよ」と笑顔で話して下さいました。
そしてＡさんは、高校卒業後、公務員として務めることになりました。Aさんは真面目に働き、親子でコツコツ貯めたお金で念願のマイホームを手に入れ、その数年後、Ａさんは一人の女性と出会い、結婚することになりました。
ほどなく子供も授かり、親子３代仲睦まじい家族の形ができました。お母さんの喜びようは、例えようのないものだったと思います。
そしてお母さんは、息子さん家族の幸せな姿を見ながら、91歳の長寿を全うし、出直しました。自分自身が心から望んだ「家族」に見守られながら、安らかな最期を迎えることが出来たのです。
お母さんは生前、Ａさん家族の姿を見ながら、いつも「凄いね、凄いね」と口癖のように言っていたそうです。Ａさんが「何がそんなに凄いの？」と聞くと、「二人が出会って、結婚して、子供も授かって、一つ屋根の下で仲良く生活出来るって、凄いことよ。お母さんは、それをあなたにしてあげられなかったもの」と。
そして、お母さんの出直す直前の言葉をAさんが教えて下さいました。
「お母さんは、もしかしたら人と比べて大変な人生だったかも知れないけど、人よりたくさんの喜びもあったのよ。だって、人が当たり前に手にしているものでも、無いことが多かったから、それが得られた時の喜びはとても大きかったの。
お母さんは、あなたにたくさんいい思いをさせてもらって、嬉しいことの多い人生だった。ありがとう」
「当たり前」だと思っている姿に、心の底から感謝の気持ちが湧いてきた時。それが、陽気ぐらしへの扉を、自ら押し開けようとしている時なのかも知れません。



人を救けるのやで

欲の心を取り払った捨て身の覚悟が大きなご守護につながるというお話が、『教祖伝逸話篇』には数多く残されています。
明治15年3月頃のこと。胸を病んで医者から不治と宣告された小西定吉さんは、近所の人からにをいをかけられ、病身を押して、夫婦揃っておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂きました。妻のイエさんは、この時二人目の子供を妊娠中でした。
イエさんが安産の許しである、をびや許しを頂いた時、定吉さんが「この神様は、をびやだけの神様でございますか」とお伺いすると、教祖は、「そうやない。万病救ける神やで」と仰せられました。そこで定吉さんは、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか」とお尋ねしました。すると教祖は、「心配いらんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ」と、親心溢れるお言葉を下さいました。
このお言葉が強く胸に食い込んだ定吉さんは、心の中で堅く決意をしました。家へ帰ると、手許にある限りの現金をまとめて、全て妻のイエさんに渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊（てんりおうのみこと）」と書いて床の間に張り、「なむてんりわうのみこと　なむてんりわうのみこと」と、一心に神名を唱えてお願いしました。
部屋の外へ出るのは、用を足す時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いをしました。すると不思議にも、日ならずして顔色も良くなり、咳も止まり、長い間の苦しみからすっかりお救け頂いたのです。
また、妻のイエさんも楽々と男の子を安産させて頂いたので、早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖にお礼を申し上げると、「心一条に成ったので、救かったのや」と仰せられ、大層喜んで下さいました。
定吉さんが、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。そこで再び定吉さんが、「どうしたら、人さんが救かりますか」とお尋ねすると、教祖は「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」とお諭し下さいました。（教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」）
「みかぐらうた」に、
　　よくのないものなけれども　　かみのまへにハよくはない（五下り目 四ッ）
　　なんでもこれからひとすぢに　　かみにもたれてゆきまする （三下り目 七ッ）
とあります。
私たちに欲の心のあることを、親神様は重々ご承知です。その上で、「神の前」で真剣にたすかりを願う時、欲の心は自然に取り払われるのだと教えて下さいます。定吉さんの捨て身の覚悟の一すじ心の祈りを、親神様はお受け取り下さったのです。
その後、定吉さんが教祖の仰せ通りに、自分の救かった話を取り次ぎながら、人だすけの上に邁進したことは言うまでもありません。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 12 Dec 2025 09:27:15 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>アリガトウ大作戦</title>
        <description><![CDATA[アリガトウ大作戦
岡山県在住　　山﨑　石根

今年の夏休みに、小学5年生の末娘が歯医者で舌の手術をしました。きっかけは舌小帯と呼ばれる、舌の裏側についているヒダが短いと、小学校の健診で指摘をされたことでした。
歯医者を受診すると、確かに舌を前に出そうとしても口からあまり出ておらず、これから学校で英語などを学ぶ際に発音が難しくなるだろうからとの理由で、手術することを勧められました。
さて、彼女の手術は朝イチでしてもらいました。もちろん麻酔をしているので手術中は痛くないのですが、「麻酔が切れると今日一日は痛いでしょう」とのことで、痛み止めの薬と抗生剤を処方して頂きました。また、食事は刺激のあるメニューは避け、柔らかいものを食べるように助言を受けました。
ところが、彼女は昼食も夕食も痛くて何も食べられなかったのです。
昼には妻がフレンチトーストを作ってみましたが、本人は口を動かすのも痛いようで昼食はあきらめました。夕食では、「それを牛乳に浸しながら食べたら飲み込めるかも？」と挑戦しましたが、やはり無理でした。お腹が空いているのに食べることが出来ず、とても辛そうで、私たち夫婦も切なくなりました。
その日の夜、私は末娘に、病の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぎました。神殿の参拝場にて妻も一緒にお願いをさせて頂いた後、私は娘に「かりもの」の話をしました。
天理教では、誰もが自分のものであると思って使っているこの身体は、親神様のご守護と共に私たち一人ひとりに貸し与えられた「かりもの」であると教えられます。そして、心だけが自分のものであり、自由に使うことをお許し下さっているので、神様にお喜び頂ける心遣いが大切になります。
私はこの大事な教えを末娘に分かるように伝えた上で、「こうして身体が自分の思い通りに使えなくなった時こそ、普段、当たり前のようにご飯が食べられていたことの有り難さを確認して、感謝したいよね。実は、ととも今から20年以上前に、ご飯が食べられなくなった時があるんで～」と、自分の体験を話しました。
平成13年６月17日、私は人生で初めて入院を経験しました。その２、３日前から発熱と喉の痛みがあって、次第に声が出なくなり、食べ物や飲み物が喉を通らず、ついには唾すらも飲み込めなくなりました。
当時、妻とはすでにお付き合いしていたのですが、心配して一人暮らしの私の住まいに看病に来てくれた彼女とは、筆談でしか会話が出来ませんでした。そしていよいよ限界が来て、大きな病院を救急で受診して検査をすると、白血球の数値が20,000を超える危険な状態ということで、緊急入院となりました。
翌朝、痛み止めの薬を飲み、何とか3日ぶりに食事がとれたのですが、さっそく午前中に扁桃腺を切開する手術のような処置がされました。診断名は「扁桃周囲膿瘍」という扁桃腺に膿がたまる症状で、切開で膿を排出することが必要でした。
その処置の痛いの何の！　処置の後も痛み止めを飲んだのですが、あまりの痛さに昼食は一時間かけても口に入らず、結局ほとんど残すことになってしまいました。
このような苦い体験を末娘に説明しながら、私は5日間の入院中、大勢色んな人たちがおさづけを取り次ぎに来てくれて嬉しかったことや、その時にみんながたくさん神様のお話を聞かせてくれて有難かったことなどを伝えました。
とりわけ面白くて心に響いたのは、私の母、娘にとってはおばあちゃんの話。「おじいちゃんとおばあちゃんと、ととの妹がすぐに岡山から駆け付けてくれて、やっぱり神様のお話をしてくれてね。最後におばあちゃんが、『あ
んたはいっつも返答せんから、扁桃腺が悪くなるんやで』って言ったんで～」と言うと、それまで辛そうにしていた娘も、ようやく笑顔になりました。
病気や困りごとは神様からのお手紙だと聞かせて頂きます。当時の私は実際に親から、教会の月次祭へ参拝するよう、信仰姿勢を問いかけられていたのに、仕事の忙しさを理由に返答できていなかったのです。
毎日、当たり前のように会話ができ、ご飯が食べられ、お水が飲めたこと。この当たり前の中にどれほど神様のご守護があふれていたかを思い知らされた私は、日々感謝の心を忘れず、しっかりと参拝をしなければならないと決心したのでした。
さて、小５の娘には早すぎるかなぁと迷いましたが、思い切って彼女に尋ねてみました。
「あんたは今回、お口のことで神様からお手紙をもらいました。ととと同じようにご飯が食べられなくて困っているけど、どんなお手紙やと思う？」
普段から勘の鋭い彼女は、すぐに何かを察したようです。そして照れくさそうに、「口が悪い」と呟いたのです。我が娘ながら、お見事です。
そうなんです。5人兄弟の末娘なので、彼女はいつまで経っても一番下です。なので、何とかお兄ちゃんやお姉ちゃんに対抗しようとするあまり、ここ数か月、彼女の言葉遣いの悪さは目に余るものがあり、幾度となく私たち夫婦から「最近、口が悪いで」と注意されていたのでした。
あまりにも注意され過ぎて、さすがに心当たりがあったのでしょう。いいチャンスだと思って問いかけてみると、彼女も笑いながら反応してくれたので、ホッとしました。
「じゃあ、神様のお手紙にお返事を書いて喜んでもらうには、どうしたらいいかなぁ？」と、一緒に考えようとすると、「ありがとうをいっぱい言う！」と、素敵なアイデアを出してくれました。
「いいねぇ！アリガトウ大作戦やね！」
翌朝、無事に痛みも引いた娘は、有り難さを噛みしめながら、朝ご飯を食べることが出来ました。
大人の私もそうですが、誰しも喉元過ぎれば熱さを忘れます。でも、親神様は365日24時間、休むことなくご守護下さいます。だからこそ、毎朝、毎夕のおつとめで「ありがとうございます」という感謝の気持ちを届ける必要があると思うのです。
どうか、娘の大作戦が一日でも長続きしますように…。



だけど有難い「非常識」

初めに、少し頭の体操をしてみたいと思います。まず、数字の一から九までのうち、どれか一つを選んで、頭のなかで思い描いてください。次に、その数字に三を足してください。それに二を掛けてください。そこから四を引いてください。そして、二で割ってみてください。最後に、その数字から、自分が最初に頭に思い描いた数字を引いてください。いくつになりましたか？　答えは一です。
実は、どの数字を選んでも答えは一になるのです。面白いですね。なぜ面白いのかといえば、選んだ数字は違うのに、結果は全部一つになる。常識を少し覆しているからです。
考えてみると、私たちが信仰しているお道の教えも非常識です。「身上・事情は道の華」と先人たちは言いました。けれども、病気や事情のもつれで悩んでいる人にとってみれば、とんでもない話です。身上・事情は不幸の種というのが常識であって、それを「華」などというのは、全くの非常識なのです。
徳積みや伏せ込みで運命が変わる。「人たすけたら我が身たすかる」とも教えられます。でも常識では、人をたすけたら人がたすかるのです。わが身がたすかるわけがない。非常識なのです。こうしてみると、お道の話はどれも非常識なのです。そして、この非常識が正しいかどうかは、実はやってみないと分からない。ですから教祖は、わざわざ五十年も自ら「ひながたの道」を通られて、私たちが分かるようにお遺しくださったのです。
どんなに美味しい物も、食べてみないと分からない。どんなに楽しいスポーツも、やってみないと分からない。お道の教えも、まさに「やってみないと分からない」のです。
今年も年の瀬が迫ってきました。お集りの皆さんは、今日ここに参拝させていただける体力があって来られたわけですから、病気で苦しんでいる人も含めて、私はまだまだ結構だと思います。
世間には、果たして新年を迎えられるだろうかと、病気に苦しんでいる人や、諸々の事情を抱えて悩んでいる人がたくさんいると思います。さらに本人だけでなく、家族、親族、友人など、一緒に悩んでいる人がいることでしょう。どうか、そんな人にもぜひ、たすけの手を差し伸べていただきたい。
自分はこうして元気に、教会に参拝してお礼をさせていただける。それで良しとせずに、そうした人たちに、たすけの手を差し伸べていただきたい。たすけるのは神様ですから、「とても自分はおたすけなんてできない」というような心配は要らないのです。神様にお任せして実行していけば、やがて気がついたら、自分も神様から大きなご褒美を頂戴していたということになってくるのです。
「人たすけたら我が身たすかる」という教えは、いま世の中の常識ではありません。しかし、お道を通る私たちは、この教えが〝世界の常識〟になるように、教祖のご期待にお応えする働きをさせていただきましょう。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>アリガトウ大作戦
岡山県在住　　山﨑　石根

今年の夏休みに、小学5年生の末娘が歯医者で舌の手術をしました。きっかけは舌小帯と呼ばれる、舌の裏側についているヒダが短いと、小学校の健診で指摘をされたことでした。
歯医者を受診すると、確かに舌を前に出そうとしても口からあまり出ておらず、これから学校で英語などを学ぶ際に発音が難しくなるだろうからとの理由で、手術することを勧められました。
さて、彼女の手術は朝イチでしてもらいました。もちろん麻酔をしているので手術中は痛くないのですが、「麻酔が切れると今日一日は痛いでしょう」とのことで、痛み止めの薬と抗生剤を処方して頂きました。また、食事は刺激のあるメニューは避け、柔らかいものを食べるように助言を受けました。
ところが、彼女は昼食も夕食も痛くて何も食べられなかったのです。
昼には妻がフレンチトーストを作ってみましたが、本人は口を動かすのも痛いようで昼食はあきらめました。夕食では、「それを牛乳に浸しながら食べたら飲み込めるかも？」と挑戦しましたが、やはり無理でした。お腹が空いているのに食べることが出来ず、とても辛そうで、私たち夫婦も切なくなりました。
その日の夜、私は末娘に、病の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぎました。神殿の参拝場にて妻も一緒にお願いをさせて頂いた後、私は娘に「かりもの」の話をしました。
天理教では、誰もが自分のものであると思って使っているこの身体は、親神様のご守護と共に私たち一人ひとりに貸し与えられた「かりもの」であると教えられます。そして、心だけが自分のものであり、自由に使うことをお許し下さっているので、神様にお喜び頂ける心遣いが大切になります。
私はこの大事な教えを末娘に分かるように伝えた上で、「こうして身体が自分の思い通りに使えなくなった時こそ、普段、当たり前のようにご飯が食べられていたことの有り難さを確認して、感謝したいよね。実は、ととも今から20年以上前に、ご飯が食べられなくなった時があるんで～」と、自分の体験を話しました。
平成13年６月17日、私は人生で初めて入院を経験しました。その２、３日前から発熱と喉の痛みがあって、次第に声が出なくなり、食べ物や飲み物が喉を通らず、ついには唾すらも飲み込めなくなりました。
当時、妻とはすでにお付き合いしていたのですが、心配して一人暮らしの私の住まいに看病に来てくれた彼女とは、筆談でしか会話が出来ませんでした。そしていよいよ限界が来て、大きな病院を救急で受診して検査をすると、白血球の数値が20,000を超える危険な状態ということで、緊急入院となりました。
翌朝、痛み止めの薬を飲み、何とか3日ぶりに食事がとれたのですが、さっそく午前中に扁桃腺を切開する手術のような処置がされました。診断名は「扁桃周囲膿瘍」という扁桃腺に膿がたまる症状で、切開で膿を排出することが必要でした。
その処置の痛いの何の！　処置の後も痛み止めを飲んだのですが、あまりの痛さに昼食は一時間かけても口に入らず、結局ほとんど残すことになってしまいました。
このような苦い体験を末娘に説明しながら、私は5日間の入院中、大勢色んな人たちがおさづけを取り次ぎに来てくれて嬉しかったことや、その時にみんながたくさん神様のお話を聞かせてくれて有難かったことなどを伝えました。
とりわけ面白くて心に響いたのは、私の母、娘にとってはおばあちゃんの話。「おじいちゃんとおばあちゃんと、ととの妹がすぐに岡山から駆け付けてくれて、やっぱり神様のお話をしてくれてね。最後におばあちゃんが、『あ
んたはいっつも返答せんから、扁桃腺が悪くなるんやで』って言ったんで～」と言うと、それまで辛そうにしていた娘も、ようやく笑顔になりました。
病気や困りごとは神様からのお手紙だと聞かせて頂きます。当時の私は実際に親から、教会の月次祭へ参拝するよう、信仰姿勢を問いかけられていたのに、仕事の忙しさを理由に返答できていなかったのです。
毎日、当たり前のように会話ができ、ご飯が食べられ、お水が飲めたこと。この当たり前の中にどれほど神様のご守護があふれていたかを思い知らされた私は、日々感謝の心を忘れず、しっかりと参拝をしなければならないと決心したのでした。
さて、小５の娘には早すぎるかなぁと迷いましたが、思い切って彼女に尋ねてみました。
「あんたは今回、お口のことで神様からお手紙をもらいました。ととと同じようにご飯が食べられなくて困っているけど、どんなお手紙やと思う？」
普段から勘の鋭い彼女は、すぐに何かを察したようです。そして照れくさそうに、「口が悪い」と呟いたのです。我が娘ながら、お見事です。
そうなんです。5人兄弟の末娘なので、彼女はいつまで経っても一番下です。なので、何とかお兄ちゃんやお姉ちゃんに対抗しようとするあまり、ここ数か月、彼女の言葉遣いの悪さは目に余るものがあり、幾度となく私たち夫婦から「最近、口が悪いで」と注意されていたのでした。
あまりにも注意され過ぎて、さすがに心当たりがあったのでしょう。いいチャンスだと思って問いかけてみると、彼女も笑いながら反応してくれたので、ホッとしました。
「じゃあ、神様のお手紙にお返事を書いて喜んでもらうには、どうしたらいいかなぁ？」と、一緒に考えようとすると、「ありがとうをいっぱい言う！」と、素敵なアイデアを出してくれました。
「いいねぇ！アリガトウ大作戦やね！」
翌朝、無事に痛みも引いた娘は、有り難さを噛みしめながら、朝ご飯を食べることが出来ました。
大人の私もそうですが、誰しも喉元過ぎれば熱さを忘れます。でも、親神様は365日24時間、休むことなくご守護下さいます。だからこそ、毎朝、毎夕のおつとめで「ありがとうございます」という感謝の気持ちを届ける必要があると思うのです。
どうか、娘の大作戦が一日でも長続きしますように…。



だけど有難い「非常識」

初めに、少し頭の体操をしてみたいと思います。まず、数字の一から九までのうち、どれか一つを選んで、頭のなかで思い描いてください。次に、その数字に三を足してください。それに二を掛けてください。そこから四を引いてください。そして、二で割ってみてください。最後に、その数字から、自分が最初に頭に思い描いた数字を引いてください。いくつになりましたか？　答えは一です。
実は、どの数字を選んでも答えは一になるのです。面白いですね。なぜ面白いのかといえば、選んだ数字は違うのに、結果は全部一つになる。常識を少し覆しているからです。
考えてみると、私たちが信仰しているお道の教えも非常識です。「身上・事情は道の華」と先人たちは言いました。けれども、病気や事情のもつれで悩んでいる人にとってみれば、とんでもない話です。身上・事情は不幸の種というのが常識であって、それを「華」などというのは、全くの非常識なのです。
徳積みや伏せ込みで運命が変わる。「人たすけたら我が身たすかる」とも教えられます。でも常識では、人をたすけたら人がたすかるのです。わが身がたすかるわけがない。非常識なのです。こうしてみると、お道の話はどれも非常識なのです。そして、この非常識が正しいかどうかは、実はやってみないと分からない。ですから教祖は、わざわざ五十年も自ら「ひながたの道」を通られて、私たちが分かるようにお遺しくださったのです。
どんなに美味しい物も、食べてみないと分からない。どんなに楽しいスポーツも、やってみないと分からない。お道の教えも、まさに「やってみないと分からない」のです。
今年も年の瀬が迫ってきました。お集りの皆さんは、今日ここに参拝させていただける体力があって来られたわけですから、病気で苦しんでいる人も含めて、私はまだまだ結構だと思います。
世間には、果たして新年を迎えられるだろうかと、病気に苦しんでいる人や、諸々の事情を抱えて悩んでいる人がたくさんいると思います。さらに本人だけでなく、家族、親族、友人など、一緒に悩んでいる人がいることでしょう。どうか、そんな人にもぜひ、たすけの手を差し伸べていただきたい。
自分はこうして元気に、教会に参拝してお礼をさせていただける。それで良しとせずに、そうした人たちに、たすけの手を差し伸べていただきたい。たすけるのは神様ですから、「とても自分はおたすけなんてできない」というような心配は要らないのです。神様にお任せして実行していけば、やがて気がついたら、自分も神様から大きなご褒美を頂戴していたということになってくるのです。
「人たすけたら我が身たすかる」という教えは、いま世の中の常識ではありません。しかし、お道を通る私たちは、この教えが〝世界の常識〟になるように、教祖のご期待にお応えする働きをさせていただきましょう。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>アリガトウ大作戦
岡山県在住　　山﨑　石根

今年の夏休みに、小学5年生の末娘が歯医者で舌の手術をしました。きっかけは舌小帯と呼ばれる、舌の裏側についているヒダが短いと、小学校の健診で指摘をされたことでした。
歯医者を受診すると、確かに舌を前に出そうとしても口からあまり出ておらず、これから学校で英語などを学ぶ際に発音が難しくなるだろうからとの理由で、手術することを勧められました。
さて、彼女の手術は朝イチでしてもらいました。もちろん麻酔をしているので手術中は痛くないのですが、「麻酔が切れると今日一日は痛いでしょう」とのことで、痛み止めの薬と抗生剤を処方して頂きました。また、食事は刺激のあるメニューは避け、柔らかいものを食べるように助言を受けました。
ところが、彼女は昼食も夕食も痛くて何も食べられなかったのです。
昼には妻がフレンチトーストを作ってみましたが、本人は口を動かすのも痛いようで昼食はあきらめました。夕食では、「それを牛乳に浸しながら食べたら飲み込めるかも？」と挑戦しましたが、やはり無理でした。お腹が空いているのに食べることが出来ず、とても辛そうで、私たち夫婦も切なくなりました。
その日の夜、私は末娘に、病の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぎました。神殿の参拝場にて妻も一緒にお願いをさせて頂いた後、私は娘に「かりもの」の話をしました。
天理教では、誰もが自分のものであると思って使っているこの身体は、親神様のご守護と共に私たち一人ひとりに貸し与えられた「かりもの」であると教えられます。そして、心だけが自分のものであり、自由に使うことをお許し下さっているので、神様にお喜び頂ける心遣いが大切になります。
私はこの大事な教えを末娘に分かるように伝えた上で、「こうして身体が自分の思い通りに使えなくなった時こそ、普段、当たり前のようにご飯が食べられていたことの有り難さを確認して、感謝したいよね。実は、ととも今から20年以上前に、ご飯が食べられなくなった時があるんで～」と、自分の体験を話しました。
平成13年６月17日、私は人生で初めて入院を経験しました。その２、３日前から発熱と喉の痛みがあって、次第に声が出なくなり、食べ物や飲み物が喉を通らず、ついには唾すらも飲み込めなくなりました。
当時、妻とはすでにお付き合いしていたのですが、心配して一人暮らしの私の住まいに看病に来てくれた彼女とは、筆談でしか会話が出来ませんでした。そしていよいよ限界が来て、大きな病院を救急で受診して検査をすると、白血球の数値が20,000を超える危険な状態ということで、緊急入院となりました。
翌朝、痛み止めの薬を飲み、何とか3日ぶりに食事がとれたのですが、さっそく午前中に扁桃腺を切開する手術のような処置がされました。診断名は「扁桃周囲膿瘍」という扁桃腺に膿がたまる症状で、切開で膿を排出することが必要でした。
その処置の痛いの何の！　処置の後も痛み止めを飲んだのですが、あまりの痛さに昼食は一時間かけても口に入らず、結局ほとんど残すことになってしまいました。
このような苦い体験を末娘に説明しながら、私は5日間の入院中、大勢色んな人たちがおさづけを取り次ぎに来てくれて嬉しかったことや、その時にみんながたくさん神様のお話を聞かせてくれて有難かったことなどを伝えました。
とりわけ面白くて心に響いたのは、私の母、娘にとってはおばあちゃんの話。「おじいちゃんとおばあちゃんと、ととの妹がすぐに岡山から駆け付けてくれて、やっぱり神様のお話をしてくれてね。最後におばあちゃんが、『あ
んたはいっつも返答せんから、扁桃腺が悪くなるんやで』って言ったんで～」と言うと、それまで辛そうにしていた娘も、ようやく笑顔になりました。
病気や困りごとは神様からのお手紙だと聞かせて頂きます。当時の私は実際に親から、教会の月次祭へ参拝するよう、信仰姿勢を問いかけられていたのに、仕事の忙しさを理由に返答できていなかったのです。
毎日、当たり前のように会話ができ、ご飯が食べられ、お水が飲めたこと。この当たり前の中にどれほど神様のご守護があふれていたかを思い知らされた私は、日々感謝の心を忘れず、しっかりと参拝をしなければならないと決心したのでした。
さて、小５の娘には早すぎるかなぁと迷いましたが、思い切って彼女に尋ねてみました。
「あんたは今回、お口のことで神様からお手紙をもらいました。ととと同じようにご飯が食べられなくて困っているけど、どんなお手紙やと思う？」
普段から勘の鋭い彼女は、すぐに何かを察したようです。そして照れくさそうに、「口が悪い」と呟いたのです。我が娘ながら、お見事です。
そうなんです。5人兄弟の末娘なので、彼女はいつまで経っても一番下です。なので、何とかお兄ちゃんやお姉ちゃんに対抗しようとするあまり、ここ数か月、彼女の言葉遣いの悪さは目に余るものがあり、幾度となく私たち夫婦から「最近、口が悪いで」と注意されていたのでした。
あまりにも注意され過ぎて、さすがに心当たりがあったのでしょう。いいチャンスだと思って問いかけてみると、彼女も笑いながら反応してくれたので、ホッとしました。
「じゃあ、神様のお手紙にお返事を書いて喜んでもらうには、どうしたらいいかなぁ？」と、一緒に考えようとすると、「ありがとうをいっぱい言う！」と、素敵なアイデアを出してくれました。
「いいねぇ！アリガトウ大作戦やね！」
翌朝、無事に痛みも引いた娘は、有り難さを噛みしめながら、朝ご飯を食べることが出来ました。
大人の私もそうですが、誰しも喉元過ぎれば熱さを忘れます。でも、親神様は365日24時間、休むことなくご守護下さいます。だからこそ、毎朝、毎夕のおつとめで「ありがとうございます」という感謝の気持ちを届ける必要があると思うのです。
どうか、娘の大作戦が一日でも長続きしますように…。



だけど有難い「非常識」

初めに、少し頭の体操をしてみたいと思います。まず、数字の一から九までのうち、どれか一つを選んで、頭のなかで思い描いてください。次に、その数字に三を足してください。それに二を掛けてください。そこから四を引いてください。そして、二で割ってみてください。最後に、その数字から、自分が最初に頭に思い描いた数字を引いてください。いくつになりましたか？　答えは一です。
実は、どの数字を選んでも答えは一になるのです。面白いですね。なぜ面白いのかといえば、選んだ数字は違うのに、結果は全部一つになる。常識を少し覆しているからです。
考えてみると、私たちが信仰しているお道の教えも非常識です。「身上・事情は道の華」と先人たちは言いました。けれども、病気や事情のもつれで悩んでいる人にとってみれば、とんでもない話です。身上・事情は不幸の種というのが常識であって、それを「華」などというのは、全くの非常識なのです。
徳積みや伏せ込みで運命が変わる。「人たすけたら我が身たすかる」とも教えられます。でも常識では、人をたすけたら人がたすかるのです。わが身がたすかるわけがない。非常識なのです。こうしてみると、お道の話はどれも非常識なのです。そして、この非常識が正しいかどうかは、実はやってみないと分からない。ですから教祖は、わざわざ五十年も自ら「ひながたの道」を通られて、私たちが分かるようにお遺しくださったのです。
どんなに美味しい物も、食べてみないと分からない。どんなに楽しいスポーツも、やってみないと分からない。お道の教えも、まさに「やってみないと分からない」のです。
今年も年の瀬が迫ってきました。お集りの皆さんは、今日ここに参拝させていただける体力があって来られたわけですから、病気で苦しんでいる人も含めて、私はまだまだ結構だと思います。
世間には、果たして新年を迎えられるだろうかと、病気に苦しんでいる人や、諸々の事情を抱えて悩んでいる人がたくさんいると思います。さらに本人だけでなく、家族、親族、友人など、一緒に悩んでいる人がいることでしょう。どうか、そんな人にもぜひ、たすけの手を差し伸べていただきたい。
自分はこうして元気に、教会に参拝してお礼をさせていただける。それで良しとせずに、そうした人たちに、たすけの手を差し伸べていただきたい。たすけるのは神様ですから、「とても自分はおたすけなんてできない」というような心配は要らないのです。神様にお任せして実行していけば、やがて気がついたら、自分も神様から大きなご褒美を頂戴していたということになってくるのです。
「人たすけたら我が身たすかる」という教えは、いま世の中の常識ではありません。しかし、お道を通る私たちは、この教えが〝世界の常識〟になるように、教祖のご期待にお応えする働きをさせていただきましょう。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 05 Dec 2025 09:21:41 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>たすけてもらう力</title>
        <description><![CDATA[たすけてもらう力
埼玉県在住　　関根　健一

ある日の朝、テレビの情報番組で「受援力」というテーマを特集していました。
援助を受ける力と書いて「受援力」。地震大国と言われる日本ですが、その名の通り阪神・淡路大震災以降、全国各地で数年おきに大規模災害が起こっていて、そのたびに支援の仕組みが見直されてきました。受援力とは、そんな背景の中で注目され始めたキーワードだそうです。
災害対策の取り組みの中で「自助、共助、公助」という考え方があります。東日本大震災のように広範囲で大規模な災害が発生した時、いくら準備をしていたとしても、行政の支援である「公助」はすぐには機能しないことが多いのです。
ですから、まずは自分の力で自分の身の安全を確保するための「自助」。次に、行政の支援が届くまで身近な人とたすけ合う「共助」という考え方を元に、万が一の時に備えておくことが一般的になってきました。
そうした流れの中で、共助、公助を行う際には、誰にどんな支援が必要なのかを把握することが必要になりますが、実際は自分の困った状況を伝えられない人がたくさんいるという現状に直面するそうです。
「たすけてください」「こんなことで困っています」。言葉にすると簡単に言えそうですが、命からがらたすかった後の極限状態では、混乱しているのは当然です。しかも周囲にもたくさん困っている人がいる中で、「私より困っている人がいるのに、この程度のことでたすけてとは言えない」と思ってしまうのも無理はありません。
さらにその番組では、「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されることも要因の一つではないか？」と投げかけられ、生活保護を受けられるのに受けない人がいることなども、同じような問題ではないかと触れられていました。
テレビを観ながら、娘が通う特別支援学校のPTA会長をしていた頃に依頼され、「障害のある子供たちの『たすけてもらう力』を育む」というテーマで、教育委員会の機関誌に寄稿したことを思い出しました。
その内容は、「一般の小学校で、教育方針に『生きる力を育む』と掲げているのをよく目にします。でも、特別支援学校に通う児童・生徒の中には、食事や排泄など、生きるための必要最低限の行為にも人の手を借りなければならない子供が多いのです。彼ら彼女らが『生きる』には、『たすけてもらう』ことが欠かせないのです。だから、生きる力を育むことは、「たすけてもらう力を育む」こととも言えるのです」
大体こんな感じの内容でした。また、この時に「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されること」の弊害について言及したことも覚えています。
発達障害のある人は、あいまいな言葉のニュアンスを読み取ることが苦手です。「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」と声をかけたとしても、「その〝何か〟が何を指すのか分からない」となってしまうことがあります。
「お腹が空いてますか？」「夜眠れますか？」など、具体的に聞いてくれればイメージ出来るのですが、支援者や相談者が必ずしもそうした配慮をしてくれるとは限りませんし、すべての行為を例に挙げて聞いていくわけにもいきません。
災害時に限らず、障害のある人たちは日常からそうしたコミュニケーションによる弊害を抱えているのです。裏を返せば、障害のある人たちにも理解しやすいように、たすけてもらう力を引き出す問いかけが出来るなら、災害に直面した時にもスムーズなコミュニケーションが期待出来るのだと思います。
その番組を観た日の夕方、夕づとめで「おふでさき」を拝読し終えると、ふと、

　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　（十四 35）


というおうたが浮かびました。テレビで「たすける」「たすけられる」という言葉を耳にしていたせいかもしれません。
私たち天理教の「ようぼく」は、「つとめ」と「さづけ」の実践を通して、親神様のご守護、教祖のお働きを頂くことが使命です。この行いを私たちは「おたすけ」と呼びますが、人間をたすけるのは、あくまでも親神様のご守護であり、私たちようぼくはおたすけの主体ではありません。
言い換えると、私たちようぼくが行うおたすけとは、「親神様にたすけてもらうための手段を伝えることである」とも言えると思います。
敢えておたすけを先ほどの災害の例に重ねるならば、
「自助」は、おつとめやひのきしんを自らつとめること。
「共助」は、教会に運んで教理にふれたり、会長さんのお諭しを聞いたり、信者同士で研鑽を積むこと。
そして、その先に「公助」として親神様のご守護、教祖のお働きがあるのだと思います。
ですから、「たすけるもよふばかりをもてる」と仰る親神様のご守護を頂くために、私たちは自らおつとめやひのきしんに励み、教会に尽くし、運ぶことが大切なのだと、テレビの話題から改めて教えて頂いた気がします。
教祖140年祭のこの旬。「親神様にたすけてもらうための手段」を自ら実践し、広めていけるように心がけたいと思います。



手の使い方

神様が私たち人間にお与え下された身体の働きの中でも、手は特別に優れた器官です。実に器用で重宝で、何でもすることが出来ます。そして、そこに心を込めることで、その仕事がさらに生きてくるというのが肝心な点です。手作り、手当て、手料理、手縫い、手加減などの言葉は、いずれも心を込めて手を使っている姿を表しています。
教祖中山みき様「おやさま」は、幼少の頃から大変手先が器用で、月日のやしろとなられて後、五十歳を過ぎた頃からはお針の師匠をなされ、近所の子供たちに裁縫を教えられました。
明治十六年頃のこと。梶本ひささんは、ある晩、一寸角ほどのきれを縫い合わせて、袋を作ろうと、教祖の手ほどきを受けていました。そうして袋は出来上がったのですが、この袋に通す紐がありません。すると教祖が、「おひさや、あの鉋屑を取っておいで」と仰せられ、器用にそれを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下さいました。
教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へちょいちょいお越しになり、その度に、家の子や近所の子にお菓子を入れて持って来て下さったのです。（教祖伝逸話篇124「鉋屑の紐」）
また、そのように器用に手先を使われることは、監獄署に拘留されている時でも変わることなく、不要な紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。
そして、お供の者にそれをお渡しになり、「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ」と仰せられました。（教祖伝逸話篇138「物は大切に」）
どれだけ手に心を込めているかは、ほんのちょっとした動作にも表れるものです。教祖は、お屋敷にいる者に糸紡ぎの用事を出した時、その出来上がったものを三度押し戴かれるなど、そのお手はいつでも心と共にありました。
そして、よろづたすけの手立てとして教えられた「おつとめ」の手振りに関しては、しっかりと手に心を込めるように、特に厳しくお諭し下されています。
「つとめに、手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃしているからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで」（教祖伝 第五章 たすけづとめ）
普段からいかに心を込めて、大事に手を使わせて頂いているか。それが、「命の切換」とまで言われるおつとめのつとめ方にも、大いに関わってくると言えるのではないでしょうか。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>たすけてもらう力
埼玉県在住　　関根　健一

ある日の朝、テレビの情報番組で「受援力」というテーマを特集していました。
援助を受ける力と書いて「受援力」。地震大国と言われる日本ですが、その名の通り阪神・淡路大震災以降、全国各地で数年おきに大規模災害が起こっていて、そのたびに支援の仕組みが見直されてきました。受援力とは、そんな背景の中で注目され始めたキーワードだそうです。
災害対策の取り組みの中で「自助、共助、公助」という考え方があります。東日本大震災のように広範囲で大規模な災害が発生した時、いくら準備をしていたとしても、行政の支援である「公助」はすぐには機能しないことが多いのです。
ですから、まずは自分の力で自分の身の安全を確保するための「自助」。次に、行政の支援が届くまで身近な人とたすけ合う「共助」という考え方を元に、万が一の時に備えておくことが一般的になってきました。
そうした流れの中で、共助、公助を行う際には、誰にどんな支援が必要なのかを把握することが必要になりますが、実際は自分の困った状況を伝えられない人がたくさんいるという現状に直面するそうです。
「たすけてください」「こんなことで困っています」。言葉にすると簡単に言えそうですが、命からがらたすかった後の極限状態では、混乱しているのは当然です。しかも周囲にもたくさん困っている人がいる中で、「私より困っている人がいるのに、この程度のことでたすけてとは言えない」と思ってしまうのも無理はありません。
さらにその番組では、「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されることも要因の一つではないか？」と投げかけられ、生活保護を受けられるのに受けない人がいることなども、同じような問題ではないかと触れられていました。
テレビを観ながら、娘が通う特別支援学校のPTA会長をしていた頃に依頼され、「障害のある子供たちの『たすけてもらう力』を育む」というテーマで、教育委員会の機関誌に寄稿したことを思い出しました。
その内容は、「一般の小学校で、教育方針に『生きる力を育む』と掲げているのをよく目にします。でも、特別支援学校に通う児童・生徒の中には、食事や排泄など、生きるための必要最低限の行為にも人の手を借りなければならない子供が多いのです。彼ら彼女らが『生きる』には、『たすけてもらう』ことが欠かせないのです。だから、生きる力を育むことは、「たすけてもらう力を育む」こととも言えるのです」
大体こんな感じの内容でした。また、この時に「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されること」の弊害について言及したことも覚えています。
発達障害のある人は、あいまいな言葉のニュアンスを読み取ることが苦手です。「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」と声をかけたとしても、「その〝何か〟が何を指すのか分からない」となってしまうことがあります。
「お腹が空いてますか？」「夜眠れますか？」など、具体的に聞いてくれればイメージ出来るのですが、支援者や相談者が必ずしもそうした配慮をしてくれるとは限りませんし、すべての行為を例に挙げて聞いていくわけにもいきません。
災害時に限らず、障害のある人たちは日常からそうしたコミュニケーションによる弊害を抱えているのです。裏を返せば、障害のある人たちにも理解しやすいように、たすけてもらう力を引き出す問いかけが出来るなら、災害に直面した時にもスムーズなコミュニケーションが期待出来るのだと思います。
その番組を観た日の夕方、夕づとめで「おふでさき」を拝読し終えると、ふと、

　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　（十四 35）


というおうたが浮かびました。テレビで「たすける」「たすけられる」という言葉を耳にしていたせいかもしれません。
私たち天理教の「ようぼく」は、「つとめ」と「さづけ」の実践を通して、親神様のご守護、教祖のお働きを頂くことが使命です。この行いを私たちは「おたすけ」と呼びますが、人間をたすけるのは、あくまでも親神様のご守護であり、私たちようぼくはおたすけの主体ではありません。
言い換えると、私たちようぼくが行うおたすけとは、「親神様にたすけてもらうための手段を伝えることである」とも言えると思います。
敢えておたすけを先ほどの災害の例に重ねるならば、
「自助」は、おつとめやひのきしんを自らつとめること。
「共助」は、教会に運んで教理にふれたり、会長さんのお諭しを聞いたり、信者同士で研鑽を積むこと。
そして、その先に「公助」として親神様のご守護、教祖のお働きがあるのだと思います。
ですから、「たすけるもよふばかりをもてる」と仰る親神様のご守護を頂くために、私たちは自らおつとめやひのきしんに励み、教会に尽くし、運ぶことが大切なのだと、テレビの話題から改めて教えて頂いた気がします。
教祖140年祭のこの旬。「親神様にたすけてもらうための手段」を自ら実践し、広めていけるように心がけたいと思います。



手の使い方

神様が私たち人間にお与え下された身体の働きの中でも、手は特別に優れた器官です。実に器用で重宝で、何でもすることが出来ます。そして、そこに心を込めることで、その仕事がさらに生きてくるというのが肝心な点です。手作り、手当て、手料理、手縫い、手加減などの言葉は、いずれも心を込めて手を使っている姿を表しています。
教祖中山みき様「おやさま」は、幼少の頃から大変手先が器用で、月日のやしろとなられて後、五十歳を過ぎた頃からはお針の師匠をなされ、近所の子供たちに裁縫を教えられました。
明治十六年頃のこと。梶本ひささんは、ある晩、一寸角ほどのきれを縫い合わせて、袋を作ろうと、教祖の手ほどきを受けていました。そうして袋は出来上がったのですが、この袋に通す紐がありません。すると教祖が、「おひさや、あの鉋屑を取っておいで」と仰せられ、器用にそれを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下さいました。
教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へちょいちょいお越しになり、その度に、家の子や近所の子にお菓子を入れて持って来て下さったのです。（教祖伝逸話篇124「鉋屑の紐」）
また、そのように器用に手先を使われることは、監獄署に拘留されている時でも変わることなく、不要な紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。
そして、お供の者にそれをお渡しになり、「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ」と仰せられました。（教祖伝逸話篇138「物は大切に」）
どれだけ手に心を込めているかは、ほんのちょっとした動作にも表れるものです。教祖は、お屋敷にいる者に糸紡ぎの用事を出した時、その出来上がったものを三度押し戴かれるなど、そのお手はいつでも心と共にありました。
そして、よろづたすけの手立てとして教えられた「おつとめ」の手振りに関しては、しっかりと手に心を込めるように、特に厳しくお諭し下されています。
「つとめに、手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃしているからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで」（教祖伝 第五章 たすけづとめ）
普段からいかに心を込めて、大事に手を使わせて頂いているか。それが、「命の切換」とまで言われるおつとめのつとめ方にも、大いに関わってくると言えるのではないでしょうか。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>たすけてもらう力
埼玉県在住　　関根　健一

ある日の朝、テレビの情報番組で「受援力」というテーマを特集していました。
援助を受ける力と書いて「受援力」。地震大国と言われる日本ですが、その名の通り阪神・淡路大震災以降、全国各地で数年おきに大規模災害が起こっていて、そのたびに支援の仕組みが見直されてきました。受援力とは、そんな背景の中で注目され始めたキーワードだそうです。
災害対策の取り組みの中で「自助、共助、公助」という考え方があります。東日本大震災のように広範囲で大規模な災害が発生した時、いくら準備をしていたとしても、行政の支援である「公助」はすぐには機能しないことが多いのです。
ですから、まずは自分の力で自分の身の安全を確保するための「自助」。次に、行政の支援が届くまで身近な人とたすけ合う「共助」という考え方を元に、万が一の時に備えておくことが一般的になってきました。
そうした流れの中で、共助、公助を行う際には、誰にどんな支援が必要なのかを把握することが必要になりますが、実際は自分の困った状況を伝えられない人がたくさんいるという現状に直面するそうです。
「たすけてください」「こんなことで困っています」。言葉にすると簡単に言えそうですが、命からがらたすかった後の極限状態では、混乱しているのは当然です。しかも周囲にもたくさん困っている人がいる中で、「私より困っている人がいるのに、この程度のことでたすけてとは言えない」と思ってしまうのも無理はありません。
さらにその番組では、「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されることも要因の一つではないか？」と投げかけられ、生活保護を受けられるのに受けない人がいることなども、同じような問題ではないかと触れられていました。
テレビを観ながら、娘が通う特別支援学校のPTA会長をしていた頃に依頼され、「障害のある子供たちの『たすけてもらう力』を育む」というテーマで、教育委員会の機関誌に寄稿したことを思い出しました。
その内容は、「一般の小学校で、教育方針に『生きる力を育む』と掲げているのをよく目にします。でも、特別支援学校に通う児童・生徒の中には、食事や排泄など、生きるための必要最低限の行為にも人の手を借りなければならない子供が多いのです。彼ら彼女らが『生きる』には、『たすけてもらう』ことが欠かせないのです。だから、生きる力を育むことは、「たすけてもらう力を育む」こととも言えるのです」
大体こんな感じの内容でした。また、この時に「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されること」の弊害について言及したことも覚えています。
発達障害のある人は、あいまいな言葉のニュアンスを読み取ることが苦手です。「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」と声をかけたとしても、「その〝何か〟が何を指すのか分からない」となってしまうことがあります。
「お腹が空いてますか？」「夜眠れますか？」など、具体的に聞いてくれればイメージ出来るのですが、支援者や相談者が必ずしもそうした配慮をしてくれるとは限りませんし、すべての行為を例に挙げて聞いていくわけにもいきません。
災害時に限らず、障害のある人たちは日常からそうしたコミュニケーションによる弊害を抱えているのです。裏を返せば、障害のある人たちにも理解しやすいように、たすけてもらう力を引き出す問いかけが出来るなら、災害に直面した時にもスムーズなコミュニケーションが期待出来るのだと思います。
その番組を観た日の夕方、夕づとめで「おふでさき」を拝読し終えると、ふと、

　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　（十四 35）


というおうたが浮かびました。テレビで「たすける」「たすけられる」という言葉を耳にしていたせいかもしれません。
私たち天理教の「ようぼく」は、「つとめ」と「さづけ」の実践を通して、親神様のご守護、教祖のお働きを頂くことが使命です。この行いを私たちは「おたすけ」と呼びますが、人間をたすけるのは、あくまでも親神様のご守護であり、私たちようぼくはおたすけの主体ではありません。
言い換えると、私たちようぼくが行うおたすけとは、「親神様にたすけてもらうための手段を伝えることである」とも言えると思います。
敢えておたすけを先ほどの災害の例に重ねるならば、
「自助」は、おつとめやひのきしんを自らつとめること。
「共助」は、教会に運んで教理にふれたり、会長さんのお諭しを聞いたり、信者同士で研鑽を積むこと。
そして、その先に「公助」として親神様のご守護、教祖のお働きがあるのだと思います。
ですから、「たすけるもよふばかりをもてる」と仰る親神様のご守護を頂くために、私たちは自らおつとめやひのきしんに励み、教会に尽くし、運ぶことが大切なのだと、テレビの話題から改めて教えて頂いた気がします。
教祖140年祭のこの旬。「親神様にたすけてもらうための手段」を自ら実践し、広めていけるように心がけたいと思います。



手の使い方

神様が私たち人間にお与え下された身体の働きの中でも、手は特別に優れた器官です。実に器用で重宝で、何でもすることが出来ます。そして、そこに心を込めることで、その仕事がさらに生きてくるというのが肝心な点です。手作り、手当て、手料理、手縫い、手加減などの言葉は、いずれも心を込めて手を使っている姿を表しています。
教祖中山みき様「おやさま」は、幼少の頃から大変手先が器用で、月日のやしろとなられて後、五十歳を過ぎた頃からはお針の師匠をなされ、近所の子供たちに裁縫を教えられました。
明治十六年頃のこと。梶本ひささんは、ある晩、一寸角ほどのきれを縫い合わせて、袋を作ろうと、教祖の手ほどきを受けていました。そうして袋は出来上がったのですが、この袋に通す紐がありません。すると教祖が、「おひさや、あの鉋屑を取っておいで」と仰せられ、器用にそれを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下さいました。
教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へちょいちょいお越しになり、その度に、家の子や近所の子にお菓子を入れて持って来て下さったのです。（教祖伝逸話篇124「鉋屑の紐」）
また、そのように器用に手先を使われることは、監獄署に拘留されている時でも変わることなく、不要な紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。
そして、お供の者にそれをお渡しになり、「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ」と仰せられました。（教祖伝逸話篇138「物は大切に」）
どれだけ手に心を込めているかは、ほんのちょっとした動作にも表れるものです。教祖は、お屋敷にいる者に糸紡ぎの用事を出した時、その出来上がったものを三度押し戴かれるなど、そのお手はいつでも心と共にありました。
そして、よろづたすけの手立てとして教えられた「おつとめ」の手振りに関しては、しっかりと手に心を込めるように、特に厳しくお諭し下されています。
「つとめに、手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃしているからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで」（教祖伝 第五章 たすけづとめ）
普段からいかに心を込めて、大事に手を使わせて頂いているか。それが、「命の切換」とまで言われるおつとめのつとめ方にも、大いに関わってくると言えるのではないでしょうか。
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        <pubDate>Fri, 28 Nov 2025 09:24:02 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>たすかるとは？ リキゾウさんとの日々</title>
        <description><![CDATA[たすかるとは？ リキゾウさんとの日々
千葉県在住　　中臺　眞治

今から5年前、長年一緒に暮らしたリキゾウさんが78歳で出直しました。リキゾウさんは「信仰によってたすかっていく」とはどういうことかを私に考えさせ、教えてくれた方でした。今日はその日々について振り返ってみたいと思います。
昭和18年、戦争中にリキゾウさんは生まれました。中学を卒業後は印刷会社を転々としながら働いていましたが、50歳の頃、借金が重なり、消費者金融の取り立てが厳しくなって恐怖を感じるようになり、その状況から逃れるためにホームレスになりました。
10年ほどホームレス生活をしていたそうですが、当時、報徳分教会長を務めていた父に声をかけられ教会で暮らすようになりました。6年ほど働きながら報徳分教会で過ごし、その間に４度、おぢばで三か月間教えを学ぶ修養科へ行きました。何度も修養科へ行ったおかげか、出直して5年経った今でも色んな方から「リキゾウさん元気にしてる？」と声をかけられます。
私とリキゾウさんの最初の出会いは20年ほど前で、父からの電話がきっかけでした。「住み込みさんがお酒を飲み過ぎて警察署に保護されているみたいだから、迎えに行ってきてくれないか」とのことで、早速、車で署に向かいました。
到着後、警察の方々にお詫びをしながらリキゾウさんを車に乗せて帰ったのですが、車内でおしっこをしてしまいました。私は「あちゃー」と思い、帰宅後、洗車をしながら「次、迎えに行く時は絶対ビニールシートを座席に敷いておこう」と、固く決意したのを覚えています。
リキゾウさんはお酒が大好きな方で、何か気に入らないことがあると近くの公園に行き、そこで出会った仲間と酒盛りをしては数日帰って来なくなり、警察に保護されることも度々でした。しかし義理堅いところがあり、どこか憎めない昭和の男性でした。
元々は身体の丈夫な方でしたが、長年の不摂生がたたったのか、身体のあちこちが不自由になり、64歳の時、父と相談の上、ゆっくり過ごせる場所の方が良いだろうということで、千葉県にある私共の教会でお預かりすることになりました。
一緒に暮らし始めてからのリキゾウさんは、なぜかいつも怒っていました。他の住み込みさんに当たったり、物に当たったり。
扉の開け閉めもあまりに強く行うために、ドアが二か所壊れてしまったこともありました。私はその怒りの意味が分からず、リキゾウさんの言動を改めさせようと毎日何度も注意をしたのですが、状況が変わることはありませんでした。当時の私は、どうしたら相手を変えられるかということばかり考えていました。
そんなリキゾウさんも、月に一度だけ上機嫌になる時がありました。それは、元々暮らしていた報徳分教会の月次祭に行った時でした。到着して少しすると、リキゾウさんはフラッといなくなります。近くの公園にいる飲み仲間に会いに行くのです。そして何杯かごちそうになり、私たちが帰る時間になると戻ってきて、一緒に車で帰るというのがいつものパターンでした。
帰りの車中はずっと上機嫌で色んな話を聞かせてくれていたので、私は心の中で「いつもこのぐらい機嫌良くしてくれたらいいのにな」と思っていました。
リキゾウさんはお酒を飲めば上機嫌になるというわけではなく、教会で飲んでも不機嫌な状態は変わりません。今思えば、公園の飲み仲間とのつながりが、リキゾウさんにとって大切な意味を持っていたのだと思います。
余生をゆっくり過ごすために当教会に引っ越したわけですが、同時にそれはリキゾウさんにとっての大切なつながりを奪ってしまうことでもあったのだと、当時気がついてあげられなかったことを申し訳なく感じています。
リキゾウさんは他の住み込みさんとは一切会話をしない人でしたが、私と二人きりの時は色々と話をしてくれる人でした。その中で度々口にしていたのが、「自分は生きている価値のない人間なんだ」という苦しい言葉でした。その都度、私は神様の親心について話をしたのですが、「神様なんていないよ」と返してくるリキゾウさんに届く言葉はありませんでした。
そんなある日、リキゾウさんは倒れ、救急車で運ばれたのです。脳梗塞でした。幸い一命は取り留めたものの、歩くこともしゃべることも出来なくなってしまいました。
私は何とか元のような状態にご守護を頂きたくて、毎日入院している病院へおさづけに通いましたが、容態は変わりませんでした。それから二週間ほど経った頃、看護師さんから「病院として出来る治療はここまでですので、退院の準備を進めてください」と言われました。
治療はして頂きましたが、リキゾウさんは寝たきりで起き上がることが出来ず、口はろれつが回らず、なかなか言葉を聞き取れない状況でした。
一番不安なのはリキゾウさん本人のはずですが、当時の私はそのようなリキゾウさんを教会で受け入れる覚悟が出来ず、父に電話で相談をしました。すると「とにかく明日おさづけを取り次ぎに行くから」と言って、翌日千葉の教会まで来てくれました。
おさづけの直前、父がリキゾウさんに「今、修養科に行かせてあげたい人が二人いるんだけど、二人ともお金がないから、代わりにその費用を出してあげてくれませんか？」と尋ねました。するとリキゾウさんは、うんうんと二回うなずき了承したのでした。
父がおさづけを取り次ぎ、少し話をして帰った後、私はリキゾウさんに「なんで費用を出してあげようと思ったの？」と尋ねました。その費用は、リキゾウさんの貯金からすればかなり大きな金額だったからです。するとリキゾウさんは声をふり絞って、「本当は自分がおぢばに帰りたいけど、もう帰れないから」と答えてくれました。
自分自身が苦しい中で、おぢばを思う気持ち。人のたすかりを願う気持ち。そのリキゾウさんの気持ちに私は感動しました。そして、これからどんな生活になってしまうのだろうかという不安でいっぱいでしたが、病院からの帰り道で父に電話をし、「できるところまでリキゾウさんの介護をさせてもらおうと思う」と伝えました。
翌朝、病院から電話がかかってきました。「急に容態が良くなったので、家には戻らずリハビリ病院に転院しましょう」とのことでした。
驚いて病院に行くと、そこには元のように立って歩いているリキゾウさんがいました。しかも言葉も元通り話せるようになっていました。私は感激し、「神様だね」と伝えると、リキゾウさんは大きく何度もうなずきながらボロボロと涙していました。
その後、数カ月間のリハビリ病院での生活を経て、教会に帰ってきたのですが、教会に着いた途端に号泣。おぢばがえりをした際には、神殿を見ただけで号泣。私にとっても忘れられない思い出です。
退院後のリキゾウさんは、すっかり別人のように変わっていました。以前のように腹を立てる姿はなく、「ありがとうございます」とお礼を言ったり、「どうもすいません」と相手を思いやる言葉を使うようになりました。私が神様の親心について話をすると、いつも大きくうなずきながら涙する、涙もろくて穏やかなおじいちゃんに変わっていったのでした。
以前のリキゾウさんは、とても苦しい人生を生きてきたせいか、「神様なんていない」と空しく語る人でした。
ですが、病と不思議なご守護を通して、「この世は神様の慈愛に満ちている」と感じるようになり、その思いに心が満たされていったのだと思います。
リキゾウさんは5年前、78歳で出直しましたが、生まれ変わったリキゾウさんとどこかで出会い、また一緒に一杯飲みたいな、と願う今日この頃です。



調和とバランス

私たちが生きていく上で必要不可欠なことは、何ごとによらずバランスを保つことです。
たとえば、健康に暮らすということは、身体の中の働きのバランスが、ほどよくとれているということですね。食べ物を体内に取り入れ、体内のあらゆる臓器がうまく機能して、取り入れたものをエネルギーにする。そのエネルギーを消費して、運動をしたり勉強をしたり、働いたりする。その出し入れのバランスがうまくとれている状態が、健康であることの証しです。
家庭で言えば、家族がお互い仲良くたすけ合い、支え合って暮らすのが、まさしく健康的な家庭、調和の保たれたバランスのよい家庭です。
そして生きていく上で大切なのは、目に見えるものと、目に見えないものとのバランスです。ところが私たちはややもすると、目に見えるもの、形あるものにしか価値を見いだせずに、目に見えない「心」や「精神」といったものを軽く見てしまいがちです。
それはひと言で言えば、「自分さえ良かったら、今さえ良かったら」というエゴ・利己心からくるものです。しかし世の中の調和を保ち、また自分自身が幸せの道を歩むためには、自らのエゴを抑えて、人様のため、社会のためという選択肢を選ぶことが、バランスを保つために必要なことなのです。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、
　「人をたすけてわが身たすかる」
と教えてくださいました。
まさにこの教えこそ、調和とバランスの大切さを教えてくださっています。私たちが目指すべき「陽気ぐらし」の世界は、人をたすける精神がなければ成り立たない、ということであって、これが揺るぎない天の理だと思うのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>たすかるとは？ リキゾウさんとの日々
千葉県在住　　中臺　眞治

今から5年前、長年一緒に暮らしたリキゾウさんが78歳で出直しました。リキゾウさんは「信仰によってたすかっていく」とはどういうことかを私に考えさせ、教えてくれた方でした。今日はその日々について振り返ってみたいと思います。
昭和18年、戦争中にリキゾウさんは生まれました。中学を卒業後は印刷会社を転々としながら働いていましたが、50歳の頃、借金が重なり、消費者金融の取り立てが厳しくなって恐怖を感じるようになり、その状況から逃れるためにホームレスになりました。
10年ほどホームレス生活をしていたそうですが、当時、報徳分教会長を務めていた父に声をかけられ教会で暮らすようになりました。6年ほど働きながら報徳分教会で過ごし、その間に４度、おぢばで三か月間教えを学ぶ修養科へ行きました。何度も修養科へ行ったおかげか、出直して5年経った今でも色んな方から「リキゾウさん元気にしてる？」と声をかけられます。
私とリキゾウさんの最初の出会いは20年ほど前で、父からの電話がきっかけでした。「住み込みさんがお酒を飲み過ぎて警察署に保護されているみたいだから、迎えに行ってきてくれないか」とのことで、早速、車で署に向かいました。
到着後、警察の方々にお詫びをしながらリキゾウさんを車に乗せて帰ったのですが、車内でおしっこをしてしまいました。私は「あちゃー」と思い、帰宅後、洗車をしながら「次、迎えに行く時は絶対ビニールシートを座席に敷いておこう」と、固く決意したのを覚えています。
リキゾウさんはお酒が大好きな方で、何か気に入らないことがあると近くの公園に行き、そこで出会った仲間と酒盛りをしては数日帰って来なくなり、警察に保護されることも度々でした。しかし義理堅いところがあり、どこか憎めない昭和の男性でした。
元々は身体の丈夫な方でしたが、長年の不摂生がたたったのか、身体のあちこちが不自由になり、64歳の時、父と相談の上、ゆっくり過ごせる場所の方が良いだろうということで、千葉県にある私共の教会でお預かりすることになりました。
一緒に暮らし始めてからのリキゾウさんは、なぜかいつも怒っていました。他の住み込みさんに当たったり、物に当たったり。
扉の開け閉めもあまりに強く行うために、ドアが二か所壊れてしまったこともありました。私はその怒りの意味が分からず、リキゾウさんの言動を改めさせようと毎日何度も注意をしたのですが、状況が変わることはありませんでした。当時の私は、どうしたら相手を変えられるかということばかり考えていました。
そんなリキゾウさんも、月に一度だけ上機嫌になる時がありました。それは、元々暮らしていた報徳分教会の月次祭に行った時でした。到着して少しすると、リキゾウさんはフラッといなくなります。近くの公園にいる飲み仲間に会いに行くのです。そして何杯かごちそうになり、私たちが帰る時間になると戻ってきて、一緒に車で帰るというのがいつものパターンでした。
帰りの車中はずっと上機嫌で色んな話を聞かせてくれていたので、私は心の中で「いつもこのぐらい機嫌良くしてくれたらいいのにな」と思っていました。
リキゾウさんはお酒を飲めば上機嫌になるというわけではなく、教会で飲んでも不機嫌な状態は変わりません。今思えば、公園の飲み仲間とのつながりが、リキゾウさんにとって大切な意味を持っていたのだと思います。
余生をゆっくり過ごすために当教会に引っ越したわけですが、同時にそれはリキゾウさんにとっての大切なつながりを奪ってしまうことでもあったのだと、当時気がついてあげられなかったことを申し訳なく感じています。
リキゾウさんは他の住み込みさんとは一切会話をしない人でしたが、私と二人きりの時は色々と話をしてくれる人でした。その中で度々口にしていたのが、「自分は生きている価値のない人間なんだ」という苦しい言葉でした。その都度、私は神様の親心について話をしたのですが、「神様なんていないよ」と返してくるリキゾウさんに届く言葉はありませんでした。
そんなある日、リキゾウさんは倒れ、救急車で運ばれたのです。脳梗塞でした。幸い一命は取り留めたものの、歩くこともしゃべることも出来なくなってしまいました。
私は何とか元のような状態にご守護を頂きたくて、毎日入院している病院へおさづけに通いましたが、容態は変わりませんでした。それから二週間ほど経った頃、看護師さんから「病院として出来る治療はここまでですので、退院の準備を進めてください」と言われました。
治療はして頂きましたが、リキゾウさんは寝たきりで起き上がることが出来ず、口はろれつが回らず、なかなか言葉を聞き取れない状況でした。
一番不安なのはリキゾウさん本人のはずですが、当時の私はそのようなリキゾウさんを教会で受け入れる覚悟が出来ず、父に電話で相談をしました。すると「とにかく明日おさづけを取り次ぎに行くから」と言って、翌日千葉の教会まで来てくれました。
おさづけの直前、父がリキゾウさんに「今、修養科に行かせてあげたい人が二人いるんだけど、二人ともお金がないから、代わりにその費用を出してあげてくれませんか？」と尋ねました。するとリキゾウさんは、うんうんと二回うなずき了承したのでした。
父がおさづけを取り次ぎ、少し話をして帰った後、私はリキゾウさんに「なんで費用を出してあげようと思ったの？」と尋ねました。その費用は、リキゾウさんの貯金からすればかなり大きな金額だったからです。するとリキゾウさんは声をふり絞って、「本当は自分がおぢばに帰りたいけど、もう帰れないから」と答えてくれました。
自分自身が苦しい中で、おぢばを思う気持ち。人のたすかりを願う気持ち。そのリキゾウさんの気持ちに私は感動しました。そして、これからどんな生活になってしまうのだろうかという不安でいっぱいでしたが、病院からの帰り道で父に電話をし、「できるところまでリキゾウさんの介護をさせてもらおうと思う」と伝えました。
翌朝、病院から電話がかかってきました。「急に容態が良くなったので、家には戻らずリハビリ病院に転院しましょう」とのことでした。
驚いて病院に行くと、そこには元のように立って歩いているリキゾウさんがいました。しかも言葉も元通り話せるようになっていました。私は感激し、「神様だね」と伝えると、リキゾウさんは大きく何度もうなずきながらボロボロと涙していました。
その後、数カ月間のリハビリ病院での生活を経て、教会に帰ってきたのですが、教会に着いた途端に号泣。おぢばがえりをした際には、神殿を見ただけで号泣。私にとっても忘れられない思い出です。
退院後のリキゾウさんは、すっかり別人のように変わっていました。以前のように腹を立てる姿はなく、「ありがとうございます」とお礼を言ったり、「どうもすいません」と相手を思いやる言葉を使うようになりました。私が神様の親心について話をすると、いつも大きくうなずきながら涙する、涙もろくて穏やかなおじいちゃんに変わっていったのでした。
以前のリキゾウさんは、とても苦しい人生を生きてきたせいか、「神様なんていない」と空しく語る人でした。
ですが、病と不思議なご守護を通して、「この世は神様の慈愛に満ちている」と感じるようになり、その思いに心が満たされていったのだと思います。
リキゾウさんは5年前、78歳で出直しましたが、生まれ変わったリキゾウさんとどこかで出会い、また一緒に一杯飲みたいな、と願う今日この頃です。



調和とバランス

私たちが生きていく上で必要不可欠なことは、何ごとによらずバランスを保つことです。
たとえば、健康に暮らすということは、身体の中の働きのバランスが、ほどよくとれているということですね。食べ物を体内に取り入れ、体内のあらゆる臓器がうまく機能して、取り入れたものをエネルギーにする。そのエネルギーを消費して、運動をしたり勉強をしたり、働いたりする。その出し入れのバランスがうまくとれている状態が、健康であることの証しです。
家庭で言えば、家族がお互い仲良くたすけ合い、支え合って暮らすのが、まさしく健康的な家庭、調和の保たれたバランスのよい家庭です。
そして生きていく上で大切なのは、目に見えるものと、目に見えないものとのバランスです。ところが私たちはややもすると、目に見えるもの、形あるものにしか価値を見いだせずに、目に見えない「心」や「精神」といったものを軽く見てしまいがちです。
それはひと言で言えば、「自分さえ良かったら、今さえ良かったら」というエゴ・利己心からくるものです。しかし世の中の調和を保ち、また自分自身が幸せの道を歩むためには、自らのエゴを抑えて、人様のため、社会のためという選択肢を選ぶことが、バランスを保つために必要なことなのです。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、
　「人をたすけてわが身たすかる」
と教えてくださいました。
まさにこの教えこそ、調和とバランスの大切さを教えてくださっています。私たちが目指すべき「陽気ぐらし」の世界は、人をたすける精神がなければ成り立たない、ということであって、これが揺るぎない天の理だと思うのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>たすかるとは？ リキゾウさんとの日々
千葉県在住　　中臺　眞治

今から5年前、長年一緒に暮らしたリキゾウさんが78歳で出直しました。リキゾウさんは「信仰によってたすかっていく」とはどういうことかを私に考えさせ、教えてくれた方でした。今日はその日々について振り返ってみたいと思います。
昭和18年、戦争中にリキゾウさんは生まれました。中学を卒業後は印刷会社を転々としながら働いていましたが、50歳の頃、借金が重なり、消費者金融の取り立てが厳しくなって恐怖を感じるようになり、その状況から逃れるためにホームレスになりました。
10年ほどホームレス生活をしていたそうですが、当時、報徳分教会長を務めていた父に声をかけられ教会で暮らすようになりました。6年ほど働きながら報徳分教会で過ごし、その間に４度、おぢばで三か月間教えを学ぶ修養科へ行きました。何度も修養科へ行ったおかげか、出直して5年経った今でも色んな方から「リキゾウさん元気にしてる？」と声をかけられます。
私とリキゾウさんの最初の出会いは20年ほど前で、父からの電話がきっかけでした。「住み込みさんがお酒を飲み過ぎて警察署に保護されているみたいだから、迎えに行ってきてくれないか」とのことで、早速、車で署に向かいました。
到着後、警察の方々にお詫びをしながらリキゾウさんを車に乗せて帰ったのですが、車内でおしっこをしてしまいました。私は「あちゃー」と思い、帰宅後、洗車をしながら「次、迎えに行く時は絶対ビニールシートを座席に敷いておこう」と、固く決意したのを覚えています。
リキゾウさんはお酒が大好きな方で、何か気に入らないことがあると近くの公園に行き、そこで出会った仲間と酒盛りをしては数日帰って来なくなり、警察に保護されることも度々でした。しかし義理堅いところがあり、どこか憎めない昭和の男性でした。
元々は身体の丈夫な方でしたが、長年の不摂生がたたったのか、身体のあちこちが不自由になり、64歳の時、父と相談の上、ゆっくり過ごせる場所の方が良いだろうということで、千葉県にある私共の教会でお預かりすることになりました。
一緒に暮らし始めてからのリキゾウさんは、なぜかいつも怒っていました。他の住み込みさんに当たったり、物に当たったり。
扉の開け閉めもあまりに強く行うために、ドアが二か所壊れてしまったこともありました。私はその怒りの意味が分からず、リキゾウさんの言動を改めさせようと毎日何度も注意をしたのですが、状況が変わることはありませんでした。当時の私は、どうしたら相手を変えられるかということばかり考えていました。
そんなリキゾウさんも、月に一度だけ上機嫌になる時がありました。それは、元々暮らしていた報徳分教会の月次祭に行った時でした。到着して少しすると、リキゾウさんはフラッといなくなります。近くの公園にいる飲み仲間に会いに行くのです。そして何杯かごちそうになり、私たちが帰る時間になると戻ってきて、一緒に車で帰るというのがいつものパターンでした。
帰りの車中はずっと上機嫌で色んな話を聞かせてくれていたので、私は心の中で「いつもこのぐらい機嫌良くしてくれたらいいのにな」と思っていました。
リキゾウさんはお酒を飲めば上機嫌になるというわけではなく、教会で飲んでも不機嫌な状態は変わりません。今思えば、公園の飲み仲間とのつながりが、リキゾウさんにとって大切な意味を持っていたのだと思います。
余生をゆっくり過ごすために当教会に引っ越したわけですが、同時にそれはリキゾウさんにとっての大切なつながりを奪ってしまうことでもあったのだと、当時気がついてあげられなかったことを申し訳なく感じています。
リキゾウさんは他の住み込みさんとは一切会話をしない人でしたが、私と二人きりの時は色々と話をしてくれる人でした。その中で度々口にしていたのが、「自分は生きている価値のない人間なんだ」という苦しい言葉でした。その都度、私は神様の親心について話をしたのですが、「神様なんていないよ」と返してくるリキゾウさんに届く言葉はありませんでした。
そんなある日、リキゾウさんは倒れ、救急車で運ばれたのです。脳梗塞でした。幸い一命は取り留めたものの、歩くこともしゃべることも出来なくなってしまいました。
私は何とか元のような状態にご守護を頂きたくて、毎日入院している病院へおさづけに通いましたが、容態は変わりませんでした。それから二週間ほど経った頃、看護師さんから「病院として出来る治療はここまでですので、退院の準備を進めてください」と言われました。
治療はして頂きましたが、リキゾウさんは寝たきりで起き上がることが出来ず、口はろれつが回らず、なかなか言葉を聞き取れない状況でした。
一番不安なのはリキゾウさん本人のはずですが、当時の私はそのようなリキゾウさんを教会で受け入れる覚悟が出来ず、父に電話で相談をしました。すると「とにかく明日おさづけを取り次ぎに行くから」と言って、翌日千葉の教会まで来てくれました。
おさづけの直前、父がリキゾウさんに「今、修養科に行かせてあげたい人が二人いるんだけど、二人ともお金がないから、代わりにその費用を出してあげてくれませんか？」と尋ねました。するとリキゾウさんは、うんうんと二回うなずき了承したのでした。
父がおさづけを取り次ぎ、少し話をして帰った後、私はリキゾウさんに「なんで費用を出してあげようと思ったの？」と尋ねました。その費用は、リキゾウさんの貯金からすればかなり大きな金額だったからです。するとリキゾウさんは声をふり絞って、「本当は自分がおぢばに帰りたいけど、もう帰れないから」と答えてくれました。
自分自身が苦しい中で、おぢばを思う気持ち。人のたすかりを願う気持ち。そのリキゾウさんの気持ちに私は感動しました。そして、これからどんな生活になってしまうのだろうかという不安でいっぱいでしたが、病院からの帰り道で父に電話をし、「できるところまでリキゾウさんの介護をさせてもらおうと思う」と伝えました。
翌朝、病院から電話がかかってきました。「急に容態が良くなったので、家には戻らずリハビリ病院に転院しましょう」とのことでした。
驚いて病院に行くと、そこには元のように立って歩いているリキゾウさんがいました。しかも言葉も元通り話せるようになっていました。私は感激し、「神様だね」と伝えると、リキゾウさんは大きく何度もうなずきながらボロボロと涙していました。
その後、数カ月間のリハビリ病院での生活を経て、教会に帰ってきたのですが、教会に着いた途端に号泣。おぢばがえりをした際には、神殿を見ただけで号泣。私にとっても忘れられない思い出です。
退院後のリキゾウさんは、すっかり別人のように変わっていました。以前のように腹を立てる姿はなく、「ありがとうございます」とお礼を言ったり、「どうもすいません」と相手を思いやる言葉を使うようになりました。私が神様の親心について話をすると、いつも大きくうなずきながら涙する、涙もろくて穏やかなおじいちゃんに変わっていったのでした。
以前のリキゾウさんは、とても苦しい人生を生きてきたせいか、「神様なんていない」と空しく語る人でした。
ですが、病と不思議なご守護を通して、「この世は神様の慈愛に満ちている」と感じるようになり、その思いに心が満たされていったのだと思います。
リキゾウさんは5年前、78歳で出直しましたが、生まれ変わったリキゾウさんとどこかで出会い、また一緒に一杯飲みたいな、と願う今日この頃です。



調和とバランス

私たちが生きていく上で必要不可欠なことは、何ごとによらずバランスを保つことです。
たとえば、健康に暮らすということは、身体の中の働きのバランスが、ほどよくとれているということですね。食べ物を体内に取り入れ、体内のあらゆる臓器がうまく機能して、取り入れたものをエネルギーにする。そのエネルギーを消費して、運動をしたり勉強をしたり、働いたりする。その出し入れのバランスがうまくとれている状態が、健康であることの証しです。
家庭で言えば、家族がお互い仲良くたすけ合い、支え合って暮らすのが、まさしく健康的な家庭、調和の保たれたバランスのよい家庭です。
そして生きていく上で大切なのは、目に見えるものと、目に見えないものとのバランスです。ところが私たちはややもすると、目に見えるもの、形あるものにしか価値を見いだせずに、目に見えない「心」や「精神」といったものを軽く見てしまいがちです。
それはひと言で言えば、「自分さえ良かったら、今さえ良かったら」というエゴ・利己心からくるものです。しかし世の中の調和を保ち、また自分自身が幸せの道を歩むためには、自らのエゴを抑えて、人様のため、社会のためという選択肢を選ぶことが、バランスを保つために必要なことなのです。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、
　「人をたすけてわが身たすかる」
と教えてくださいました。
まさにこの教えこそ、調和とバランスの大切さを教えてくださっています。私たちが目指すべき「陽気ぐらし」の世界は、人をたすける精神がなければ成り立たない、ということであって、これが揺るぎない天の理だと思うのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 21 Nov 2025 09:24:44 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>心の姿勢を正そう</title>
        <description><![CDATA[心の姿勢を正そう
東京都在住　　松村　登美和

先日ネットで、お盆の帰省ラッシュの折、新幹線で起きた出来事の記事を見ました。それは、投稿主の女性が自分の購入した指定席へ行くと、40代ぐらいの男性が座っていた、という内容でした。
女性は自分の切符を確認し、間違いがないことを確かめてから、男性に「席をお間違いではないですか」と尋ねました。すると男性は「いや、間違っていない。ここで合っている」と言って動こうとしない。男性の身なりがしっかりしていて、自信たっぷりだったことから、自分が間違っているのだろうかと、女性は何度も自分の切符を見直したそうです。
すると近くの乗客が声をかけてきて、女性の切符を一緒に確認してくれました。そして「この席で合っていますね」と言って、座っている男性に「一度切符を確認してください」とお願いをしてくれたとのことです。男性は渋々、切符と座席ナンバーを見比べて確認をしたのですが、やはり「間違っていない。この席で合っている」と答えました。
その乗客が「よろしかったら切符を見せて下さい」と男性に丁寧に声をかけたのですが、男性は「この席で合っている」と言って取り合ってくれません。男性が悠然としている様子を見て、女性は「もしかしたらダブルブッキングなのかな」とも考えたそうです。
ちょうどそこに車掌さんが通りかかりました。事情を話して、車掌さんが男性の切符を確認すると、果たして男性のチケットは隣の車両の同じ番号の席だったのです。男性は恥ずかしそうにそそくさと席を移動した、という話題でした。
記事を読んだ限り、男性は分かっていてわざと席を譲らなかったのではなく、自分は間違っていないと、最後まで思い込んでいたのだろうと思います。この手の座席トラブルはよくある話なのでしょうが、同時に他人事ではないな、と感じました。
自分は正しい、自分は間違っていない、自分はちゃんとやっている。家庭生活でも、仕事中でも、私もそう思っている場面があります。正確に言えば「思い込んでいる場面」です。
しかし、そうした思い込みは、家族間の擦れ合いや、仕事仲間との軋轢を起こす原因になります。それは自分にとっても周りの人にとっても、あまり良いことではありません。
人間は神様ではありませんから、当然、間違っていることも往々にしてあるはずです。
人間同士が互いに気持ちよく生きていくためには、「自分の考えは間違っているのかもしれない」「相手が言っていることの方が正しいのかもしれない」と考えることが必要なのではないでしょうか。では、そうした考え方を身につけるには、どうすれば良いのでしょう。
以前私は、背中に痛みが出て整骨院に通っていました。その折、先生は私を診察台に横たわらせて、「身体を真っ直ぐにしてみてください」と言いました。私が身体を真っ直ぐにすると、「そうですか、それが松村さんの真っ直ぐなんですね。じゃあ、これはどんな感じですか？」と、腰と足首を移動させられました。私は足が左側に捻じれて、何か気持ち悪い感じがしたのですが、先生は「これで身体は真っ直ぐなんですよ」と教えてくれました。
そして、「今度は立ってください。真っ直ぐ立って。いいですか？ では鏡を持ってきますね」と言って、真っ直ぐ立った私の前に姿見を持ってきました。鏡を見ると、直立しているつもりの私の身体は、ちょっと左に傾いていました。
先生は「ね、身体が歪んでいるんですよ。自分では真っ直ぐなつもりでも、長年の癖でこうなるんです。普段から気を付けて、鏡やガラスを見て、姿勢を真っ直ぐするようにしてください」とアドバイスを頂きました。
天理教の教祖、中山みき様「おやさま」は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下さいました。
人は、身体だけでなく、心も長い年月の間に癖がついてしまいます。身体は、例えばいつも同じ向きで足を組んでいると、その癖がついてしまう。心も、いつも同じ使い方をしていると、気づかないうちにその心の使い方が標準になって、他の考え方が出来にくくなる。切符の間違いに気づかないのは、自分は常に正しいという心の使い方が染みついた結果、と言えるかもしれません。
また、教祖はある日、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と、仰ったことがあります。
伊蔵さんというのは、後に親神様のお言葉を伝える立場になられた、飯降伊蔵という方です。伊蔵さんは大工を生業としていたので、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を作りました。すると教祖は「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と仰せられ、続いて「隙がありませんか」と、仰せになりました。
伊蔵さんが定規にあててみると、果たして隙があります。「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下されたというお話です。（教祖伝逸話篇 31「天の定規」）
人間の目では真っ直ぐだと思っていることでも、神様から見れば、必ず狂いがある。自分はいつも正しいと思っていても、神様から見ればそうではない。
自分の身体を鏡に映して姿勢を正すように、自分の考えが本当に正しいのか、親神様の教えに自分を照らし合わせて考えてみる。それができれば、人はお互いにもっと幸せになれるはずだと思います。



徳の器を広げる

日常の行動に、その人の癖・性分が現れるのは当然の営みです。例えば、地域のごみ出しの現場においても、その行動は実に十人十色。ごみ袋をポーンと投げるように置いていく人もいれば、後から来て、人が置いていった袋をきちんとネットに被せる人、回収された後にごみ捨て場を掃除する人など様々です。
よその家のごみ袋を整理したり、ごみ捨て場をきれいに掃除する人などは、まさに教祖が教えられた「見えない徳」を積んでいる姿だと言えるかも知れません。
『教祖伝逸話篇』に、次のような逸話があります。
「教祖が、ある時、山中こいそに、『目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、どちらやな』と、仰せになった。こいそは、『形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』と、お答え申し上げた」（教祖伝逸話篇 63「目に見えん徳」）
徳には「目に見える徳」と「目に見えない徳」があります。見える徳は物などの形として、あるいは現象を通して知ることができます。欲しい物が思いがけず手に入ったり、お店でサービスをしてもらったりすれば、誰でも得した気分になりますよね。
しかし、この逸話では、その時だけの見える得よりも、見えない「徳」を頂く方が余程ありがたいのだとお教え下さいます。
では見えない徳は、どうしたら積めるのか。それは、いつでもどこでも人様に喜ばれるように一生懸命努めることではないでしょうか。先の身近なごみ捨て場の行いもそうですが、たとえ人目にふれない目立たないようなことでも、心を込めて行うこと。そうすると神様は必ず見ておられますから、少しずつ徳を与えてくださいます。
そして、さらに徳の器を広げる方法は、教祖のお心を学ぶことです。
教祖は、立教当初「貧に落ち切る」道中を歩まれる中、娘さんの「お母さん、もう、お米はありません」との訴えに、
「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」
と諭されました。
教祖は、無かったらすぐに買っておいでとか、近所から頂いてきなさい、というようなことは一切仰いません。ただ親神様からのお与えを、深くひたすらに喜ばれたのでした。
無いことを嘆いたり、「あれが欲しい、これが欲しい」とむやみに求めたりせず、「与えを喜ばせて頂こう。これで結構、結構」こういう気持ちに心底切り替わることで、徳は増えていくのではないでしょうか。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>心の姿勢を正そう
東京都在住　　松村　登美和

先日ネットで、お盆の帰省ラッシュの折、新幹線で起きた出来事の記事を見ました。それは、投稿主の女性が自分の購入した指定席へ行くと、40代ぐらいの男性が座っていた、という内容でした。
女性は自分の切符を確認し、間違いがないことを確かめてから、男性に「席をお間違いではないですか」と尋ねました。すると男性は「いや、間違っていない。ここで合っている」と言って動こうとしない。男性の身なりがしっかりしていて、自信たっぷりだったことから、自分が間違っているのだろうかと、女性は何度も自分の切符を見直したそうです。
すると近くの乗客が声をかけてきて、女性の切符を一緒に確認してくれました。そして「この席で合っていますね」と言って、座っている男性に「一度切符を確認してください」とお願いをしてくれたとのことです。男性は渋々、切符と座席ナンバーを見比べて確認をしたのですが、やはり「間違っていない。この席で合っている」と答えました。
その乗客が「よろしかったら切符を見せて下さい」と男性に丁寧に声をかけたのですが、男性は「この席で合っている」と言って取り合ってくれません。男性が悠然としている様子を見て、女性は「もしかしたらダブルブッキングなのかな」とも考えたそうです。
ちょうどそこに車掌さんが通りかかりました。事情を話して、車掌さんが男性の切符を確認すると、果たして男性のチケットは隣の車両の同じ番号の席だったのです。男性は恥ずかしそうにそそくさと席を移動した、という話題でした。
記事を読んだ限り、男性は分かっていてわざと席を譲らなかったのではなく、自分は間違っていないと、最後まで思い込んでいたのだろうと思います。この手の座席トラブルはよくある話なのでしょうが、同時に他人事ではないな、と感じました。
自分は正しい、自分は間違っていない、自分はちゃんとやっている。家庭生活でも、仕事中でも、私もそう思っている場面があります。正確に言えば「思い込んでいる場面」です。
しかし、そうした思い込みは、家族間の擦れ合いや、仕事仲間との軋轢を起こす原因になります。それは自分にとっても周りの人にとっても、あまり良いことではありません。
人間は神様ではありませんから、当然、間違っていることも往々にしてあるはずです。
人間同士が互いに気持ちよく生きていくためには、「自分の考えは間違っているのかもしれない」「相手が言っていることの方が正しいのかもしれない」と考えることが必要なのではないでしょうか。では、そうした考え方を身につけるには、どうすれば良いのでしょう。
以前私は、背中に痛みが出て整骨院に通っていました。その折、先生は私を診察台に横たわらせて、「身体を真っ直ぐにしてみてください」と言いました。私が身体を真っ直ぐにすると、「そうですか、それが松村さんの真っ直ぐなんですね。じゃあ、これはどんな感じですか？」と、腰と足首を移動させられました。私は足が左側に捻じれて、何か気持ち悪い感じがしたのですが、先生は「これで身体は真っ直ぐなんですよ」と教えてくれました。
そして、「今度は立ってください。真っ直ぐ立って。いいですか？ では鏡を持ってきますね」と言って、真っ直ぐ立った私の前に姿見を持ってきました。鏡を見ると、直立しているつもりの私の身体は、ちょっと左に傾いていました。
先生は「ね、身体が歪んでいるんですよ。自分では真っ直ぐなつもりでも、長年の癖でこうなるんです。普段から気を付けて、鏡やガラスを見て、姿勢を真っ直ぐするようにしてください」とアドバイスを頂きました。
天理教の教祖、中山みき様「おやさま」は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下さいました。
人は、身体だけでなく、心も長い年月の間に癖がついてしまいます。身体は、例えばいつも同じ向きで足を組んでいると、その癖がついてしまう。心も、いつも同じ使い方をしていると、気づかないうちにその心の使い方が標準になって、他の考え方が出来にくくなる。切符の間違いに気づかないのは、自分は常に正しいという心の使い方が染みついた結果、と言えるかもしれません。
また、教祖はある日、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と、仰ったことがあります。
伊蔵さんというのは、後に親神様のお言葉を伝える立場になられた、飯降伊蔵という方です。伊蔵さんは大工を生業としていたので、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を作りました。すると教祖は「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と仰せられ、続いて「隙がありませんか」と、仰せになりました。
伊蔵さんが定規にあててみると、果たして隙があります。「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下されたというお話です。（教祖伝逸話篇 31「天の定規」）
人間の目では真っ直ぐだと思っていることでも、神様から見れば、必ず狂いがある。自分はいつも正しいと思っていても、神様から見ればそうではない。
自分の身体を鏡に映して姿勢を正すように、自分の考えが本当に正しいのか、親神様の教えに自分を照らし合わせて考えてみる。それができれば、人はお互いにもっと幸せになれるはずだと思います。



徳の器を広げる

日常の行動に、その人の癖・性分が現れるのは当然の営みです。例えば、地域のごみ出しの現場においても、その行動は実に十人十色。ごみ袋をポーンと投げるように置いていく人もいれば、後から来て、人が置いていった袋をきちんとネットに被せる人、回収された後にごみ捨て場を掃除する人など様々です。
よその家のごみ袋を整理したり、ごみ捨て場をきれいに掃除する人などは、まさに教祖が教えられた「見えない徳」を積んでいる姿だと言えるかも知れません。
『教祖伝逸話篇』に、次のような逸話があります。
「教祖が、ある時、山中こいそに、『目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、どちらやな』と、仰せになった。こいそは、『形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』と、お答え申し上げた」（教祖伝逸話篇 63「目に見えん徳」）
徳には「目に見える徳」と「目に見えない徳」があります。見える徳は物などの形として、あるいは現象を通して知ることができます。欲しい物が思いがけず手に入ったり、お店でサービスをしてもらったりすれば、誰でも得した気分になりますよね。
しかし、この逸話では、その時だけの見える得よりも、見えない「徳」を頂く方が余程ありがたいのだとお教え下さいます。
では見えない徳は、どうしたら積めるのか。それは、いつでもどこでも人様に喜ばれるように一生懸命努めることではないでしょうか。先の身近なごみ捨て場の行いもそうですが、たとえ人目にふれない目立たないようなことでも、心を込めて行うこと。そうすると神様は必ず見ておられますから、少しずつ徳を与えてくださいます。
そして、さらに徳の器を広げる方法は、教祖のお心を学ぶことです。
教祖は、立教当初「貧に落ち切る」道中を歩まれる中、娘さんの「お母さん、もう、お米はありません」との訴えに、
「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」
と諭されました。
教祖は、無かったらすぐに買っておいでとか、近所から頂いてきなさい、というようなことは一切仰いません。ただ親神様からのお与えを、深くひたすらに喜ばれたのでした。
無いことを嘆いたり、「あれが欲しい、これが欲しい」とむやみに求めたりせず、「与えを喜ばせて頂こう。これで結構、結構」こういう気持ちに心底切り替わることで、徳は増えていくのではないでしょうか。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>心の姿勢を正そう
東京都在住　　松村　登美和

先日ネットで、お盆の帰省ラッシュの折、新幹線で起きた出来事の記事を見ました。それは、投稿主の女性が自分の購入した指定席へ行くと、40代ぐらいの男性が座っていた、という内容でした。
女性は自分の切符を確認し、間違いがないことを確かめてから、男性に「席をお間違いではないですか」と尋ねました。すると男性は「いや、間違っていない。ここで合っている」と言って動こうとしない。男性の身なりがしっかりしていて、自信たっぷりだったことから、自分が間違っているのだろうかと、女性は何度も自分の切符を見直したそうです。
すると近くの乗客が声をかけてきて、女性の切符を一緒に確認してくれました。そして「この席で合っていますね」と言って、座っている男性に「一度切符を確認してください」とお願いをしてくれたとのことです。男性は渋々、切符と座席ナンバーを見比べて確認をしたのですが、やはり「間違っていない。この席で合っている」と答えました。
その乗客が「よろしかったら切符を見せて下さい」と男性に丁寧に声をかけたのですが、男性は「この席で合っている」と言って取り合ってくれません。男性が悠然としている様子を見て、女性は「もしかしたらダブルブッキングなのかな」とも考えたそうです。
ちょうどそこに車掌さんが通りかかりました。事情を話して、車掌さんが男性の切符を確認すると、果たして男性のチケットは隣の車両の同じ番号の席だったのです。男性は恥ずかしそうにそそくさと席を移動した、という話題でした。
記事を読んだ限り、男性は分かっていてわざと席を譲らなかったのではなく、自分は間違っていないと、最後まで思い込んでいたのだろうと思います。この手の座席トラブルはよくある話なのでしょうが、同時に他人事ではないな、と感じました。
自分は正しい、自分は間違っていない、自分はちゃんとやっている。家庭生活でも、仕事中でも、私もそう思っている場面があります。正確に言えば「思い込んでいる場面」です。
しかし、そうした思い込みは、家族間の擦れ合いや、仕事仲間との軋轢を起こす原因になります。それは自分にとっても周りの人にとっても、あまり良いことではありません。
人間は神様ではありませんから、当然、間違っていることも往々にしてあるはずです。
人間同士が互いに気持ちよく生きていくためには、「自分の考えは間違っているのかもしれない」「相手が言っていることの方が正しいのかもしれない」と考えることが必要なのではないでしょうか。では、そうした考え方を身につけるには、どうすれば良いのでしょう。
以前私は、背中に痛みが出て整骨院に通っていました。その折、先生は私を診察台に横たわらせて、「身体を真っ直ぐにしてみてください」と言いました。私が身体を真っ直ぐにすると、「そうですか、それが松村さんの真っ直ぐなんですね。じゃあ、これはどんな感じですか？」と、腰と足首を移動させられました。私は足が左側に捻じれて、何か気持ち悪い感じがしたのですが、先生は「これで身体は真っ直ぐなんですよ」と教えてくれました。
そして、「今度は立ってください。真っ直ぐ立って。いいですか？ では鏡を持ってきますね」と言って、真っ直ぐ立った私の前に姿見を持ってきました。鏡を見ると、直立しているつもりの私の身体は、ちょっと左に傾いていました。
先生は「ね、身体が歪んでいるんですよ。自分では真っ直ぐなつもりでも、長年の癖でこうなるんです。普段から気を付けて、鏡やガラスを見て、姿勢を真っ直ぐするようにしてください」とアドバイスを頂きました。
天理教の教祖、中山みき様「おやさま」は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下さいました。
人は、身体だけでなく、心も長い年月の間に癖がついてしまいます。身体は、例えばいつも同じ向きで足を組んでいると、その癖がついてしまう。心も、いつも同じ使い方をしていると、気づかないうちにその心の使い方が標準になって、他の考え方が出来にくくなる。切符の間違いに気づかないのは、自分は常に正しいという心の使い方が染みついた結果、と言えるかもしれません。
また、教祖はある日、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と、仰ったことがあります。
伊蔵さんというのは、後に親神様のお言葉を伝える立場になられた、飯降伊蔵という方です。伊蔵さんは大工を生業としていたので、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を作りました。すると教祖は「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と仰せられ、続いて「隙がありませんか」と、仰せになりました。
伊蔵さんが定規にあててみると、果たして隙があります。「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下されたというお話です。（教祖伝逸話篇 31「天の定規」）
人間の目では真っ直ぐだと思っていることでも、神様から見れば、必ず狂いがある。自分はいつも正しいと思っていても、神様から見ればそうではない。
自分の身体を鏡に映して姿勢を正すように、自分の考えが本当に正しいのか、親神様の教えに自分を照らし合わせて考えてみる。それができれば、人はお互いにもっと幸せになれるはずだと思います。



徳の器を広げる

日常の行動に、その人の癖・性分が現れるのは当然の営みです。例えば、地域のごみ出しの現場においても、その行動は実に十人十色。ごみ袋をポーンと投げるように置いていく人もいれば、後から来て、人が置いていった袋をきちんとネットに被せる人、回収された後にごみ捨て場を掃除する人など様々です。
よその家のごみ袋を整理したり、ごみ捨て場をきれいに掃除する人などは、まさに教祖が教えられた「見えない徳」を積んでいる姿だと言えるかも知れません。
『教祖伝逸話篇』に、次のような逸話があります。
「教祖が、ある時、山中こいそに、『目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、どちらやな』と、仰せになった。こいそは、『形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』と、お答え申し上げた」（教祖伝逸話篇 63「目に見えん徳」）
徳には「目に見える徳」と「目に見えない徳」があります。見える徳は物などの形として、あるいは現象を通して知ることができます。欲しい物が思いがけず手に入ったり、お店でサービスをしてもらったりすれば、誰でも得した気分になりますよね。
しかし、この逸話では、その時だけの見える得よりも、見えない「徳」を頂く方が余程ありがたいのだとお教え下さいます。
では見えない徳は、どうしたら積めるのか。それは、いつでもどこでも人様に喜ばれるように一生懸命努めることではないでしょうか。先の身近なごみ捨て場の行いもそうですが、たとえ人目にふれない目立たないようなことでも、心を込めて行うこと。そうすると神様は必ず見ておられますから、少しずつ徳を与えてくださいます。
そして、さらに徳の器を広げる方法は、教祖のお心を学ぶことです。
教祖は、立教当初「貧に落ち切る」道中を歩まれる中、娘さんの「お母さん、もう、お米はありません」との訴えに、
「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」
と諭されました。
教祖は、無かったらすぐに買っておいでとか、近所から頂いてきなさい、というようなことは一切仰いません。ただ親神様からのお与えを、深くひたすらに喜ばれたのでした。
無いことを嘆いたり、「あれが欲しい、これが欲しい」とむやみに求めたりせず、「与えを喜ばせて頂こう。これで結構、結構」こういう気持ちに心底切り替わることで、徳は増えていくのではないでしょうか。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 14 Nov 2025 09:23:27 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>「TENRI」文化を世界へ</title>
        <description><![CDATA[「TENRI」文化を世界へ
　　　　　　　　　　　　　フランス在住　　長谷川　善久

最近、私が住むフランスでも日本の移民政策について良く耳にする機会が増えました。これから日本社会が、話す言葉が必ずしも同じではない人々をどのように受け入れていくのか、興味深く見守っているところです。
私が日本人からよく受ける質問に、「フランス語は難しいですか？」というのがあります。私はいつも決まって一言だけ「難しいです」と答えるのですが、すると大概の人が「そうだろうな」と残念そうな表情をします。
そこで私はひと呼吸おいて、「けど、フランス人とコミュニケーションを取るのは楽なものですよ」と続けます。そして「日本人以外の人でも、嬉しい時には笑い、悲しい時には泣きますから」と、分かり切ったことを、あえて深い真理かのように伝えます。

ある研究によると、他者とのコミュニケーションで伝わることを全部で100％とすると、そのうち口から出る言葉自体が伝達できるのは、約10％だといいます。つまり、言葉の内容以外の表情、身振りや手振り、話し方や口調などが九割を占めるということになります。
実際私自身も、その割合はともかく、言語コミュニケーションの有効性に限りがあるという説には、経験からしても確かに一理あると思っています。
かくも人間関係とは、コミュニケーションに依存する度合いが高いのですが、その関係が良好であれば、人は他者に対する恐怖心が薄くなり、安心感、幸福感が高まります。その上で、海外生活において言語能力以上に大切だと思う点をあえて二つ挙げるなら、それは相手との違いに興味を持つこと。そして先入観を捨ててオープンに相手を理解しようとする姿勢です。

そこに教祖から教えて頂いている「誠真実」の実行があれば、たとえ外国人との間で、少々言葉による障壁や誤解などがあっても、全く恐れるには足りません。
天理教の『信者の栞』には、このようにあります。
「誠真実というは、たゞ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。そこで、たすけ一条とも、聞かせられます。互い立て合い、扶け合いが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、救かるように、心を働かしていかねばなりません」。
積極性をもった対人関係、人と自分を区別しない心。自己の利害や保身を捨て去った行動は、間違いなく言葉のやり取りを超えた万国共通の心のつながりをもたらしてくれます。

フランス・パリの中心地に、天理教本部によって設立された「天理日仏文化協会」があります。現地では利用者から「TENRI」と呼ばれ、親しまれている文化センターです。
現在は、活動の中心である日本語教育以外にも、日本の伝統文化や美術、音楽などの紹介もしており、年間の会員数は1000名を超え、民間の日本文化関連団体としては、フランスで最も知られている団体です。
この「TENRI」センターの運営は、現地の布教所長３名が中心となっており、20名を超える未信者の職員を抱えています。それに加えて現場実務の上で重要な役割を担う存在として、天理教本部の青年会、婦人会が実施する「海外日本語教師派遣プログラム」で、日本語教師として二年間派遣されてくる若者たちがいます。

授業は全て日本語で行われるものの、フランス語が決して上手ではない派遣生らは、授業外での学生との意志の疎通に苦心しているのが現状です。それでも不思議なことに、出張所で信仰生活をしながら文化協会で教師として勤める彼らのクラスでの評判は、いつの時代の派遣生もトップクラスなのです。
フランス語が上手く話せないことへの不安に対して、私がいつも彼らに話すことがあります。
「君たちはフランス語が上手く話せるわけではない。上手い人をうらやましいと思うかも知れない。しかし、言葉がよく出来ることが悪く作用することだってある。それは、言語能力が高ければ高いほど、自分の本心を隠して、相手をごまかすことが出来るという点だ。君たちは言葉が上手く話せないのだから、真実の心一つで対応するしかない。否が応でも心を磨かせてもらえる、こんなチャンスはないよ」。
日本にいれば言葉巧みにごまかせるようなことも、フランスではそれが出来ないのですから、精一杯心を尽くして誠実な対応をするしかないのです。

こうして、今まで味わったことのない環境に戸惑いながらも、彼らが自分自身の内面性について深く見つめ直し、心を鍛える努力を続けるうちに、人間として大きく成長していく姿をこれまで幾度も見てきました。不自由さに負けない努力を積んだ先で、自然と心に力がついていったのです。
また、外国で暮らしていると、それまで考えても見なかったことに気づかされることが多々あります。
例えば日本語の特性についてもそうです。ある時友人から、他人をけなしたり非難するフランス語の日本語訳を聞かれたことがありました。友人は次から次へとフランス語の単語を出してくるのですが、私の日本語訳は五つもすれば、あとは毎回同じものになってしまいました。日本語には、人を非難する語彙が少ないのです。
また、会社に勤めながら日本語を学んでいる女性に、「なぜ日本語を勉強しているのですか」と聞いたところ、「日本語で話をしている時の方が、普段フランス語で生活している自分よりも、穏やかで優しい人になれている気がするんです」と、全く予想もしない答えが返ってきたこともあります。
非難する言葉が少ないことや、話すだけで気持ちが優しくなるなど、日本語の新しい面が感じられ、誇らしく思いました。

天理教の教祖「おやさま」はいつどんな時も、子供に対しても、どのような人に対しても、いつも優しい言葉遣いであったと聞きます。日本語自体が持つ特性がどうあれ、私たちはいつ誰に対しても優しい言葉を投げかけ、自分の心にも優しさが満ちていくように努めたいものです。
ある日、文化協会の来館者の一人から、「TENRIセンターに入ると、何だか空気が澄んでいるような気がする」と言われたことがありました。不意な言葉にその場は聞き流してしまいましたが、後からじわじわと喜びが湧いてきました。
これからも天理日仏文化協会は、教内の理解と支援を頂きながら、もっともっと心に安らぎと優しさが湧きあがる「陽気ぐらしの場」であり続けたいと願っています。


だけど有難い「心の健康」

平成二十九年の総務省の発表によると、日本で九十歳以上の人が初めて二百万人を超えて二百六万人になったそうです。これはすごい数字ですね。いまから十三年前の平成十六年に、初めて百万人を超えました。それからわずか十三年で百万人増えて、ほぼ倍になったことになります。
さらに遡って昭和五十五年、いまから約四十年前に、九十歳以上の人がいったい何人いたと思いますか。わずか十二万人です。それがいまは二百六万人。ものすごい増え方だと思いませんか。私たちの世代からすると、生きている間の出来事です。その間に、十二万人が二百六万人になったのですから、すごい変化です。
平均寿命も延びて、厚生労働省の発表では、男性は約八十一歳、女性は八十七歳。どちらも世界第二位とのことです。第一位は両方とも香港ですが、人口が少ないですから、実質は日本が〝世界一〟と言えるでしょう。

しかし、喜んでばかりもいられません。寿命には「健康寿命」というものがあります。これは、健康で元気に暮らせる平均年齢です。日本人では男性七十一歳、女性七十四歳。ということは、単純に男性は平均寿命の八十一歳までの十年間、女性は八十七歳までの十三年間は、病気をしているという話です。つまり、長生きになったけれど、その分、病気をしている期間も長いということが言えそうです。
元気で長生き、これは結構です。病気で長生き、果たしてこれはどうなのか。九十歳以上の人が増えたといっても、そのなかには、ベッドの上でただ死ぬのを待っているような状態の人、大変な病気を抱えて長年苦しんでいる人、周りの人の介護のおかげでなんとか生きている人、あるいは体は元気だけれども、家族に先立たれ、友人や知人もみな先に逝ってしまい、孤独で嘆き悲しんでいる人など、さまざまな人がいると思います。ですから、二百六万人が九十歳を超えたのは確かにすごいことですが、必ずしも喜んでばかりはいられないのです。
二、三日前に、ガンの患者が百万人を超えたと発表がありました。同時に、日本人の二人に一人はガンになるとも述べられていました。九十歳以上の二百六万人のなかにも、ガンで苦しんでいる人はかなりいるのではないでしょうか。そう考えると、二百六万という数字は、表面上は幸せな数字であるけれど、悲しい数字も含まれているということになります。

私が今日お話ししたいのは、「心の健康」についてです。健康寿命というけれど、それは体の話です。一番大事なのは心の健康です。九十歳まで、いきいきとした心で生きているかどうか。実は、これが一番大事なのです。私たちは、どんななかも喜んで通ることのできる「陽気ぐらし」の心づかいを知っています。こんな有難いことはないのです。九十歳まで長生きする人が増えたといっても、それを「有難い」「結構や」と喜んで通っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。これには統計がありません。
有難いことに、私たちは、心いきいきと生活させていただける術を教えていただいている。そのことを、しっかり喜ばせていただいて、報恩感謝の実践に励ませていただきましょう。（終）]]></description>
        <googleplay:description>「TENRI」文化を世界へ
　　　　　　　　　　　　　フランス在住　　長谷川　善久

最近、私が住むフランスでも日本の移民政策について良く耳にする機会が増えました。これから日本社会が、話す言葉が必ずしも同じではない人々をどのように受け入れていくのか、興味深く見守っているところです。
私が日本人からよく受ける質問に、「フランス語は難しいですか？」というのがあります。私はいつも決まって一言だけ「難しいです」と答えるのですが、すると大概の人が「そうだろうな」と残念そうな表情をします。
そこで私はひと呼吸おいて、「けど、フランス人とコミュニケーションを取るのは楽なものですよ」と続けます。そして「日本人以外の人でも、嬉しい時には笑い、悲しい時には泣きますから」と、分かり切ったことを、あえて深い真理かのように伝えます。

ある研究によると、他者とのコミュニケーションで伝わることを全部で100％とすると、そのうち口から出る言葉自体が伝達できるのは、約10％だといいます。つまり、言葉の内容以外の表情、身振りや手振り、話し方や口調などが九割を占めるということになります。
実際私自身も、その割合はともかく、言語コミュニケーションの有効性に限りがあるという説には、経験からしても確かに一理あると思っています。
かくも人間関係とは、コミュニケーションに依存する度合いが高いのですが、その関係が良好であれば、人は他者に対する恐怖心が薄くなり、安心感、幸福感が高まります。その上で、海外生活において言語能力以上に大切だと思う点をあえて二つ挙げるなら、それは相手との違いに興味を持つこと。そして先入観を捨ててオープンに相手を理解しようとする姿勢です。

そこに教祖から教えて頂いている「誠真実」の実行があれば、たとえ外国人との間で、少々言葉による障壁や誤解などがあっても、全く恐れるには足りません。
天理教の『信者の栞』には、このようにあります。
「誠真実というは、たゞ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。そこで、たすけ一条とも、聞かせられます。互い立て合い、扶け合いが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、救かるように、心を働かしていかねばなりません」。
積極性をもった対人関係、人と自分を区別しない心。自己の利害や保身を捨て去った行動は、間違いなく言葉のやり取りを超えた万国共通の心のつながりをもたらしてくれます。

フランス・パリの中心地に、天理教本部によって設立された「天理日仏文化協会」があります。現地では利用者から「TENRI」と呼ばれ、親しまれている文化センターです。
現在は、活動の中心である日本語教育以外にも、日本の伝統文化や美術、音楽などの紹介もしており、年間の会員数は1000名を超え、民間の日本文化関連団体としては、フランスで最も知られている団体です。
この「TENRI」センターの運営は、現地の布教所長３名が中心となっており、20名を超える未信者の職員を抱えています。それに加えて現場実務の上で重要な役割を担う存在として、天理教本部の青年会、婦人会が実施する「海外日本語教師派遣プログラム」で、日本語教師として二年間派遣されてくる若者たちがいます。

授業は全て日本語で行われるものの、フランス語が決して上手ではない派遣生らは、授業外での学生との意志の疎通に苦心しているのが現状です。それでも不思議なことに、出張所で信仰生活をしながら文化協会で教師として勤める彼らのクラスでの評判は、いつの時代の派遣生もトップクラスなのです。
フランス語が上手く話せないことへの不安に対して、私がいつも彼らに話すことがあります。
「君たちはフランス語が上手く話せるわけではない。上手い人をうらやましいと思うかも知れない。しかし、言葉がよく出来ることが悪く作用することだってある。それは、言語能力が高ければ高いほど、自分の本心を隠して、相手をごまかすことが出来るという点だ。君たちは言葉が上手く話せないのだから、真実の心一つで対応するしかない。否が応でも心を磨かせてもらえる、こんなチャンスはないよ」。
日本にいれば言葉巧みにごまかせるようなことも、フランスではそれが出来ないのですから、精一杯心を尽くして誠実な対応をするしかないのです。

こうして、今まで味わったことのない環境に戸惑いながらも、彼らが自分自身の内面性について深く見つめ直し、心を鍛える努力を続けるうちに、人間として大きく成長していく姿をこれまで幾度も見てきました。不自由さに負けない努力を積んだ先で、自然と心に力がついていったのです。
また、外国で暮らしていると、それまで考えても見なかったことに気づかされることが多々あります。
例えば日本語の特性についてもそうです。ある時友人から、他人をけなしたり非難するフランス語の日本語訳を聞かれたことがありました。友人は次から次へとフランス語の単語を出してくるのですが、私の日本語訳は五つもすれば、あとは毎回同じものになってしまいました。日本語には、人を非難する語彙が少ないのです。
また、会社に勤めながら日本語を学んでいる女性に、「なぜ日本語を勉強しているのですか」と聞いたところ、「日本語で話をしている時の方が、普段フランス語で生活している自分よりも、穏やかで優しい人になれている気がするんです」と、全く予想もしない答えが返ってきたこともあります。
非難する言葉が少ないことや、話すだけで気持ちが優しくなるなど、日本語の新しい面が感じられ、誇らしく思いました。

天理教の教祖「おやさま」はいつどんな時も、子供に対しても、どのような人に対しても、いつも優しい言葉遣いであったと聞きます。日本語自体が持つ特性がどうあれ、私たちはいつ誰に対しても優しい言葉を投げかけ、自分の心にも優しさが満ちていくように努めたいものです。
ある日、文化協会の来館者の一人から、「TENRIセンターに入ると、何だか空気が澄んでいるような気がする」と言われたことがありました。不意な言葉にその場は聞き流してしまいましたが、後からじわじわと喜びが湧いてきました。
これからも天理日仏文化協会は、教内の理解と支援を頂きながら、もっともっと心に安らぎと優しさが湧きあがる「陽気ぐらしの場」であり続けたいと願っています。


だけど有難い「心の健康」

平成二十九年の総務省の発表によると、日本で九十歳以上の人が初めて二百万人を超えて二百六万人になったそうです。これはすごい数字ですね。いまから十三年前の平成十六年に、初めて百万人を超えました。それからわずか十三年で百万人増えて、ほぼ倍になったことになります。
さらに遡って昭和五十五年、いまから約四十年前に、九十歳以上の人がいったい何人いたと思いますか。わずか十二万人です。それがいまは二百六万人。ものすごい増え方だと思いませんか。私たちの世代からすると、生きている間の出来事です。その間に、十二万人が二百六万人になったのですから、すごい変化です。
平均寿命も延びて、厚生労働省の発表では、男性は約八十一歳、女性は八十七歳。どちらも世界第二位とのことです。第一位は両方とも香港ですが、人口が少ないですから、実質は日本が〝世界一〟と言えるでしょう。

しかし、喜んでばかりもいられません。寿命には「健康寿命」というものがあります。これは、健康で元気に暮らせる平均年齢です。日本人では男性七十一歳、女性七十四歳。ということは、単純に男性は平均寿命の八十一歳までの十年間、女性は八十七歳までの十三年間は、病気をしているという話です。つまり、長生きになったけれど、その分、病気をしている期間も長いということが言えそうです。
元気で長生き、これは結構です。病気で長生き、果たしてこれはどうなのか。九十歳以上の人が増えたといっても、そのなかには、ベッドの上でただ死ぬのを待っているような状態の人、大変な病気を抱えて長年苦しんでいる人、周りの人の介護のおかげでなんとか生きている人、あるいは体は元気だけれども、家族に先立たれ、友人や知人もみな先に逝ってしまい、孤独で嘆き悲しんでいる人など、さまざまな人がいると思います。ですから、二百六万人が九十歳を超えたのは確かにすごいことですが、必ずしも喜んでばかりはいられないのです。
二、三日前に、ガンの患者が百万人を超えたと発表がありました。同時に、日本人の二人に一人はガンになるとも述べられていました。九十歳以上の二百六万人のなかにも、ガンで苦しんでいる人はかなりいるのではないでしょうか。そう考えると、二百六万という数字は、表面上は幸せな数字であるけれど、悲しい数字も含まれているということになります。

私が今日お話ししたいのは、「心の健康」についてです。健康寿命というけれど、それは体の話です。一番大事なのは心の健康です。九十歳まで、いきいきとした心で生きているかどうか。実は、これが一番大事なのです。私たちは、どんななかも喜んで通ることのできる「陽気ぐらし」の心づかいを知っています。こんな有難いことはないのです。九十歳まで長生きする人が増えたといっても、それを「有難い」「結構や」と喜んで通っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。これには統計がありません。
有難いことに、私たちは、心いきいきと生活させていただける術を教えていただいている。そのことを、しっかり喜ばせていただいて、報恩感謝の実践に励ませていただきましょう。（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>「TENRI」文化を世界へ
　　　　　　　　　　　　　フランス在住　　長谷川　善久

最近、私が住むフランスでも日本の移民政策について良く耳にする機会が増えました。これから日本社会が、話す言葉が必ずしも同じではない人々をどのように受け入れていくのか、興味深く見守っているところです。
私が日本人からよく受ける質問に、「フランス語は難しいですか？」というのがあります。私はいつも決まって一言だけ「難しいです」と答えるのですが、すると大概の人が「そうだろうな」と残念そうな表情をします。
そこで私はひと呼吸おいて、「けど、フランス人とコミュニケーションを取るのは楽なものですよ」と続けます。そして「日本人以外の人でも、嬉しい時には笑い、悲しい時には泣きますから」と、分かり切ったことを、あえて深い真理かのように伝えます。

ある研究によると、他者とのコミュニケーションで伝わることを全部で100％とすると、そのうち口から出る言葉自体が伝達できるのは、約10％だといいます。つまり、言葉の内容以外の表情、身振りや手振り、話し方や口調などが九割を占めるということになります。
実際私自身も、その割合はともかく、言語コミュニケーションの有効性に限りがあるという説には、経験からしても確かに一理あると思っています。
かくも人間関係とは、コミュニケーションに依存する度合いが高いのですが、その関係が良好であれば、人は他者に対する恐怖心が薄くなり、安心感、幸福感が高まります。その上で、海外生活において言語能力以上に大切だと思う点をあえて二つ挙げるなら、それは相手との違いに興味を持つこと。そして先入観を捨ててオープンに相手を理解しようとする姿勢です。

そこに教祖から教えて頂いている「誠真実」の実行があれば、たとえ外国人との間で、少々言葉による障壁や誤解などがあっても、全く恐れるには足りません。
天理教の『信者の栞』には、このようにあります。
「誠真実というは、たゞ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。そこで、たすけ一条とも、聞かせられます。互い立て合い、扶け合いが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、救かるように、心を働かしていかねばなりません」。
積極性をもった対人関係、人と自分を区別しない心。自己の利害や保身を捨て去った行動は、間違いなく言葉のやり取りを超えた万国共通の心のつながりをもたらしてくれます。

フランス・パリの中心地に、天理教本部によって設立された「天理日仏文化協会」があります。現地では利用者から「TENRI」と呼ばれ、親しまれている文化センターです。
現在は、活動の中心である日本語教育以外にも、日本の伝統文化や美術、音楽などの紹介もしており、年間の会員数は1000名を超え、民間の日本文化関連団体としては、フランスで最も知られている団体です。
この「TENRI」センターの運営は、現地の布教所長３名が中心となっており、20名を超える未信者の職員を抱えています。それに加えて現場実務の上で重要な役割を担う存在として、天理教本部の青年会、婦人会が実施する「海外日本語教師派遣プログラム」で、日本語教師として二年間派遣されてくる若者たちがいます。

授業は全て日本語で行われるものの、フランス語が決して上手ではない派遣生らは、授業外での学生との意志の疎通に苦心しているのが現状です。それでも不思議なことに、出張所で信仰生活をしながら文化協会で教師として勤める彼らのクラスでの評判は、いつの時代の派遣生もトップクラスなのです。
フランス語が上手く話せないことへの不安に対して、私がいつも彼らに話すことがあります。
「君たちはフランス語が上手く話せるわけではない。上手い人をうらやましいと思うかも知れない。しかし、言葉がよく出来ることが悪く作用することだってある。それは、言語能力が高ければ高いほど、自分の本心を隠して、相手をごまかすことが出来るという点だ。君たちは言葉が上手く話せないのだから、真実の心一つで対応するしかない。否が応でも心を磨かせてもらえる、こんなチャンスはないよ」。
日本にいれば言葉巧みにごまかせるようなことも、フランスではそれが出来ないのですから、精一杯心を尽くして誠実な対応をするしかないのです。

こうして、今まで味わったことのない環境に戸惑いながらも、彼らが自分自身の内面性について深く見つめ直し、心を鍛える努力を続けるうちに、人間として大きく成長していく姿をこれまで幾度も見てきました。不自由さに負けない努力を積んだ先で、自然と心に力がついていったのです。
また、外国で暮らしていると、それまで考えても見なかったことに気づかされることが多々あります。
例えば日本語の特性についてもそうです。ある時友人から、他人をけなしたり非難するフランス語の日本語訳を聞かれたことがありました。友人は次から次へとフランス語の単語を出してくるのですが、私の日本語訳は五つもすれば、あとは毎回同じものになってしまいました。日本語には、人を非難する語彙が少ないのです。
また、会社に勤めながら日本語を学んでいる女性に、「なぜ日本語を勉強しているのですか」と聞いたところ、「日本語で話をしている時の方が、普段フランス語で生活している自分よりも、穏やかで優しい人になれている気がするんです」と、全く予想もしない答えが返ってきたこともあります。
非難する言葉が少ないことや、話すだけで気持ちが優しくなるなど、日本語の新しい面が感じられ、誇らしく思いました。

天理教の教祖「おやさま」はいつどんな時も、子供に対しても、どのような人に対しても、いつも優しい言葉遣いであったと聞きます。日本語自体が持つ特性がどうあれ、私たちはいつ誰に対しても優しい言葉を投げかけ、自分の心にも優しさが満ちていくように努めたいものです。
ある日、文化協会の来館者の一人から、「TENRIセンターに入ると、何だか空気が澄んでいるような気がする」と言われたことがありました。不意な言葉にその場は聞き流してしまいましたが、後からじわじわと喜びが湧いてきました。
これからも天理日仏文化協会は、教内の理解と支援を頂きながら、もっともっと心に安らぎと優しさが湧きあがる「陽気ぐらしの場」であり続けたいと願っています。


だけど有難い「心の健康」

平成二十九年の総務省の発表によると、日本で九十歳以上の人が初めて二百万人を超えて二百六万人になったそうです。これはすごい数字ですね。いまから十三年前の平成十六年に、初めて百万人を超えました。それからわずか十三年で百万人増えて、ほぼ倍になったことになります。
さらに遡って昭和五十五年、いまから約四十年前に、九十歳以上の人がいったい何人いたと思いますか。わずか十二万人です。それがいまは二百六万人。ものすごい増え方だと思いませんか。私たちの世代からすると、生きている間の出来事です。その間に、十二万人が二百六万人になったのですから、すごい変化です。
平均寿命も延びて、厚生労働省の発表では、男性は約八十一歳、女性は八十七歳。どちらも世界第二位とのことです。第一位は両方とも香港ですが、人口が少ないですから、実質は日本が〝世界一〟と言えるでしょう。

しかし、喜んでばかりもいられません。寿命には「健康寿命」というものがあります。これは、健康で元気に暮らせる平均年齢です。日本人では男性七十一歳、女性七十四歳。ということは、単純に男性は平均寿命の八十一歳までの十年間、女性は八十七歳までの十三年間は、病気をしているという話です。つまり、長生きになったけれど、その分、病気をしている期間も長いということが言えそうです。
元気で長生き、これは結構です。病気で長生き、果たしてこれはどうなのか。九十歳以上の人が増えたといっても、そのなかには、ベッドの上でただ死ぬのを待っているような状態の人、大変な病気を抱えて長年苦しんでいる人、周りの人の介護のおかげでなんとか生きている人、あるいは体は元気だけれども、家族に先立たれ、友人や知人もみな先に逝ってしまい、孤独で嘆き悲しんでいる人など、さまざまな人がいると思います。ですから、二百六万人が九十歳を超えたのは確かにすごいことですが、必ずしも喜んでばかりはいられないのです。
二、三日前に、ガンの患者が百万人を超えたと発表がありました。同時に、日本人の二人に一人はガンになるとも述べられていました。九十歳以上の二百六万人のなかにも、ガンで苦しんでいる人はかなりいるのではないでしょうか。そう考えると、二百六万という数字は、表面上は幸せな数字であるけれど、悲しい数字も含まれているということになります。

私が今日お話ししたいのは、「心の健康」についてです。健康寿命というけれど、それは体の話です。一番大事なのは心の健康です。九十歳まで、いきいきとした心で生きているかどうか。実は、これが一番大事なのです。私たちは、どんななかも喜んで通ることのできる「陽気ぐらし」の心づかいを知っています。こんな有難いことはないのです。九十歳まで長生きする人が増えたといっても、それを「有難い」「結構や」と喜んで通っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。これには統計がありません。
有難いことに、私たちは、心いきいきと生活させていただける術を教えていただいている。そのことを、しっかり喜ばせていただいて、報恩感謝の実践に励ませていただきましょう。（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 07 Nov 2025 09:23:58 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>親孝行ってありがたい</title>
        <description><![CDATA[親孝行ってありがたい
福岡県在住　　内山　真太朗

以前、知人の紹介で、茨城県に住む中学３年生の女の子に出会いました。彼女は小さい頃から地元のマーチングバンドでドラムをやっていたそうなのですが、全国大会で見た天理教校学園マーチングバンドの演奏に感動し、私もこの高校に入りたいと、つてを頼って巡り巡って、マーチングバンドＯＢの私に連絡をしてきてくれたのです。
しかし、天理教校学園の入学条件には、「親がようぼくである」という決まりがあります。そこでご両親に、「別席」や「ようぼく」という立場について説明し、「娘さんの高校進学までの一年間、定期的におぢばに帰り、別席を運んで神様のお話を聞いて頂くことになりますが、それでもよろしいですか？」と言うと、「私たちにとってたった一人の娘が、ここまで天理の高校に行きたいと言っていますので、何でもさせてもらいます」とのお返事を頂きました。
その年の５月、親子３人で初めておぢばを訪れて頂きました。私は当時、天理教校の本科実践課程で学んでおり、おぢばで３人をお迎えし、ご案内させて頂きました。天理駅から神殿までゴミ一つ落ちていない街並み、見たことのないおやさとやかたの風景、大きな神殿。靴を脱いで参拝をして戻ってくると、靴がキレイになっている。何から何まで本当に感動された様子で、ご両親には別席も二席運んで頂きました。
次のおぢばがえりに向け、ダメ元で娘さんをこどもおぢばがえりと少年ひのきしん隊に誘ってみました。当時、私の地元である福岡教区が、教校学園のマーチングバンドが出演する行事を担当していましたので、「メンバーの近くでひのきしんが出来るよ」と誘うと、「行きます！」と二つ返事で参加してくれることになりました。
本当に楽しく、感動した様子で、最終日には泣きながら「帰りたくない」と言い、後ろ髪を引かれる思いで、別席を運んだご両親と茨城へ帰っていきました。
天理教の教えを理解して頂き、おぢばの素晴らしさを充分体感してもらうことも出来た。これでご両親にも順調に別席を運んで頂けるだろう、いよいよ来春には天理教校学園に入学してもらえると喜んでおりました。
９月、次の別席の日を決めようと思い、連絡しました。するとお母さんが、「もう天理に行くのをやめようと思います」と言うのです。
え？あれだけ感動してたのに、どうして？と思い話を聞きますと、自分たちは天理教の教えやおぢばの素晴らしさを身に染みて感じているけれど、周りの友人や親族が激しく反対するのだと言います。
「よく分からない宗教に入って。それは最初はいい所ばっかり見せるよ。でも実際入ったら何をされるか分からないよ」とネガティブなことをさんざん言われて、心が折れたというわけです。
私は、ここで諦めてなるものかと、何とか思い直してもらえるよう、言葉を尽くして説明し、説得しましたが、ご両親の思いは変わらず、別席も運んで頂くことが出来ず、娘さんの天理教校学園の受験は難しくなってきました。
私は途方に暮れ、どうしたらいいか分からず、その足で本部の神殿に参拝に行きました。すると、知り合いのある教会長さんから、「どうしたん、元気ないやん」と声を掛けられ、これまでの事の次第を全部お話しました。
「もう自分はどうしたらいいか分かりません」。すると先生は、「あー、それはなあ」と次のように諭してくれました。
「その親子は、君が誘っておぢばに帰り、別席を運んだ。神様の目から見たら、その親子は道の子になった。そんな君が導いた道の子が、神様の思いに添わなくなってきた。君自身が、神様に喜ばれるような通り方を日々しているか。親の思いに添って通れているか。よく考えてみなさい。自分自身の神様や親に対する接し方やつとめ方が、巡り巡って全部相手に映ってくるんだ」
正直、グサッと胸に突き刺さりました。当時私は、父親との関係があまり良くなく、おぢばに置いて頂きながらも、神様の思いとはかけ離れた心で生活していました。
よし、こうなったら、この子のために私情を捨て、親孝行の道を、神様にお喜び頂ける道を通ろう。たとえこの子がおぢばの高校に行かなくても、せっかくつながったこの道から切れないように願い、まずは自分が親の思い、神様の思いに添わせて頂こうと、思い定めることが出来ました。
結果的に彼女は天理教校学園へは行かず、神奈川県にあるマーチング強豪校に進学、卒業後はアメリカのマーチングバンドに所属し、数年間活躍しました。
それから数年が経ち、久しぶりに彼女から連絡がありました。
「お久しぶりです。実はこのたび日本に帰ってきて、結婚することになりました。相手は、同じようにアメリカのマーチングバンドで活動していた日本人の男性です。
一緒に日本に帰ってきて、結婚を約束して、彼の両親のいる埼玉の実家にご挨拶に行ったんですが、その彼の家が天理教の布教所だったんです！」
お相手の彼も実家が天理教の布教所だということを、家に行くまで話していなかったそうですが、いざ来てみると、彼女は参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来る。少年ひのきしん隊で教わった女鳴物も出来る。彼の両親もびっくりしていたそうです。
この教えでは、「親への孝行は月日への孝行と受け取る」と言われます。私自身が親へ、神様へと真剣につなごうと心を入れ替えたら、神様が彼女をこの道につながるように導いて下さったのです。
その後、彼女は別席を運び、天理教の布教所子弟の彼と結婚しました。そして数年後、彼女から連絡がありました。「お久しぶりです。実は今月から修養科に入りました」と言うのです。
話を聞くと、結婚生活の中で色んな葛藤や戸惑いが出てきた。そんな時、かつて参加したこどもおぢばがえりや少年ひのきしん隊での楽しかったことや、そこで神様の教えを学んだ思い出がよみがえってきた。そんなおぢばで３カ月間勉強出来たら、自分の中で何かが変わるかも知れない。そう思って修養科を志願したと言います。
「私がこんな思いになれたのは、中学３年生のあの時、おぢばに誘ってくれたお蔭です。いま修養科でとっても充実した日々を送っています。本当にありがとうございます」と言ってくれました。
お礼を言いたいのはこっちだよ。よくぞ修養科に行ってくれた。よくぞそのように思ってくれた。
人をたすけよう、導こうとするならば、直接手を差し伸べることはもちろん、まずは自らができる親孝行に励み、神様の思いに添わせて頂くことが大切なのです。根っこを疎かにしては、花は咲きません。
私は、彼女との関わりを通して、そのことを実感させて頂きました。



忘れていいこと悪いこと

物事には、忘れた方がいいことと、決して忘れてはならないこと、この二通りのものがあります。
忘れた方がいいのは、人のためにしてあげたことや、反対に人から不愉快な目にあわされたことなどです。他方、忘れてはならないのは、神様や自然から頂いている豊かな恵み、人から頂いた恩恵などです。
これは簡単なことではありません。日常生活を省みると、私たちは案外この反対のことばかりやっているような気がします。人を少しばかり手助けしてあげたことをいつまでも心に留めて、「あいつはお礼の一つもしない」と、恩着せがましいことを言ったりする。また、人に対する恨みがましい気持ちを、長年持ち続けたりするものです。
そして一番いけないのは、神様や自然から頂いている恩恵を忘れ、さらには人から受けた恩まで忘れてしまうこと。たすけてもらった時だけ感謝しても、すっかり忘れてしまい、知らぬ顔をしてしまうのはよくあることです。
神様は、そのような私たちの忘れやすい習性を、お言葉によって表されています。
「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う」（Ｍ31・5・9）
それ故に、
「日が経てば、その場の心が緩んで来るから、何度の理に知らさにゃならん」（Ｍ23・7・7）
と仰せられ、心の成人を促される上から、病気や事情によってお手引き下さるのです。
さらには、教えを筆に記し、「おふでさき」という書き物に残されたことに関しても、
「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」（Ｍ37・8・23）
と、耳で聴くだけでは、とかく忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられています。
忘れるべきことを忘れずに覚えていると、それは心の濁りとなり、忘れてはならないことを忘れては、恩知らずとなってしまいます。どちらにしても、心を澄ます道ではありません。物事の「忘れ方・覚え方」というのは、かくも難しく、それでいてとても重要なことなのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>親孝行ってありがたい
福岡県在住　　内山　真太朗

以前、知人の紹介で、茨城県に住む中学３年生の女の子に出会いました。彼女は小さい頃から地元のマーチングバンドでドラムをやっていたそうなのですが、全国大会で見た天理教校学園マーチングバンドの演奏に感動し、私もこの高校に入りたいと、つてを頼って巡り巡って、マーチングバンドＯＢの私に連絡をしてきてくれたのです。
しかし、天理教校学園の入学条件には、「親がようぼくである」という決まりがあります。そこでご両親に、「別席」や「ようぼく」という立場について説明し、「娘さんの高校進学までの一年間、定期的におぢばに帰り、別席を運んで神様のお話を聞いて頂くことになりますが、それでもよろしいですか？」と言うと、「私たちにとってたった一人の娘が、ここまで天理の高校に行きたいと言っていますので、何でもさせてもらいます」とのお返事を頂きました。
その年の５月、親子３人で初めておぢばを訪れて頂きました。私は当時、天理教校の本科実践課程で学んでおり、おぢばで３人をお迎えし、ご案内させて頂きました。天理駅から神殿までゴミ一つ落ちていない街並み、見たことのないおやさとやかたの風景、大きな神殿。靴を脱いで参拝をして戻ってくると、靴がキレイになっている。何から何まで本当に感動された様子で、ご両親には別席も二席運んで頂きました。
次のおぢばがえりに向け、ダメ元で娘さんをこどもおぢばがえりと少年ひのきしん隊に誘ってみました。当時、私の地元である福岡教区が、教校学園のマーチングバンドが出演する行事を担当していましたので、「メンバーの近くでひのきしんが出来るよ」と誘うと、「行きます！」と二つ返事で参加してくれることになりました。
本当に楽しく、感動した様子で、最終日には泣きながら「帰りたくない」と言い、後ろ髪を引かれる思いで、別席を運んだご両親と茨城へ帰っていきました。
天理教の教えを理解して頂き、おぢばの素晴らしさを充分体感してもらうことも出来た。これでご両親にも順調に別席を運んで頂けるだろう、いよいよ来春には天理教校学園に入学してもらえると喜んでおりました。
９月、次の別席の日を決めようと思い、連絡しました。するとお母さんが、「もう天理に行くのをやめようと思います」と言うのです。
え？あれだけ感動してたのに、どうして？と思い話を聞きますと、自分たちは天理教の教えやおぢばの素晴らしさを身に染みて感じているけれど、周りの友人や親族が激しく反対するのだと言います。
「よく分からない宗教に入って。それは最初はいい所ばっかり見せるよ。でも実際入ったら何をされるか分からないよ」とネガティブなことをさんざん言われて、心が折れたというわけです。
私は、ここで諦めてなるものかと、何とか思い直してもらえるよう、言葉を尽くして説明し、説得しましたが、ご両親の思いは変わらず、別席も運んで頂くことが出来ず、娘さんの天理教校学園の受験は難しくなってきました。
私は途方に暮れ、どうしたらいいか分からず、その足で本部の神殿に参拝に行きました。すると、知り合いのある教会長さんから、「どうしたん、元気ないやん」と声を掛けられ、これまでの事の次第を全部お話しました。
「もう自分はどうしたらいいか分かりません」。すると先生は、「あー、それはなあ」と次のように諭してくれました。
「その親子は、君が誘っておぢばに帰り、別席を運んだ。神様の目から見たら、その親子は道の子になった。そんな君が導いた道の子が、神様の思いに添わなくなってきた。君自身が、神様に喜ばれるような通り方を日々しているか。親の思いに添って通れているか。よく考えてみなさい。自分自身の神様や親に対する接し方やつとめ方が、巡り巡って全部相手に映ってくるんだ」
正直、グサッと胸に突き刺さりました。当時私は、父親との関係があまり良くなく、おぢばに置いて頂きながらも、神様の思いとはかけ離れた心で生活していました。
よし、こうなったら、この子のために私情を捨て、親孝行の道を、神様にお喜び頂ける道を通ろう。たとえこの子がおぢばの高校に行かなくても、せっかくつながったこの道から切れないように願い、まずは自分が親の思い、神様の思いに添わせて頂こうと、思い定めることが出来ました。
結果的に彼女は天理教校学園へは行かず、神奈川県にあるマーチング強豪校に進学、卒業後はアメリカのマーチングバンドに所属し、数年間活躍しました。
それから数年が経ち、久しぶりに彼女から連絡がありました。
「お久しぶりです。実はこのたび日本に帰ってきて、結婚することになりました。相手は、同じようにアメリカのマーチングバンドで活動していた日本人の男性です。
一緒に日本に帰ってきて、結婚を約束して、彼の両親のいる埼玉の実家にご挨拶に行ったんですが、その彼の家が天理教の布教所だったんです！」
お相手の彼も実家が天理教の布教所だということを、家に行くまで話していなかったそうですが、いざ来てみると、彼女は参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来る。少年ひのきしん隊で教わった女鳴物も出来る。彼の両親もびっくりしていたそうです。
この教えでは、「親への孝行は月日への孝行と受け取る」と言われます。私自身が親へ、神様へと真剣につなごうと心を入れ替えたら、神様が彼女をこの道につながるように導いて下さったのです。
その後、彼女は別席を運び、天理教の布教所子弟の彼と結婚しました。そして数年後、彼女から連絡がありました。「お久しぶりです。実は今月から修養科に入りました」と言うのです。
話を聞くと、結婚生活の中で色んな葛藤や戸惑いが出てきた。そんな時、かつて参加したこどもおぢばがえりや少年ひのきしん隊での楽しかったことや、そこで神様の教えを学んだ思い出がよみがえってきた。そんなおぢばで３カ月間勉強出来たら、自分の中で何かが変わるかも知れない。そう思って修養科を志願したと言います。
「私がこんな思いになれたのは、中学３年生のあの時、おぢばに誘ってくれたお蔭です。いま修養科でとっても充実した日々を送っています。本当にありがとうございます」と言ってくれました。
お礼を言いたいのはこっちだよ。よくぞ修養科に行ってくれた。よくぞそのように思ってくれた。
人をたすけよう、導こうとするならば、直接手を差し伸べることはもちろん、まずは自らができる親孝行に励み、神様の思いに添わせて頂くことが大切なのです。根っこを疎かにしては、花は咲きません。
私は、彼女との関わりを通して、そのことを実感させて頂きました。



忘れていいこと悪いこと

物事には、忘れた方がいいことと、決して忘れてはならないこと、この二通りのものがあります。
忘れた方がいいのは、人のためにしてあげたことや、反対に人から不愉快な目にあわされたことなどです。他方、忘れてはならないのは、神様や自然から頂いている豊かな恵み、人から頂いた恩恵などです。
これは簡単なことではありません。日常生活を省みると、私たちは案外この反対のことばかりやっているような気がします。人を少しばかり手助けしてあげたことをいつまでも心に留めて、「あいつはお礼の一つもしない」と、恩着せがましいことを言ったりする。また、人に対する恨みがましい気持ちを、長年持ち続けたりするものです。
そして一番いけないのは、神様や自然から頂いている恩恵を忘れ、さらには人から受けた恩まで忘れてしまうこと。たすけてもらった時だけ感謝しても、すっかり忘れてしまい、知らぬ顔をしてしまうのはよくあることです。
神様は、そのような私たちの忘れやすい習性を、お言葉によって表されています。
「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う」（Ｍ31・5・9）
それ故に、
「日が経てば、その場の心が緩んで来るから、何度の理に知らさにゃならん」（Ｍ23・7・7）
と仰せられ、心の成人を促される上から、病気や事情によってお手引き下さるのです。
さらには、教えを筆に記し、「おふでさき」という書き物に残されたことに関しても、
「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」（Ｍ37・8・23）
と、耳で聴くだけでは、とかく忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられています。
忘れるべきことを忘れずに覚えていると、それは心の濁りとなり、忘れてはならないことを忘れては、恩知らずとなってしまいます。どちらにしても、心を澄ます道ではありません。物事の「忘れ方・覚え方」というのは、かくも難しく、それでいてとても重要なことなのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>親孝行ってありがたい
福岡県在住　　内山　真太朗

以前、知人の紹介で、茨城県に住む中学３年生の女の子に出会いました。彼女は小さい頃から地元のマーチングバンドでドラムをやっていたそうなのですが、全国大会で見た天理教校学園マーチングバンドの演奏に感動し、私もこの高校に入りたいと、つてを頼って巡り巡って、マーチングバンドＯＢの私に連絡をしてきてくれたのです。
しかし、天理教校学園の入学条件には、「親がようぼくである」という決まりがあります。そこでご両親に、「別席」や「ようぼく」という立場について説明し、「娘さんの高校進学までの一年間、定期的におぢばに帰り、別席を運んで神様のお話を聞いて頂くことになりますが、それでもよろしいですか？」と言うと、「私たちにとってたった一人の娘が、ここまで天理の高校に行きたいと言っていますので、何でもさせてもらいます」とのお返事を頂きました。
その年の５月、親子３人で初めておぢばを訪れて頂きました。私は当時、天理教校の本科実践課程で学んでおり、おぢばで３人をお迎えし、ご案内させて頂きました。天理駅から神殿までゴミ一つ落ちていない街並み、見たことのないおやさとやかたの風景、大きな神殿。靴を脱いで参拝をして戻ってくると、靴がキレイになっている。何から何まで本当に感動された様子で、ご両親には別席も二席運んで頂きました。
次のおぢばがえりに向け、ダメ元で娘さんをこどもおぢばがえりと少年ひのきしん隊に誘ってみました。当時、私の地元である福岡教区が、教校学園のマーチングバンドが出演する行事を担当していましたので、「メンバーの近くでひのきしんが出来るよ」と誘うと、「行きます！」と二つ返事で参加してくれることになりました。
本当に楽しく、感動した様子で、最終日には泣きながら「帰りたくない」と言い、後ろ髪を引かれる思いで、別席を運んだご両親と茨城へ帰っていきました。
天理教の教えを理解して頂き、おぢばの素晴らしさを充分体感してもらうことも出来た。これでご両親にも順調に別席を運んで頂けるだろう、いよいよ来春には天理教校学園に入学してもらえると喜んでおりました。
９月、次の別席の日を決めようと思い、連絡しました。するとお母さんが、「もう天理に行くのをやめようと思います」と言うのです。
え？あれだけ感動してたのに、どうして？と思い話を聞きますと、自分たちは天理教の教えやおぢばの素晴らしさを身に染みて感じているけれど、周りの友人や親族が激しく反対するのだと言います。
「よく分からない宗教に入って。それは最初はいい所ばっかり見せるよ。でも実際入ったら何をされるか分からないよ」とネガティブなことをさんざん言われて、心が折れたというわけです。
私は、ここで諦めてなるものかと、何とか思い直してもらえるよう、言葉を尽くして説明し、説得しましたが、ご両親の思いは変わらず、別席も運んで頂くことが出来ず、娘さんの天理教校学園の受験は難しくなってきました。
私は途方に暮れ、どうしたらいいか分からず、その足で本部の神殿に参拝に行きました。すると、知り合いのある教会長さんから、「どうしたん、元気ないやん」と声を掛けられ、これまでの事の次第を全部お話しました。
「もう自分はどうしたらいいか分かりません」。すると先生は、「あー、それはなあ」と次のように諭してくれました。
「その親子は、君が誘っておぢばに帰り、別席を運んだ。神様の目から見たら、その親子は道の子になった。そんな君が導いた道の子が、神様の思いに添わなくなってきた。君自身が、神様に喜ばれるような通り方を日々しているか。親の思いに添って通れているか。よく考えてみなさい。自分自身の神様や親に対する接し方やつとめ方が、巡り巡って全部相手に映ってくるんだ」
正直、グサッと胸に突き刺さりました。当時私は、父親との関係があまり良くなく、おぢばに置いて頂きながらも、神様の思いとはかけ離れた心で生活していました。
よし、こうなったら、この子のために私情を捨て、親孝行の道を、神様にお喜び頂ける道を通ろう。たとえこの子がおぢばの高校に行かなくても、せっかくつながったこの道から切れないように願い、まずは自分が親の思い、神様の思いに添わせて頂こうと、思い定めることが出来ました。
結果的に彼女は天理教校学園へは行かず、神奈川県にあるマーチング強豪校に進学、卒業後はアメリカのマーチングバンドに所属し、数年間活躍しました。
それから数年が経ち、久しぶりに彼女から連絡がありました。
「お久しぶりです。実はこのたび日本に帰ってきて、結婚することになりました。相手は、同じようにアメリカのマーチングバンドで活動していた日本人の男性です。
一緒に日本に帰ってきて、結婚を約束して、彼の両親のいる埼玉の実家にご挨拶に行ったんですが、その彼の家が天理教の布教所だったんです！」
お相手の彼も実家が天理教の布教所だということを、家に行くまで話していなかったそうですが、いざ来てみると、彼女は参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来る。少年ひのきしん隊で教わった女鳴物も出来る。彼の両親もびっくりしていたそうです。
この教えでは、「親への孝行は月日への孝行と受け取る」と言われます。私自身が親へ、神様へと真剣につなごうと心を入れ替えたら、神様が彼女をこの道につながるように導いて下さったのです。
その後、彼女は別席を運び、天理教の布教所子弟の彼と結婚しました。そして数年後、彼女から連絡がありました。「お久しぶりです。実は今月から修養科に入りました」と言うのです。
話を聞くと、結婚生活の中で色んな葛藤や戸惑いが出てきた。そんな時、かつて参加したこどもおぢばがえりや少年ひのきしん隊での楽しかったことや、そこで神様の教えを学んだ思い出がよみがえってきた。そんなおぢばで３カ月間勉強出来たら、自分の中で何かが変わるかも知れない。そう思って修養科を志願したと言います。
「私がこんな思いになれたのは、中学３年生のあの時、おぢばに誘ってくれたお蔭です。いま修養科でとっても充実した日々を送っています。本当にありがとうございます」と言ってくれました。
お礼を言いたいのはこっちだよ。よくぞ修養科に行ってくれた。よくぞそのように思ってくれた。
人をたすけよう、導こうとするならば、直接手を差し伸べることはもちろん、まずは自らができる親孝行に励み、神様の思いに添わせて頂くことが大切なのです。根っこを疎かにしては、花は咲きません。
私は、彼女との関わりを通して、そのことを実感させて頂きました。



忘れていいこと悪いこと

物事には、忘れた方がいいことと、決して忘れてはならないこと、この二通りのものがあります。
忘れた方がいいのは、人のためにしてあげたことや、反対に人から不愉快な目にあわされたことなどです。他方、忘れてはならないのは、神様や自然から頂いている豊かな恵み、人から頂いた恩恵などです。
これは簡単なことではありません。日常生活を省みると、私たちは案外この反対のことばかりやっているような気がします。人を少しばかり手助けしてあげたことをいつまでも心に留めて、「あいつはお礼の一つもしない」と、恩着せがましいことを言ったりする。また、人に対する恨みがましい気持ちを、長年持ち続けたりするものです。
そして一番いけないのは、神様や自然から頂いている恩恵を忘れ、さらには人から受けた恩まで忘れてしまうこと。たすけてもらった時だけ感謝しても、すっかり忘れてしまい、知らぬ顔をしてしまうのはよくあることです。
神様は、そのような私たちの忘れやすい習性を、お言葉によって表されています。
「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う」（Ｍ31・5・9）
それ故に、
「日が経てば、その場の心が緩んで来るから、何度の理に知らさにゃならん」（Ｍ23・7・7）
と仰せられ、心の成人を促される上から、病気や事情によってお手引き下さるのです。
さらには、教えを筆に記し、「おふでさき」という書き物に残されたことに関しても、
「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」（Ｍ37・8・23）
と、耳で聴くだけでは、とかく忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられています。
忘れるべきことを忘れずに覚えていると、それは心の濁りとなり、忘れてはならないことを忘れては、恩知らずとなってしまいます。どちらにしても、心を澄ます道ではありません。物事の「忘れ方・覚え方」というのは、かくも難しく、それでいてとても重要なことなのです。
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        <pubDate>Fri, 31 Oct 2025 09:24:01 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>おじいちゃんの種</title>
        <description><![CDATA[おじいちゃんの種
兵庫県在住　　旭　和世

親は子供に、「幸せになって欲しい」と願いながら子育てをすると思います。私も子供たちに、イキイキとした楽しい人生を送って欲しいと思って子育てをしてきたつもりですが、これまでの経験で痛感したことは、親の出来る子育ては一部に過ぎないということです。
子供たちは、親だけではなく色んな立場の人に、温かい言葉や情をかけてもらい、交流を通じて成長していきます。そしてさらに、神様の教えにふれる事や、親々が残してくれたお徳によって育てて頂き、人生がイキイキとしてくるのだと実感しています。
そのように感じる中の一つが、鼓笛隊の活動です。我が家の子供たちは小さい頃から、隣の支部の鼓笛隊に所属しています。
ある日曜日のこと、当時小学校低学年だった長男が私に、「なんで鼓笛隊の練習行くの？」と聞きます。きっとせっかくのお休みなので、家でゆっくり過ごしたかったのでしょう。
私は長男に、「鼓笛隊で演奏できるようになったら、夏のこどもおぢばがえりの時、おぢばの神殿の前で演奏をお供えできるんよ。これはママにはできないけれど、あなた達ができる神様の御用で、神様がとっても喜ばれるひのきしんになるんよ」と伝えました。その時、私の言葉を理解してくれたかどうかは分かりませんが、長男はその後もずっと鼓笛活動に参加してくれました。
私は幼い頃、上級教会の鼓笛隊に所属し、こどもおぢばがえりでのパレード出演やお供演奏など、演奏することで周りの皆さんが喜んで下さったことが心に残っていて、「我が子たちにもそんな経験をさせてあげられたらな」と思っていました。
そんな折、ちょうどタイミング良く、鼓笛隊の先生が隊員募集に来られ、我が子３人と近くに住む姪や甥たちも入隊させてもらうことになったのです。
その鼓笛隊は、何年も連続で金賞を受賞している隊で、先生の指導がとても素晴らしく、足手まといになるような低学年の子供たちを快く受け入れて下さり、本当に気長に、熱心に指導して下さることにとても感動しました。
毎年こどもおぢばがえりが近づくと、厳しい特訓が始まります。マーチングバンドのようにドリル演奏もするので、足の運びや前後左右の位置取り、移動のタイミングなどなど、子供たちにとってはとてもハードルが高い難しい練習なのです。
それでも、必死に指導して下さる先生に子供たちが応えてどんどん上達していく姿には、本当に目を見張るものがあります。得意な子も得意でない子も、みんなが心を揃えて一生懸命頑張って、出来なかったことが出来るようになり、一つの形になることが、子供たちの喜びや達成感につながっているように思います。まさに教祖の教えて下さった「一手一つ」の姿だなあと、感動で涙が出てきます。
そして何も出来なかった子が年々上達してくると、年下の子たちのお世話をするようになり、素敵な循環が生まれます。自分たちが今までしてもらったように、次に入隊してくる子たちに心を配れるようになるまで成長してくれるのです。
現在高校生になった姪は、スタッフとして、休日の練習日にはいつも指導者として参加してくれるようになりました。
姪は鼓笛活動や、他の天理教の行事などでお道の方に触れ合えたおかげで、「天理の人は優しくていい人多いよね～」と実感してくれているようです。そして、周りの人も驚くような成長ぶりを見せてくれています。
長男はというと、天理高校に入学し、「軟式野球部に入る！」と意気込んでグローブまで持って行ったにもかかわらず、蓋を開けてみれば雅楽部に入部。私も主人もびっくりしました。その一年後には、年子の妹も同じく天理高校で雅楽部に入り、二人とも演奏活動をとても楽しんでいるようです。
こうやって音楽を通してお育て頂き、演奏活動によって周りの方に喜んで頂き、感動を届けられるのも素晴らしいひのきしんだと有難く思っています。
そんな風に喜んでいた時、実家の父がとても興味深い話を聞かせてくれました。
「昭和の初め頃の話やけど、うちのおじいちゃんが、この小阪の町で小さな音楽隊をつくって、若いお道の青年さんを集めて活動しとったんや。そこで音楽に長けた矢野清先生も一緒に活動してはって、演奏も上手になって活動がどんどん広がってな。その後、その小さな音楽隊は船場大教会の音楽団になって、当時盛んだった徒歩団参の先導をしたり、おぢばがえりされる方を演奏で迎えたりして、活躍するようになったんや。
だけどそのあと戦争になってなあ、青年さんたちも兵隊に行ってしまって、楽団の活動が出来なくなった。その時、当時の船場の大教会長さんが二代真柱様にご相談されて、楽器すべてを天理中学に譲渡される事になったんや。
そうしたら二代真柱様が、『楽器だけではあかん』と仰ったそうや。そこでおじいちゃんは『矢野さんしかおらん』と言って、矢野先生を推薦して天理中学に指導に行かれることになった。それが天理の吹奏楽部の始まりなんやで。
その後、矢野先生は天理高校の吹奏楽部を指導されて、何年も連続で優勝するような日本一のバンドに導かれたんや。その矢野先生の声から、天理教の鼓笛隊が生まれたんやで」
私は、「へえ～、そうだったの？ 私、矢野先生のご活躍は知っていたけど、おじいちゃんが音楽を通してお道の若い人たちを育てる音楽隊を作っていたなんて知らなかった～」と驚いてしまいました。
そして、この話を聞いて、「みかぐらうた」のお歌が浮かんできました。
『まいたるたねハみなはへる』（七下り目 八ッ）
「あ～、そうだったんだ。おじいちゃんがちゃあんと、何十年も前に種を蒔いてくれてたんだ。だからこうやって巡り巡って恩恵を受けて、私たちの家族も鼓笛隊の先生方にお世話になってるんだなあ。決して偶然ではない、親々のお蔭なんだ」としみじみ思えてきました。
天理教の教祖「おやさま」のお言葉に、『道というものは、尽した理は生涯末代の理に受け取りある』（M33.4.16補遺）とあります。
神様の御用のために尽くした理は消えることなく、子や孫の代、そして末代までもその恩恵を受け取らせてもらえるというお言葉です。私たちは、今まさにその恩恵を受け取らせて頂いているという事だったのです。
この事を通して、子供たちは私たち親だけでなく、まわりの方々や親々が蒔いてくれた種の芽生えを受け取りながらお育て頂いているのだと実感しています。
けれども、これを「ありがたい」で終わらせるのではなく、この恩恵をまた子孫末代へと引き継いでいけるように、私もおじいちゃんが蒔いてくれたような種を蒔いていきたいと思っています。



自分一人で

天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、

　　きゝたくバたつねくるならゆてきかそ　　よろづいさいのもとのいんねん　（一 6）

とのお歌があります。
元のいんねんとは、親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたいと思召され、人間とこの世界をお創りになった。私たち一人ひとりは、その親神様の思いが込められた可愛い子供であり、きょうだいとしてつながり合って生きているということです。
そして、その詳しい元を聞きたければ自ら訪ねて来るようにと仰せられます。自ら教えを求めていくことの大切さを諭されているのです。
手振りと共に教えて下さる「みかぐらうた」に、

　　　むりにどうせといはんでな　　　そこはめい／＼のむねしだい　（七下り目 六ッ）
　　　むりにこいとハいはんでな　　　いづれだん／＼つきくるで　（十二下り目 六ッ）

とあります。信心するしないは、銘々の胸次第、心次第。親神様は決して無理強いはされず、私たちが自ら道を求める心になるまで、辛抱強くお待ち下されているのです。
教祖をめぐって、次のような逸話が残されています。

教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々が、二、三人連れを誘って行くと、教祖は決して快くお話し下さらないのが常でした。
「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話を聞かせて下さいました。尚その上で、「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いともねんごろにお仕込み下された、と伝えられています。（教祖伝逸話篇116「自分一人で」）

教会本部の教祖殿では、教祖の御前で、長い時間拝礼している信者さんの姿が見られます。様々な事情を抱え、まさに自分一人で教祖との対話に臨んでいるように見受けられます。きっと教祖は、にっこり笑っていともねんごろにお諭し下されていることでしょう。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>おじいちゃんの種
兵庫県在住　　旭　和世

親は子供に、「幸せになって欲しい」と願いながら子育てをすると思います。私も子供たちに、イキイキとした楽しい人生を送って欲しいと思って子育てをしてきたつもりですが、これまでの経験で痛感したことは、親の出来る子育ては一部に過ぎないということです。
子供たちは、親だけではなく色んな立場の人に、温かい言葉や情をかけてもらい、交流を通じて成長していきます。そしてさらに、神様の教えにふれる事や、親々が残してくれたお徳によって育てて頂き、人生がイキイキとしてくるのだと実感しています。
そのように感じる中の一つが、鼓笛隊の活動です。我が家の子供たちは小さい頃から、隣の支部の鼓笛隊に所属しています。
ある日曜日のこと、当時小学校低学年だった長男が私に、「なんで鼓笛隊の練習行くの？」と聞きます。きっとせっかくのお休みなので、家でゆっくり過ごしたかったのでしょう。
私は長男に、「鼓笛隊で演奏できるようになったら、夏のこどもおぢばがえりの時、おぢばの神殿の前で演奏をお供えできるんよ。これはママにはできないけれど、あなた達ができる神様の御用で、神様がとっても喜ばれるひのきしんになるんよ」と伝えました。その時、私の言葉を理解してくれたかどうかは分かりませんが、長男はその後もずっと鼓笛活動に参加してくれました。
私は幼い頃、上級教会の鼓笛隊に所属し、こどもおぢばがえりでのパレード出演やお供演奏など、演奏することで周りの皆さんが喜んで下さったことが心に残っていて、「我が子たちにもそんな経験をさせてあげられたらな」と思っていました。
そんな折、ちょうどタイミング良く、鼓笛隊の先生が隊員募集に来られ、我が子３人と近くに住む姪や甥たちも入隊させてもらうことになったのです。
その鼓笛隊は、何年も連続で金賞を受賞している隊で、先生の指導がとても素晴らしく、足手まといになるような低学年の子供たちを快く受け入れて下さり、本当に気長に、熱心に指導して下さることにとても感動しました。
毎年こどもおぢばがえりが近づくと、厳しい特訓が始まります。マーチングバンドのようにドリル演奏もするので、足の運びや前後左右の位置取り、移動のタイミングなどなど、子供たちにとってはとてもハードルが高い難しい練習なのです。
それでも、必死に指導して下さる先生に子供たちが応えてどんどん上達していく姿には、本当に目を見張るものがあります。得意な子も得意でない子も、みんなが心を揃えて一生懸命頑張って、出来なかったことが出来るようになり、一つの形になることが、子供たちの喜びや達成感につながっているように思います。まさに教祖の教えて下さった「一手一つ」の姿だなあと、感動で涙が出てきます。
そして何も出来なかった子が年々上達してくると、年下の子たちのお世話をするようになり、素敵な循環が生まれます。自分たちが今までしてもらったように、次に入隊してくる子たちに心を配れるようになるまで成長してくれるのです。
現在高校生になった姪は、スタッフとして、休日の練習日にはいつも指導者として参加してくれるようになりました。
姪は鼓笛活動や、他の天理教の行事などでお道の方に触れ合えたおかげで、「天理の人は優しくていい人多いよね～」と実感してくれているようです。そして、周りの人も驚くような成長ぶりを見せてくれています。
長男はというと、天理高校に入学し、「軟式野球部に入る！」と意気込んでグローブまで持って行ったにもかかわらず、蓋を開けてみれば雅楽部に入部。私も主人もびっくりしました。その一年後には、年子の妹も同じく天理高校で雅楽部に入り、二人とも演奏活動をとても楽しんでいるようです。
こうやって音楽を通してお育て頂き、演奏活動によって周りの方に喜んで頂き、感動を届けられるのも素晴らしいひのきしんだと有難く思っています。
そんな風に喜んでいた時、実家の父がとても興味深い話を聞かせてくれました。
「昭和の初め頃の話やけど、うちのおじいちゃんが、この小阪の町で小さな音楽隊をつくって、若いお道の青年さんを集めて活動しとったんや。そこで音楽に長けた矢野清先生も一緒に活動してはって、演奏も上手になって活動がどんどん広がってな。その後、その小さな音楽隊は船場大教会の音楽団になって、当時盛んだった徒歩団参の先導をしたり、おぢばがえりされる方を演奏で迎えたりして、活躍するようになったんや。
だけどそのあと戦争になってなあ、青年さんたちも兵隊に行ってしまって、楽団の活動が出来なくなった。その時、当時の船場の大教会長さんが二代真柱様にご相談されて、楽器すべてを天理中学に譲渡される事になったんや。
そうしたら二代真柱様が、『楽器だけではあかん』と仰ったそうや。そこでおじいちゃんは『矢野さんしかおらん』と言って、矢野先生を推薦して天理中学に指導に行かれることになった。それが天理の吹奏楽部の始まりなんやで。
その後、矢野先生は天理高校の吹奏楽部を指導されて、何年も連続で優勝するような日本一のバンドに導かれたんや。その矢野先生の声から、天理教の鼓笛隊が生まれたんやで」
私は、「へえ～、そうだったの？ 私、矢野先生のご活躍は知っていたけど、おじいちゃんが音楽を通してお道の若い人たちを育てる音楽隊を作っていたなんて知らなかった～」と驚いてしまいました。
そして、この話を聞いて、「みかぐらうた」のお歌が浮かんできました。
『まいたるたねハみなはへる』（七下り目 八ッ）
「あ～、そうだったんだ。おじいちゃんがちゃあんと、何十年も前に種を蒔いてくれてたんだ。だからこうやって巡り巡って恩恵を受けて、私たちの家族も鼓笛隊の先生方にお世話になってるんだなあ。決して偶然ではない、親々のお蔭なんだ」としみじみ思えてきました。
天理教の教祖「おやさま」のお言葉に、『道というものは、尽した理は生涯末代の理に受け取りある』（M33.4.16補遺）とあります。
神様の御用のために尽くした理は消えることなく、子や孫の代、そして末代までもその恩恵を受け取らせてもらえるというお言葉です。私たちは、今まさにその恩恵を受け取らせて頂いているという事だったのです。
この事を通して、子供たちは私たち親だけでなく、まわりの方々や親々が蒔いてくれた種の芽生えを受け取りながらお育て頂いているのだと実感しています。
けれども、これを「ありがたい」で終わらせるのではなく、この恩恵をまた子孫末代へと引き継いでいけるように、私もおじいちゃんが蒔いてくれたような種を蒔いていきたいと思っています。



自分一人で

天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、

　　きゝたくバたつねくるならゆてきかそ　　よろづいさいのもとのいんねん　（一 6）

とのお歌があります。
元のいんねんとは、親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたいと思召され、人間とこの世界をお創りになった。私たち一人ひとりは、その親神様の思いが込められた可愛い子供であり、きょうだいとしてつながり合って生きているということです。
そして、その詳しい元を聞きたければ自ら訪ねて来るようにと仰せられます。自ら教えを求めていくことの大切さを諭されているのです。
手振りと共に教えて下さる「みかぐらうた」に、

　　　むりにどうせといはんでな　　　そこはめい／＼のむねしだい　（七下り目 六ッ）
　　　むりにこいとハいはんでな　　　いづれだん／＼つきくるで　（十二下り目 六ッ）

とあります。信心するしないは、銘々の胸次第、心次第。親神様は決して無理強いはされず、私たちが自ら道を求める心になるまで、辛抱強くお待ち下されているのです。
教祖をめぐって、次のような逸話が残されています。

教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々が、二、三人連れを誘って行くと、教祖は決して快くお話し下さらないのが常でした。
「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話を聞かせて下さいました。尚その上で、「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いともねんごろにお仕込み下された、と伝えられています。（教祖伝逸話篇116「自分一人で」）

教会本部の教祖殿では、教祖の御前で、長い時間拝礼している信者さんの姿が見られます。様々な事情を抱え、まさに自分一人で教祖との対話に臨んでいるように見受けられます。きっと教祖は、にっこり笑っていともねんごろにお諭し下されていることでしょう。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>おじいちゃんの種
兵庫県在住　　旭　和世

親は子供に、「幸せになって欲しい」と願いながら子育てをすると思います。私も子供たちに、イキイキとした楽しい人生を送って欲しいと思って子育てをしてきたつもりですが、これまでの経験で痛感したことは、親の出来る子育ては一部に過ぎないということです。
子供たちは、親だけではなく色んな立場の人に、温かい言葉や情をかけてもらい、交流を通じて成長していきます。そしてさらに、神様の教えにふれる事や、親々が残してくれたお徳によって育てて頂き、人生がイキイキとしてくるのだと実感しています。
そのように感じる中の一つが、鼓笛隊の活動です。我が家の子供たちは小さい頃から、隣の支部の鼓笛隊に所属しています。
ある日曜日のこと、当時小学校低学年だった長男が私に、「なんで鼓笛隊の練習行くの？」と聞きます。きっとせっかくのお休みなので、家でゆっくり過ごしたかったのでしょう。
私は長男に、「鼓笛隊で演奏できるようになったら、夏のこどもおぢばがえりの時、おぢばの神殿の前で演奏をお供えできるんよ。これはママにはできないけれど、あなた達ができる神様の御用で、神様がとっても喜ばれるひのきしんになるんよ」と伝えました。その時、私の言葉を理解してくれたかどうかは分かりませんが、長男はその後もずっと鼓笛活動に参加してくれました。
私は幼い頃、上級教会の鼓笛隊に所属し、こどもおぢばがえりでのパレード出演やお供演奏など、演奏することで周りの皆さんが喜んで下さったことが心に残っていて、「我が子たちにもそんな経験をさせてあげられたらな」と思っていました。
そんな折、ちょうどタイミング良く、鼓笛隊の先生が隊員募集に来られ、我が子３人と近くに住む姪や甥たちも入隊させてもらうことになったのです。
その鼓笛隊は、何年も連続で金賞を受賞している隊で、先生の指導がとても素晴らしく、足手まといになるような低学年の子供たちを快く受け入れて下さり、本当に気長に、熱心に指導して下さることにとても感動しました。
毎年こどもおぢばがえりが近づくと、厳しい特訓が始まります。マーチングバンドのようにドリル演奏もするので、足の運びや前後左右の位置取り、移動のタイミングなどなど、子供たちにとってはとてもハードルが高い難しい練習なのです。
それでも、必死に指導して下さる先生に子供たちが応えてどんどん上達していく姿には、本当に目を見張るものがあります。得意な子も得意でない子も、みんなが心を揃えて一生懸命頑張って、出来なかったことが出来るようになり、一つの形になることが、子供たちの喜びや達成感につながっているように思います。まさに教祖の教えて下さった「一手一つ」の姿だなあと、感動で涙が出てきます。
そして何も出来なかった子が年々上達してくると、年下の子たちのお世話をするようになり、素敵な循環が生まれます。自分たちが今までしてもらったように、次に入隊してくる子たちに心を配れるようになるまで成長してくれるのです。
現在高校生になった姪は、スタッフとして、休日の練習日にはいつも指導者として参加してくれるようになりました。
姪は鼓笛活動や、他の天理教の行事などでお道の方に触れ合えたおかげで、「天理の人は優しくていい人多いよね～」と実感してくれているようです。そして、周りの人も驚くような成長ぶりを見せてくれています。
長男はというと、天理高校に入学し、「軟式野球部に入る！」と意気込んでグローブまで持って行ったにもかかわらず、蓋を開けてみれば雅楽部に入部。私も主人もびっくりしました。その一年後には、年子の妹も同じく天理高校で雅楽部に入り、二人とも演奏活動をとても楽しんでいるようです。
こうやって音楽を通してお育て頂き、演奏活動によって周りの方に喜んで頂き、感動を届けられるのも素晴らしいひのきしんだと有難く思っています。
そんな風に喜んでいた時、実家の父がとても興味深い話を聞かせてくれました。
「昭和の初め頃の話やけど、うちのおじいちゃんが、この小阪の町で小さな音楽隊をつくって、若いお道の青年さんを集めて活動しとったんや。そこで音楽に長けた矢野清先生も一緒に活動してはって、演奏も上手になって活動がどんどん広がってな。その後、その小さな音楽隊は船場大教会の音楽団になって、当時盛んだった徒歩団参の先導をしたり、おぢばがえりされる方を演奏で迎えたりして、活躍するようになったんや。
だけどそのあと戦争になってなあ、青年さんたちも兵隊に行ってしまって、楽団の活動が出来なくなった。その時、当時の船場の大教会長さんが二代真柱様にご相談されて、楽器すべてを天理中学に譲渡される事になったんや。
そうしたら二代真柱様が、『楽器だけではあかん』と仰ったそうや。そこでおじいちゃんは『矢野さんしかおらん』と言って、矢野先生を推薦して天理中学に指導に行かれることになった。それが天理の吹奏楽部の始まりなんやで。
その後、矢野先生は天理高校の吹奏楽部を指導されて、何年も連続で優勝するような日本一のバンドに導かれたんや。その矢野先生の声から、天理教の鼓笛隊が生まれたんやで」
私は、「へえ～、そうだったの？ 私、矢野先生のご活躍は知っていたけど、おじいちゃんが音楽を通してお道の若い人たちを育てる音楽隊を作っていたなんて知らなかった～」と驚いてしまいました。
そして、この話を聞いて、「みかぐらうた」のお歌が浮かんできました。
『まいたるたねハみなはへる』（七下り目 八ッ）
「あ～、そうだったんだ。おじいちゃんがちゃあんと、何十年も前に種を蒔いてくれてたんだ。だからこうやって巡り巡って恩恵を受けて、私たちの家族も鼓笛隊の先生方にお世話になってるんだなあ。決して偶然ではない、親々のお蔭なんだ」としみじみ思えてきました。
天理教の教祖「おやさま」のお言葉に、『道というものは、尽した理は生涯末代の理に受け取りある』（M33.4.16補遺）とあります。
神様の御用のために尽くした理は消えることなく、子や孫の代、そして末代までもその恩恵を受け取らせてもらえるというお言葉です。私たちは、今まさにその恩恵を受け取らせて頂いているという事だったのです。
この事を通して、子供たちは私たち親だけでなく、まわりの方々や親々が蒔いてくれた種の芽生えを受け取りながらお育て頂いているのだと実感しています。
けれども、これを「ありがたい」で終わらせるのではなく、この恩恵をまた子孫末代へと引き継いでいけるように、私もおじいちゃんが蒔いてくれたような種を蒔いていきたいと思っています。



自分一人で

天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、

　　きゝたくバたつねくるならゆてきかそ　　よろづいさいのもとのいんねん　（一 6）

とのお歌があります。
元のいんねんとは、親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたいと思召され、人間とこの世界をお創りになった。私たち一人ひとりは、その親神様の思いが込められた可愛い子供であり、きょうだいとしてつながり合って生きているということです。
そして、その詳しい元を聞きたければ自ら訪ねて来るようにと仰せられます。自ら教えを求めていくことの大切さを諭されているのです。
手振りと共に教えて下さる「みかぐらうた」に、

　　　むりにどうせといはんでな　　　そこはめい／＼のむねしだい　（七下り目 六ッ）
　　　むりにこいとハいはんでな　　　いづれだん／＼つきくるで　（十二下り目 六ッ）

とあります。信心するしないは、銘々の胸次第、心次第。親神様は決して無理強いはされず、私たちが自ら道を求める心になるまで、辛抱強くお待ち下されているのです。
教祖をめぐって、次のような逸話が残されています。

教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々が、二、三人連れを誘って行くと、教祖は決して快くお話し下さらないのが常でした。
「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話を聞かせて下さいました。尚その上で、「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いともねんごろにお仕込み下された、と伝えられています。（教祖伝逸話篇116「自分一人で」）

教会本部の教祖殿では、教祖の御前で、長い時間拝礼している信者さんの姿が見られます。様々な事情を抱え、まさに自分一人で教祖との対話に臨んでいるように見受けられます。きっと教祖は、にっこり笑っていともねんごろにお諭し下されていることでしょう。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 24 Oct 2025 13:06:23 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>低いやさしい心</title>
        <description><![CDATA[ 低いやさしい心
 兵庫県在住　　旭　和世

私には「こんな人って本当にいてるんや～」とずっと思っている人がいます。それは嫁ぎ先の父です。
私は主人と結婚して教会に嫁ぎ、両親と同居生活をするようになって約20年近くなりますが、信じられない事に、父が怒った姿をまだ一度も見たことがないのです！
父は本当に温厚で、真面目で優しい人なのです。誰に対しても同じ態度で、イライラしている姿でさえ見る事がありません。こんなに不機嫌にならない人が世の中にいたのか～？と、いまだに衝撃を受け続けています。
父は母とはお見合いで結婚したのですが、初めて会った時に父が、「今まで私は怒ったことがありません」と母に言ったそうです。母は怒られたり、怒鳴られたりするのが苦手なので、その言葉を聞いて父との結婚を決めたのです。
父は初対面にして、母に「怒らない宣言」をしてしまった訳で、怒るわけにはいかないという事なんです。それでも人間、毎日を機嫌よく暮らすというのは本当に難しい事。私なんて、「今日もニコニコ過ごそう！」と思っていても、ちょっとした事で心が曇って悪天候になったり、時には嵐がやってくる事も。色々な事が起こってくる毎日の中で、こんなにも心穏やかでいられる父を心から尊敬しています。
天理教の教えの一つに、「八つのほこり」があります。人間なら誰しも知らず知らずのうちに溜めてしまう自分中心の心遣いの事です。
「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」と八つある中で、「怒る」というのは「はらだち」にあたります。
父がある時こんな事を聞かせてくれました。
「芸人の明石家さんまさんっておるやろ。あの人は人に腹立てないらしいんや。『腹立てる人っていうのは、自分の方が偉いと思ってるから腹が立つんや』って言うてはったわ。天理教で言うたら『こうまん』の心遣いという事やわな。『こうまん』やと、自分は偉いと思うから、人の間違いや意に沿わない事があると腹が立って、怒ってまうんやな～」
そして、旭家の先祖が天理教に入信した時の事を教えてくれました。
「うちの初代はリウマチという難病をおたすけ頂く時に、『これからは「よく」と「こうまん」の心をお供えさせて頂きます』と心に定めてたすけて頂いたから、「よく」と「こうまん」の心には気をつけて通らせてもらわんとなぁ」と、信仰の元一日を聞かせてくれたのです。
「よく」と「こうまん」。その父の言葉を聞いて、父は初代の通られた思いを胸に毎日を過ごしているのだと改めて思いました。
というのも、父は偉ぶったり、怒らないというだけでなく、本当に「よく」もない人なのです。「これが欲しい」とか「あれがしたい」とか言っている姿をほとんど見たことがありません。物やお金にも執着のない無欲な人なのです。
そんな父ですが、先日、大教会でビンゴ大会があり、なんとその無欲な父が早々にビンゴになったのです！　すると、一緒に参加していた中高生の孫たちが「じぃじ～！じぃじ～！」と大騒ぎです。こんなに若い孫達にキャーキャー言われるおじいちゃんも、そうそういないだろうな～、と笑ってしまったのですが、これも父の人徳だなと思うのです。
当の本人は、「そんなにジージージージーいうのはセミくらいや～」と満面の笑みを浮かべています。孫達が父を慕うのも、日頃から穏やかに子供たちを見守ってくれているからこそだと思います。
今ではまさに聖人君子のような父ですが、初めからそうであったわけではなく、若いころは色々な経験をして、天理教の教会長をつとめることが決まった時に、初代と同じように、「よく」と「こうまん」の心をお供えしたのだと聞かせてくれました。そのおかげで今の私たち家族の仕合わせな姿があるのだと、いつも両親に感謝しています。
それなのに、私はと言えば、ついつい心に埃をためてしまう毎日です。特に子育てが一番忙しかった頃は、予想以上の大変さになかなか喜べず、埃の心ばかり遣っていた事がありました。
子供は親の思い通りには全く行動してくれません。予想をはるかに超える行動力をもつ息子を追いかけ、おっとりしている長女はほったらかし、次女はいつもおんぶされた状態でバタバタと、子育てを楽しむ余裕なんて到底ありませんでした。
優しいお母さんになるつもりが、全く予定通りにいかない事にジレンマや自己嫌悪を感じる毎日でした。有難いご守護をたくさん頂いていながらも、感謝の心を持てていなかったのです。
そんなある日、教祖が梅谷四郎兵衛先生にお聞かせ下さったお言葉を思い出しました。「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」。
若い頃、実家の母がよくこのお言葉を聞かせてくれていました。
「人様をおたすけするには、まず『低いやさしい心』になって、人様の事を一生懸命させて頂く中に、だんだんと自分の癖性分を取って頂けるんだよ」と。
それを思い出し、私は「低いやさしい心」になれていない事にはたと気がつきました。自分の思い通りにならないからと、喜べなかったり心がいづんでしまうのは、まさに自分が「こうまん」で、こうであってほしいという「よく」の心の表れだと気づいたのです。
これは神様に申し訳ない！ 教祖のお言葉通り「低いやさしい心」になるためには、人様をたすける事、つまり「にをいがけ」しかない！と思い当たりました。
教会に嫁ぎながらも、子育てを理由に全くにをいがけが出来ていなかったことを、近くにある教会の同世代の奥さんに打ち明けると、「私も子供が小さいし、なかなか出来ないから、和世ちゃん一緒ににをいがけしない？」と誘って下さいました。
願ってもない提案に「ぜひ！」という事で、お互い子供を連れて、にをいがけに歩かせて頂くことになりました。ドキドキしながら拍子木をたたき、近くの商店街で神名流しをさせて頂きました。久しぶりににをいがけが出来た喜びで胸がいっぱいになった事を、今でも鮮明に思い出します。
それからというもの、教祖のお供をさせてもらえている！ と思いながらにをいがけに歩かせて頂く度に、自分の埃だらけの心が少しずつ澄んでいくような気がしました。すると、それまで喜べなかった事がとても小さな事に感じられたり、にをいがけで断られるたびに、こうまんだった心を低くして頂いているように思い、有難い、喜びいっぱいの毎日になっていきました。
「人たすけたら我が身たすかる」というお言葉通り、にをいがけに歩く事で、自分のこうまんな心に気づかせて頂き、人様のたすかりを願う中に、自分の心もたすけて頂いていると実感しています。
自分の埃だらけの頑固な癖性分はまだまだ取れていませんが、父のような「低いやさしい心」を目指して、少しずつでも歩みを進めていけたらと思っています。



父母に連れられて

この信仰は、親から子へ、子から孫へと、代々語り継ぐことが大切であると教えられます。このような神様のお言葉があります。

「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ／＼年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道付き難くい。」（「おさしづ」Ｍ33・11・16）

ゆえに、天理教の教会では、個人で参拝するのはもちろん、家族ぐるみで参拝したり、行事に参加したりする姿が多く見受けられます。
教祖をめぐって、このような逸話が残されています。

明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衛さんが、当時五、六歳の三男・梅次郎さんを連れて、教祖のいらっしゃるお屋敷へ帰らせて頂きました。ところが梅次郎さんは、赤衣を召された教祖のお姿を見て、当時煙草屋の看板に描かれていた姫達磨を思い出したのか、「達磨はん、達磨はん」と言いました。
それに恐縮した四郎兵衛さんは、次にお屋敷へ帰らせて頂いた時、梅次郎さんを連れて行きませんでした。すると教祖は、
「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」
と仰せられました。
このお言葉を頂いてから、梅次郎さんは、毎度両親に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いたのでした。（教祖伝逸話篇117「父母に連れられて」）

四郎兵衛さんにすれば、たすけて頂いたご恩のある教祖に対して、失礼だという思いが強かったのでしょう。しかし、子供可愛い一条の教祖は、むしろそのような幼子の無邪気な様子を大層お喜びになったのではないでしょうか。そして、親子がこの道の信仰を共にすることの大切さをお諭し下さったのです。
しかしながら、子供に道をつなぐのは容易なことではありません。そのために、各地の教会では、日頃から子供たちに信仰を伝えるべく、様々な少年会活動がさかんに行われています。そして、その総決算として、毎年夏休みには、全国各地から大勢の子供たちが親里に帰り集う「こどもおぢばがえり」が開催されます。
子供の素直な心は、この道の宝です。むしろその子供の純真無垢な姿が、親が自身の信仰を見つめ直す契機となることもあるのではないでしょうか。
かつて教祖を「達磨はん、達磨はん」と呼んで親を困惑させた梅次郎さんは、後に海外布教に尽力するなど、道を弘める上で大いに心を尽くしました。
（終）]]></description>
        <googleplay:description> 低いやさしい心
 兵庫県在住　　旭　和世

私には「こんな人って本当にいてるんや～」とずっと思っている人がいます。それは嫁ぎ先の父です。
私は主人と結婚して教会に嫁ぎ、両親と同居生活をするようになって約20年近くなりますが、信じられない事に、父が怒った姿をまだ一度も見たことがないのです！
父は本当に温厚で、真面目で優しい人なのです。誰に対しても同じ態度で、イライラしている姿でさえ見る事がありません。こんなに不機嫌にならない人が世の中にいたのか～？と、いまだに衝撃を受け続けています。
父は母とはお見合いで結婚したのですが、初めて会った時に父が、「今まで私は怒ったことがありません」と母に言ったそうです。母は怒られたり、怒鳴られたりするのが苦手なので、その言葉を聞いて父との結婚を決めたのです。
父は初対面にして、母に「怒らない宣言」をしてしまった訳で、怒るわけにはいかないという事なんです。それでも人間、毎日を機嫌よく暮らすというのは本当に難しい事。私なんて、「今日もニコニコ過ごそう！」と思っていても、ちょっとした事で心が曇って悪天候になったり、時には嵐がやってくる事も。色々な事が起こってくる毎日の中で、こんなにも心穏やかでいられる父を心から尊敬しています。
天理教の教えの一つに、「八つのほこり」があります。人間なら誰しも知らず知らずのうちに溜めてしまう自分中心の心遣いの事です。
「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」と八つある中で、「怒る」というのは「はらだち」にあたります。
父がある時こんな事を聞かせてくれました。
「芸人の明石家さんまさんっておるやろ。あの人は人に腹立てないらしいんや。『腹立てる人っていうのは、自分の方が偉いと思ってるから腹が立つんや』って言うてはったわ。天理教で言うたら『こうまん』の心遣いという事やわな。『こうまん』やと、自分は偉いと思うから、人の間違いや意に沿わない事があると腹が立って、怒ってまうんやな～」
そして、旭家の先祖が天理教に入信した時の事を教えてくれました。
「うちの初代はリウマチという難病をおたすけ頂く時に、『これからは「よく」と「こうまん」の心をお供えさせて頂きます』と心に定めてたすけて頂いたから、「よく」と「こうまん」の心には気をつけて通らせてもらわんとなぁ」と、信仰の元一日を聞かせてくれたのです。
「よく」と「こうまん」。その父の言葉を聞いて、父は初代の通られた思いを胸に毎日を過ごしているのだと改めて思いました。
というのも、父は偉ぶったり、怒らないというだけでなく、本当に「よく」もない人なのです。「これが欲しい」とか「あれがしたい」とか言っている姿をほとんど見たことがありません。物やお金にも執着のない無欲な人なのです。
そんな父ですが、先日、大教会でビンゴ大会があり、なんとその無欲な父が早々にビンゴになったのです！　すると、一緒に参加していた中高生の孫たちが「じぃじ～！じぃじ～！」と大騒ぎです。こんなに若い孫達にキャーキャー言われるおじいちゃんも、そうそういないだろうな～、と笑ってしまったのですが、これも父の人徳だなと思うのです。
当の本人は、「そんなにジージージージーいうのはセミくらいや～」と満面の笑みを浮かべています。孫達が父を慕うのも、日頃から穏やかに子供たちを見守ってくれているからこそだと思います。
今ではまさに聖人君子のような父ですが、初めからそうであったわけではなく、若いころは色々な経験をして、天理教の教会長をつとめることが決まった時に、初代と同じように、「よく」と「こうまん」の心をお供えしたのだと聞かせてくれました。そのおかげで今の私たち家族の仕合わせな姿があるのだと、いつも両親に感謝しています。
それなのに、私はと言えば、ついつい心に埃をためてしまう毎日です。特に子育てが一番忙しかった頃は、予想以上の大変さになかなか喜べず、埃の心ばかり遣っていた事がありました。
子供は親の思い通りには全く行動してくれません。予想をはるかに超える行動力をもつ息子を追いかけ、おっとりしている長女はほったらかし、次女はいつもおんぶされた状態でバタバタと、子育てを楽しむ余裕なんて到底ありませんでした。
優しいお母さんになるつもりが、全く予定通りにいかない事にジレンマや自己嫌悪を感じる毎日でした。有難いご守護をたくさん頂いていながらも、感謝の心を持てていなかったのです。
そんなある日、教祖が梅谷四郎兵衛先生にお聞かせ下さったお言葉を思い出しました。「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」。
若い頃、実家の母がよくこのお言葉を聞かせてくれていました。
「人様をおたすけするには、まず『低いやさしい心』になって、人様の事を一生懸命させて頂く中に、だんだんと自分の癖性分を取って頂けるんだよ」と。
それを思い出し、私は「低いやさしい心」になれていない事にはたと気がつきました。自分の思い通りにならないからと、喜べなかったり心がいづんでしまうのは、まさに自分が「こうまん」で、こうであってほしいという「よく」の心の表れだと気づいたのです。
これは神様に申し訳ない！ 教祖のお言葉通り「低いやさしい心」になるためには、人様をたすける事、つまり「にをいがけ」しかない！と思い当たりました。
教会に嫁ぎながらも、子育てを理由に全くにをいがけが出来ていなかったことを、近くにある教会の同世代の奥さんに打ち明けると、「私も子供が小さいし、なかなか出来ないから、和世ちゃん一緒ににをいがけしない？」と誘って下さいました。
願ってもない提案に「ぜひ！」という事で、お互い子供を連れて、にをいがけに歩かせて頂くことになりました。ドキドキしながら拍子木をたたき、近くの商店街で神名流しをさせて頂きました。久しぶりににをいがけが出来た喜びで胸がいっぱいになった事を、今でも鮮明に思い出します。
それからというもの、教祖のお供をさせてもらえている！ と思いながらにをいがけに歩かせて頂く度に、自分の埃だらけの心が少しずつ澄んでいくような気がしました。すると、それまで喜べなかった事がとても小さな事に感じられたり、にをいがけで断られるたびに、こうまんだった心を低くして頂いているように思い、有難い、喜びいっぱいの毎日になっていきました。
「人たすけたら我が身たすかる」というお言葉通り、にをいがけに歩く事で、自分のこうまんな心に気づかせて頂き、人様のたすかりを願う中に、自分の心もたすけて頂いていると実感しています。
自分の埃だらけの頑固な癖性分はまだまだ取れていませんが、父のような「低いやさしい心」を目指して、少しずつでも歩みを進めていけたらと思っています。



父母に連れられて

この信仰は、親から子へ、子から孫へと、代々語り継ぐことが大切であると教えられます。このような神様のお言葉があります。

「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ／＼年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道付き難くい。」（「おさしづ」Ｍ33・11・16）

ゆえに、天理教の教会では、個人で参拝するのはもちろん、家族ぐるみで参拝したり、行事に参加したりする姿が多く見受けられます。
教祖をめぐって、このような逸話が残されています。

明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衛さんが、当時五、六歳の三男・梅次郎さんを連れて、教祖のいらっしゃるお屋敷へ帰らせて頂きました。ところが梅次郎さんは、赤衣を召された教祖のお姿を見て、当時煙草屋の看板に描かれていた姫達磨を思い出したのか、「達磨はん、達磨はん」と言いました。
それに恐縮した四郎兵衛さんは、次にお屋敷へ帰らせて頂いた時、梅次郎さんを連れて行きませんでした。すると教祖は、
「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」
と仰せられました。
このお言葉を頂いてから、梅次郎さんは、毎度両親に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いたのでした。（教祖伝逸話篇117「父母に連れられて」）

四郎兵衛さんにすれば、たすけて頂いたご恩のある教祖に対して、失礼だという思いが強かったのでしょう。しかし、子供可愛い一条の教祖は、むしろそのような幼子の無邪気な様子を大層お喜びになったのではないでしょうか。そして、親子がこの道の信仰を共にすることの大切さをお諭し下さったのです。
しかしながら、子供に道をつなぐのは容易なことではありません。そのために、各地の教会では、日頃から子供たちに信仰を伝えるべく、様々な少年会活動がさかんに行われています。そして、その総決算として、毎年夏休みには、全国各地から大勢の子供たちが親里に帰り集う「こどもおぢばがえり」が開催されます。
子供の素直な心は、この道の宝です。むしろその子供の純真無垢な姿が、親が自身の信仰を見つめ直す契機となることもあるのではないでしょうか。
かつて教祖を「達磨はん、達磨はん」と呼んで親を困惑させた梅次郎さんは、後に海外布教に尽力するなど、道を弘める上で大いに心を尽くしました。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary> 低いやさしい心
 兵庫県在住　　旭　和世

私には「こんな人って本当にいてるんや～」とずっと思っている人がいます。それは嫁ぎ先の父です。
私は主人と結婚して教会に嫁ぎ、両親と同居生活をするようになって約20年近くなりますが、信じられない事に、父が怒った姿をまだ一度も見たことがないのです！
父は本当に温厚で、真面目で優しい人なのです。誰に対しても同じ態度で、イライラしている姿でさえ見る事がありません。こんなに不機嫌にならない人が世の中にいたのか～？と、いまだに衝撃を受け続けています。
父は母とはお見合いで結婚したのですが、初めて会った時に父が、「今まで私は怒ったことがありません」と母に言ったそうです。母は怒られたり、怒鳴られたりするのが苦手なので、その言葉を聞いて父との結婚を決めたのです。
父は初対面にして、母に「怒らない宣言」をしてしまった訳で、怒るわけにはいかないという事なんです。それでも人間、毎日を機嫌よく暮らすというのは本当に難しい事。私なんて、「今日もニコニコ過ごそう！」と思っていても、ちょっとした事で心が曇って悪天候になったり、時には嵐がやってくる事も。色々な事が起こってくる毎日の中で、こんなにも心穏やかでいられる父を心から尊敬しています。
天理教の教えの一つに、「八つのほこり」があります。人間なら誰しも知らず知らずのうちに溜めてしまう自分中心の心遣いの事です。
「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」と八つある中で、「怒る」というのは「はらだち」にあたります。
父がある時こんな事を聞かせてくれました。
「芸人の明石家さんまさんっておるやろ。あの人は人に腹立てないらしいんや。『腹立てる人っていうのは、自分の方が偉いと思ってるから腹が立つんや』って言うてはったわ。天理教で言うたら『こうまん』の心遣いという事やわな。『こうまん』やと、自分は偉いと思うから、人の間違いや意に沿わない事があると腹が立って、怒ってまうんやな～」
そして、旭家の先祖が天理教に入信した時の事を教えてくれました。
「うちの初代はリウマチという難病をおたすけ頂く時に、『これからは「よく」と「こうまん」の心をお供えさせて頂きます』と心に定めてたすけて頂いたから、「よく」と「こうまん」の心には気をつけて通らせてもらわんとなぁ」と、信仰の元一日を聞かせてくれたのです。
「よく」と「こうまん」。その父の言葉を聞いて、父は初代の通られた思いを胸に毎日を過ごしているのだと改めて思いました。
というのも、父は偉ぶったり、怒らないというだけでなく、本当に「よく」もない人なのです。「これが欲しい」とか「あれがしたい」とか言っている姿をほとんど見たことがありません。物やお金にも執着のない無欲な人なのです。
そんな父ですが、先日、大教会でビンゴ大会があり、なんとその無欲な父が早々にビンゴになったのです！　すると、一緒に参加していた中高生の孫たちが「じぃじ～！じぃじ～！」と大騒ぎです。こんなに若い孫達にキャーキャー言われるおじいちゃんも、そうそういないだろうな～、と笑ってしまったのですが、これも父の人徳だなと思うのです。
当の本人は、「そんなにジージージージーいうのはセミくらいや～」と満面の笑みを浮かべています。孫達が父を慕うのも、日頃から穏やかに子供たちを見守ってくれているからこそだと思います。
今ではまさに聖人君子のような父ですが、初めからそうであったわけではなく、若いころは色々な経験をして、天理教の教会長をつとめることが決まった時に、初代と同じように、「よく」と「こうまん」の心をお供えしたのだと聞かせてくれました。そのおかげで今の私たち家族の仕合わせな姿があるのだと、いつも両親に感謝しています。
それなのに、私はと言えば、ついつい心に埃をためてしまう毎日です。特に子育てが一番忙しかった頃は、予想以上の大変さになかなか喜べず、埃の心ばかり遣っていた事がありました。
子供は親の思い通りには全く行動してくれません。予想をはるかに超える行動力をもつ息子を追いかけ、おっとりしている長女はほったらかし、次女はいつもおんぶされた状態でバタバタと、子育てを楽しむ余裕なんて到底ありませんでした。
優しいお母さんになるつもりが、全く予定通りにいかない事にジレンマや自己嫌悪を感じる毎日でした。有難いご守護をたくさん頂いていながらも、感謝の心を持てていなかったのです。
そんなある日、教祖が梅谷四郎兵衛先生にお聞かせ下さったお言葉を思い出しました。「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」。
若い頃、実家の母がよくこのお言葉を聞かせてくれていました。
「人様をおたすけするには、まず『低いやさしい心』になって、人様の事を一生懸命させて頂く中に、だんだんと自分の癖性分を取って頂けるんだよ」と。
それを思い出し、私は「低いやさしい心」になれていない事にはたと気がつきました。自分の思い通りにならないからと、喜べなかったり心がいづんでしまうのは、まさに自分が「こうまん」で、こうであってほしいという「よく」の心の表れだと気づいたのです。
これは神様に申し訳ない！ 教祖のお言葉通り「低いやさしい心」になるためには、人様をたすける事、つまり「にをいがけ」しかない！と思い当たりました。
教会に嫁ぎながらも、子育てを理由に全くにをいがけが出来ていなかったことを、近くにある教会の同世代の奥さんに打ち明けると、「私も子供が小さいし、なかなか出来ないから、和世ちゃん一緒ににをいがけしない？」と誘って下さいました。
願ってもない提案に「ぜひ！」という事で、お互い子供を連れて、にをいがけに歩かせて頂くことになりました。ドキドキしながら拍子木をたたき、近くの商店街で神名流しをさせて頂きました。久しぶりににをいがけが出来た喜びで胸がいっぱいになった事を、今でも鮮明に思い出します。
それからというもの、教祖のお供をさせてもらえている！ と思いながらにをいがけに歩かせて頂く度に、自分の埃だらけの心が少しずつ澄んでいくような気がしました。すると、それまで喜べなかった事がとても小さな事に感じられたり、にをいがけで断られるたびに、こうまんだった心を低くして頂いているように思い、有難い、喜びいっぱいの毎日になっていきました。
「人たすけたら我が身たすかる」というお言葉通り、にをいがけに歩く事で、自分のこうまんな心に気づかせて頂き、人様のたすかりを願う中に、自分の心もたすけて頂いていると実感しています。
自分の埃だらけの頑固な癖性分はまだまだ取れていませんが、父のような「低いやさしい心」を目指して、少しずつでも歩みを進めていけたらと思っています。



父母に連れられて

この信仰は、親から子へ、子から孫へと、代々語り継ぐことが大切であると教えられます。このような神様のお言葉があります。

「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ／＼年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道付き難くい。」（「おさしづ」Ｍ33・11・16）

ゆえに、天理教の教会では、個人で参拝するのはもちろん、家族ぐるみで参拝したり、行事に参加したりする姿が多く見受けられます。
教祖をめぐって、このような逸話が残されています。

明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衛さんが、当時五、六歳の三男・梅次郎さんを連れて、教祖のいらっしゃるお屋敷へ帰らせて頂きました。ところが梅次郎さんは、赤衣を召された教祖のお姿を見て、当時煙草屋の看板に描かれていた姫達磨を思い出したのか、「達磨はん、達磨はん」と言いました。
それに恐縮した四郎兵衛さんは、次にお屋敷へ帰らせて頂いた時、梅次郎さんを連れて行きませんでした。すると教祖は、
「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」
と仰せられました。
このお言葉を頂いてから、梅次郎さんは、毎度両親に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いたのでした。（教祖伝逸話篇117「父母に連れられて」）

四郎兵衛さんにすれば、たすけて頂いたご恩のある教祖に対して、失礼だという思いが強かったのでしょう。しかし、子供可愛い一条の教祖は、むしろそのような幼子の無邪気な様子を大層お喜びになったのではないでしょうか。そして、親子がこの道の信仰を共にすることの大切さをお諭し下さったのです。
しかしながら、子供に道をつなぐのは容易なことではありません。そのために、各地の教会では、日頃から子供たちに信仰を伝えるべく、様々な少年会活動がさかんに行われています。そして、その総決算として、毎年夏休みには、全国各地から大勢の子供たちが親里に帰り集う「こどもおぢばがえり」が開催されます。
子供の素直な心は、この道の宝です。むしろその子供の純真無垢な姿が、親が自身の信仰を見つめ直す契機となることもあるのではないでしょうか。
かつて教祖を「達磨はん、達磨はん」と呼んで親を困惑させた梅次郎さんは、後に海外布教に尽力するなど、道を弘める上で大いに心を尽くしました。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 17 Oct 2025 09:24:23 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>最後のギュー</title>
        <description><![CDATA[最後のギュー
岡山県在住　　山﨑　石根

私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。
信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。
私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。
さて、その報せは記念のお祭りの二日前の５月８日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。
報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。
ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。
賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。
その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。
私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。
今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。
すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。
父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。
さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。
6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。
しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息を引き取った」との連絡が入りました。おつとめが途中でしたので、そこから私たち二人はおつとめを最後まで続けました。それは、もちろん「生き返って欲しい」という祈りではなく、約一か月、命をつないで下さったことへの感謝のおつとめでした。
お葬式は「待ったなし」とよく言われます。諸般の事情から、亡くなったその日にみたまうつし、翌日に告別式が行われることになり、私たちは大急ぎで家族揃って奈良へと出発しました。また、天理にいる息子二人も会場に合流して、無事にお葬式が始まりました。
母の亡骸を見た妻の父は、その顔が本当に安らかな笑顔だったので、「この顔を見てたら、何も言うことあれへん」と口にしていました。
また、お葬式の斎主をつとめて下さった妻の里の教会の会長さんが、母の道すがらを偲ぶ諄辞という祭文を奏上して下さいました。その中で、母が父と苦楽を共にした大教会での伏せこみのくだりでは、会長さん自身が言葉を詰まらせ、涙声で読み上げて下さったことも、本当にありがたいなあと感じました。
さらに、教会の前会長の奥さんが弔辞を送って下さいました。それこそ奥さんも、父と母と苦楽を共にし、支えて下さいましたので、涙なしでは聞くことが出来ませんでした。
「えらい急いで、親神様のもとに抱きしめられに行っちゃったんやね。二人が毎朝、大教会の朝づとめに参拝する姿を見て、大教会の信者さんがみんな『ようぼくのお手本やな』って言って下さってたんだよ」と、本当にありがたいお手紙を届けて下さり、母をみんなで見送ることが出来たステキなお葬式になりました。
さて、我が家の三男は昔から日常的に「お母ちゃん大好き！」と妻をハグしています。三男が成長するにつれて、「そろそろお年頃だけど、大丈夫かな？」と妻は心配になる一方で、素直にそれが嬉しいという気持ちもあり、「いつまでやってくれるかな」と、普段から思っていたようです。その上で、「よく考えたら、私は自分の母親にこんなことしたことがあるかなぁ」と思うようになったのです。
「もちろん子どもの頃にはあったかも知れないけど、してあげたこと、言ってあげたこと、もう随分ないなあ…」
今年のゴールデンウィーク、妻はちょうど実家に泊まる機会があり、５月５日に出発する朝、妻は「お母さん、大好き！」と言いながら、ギューッと母を抱きしめたのでした。母は、「や～」と驚いて高い声を出しながら、照れた様子で、とても嬉しそうにしていたそうです。結果的に、それが妻と母の最後のやりとりとなりました。
妻にしてみれば、もっともっと親孝行したかったかも知れませんが、図らずもこの機会に改めて親からかけて頂いた親心を知ることが出来ました。それは、親神様が約一か月命をつないで下さったからこそで、私たちに心の準備期間を与えて下さったようにも感じます。それにしても、親神様の懐に抱かれる前に最後のハグが出来たなんて、何だか親神様も粋な計らいをされるなぁと感じました。
妻が三男に、「ありがとう。おかげでお母ちゃんも最後にギュー出来たわ」とお礼を言うと、「私たちも、いっつもギューしてるし！」と姉と妹から異議が唱えられました。
「ホンマやね。みんな、ありがとう」
今日も朝夕に、ご先祖様に、そしてお母さんに、妻と共にお礼を申し上げたいと思います。



なにかなハんとゆハんてな

教祖が教えられた「みかぐらうた」は、手振りと共に日々唱える中で、私たちに様々な気づきを与えて下さいます。
三下り目に、
　六ツ　むりなねがひはしてくれな　　　　ひとすぢごゝろになりてこい
　七ツ　なんでもこれからひとすぢに　　　　かみにもたれてゆきまする

とあります。
このお歌が作られたのは慶応3年、1867年のことですが、この年にお屋敷へ参拝した人々のことを記録した「御神前名記帳」という資料が残されています。
それによると、当時の人々が「眼病、足イタ、カタコリ、痔」などの身体に関する願いにとどまらず、「縁談、悪夢、物の紛失」など、実にさまざまな願い出をしていたことが分かります。
しかし教祖は、どんな願い出に対しても、「無理な願いはしてくれな」とは、仰せにならなかったのではないでしょうか。むしろ、誰に対しても、母親が子供を迎え入れるように、「よう帰ってきたなあ」と、大きな親心で迎えられ、どのような病気や事情もお引き受け下さったのだと想像できます。だからこそ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、たすけてくださる」との噂が広まり、この道が徐々に進展していったのです。
では、一体何を「無理な願い」だと仰せになっているのでしょうか。それは願う内容よりも、願う人の心について仰せ下さっているのだと思います。
直筆による「おふでさき」に、

　　月日にハなにかなハんとゆハんてな　　みなめへ／＼の心したいや　　（十三 120）

とあるように、親神様は私たちの心次第でどのような願いも叶えて下さるのです。
「無理な願い」とは文字通り、受け取って頂けるような「理」が無いまま願うということ。心のどこかに、「本当にたすけて頂けるのだろうか」と少しでも疑う心があるなら、到底親神様には受け取って頂けないでしょう。
「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の切なる願いに対して、「かみにもたれてゆきまする」と私たちはお答えしている訳ですから、これは大変な宣言をしていることになります。まさに、何が起きても揺らぐことのない確かな信仰が、試されていると言えるのではないでしょうか。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>最後のギュー
岡山県在住　　山﨑　石根

私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。
信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。
私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。
さて、その報せは記念のお祭りの二日前の５月８日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。
報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。
ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。
賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。
その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。
私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。
今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。
すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。
父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。
さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。
6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。
しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息を引き取った」との連絡が入りました。おつとめが途中でしたので、そこから私たち二人はおつとめを最後まで続けました。それは、もちろん「生き返って欲しい」という祈りではなく、約一か月、命をつないで下さったことへの感謝のおつとめでした。
お葬式は「待ったなし」とよく言われます。諸般の事情から、亡くなったその日にみたまうつし、翌日に告別式が行われることになり、私たちは大急ぎで家族揃って奈良へと出発しました。また、天理にいる息子二人も会場に合流して、無事にお葬式が始まりました。
母の亡骸を見た妻の父は、その顔が本当に安らかな笑顔だったので、「この顔を見てたら、何も言うことあれへん」と口にしていました。
また、お葬式の斎主をつとめて下さった妻の里の教会の会長さんが、母の道すがらを偲ぶ諄辞という祭文を奏上して下さいました。その中で、母が父と苦楽を共にした大教会での伏せこみのくだりでは、会長さん自身が言葉を詰まらせ、涙声で読み上げて下さったことも、本当にありがたいなあと感じました。
さらに、教会の前会長の奥さんが弔辞を送って下さいました。それこそ奥さんも、父と母と苦楽を共にし、支えて下さいましたので、涙なしでは聞くことが出来ませんでした。
「えらい急いで、親神様のもとに抱きしめられに行っちゃったんやね。二人が毎朝、大教会の朝づとめに参拝する姿を見て、大教会の信者さんがみんな『ようぼくのお手本やな』って言って下さってたんだよ」と、本当にありがたいお手紙を届けて下さり、母をみんなで見送ることが出来たステキなお葬式になりました。
さて、我が家の三男は昔から日常的に「お母ちゃん大好き！」と妻をハグしています。三男が成長するにつれて、「そろそろお年頃だけど、大丈夫かな？」と妻は心配になる一方で、素直にそれが嬉しいという気持ちもあり、「いつまでやってくれるかな」と、普段から思っていたようです。その上で、「よく考えたら、私は自分の母親にこんなことしたことがあるかなぁ」と思うようになったのです。
「もちろん子どもの頃にはあったかも知れないけど、してあげたこと、言ってあげたこと、もう随分ないなあ…」
今年のゴールデンウィーク、妻はちょうど実家に泊まる機会があり、５月５日に出発する朝、妻は「お母さん、大好き！」と言いながら、ギューッと母を抱きしめたのでした。母は、「や～」と驚いて高い声を出しながら、照れた様子で、とても嬉しそうにしていたそうです。結果的に、それが妻と母の最後のやりとりとなりました。
妻にしてみれば、もっともっと親孝行したかったかも知れませんが、図らずもこの機会に改めて親からかけて頂いた親心を知ることが出来ました。それは、親神様が約一か月命をつないで下さったからこそで、私たちに心の準備期間を与えて下さったようにも感じます。それにしても、親神様の懐に抱かれる前に最後のハグが出来たなんて、何だか親神様も粋な計らいをされるなぁと感じました。
妻が三男に、「ありがとう。おかげでお母ちゃんも最後にギュー出来たわ」とお礼を言うと、「私たちも、いっつもギューしてるし！」と姉と妹から異議が唱えられました。
「ホンマやね。みんな、ありがとう」
今日も朝夕に、ご先祖様に、そしてお母さんに、妻と共にお礼を申し上げたいと思います。



なにかなハんとゆハんてな

教祖が教えられた「みかぐらうた」は、手振りと共に日々唱える中で、私たちに様々な気づきを与えて下さいます。
三下り目に、
　六ツ　むりなねがひはしてくれな　　　　ひとすぢごゝろになりてこい
　七ツ　なんでもこれからひとすぢに　　　　かみにもたれてゆきまする

とあります。
このお歌が作られたのは慶応3年、1867年のことですが、この年にお屋敷へ参拝した人々のことを記録した「御神前名記帳」という資料が残されています。
それによると、当時の人々が「眼病、足イタ、カタコリ、痔」などの身体に関する願いにとどまらず、「縁談、悪夢、物の紛失」など、実にさまざまな願い出をしていたことが分かります。
しかし教祖は、どんな願い出に対しても、「無理な願いはしてくれな」とは、仰せにならなかったのではないでしょうか。むしろ、誰に対しても、母親が子供を迎え入れるように、「よう帰ってきたなあ」と、大きな親心で迎えられ、どのような病気や事情もお引き受け下さったのだと想像できます。だからこそ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、たすけてくださる」との噂が広まり、この道が徐々に進展していったのです。
では、一体何を「無理な願い」だと仰せになっているのでしょうか。それは願う内容よりも、願う人の心について仰せ下さっているのだと思います。
直筆による「おふでさき」に、

　　月日にハなにかなハんとゆハんてな　　みなめへ／＼の心したいや　　（十三 120）

とあるように、親神様は私たちの心次第でどのような願いも叶えて下さるのです。
「無理な願い」とは文字通り、受け取って頂けるような「理」が無いまま願うということ。心のどこかに、「本当にたすけて頂けるのだろうか」と少しでも疑う心があるなら、到底親神様には受け取って頂けないでしょう。
「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の切なる願いに対して、「かみにもたれてゆきまする」と私たちはお答えしている訳ですから、これは大変な宣言をしていることになります。まさに、何が起きても揺らぐことのない確かな信仰が、試されていると言えるのではないでしょうか。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>最後のギュー
岡山県在住　　山﨑　石根

私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。
信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。
私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。
さて、その報せは記念のお祭りの二日前の５月８日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。
報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。
ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。
賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。
その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。
私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。
今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。
すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。
父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。
さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。
6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。
しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息を引き取った」との連絡が入りました。おつとめが途中でしたので、そこから私たち二人はおつとめを最後まで続けました。それは、もちろん「生き返って欲しい」という祈りではなく、約一か月、命をつないで下さったことへの感謝のおつとめでした。
お葬式は「待ったなし」とよく言われます。諸般の事情から、亡くなったその日にみたまうつし、翌日に告別式が行われることになり、私たちは大急ぎで家族揃って奈良へと出発しました。また、天理にいる息子二人も会場に合流して、無事にお葬式が始まりました。
母の亡骸を見た妻の父は、その顔が本当に安らかな笑顔だったので、「この顔を見てたら、何も言うことあれへん」と口にしていました。
また、お葬式の斎主をつとめて下さった妻の里の教会の会長さんが、母の道すがらを偲ぶ諄辞という祭文を奏上して下さいました。その中で、母が父と苦楽を共にした大教会での伏せこみのくだりでは、会長さん自身が言葉を詰まらせ、涙声で読み上げて下さったことも、本当にありがたいなあと感じました。
さらに、教会の前会長の奥さんが弔辞を送って下さいました。それこそ奥さんも、父と母と苦楽を共にし、支えて下さいましたので、涙なしでは聞くことが出来ませんでした。
「えらい急いで、親神様のもとに抱きしめられに行っちゃったんやね。二人が毎朝、大教会の朝づとめに参拝する姿を見て、大教会の信者さんがみんな『ようぼくのお手本やな』って言って下さってたんだよ」と、本当にありがたいお手紙を届けて下さり、母をみんなで見送ることが出来たステキなお葬式になりました。
さて、我が家の三男は昔から日常的に「お母ちゃん大好き！」と妻をハグしています。三男が成長するにつれて、「そろそろお年頃だけど、大丈夫かな？」と妻は心配になる一方で、素直にそれが嬉しいという気持ちもあり、「いつまでやってくれるかな」と、普段から思っていたようです。その上で、「よく考えたら、私は自分の母親にこんなことしたことがあるかなぁ」と思うようになったのです。
「もちろん子どもの頃にはあったかも知れないけど、してあげたこと、言ってあげたこと、もう随分ないなあ…」
今年のゴールデンウィーク、妻はちょうど実家に泊まる機会があり、５月５日に出発する朝、妻は「お母さん、大好き！」と言いながら、ギューッと母を抱きしめたのでした。母は、「や～」と驚いて高い声を出しながら、照れた様子で、とても嬉しそうにしていたそうです。結果的に、それが妻と母の最後のやりとりとなりました。
妻にしてみれば、もっともっと親孝行したかったかも知れませんが、図らずもこの機会に改めて親からかけて頂いた親心を知ることが出来ました。それは、親神様が約一か月命をつないで下さったからこそで、私たちに心の準備期間を与えて下さったようにも感じます。それにしても、親神様の懐に抱かれる前に最後のハグが出来たなんて、何だか親神様も粋な計らいをされるなぁと感じました。
妻が三男に、「ありがとう。おかげでお母ちゃんも最後にギュー出来たわ」とお礼を言うと、「私たちも、いっつもギューしてるし！」と姉と妹から異議が唱えられました。
「ホンマやね。みんな、ありがとう」
今日も朝夕に、ご先祖様に、そしてお母さんに、妻と共にお礼を申し上げたいと思います。



なにかなハんとゆハんてな

教祖が教えられた「みかぐらうた」は、手振りと共に日々唱える中で、私たちに様々な気づきを与えて下さいます。
三下り目に、
　六ツ　むりなねがひはしてくれな　　　　ひとすぢごゝろになりてこい
　七ツ　なんでもこれからひとすぢに　　　　かみにもたれてゆきまする

とあります。
このお歌が作られたのは慶応3年、1867年のことですが、この年にお屋敷へ参拝した人々のことを記録した「御神前名記帳」という資料が残されています。
それによると、当時の人々が「眼病、足イタ、カタコリ、痔」などの身体に関する願いにとどまらず、「縁談、悪夢、物の紛失」など、実にさまざまな願い出をしていたことが分かります。
しかし教祖は、どんな願い出に対しても、「無理な願いはしてくれな」とは、仰せにならなかったのではないでしょうか。むしろ、誰に対しても、母親が子供を迎え入れるように、「よう帰ってきたなあ」と、大きな親心で迎えられ、どのような病気や事情もお引き受け下さったのだと想像できます。だからこそ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、たすけてくださる」との噂が広まり、この道が徐々に進展していったのです。
では、一体何を「無理な願い」だと仰せになっているのでしょうか。それは願う内容よりも、願う人の心について仰せ下さっているのだと思います。
直筆による「おふでさき」に、

　　月日にハなにかなハんとゆハんてな　　みなめへ／＼の心したいや　　（十三 120）

とあるように、親神様は私たちの心次第でどのような願いも叶えて下さるのです。
「無理な願い」とは文字通り、受け取って頂けるような「理」が無いまま願うということ。心のどこかに、「本当にたすけて頂けるのだろうか」と少しでも疑う心があるなら、到底親神様には受け取って頂けないでしょう。
「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の切なる願いに対して、「かみにもたれてゆきまする」と私たちはお答えしている訳ですから、これは大変な宣言をしていることになります。まさに、何が起きても揺らぐことのない確かな信仰が、試されていると言えるのではないでしょうか。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 10 Oct 2025 09:31:08 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>記憶に残る活動を</title>
        <description><![CDATA[記憶に残る活動を
埼玉県在住　　関根　健一

2025年6月。巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんの訃報が、全国の野球ファンのもとに届きました。
長嶋さんと言えば、誰もが認める、日本のプロ野球界を牽引してきたスーパースター。「我が巨人軍は永久に不滅です」の名ゼリフを残した、あの引退セレモニーの時、私はまだ一歳でした。ですから、現役時代の活躍をリアルタイムで見ることは出来ませんでした。
小学3年生から始めたリトルリーグ。当時、チームメイトに「茂雄」という名前の子が何人もいたことを覚えています。それだけでも、長嶋さんが世代を超えて、日本中の野球少年に影響を与えてきた存在だったことが分かります。
長嶋さんのことを、「記録より記憶に残る選手」と評する声があります。もちろん実際には、名選手と言われるにふさわしい数々の大記録を残しています。しかし、そうした記録を見るまでもなく、誰もがその姿を心に深く焼きつけている。だからこそ、この言葉に意味があるのだと思います。
一方、長嶋さんの現役引退から約20年後。1990年代には、野茂英雄さんがメジャーリーグのドジャースで大活躍しました。それ以降、日本の野球選手が海を越え、メジャーリーグで活躍することも珍しくなくなりました。
2000年代に入ってからは、イチローさんや大谷翔平さんのように、メジャーリーグの記録をも塗り替え、世界の野球史に名を刻む日本人選手も現れました。その背景には、旧来の野球理論が変化し、より科学的・効率的なトレーニングが取り入れられてきたことが考えられます。
たとえば、私が子供の頃には当たり前だった「うさぎ跳び」。今では、成長期の子供には弊害があるとされ、トレーニングに取り入れるチームはほとんどなくなりました。また、「根性論」に頼った指導や、体罰による指導もあまり見かけなくなってきました。
こうした流れの中で、SNSなどでは、長嶋さんのような過去の名選手と、現代の選手を比較する議論がよく見られます。
「昔の選手が今の時代にプレーしていたら、あれだけの記録は残せなかったのではないか？」
野球ファンとして、想像を膨らませながら楽しむ分には良いのですが、議論が過熱するあまり、過去の名選手の記録を否定するような風潮も少しずつ現れてきました。
そんな中、あるSNSでこんな意見を目にしました。
「過去に記録を打ち立てた名選手が、もし今の時代に現役だったとしても、時代に合わせた努力をして、結果を残していると思う。時代が彼らをスターにしたのではなく、彼らの努力が彼らをスターにしたんだ」
私はこの言葉に深く納得しました。
どんなに想像しても、現実に過去と今の選手を比べることは出来ません。けれど、過去の名選手が、その時できる最大限の努力を重ね、野球界を盛り上げてくれたからこそ、今に至るまで選手たちが活躍できる場が守られてきたのだと思います。
さて、話は変わりますが、先日、上級教会を会場に開催された「ようぼく一斉活動日」に参加しました。
プログラムの中で、教祖が現身を隠された明治20年陰暦正月26日のお屋敷の様子を演劇で再現した動画が上映されました。
その動画では、後の初代真柱様をはじめ、天理教の草創期を支えてきた先人たちが、教祖との突然の別れに直面しながらも、未来へ向かう決意を抱く姿が描かれていました。とても勇んだ気持ちになれるものでした。
上映後、参加者同士で感想を語り合う「ねりあい」の時間となりました。私のグループは、同年代の男性Ａさんと、私より少し年上と思われる女性Ｂさん、そして私の三人でした。
ＡさんもＢさんも支部管内にお住いのようぼくで、お二人とも、動画にとても感動された様子でした。感想を出し合う中で、Ａさんはこうおっしゃいました。
「昔の先生は凄すぎて、私なんか何もできていないなあと、反省してしまいました」
その気持ち、私も痛いほど分かります。でも、せっかくの機会だから、勇みの種を持って帰って頂きたい。そんな思いで私はこう話しました。
「野球が好きでプレーしている人の多くは、大谷選手のようにはなれません。でも、大谷選手のように打てないからといって、野球をやめてしまうのはもったいないですよね。多くの人にとって、野球は趣味。だからこそ、自分に見合った場所で、それに合わせた努力をすることが大切です。信仰も同じだと思います。私たちも、先人の先生の姿を見習いながら、今、置かれた場所、職場や教会で、出来ることをさせて頂けばそれでいいのだと思います」
するとＡさんは、「なるほど。そのとおりですね」と、にっこり微笑んで下さいました。Bさんも横で静かにうなずいて下さいました。
そのお二人の姿を見ていたら、ふと、「このお二人の所属する教会の会長さんが、この様子をご覧になったら、きっと大層喜ばれるだろうなあ…」と思いました。私自身も教会長として、信者さんが教えを通して前向きに勇む姿を見るのは、何よりも嬉しいことだからです。
その時、年祭活動一年目に、この「家族円満」の原稿依頼を頂き、大教会長様にご相談した際に、「関根さんにしか出来ない年祭活動だから、勇んで勤めてください」と声をかけて頂いたことを思い出しました。あの時の大教会長様も、私が前向きに取り組もうとする姿を喜んで下さっていたのだと思います。
残りわずかな年祭活動。目に見える結果が出ずに焦る気持ちがあったのですが、まずは自教会につながる信者さんの勇んだ姿を喜び、「140年祭の年祭活動は、教会につながる皆が勇んでつとめさせてもらった」という記憶を胸に刻めるように、前向きに歩んでいこうと決意を新たにしました。



だけど有難い「ノミのジャンプ」

ノミという虫がいます。先日、この虫にまつわる面白い話を聞きました。
ノミというのは非常に小さいものですが、自分の体の五十倍から百倍くらいジャンプするのです。すごいですね。そのノミを、コップを裏返して中に閉じ込めてしまうと、当然、高く跳ぶことはできません。どうなるかというと、コップの底に当たって落ちるを繰り返すのです。そして、そのままにしておくと、コップを外しても、その高さまでしか跳べなくなるそうです。
人間も、神様から授かった能力は無限でも、嫌なことやつらいことがあると、自分で「これが限界」と枠や殻を作って、コップのなかのノミのように、そこまでしかジャンプしなくなることがあるのではないでしょうか。
私は、病気や事情は、私たちが自分で「もうここまで」「自分の能力はこんなもの」と決めてかかっている壁を突き破るチャンスとして、親神様が与えてくださっているのではないかと思うのです。病気になったら、普段は当たり前にできていることができなくなると考えがちですが、心の持ち方によっては、普段できないことができるようになる。私は、それが「ふし」だと思うのです。
最近、ある三十代の男性の話を聞きました。彼は、父親が末期の胆嚢ガンの宣告を受けました。家族はとてもショックを受けました。ところが、その直後、自分自身も肝臓ガンのステージⅡだと分かったのです。父親のことだけでも家族は大変なのに、自分の病気のことはとても言い出せないと、彼は悩みました。
そこへ教会の人がやって来て、「親神様、教祖にもたれさせてもらおう」と彼を励ましました。しかし、その言葉にも勇めず、教会やお道に対する不足を並べ立てて、その人を追い返してしまいました。あとで冷静になってみて、自分は何も実行しないで文句ばかり言っていたと、少し反省したそうです。
そこへまた教会の人がやって来て「十月のひのきしん隊に行かないか」と声を掛けました。前回のことがあったので、彼は一応「はい」と返事をしました。しかし、内心では「この体でつとめさせていただくのは、とても無理だ」と思っていたそうです。
それから二週間後、病院の診察がありました。検査の結果、「リンパ節に転移している。余命は二カ月」と宣告を受けました。彼には、男の子が二人いました。こんなに小さいうちに父親がいなくなると思うと、不憫でなりません。残った家族はどうなるのだろうと思ったら、なんとしてもたすけていただきたいという気持ちになって、「生涯、神様の御用一筋につとめます。おたすけをして通ります」と決心したのです。「ひのきしん隊に行くのは無理だ」と考えていた人が、生涯、神様の御用一筋に通る決心をしました。
十日後に再度、診察がありました。検査の結果、ガンが消えていたのです。彼は喜びいっぱいに修養科へ行って、教祖百三十年祭をおぢばで元気に迎えさせていただいたということです。
ノミの話に戻りますが、コップの高さまでしか跳べなくなったノミは、いったいどうすれば元に戻るか。自分の体の五十倍、百倍跳ぶノミのなかに入れたら、すぐに跳べるようになるそうです。私は、これが教会だと思います。教会へ行けば、自分の枠や殻でなく、神様を目標に歩んでいる人たちがいます。その人たちは、いわば五十倍、百倍跳んでいるノミの仲間です。そこへ入ることによって、すぐに自分も跳べるようになる。これが教会だと思うのです。また、そんな教会でありたいと思います。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>記憶に残る活動を
埼玉県在住　　関根　健一

2025年6月。巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんの訃報が、全国の野球ファンのもとに届きました。
長嶋さんと言えば、誰もが認める、日本のプロ野球界を牽引してきたスーパースター。「我が巨人軍は永久に不滅です」の名ゼリフを残した、あの引退セレモニーの時、私はまだ一歳でした。ですから、現役時代の活躍をリアルタイムで見ることは出来ませんでした。
小学3年生から始めたリトルリーグ。当時、チームメイトに「茂雄」という名前の子が何人もいたことを覚えています。それだけでも、長嶋さんが世代を超えて、日本中の野球少年に影響を与えてきた存在だったことが分かります。
長嶋さんのことを、「記録より記憶に残る選手」と評する声があります。もちろん実際には、名選手と言われるにふさわしい数々の大記録を残しています。しかし、そうした記録を見るまでもなく、誰もがその姿を心に深く焼きつけている。だからこそ、この言葉に意味があるのだと思います。
一方、長嶋さんの現役引退から約20年後。1990年代には、野茂英雄さんがメジャーリーグのドジャースで大活躍しました。それ以降、日本の野球選手が海を越え、メジャーリーグで活躍することも珍しくなくなりました。
2000年代に入ってからは、イチローさんや大谷翔平さんのように、メジャーリーグの記録をも塗り替え、世界の野球史に名を刻む日本人選手も現れました。その背景には、旧来の野球理論が変化し、より科学的・効率的なトレーニングが取り入れられてきたことが考えられます。
たとえば、私が子供の頃には当たり前だった「うさぎ跳び」。今では、成長期の子供には弊害があるとされ、トレーニングに取り入れるチームはほとんどなくなりました。また、「根性論」に頼った指導や、体罰による指導もあまり見かけなくなってきました。
こうした流れの中で、SNSなどでは、長嶋さんのような過去の名選手と、現代の選手を比較する議論がよく見られます。
「昔の選手が今の時代にプレーしていたら、あれだけの記録は残せなかったのではないか？」
野球ファンとして、想像を膨らませながら楽しむ分には良いのですが、議論が過熱するあまり、過去の名選手の記録を否定するような風潮も少しずつ現れてきました。
そんな中、あるSNSでこんな意見を目にしました。
「過去に記録を打ち立てた名選手が、もし今の時代に現役だったとしても、時代に合わせた努力をして、結果を残していると思う。時代が彼らをスターにしたのではなく、彼らの努力が彼らをスターにしたんだ」
私はこの言葉に深く納得しました。
どんなに想像しても、現実に過去と今の選手を比べることは出来ません。けれど、過去の名選手が、その時できる最大限の努力を重ね、野球界を盛り上げてくれたからこそ、今に至るまで選手たちが活躍できる場が守られてきたのだと思います。
さて、話は変わりますが、先日、上級教会を会場に開催された「ようぼく一斉活動日」に参加しました。
プログラムの中で、教祖が現身を隠された明治20年陰暦正月26日のお屋敷の様子を演劇で再現した動画が上映されました。
その動画では、後の初代真柱様をはじめ、天理教の草創期を支えてきた先人たちが、教祖との突然の別れに直面しながらも、未来へ向かう決意を抱く姿が描かれていました。とても勇んだ気持ちになれるものでした。
上映後、参加者同士で感想を語り合う「ねりあい」の時間となりました。私のグループは、同年代の男性Ａさんと、私より少し年上と思われる女性Ｂさん、そして私の三人でした。
ＡさんもＢさんも支部管内にお住いのようぼくで、お二人とも、動画にとても感動された様子でした。感想を出し合う中で、Ａさんはこうおっしゃいました。
「昔の先生は凄すぎて、私なんか何もできていないなあと、反省してしまいました」
その気持ち、私も痛いほど分かります。でも、せっかくの機会だから、勇みの種を持って帰って頂きたい。そんな思いで私はこう話しました。
「野球が好きでプレーしている人の多くは、大谷選手のようにはなれません。でも、大谷選手のように打てないからといって、野球をやめてしまうのはもったいないですよね。多くの人にとって、野球は趣味。だからこそ、自分に見合った場所で、それに合わせた努力をすることが大切です。信仰も同じだと思います。私たちも、先人の先生の姿を見習いながら、今、置かれた場所、職場や教会で、出来ることをさせて頂けばそれでいいのだと思います」
するとＡさんは、「なるほど。そのとおりですね」と、にっこり微笑んで下さいました。Bさんも横で静かにうなずいて下さいました。
そのお二人の姿を見ていたら、ふと、「このお二人の所属する教会の会長さんが、この様子をご覧になったら、きっと大層喜ばれるだろうなあ…」と思いました。私自身も教会長として、信者さんが教えを通して前向きに勇む姿を見るのは、何よりも嬉しいことだからです。
その時、年祭活動一年目に、この「家族円満」の原稿依頼を頂き、大教会長様にご相談した際に、「関根さんにしか出来ない年祭活動だから、勇んで勤めてください」と声をかけて頂いたことを思い出しました。あの時の大教会長様も、私が前向きに取り組もうとする姿を喜んで下さっていたのだと思います。
残りわずかな年祭活動。目に見える結果が出ずに焦る気持ちがあったのですが、まずは自教会につながる信者さんの勇んだ姿を喜び、「140年祭の年祭活動は、教会につながる皆が勇んでつとめさせてもらった」という記憶を胸に刻めるように、前向きに歩んでいこうと決意を新たにしました。



だけど有難い「ノミのジャンプ」

ノミという虫がいます。先日、この虫にまつわる面白い話を聞きました。
ノミというのは非常に小さいものですが、自分の体の五十倍から百倍くらいジャンプするのです。すごいですね。そのノミを、コップを裏返して中に閉じ込めてしまうと、当然、高く跳ぶことはできません。どうなるかというと、コップの底に当たって落ちるを繰り返すのです。そして、そのままにしておくと、コップを外しても、その高さまでしか跳べなくなるそうです。
人間も、神様から授かった能力は無限でも、嫌なことやつらいことがあると、自分で「これが限界」と枠や殻を作って、コップのなかのノミのように、そこまでしかジャンプしなくなることがあるのではないでしょうか。
私は、病気や事情は、私たちが自分で「もうここまで」「自分の能力はこんなもの」と決めてかかっている壁を突き破るチャンスとして、親神様が与えてくださっているのではないかと思うのです。病気になったら、普段は当たり前にできていることができなくなると考えがちですが、心の持ち方によっては、普段できないことができるようになる。私は、それが「ふし」だと思うのです。
最近、ある三十代の男性の話を聞きました。彼は、父親が末期の胆嚢ガンの宣告を受けました。家族はとてもショックを受けました。ところが、その直後、自分自身も肝臓ガンのステージⅡだと分かったのです。父親のことだけでも家族は大変なのに、自分の病気のことはとても言い出せないと、彼は悩みました。
そこへ教会の人がやって来て、「親神様、教祖にもたれさせてもらおう」と彼を励ましました。しかし、その言葉にも勇めず、教会やお道に対する不足を並べ立てて、その人を追い返してしまいました。あとで冷静になってみて、自分は何も実行しないで文句ばかり言っていたと、少し反省したそうです。
そこへまた教会の人がやって来て「十月のひのきしん隊に行かないか」と声を掛けました。前回のことがあったので、彼は一応「はい」と返事をしました。しかし、内心では「この体でつとめさせていただくのは、とても無理だ」と思っていたそうです。
それから二週間後、病院の診察がありました。検査の結果、「リンパ節に転移している。余命は二カ月」と宣告を受けました。彼には、男の子が二人いました。こんなに小さいうちに父親がいなくなると思うと、不憫でなりません。残った家族はどうなるのだろうと思ったら、なんとしてもたすけていただきたいという気持ちになって、「生涯、神様の御用一筋につとめます。おたすけをして通ります」と決心したのです。「ひのきしん隊に行くのは無理だ」と考えていた人が、生涯、神様の御用一筋に通る決心をしました。
十日後に再度、診察がありました。検査の結果、ガンが消えていたのです。彼は喜びいっぱいに修養科へ行って、教祖百三十年祭をおぢばで元気に迎えさせていただいたということです。
ノミの話に戻りますが、コップの高さまでしか跳べなくなったノミは、いったいどうすれば元に戻るか。自分の体の五十倍、百倍跳ぶノミのなかに入れたら、すぐに跳べるようになるそうです。私は、これが教会だと思います。教会へ行けば、自分の枠や殻でなく、神様を目標に歩んでいる人たちがいます。その人たちは、いわば五十倍、百倍跳んでいるノミの仲間です。そこへ入ることによって、すぐに自分も跳べるようになる。これが教会だと思うのです。また、そんな教会でありたいと思います。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>記憶に残る活動を
埼玉県在住　　関根　健一

2025年6月。巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんの訃報が、全国の野球ファンのもとに届きました。
長嶋さんと言えば、誰もが認める、日本のプロ野球界を牽引してきたスーパースター。「我が巨人軍は永久に不滅です」の名ゼリフを残した、あの引退セレモニーの時、私はまだ一歳でした。ですから、現役時代の活躍をリアルタイムで見ることは出来ませんでした。
小学3年生から始めたリトルリーグ。当時、チームメイトに「茂雄」という名前の子が何人もいたことを覚えています。それだけでも、長嶋さんが世代を超えて、日本中の野球少年に影響を与えてきた存在だったことが分かります。
長嶋さんのことを、「記録より記憶に残る選手」と評する声があります。もちろん実際には、名選手と言われるにふさわしい数々の大記録を残しています。しかし、そうした記録を見るまでもなく、誰もがその姿を心に深く焼きつけている。だからこそ、この言葉に意味があるのだと思います。
一方、長嶋さんの現役引退から約20年後。1990年代には、野茂英雄さんがメジャーリーグのドジャースで大活躍しました。それ以降、日本の野球選手が海を越え、メジャーリーグで活躍することも珍しくなくなりました。
2000年代に入ってからは、イチローさんや大谷翔平さんのように、メジャーリーグの記録をも塗り替え、世界の野球史に名を刻む日本人選手も現れました。その背景には、旧来の野球理論が変化し、より科学的・効率的なトレーニングが取り入れられてきたことが考えられます。
たとえば、私が子供の頃には当たり前だった「うさぎ跳び」。今では、成長期の子供には弊害があるとされ、トレーニングに取り入れるチームはほとんどなくなりました。また、「根性論」に頼った指導や、体罰による指導もあまり見かけなくなってきました。
こうした流れの中で、SNSなどでは、長嶋さんのような過去の名選手と、現代の選手を比較する議論がよく見られます。
「昔の選手が今の時代にプレーしていたら、あれだけの記録は残せなかったのではないか？」
野球ファンとして、想像を膨らませながら楽しむ分には良いのですが、議論が過熱するあまり、過去の名選手の記録を否定するような風潮も少しずつ現れてきました。
そんな中、あるSNSでこんな意見を目にしました。
「過去に記録を打ち立てた名選手が、もし今の時代に現役だったとしても、時代に合わせた努力をして、結果を残していると思う。時代が彼らをスターにしたのではなく、彼らの努力が彼らをスターにしたんだ」
私はこの言葉に深く納得しました。
どんなに想像しても、現実に過去と今の選手を比べることは出来ません。けれど、過去の名選手が、その時できる最大限の努力を重ね、野球界を盛り上げてくれたからこそ、今に至るまで選手たちが活躍できる場が守られてきたのだと思います。
さて、話は変わりますが、先日、上級教会を会場に開催された「ようぼく一斉活動日」に参加しました。
プログラムの中で、教祖が現身を隠された明治20年陰暦正月26日のお屋敷の様子を演劇で再現した動画が上映されました。
その動画では、後の初代真柱様をはじめ、天理教の草創期を支えてきた先人たちが、教祖との突然の別れに直面しながらも、未来へ向かう決意を抱く姿が描かれていました。とても勇んだ気持ちになれるものでした。
上映後、参加者同士で感想を語り合う「ねりあい」の時間となりました。私のグループは、同年代の男性Ａさんと、私より少し年上と思われる女性Ｂさん、そして私の三人でした。
ＡさんもＢさんも支部管内にお住いのようぼくで、お二人とも、動画にとても感動された様子でした。感想を出し合う中で、Ａさんはこうおっしゃいました。
「昔の先生は凄すぎて、私なんか何もできていないなあと、反省してしまいました」
その気持ち、私も痛いほど分かります。でも、せっかくの機会だから、勇みの種を持って帰って頂きたい。そんな思いで私はこう話しました。
「野球が好きでプレーしている人の多くは、大谷選手のようにはなれません。でも、大谷選手のように打てないからといって、野球をやめてしまうのはもったいないですよね。多くの人にとって、野球は趣味。だからこそ、自分に見合った場所で、それに合わせた努力をすることが大切です。信仰も同じだと思います。私たちも、先人の先生の姿を見習いながら、今、置かれた場所、職場や教会で、出来ることをさせて頂けばそれでいいのだと思います」
するとＡさんは、「なるほど。そのとおりですね」と、にっこり微笑んで下さいました。Bさんも横で静かにうなずいて下さいました。
そのお二人の姿を見ていたら、ふと、「このお二人の所属する教会の会長さんが、この様子をご覧になったら、きっと大層喜ばれるだろうなあ…」と思いました。私自身も教会長として、信者さんが教えを通して前向きに勇む姿を見るのは、何よりも嬉しいことだからです。
その時、年祭活動一年目に、この「家族円満」の原稿依頼を頂き、大教会長様にご相談した際に、「関根さんにしか出来ない年祭活動だから、勇んで勤めてください」と声をかけて頂いたことを思い出しました。あの時の大教会長様も、私が前向きに取り組もうとする姿を喜んで下さっていたのだと思います。
残りわずかな年祭活動。目に見える結果が出ずに焦る気持ちがあったのですが、まずは自教会につながる信者さんの勇んだ姿を喜び、「140年祭の年祭活動は、教会につながる皆が勇んでつとめさせてもらった」という記憶を胸に刻めるように、前向きに歩んでいこうと決意を新たにしました。



だけど有難い「ノミのジャンプ」

ノミという虫がいます。先日、この虫にまつわる面白い話を聞きました。
ノミというのは非常に小さいものですが、自分の体の五十倍から百倍くらいジャンプするのです。すごいですね。そのノミを、コップを裏返して中に閉じ込めてしまうと、当然、高く跳ぶことはできません。どうなるかというと、コップの底に当たって落ちるを繰り返すのです。そして、そのままにしておくと、コップを外しても、その高さまでしか跳べなくなるそうです。
人間も、神様から授かった能力は無限でも、嫌なことやつらいことがあると、自分で「これが限界」と枠や殻を作って、コップのなかのノミのように、そこまでしかジャンプしなくなることがあるのではないでしょうか。
私は、病気や事情は、私たちが自分で「もうここまで」「自分の能力はこんなもの」と決めてかかっている壁を突き破るチャンスとして、親神様が与えてくださっているのではないかと思うのです。病気になったら、普段は当たり前にできていることができなくなると考えがちですが、心の持ち方によっては、普段できないことができるようになる。私は、それが「ふし」だと思うのです。
最近、ある三十代の男性の話を聞きました。彼は、父親が末期の胆嚢ガンの宣告を受けました。家族はとてもショックを受けました。ところが、その直後、自分自身も肝臓ガンのステージⅡだと分かったのです。父親のことだけでも家族は大変なのに、自分の病気のことはとても言い出せないと、彼は悩みました。
そこへ教会の人がやって来て、「親神様、教祖にもたれさせてもらおう」と彼を励ましました。しかし、その言葉にも勇めず、教会やお道に対する不足を並べ立てて、その人を追い返してしまいました。あとで冷静になってみて、自分は何も実行しないで文句ばかり言っていたと、少し反省したそうです。
そこへまた教会の人がやって来て「十月のひのきしん隊に行かないか」と声を掛けました。前回のことがあったので、彼は一応「はい」と返事をしました。しかし、内心では「この体でつとめさせていただくのは、とても無理だ」と思っていたそうです。
それから二週間後、病院の診察がありました。検査の結果、「リンパ節に転移している。余命は二カ月」と宣告を受けました。彼には、男の子が二人いました。こんなに小さいうちに父親がいなくなると思うと、不憫でなりません。残った家族はどうなるのだろうと思ったら、なんとしてもたすけていただきたいという気持ちになって、「生涯、神様の御用一筋につとめます。おたすけをして通ります」と決心したのです。「ひのきしん隊に行くのは無理だ」と考えていた人が、生涯、神様の御用一筋に通る決心をしました。
十日後に再度、診察がありました。検査の結果、ガンが消えていたのです。彼は喜びいっぱいに修養科へ行って、教祖百三十年祭をおぢばで元気に迎えさせていただいたということです。
ノミの話に戻りますが、コップの高さまでしか跳べなくなったノミは、いったいどうすれば元に戻るか。自分の体の五十倍、百倍跳ぶノミのなかに入れたら、すぐに跳べるようになるそうです。私は、これが教会だと思います。教会へ行けば、自分の枠や殻でなく、神様を目標に歩んでいる人たちがいます。その人たちは、いわば五十倍、百倍跳んでいるノミの仲間です。そこへ入ることによって、すぐに自分も跳べるようになる。これが教会だと思うのです。また、そんな教会でありたいと思います。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 03 Oct 2025 10:09:54 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>砂を噛む日々（後編）</title>
        <description><![CDATA[砂を噛む日々（後編）
助産師　　目黒　和加子

商店街の「天理看護学院助産学科」のポスターの前で電気が走った如く、私がハッと気づいたこととは何でしょうか。リスナーの皆さんはもうお気づきかもしれません。
空ちゃんが産まれてから救急搬送まで処置をしていたのは、私一人でしたね。どうして手足にチアノーゼを認め、酸素飽和度が90％の時点で院長を呼ばなかったのでしょう。変だと思いませんか。
理由は、新生児の蘇生処置に自信があったからです。以前勤務していた病院で新生児蘇生を数え切れないほど経験し、新生児科のドクターに鍛え上げられ、新生児蘇生法専門コースの認定も持っています。分娩介助よりも、産後の母乳ケアよりも、新生児蘇生の方が得意なのです。
実は産科のドクターの中には、新生児蘇生が不得手な人がいます。うちの院長がそうでした。この程度なら院長を呼ばなくてもよいと判断したのです。
そうです。ポスターの前で気づいたのは、心の奥底にあった慢心でした。
「あの時、自分の経験と技術を過信して、慢心に陥ってたんや…」
新人の頃、先輩から「取り返しのつかない失敗をするのは、自分の得意分野やで。苦手なことは周りに確認しながら慎重にするやろ。だから苦手な分野では大きな失敗はせえへん。自信満々ほど怖いものはない。医療職者の慢心は人の命を危うくする。ベテランが陥る落とし穴。覚えときや」と言われたことが強烈によみがえり、電流となって脳天を貫いたのです。
ベテランと言われる立場になった今、人として助産師として成長しているのか。その逆なのか。空ちゃんの命を危うくした自分が醜く情けなく、神殿の畳に額を擦りつけてお詫びしました。
実は分娩促進剤の投与のことで度々院長とぶつかり、退職しようと思っていた矢先の出来事だったのです。教祖の御前で「後遺症の出る可能性がある三年間、空ちゃんが３才になるまでは辞めません。毎日、祈り続けます」と誓いました。
参拝の帰り、行きと同じ助産学科のポスターの前で立ち止まり、「この苦い経験を助産学科の学生さんの学びの材料にしてもらえたら。そんな機会があったらいいなあ」とつぶやいて帰路につきました。
京都駅から新幹線に乗り、車内販売でアイスクリームを買いました。口に入れるとジャリジャリしません。なんと治っていたのです。
「あ～よかった！」と思いきや、話はこれで終わりません。ここからが本番なんです。
その後の三年間、私は選ばれたように危険なお産に当たり続け、「難産係」と呼ばれる有様。ギリギリの所で踏ん張ること数知れず。教祖へのお誓いを投げ出す寸前の修行の日々を送っていました。
そしてついに、教祖の深い親心が分かるその時が来るのです。
空ちゃんの３才の誕生日直前、院長から産院を代表して日本助産師会の勉強会に参加するよう言われました。講師は県立病院新生児内科部長のA先生。講義後、別室にて個別相談を受けて下さるというので、A先生に空ちゃんのことを話しました。
「さらっとした出血だなと違和感をもったのに、スルーしたのです。そして、蘇生処置が苦手な院長に任せるよりも、自分でやった方が良いと判断してしまいました。慢心が赤ちゃんの命を危うくしたのです。もっと早く院長を呼ぶべきでした」
下を向く私に、A先生は、「あんた、認定受けてる助産師やのに、なんでマスク＆バッグせえへんかったん？」
マスク＆バッグとは、赤ちゃんの気道に空気や酸素を送り込む蘇生器具のことです。
「バッグで圧をかけると、血液を気道の奥に押し込んで固まってしまうので、酸素は吹き流しで与えました」
「もし院長さんを呼んでたら、マスク＆バッグしたと思うか？」
「はい、100％したと思います」
「そうか。それをやってたら肺出血が一気に広がって、その場で亡くなってたで。通常、新生児蘇生は気道を確保したらマスク＆バッグが基本やけど、肺出血の場合は例外！ やったらあかんのや。
肺出血は満期で産まれた成熟児ではめったにないから、それを知らん産科医や助産師が多いけどな。知らんのも無理ないねん。あまりに少ない症例やから、新生児蘇生法の講義でも『肺出血は例外ですよ。マスク＆バッグはしないように』とは教えてないからな。サラッとした出血を見抜けんかったって自分を責めるけど、出血の性状だけで肺出血と判断するのは俺でも無理やで」
瞬きもせず聞き入る私に、先生はさらに続けました。
「結論はな、今回に限って院長さんを呼ばんかったことが正解やったというこっちゃ。マスク＆バッグをせえへんかったから命がつながった。しんどい思いをさせたと自分を責めんでいい。要するに、赤ちゃんをたすけたのはあんたや。その子にとってあんたは命の恩人やで。今日で辛い修行は終わり。ご苦労さん」
噛んで含めるように優しい言葉を下さったのです。
空ちゃんが３才になるまで勤め続けていなかったら、Ａ先生との出会いもなく、私は自分を責め続けていたでしょう。教祖から、「誓いを守り切ったから、ほんまのこと教えてあげる」とご褒美をもらったようで、Ａ先生の前でわんわん泣きました。
数日後、空ちゃんは３才になりました。上野さんに電話をすると、「保育師さんが手を焼くほど元気に走り回っています。歌も上手なんですよ。後遺症もなく、すくすく成長しています。目黒さん、安心して下さいね」と嬉しい言葉。
すると、同僚の助産師が「三年間逃げないでよう辛抱したね。目黒さんのど根性を讃えるわ。はい、ご褒美。みんなで食べよう」と冷蔵庫から出してきたのは大きなケーキ。
また、別の助産師は「スーパーで空ちゃん見かけたよ。お菓子売り場で『買って、買って！』って駄々こねてたわ。元気に育ってたで」と教えてくれました。スタッフみんなが見守ってくれていたことを知り、感謝、感謝で涙がとまりません。
そして、何ということでしょう。商店街のポスターの前で願った通り、天理看護学院助産学科の学生さんにこの話をする機会がきたのです。平成23年から閉校までの三年間、非常勤講師として授業を持たせて頂きました。教祖は、あのつぶやきを聞いておられたのですね。
壮大で綿密、そして深い教祖の親心を噛みしめた、苦しくもありがたい三年の日々でした。



クサはむさいもの

人に教えを説く時に、私たちは言葉を必要とします。そして、人をたすけ、教えに導く上で言葉を必要不可欠なものであると考える人は多いと思います。天理教では人を諭すことから、これを「お諭し」と呼んでいます。
しかし、教祖の逸話篇をひもといてみると、長々とお諭しをしている場面というのは、あまり見受けられません。
むしろ、「よう帰って来たなあ」「難儀やったなあ」「御苦労さん」「危なかったなあ」「さあ、これをお食べ」など、親心いっぱいに実に簡素なお言葉でお迎え下さるのが常でした。そして、ここ一番という大事な時に、その人の心の状態を見定めて、教えに則した大事なお言葉を下さるのです。
明治十五年、梅谷タネさんが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊だった長女のタカさんを抱いて、教祖にお目通りさせて頂きました。赤ん坊の頭には、膿を持ったクサという出来物が一面に出来ていました。
教祖は、早速、「どれ、どれ」と仰せになりながら、赤ん坊を自らの手にお抱きになりました。そして、その頭に出来たクサをご覧になって、「かわいそうに」と仰せられ、お座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いていた紙切れを取り出し、少しずつ指でちぎっては唾をつけ、一つ一つベタベタと頭にお貼り下さいました。そして、
「おタネさん、クサは、むさいものやなあ」
と仰せられました。タネさんは、そのお言葉を聞いてハッとしました。「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあったのです。
タネさんは、教祖に厚くお礼申し上げて、大阪へ戻りましたが、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、赤ん坊の頭には、綿帽子をかぶったように、クサが浮き上がっていました。あれほどジクジクしていた出来物が、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにしてはがれていました。頭の地肌にはすでに薄皮ができていて、すっきりとご守護頂いたのです。（教祖伝逸話篇107「クサはむさいもの」）
この教祖の逸話は、人をたすける上では、言葉より、まずは真心を込めてお世話をすることがいかに大切であるかを、教えられているのではないでしょうか。そして教祖は、それに加えて、ほんに短いお言葉でタネさんに心の治め方をお諭し下されたのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>砂を噛む日々（後編）
助産師　　目黒　和加子

商店街の「天理看護学院助産学科」のポスターの前で電気が走った如く、私がハッと気づいたこととは何でしょうか。リスナーの皆さんはもうお気づきかもしれません。
空ちゃんが産まれてから救急搬送まで処置をしていたのは、私一人でしたね。どうして手足にチアノーゼを認め、酸素飽和度が90％の時点で院長を呼ばなかったのでしょう。変だと思いませんか。
理由は、新生児の蘇生処置に自信があったからです。以前勤務していた病院で新生児蘇生を数え切れないほど経験し、新生児科のドクターに鍛え上げられ、新生児蘇生法専門コースの認定も持っています。分娩介助よりも、産後の母乳ケアよりも、新生児蘇生の方が得意なのです。
実は産科のドクターの中には、新生児蘇生が不得手な人がいます。うちの院長がそうでした。この程度なら院長を呼ばなくてもよいと判断したのです。
そうです。ポスターの前で気づいたのは、心の奥底にあった慢心でした。
「あの時、自分の経験と技術を過信して、慢心に陥ってたんや…」
新人の頃、先輩から「取り返しのつかない失敗をするのは、自分の得意分野やで。苦手なことは周りに確認しながら慎重にするやろ。だから苦手な分野では大きな失敗はせえへん。自信満々ほど怖いものはない。医療職者の慢心は人の命を危うくする。ベテランが陥る落とし穴。覚えときや」と言われたことが強烈によみがえり、電流となって脳天を貫いたのです。
ベテランと言われる立場になった今、人として助産師として成長しているのか。その逆なのか。空ちゃんの命を危うくした自分が醜く情けなく、神殿の畳に額を擦りつけてお詫びしました。
実は分娩促進剤の投与のことで度々院長とぶつかり、退職しようと思っていた矢先の出来事だったのです。教祖の御前で「後遺症の出る可能性がある三年間、空ちゃんが３才になるまでは辞めません。毎日、祈り続けます」と誓いました。
参拝の帰り、行きと同じ助産学科のポスターの前で立ち止まり、「この苦い経験を助産学科の学生さんの学びの材料にしてもらえたら。そんな機会があったらいいなあ」とつぶやいて帰路につきました。
京都駅から新幹線に乗り、車内販売でアイスクリームを買いました。口に入れるとジャリジャリしません。なんと治っていたのです。
「あ～よかった！」と思いきや、話はこれで終わりません。ここからが本番なんです。
その後の三年間、私は選ばれたように危険なお産に当たり続け、「難産係」と呼ばれる有様。ギリギリの所で踏ん張ること数知れず。教祖へのお誓いを投げ出す寸前の修行の日々を送っていました。
そしてついに、教祖の深い親心が分かるその時が来るのです。
空ちゃんの３才の誕生日直前、院長から産院を代表して日本助産師会の勉強会に参加するよう言われました。講師は県立病院新生児内科部長のA先生。講義後、別室にて個別相談を受けて下さるというので、A先生に空ちゃんのことを話しました。
「さらっとした出血だなと違和感をもったのに、スルーしたのです。そして、蘇生処置が苦手な院長に任せるよりも、自分でやった方が良いと判断してしまいました。慢心が赤ちゃんの命を危うくしたのです。もっと早く院長を呼ぶべきでした」
下を向く私に、A先生は、「あんた、認定受けてる助産師やのに、なんでマスク＆バッグせえへんかったん？」
マスク＆バッグとは、赤ちゃんの気道に空気や酸素を送り込む蘇生器具のことです。
「バッグで圧をかけると、血液を気道の奥に押し込んで固まってしまうので、酸素は吹き流しで与えました」
「もし院長さんを呼んでたら、マスク＆バッグしたと思うか？」
「はい、100％したと思います」
「そうか。それをやってたら肺出血が一気に広がって、その場で亡くなってたで。通常、新生児蘇生は気道を確保したらマスク＆バッグが基本やけど、肺出血の場合は例外！ やったらあかんのや。
肺出血は満期で産まれた成熟児ではめったにないから、それを知らん産科医や助産師が多いけどな。知らんのも無理ないねん。あまりに少ない症例やから、新生児蘇生法の講義でも『肺出血は例外ですよ。マスク＆バッグはしないように』とは教えてないからな。サラッとした出血を見抜けんかったって自分を責めるけど、出血の性状だけで肺出血と判断するのは俺でも無理やで」
瞬きもせず聞き入る私に、先生はさらに続けました。
「結論はな、今回に限って院長さんを呼ばんかったことが正解やったというこっちゃ。マスク＆バッグをせえへんかったから命がつながった。しんどい思いをさせたと自分を責めんでいい。要するに、赤ちゃんをたすけたのはあんたや。その子にとってあんたは命の恩人やで。今日で辛い修行は終わり。ご苦労さん」
噛んで含めるように優しい言葉を下さったのです。
空ちゃんが３才になるまで勤め続けていなかったら、Ａ先生との出会いもなく、私は自分を責め続けていたでしょう。教祖から、「誓いを守り切ったから、ほんまのこと教えてあげる」とご褒美をもらったようで、Ａ先生の前でわんわん泣きました。
数日後、空ちゃんは３才になりました。上野さんに電話をすると、「保育師さんが手を焼くほど元気に走り回っています。歌も上手なんですよ。後遺症もなく、すくすく成長しています。目黒さん、安心して下さいね」と嬉しい言葉。
すると、同僚の助産師が「三年間逃げないでよう辛抱したね。目黒さんのど根性を讃えるわ。はい、ご褒美。みんなで食べよう」と冷蔵庫から出してきたのは大きなケーキ。
また、別の助産師は「スーパーで空ちゃん見かけたよ。お菓子売り場で『買って、買って！』って駄々こねてたわ。元気に育ってたで」と教えてくれました。スタッフみんなが見守ってくれていたことを知り、感謝、感謝で涙がとまりません。
そして、何ということでしょう。商店街のポスターの前で願った通り、天理看護学院助産学科の学生さんにこの話をする機会がきたのです。平成23年から閉校までの三年間、非常勤講師として授業を持たせて頂きました。教祖は、あのつぶやきを聞いておられたのですね。
壮大で綿密、そして深い教祖の親心を噛みしめた、苦しくもありがたい三年の日々でした。



クサはむさいもの

人に教えを説く時に、私たちは言葉を必要とします。そして、人をたすけ、教えに導く上で言葉を必要不可欠なものであると考える人は多いと思います。天理教では人を諭すことから、これを「お諭し」と呼んでいます。
しかし、教祖の逸話篇をひもといてみると、長々とお諭しをしている場面というのは、あまり見受けられません。
むしろ、「よう帰って来たなあ」「難儀やったなあ」「御苦労さん」「危なかったなあ」「さあ、これをお食べ」など、親心いっぱいに実に簡素なお言葉でお迎え下さるのが常でした。そして、ここ一番という大事な時に、その人の心の状態を見定めて、教えに則した大事なお言葉を下さるのです。
明治十五年、梅谷タネさんが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊だった長女のタカさんを抱いて、教祖にお目通りさせて頂きました。赤ん坊の頭には、膿を持ったクサという出来物が一面に出来ていました。
教祖は、早速、「どれ、どれ」と仰せになりながら、赤ん坊を自らの手にお抱きになりました。そして、その頭に出来たクサをご覧になって、「かわいそうに」と仰せられ、お座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いていた紙切れを取り出し、少しずつ指でちぎっては唾をつけ、一つ一つベタベタと頭にお貼り下さいました。そして、
「おタネさん、クサは、むさいものやなあ」
と仰せられました。タネさんは、そのお言葉を聞いてハッとしました。「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあったのです。
タネさんは、教祖に厚くお礼申し上げて、大阪へ戻りましたが、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、赤ん坊の頭には、綿帽子をかぶったように、クサが浮き上がっていました。あれほどジクジクしていた出来物が、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにしてはがれていました。頭の地肌にはすでに薄皮ができていて、すっきりとご守護頂いたのです。（教祖伝逸話篇107「クサはむさいもの」）
この教祖の逸話は、人をたすける上では、言葉より、まずは真心を込めてお世話をすることがいかに大切であるかを、教えられているのではないでしょうか。そして教祖は、それに加えて、ほんに短いお言葉でタネさんに心の治め方をお諭し下されたのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>砂を噛む日々（後編）
助産師　　目黒　和加子

商店街の「天理看護学院助産学科」のポスターの前で電気が走った如く、私がハッと気づいたこととは何でしょうか。リスナーの皆さんはもうお気づきかもしれません。
空ちゃんが産まれてから救急搬送まで処置をしていたのは、私一人でしたね。どうして手足にチアノーゼを認め、酸素飽和度が90％の時点で院長を呼ばなかったのでしょう。変だと思いませんか。
理由は、新生児の蘇生処置に自信があったからです。以前勤務していた病院で新生児蘇生を数え切れないほど経験し、新生児科のドクターに鍛え上げられ、新生児蘇生法専門コースの認定も持っています。分娩介助よりも、産後の母乳ケアよりも、新生児蘇生の方が得意なのです。
実は産科のドクターの中には、新生児蘇生が不得手な人がいます。うちの院長がそうでした。この程度なら院長を呼ばなくてもよいと判断したのです。
そうです。ポスターの前で気づいたのは、心の奥底にあった慢心でした。
「あの時、自分の経験と技術を過信して、慢心に陥ってたんや…」
新人の頃、先輩から「取り返しのつかない失敗をするのは、自分の得意分野やで。苦手なことは周りに確認しながら慎重にするやろ。だから苦手な分野では大きな失敗はせえへん。自信満々ほど怖いものはない。医療職者の慢心は人の命を危うくする。ベテランが陥る落とし穴。覚えときや」と言われたことが強烈によみがえり、電流となって脳天を貫いたのです。
ベテランと言われる立場になった今、人として助産師として成長しているのか。その逆なのか。空ちゃんの命を危うくした自分が醜く情けなく、神殿の畳に額を擦りつけてお詫びしました。
実は分娩促進剤の投与のことで度々院長とぶつかり、退職しようと思っていた矢先の出来事だったのです。教祖の御前で「後遺症の出る可能性がある三年間、空ちゃんが３才になるまでは辞めません。毎日、祈り続けます」と誓いました。
参拝の帰り、行きと同じ助産学科のポスターの前で立ち止まり、「この苦い経験を助産学科の学生さんの学びの材料にしてもらえたら。そんな機会があったらいいなあ」とつぶやいて帰路につきました。
京都駅から新幹線に乗り、車内販売でアイスクリームを買いました。口に入れるとジャリジャリしません。なんと治っていたのです。
「あ～よかった！」と思いきや、話はこれで終わりません。ここからが本番なんです。
その後の三年間、私は選ばれたように危険なお産に当たり続け、「難産係」と呼ばれる有様。ギリギリの所で踏ん張ること数知れず。教祖へのお誓いを投げ出す寸前の修行の日々を送っていました。
そしてついに、教祖の深い親心が分かるその時が来るのです。
空ちゃんの３才の誕生日直前、院長から産院を代表して日本助産師会の勉強会に参加するよう言われました。講師は県立病院新生児内科部長のA先生。講義後、別室にて個別相談を受けて下さるというので、A先生に空ちゃんのことを話しました。
「さらっとした出血だなと違和感をもったのに、スルーしたのです。そして、蘇生処置が苦手な院長に任せるよりも、自分でやった方が良いと判断してしまいました。慢心が赤ちゃんの命を危うくしたのです。もっと早く院長を呼ぶべきでした」
下を向く私に、A先生は、「あんた、認定受けてる助産師やのに、なんでマスク＆バッグせえへんかったん？」
マスク＆バッグとは、赤ちゃんの気道に空気や酸素を送り込む蘇生器具のことです。
「バッグで圧をかけると、血液を気道の奥に押し込んで固まってしまうので、酸素は吹き流しで与えました」
「もし院長さんを呼んでたら、マスク＆バッグしたと思うか？」
「はい、100％したと思います」
「そうか。それをやってたら肺出血が一気に広がって、その場で亡くなってたで。通常、新生児蘇生は気道を確保したらマスク＆バッグが基本やけど、肺出血の場合は例外！ やったらあかんのや。
肺出血は満期で産まれた成熟児ではめったにないから、それを知らん産科医や助産師が多いけどな。知らんのも無理ないねん。あまりに少ない症例やから、新生児蘇生法の講義でも『肺出血は例外ですよ。マスク＆バッグはしないように』とは教えてないからな。サラッとした出血を見抜けんかったって自分を責めるけど、出血の性状だけで肺出血と判断するのは俺でも無理やで」
瞬きもせず聞き入る私に、先生はさらに続けました。
「結論はな、今回に限って院長さんを呼ばんかったことが正解やったというこっちゃ。マスク＆バッグをせえへんかったから命がつながった。しんどい思いをさせたと自分を責めんでいい。要するに、赤ちゃんをたすけたのはあんたや。その子にとってあんたは命の恩人やで。今日で辛い修行は終わり。ご苦労さん」
噛んで含めるように優しい言葉を下さったのです。
空ちゃんが３才になるまで勤め続けていなかったら、Ａ先生との出会いもなく、私は自分を責め続けていたでしょう。教祖から、「誓いを守り切ったから、ほんまのこと教えてあげる」とご褒美をもらったようで、Ａ先生の前でわんわん泣きました。
数日後、空ちゃんは３才になりました。上野さんに電話をすると、「保育師さんが手を焼くほど元気に走り回っています。歌も上手なんですよ。後遺症もなく、すくすく成長しています。目黒さん、安心して下さいね」と嬉しい言葉。
すると、同僚の助産師が「三年間逃げないでよう辛抱したね。目黒さんのど根性を讃えるわ。はい、ご褒美。みんなで食べよう」と冷蔵庫から出してきたのは大きなケーキ。
また、別の助産師は「スーパーで空ちゃん見かけたよ。お菓子売り場で『買って、買って！』って駄々こねてたわ。元気に育ってたで」と教えてくれました。スタッフみんなが見守ってくれていたことを知り、感謝、感謝で涙がとまりません。
そして、何ということでしょう。商店街のポスターの前で願った通り、天理看護学院助産学科の学生さんにこの話をする機会がきたのです。平成23年から閉校までの三年間、非常勤講師として授業を持たせて頂きました。教祖は、あのつぶやきを聞いておられたのですね。
壮大で綿密、そして深い教祖の親心を噛みしめた、苦しくもありがたい三年の日々でした。



クサはむさいもの

人に教えを説く時に、私たちは言葉を必要とします。そして、人をたすけ、教えに導く上で言葉を必要不可欠なものであると考える人は多いと思います。天理教では人を諭すことから、これを「お諭し」と呼んでいます。
しかし、教祖の逸話篇をひもといてみると、長々とお諭しをしている場面というのは、あまり見受けられません。
むしろ、「よう帰って来たなあ」「難儀やったなあ」「御苦労さん」「危なかったなあ」「さあ、これをお食べ」など、親心いっぱいに実に簡素なお言葉でお迎え下さるのが常でした。そして、ここ一番という大事な時に、その人の心の状態を見定めて、教えに則した大事なお言葉を下さるのです。
明治十五年、梅谷タネさんが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊だった長女のタカさんを抱いて、教祖にお目通りさせて頂きました。赤ん坊の頭には、膿を持ったクサという出来物が一面に出来ていました。
教祖は、早速、「どれ、どれ」と仰せになりながら、赤ん坊を自らの手にお抱きになりました。そして、その頭に出来たクサをご覧になって、「かわいそうに」と仰せられ、お座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いていた紙切れを取り出し、少しずつ指でちぎっては唾をつけ、一つ一つベタベタと頭にお貼り下さいました。そして、
「おタネさん、クサは、むさいものやなあ」
と仰せられました。タネさんは、そのお言葉を聞いてハッとしました。「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあったのです。
タネさんは、教祖に厚くお礼申し上げて、大阪へ戻りましたが、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、赤ん坊の頭には、綿帽子をかぶったように、クサが浮き上がっていました。あれほどジクジクしていた出来物が、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにしてはがれていました。頭の地肌にはすでに薄皮ができていて、すっきりとご守護頂いたのです。（教祖伝逸話篇107「クサはむさいもの」）
この教祖の逸話は、人をたすける上では、言葉より、まずは真心を込めてお世話をすることがいかに大切であるかを、教えられているのではないでしょうか。そして教祖は、それに加えて、ほんに短いお言葉でタネさんに心の治め方をお諭し下されたのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 26 Sep 2025 12:10:28 +0000</pubDate>
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                <title>砂を嚙む日々(前編)</title>
        <description><![CDATA[砂を噛む日々（前編）
助産師　　目黒　和加子

ずいぶん前の夏のことです。私が分娩介助をした赤ちゃんが突然、命に係わる事態となりました。新生児集中治療室・NICUに救急搬送された直後から、私の身体に変化が起きます。口の中がジャリジャリして、砂を噛んでいるような感覚に陥ったのです。そのジャリジャリ感は夏が終わるまで続きました。
今回は神様に、助産師として最も厳しく鍛えられたお話です。
担当したのは予定日を10日過ぎた上野由美さん。超音波検査で羊水が急に減少し、胎児の推定体重まで減っていることが判りました。これは胎盤の働きが衰え、子宮内環境が悪化している証拠です。急遽、促進剤を使って分娩誘発することになりました。
薬で陣痛がついてくると順調に進行し、分娩室に入りました。産まれてくる赤ちゃんは女の子で、空（そら）ちゃんと名前がついています。
胎児心拍は時々低下しますが、回復は速やかで午後２時、出産。軽いチアノーゼがありますが、空ちゃんは活発に泣き、元気に手足を動かしています。全身を観察すると、口の中に血液を認めました。産道を通過する際、分娩に伴って出血したお母さんの血液を飲んだようです。これは時々あることで問題にはなりません。
しかし、口の中の血液をチューブで吸引した時、「サラサラした血やなぁ」と一瞬、違和感を持ちました。母体から出た血液は粘り気があり、トロっとしているのが特徴です。この違和感が後になって命に係わることになるのですが、この時、私はまだ気づいていません。
空ちゃんの肌は、ほぼピンク色になり問題があるようには見えません。ただ手先、足先のチアノーゼが残るので、酸素飽和度をモニタリングすると90％。保育器に入れ、酸素を与えると94％まで上昇しました。
「よかった、上がってきた。すぐに正常値の95％になるわ」と安心した途端、急に呼吸が速く浅くなり、一気にチアノーゼが全身に拡大。酸素の投与量を増やしても酸素飽和度は上昇するどころか下降し始め、院長を呼んだ時にはなんと、64％まで低下したのです。
「64％！ありえない！」と叫ぶ院長。空ちゃんの容態は急変、保育器ごと救急車に乗せ、NICUへ緊急搬送となりました。
しばらくして、疲れた顔の院長が戻ってきました。
「新生児内科のドクター総出で救命処置をして下さっているんだが…。部長先生からは『肺出血による肺高血圧症候群と思われます。満期で産まれた赤ちゃんに起こるのは稀です。今後、24時間がヤマです。全力を尽くしますが、かなり厳しい。覚悟してください』と言われた…」がっくり肩を落としています。
出生直後、口腔内にあった血液は産道の母体血を飲んだのではなく、空ちゃんの肺から出血したものだったのです。
「吸引をした時、『サラサラした血やなぁ』と一瞬思ったのに。あの時に気づいていれば、これほどの重症になる前に搬送できたのに…」
空ちゃんに申し訳なくて、自分を責めました。午後5時、長かった日勤が終わりました。
「こうなったら神さんしかない！」
家に帰るやいなや、二日前に出た手つかずの給与を所属教会に送りました。教会ではお願いづとめにかかってくださり、大阪の実家では母が空ちゃんのたすかりを祈ってくれました。
24時間が過ぎ、空ちゃんの命はつながっていましたが、担当医からは「気が抜けない状態は変わらず、72時間を目処としてヤマが続きます」とのこと。
「やっぱり神さんしかない！」
家中のお金をかき集め、再びお供えの用意をしていると、主人が「僕の給与もお供えさせてもらおうね」と言ってくれました。
その当時、主人は天理教のことをほとんど知らなかったのですが、私の様子を見るに見かねて、なんとか力になってあげたいと思ったようです。見よう見まねで一緒におつとめをし、夫婦で空ちゃんのたすかりを祈りました。
72時間が過ぎると、空ちゃんの容態が安定してきました。担当医から「命の心配はしなくてもいい状態になりました。しかし、重症の低酸素状態が長かったので、脳のダメージは大きいでしょう。後日、MRIで確認します」と連絡が入りました。
院長は「酸素飽和度が64％まで低下したんやから、脳の障害は避けられないな」と暗い顔でつぶやき、私も覚悟を決めました。
それから数週間後、新生児内科の部長から興奮した声で電話があり、「MRIで低酸素性脳障害は認められませんでした。後遺症が出るかもしれないので３歳までは経過を見ますが、あんなに重症だったのに不思議ですね。脳出血を覚悟していたのですが、脳内はクリアで驚いています。数日中に退院しますのでご安心ください」と言うのです。
しばらくして、空ちゃんはNICUを退院。上野さんはその足で空ちゃんを連れて医院に来て下さいました。ミルクの飲みも良く体重も増え、あの時のことが嘘のように元気いっぱい。
私は空ちゃんを抱きしめ、「強い子や。偉い子やなぁ」と命の重みを噛みしめました。この子の頑張りと、泊まり込みで治療にあたって下さったNICUのドクター、ナース、そして神様への感謝の思いがこみ上げ、泣けて、泣けて。
その日から、夏の暑さを感じる余裕もなく、重い荷物を背負ったまま、祈り、願う日々。何を食べても砂を噛んでいるようで、丸々とした空ちゃんとは逆に頬はこけ、げっそり痩せていました。
早速、神様にお礼を申し上げようと天理に向かったのですが、「空ちゃんの命がたすかってよかった、有り難い、だけではないような…。口の中がジャリジャリするのも続いてるし…。神さん、私に言いたいことがあるんとちゃうかなぁ」と、心がざわざわするのです。
思案を巡らせつつ天理駅に到着。モヤモヤしたまま神殿に向かって商店街を歩いていると、壁に貼ってある「天理看護学院助産学科」のポスターが目に留まりました。そのポスターの前でこの度のことをクールに振り返っていたその時、電気が走ったように「ハッ！」と気づいたのです。
リスナーの皆さん、私は何に気づいたのでしょう。続きは来週の後編で。



人の目と神様の目

私たちは普段、とかく人の目を気にし、世間体を気にしながら日々行動しています。それはある意味、社会常識としては当然のことのようにも思います。しかし、そこから一歩進んで人として成人を遂げるには、「人の目」と共に「神様の目」があることを知らなければなりません。
お言葉に、

　　このせかい一れつみゑる月日なら　　とこの事でもしらぬ事なし　（八 51）

とあります。
この世界と人間をお創り下された親神様は、世界中の隅々に至るまでを隈なく見渡し、さらには私たち一人ひとりの心の内までご覧下さっています。そして、いつでも私たちが考えているさらにその一歩先まで成人することを、ご期待下さっています。
親神様の目を意識できるようになると、人の見ていない所での行動が変わります。たとえば、公共のトイレを使った後、次の人が使いやすいようにさりげなくきれいにしたり、外食をして食べ終わった後に、テーブルをそっと拭いたり。それは決して人からの評価にはつながりませんが、親神様は大きく評価をして下さいます。いわゆる「徳」を積むという行いです。
教祖・中山みき様は、山中こいそさんというご婦人に、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と仰せになりました。こいそさんは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」とお答え申し上げました。（教祖伝逸話篇63「目に見えん徳」）
このこいそさんの返事に対する教祖のお言葉は残されていません。しかし、これ以上の答えはないのではないでしょうか。目に見えない徳を積むことで、我が身思案を捨てた人だすけの精神は益々高まっていくことでしょう。

　　なにもかも月日しはいをするからハ　　をふきちいさいゆうでないぞや　（七 14）

親神様がすべてをお計らい下さり、お見守り下さっている。日頃からそう意識できれば、何事も形の大小にこだわらず、人の目先の評価にも一喜一憂することなく、親神様の思いに近づくことが出来るのではないでしょうか。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>砂を噛む日々（前編）
助産師　　目黒　和加子

ずいぶん前の夏のことです。私が分娩介助をした赤ちゃんが突然、命に係わる事態となりました。新生児集中治療室・NICUに救急搬送された直後から、私の身体に変化が起きます。口の中がジャリジャリして、砂を噛んでいるような感覚に陥ったのです。そのジャリジャリ感は夏が終わるまで続きました。
今回は神様に、助産師として最も厳しく鍛えられたお話です。
担当したのは予定日を10日過ぎた上野由美さん。超音波検査で羊水が急に減少し、胎児の推定体重まで減っていることが判りました。これは胎盤の働きが衰え、子宮内環境が悪化している証拠です。急遽、促進剤を使って分娩誘発することになりました。
薬で陣痛がついてくると順調に進行し、分娩室に入りました。産まれてくる赤ちゃんは女の子で、空（そら）ちゃんと名前がついています。
胎児心拍は時々低下しますが、回復は速やかで午後２時、出産。軽いチアノーゼがありますが、空ちゃんは活発に泣き、元気に手足を動かしています。全身を観察すると、口の中に血液を認めました。産道を通過する際、分娩に伴って出血したお母さんの血液を飲んだようです。これは時々あることで問題にはなりません。
しかし、口の中の血液をチューブで吸引した時、「サラサラした血やなぁ」と一瞬、違和感を持ちました。母体から出た血液は粘り気があり、トロっとしているのが特徴です。この違和感が後になって命に係わることになるのですが、この時、私はまだ気づいていません。
空ちゃんの肌は、ほぼピンク色になり問題があるようには見えません。ただ手先、足先のチアノーゼが残るので、酸素飽和度をモニタリングすると90％。保育器に入れ、酸素を与えると94％まで上昇しました。
「よかった、上がってきた。すぐに正常値の95％になるわ」と安心した途端、急に呼吸が速く浅くなり、一気にチアノーゼが全身に拡大。酸素の投与量を増やしても酸素飽和度は上昇するどころか下降し始め、院長を呼んだ時にはなんと、64％まで低下したのです。
「64％！ありえない！」と叫ぶ院長。空ちゃんの容態は急変、保育器ごと救急車に乗せ、NICUへ緊急搬送となりました。
しばらくして、疲れた顔の院長が戻ってきました。
「新生児内科のドクター総出で救命処置をして下さっているんだが…。部長先生からは『肺出血による肺高血圧症候群と思われます。満期で産まれた赤ちゃんに起こるのは稀です。今後、24時間がヤマです。全力を尽くしますが、かなり厳しい。覚悟してください』と言われた…」がっくり肩を落としています。
出生直後、口腔内にあった血液は産道の母体血を飲んだのではなく、空ちゃんの肺から出血したものだったのです。
「吸引をした時、『サラサラした血やなぁ』と一瞬思ったのに。あの時に気づいていれば、これほどの重症になる前に搬送できたのに…」
空ちゃんに申し訳なくて、自分を責めました。午後5時、長かった日勤が終わりました。
「こうなったら神さんしかない！」
家に帰るやいなや、二日前に出た手つかずの給与を所属教会に送りました。教会ではお願いづとめにかかってくださり、大阪の実家では母が空ちゃんのたすかりを祈ってくれました。
24時間が過ぎ、空ちゃんの命はつながっていましたが、担当医からは「気が抜けない状態は変わらず、72時間を目処としてヤマが続きます」とのこと。
「やっぱり神さんしかない！」
家中のお金をかき集め、再びお供えの用意をしていると、主人が「僕の給与もお供えさせてもらおうね」と言ってくれました。
その当時、主人は天理教のことをほとんど知らなかったのですが、私の様子を見るに見かねて、なんとか力になってあげたいと思ったようです。見よう見まねで一緒におつとめをし、夫婦で空ちゃんのたすかりを祈りました。
72時間が過ぎると、空ちゃんの容態が安定してきました。担当医から「命の心配はしなくてもいい状態になりました。しかし、重症の低酸素状態が長かったので、脳のダメージは大きいでしょう。後日、MRIで確認します」と連絡が入りました。
院長は「酸素飽和度が64％まで低下したんやから、脳の障害は避けられないな」と暗い顔でつぶやき、私も覚悟を決めました。
それから数週間後、新生児内科の部長から興奮した声で電話があり、「MRIで低酸素性脳障害は認められませんでした。後遺症が出るかもしれないので３歳までは経過を見ますが、あんなに重症だったのに不思議ですね。脳出血を覚悟していたのですが、脳内はクリアで驚いています。数日中に退院しますのでご安心ください」と言うのです。
しばらくして、空ちゃんはNICUを退院。上野さんはその足で空ちゃんを連れて医院に来て下さいました。ミルクの飲みも良く体重も増え、あの時のことが嘘のように元気いっぱい。
私は空ちゃんを抱きしめ、「強い子や。偉い子やなぁ」と命の重みを噛みしめました。この子の頑張りと、泊まり込みで治療にあたって下さったNICUのドクター、ナース、そして神様への感謝の思いがこみ上げ、泣けて、泣けて。
その日から、夏の暑さを感じる余裕もなく、重い荷物を背負ったまま、祈り、願う日々。何を食べても砂を噛んでいるようで、丸々とした空ちゃんとは逆に頬はこけ、げっそり痩せていました。
早速、神様にお礼を申し上げようと天理に向かったのですが、「空ちゃんの命がたすかってよかった、有り難い、だけではないような…。口の中がジャリジャリするのも続いてるし…。神さん、私に言いたいことがあるんとちゃうかなぁ」と、心がざわざわするのです。
思案を巡らせつつ天理駅に到着。モヤモヤしたまま神殿に向かって商店街を歩いていると、壁に貼ってある「天理看護学院助産学科」のポスターが目に留まりました。そのポスターの前でこの度のことをクールに振り返っていたその時、電気が走ったように「ハッ！」と気づいたのです。
リスナーの皆さん、私は何に気づいたのでしょう。続きは来週の後編で。



人の目と神様の目

私たちは普段、とかく人の目を気にし、世間体を気にしながら日々行動しています。それはある意味、社会常識としては当然のことのようにも思います。しかし、そこから一歩進んで人として成人を遂げるには、「人の目」と共に「神様の目」があることを知らなければなりません。
お言葉に、

　　このせかい一れつみゑる月日なら　　とこの事でもしらぬ事なし　（八 51）

とあります。
この世界と人間をお創り下された親神様は、世界中の隅々に至るまでを隈なく見渡し、さらには私たち一人ひとりの心の内までご覧下さっています。そして、いつでも私たちが考えているさらにその一歩先まで成人することを、ご期待下さっています。
親神様の目を意識できるようになると、人の見ていない所での行動が変わります。たとえば、公共のトイレを使った後、次の人が使いやすいようにさりげなくきれいにしたり、外食をして食べ終わった後に、テーブルをそっと拭いたり。それは決して人からの評価にはつながりませんが、親神様は大きく評価をして下さいます。いわゆる「徳」を積むという行いです。
教祖・中山みき様は、山中こいそさんというご婦人に、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と仰せになりました。こいそさんは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」とお答え申し上げました。（教祖伝逸話篇63「目に見えん徳」）
このこいそさんの返事に対する教祖のお言葉は残されていません。しかし、これ以上の答えはないのではないでしょうか。目に見えない徳を積むことで、我が身思案を捨てた人だすけの精神は益々高まっていくことでしょう。

　　なにもかも月日しはいをするからハ　　をふきちいさいゆうでないぞや　（七 14）

親神様がすべてをお計らい下さり、お見守り下さっている。日頃からそう意識できれば、何事も形の大小にこだわらず、人の目先の評価にも一喜一憂することなく、親神様の思いに近づくことが出来るのではないでしょうか。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>砂を噛む日々（前編）
助産師　　目黒　和加子

ずいぶん前の夏のことです。私が分娩介助をした赤ちゃんが突然、命に係わる事態となりました。新生児集中治療室・NICUに救急搬送された直後から、私の身体に変化が起きます。口の中がジャリジャリして、砂を噛んでいるような感覚に陥ったのです。そのジャリジャリ感は夏が終わるまで続きました。
今回は神様に、助産師として最も厳しく鍛えられたお話です。
担当したのは予定日を10日過ぎた上野由美さん。超音波検査で羊水が急に減少し、胎児の推定体重まで減っていることが判りました。これは胎盤の働きが衰え、子宮内環境が悪化している証拠です。急遽、促進剤を使って分娩誘発することになりました。
薬で陣痛がついてくると順調に進行し、分娩室に入りました。産まれてくる赤ちゃんは女の子で、空（そら）ちゃんと名前がついています。
胎児心拍は時々低下しますが、回復は速やかで午後２時、出産。軽いチアノーゼがありますが、空ちゃんは活発に泣き、元気に手足を動かしています。全身を観察すると、口の中に血液を認めました。産道を通過する際、分娩に伴って出血したお母さんの血液を飲んだようです。これは時々あることで問題にはなりません。
しかし、口の中の血液をチューブで吸引した時、「サラサラした血やなぁ」と一瞬、違和感を持ちました。母体から出た血液は粘り気があり、トロっとしているのが特徴です。この違和感が後になって命に係わることになるのですが、この時、私はまだ気づいていません。
空ちゃんの肌は、ほぼピンク色になり問題があるようには見えません。ただ手先、足先のチアノーゼが残るので、酸素飽和度をモニタリングすると90％。保育器に入れ、酸素を与えると94％まで上昇しました。
「よかった、上がってきた。すぐに正常値の95％になるわ」と安心した途端、急に呼吸が速く浅くなり、一気にチアノーゼが全身に拡大。酸素の投与量を増やしても酸素飽和度は上昇するどころか下降し始め、院長を呼んだ時にはなんと、64％まで低下したのです。
「64％！ありえない！」と叫ぶ院長。空ちゃんの容態は急変、保育器ごと救急車に乗せ、NICUへ緊急搬送となりました。
しばらくして、疲れた顔の院長が戻ってきました。
「新生児内科のドクター総出で救命処置をして下さっているんだが…。部長先生からは『肺出血による肺高血圧症候群と思われます。満期で産まれた赤ちゃんに起こるのは稀です。今後、24時間がヤマです。全力を尽くしますが、かなり厳しい。覚悟してください』と言われた…」がっくり肩を落としています。
出生直後、口腔内にあった血液は産道の母体血を飲んだのではなく、空ちゃんの肺から出血したものだったのです。
「吸引をした時、『サラサラした血やなぁ』と一瞬思ったのに。あの時に気づいていれば、これほどの重症になる前に搬送できたのに…」
空ちゃんに申し訳なくて、自分を責めました。午後5時、長かった日勤が終わりました。
「こうなったら神さんしかない！」
家に帰るやいなや、二日前に出た手つかずの給与を所属教会に送りました。教会ではお願いづとめにかかってくださり、大阪の実家では母が空ちゃんのたすかりを祈ってくれました。
24時間が過ぎ、空ちゃんの命はつながっていましたが、担当医からは「気が抜けない状態は変わらず、72時間を目処としてヤマが続きます」とのこと。
「やっぱり神さんしかない！」
家中のお金をかき集め、再びお供えの用意をしていると、主人が「僕の給与もお供えさせてもらおうね」と言ってくれました。
その当時、主人は天理教のことをほとんど知らなかったのですが、私の様子を見るに見かねて、なんとか力になってあげたいと思ったようです。見よう見まねで一緒におつとめをし、夫婦で空ちゃんのたすかりを祈りました。
72時間が過ぎると、空ちゃんの容態が安定してきました。担当医から「命の心配はしなくてもいい状態になりました。しかし、重症の低酸素状態が長かったので、脳のダメージは大きいでしょう。後日、MRIで確認します」と連絡が入りました。
院長は「酸素飽和度が64％まで低下したんやから、脳の障害は避けられないな」と暗い顔でつぶやき、私も覚悟を決めました。
それから数週間後、新生児内科の部長から興奮した声で電話があり、「MRIで低酸素性脳障害は認められませんでした。後遺症が出るかもしれないので３歳までは経過を見ますが、あんなに重症だったのに不思議ですね。脳出血を覚悟していたのですが、脳内はクリアで驚いています。数日中に退院しますのでご安心ください」と言うのです。
しばらくして、空ちゃんはNICUを退院。上野さんはその足で空ちゃんを連れて医院に来て下さいました。ミルクの飲みも良く体重も増え、あの時のことが嘘のように元気いっぱい。
私は空ちゃんを抱きしめ、「強い子や。偉い子やなぁ」と命の重みを噛みしめました。この子の頑張りと、泊まり込みで治療にあたって下さったNICUのドクター、ナース、そして神様への感謝の思いがこみ上げ、泣けて、泣けて。
その日から、夏の暑さを感じる余裕もなく、重い荷物を背負ったまま、祈り、願う日々。何を食べても砂を噛んでいるようで、丸々とした空ちゃんとは逆に頬はこけ、げっそり痩せていました。
早速、神様にお礼を申し上げようと天理に向かったのですが、「空ちゃんの命がたすかってよかった、有り難い、だけではないような…。口の中がジャリジャリするのも続いてるし…。神さん、私に言いたいことがあるんとちゃうかなぁ」と、心がざわざわするのです。
思案を巡らせつつ天理駅に到着。モヤモヤしたまま神殿に向かって商店街を歩いていると、壁に貼ってある「天理看護学院助産学科」のポスターが目に留まりました。そのポスターの前でこの度のことをクールに振り返っていたその時、電気が走ったように「ハッ！」と気づいたのです。
リスナーの皆さん、私は何に気づいたのでしょう。続きは来週の後編で。



人の目と神様の目

私たちは普段、とかく人の目を気にし、世間体を気にしながら日々行動しています。それはある意味、社会常識としては当然のことのようにも思います。しかし、そこから一歩進んで人として成人を遂げるには、「人の目」と共に「神様の目」があることを知らなければなりません。
お言葉に、

　　このせかい一れつみゑる月日なら　　とこの事でもしらぬ事なし　（八 51）

とあります。
この世界と人間をお創り下された親神様は、世界中の隅々に至るまでを隈なく見渡し、さらには私たち一人ひとりの心の内までご覧下さっています。そして、いつでも私たちが考えているさらにその一歩先まで成人することを、ご期待下さっています。
親神様の目を意識できるようになると、人の見ていない所での行動が変わります。たとえば、公共のトイレを使った後、次の人が使いやすいようにさりげなくきれいにしたり、外食をして食べ終わった後に、テーブルをそっと拭いたり。それは決して人からの評価にはつながりませんが、親神様は大きく評価をして下さいます。いわゆる「徳」を積むという行いです。
教祖・中山みき様は、山中こいそさんというご婦人に、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と仰せになりました。こいそさんは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」とお答え申し上げました。（教祖伝逸話篇63「目に見えん徳」）
このこいそさんの返事に対する教祖のお言葉は残されていません。しかし、これ以上の答えはないのではないでしょうか。目に見えない徳を積むことで、我が身思案を捨てた人だすけの精神は益々高まっていくことでしょう。

　　なにもかも月日しはいをするからハ　　をふきちいさいゆうでないぞや　（七 14）

親神様がすべてをお計らい下さり、お見守り下さっている。日頃からそう意識できれば、何事も形の大小にこだわらず、人の目先の評価にも一喜一憂することなく、親神様の思いに近づくことが出来るのではないでしょうか。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 19 Sep 2025 11:15:37 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>人生100年時代</title>
        <description><![CDATA[人生100年時代
千葉県在住　　中臺 眞治

5年ほど前、世の中がコロナ禍となって間もない頃、地域の社会福祉協議会の職員さんから相談の電話がありました。「お一人暮らしの高齢者で困っている方がいるので、そうした方の支援を天理教さんでして下さいませんか？」とのことでした。コロナ禍で私自身は時間を持て余していましたし、困っている人がいるならばという思いで、その依頼を受けることにしました。
最初の依頼は70代の男性からで、ゴミだらけになってしまった自宅の清掃でした。お話をうかがうと、「人間関係が煩わしくなり、10年前に引っ越してきたんだけど、地域に親しい人がいない。この何日間も人と話をしていないんだ」と言います。
元々は釣りや家庭菜園に精を出すなど、活動的な方だったのですが、コロナ禍で外出が出来ず、孤立した状況が浮き彫りになる中、片付ける気力も湧いてこなくなってしまったのです。なので、手を動かすことよりもまずは口を動かしておしゃべりすることを意識しながら、何日もかけてゆっくりと作業を行いました。
こうした高齢者の困りごとの依頼は、社会福祉協議会以外にも地域包括支援センターやケアマネージャーさんから教会へ届くのですが、対応出来ないほどの数の相談があるため、お断りせざるを得ない事も多く、地域には一人暮らしの高齢者の方が大勢おられるのだなと感じています。
厚生労働省が発表した令和６年の国民生活基礎調査の概況によると、65歳以上の単身世帯の数は900万世帯以上あり、この数は平成13年、2001年と比べ2.8倍になったとのことでした。
高齢になり、身体が不自由になってくると自分では解決しづらい困りごとが増えていきます。家族が近所にいれば色々と頼ることも出来ると思いますが、それも難しいという場合に、ご近所さん同士でたすけ合っているという方は少なくないと思います。
例えば運転出来る人に病院まで送迎してもらい、お礼にランチをご馳走したり、安否確認のためにお互いに声をかけ合ったりしている方もおられます。とても素敵なことだと思います。
その一方で、先ほどの男性のようにご近所付き合いが苦手な方もおられます。その男性からある日、「身体の調子が悪い」と電話がありました。
急いで自宅に駆け付けると、「二日前から起き上がれなくて、ご飯も食べていない。しんどいけど、救急車を呼んでいいのかどうかが分からない」と言うので、すぐに救急車を呼び、入院となりました。入院すると、病院生活に必要なものが色々と出てきます。私は看護師さんに「用意してください」と言われたものを買って届けました。
困った時に「たすけて」と言える相手がいない。そういう方は少なくないのではないかと感じています。いま紹介した男性も決して世間離れした方ではなく、至って真面目に生きてきた方で、人柄も良く、優しくて穏やかな方です。ただ、一つ二つ、ちょっとした不運な状況が重なってしまい、孤立し、困った状況になってしまったのです。こうした状況には自分も含め、誰もがなり得るのだと思います。
この活動は、ちょっとした困りごとのお手伝いを通じて、地域に新たな人間関係を増やしていくことを目的にしています。そのため、近所に住む信者さんや、教会で一緒に暮らしている方にも協力して頂いているのですが、活動を通じて地域に親しい人が増えていくことが、お互いの安心につながっていることを感じます。
また、戦争の体験を聞かせて頂くなど、自分とは世代も違い、違う価値観を持ち、違う体験をしながら生きてきた方と接することは、自分自身の視野を広げることにもつながっていくのだなと感じています。
少し話は変わるのですが、出会った高齢の方々が暗い顔をしながら、「長く生き過ぎた」とか「人に迷惑をかけてしまっているようで辛い」などとこぼされる場面が度々あります。健康面やお金のことなど、日々様々な不安を抱え、孤立感を感じながら生きてらっしゃるのだなと思います。
また、テレビでも日本が高齢化社会となり、様々な課題を抱えているという報道がなされるなど、長寿がネガティブな事柄であるかのように捉えられてしまう情報が度々流れてきます。
天理教の原典「おふでさき」では、

　　このたすけ百十五才ぢよみよと　　さだめつけたい神の一ぢよ　（三 100）

と、115才を人間の定命としたいという神様の思召しが記されています。
昨今、「人生100年時代」という言葉を度々耳にしますが、その長寿を憂いていては、神様は残念に感じられてしまうのではないでしょうか。
私自身も何歳まで生かして頂けるかは分かりませんし、今のような健康な状態がいつまで続くのかも分かりません。ですが、長寿を喜び合い、たすけ合い、神様のご守護に感謝をしながら過ごせるお互いでありたいと願っています。



行いに表してこそ

思えば、私たちは同じ人間でありながら、百人が百人、異なる運命を持っています。どの時代に、どの場所で、どの親から生まれるかは、自分の意志とは全く無関係です。その後も、家族に恵まれ、経済的にも恵まれて順風満帆な人生を送る人もいれば、若い頃から病を患ったり、家庭にトラブルを抱えて辛い人生を歩む人もいます。個人の能力や健康、性格的なことなども、自分の理想通りに与えられる人はそうそういないでしょう。
そうした運命的なものが、人間にとって大きな問題になると考える時、神様と向き合う心、すなわち信仰がいかに大事なものかが実感されます。信仰によって、与えられた自分の人生を真正面から受け入れることが出来れば、いたずらに他人と比較することなく、自分だけのかけがえのない道を歩む力が湧いてきます。
親神様は、人間が互いにたて合いたすけ合って、陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたいとの思いから、この世界と人間をお創り下さいました。親神様はすべての人々の親ですから、私たち可愛い子供一人ひとりに公平に、陽気ぐらしへと向かう道をご用意下さっています。
しかし私たちはそれぞれ、基礎体力も違えば、背負う荷物の重さもバラバラです。しっかり進む気力がなければ、途中のデコボコ道やぬかるみに足を取られるかもしれない。「こんな所を歩くのはもう嫌だ！」と、横道へそれてしまう人も出てくるでしょう。
教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、そんな私たちの歩み方に警告を発しておられます。

　　月日にハたん／＼みへるみちすぢに　　こわきあふなきみちがあるので　（七 7）

　　月日よりそのみちはやくしらそふと　　をもてしんバいしているとこそ　（七 8）

　　にんけんのわが子をもうもをなぢ事　　こわきあふなきみちをあんぢる　（七 9）

　　それしらすみな一れつハめへ／＼に　　みなうゝかりとくらしいるなり　（七 10）

この、ついうっかりと、何の注意も払わずに何となく暮らしている私たちのために、万人のお手本として進むべき道をお示し下されているのが、教祖の五十年にわたる「ひながた」です。
信仰とは「信じて」「仰ぐ」と書きますが、ただお手本たるひながたを仰ぎ見ているだけでは、運命を好転させるのは難しいでしょう。教祖のひながたを頼りに、教えを素直に実行してこそ、人生の限りない充実感を味わうことが出来るのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>人生100年時代
千葉県在住　　中臺 眞治

5年ほど前、世の中がコロナ禍となって間もない頃、地域の社会福祉協議会の職員さんから相談の電話がありました。「お一人暮らしの高齢者で困っている方がいるので、そうした方の支援を天理教さんでして下さいませんか？」とのことでした。コロナ禍で私自身は時間を持て余していましたし、困っている人がいるならばという思いで、その依頼を受けることにしました。
最初の依頼は70代の男性からで、ゴミだらけになってしまった自宅の清掃でした。お話をうかがうと、「人間関係が煩わしくなり、10年前に引っ越してきたんだけど、地域に親しい人がいない。この何日間も人と話をしていないんだ」と言います。
元々は釣りや家庭菜園に精を出すなど、活動的な方だったのですが、コロナ禍で外出が出来ず、孤立した状況が浮き彫りになる中、片付ける気力も湧いてこなくなってしまったのです。なので、手を動かすことよりもまずは口を動かしておしゃべりすることを意識しながら、何日もかけてゆっくりと作業を行いました。
こうした高齢者の困りごとの依頼は、社会福祉協議会以外にも地域包括支援センターやケアマネージャーさんから教会へ届くのですが、対応出来ないほどの数の相談があるため、お断りせざるを得ない事も多く、地域には一人暮らしの高齢者の方が大勢おられるのだなと感じています。
厚生労働省が発表した令和６年の国民生活基礎調査の概況によると、65歳以上の単身世帯の数は900万世帯以上あり、この数は平成13年、2001年と比べ2.8倍になったとのことでした。
高齢になり、身体が不自由になってくると自分では解決しづらい困りごとが増えていきます。家族が近所にいれば色々と頼ることも出来ると思いますが、それも難しいという場合に、ご近所さん同士でたすけ合っているという方は少なくないと思います。
例えば運転出来る人に病院まで送迎してもらい、お礼にランチをご馳走したり、安否確認のためにお互いに声をかけ合ったりしている方もおられます。とても素敵なことだと思います。
その一方で、先ほどの男性のようにご近所付き合いが苦手な方もおられます。その男性からある日、「身体の調子が悪い」と電話がありました。
急いで自宅に駆け付けると、「二日前から起き上がれなくて、ご飯も食べていない。しんどいけど、救急車を呼んでいいのかどうかが分からない」と言うので、すぐに救急車を呼び、入院となりました。入院すると、病院生活に必要なものが色々と出てきます。私は看護師さんに「用意してください」と言われたものを買って届けました。
困った時に「たすけて」と言える相手がいない。そういう方は少なくないのではないかと感じています。いま紹介した男性も決して世間離れした方ではなく、至って真面目に生きてきた方で、人柄も良く、優しくて穏やかな方です。ただ、一つ二つ、ちょっとした不運な状況が重なってしまい、孤立し、困った状況になってしまったのです。こうした状況には自分も含め、誰もがなり得るのだと思います。
この活動は、ちょっとした困りごとのお手伝いを通じて、地域に新たな人間関係を増やしていくことを目的にしています。そのため、近所に住む信者さんや、教会で一緒に暮らしている方にも協力して頂いているのですが、活動を通じて地域に親しい人が増えていくことが、お互いの安心につながっていることを感じます。
また、戦争の体験を聞かせて頂くなど、自分とは世代も違い、違う価値観を持ち、違う体験をしながら生きてきた方と接することは、自分自身の視野を広げることにもつながっていくのだなと感じています。
少し話は変わるのですが、出会った高齢の方々が暗い顔をしながら、「長く生き過ぎた」とか「人に迷惑をかけてしまっているようで辛い」などとこぼされる場面が度々あります。健康面やお金のことなど、日々様々な不安を抱え、孤立感を感じながら生きてらっしゃるのだなと思います。
また、テレビでも日本が高齢化社会となり、様々な課題を抱えているという報道がなされるなど、長寿がネガティブな事柄であるかのように捉えられてしまう情報が度々流れてきます。
天理教の原典「おふでさき」では、

　　このたすけ百十五才ぢよみよと　　さだめつけたい神の一ぢよ　（三 100）

と、115才を人間の定命としたいという神様の思召しが記されています。
昨今、「人生100年時代」という言葉を度々耳にしますが、その長寿を憂いていては、神様は残念に感じられてしまうのではないでしょうか。
私自身も何歳まで生かして頂けるかは分かりませんし、今のような健康な状態がいつまで続くのかも分かりません。ですが、長寿を喜び合い、たすけ合い、神様のご守護に感謝をしながら過ごせるお互いでありたいと願っています。



行いに表してこそ

思えば、私たちは同じ人間でありながら、百人が百人、異なる運命を持っています。どの時代に、どの場所で、どの親から生まれるかは、自分の意志とは全く無関係です。その後も、家族に恵まれ、経済的にも恵まれて順風満帆な人生を送る人もいれば、若い頃から病を患ったり、家庭にトラブルを抱えて辛い人生を歩む人もいます。個人の能力や健康、性格的なことなども、自分の理想通りに与えられる人はそうそういないでしょう。
そうした運命的なものが、人間にとって大きな問題になると考える時、神様と向き合う心、すなわち信仰がいかに大事なものかが実感されます。信仰によって、与えられた自分の人生を真正面から受け入れることが出来れば、いたずらに他人と比較することなく、自分だけのかけがえのない道を歩む力が湧いてきます。
親神様は、人間が互いにたて合いたすけ合って、陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたいとの思いから、この世界と人間をお創り下さいました。親神様はすべての人々の親ですから、私たち可愛い子供一人ひとりに公平に、陽気ぐらしへと向かう道をご用意下さっています。
しかし私たちはそれぞれ、基礎体力も違えば、背負う荷物の重さもバラバラです。しっかり進む気力がなければ、途中のデコボコ道やぬかるみに足を取られるかもしれない。「こんな所を歩くのはもう嫌だ！」と、横道へそれてしまう人も出てくるでしょう。
教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、そんな私たちの歩み方に警告を発しておられます。

　　月日にハたん／＼みへるみちすぢに　　こわきあふなきみちがあるので　（七 7）

　　月日よりそのみちはやくしらそふと　　をもてしんバいしているとこそ　（七 8）

　　にんけんのわが子をもうもをなぢ事　　こわきあふなきみちをあんぢる　（七 9）

　　それしらすみな一れつハめへ／＼に　　みなうゝかりとくらしいるなり　（七 10）

この、ついうっかりと、何の注意も払わずに何となく暮らしている私たちのために、万人のお手本として進むべき道をお示し下されているのが、教祖の五十年にわたる「ひながた」です。
信仰とは「信じて」「仰ぐ」と書きますが、ただお手本たるひながたを仰ぎ見ているだけでは、運命を好転させるのは難しいでしょう。教祖のひながたを頼りに、教えを素直に実行してこそ、人生の限りない充実感を味わうことが出来るのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>人生100年時代
千葉県在住　　中臺 眞治

5年ほど前、世の中がコロナ禍となって間もない頃、地域の社会福祉協議会の職員さんから相談の電話がありました。「お一人暮らしの高齢者で困っている方がいるので、そうした方の支援を天理教さんでして下さいませんか？」とのことでした。コロナ禍で私自身は時間を持て余していましたし、困っている人がいるならばという思いで、その依頼を受けることにしました。
最初の依頼は70代の男性からで、ゴミだらけになってしまった自宅の清掃でした。お話をうかがうと、「人間関係が煩わしくなり、10年前に引っ越してきたんだけど、地域に親しい人がいない。この何日間も人と話をしていないんだ」と言います。
元々は釣りや家庭菜園に精を出すなど、活動的な方だったのですが、コロナ禍で外出が出来ず、孤立した状況が浮き彫りになる中、片付ける気力も湧いてこなくなってしまったのです。なので、手を動かすことよりもまずは口を動かしておしゃべりすることを意識しながら、何日もかけてゆっくりと作業を行いました。
こうした高齢者の困りごとの依頼は、社会福祉協議会以外にも地域包括支援センターやケアマネージャーさんから教会へ届くのですが、対応出来ないほどの数の相談があるため、お断りせざるを得ない事も多く、地域には一人暮らしの高齢者の方が大勢おられるのだなと感じています。
厚生労働省が発表した令和６年の国民生活基礎調査の概況によると、65歳以上の単身世帯の数は900万世帯以上あり、この数は平成13年、2001年と比べ2.8倍になったとのことでした。
高齢になり、身体が不自由になってくると自分では解決しづらい困りごとが増えていきます。家族が近所にいれば色々と頼ることも出来ると思いますが、それも難しいという場合に、ご近所さん同士でたすけ合っているという方は少なくないと思います。
例えば運転出来る人に病院まで送迎してもらい、お礼にランチをご馳走したり、安否確認のためにお互いに声をかけ合ったりしている方もおられます。とても素敵なことだと思います。
その一方で、先ほどの男性のようにご近所付き合いが苦手な方もおられます。その男性からある日、「身体の調子が悪い」と電話がありました。
急いで自宅に駆け付けると、「二日前から起き上がれなくて、ご飯も食べていない。しんどいけど、救急車を呼んでいいのかどうかが分からない」と言うので、すぐに救急車を呼び、入院となりました。入院すると、病院生活に必要なものが色々と出てきます。私は看護師さんに「用意してください」と言われたものを買って届けました。
困った時に「たすけて」と言える相手がいない。そういう方は少なくないのではないかと感じています。いま紹介した男性も決して世間離れした方ではなく、至って真面目に生きてきた方で、人柄も良く、優しくて穏やかな方です。ただ、一つ二つ、ちょっとした不運な状況が重なってしまい、孤立し、困った状況になってしまったのです。こうした状況には自分も含め、誰もがなり得るのだと思います。
この活動は、ちょっとした困りごとのお手伝いを通じて、地域に新たな人間関係を増やしていくことを目的にしています。そのため、近所に住む信者さんや、教会で一緒に暮らしている方にも協力して頂いているのですが、活動を通じて地域に親しい人が増えていくことが、お互いの安心につながっていることを感じます。
また、戦争の体験を聞かせて頂くなど、自分とは世代も違い、違う価値観を持ち、違う体験をしながら生きてきた方と接することは、自分自身の視野を広げることにもつながっていくのだなと感じています。
少し話は変わるのですが、出会った高齢の方々が暗い顔をしながら、「長く生き過ぎた」とか「人に迷惑をかけてしまっているようで辛い」などとこぼされる場面が度々あります。健康面やお金のことなど、日々様々な不安を抱え、孤立感を感じながら生きてらっしゃるのだなと思います。
また、テレビでも日本が高齢化社会となり、様々な課題を抱えているという報道がなされるなど、長寿がネガティブな事柄であるかのように捉えられてしまう情報が度々流れてきます。
天理教の原典「おふでさき」では、

　　このたすけ百十五才ぢよみよと　　さだめつけたい神の一ぢよ　（三 100）

と、115才を人間の定命としたいという神様の思召しが記されています。
昨今、「人生100年時代」という言葉を度々耳にしますが、その長寿を憂いていては、神様は残念に感じられてしまうのではないでしょうか。
私自身も何歳まで生かして頂けるかは分かりませんし、今のような健康な状態がいつまで続くのかも分かりません。ですが、長寿を喜び合い、たすけ合い、神様のご守護に感謝をしながら過ごせるお互いでありたいと願っています。



行いに表してこそ

思えば、私たちは同じ人間でありながら、百人が百人、異なる運命を持っています。どの時代に、どの場所で、どの親から生まれるかは、自分の意志とは全く無関係です。その後も、家族に恵まれ、経済的にも恵まれて順風満帆な人生を送る人もいれば、若い頃から病を患ったり、家庭にトラブルを抱えて辛い人生を歩む人もいます。個人の能力や健康、性格的なことなども、自分の理想通りに与えられる人はそうそういないでしょう。
そうした運命的なものが、人間にとって大きな問題になると考える時、神様と向き合う心、すなわち信仰がいかに大事なものかが実感されます。信仰によって、与えられた自分の人生を真正面から受け入れることが出来れば、いたずらに他人と比較することなく、自分だけのかけがえのない道を歩む力が湧いてきます。
親神様は、人間が互いにたて合いたすけ合って、陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたいとの思いから、この世界と人間をお創り下さいました。親神様はすべての人々の親ですから、私たち可愛い子供一人ひとりに公平に、陽気ぐらしへと向かう道をご用意下さっています。
しかし私たちはそれぞれ、基礎体力も違えば、背負う荷物の重さもバラバラです。しっかり進む気力がなければ、途中のデコボコ道やぬかるみに足を取られるかもしれない。「こんな所を歩くのはもう嫌だ！」と、横道へそれてしまう人も出てくるでしょう。
教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、そんな私たちの歩み方に警告を発しておられます。

　　月日にハたん／＼みへるみちすぢに　　こわきあふなきみちがあるので　（七 7）

　　月日よりそのみちはやくしらそふと　　をもてしんバいしているとこそ　（七 8）

　　にんけんのわが子をもうもをなぢ事　　こわきあふなきみちをあんぢる　（七 9）

　　それしらすみな一れつハめへ／＼に　　みなうゝかりとくらしいるなり　（七 10）

この、ついうっかりと、何の注意も払わずに何となく暮らしている私たちのために、万人のお手本として進むべき道をお示し下されているのが、教祖の五十年にわたる「ひながた」です。
信仰とは「信じて」「仰ぐ」と書きますが、ただお手本たるひながたを仰ぎ見ているだけでは、運命を好転させるのは難しいでしょう。教祖のひながたを頼りに、教えを素直に実行してこそ、人生の限りない充実感を味わうことが出来るのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 12 Sep 2025 09:22:37 +0000</pubDate>
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                <title>タイでひろがるたすけ合いの輪</title>
        <description><![CDATA[タイでひろがるたすけ合いの輪
タイ在住　　野口　信也

私はタイへ赴任して14年目になります。教祖140年祭に向け、皆が心を一つにして、病気の方や困っている方の力になってもらいたいとの真柱様の思いを少しでも実現するため、教友の方々と様々な取り組みをしてきました。そうした中、身近な方々が重病を発症されたり、急にお亡くなりになるなど、心を倒しそうになることもありましたが、大きなたすかりを頂戴することも多くあり、教祖の年祭へ向けた活動の大切さを改めて感じる毎日です。
そうした活動の中でのことをお話したいと思います。友人の誘いで信仰を始め、母親の大けがを通して親神様の大きなご守護を体験したチューンさんという方がいます。私の住むタイ出張所の近くで小さな料理屋を経営し、そこに妹さんと住んでおられました。
チューンさんの妹さんは優しくてとても温厚な方でしたが、病弱で心臓病や重度の糖尿病など様々な病気を併発していて、私は病気の平癒を願い、何度かおさづけをさせて頂いていました。かいさ
しかしその後少し遠方に引っ越され、コロナ禍もあり思うようにお会いできなくなってしまいました。
チューンさんは以前から、自分も人類のふるさとである天理で教えを学ぶべく修養科を志願し、おさづけの理を拝戴して、一日も早く妹におさづけを取り次ぎたい、と話していました。
そして、2020年5月から開始予定の修養科タイ語クラスに志願するため、料理屋を辞め、日本のビザを取得し、後は出発を待つのみでしたが、コロナ禍の影響で二年に一度開催されるはずのタイ語クラスが急遽中止となってしまいました。そして、あらためて開催されることになった2022年の修養科タイ語クラスへの志願を目前に、妹さんは残念ながらお亡くなりになりました。
私は、チューンさんは修養科を辞退されるのでは、と思いましたが、「神様との約束ですから」と初志貫徹。修養科にて三か月間学び、自身の悩みの種であったひざの痛みも完治のご守護を頂き、勇んでタイへ戻ってきました。
そして、知り合いや近所に病気の方やケガ人がいると、自身の学んできたことをお伝えし、妹さんに出来なかった思いも込めて、おさづけの取り次ぎを続けておられました。
「これまでおさづけを取り次がせて下さいとお願いして、一度も断られたことはありません」と、チューンさんは嬉しそうに話していました。
そんなある日、今年の一月のことです。チューンさんを信仰に導いたＢさんから連絡があり、チューンさんから緊急のラインが入ったとのこと。現在、バンコクから約400キロ離れたブリラム県の病院で母親の看病をしているが、膀胱炎で血と膿が止まらず、心臓肥大に末期の腎不全など様々な症状を併発している。94歳という年齢も考え、延命治療は断っているが、検査のための採血などで腕は青あざだらけで、可哀そうで仕方がない。お母さんが安らかな最期を送れるようお願いして欲しい、とのことでした。
お母さんは家庭の事情から、チューンさんの兄嫁の実家へお兄さんと一緒に引っ越しておられたので、10年ほどお会いできていませんでした。私は何とかもう一度お会いしたいと思い、すぐに車を運転してＢさんと現地へ向かいました。
到着後、病室へ入ると、お母さんはとても苦しそうで話が出来る状態ではなく、すぐにおさづけを取り次ぎました。すると、たちまちいびきをかいて気持ち良さそうに眠ってしまいました。
私が来るのを待って下さっていて、このままお亡くなりになるのでは、という不安が頭をよぎりました。その横でチューンさんとBさんは、「お母さんはこの辺りに知り合いがいないので、葬儀はバンコクでやりたい」など、今後のことについて相談をしていましたが、夜間の地方道路での運転は危険を伴うため、15分ほどの滞在ですぐにバンコクへとんぼ返りしなければなりませんでした。しかし帰りの運転中も、バンコクへ到着してからもお母さんの容態が気になって仕方がありませんでした。
翌日、Ｂさんからチューンさんのラインが転送されてきました。そこには、「お母さんの病状がとても良くなり、表情も明るくなり、呼吸器も簡易のもので事足りるようになりました。家族みんなで喜んでおり、お医者さんは二日後には自宅療養できると言っています」と書かれていました。
私はそれを見て大変驚きましたが、事情を知っている出張所の事務員も、この話を側で聞いていて、「鳥肌が立った」と言ったほどでした。チューンさんの献身的な看病と、心を込めたおさづけの取り次ぎにより、本当に鮮やかなご守護を頂戴しました。
10日後、私は再度ブリラム県へお見舞いに行くことにしました。この時はバンコクに戻っていたチューンさんと、Bさん、そして長距離を運転する私を手伝うためにと、Bさんの娘さんも同行してくれました。
元気なお母さんにお会いできることを楽しみにお宅を訪問すると、とても苦しそうなお顔で眠っておられました。チューンさんが食事をさせようと起こしましたが、目もほぼ開けることが出来ず、顎が外れたようにぽっかりと口が開いていて、チューンさんがご飯を口元まで運んでも、とても食べられる状態ではありません。
お兄さんたちの話では、昨日まで元気に食事もとっていたとのこと。そこで、すぐにおさづけを取り次ぎました。チューンさん、Bさん、そしてBさんの娘さん、全員修養科を修了したばかりですから、私に続いて順番におさづけを取り次いで神様にお願いしました。
すると、いつの間にかお母さんの顔がいきいきと明るくなり、ぽっかり開いていた口もしっかり動き、おかゆのご飯を美味しそうに食べ始めました。あまりのことに、今度はこちらがぽかんと口を開けたような状態になりました。
帰りには、お母さんの隣のベッドで治療していた方のお宅を訪問しました。病院でのお母さんの回復した姿を目の当たりにし、是非自分も神様にお願いして欲しいと依頼されたのです。この方は若い頃から心臓の病気を患っておられ、またその方の母親も膝に痛々しい傷を持っていたため、そのお二人におさづけを取り次ぎ、バンコクへ戻りました。
それから20日後、お母さんはご自宅で静かに息を引き取られました。お母さんの御霊をタイ出張所の祖霊舎（みたまや）へお遷しするため、再度ブリラム県へ行き、また帰りには心臓病の方のお宅を訪問しました。チューンさんも葬儀を終えた後、このお宅へ行き、お二人におさづけを取り次ぎましたと報告をくれました。
チューンさんの真心と、お母さんが自身の病気を通して導いて下さった新たなたすけ合いの輪です。大切に育んで、バンコクから遠く離れたこの町にも、教祖の教えでたすかる方が少しずつでも増えることを楽しみにしています。



だけど有難い「三つの『元』」

「幸せの元」は何でしょう。お道を信仰している方であれば、お金や物の豊かさではないということはお分かりだと思います。実際、お金や物の豊かさというのは、「幸せの元」ではなくて「生活の元」です。全くないと生活できませんから、お金も物も必要です。では「幸せの元」とは何か。いったい人間は、どんなときに幸せを感じるのでしょうか。
あるアンケート調査によれば、「自分が人から愛されている、大切にされていると感じたとき」「人から信頼されている、頼りにされているというとき」「世の中、社会のために役に立っていると感じたとき」という答えが多いそうです。これらはいずれも、人のために動いたときに得られるものばかりです。自分が何もしなければ、人から愛されたり、大切に扱われたり、信頼されたり、頼りにされたり、また世の中や社会の役に立ったりすることはありません。
「人たすけたら我が身たすかる」という教祖の教えは、このことからもよく分からせていただけます。「幸せの元」は、人をたすけるところから生まれるのです。
もう一つ、大事なものがあります。それは「命の元」です。これは誰しも察しがつくでしょう。健康であるということです。
この「命の元＝健康」というものは、自分ではどうにもなりません。これをご守護いただこうと思ったら、どうすればいいのか。それは「幸せの元」である、人をたすけること、そして「生活の元」である、お金や物を人だすけに使わせていただくことです。普通、人間は、自分さえ良ければいい、今さえ良ければいいと考えて、「生活の元」であるお金や物を自分のために使うのです。そうではなく、人のために使わせていただくのです。
「生活の元」に困っている、生きていくのが大変という人は、どうしたらいいのか。「命の元」である健康を頂戴しているこの体を使って、人をたすけさせていただく。そうすることによって、生きていく糧をお与えいただけるのです。
こう考えると「幸せの元」「生活の元」「命の元」というのは、それぞれ大いに関わりのあるものです。そして、おたすけの実践こそ、そのすべてを頂く本元なのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>タイでひろがるたすけ合いの輪
タイ在住　　野口　信也

私はタイへ赴任して14年目になります。教祖140年祭に向け、皆が心を一つにして、病気の方や困っている方の力になってもらいたいとの真柱様の思いを少しでも実現するため、教友の方々と様々な取り組みをしてきました。そうした中、身近な方々が重病を発症されたり、急にお亡くなりになるなど、心を倒しそうになることもありましたが、大きなたすかりを頂戴することも多くあり、教祖の年祭へ向けた活動の大切さを改めて感じる毎日です。
そうした活動の中でのことをお話したいと思います。友人の誘いで信仰を始め、母親の大けがを通して親神様の大きなご守護を体験したチューンさんという方がいます。私の住むタイ出張所の近くで小さな料理屋を経営し、そこに妹さんと住んでおられました。
チューンさんの妹さんは優しくてとても温厚な方でしたが、病弱で心臓病や重度の糖尿病など様々な病気を併発していて、私は病気の平癒を願い、何度かおさづけをさせて頂いていました。かいさ
しかしその後少し遠方に引っ越され、コロナ禍もあり思うようにお会いできなくなってしまいました。
チューンさんは以前から、自分も人類のふるさとである天理で教えを学ぶべく修養科を志願し、おさづけの理を拝戴して、一日も早く妹におさづけを取り次ぎたい、と話していました。
そして、2020年5月から開始予定の修養科タイ語クラスに志願するため、料理屋を辞め、日本のビザを取得し、後は出発を待つのみでしたが、コロナ禍の影響で二年に一度開催されるはずのタイ語クラスが急遽中止となってしまいました。そして、あらためて開催されることになった2022年の修養科タイ語クラスへの志願を目前に、妹さんは残念ながらお亡くなりになりました。
私は、チューンさんは修養科を辞退されるのでは、と思いましたが、「神様との約束ですから」と初志貫徹。修養科にて三か月間学び、自身の悩みの種であったひざの痛みも完治のご守護を頂き、勇んでタイへ戻ってきました。
そして、知り合いや近所に病気の方やケガ人がいると、自身の学んできたことをお伝えし、妹さんに出来なかった思いも込めて、おさづけの取り次ぎを続けておられました。
「これまでおさづけを取り次がせて下さいとお願いして、一度も断られたことはありません」と、チューンさんは嬉しそうに話していました。
そんなある日、今年の一月のことです。チューンさんを信仰に導いたＢさんから連絡があり、チューンさんから緊急のラインが入ったとのこと。現在、バンコクから約400キロ離れたブリラム県の病院で母親の看病をしているが、膀胱炎で血と膿が止まらず、心臓肥大に末期の腎不全など様々な症状を併発している。94歳という年齢も考え、延命治療は断っているが、検査のための採血などで腕は青あざだらけで、可哀そうで仕方がない。お母さんが安らかな最期を送れるようお願いして欲しい、とのことでした。
お母さんは家庭の事情から、チューンさんの兄嫁の実家へお兄さんと一緒に引っ越しておられたので、10年ほどお会いできていませんでした。私は何とかもう一度お会いしたいと思い、すぐに車を運転してＢさんと現地へ向かいました。
到着後、病室へ入ると、お母さんはとても苦しそうで話が出来る状態ではなく、すぐにおさづけを取り次ぎました。すると、たちまちいびきをかいて気持ち良さそうに眠ってしまいました。
私が来るのを待って下さっていて、このままお亡くなりになるのでは、という不安が頭をよぎりました。その横でチューンさんとBさんは、「お母さんはこの辺りに知り合いがいないので、葬儀はバンコクでやりたい」など、今後のことについて相談をしていましたが、夜間の地方道路での運転は危険を伴うため、15分ほどの滞在ですぐにバンコクへとんぼ返りしなければなりませんでした。しかし帰りの運転中も、バンコクへ到着してからもお母さんの容態が気になって仕方がありませんでした。
翌日、Ｂさんからチューンさんのラインが転送されてきました。そこには、「お母さんの病状がとても良くなり、表情も明るくなり、呼吸器も簡易のもので事足りるようになりました。家族みんなで喜んでおり、お医者さんは二日後には自宅療養できると言っています」と書かれていました。
私はそれを見て大変驚きましたが、事情を知っている出張所の事務員も、この話を側で聞いていて、「鳥肌が立った」と言ったほどでした。チューンさんの献身的な看病と、心を込めたおさづけの取り次ぎにより、本当に鮮やかなご守護を頂戴しました。
10日後、私は再度ブリラム県へお見舞いに行くことにしました。この時はバンコクに戻っていたチューンさんと、Bさん、そして長距離を運転する私を手伝うためにと、Bさんの娘さんも同行してくれました。
元気なお母さんにお会いできることを楽しみにお宅を訪問すると、とても苦しそうなお顔で眠っておられました。チューンさんが食事をさせようと起こしましたが、目もほぼ開けることが出来ず、顎が外れたようにぽっかりと口が開いていて、チューンさんがご飯を口元まで運んでも、とても食べられる状態ではありません。
お兄さんたちの話では、昨日まで元気に食事もとっていたとのこと。そこで、すぐにおさづけを取り次ぎました。チューンさん、Bさん、そしてBさんの娘さん、全員修養科を修了したばかりですから、私に続いて順番におさづけを取り次いで神様にお願いしました。
すると、いつの間にかお母さんの顔がいきいきと明るくなり、ぽっかり開いていた口もしっかり動き、おかゆのご飯を美味しそうに食べ始めました。あまりのことに、今度はこちらがぽかんと口を開けたような状態になりました。
帰りには、お母さんの隣のベッドで治療していた方のお宅を訪問しました。病院でのお母さんの回復した姿を目の当たりにし、是非自分も神様にお願いして欲しいと依頼されたのです。この方は若い頃から心臓の病気を患っておられ、またその方の母親も膝に痛々しい傷を持っていたため、そのお二人におさづけを取り次ぎ、バンコクへ戻りました。
それから20日後、お母さんはご自宅で静かに息を引き取られました。お母さんの御霊をタイ出張所の祖霊舎（みたまや）へお遷しするため、再度ブリラム県へ行き、また帰りには心臓病の方のお宅を訪問しました。チューンさんも葬儀を終えた後、このお宅へ行き、お二人におさづけを取り次ぎましたと報告をくれました。
チューンさんの真心と、お母さんが自身の病気を通して導いて下さった新たなたすけ合いの輪です。大切に育んで、バンコクから遠く離れたこの町にも、教祖の教えでたすかる方が少しずつでも増えることを楽しみにしています。



だけど有難い「三つの『元』」

「幸せの元」は何でしょう。お道を信仰している方であれば、お金や物の豊かさではないということはお分かりだと思います。実際、お金や物の豊かさというのは、「幸せの元」ではなくて「生活の元」です。全くないと生活できませんから、お金も物も必要です。では「幸せの元」とは何か。いったい人間は、どんなときに幸せを感じるのでしょうか。
あるアンケート調査によれば、「自分が人から愛されている、大切にされていると感じたとき」「人から信頼されている、頼りにされているというとき」「世の中、社会のために役に立っていると感じたとき」という答えが多いそうです。これらはいずれも、人のために動いたときに得られるものばかりです。自分が何もしなければ、人から愛されたり、大切に扱われたり、信頼されたり、頼りにされたり、また世の中や社会の役に立ったりすることはありません。
「人たすけたら我が身たすかる」という教祖の教えは、このことからもよく分からせていただけます。「幸せの元」は、人をたすけるところから生まれるのです。
もう一つ、大事なものがあります。それは「命の元」です。これは誰しも察しがつくでしょう。健康であるということです。
この「命の元＝健康」というものは、自分ではどうにもなりません。これをご守護いただこうと思ったら、どうすればいいのか。それは「幸せの元」である、人をたすけること、そして「生活の元」である、お金や物を人だすけに使わせていただくことです。普通、人間は、自分さえ良ければいい、今さえ良ければいいと考えて、「生活の元」であるお金や物を自分のために使うのです。そうではなく、人のために使わせていただくのです。
「生活の元」に困っている、生きていくのが大変という人は、どうしたらいいのか。「命の元」である健康を頂戴しているこの体を使って、人をたすけさせていただく。そうすることによって、生きていく糧をお与えいただけるのです。
こう考えると「幸せの元」「生活の元」「命の元」というのは、それぞれ大いに関わりのあるものです。そして、おたすけの実践こそ、そのすべてを頂く本元なのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>タイでひろがるたすけ合いの輪
タイ在住　　野口　信也

私はタイへ赴任して14年目になります。教祖140年祭に向け、皆が心を一つにして、病気の方や困っている方の力になってもらいたいとの真柱様の思いを少しでも実現するため、教友の方々と様々な取り組みをしてきました。そうした中、身近な方々が重病を発症されたり、急にお亡くなりになるなど、心を倒しそうになることもありましたが、大きなたすかりを頂戴することも多くあり、教祖の年祭へ向けた活動の大切さを改めて感じる毎日です。
そうした活動の中でのことをお話したいと思います。友人の誘いで信仰を始め、母親の大けがを通して親神様の大きなご守護を体験したチューンさんという方がいます。私の住むタイ出張所の近くで小さな料理屋を経営し、そこに妹さんと住んでおられました。
チューンさんの妹さんは優しくてとても温厚な方でしたが、病弱で心臓病や重度の糖尿病など様々な病気を併発していて、私は病気の平癒を願い、何度かおさづけをさせて頂いていました。かいさ
しかしその後少し遠方に引っ越され、コロナ禍もあり思うようにお会いできなくなってしまいました。
チューンさんは以前から、自分も人類のふるさとである天理で教えを学ぶべく修養科を志願し、おさづけの理を拝戴して、一日も早く妹におさづけを取り次ぎたい、と話していました。
そして、2020年5月から開始予定の修養科タイ語クラスに志願するため、料理屋を辞め、日本のビザを取得し、後は出発を待つのみでしたが、コロナ禍の影響で二年に一度開催されるはずのタイ語クラスが急遽中止となってしまいました。そして、あらためて開催されることになった2022年の修養科タイ語クラスへの志願を目前に、妹さんは残念ながらお亡くなりになりました。
私は、チューンさんは修養科を辞退されるのでは、と思いましたが、「神様との約束ですから」と初志貫徹。修養科にて三か月間学び、自身の悩みの種であったひざの痛みも完治のご守護を頂き、勇んでタイへ戻ってきました。
そして、知り合いや近所に病気の方やケガ人がいると、自身の学んできたことをお伝えし、妹さんに出来なかった思いも込めて、おさづけの取り次ぎを続けておられました。
「これまでおさづけを取り次がせて下さいとお願いして、一度も断られたことはありません」と、チューンさんは嬉しそうに話していました。
そんなある日、今年の一月のことです。チューンさんを信仰に導いたＢさんから連絡があり、チューンさんから緊急のラインが入ったとのこと。現在、バンコクから約400キロ離れたブリラム県の病院で母親の看病をしているが、膀胱炎で血と膿が止まらず、心臓肥大に末期の腎不全など様々な症状を併発している。94歳という年齢も考え、延命治療は断っているが、検査のための採血などで腕は青あざだらけで、可哀そうで仕方がない。お母さんが安らかな最期を送れるようお願いして欲しい、とのことでした。
お母さんは家庭の事情から、チューンさんの兄嫁の実家へお兄さんと一緒に引っ越しておられたので、10年ほどお会いできていませんでした。私は何とかもう一度お会いしたいと思い、すぐに車を運転してＢさんと現地へ向かいました。
到着後、病室へ入ると、お母さんはとても苦しそうで話が出来る状態ではなく、すぐにおさづけを取り次ぎました。すると、たちまちいびきをかいて気持ち良さそうに眠ってしまいました。
私が来るのを待って下さっていて、このままお亡くなりになるのでは、という不安が頭をよぎりました。その横でチューンさんとBさんは、「お母さんはこの辺りに知り合いがいないので、葬儀はバンコクでやりたい」など、今後のことについて相談をしていましたが、夜間の地方道路での運転は危険を伴うため、15分ほどの滞在ですぐにバンコクへとんぼ返りしなければなりませんでした。しかし帰りの運転中も、バンコクへ到着してからもお母さんの容態が気になって仕方がありませんでした。
翌日、Ｂさんからチューンさんのラインが転送されてきました。そこには、「お母さんの病状がとても良くなり、表情も明るくなり、呼吸器も簡易のもので事足りるようになりました。家族みんなで喜んでおり、お医者さんは二日後には自宅療養できると言っています」と書かれていました。
私はそれを見て大変驚きましたが、事情を知っている出張所の事務員も、この話を側で聞いていて、「鳥肌が立った」と言ったほどでした。チューンさんの献身的な看病と、心を込めたおさづけの取り次ぎにより、本当に鮮やかなご守護を頂戴しました。
10日後、私は再度ブリラム県へお見舞いに行くことにしました。この時はバンコクに戻っていたチューンさんと、Bさん、そして長距離を運転する私を手伝うためにと、Bさんの娘さんも同行してくれました。
元気なお母さんにお会いできることを楽しみにお宅を訪問すると、とても苦しそうなお顔で眠っておられました。チューンさんが食事をさせようと起こしましたが、目もほぼ開けることが出来ず、顎が外れたようにぽっかりと口が開いていて、チューンさんがご飯を口元まで運んでも、とても食べられる状態ではありません。
お兄さんたちの話では、昨日まで元気に食事もとっていたとのこと。そこで、すぐにおさづけを取り次ぎました。チューンさん、Bさん、そしてBさんの娘さん、全員修養科を修了したばかりですから、私に続いて順番におさづけを取り次いで神様にお願いしました。
すると、いつの間にかお母さんの顔がいきいきと明るくなり、ぽっかり開いていた口もしっかり動き、おかゆのご飯を美味しそうに食べ始めました。あまりのことに、今度はこちらがぽかんと口を開けたような状態になりました。
帰りには、お母さんの隣のベッドで治療していた方のお宅を訪問しました。病院でのお母さんの回復した姿を目の当たりにし、是非自分も神様にお願いして欲しいと依頼されたのです。この方は若い頃から心臓の病気を患っておられ、またその方の母親も膝に痛々しい傷を持っていたため、そのお二人におさづけを取り次ぎ、バンコクへ戻りました。
それから20日後、お母さんはご自宅で静かに息を引き取られました。お母さんの御霊をタイ出張所の祖霊舎（みたまや）へお遷しするため、再度ブリラム県へ行き、また帰りには心臓病の方のお宅を訪問しました。チューンさんも葬儀を終えた後、このお宅へ行き、お二人におさづけを取り次ぎましたと報告をくれました。
チューンさんの真心と、お母さんが自身の病気を通して導いて下さった新たなたすけ合いの輪です。大切に育んで、バンコクから遠く離れたこの町にも、教祖の教えでたすかる方が少しずつでも増えることを楽しみにしています。



だけど有難い「三つの『元』」

「幸せの元」は何でしょう。お道を信仰している方であれば、お金や物の豊かさではないということはお分かりだと思います。実際、お金や物の豊かさというのは、「幸せの元」ではなくて「生活の元」です。全くないと生活できませんから、お金も物も必要です。では「幸せの元」とは何か。いったい人間は、どんなときに幸せを感じるのでしょうか。
あるアンケート調査によれば、「自分が人から愛されている、大切にされていると感じたとき」「人から信頼されている、頼りにされているというとき」「世の中、社会のために役に立っていると感じたとき」という答えが多いそうです。これらはいずれも、人のために動いたときに得られるものばかりです。自分が何もしなければ、人から愛されたり、大切に扱われたり、信頼されたり、頼りにされたり、また世の中や社会の役に立ったりすることはありません。
「人たすけたら我が身たすかる」という教祖の教えは、このことからもよく分からせていただけます。「幸せの元」は、人をたすけるところから生まれるのです。
もう一つ、大事なものがあります。それは「命の元」です。これは誰しも察しがつくでしょう。健康であるということです。
この「命の元＝健康」というものは、自分ではどうにもなりません。これをご守護いただこうと思ったら、どうすればいいのか。それは「幸せの元」である、人をたすけること、そして「生活の元」である、お金や物を人だすけに使わせていただくことです。普通、人間は、自分さえ良ければいい、今さえ良ければいいと考えて、「生活の元」であるお金や物を自分のために使うのです。そうではなく、人のために使わせていただくのです。
「生活の元」に困っている、生きていくのが大変という人は、どうしたらいいのか。「命の元」である健康を頂戴しているこの体を使って、人をたすけさせていただく。そうすることによって、生きていく糧をお与えいただけるのです。
こう考えると「幸せの元」「生活の元」「命の元」というのは、それぞれ大いに関わりのあるものです。そして、おたすけの実践こそ、そのすべてを頂く本元なのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 05 Sep 2025 09:29:38 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>共に栄える理</title>
        <description><![CDATA[共に栄える理
 東京都在住　　松村　登美和

今年の夏も、厳しい暑さが続いています。振り返ると、ちょうど一年前は、今頃の季節からスーパーマーケットの棚からお米がなくなり始めて、以来「令和の米騒動」と呼ばれる状況が続いています。
３月からは政府備蓄米の放出が始まり、我が家も安い米を入手しようと、スーパーマーケットやドラッグストアのチラシをこまめにチェックするようになりました。
６月に近所のスーパーで、一回目の放出分の米を５キロ3,500円で買ったのですが、その時妻と「今まで4,500円ぐらいしていたから、たすかるね」「でもよく考えたら、去年の今頃は5キロ2,000円ちょっとだったよなあ。やっぱり高くなったなあ」などと話をしていました。
その夜、テレビでお米の値段について話題になっていました。「消費者にとっては安い方がありがたいけれども、生産者の農家からすれば、今までの値段は安すぎた」との内容でした。
番組では、農業関係者の方が「生産者側にとっての適正価格は？」とインタビューされて、「5キロで最低3,000円は…」「3,000円から4,000円」「3,500円は欲しい」など、それぞれの相場観を語っていました。
私は「もうちょっと安い方がいいなあ」と思いながら見ていたのですが、妻は「そう言えば、結婚した頃は今よりだいぶ、お米の値段は高かったわよね。農家の方にしてみれば、値段が下がり過ぎるのも辛いわよね」と言いました。
その時にふと、天理教教祖・中山みき様「おやさま」のあるお言葉が、頭の中をよぎりました。それは「高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。
天理教には、教祖が時々にお教え下されたお言葉などをまとめた『天理教教祖伝逸話篇』という書物があります。その中の一遍に記されている内容を少し紹介します。
ある時、43歳になる男性が、教祖のもとへ詣りました。その時、教祖が「あんた、家業は何をなさる」と、お尋ねになりました。男性が、「はい、私は蒟蒻屋をしております」と、お答えすると、教祖は、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と、仰せになりました。
ところが男性は、どう考えても、「高う買うて、安う売る」という意味が分かりません。そんな事をすれば、損をして、商売が出来ないように思われる。そこで、早くから信仰をしていた先輩に尋ねたところ、こう諭されたそうです。
「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である」。
男性はそれを聞いて、初めて「成る程」と得心がいった、という逸話です。
私は米にせよ何にせよ、安い方がありがたいと思う訳ですが、確かに妻の言う通り、作る側にしてみれば、それが辛い状況につながることもあるのです。
天理教では、「自分さえ良ければ人はどうでもよい」という考え方は、「我が身可愛い」ほこりの心遣いである、と神様から戒められています。それを妻の一言で思い出しました。
ところで、今回改めてこの逸話を呼んで、一つ心に留まった一文があります。それは「問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ」という部分です。「理で立つ」とは、どういった意味なのでしょうか。
問屋から高く買えば、問屋は喜びます。そうしたことで信頼関係を築き上げられれば、例えば商品が品薄になった時でも、多少なりと融通してもらえるかもしれません。また、お客に安い値段で売っていれば、客足は伸びていくでしょう。それが人情というものです。
しかし、男性に諭し話をした先輩は、そうした義理人情だけで「自分の店が立つ」と話したのではないように感じます。
自分の利益を優先する態度を「利己主義」と言います。その反対にあるのが「利他」の精神です。他人のために心を使ったり行動をしたりすることです。
親神様は、世界中の人間の「陽気ぐらし」をお望みになっています。ですから、そうした「他人が良いように」との態度や心遣いをお喜び下さいます。そして、そのような心遣いが出来る人には、親神様は大きな徳、ご守護を下さいます。
つまり「理で立つ」とは、「問屋を泣かさないように」「お客が喜ぶように」という真実ある態度を親神様がご覧下さり、ご守護を下さる。それが「天の理」で立つ、ということではないかと思うのです。問屋やお客が応援してくれるのも、見えない親神様のお働きの顕れなのかもしれません。
さて現在、稲刈りが早く行われる地域では、すでに米の収穫時期を迎えています。今年も全国各地で、親神天理王命様の十全のお働きを頂いて、順調に米の収穫が進むことを願っています。そして、今年の新米は、農家も立ち、自分も立ち、共に栄える理が頂けるように、入手の仕方を考えたいと思います。



おふでさき御執筆

ここでよくご紹介する「おふでさき」とは、天理教教祖・中山みき様「おやさま」が、親神様の思召しのままに、和歌の形式で筆に記された書き物のことを指します。

　　このよふハりいでせめたるせかいなり　　なにかよろづを歌のりでせめ　（一 21）

　　せめるとててざしするでハないほどに　　くちでもゆハんふでさきのせめ　（一 22）

　　なにもかもちがハん事ハよけれども　　ちがいあるなら歌でしらする　（一 23）

この世は理詰めの世界である。つまり、すべては親神様のご守護によって成り立つ世界であるということです。その理というもの、すなわちご守護の流れというものを、手で指し示したり口で諭すのではなく、筆によって教えていく。
そして、その理由について「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」（Ｍ37・8・23）と、一度聞いただけでは忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられます。
さらに続けて、「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。」（Ｍ37・8・23）と、一首々々、軽い心で受け取ってはならないと戒めておられます。
さて、「おふでさき」ご執筆のご様子について、教祖はこのように語られています。
「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。
書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである」

　　だん／＼とふてにしらしてあるほどに　　はやく心にさとりとるよふ　（四 72）

とのお歌があります。親神様は、私たちに「おふでさき」のお歌を日々繰り返し繰り返し味わい、心に深く治め、この世界の真実を早く悟りとることを、切に願っておられるのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>共に栄える理
 東京都在住　　松村　登美和

今年の夏も、厳しい暑さが続いています。振り返ると、ちょうど一年前は、今頃の季節からスーパーマーケットの棚からお米がなくなり始めて、以来「令和の米騒動」と呼ばれる状況が続いています。
３月からは政府備蓄米の放出が始まり、我が家も安い米を入手しようと、スーパーマーケットやドラッグストアのチラシをこまめにチェックするようになりました。
６月に近所のスーパーで、一回目の放出分の米を５キロ3,500円で買ったのですが、その時妻と「今まで4,500円ぐらいしていたから、たすかるね」「でもよく考えたら、去年の今頃は5キロ2,000円ちょっとだったよなあ。やっぱり高くなったなあ」などと話をしていました。
その夜、テレビでお米の値段について話題になっていました。「消費者にとっては安い方がありがたいけれども、生産者の農家からすれば、今までの値段は安すぎた」との内容でした。
番組では、農業関係者の方が「生産者側にとっての適正価格は？」とインタビューされて、「5キロで最低3,000円は…」「3,000円から4,000円」「3,500円は欲しい」など、それぞれの相場観を語っていました。
私は「もうちょっと安い方がいいなあ」と思いながら見ていたのですが、妻は「そう言えば、結婚した頃は今よりだいぶ、お米の値段は高かったわよね。農家の方にしてみれば、値段が下がり過ぎるのも辛いわよね」と言いました。
その時にふと、天理教教祖・中山みき様「おやさま」のあるお言葉が、頭の中をよぎりました。それは「高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。
天理教には、教祖が時々にお教え下されたお言葉などをまとめた『天理教教祖伝逸話篇』という書物があります。その中の一遍に記されている内容を少し紹介します。
ある時、43歳になる男性が、教祖のもとへ詣りました。その時、教祖が「あんた、家業は何をなさる」と、お尋ねになりました。男性が、「はい、私は蒟蒻屋をしております」と、お答えすると、教祖は、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と、仰せになりました。
ところが男性は、どう考えても、「高う買うて、安う売る」という意味が分かりません。そんな事をすれば、損をして、商売が出来ないように思われる。そこで、早くから信仰をしていた先輩に尋ねたところ、こう諭されたそうです。
「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である」。
男性はそれを聞いて、初めて「成る程」と得心がいった、という逸話です。
私は米にせよ何にせよ、安い方がありがたいと思う訳ですが、確かに妻の言う通り、作る側にしてみれば、それが辛い状況につながることもあるのです。
天理教では、「自分さえ良ければ人はどうでもよい」という考え方は、「我が身可愛い」ほこりの心遣いである、と神様から戒められています。それを妻の一言で思い出しました。
ところで、今回改めてこの逸話を呼んで、一つ心に留まった一文があります。それは「問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ」という部分です。「理で立つ」とは、どういった意味なのでしょうか。
問屋から高く買えば、問屋は喜びます。そうしたことで信頼関係を築き上げられれば、例えば商品が品薄になった時でも、多少なりと融通してもらえるかもしれません。また、お客に安い値段で売っていれば、客足は伸びていくでしょう。それが人情というものです。
しかし、男性に諭し話をした先輩は、そうした義理人情だけで「自分の店が立つ」と話したのではないように感じます。
自分の利益を優先する態度を「利己主義」と言います。その反対にあるのが「利他」の精神です。他人のために心を使ったり行動をしたりすることです。
親神様は、世界中の人間の「陽気ぐらし」をお望みになっています。ですから、そうした「他人が良いように」との態度や心遣いをお喜び下さいます。そして、そのような心遣いが出来る人には、親神様は大きな徳、ご守護を下さいます。
つまり「理で立つ」とは、「問屋を泣かさないように」「お客が喜ぶように」という真実ある態度を親神様がご覧下さり、ご守護を下さる。それが「天の理」で立つ、ということではないかと思うのです。問屋やお客が応援してくれるのも、見えない親神様のお働きの顕れなのかもしれません。
さて現在、稲刈りが早く行われる地域では、すでに米の収穫時期を迎えています。今年も全国各地で、親神天理王命様の十全のお働きを頂いて、順調に米の収穫が進むことを願っています。そして、今年の新米は、農家も立ち、自分も立ち、共に栄える理が頂けるように、入手の仕方を考えたいと思います。



おふでさき御執筆

ここでよくご紹介する「おふでさき」とは、天理教教祖・中山みき様「おやさま」が、親神様の思召しのままに、和歌の形式で筆に記された書き物のことを指します。

　　このよふハりいでせめたるせかいなり　　なにかよろづを歌のりでせめ　（一 21）

　　せめるとててざしするでハないほどに　　くちでもゆハんふでさきのせめ　（一 22）

　　なにもかもちがハん事ハよけれども　　ちがいあるなら歌でしらする　（一 23）

この世は理詰めの世界である。つまり、すべては親神様のご守護によって成り立つ世界であるということです。その理というもの、すなわちご守護の流れというものを、手で指し示したり口で諭すのではなく、筆によって教えていく。
そして、その理由について「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」（Ｍ37・8・23）と、一度聞いただけでは忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられます。
さらに続けて、「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。」（Ｍ37・8・23）と、一首々々、軽い心で受け取ってはならないと戒めておられます。
さて、「おふでさき」ご執筆のご様子について、教祖はこのように語られています。
「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。
書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである」

　　だん／＼とふてにしらしてあるほどに　　はやく心にさとりとるよふ　（四 72）

とのお歌があります。親神様は、私たちに「おふでさき」のお歌を日々繰り返し繰り返し味わい、心に深く治め、この世界の真実を早く悟りとることを、切に願っておられるのです。
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        <itunes:summary>共に栄える理
 東京都在住　　松村　登美和

今年の夏も、厳しい暑さが続いています。振り返ると、ちょうど一年前は、今頃の季節からスーパーマーケットの棚からお米がなくなり始めて、以来「令和の米騒動」と呼ばれる状況が続いています。
３月からは政府備蓄米の放出が始まり、我が家も安い米を入手しようと、スーパーマーケットやドラッグストアのチラシをこまめにチェックするようになりました。
６月に近所のスーパーで、一回目の放出分の米を５キロ3,500円で買ったのですが、その時妻と「今まで4,500円ぐらいしていたから、たすかるね」「でもよく考えたら、去年の今頃は5キロ2,000円ちょっとだったよなあ。やっぱり高くなったなあ」などと話をしていました。
その夜、テレビでお米の値段について話題になっていました。「消費者にとっては安い方がありがたいけれども、生産者の農家からすれば、今までの値段は安すぎた」との内容でした。
番組では、農業関係者の方が「生産者側にとっての適正価格は？」とインタビューされて、「5キロで最低3,000円は…」「3,000円から4,000円」「3,500円は欲しい」など、それぞれの相場観を語っていました。
私は「もうちょっと安い方がいいなあ」と思いながら見ていたのですが、妻は「そう言えば、結婚した頃は今よりだいぶ、お米の値段は高かったわよね。農家の方にしてみれば、値段が下がり過ぎるのも辛いわよね」と言いました。
その時にふと、天理教教祖・中山みき様「おやさま」のあるお言葉が、頭の中をよぎりました。それは「高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。
天理教には、教祖が時々にお教え下されたお言葉などをまとめた『天理教教祖伝逸話篇』という書物があります。その中の一遍に記されている内容を少し紹介します。
ある時、43歳になる男性が、教祖のもとへ詣りました。その時、教祖が「あんた、家業は何をなさる」と、お尋ねになりました。男性が、「はい、私は蒟蒻屋をしております」と、お答えすると、教祖は、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と、仰せになりました。
ところが男性は、どう考えても、「高う買うて、安う売る」という意味が分かりません。そんな事をすれば、損をして、商売が出来ないように思われる。そこで、早くから信仰をしていた先輩に尋ねたところ、こう諭されたそうです。
「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である」。
男性はそれを聞いて、初めて「成る程」と得心がいった、という逸話です。
私は米にせよ何にせよ、安い方がありがたいと思う訳ですが、確かに妻の言う通り、作る側にしてみれば、それが辛い状況につながることもあるのです。
天理教では、「自分さえ良ければ人はどうでもよい」という考え方は、「我が身可愛い」ほこりの心遣いである、と神様から戒められています。それを妻の一言で思い出しました。
ところで、今回改めてこの逸話を呼んで、一つ心に留まった一文があります。それは「問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ」という部分です。「理で立つ」とは、どういった意味なのでしょうか。
問屋から高く買えば、問屋は喜びます。そうしたことで信頼関係を築き上げられれば、例えば商品が品薄になった時でも、多少なりと融通してもらえるかもしれません。また、お客に安い値段で売っていれば、客足は伸びていくでしょう。それが人情というものです。
しかし、男性に諭し話をした先輩は、そうした義理人情だけで「自分の店が立つ」と話したのではないように感じます。
自分の利益を優先する態度を「利己主義」と言います。その反対にあるのが「利他」の精神です。他人のために心を使ったり行動をしたりすることです。
親神様は、世界中の人間の「陽気ぐらし」をお望みになっています。ですから、そうした「他人が良いように」との態度や心遣いをお喜び下さいます。そして、そのような心遣いが出来る人には、親神様は大きな徳、ご守護を下さいます。
つまり「理で立つ」とは、「問屋を泣かさないように」「お客が喜ぶように」という真実ある態度を親神様がご覧下さり、ご守護を下さる。それが「天の理」で立つ、ということではないかと思うのです。問屋やお客が応援してくれるのも、見えない親神様のお働きの顕れなのかもしれません。
さて現在、稲刈りが早く行われる地域では、すでに米の収穫時期を迎えています。今年も全国各地で、親神天理王命様の十全のお働きを頂いて、順調に米の収穫が進むことを願っています。そして、今年の新米は、農家も立ち、自分も立ち、共に栄える理が頂けるように、入手の仕方を考えたいと思います。



おふでさき御執筆

ここでよくご紹介する「おふでさき」とは、天理教教祖・中山みき様「おやさま」が、親神様の思召しのままに、和歌の形式で筆に記された書き物のことを指します。

　　このよふハりいでせめたるせかいなり　　なにかよろづを歌のりでせめ　（一 21）

　　せめるとててざしするでハないほどに　　くちでもゆハんふでさきのせめ　（一 22）

　　なにもかもちがハん事ハよけれども　　ちがいあるなら歌でしらする　（一 23）

この世は理詰めの世界である。つまり、すべては親神様のご守護によって成り立つ世界であるということです。その理というもの、すなわちご守護の流れというものを、手で指し示したり口で諭すのではなく、筆によって教えていく。
そして、その理由について「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」（Ｍ37・8・23）と、一度聞いただけでは忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられます。
さらに続けて、「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。」（Ｍ37・8・23）と、一首々々、軽い心で受け取ってはならないと戒めておられます。
さて、「おふでさき」ご執筆のご様子について、教祖はこのように語られています。
「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。
書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである」

　　だん／＼とふてにしらしてあるほどに　　はやく心にさとりとるよふ　（四 72）

とのお歌があります。親神様は、私たちに「おふでさき」のお歌を日々繰り返し繰り返し味わい、心に深く治め、この世界の真実を早く悟りとることを、切に願っておられるのです。
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        <pubDate>Fri, 29 Aug 2025 09:33:02 +0000</pubDate>
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                <title>心を込めたサービス券</title>
        <description><![CDATA[心を込めたサービス券
　　　　　　　　　　　　　　　　大阪府在住　　山本　達則

日々の街角での布教活動では、沢山の方々との出会いがあります。その中のお一人とのお話です。
いつも布教活動をしている駅周辺で、自転車整理の仕事をされている70代のAさんが、いつ頃からか声をかけて下さるようになりました。「おはよう。今日も頑張ってるな」と、いつも気持ちの良い笑顔で声を掛けて下さいました。
そのAさんが、ある時から「はい、これご褒美」と言って、新聞の切り抜きの餃子のサービス券を私の手に握らせて下さるようになりました。それはいつの間にか、毎週月曜日のルーティンのようになって、私が駅前に行くとすぐに満面の笑顔で近寄って来られ、餃子のサービス券を下さいました。

ある日のこと、いつもは裸のサービス券が、その日は小さなポチ袋に入っていました。私が「わざわざ入れて下さったんですか？」と聞くと、「これでちょっとはいい事あるかな」と、少し照れながら手渡して下さいました。
私が「きっとあると思います」と言うと、びっくりしたような顔で「ほんまか？なんでや？」と言われるので、「僕が喜んでいるからです」と答えると、「そうか、そういうもんなんや」と嬉しそうに言われました。それからは、餃子のサービス券は、必ずポチ袋に入れて渡して下さいました。

ところが半年ほど経つと、ある日を境に、ぱったりとAさんと出会わなくなりました。心配になり、同僚の方に聞いてみると、身体を壊して休んでおられるということでした。
住所は個人情報なので教えられないという事でしたが、いつもの雑談の中で聞いていた辺りを何となく探していると、意外と簡単にお宅が見つかり訪ねてみました。
インターホンを押すと中からAさんが出てこられ、少し驚いた様子でしたが、心配になって訪ねた事を説明すると、快く迎えて下さいました。聞くと、持病の腰痛がひどくなり、一日中立ちっぱなしの仕事が難しくなったとの事でした。
それより私が驚いたのは、「腰がましになったら、持っていこうと思ってたんや」と言って、５枚のポチ袋に入ったサービス券を下さった事でした。

それから、しばらくお話を聞かせて頂くことが出来ました。Aさんには娘さんが一人おられ、数年前に結婚されました。

しかし、一年ほど前から夫婦仲がうまくいっておらず、実家に帰ってきては愚痴や不満をこぼすことが多くなってきました。最近では離婚についても言い始め、孫の事を思うと何とかならないものかと、夫婦で心配ばかりしているという事でした。
「でもな…」とＡさんは続けて話して下さいました。
「あんた、前に自分が喜んでるから、自分を喜ばしてくれたから、餃子のサービス券でもいい事あるって言うてくれたな。だから、娘のことも自分ら親だけは喜んでやろうと思って、娘にも話してみたんやで。世の中には結婚したくても出来ない人もいるし、子供を欲しいと思っていても授からない人もいる。旦那さんに対しても、不満や愚痴をこぼしたくなるような事があるにせよ、それは旦那さんがいるからで、いなければそんな事も出来ないもんなって、そう話してみたんや。娘は黙って聞いておった。親である自分だけは、心配するだけでなくて、喜んでやろうと思ってんねん。これでええんやろ、天理さん」
Ａさんは満面の笑顔で話して下さいました。

「そうなんですよ。私たちの日常の中では、自分にとって都合のいい事、悪い事、喜べる事、喜べない事、楽しい事、腹立たしい事、色んな事がありますが、それは私たちがそう判断しているだけなんです。それらすべては、私たちが陽気ぐらしをするために神様が与えて下さっている姿ですから、それをどう喜ぶか。そのための努力を、神様は私たちに期待されているんだと思います。
だから、あまり面白くない事が起きても、その中で喜びを見つける努力をする。そうすると、次に何が起きても、それまでよりも喜べる心になるというのが、天理教の教えの一つなんですよ」
私がそう言うと、Ａさんは、「うん、うん、ほんまやな」とうなずきながら聞いて下さいました。

それからしばらくして、Ａさんは仕事に復帰されました。そして、「今日もいい音してるな」と拍子木の音を褒めて下さった後で、「はい、これ」と言って、ポチ袋に入れた餃子のサービス券を下さいました。
日常生活での「家族円満」への道は、喜べないような中であっても、少しでも喜ぶ努力をすることが一番の近道なのではないかと改めて思いました。


梶本宗太郎さん

小さい頃から、教祖のお屋敷へ引き寄せられ、その教祖の温かい親心にふれ、生涯を信仰にささげた者は数多くいます。
教祖のひ孫にあたる梶本宗太郎さんも、その一人です。小さい頃の教祖との思い出を、このように語っています。

教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同士遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。
それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。
櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。
私は、曾孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、
　「早う、一人で来るようになったらなあ」
と、仰せ下された、という。(『教祖伝逸話篇』193「早う一人で」）

教祖の懐に抱かれながら成長し、家族共々お屋敷へ入り込み、教会本部に長らく務めた宗太郎さんは、後年、このようなお話をしています。

このお屋敷に連れ帰られたみなさまこそ、まことに幸福な方々であります。
だれ一人として不足な心づかいで帰りている者がありましょうか。病気をたすけてもらったうれしさとか、今までは内々も、親子、兄弟、夫婦の中をむつまじく暮らせなかったが、教えの理を聞かしていただき、内々が互い互いの心の改良ができて円満に通させていただいているとか、そのうれしさを神様に報告申し上げるとか、親神様のひざ元に参りて心のさんげをさせていただきたいとか、今後は道の上で働かせていただく決心を告げ奉るとか、でありまして、何万の人々は和気藹々のうちにお屋敷にお帰りになったのであります。

お言葉にも、
　　をもしろやをふくの人があつまりて
　　天のあたゑとゆうてくるそや　　　（四１２）
　　にち／＼にみにさハりつくまたきたか
　　神のまちかねこれをしらすに　　　（四１３）
とお諭しありますごとく、喜び勇んで帰るみなさまを、神様は日々にお待ちかねておいでになります。

まさに、教祖に引き寄せられた喜びそのままに、宗太郎さんは生涯をこの道の信仰に捧げたのでした。（終）]]></description>
        <googleplay:description>心を込めたサービス券
　　　　　　　　　　　　　　　　大阪府在住　　山本　達則

日々の街角での布教活動では、沢山の方々との出会いがあります。その中のお一人とのお話です。
いつも布教活動をしている駅周辺で、自転車整理の仕事をされている70代のAさんが、いつ頃からか声をかけて下さるようになりました。「おはよう。今日も頑張ってるな」と、いつも気持ちの良い笑顔で声を掛けて下さいました。
そのAさんが、ある時から「はい、これご褒美」と言って、新聞の切り抜きの餃子のサービス券を私の手に握らせて下さるようになりました。それはいつの間にか、毎週月曜日のルーティンのようになって、私が駅前に行くとすぐに満面の笑顔で近寄って来られ、餃子のサービス券を下さいました。

ある日のこと、いつもは裸のサービス券が、その日は小さなポチ袋に入っていました。私が「わざわざ入れて下さったんですか？」と聞くと、「これでちょっとはいい事あるかな」と、少し照れながら手渡して下さいました。
私が「きっとあると思います」と言うと、びっくりしたような顔で「ほんまか？なんでや？」と言われるので、「僕が喜んでいるからです」と答えると、「そうか、そういうもんなんや」と嬉しそうに言われました。それからは、餃子のサービス券は、必ずポチ袋に入れて渡して下さいました。

ところが半年ほど経つと、ある日を境に、ぱったりとAさんと出会わなくなりました。心配になり、同僚の方に聞いてみると、身体を壊して休んでおられるということでした。
住所は個人情報なので教えられないという事でしたが、いつもの雑談の中で聞いていた辺りを何となく探していると、意外と簡単にお宅が見つかり訪ねてみました。
インターホンを押すと中からAさんが出てこられ、少し驚いた様子でしたが、心配になって訪ねた事を説明すると、快く迎えて下さいました。聞くと、持病の腰痛がひどくなり、一日中立ちっぱなしの仕事が難しくなったとの事でした。
それより私が驚いたのは、「腰がましになったら、持っていこうと思ってたんや」と言って、５枚のポチ袋に入ったサービス券を下さった事でした。

それから、しばらくお話を聞かせて頂くことが出来ました。Aさんには娘さんが一人おられ、数年前に結婚されました。

しかし、一年ほど前から夫婦仲がうまくいっておらず、実家に帰ってきては愚痴や不満をこぼすことが多くなってきました。最近では離婚についても言い始め、孫の事を思うと何とかならないものかと、夫婦で心配ばかりしているという事でした。
「でもな…」とＡさんは続けて話して下さいました。
「あんた、前に自分が喜んでるから、自分を喜ばしてくれたから、餃子のサービス券でもいい事あるって言うてくれたな。だから、娘のことも自分ら親だけは喜んでやろうと思って、娘にも話してみたんやで。世の中には結婚したくても出来ない人もいるし、子供を欲しいと思っていても授からない人もいる。旦那さんに対しても、不満や愚痴をこぼしたくなるような事があるにせよ、それは旦那さんがいるからで、いなければそんな事も出来ないもんなって、そう話してみたんや。娘は黙って聞いておった。親である自分だけは、心配するだけでなくて、喜んでやろうと思ってんねん。これでええんやろ、天理さん」
Ａさんは満面の笑顔で話して下さいました。

「そうなんですよ。私たちの日常の中では、自分にとって都合のいい事、悪い事、喜べる事、喜べない事、楽しい事、腹立たしい事、色んな事がありますが、それは私たちがそう判断しているだけなんです。それらすべては、私たちが陽気ぐらしをするために神様が与えて下さっている姿ですから、それをどう喜ぶか。そのための努力を、神様は私たちに期待されているんだと思います。
だから、あまり面白くない事が起きても、その中で喜びを見つける努力をする。そうすると、次に何が起きても、それまでよりも喜べる心になるというのが、天理教の教えの一つなんですよ」
私がそう言うと、Ａさんは、「うん、うん、ほんまやな」とうなずきながら聞いて下さいました。

それからしばらくして、Ａさんは仕事に復帰されました。そして、「今日もいい音してるな」と拍子木の音を褒めて下さった後で、「はい、これ」と言って、ポチ袋に入れた餃子のサービス券を下さいました。
日常生活での「家族円満」への道は、喜べないような中であっても、少しでも喜ぶ努力をすることが一番の近道なのではないかと改めて思いました。


梶本宗太郎さん

小さい頃から、教祖のお屋敷へ引き寄せられ、その教祖の温かい親心にふれ、生涯を信仰にささげた者は数多くいます。
教祖のひ孫にあたる梶本宗太郎さんも、その一人です。小さい頃の教祖との思い出を、このように語っています。

教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同士遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。
それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。
櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。
私は、曾孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、
　「早う、一人で来るようになったらなあ」
と、仰せ下された、という。(『教祖伝逸話篇』193「早う一人で」）

教祖の懐に抱かれながら成長し、家族共々お屋敷へ入り込み、教会本部に長らく務めた宗太郎さんは、後年、このようなお話をしています。

このお屋敷に連れ帰られたみなさまこそ、まことに幸福な方々であります。
だれ一人として不足な心づかいで帰りている者がありましょうか。病気をたすけてもらったうれしさとか、今までは内々も、親子、兄弟、夫婦の中をむつまじく暮らせなかったが、教えの理を聞かしていただき、内々が互い互いの心の改良ができて円満に通させていただいているとか、そのうれしさを神様に報告申し上げるとか、親神様のひざ元に参りて心のさんげをさせていただきたいとか、今後は道の上で働かせていただく決心を告げ奉るとか、でありまして、何万の人々は和気藹々のうちにお屋敷にお帰りになったのであります。

お言葉にも、
　　をもしろやをふくの人があつまりて
　　天のあたゑとゆうてくるそや　　　（四１２）
　　にち／＼にみにさハりつくまたきたか
　　神のまちかねこれをしらすに　　　（四１３）
とお諭しありますごとく、喜び勇んで帰るみなさまを、神様は日々にお待ちかねておいでになります。

まさに、教祖に引き寄せられた喜びそのままに、宗太郎さんは生涯をこの道の信仰に捧げたのでした。（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>心を込めたサービス券
　　　　　　　　　　　　　　　　大阪府在住　　山本　達則

日々の街角での布教活動では、沢山の方々との出会いがあります。その中のお一人とのお話です。
いつも布教活動をしている駅周辺で、自転車整理の仕事をされている70代のAさんが、いつ頃からか声をかけて下さるようになりました。「おはよう。今日も頑張ってるな」と、いつも気持ちの良い笑顔で声を掛けて下さいました。
そのAさんが、ある時から「はい、これご褒美」と言って、新聞の切り抜きの餃子のサービス券を私の手に握らせて下さるようになりました。それはいつの間にか、毎週月曜日のルーティンのようになって、私が駅前に行くとすぐに満面の笑顔で近寄って来られ、餃子のサービス券を下さいました。

ある日のこと、いつもは裸のサービス券が、その日は小さなポチ袋に入っていました。私が「わざわざ入れて下さったんですか？」と聞くと、「これでちょっとはいい事あるかな」と、少し照れながら手渡して下さいました。
私が「きっとあると思います」と言うと、びっくりしたような顔で「ほんまか？なんでや？」と言われるので、「僕が喜んでいるからです」と答えると、「そうか、そういうもんなんや」と嬉しそうに言われました。それからは、餃子のサービス券は、必ずポチ袋に入れて渡して下さいました。

ところが半年ほど経つと、ある日を境に、ぱったりとAさんと出会わなくなりました。心配になり、同僚の方に聞いてみると、身体を壊して休んでおられるということでした。
住所は個人情報なので教えられないという事でしたが、いつもの雑談の中で聞いていた辺りを何となく探していると、意外と簡単にお宅が見つかり訪ねてみました。
インターホンを押すと中からAさんが出てこられ、少し驚いた様子でしたが、心配になって訪ねた事を説明すると、快く迎えて下さいました。聞くと、持病の腰痛がひどくなり、一日中立ちっぱなしの仕事が難しくなったとの事でした。
それより私が驚いたのは、「腰がましになったら、持っていこうと思ってたんや」と言って、５枚のポチ袋に入ったサービス券を下さった事でした。

それから、しばらくお話を聞かせて頂くことが出来ました。Aさんには娘さんが一人おられ、数年前に結婚されました。

しかし、一年ほど前から夫婦仲がうまくいっておらず、実家に帰ってきては愚痴や不満をこぼすことが多くなってきました。最近では離婚についても言い始め、孫の事を思うと何とかならないものかと、夫婦で心配ばかりしているという事でした。
「でもな…」とＡさんは続けて話して下さいました。
「あんた、前に自分が喜んでるから、自分を喜ばしてくれたから、餃子のサービス券でもいい事あるって言うてくれたな。だから、娘のことも自分ら親だけは喜んでやろうと思って、娘にも話してみたんやで。世の中には結婚したくても出来ない人もいるし、子供を欲しいと思っていても授からない人もいる。旦那さんに対しても、不満や愚痴をこぼしたくなるような事があるにせよ、それは旦那さんがいるからで、いなければそんな事も出来ないもんなって、そう話してみたんや。娘は黙って聞いておった。親である自分だけは、心配するだけでなくて、喜んでやろうと思ってんねん。これでええんやろ、天理さん」
Ａさんは満面の笑顔で話して下さいました。

「そうなんですよ。私たちの日常の中では、自分にとって都合のいい事、悪い事、喜べる事、喜べない事、楽しい事、腹立たしい事、色んな事がありますが、それは私たちがそう判断しているだけなんです。それらすべては、私たちが陽気ぐらしをするために神様が与えて下さっている姿ですから、それをどう喜ぶか。そのための努力を、神様は私たちに期待されているんだと思います。
だから、あまり面白くない事が起きても、その中で喜びを見つける努力をする。そうすると、次に何が起きても、それまでよりも喜べる心になるというのが、天理教の教えの一つなんですよ」
私がそう言うと、Ａさんは、「うん、うん、ほんまやな」とうなずきながら聞いて下さいました。

それからしばらくして、Ａさんは仕事に復帰されました。そして、「今日もいい音してるな」と拍子木の音を褒めて下さった後で、「はい、これ」と言って、ポチ袋に入れた餃子のサービス券を下さいました。
日常生活での「家族円満」への道は、喜べないような中であっても、少しでも喜ぶ努力をすることが一番の近道なのではないかと改めて思いました。


梶本宗太郎さん

小さい頃から、教祖のお屋敷へ引き寄せられ、その教祖の温かい親心にふれ、生涯を信仰にささげた者は数多くいます。
教祖のひ孫にあたる梶本宗太郎さんも、その一人です。小さい頃の教祖との思い出を、このように語っています。

教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同士遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。
それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。
櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。
私は、曾孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、
　「早う、一人で来るようになったらなあ」
と、仰せ下された、という。(『教祖伝逸話篇』193「早う一人で」）

教祖の懐に抱かれながら成長し、家族共々お屋敷へ入り込み、教会本部に長らく務めた宗太郎さんは、後年、このようなお話をしています。

このお屋敷に連れ帰られたみなさまこそ、まことに幸福な方々であります。
だれ一人として不足な心づかいで帰りている者がありましょうか。病気をたすけてもらったうれしさとか、今までは内々も、親子、兄弟、夫婦の中をむつまじく暮らせなかったが、教えの理を聞かしていただき、内々が互い互いの心の改良ができて円満に通させていただいているとか、そのうれしさを神様に報告申し上げるとか、親神様のひざ元に参りて心のさんげをさせていただきたいとか、今後は道の上で働かせていただく決心を告げ奉るとか、でありまして、何万の人々は和気藹々のうちにお屋敷にお帰りになったのであります。

お言葉にも、
　　をもしろやをふくの人があつまりて
　　天のあたゑとゆうてくるそや　　　（四１２）
　　にち／＼にみにさハりつくまたきたか
　　神のまちかねこれをしらすに　　　（四１３）
とお諭しありますごとく、喜び勇んで帰るみなさまを、神様は日々にお待ちかねておいでになります。

まさに、教祖に引き寄せられた喜びそのままに、宗太郎さんは生涯をこの道の信仰に捧げたのでした。（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 22 Aug 2025 09:30:14 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>心コロコロ</title>
        <description><![CDATA[心コロコロ
岡山県在住　　山﨑　石根

一般的に、「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を「寄進」と言いますが、天理教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進として神様がお受け取り下さるとして、それを「ひのきしん」と教えられます。
私たちのように教会で生活する者や、天理教を信仰している家庭では、この「ひのきしん」という言葉は、幼少期から身近にある言葉でした。
３月末に岡山市にある大教会で、子どもたちが100人以上集まる大きな行事がありました。
そこで、天理教の代表者である真柱様から子どもたちへ「告辞」というお言葉を戴いたのですが、その中で「親神様への感謝の気持ちを行動に表すことを『ひのきしん』といいます」と説明をされていました。
また、私も子どもたちに神様のお話をする立場にありましたので、その時に同じように「ひのきしん」の意味について触れ、「親神様への感謝の心があるか、ないかが重要なんですよ」とお伝えしました。
つまり、「どんなにたくさんお手伝いをしたとしても、嫌々したり、文句を言いながらしてしまうと、ひのきしんにはならないし、反対に、たとえ落ち葉一枚だけを拾ったとしても、そこに神様への感謝の心があれば、それは立派なひのきしんになるんですよ」と、「行いよりも心が大切」というお話をしたのです。
おつとめと、このお話などを聞く式典が終わると、いよいよお楽しみ行事です。たくさんの模擬店や楽しいイベントがあり、最後のビンゴ大会では、みんな何かしら景品が当たって大喜びでした。とりわけ、この春中学生になる三男は、なんと1000円分のクオカードをゲットし、「やっぱり僕はひのきしんいっぱいしとるけぇなぁ」と、得意気に報告に来ました。
さて、月が変わり４月１日の夜のことです。妻がその日の午後の神殿掃除を、三男がいつになく真剣に手伝ってくれたと、教えてくれました。
私は感心して本人にお礼を言うと、「いや、有り難いと思ってするって知らんかったから」と言うのです。
「え、どういうこと？」と尋ねると、「この前のととの話で、元気な身体を使わせてもらって有り難うと思ってするって初めて分かったんよ。ひのきしんは心なんじゃろう？ 僕は心入れ替えたんじゃ」と言うではありませんか。
こういうことを恥ずかしげもなく言えるところが、天然キャラである三男の魅力なのですが、何とも話し手冥利に尽きる反応です。
そして、三男は次のように続けたのです。
「そうやって神殿掃除を頑張ったら、そのあと、お姉ちゃんにUNOで二回もボロ勝ちしたんで。やっぱり運が上がってきたわ！」
子どもの素直さに本当に嬉しい思いがしたのと同時に、神様のお話を伝えた大人の私自身も、もっともっと心がけなければならないなぁと襟を正したのでした。
すると、続けて妻がその日のお昼にあった出来事も教えてくれました。
妻の誕生日を三日後に控えていたのですが、三男が早くも誕生日プレゼントをくれたとのこと。しかも、先日のビンゴ大会で当てたクオカード1000円分を全部くれたと言うのです。
「私は『ええよぉ、自分で使いねぇ』と言うたんやけど、『ええから、お母ちゃんの欲しいもんが分からんけぇ、これで欲しいものを買いねぇ』と言うばかりで、挙句の果てには『僕は欲しいものないけぇ』と言うんよ」
と、妻は照れながら、そして嬉しそうに伝えてくれました。
なんとまあ、心を入れ替えた人は素晴らしいなぁと、私は自然と笑みがこぼれました。
嬉しい出来事はまだまだ続きます。
我が家では、小学五年生から毎月500円のお小遣いを与えるようにしています。この春、五年生になる末娘にとっては、ずっとずっと我慢して、待ちに待ったお小遣い。この4月1日に念願の500円をやっとゲットしました。すると、そのお小遣いの中から、さっそく妻が大好きなチョコビスケットを買って、プレゼントしてくれたのです。
さらに中３のお姉ちゃん。中3になっても我が家では同じく500円のお小遣いです。それなのに、妻の好きなルマンドとプリンをプレゼントに買ってくれて、ほぼお小遣いを使い切っている始末でした。
もちろん妻は妻で、「私は嬉しすぎて、三男からもらったクオカードを、あの子にどうやって返そうかと今、思案中…」と言うので、私は自分の妻、そして我が子ながら感心、感激の至りでした。
しかし、はたと気づきました。実は私の誕生日は３月で、つい二週間ほど前だったのです。
「あれあれ？ よう考えたら、ととの誕生日には誰もプレゼントくれんかったで～」と言うと、三男が間髪入れずに答えました。
「それは、まだ心を入れ替える前じゃったんじゃがぁ」
これには一本取られました。
続けて「来年楽しみにしといて」と言ってくれた彼に、「コロコロ変わらず、どうか一年後まで心を入れ替えた状態でありますように…」と、私は祈るように伝えましたが、もちろんこれは冗談です。
そう思ってくれた「心」が嬉しいし、むしろ「心」だけで十分なんです。それが親というものだよなぁと思った時に、人間の親である神様も、きっと「行い」そのものよりも「心」がどうであるかを喜ばれるんだろうなぁと、あらためて感じました。
今日もまた、親神様に感謝の心で「ひのきしん」です。



御退屈でございましょう

教祖は、参拝人のいない時には、お居間にお一人でいるのが常でした。お寂しいのではないだろうか、と考える者は当然いて、そんな信者と教祖にまつわる色々な逸話が残っています。

井筒梅治郎さんは、いつも台の上にジッとお座りになっている教祖のご様子に、御退屈ではあろうまいかと、どこかへ御案内しようと思い、「さぞ御退屈でございましょう」と申し上げると、教祖は、
「ここへ、一寸顔をつけてごらん」
と仰せになり、御自分の片手を差し出されました。梅治郎さんがその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りが見えました。ちょうど牡丹の花の季節のことであり、梅治郎さんは、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と恐れ入ったといいます。（教祖伝逸話篇76「牡丹の花盛り」）

また、ある時、教祖は、村上幸三郎さんに、
「幻を見せてやろう」
と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が見えるようになされました。そこには、煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えました。そこで幸三郎さんがお屋敷から自分の村へ戻り、早速煙草畑へ行ったところ、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていたのです。それを見て幸三郎さんは、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏したのです。
というのも、幸三郎さんはおたすけに専念する余り、田畑の仕事は作男にまかせきりでした。まかされた作男は、精一杯煙草造りに励み、そのよく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたのですが、幸三郎さんはおたすけに精進する余り一度も見に行く暇がなかったのです。
もちろん、おたすけの日々の中でも、いつも心の片隅に煙草畑のことが気にかかっていました。そういう中でおぢばへ帰らせて頂いた時のことで、幸三郎さんは、教祖の子供をおいたわり下さる親心に、いまさらのように深く感激したのでした。（教祖伝逸話篇97「煙草畑」）

さて、教祖は、ある時、梶本ひささんに、
　「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と仰せられました。海の外までもこの御教えが広まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられます。（教祖伝逸話篇168「船遊び」）
教祖がもし自由に船遊びをされたなら、そのご様子はどのようなものであったのでしょうか。想像は果てしなく広がります。教祖はお屋敷にいながらにして、広い世界の様子を、いつでも隈なくご覧になっておられたのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>心コロコロ
岡山県在住　　山﨑　石根

一般的に、「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を「寄進」と言いますが、天理教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進として神様がお受け取り下さるとして、それを「ひのきしん」と教えられます。
私たちのように教会で生活する者や、天理教を信仰している家庭では、この「ひのきしん」という言葉は、幼少期から身近にある言葉でした。
３月末に岡山市にある大教会で、子どもたちが100人以上集まる大きな行事がありました。
そこで、天理教の代表者である真柱様から子どもたちへ「告辞」というお言葉を戴いたのですが、その中で「親神様への感謝の気持ちを行動に表すことを『ひのきしん』といいます」と説明をされていました。
また、私も子どもたちに神様のお話をする立場にありましたので、その時に同じように「ひのきしん」の意味について触れ、「親神様への感謝の心があるか、ないかが重要なんですよ」とお伝えしました。
つまり、「どんなにたくさんお手伝いをしたとしても、嫌々したり、文句を言いながらしてしまうと、ひのきしんにはならないし、反対に、たとえ落ち葉一枚だけを拾ったとしても、そこに神様への感謝の心があれば、それは立派なひのきしんになるんですよ」と、「行いよりも心が大切」というお話をしたのです。
おつとめと、このお話などを聞く式典が終わると、いよいよお楽しみ行事です。たくさんの模擬店や楽しいイベントがあり、最後のビンゴ大会では、みんな何かしら景品が当たって大喜びでした。とりわけ、この春中学生になる三男は、なんと1000円分のクオカードをゲットし、「やっぱり僕はひのきしんいっぱいしとるけぇなぁ」と、得意気に報告に来ました。
さて、月が変わり４月１日の夜のことです。妻がその日の午後の神殿掃除を、三男がいつになく真剣に手伝ってくれたと、教えてくれました。
私は感心して本人にお礼を言うと、「いや、有り難いと思ってするって知らんかったから」と言うのです。
「え、どういうこと？」と尋ねると、「この前のととの話で、元気な身体を使わせてもらって有り難うと思ってするって初めて分かったんよ。ひのきしんは心なんじゃろう？ 僕は心入れ替えたんじゃ」と言うではありませんか。
こういうことを恥ずかしげもなく言えるところが、天然キャラである三男の魅力なのですが、何とも話し手冥利に尽きる反応です。
そして、三男は次のように続けたのです。
「そうやって神殿掃除を頑張ったら、そのあと、お姉ちゃんにUNOで二回もボロ勝ちしたんで。やっぱり運が上がってきたわ！」
子どもの素直さに本当に嬉しい思いがしたのと同時に、神様のお話を伝えた大人の私自身も、もっともっと心がけなければならないなぁと襟を正したのでした。
すると、続けて妻がその日のお昼にあった出来事も教えてくれました。
妻の誕生日を三日後に控えていたのですが、三男が早くも誕生日プレゼントをくれたとのこと。しかも、先日のビンゴ大会で当てたクオカード1000円分を全部くれたと言うのです。
「私は『ええよぉ、自分で使いねぇ』と言うたんやけど、『ええから、お母ちゃんの欲しいもんが分からんけぇ、これで欲しいものを買いねぇ』と言うばかりで、挙句の果てには『僕は欲しいものないけぇ』と言うんよ」
と、妻は照れながら、そして嬉しそうに伝えてくれました。
なんとまあ、心を入れ替えた人は素晴らしいなぁと、私は自然と笑みがこぼれました。
嬉しい出来事はまだまだ続きます。
我が家では、小学五年生から毎月500円のお小遣いを与えるようにしています。この春、五年生になる末娘にとっては、ずっとずっと我慢して、待ちに待ったお小遣い。この4月1日に念願の500円をやっとゲットしました。すると、そのお小遣いの中から、さっそく妻が大好きなチョコビスケットを買って、プレゼントしてくれたのです。
さらに中３のお姉ちゃん。中3になっても我が家では同じく500円のお小遣いです。それなのに、妻の好きなルマンドとプリンをプレゼントに買ってくれて、ほぼお小遣いを使い切っている始末でした。
もちろん妻は妻で、「私は嬉しすぎて、三男からもらったクオカードを、あの子にどうやって返そうかと今、思案中…」と言うので、私は自分の妻、そして我が子ながら感心、感激の至りでした。
しかし、はたと気づきました。実は私の誕生日は３月で、つい二週間ほど前だったのです。
「あれあれ？ よう考えたら、ととの誕生日には誰もプレゼントくれんかったで～」と言うと、三男が間髪入れずに答えました。
「それは、まだ心を入れ替える前じゃったんじゃがぁ」
これには一本取られました。
続けて「来年楽しみにしといて」と言ってくれた彼に、「コロコロ変わらず、どうか一年後まで心を入れ替えた状態でありますように…」と、私は祈るように伝えましたが、もちろんこれは冗談です。
そう思ってくれた「心」が嬉しいし、むしろ「心」だけで十分なんです。それが親というものだよなぁと思った時に、人間の親である神様も、きっと「行い」そのものよりも「心」がどうであるかを喜ばれるんだろうなぁと、あらためて感じました。
今日もまた、親神様に感謝の心で「ひのきしん」です。



御退屈でございましょう

教祖は、参拝人のいない時には、お居間にお一人でいるのが常でした。お寂しいのではないだろうか、と考える者は当然いて、そんな信者と教祖にまつわる色々な逸話が残っています。

井筒梅治郎さんは、いつも台の上にジッとお座りになっている教祖のご様子に、御退屈ではあろうまいかと、どこかへ御案内しようと思い、「さぞ御退屈でございましょう」と申し上げると、教祖は、
「ここへ、一寸顔をつけてごらん」
と仰せになり、御自分の片手を差し出されました。梅治郎さんがその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りが見えました。ちょうど牡丹の花の季節のことであり、梅治郎さんは、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と恐れ入ったといいます。（教祖伝逸話篇76「牡丹の花盛り」）

また、ある時、教祖は、村上幸三郎さんに、
「幻を見せてやろう」
と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が見えるようになされました。そこには、煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えました。そこで幸三郎さんがお屋敷から自分の村へ戻り、早速煙草畑へ行ったところ、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていたのです。それを見て幸三郎さんは、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏したのです。
というのも、幸三郎さんはおたすけに専念する余り、田畑の仕事は作男にまかせきりでした。まかされた作男は、精一杯煙草造りに励み、そのよく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたのですが、幸三郎さんはおたすけに精進する余り一度も見に行く暇がなかったのです。
もちろん、おたすけの日々の中でも、いつも心の片隅に煙草畑のことが気にかかっていました。そういう中でおぢばへ帰らせて頂いた時のことで、幸三郎さんは、教祖の子供をおいたわり下さる親心に、いまさらのように深く感激したのでした。（教祖伝逸話篇97「煙草畑」）

さて、教祖は、ある時、梶本ひささんに、
　「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と仰せられました。海の外までもこの御教えが広まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられます。（教祖伝逸話篇168「船遊び」）
教祖がもし自由に船遊びをされたなら、そのご様子はどのようなものであったのでしょうか。想像は果てしなく広がります。教祖はお屋敷にいながらにして、広い世界の様子を、いつでも隈なくご覧になっておられたのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>心コロコロ
岡山県在住　　山﨑　石根

一般的に、「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を「寄進」と言いますが、天理教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進として神様がお受け取り下さるとして、それを「ひのきしん」と教えられます。
私たちのように教会で生活する者や、天理教を信仰している家庭では、この「ひのきしん」という言葉は、幼少期から身近にある言葉でした。
３月末に岡山市にある大教会で、子どもたちが100人以上集まる大きな行事がありました。
そこで、天理教の代表者である真柱様から子どもたちへ「告辞」というお言葉を戴いたのですが、その中で「親神様への感謝の気持ちを行動に表すことを『ひのきしん』といいます」と説明をされていました。
また、私も子どもたちに神様のお話をする立場にありましたので、その時に同じように「ひのきしん」の意味について触れ、「親神様への感謝の心があるか、ないかが重要なんですよ」とお伝えしました。
つまり、「どんなにたくさんお手伝いをしたとしても、嫌々したり、文句を言いながらしてしまうと、ひのきしんにはならないし、反対に、たとえ落ち葉一枚だけを拾ったとしても、そこに神様への感謝の心があれば、それは立派なひのきしんになるんですよ」と、「行いよりも心が大切」というお話をしたのです。
おつとめと、このお話などを聞く式典が終わると、いよいよお楽しみ行事です。たくさんの模擬店や楽しいイベントがあり、最後のビンゴ大会では、みんな何かしら景品が当たって大喜びでした。とりわけ、この春中学生になる三男は、なんと1000円分のクオカードをゲットし、「やっぱり僕はひのきしんいっぱいしとるけぇなぁ」と、得意気に報告に来ました。
さて、月が変わり４月１日の夜のことです。妻がその日の午後の神殿掃除を、三男がいつになく真剣に手伝ってくれたと、教えてくれました。
私は感心して本人にお礼を言うと、「いや、有り難いと思ってするって知らんかったから」と言うのです。
「え、どういうこと？」と尋ねると、「この前のととの話で、元気な身体を使わせてもらって有り難うと思ってするって初めて分かったんよ。ひのきしんは心なんじゃろう？ 僕は心入れ替えたんじゃ」と言うではありませんか。
こういうことを恥ずかしげもなく言えるところが、天然キャラである三男の魅力なのですが、何とも話し手冥利に尽きる反応です。
そして、三男は次のように続けたのです。
「そうやって神殿掃除を頑張ったら、そのあと、お姉ちゃんにUNOで二回もボロ勝ちしたんで。やっぱり運が上がってきたわ！」
子どもの素直さに本当に嬉しい思いがしたのと同時に、神様のお話を伝えた大人の私自身も、もっともっと心がけなければならないなぁと襟を正したのでした。
すると、続けて妻がその日のお昼にあった出来事も教えてくれました。
妻の誕生日を三日後に控えていたのですが、三男が早くも誕生日プレゼントをくれたとのこと。しかも、先日のビンゴ大会で当てたクオカード1000円分を全部くれたと言うのです。
「私は『ええよぉ、自分で使いねぇ』と言うたんやけど、『ええから、お母ちゃんの欲しいもんが分からんけぇ、これで欲しいものを買いねぇ』と言うばかりで、挙句の果てには『僕は欲しいものないけぇ』と言うんよ」
と、妻は照れながら、そして嬉しそうに伝えてくれました。
なんとまあ、心を入れ替えた人は素晴らしいなぁと、私は自然と笑みがこぼれました。
嬉しい出来事はまだまだ続きます。
我が家では、小学五年生から毎月500円のお小遣いを与えるようにしています。この春、五年生になる末娘にとっては、ずっとずっと我慢して、待ちに待ったお小遣い。この4月1日に念願の500円をやっとゲットしました。すると、そのお小遣いの中から、さっそく妻が大好きなチョコビスケットを買って、プレゼントしてくれたのです。
さらに中３のお姉ちゃん。中3になっても我が家では同じく500円のお小遣いです。それなのに、妻の好きなルマンドとプリンをプレゼントに買ってくれて、ほぼお小遣いを使い切っている始末でした。
もちろん妻は妻で、「私は嬉しすぎて、三男からもらったクオカードを、あの子にどうやって返そうかと今、思案中…」と言うので、私は自分の妻、そして我が子ながら感心、感激の至りでした。
しかし、はたと気づきました。実は私の誕生日は３月で、つい二週間ほど前だったのです。
「あれあれ？ よう考えたら、ととの誕生日には誰もプレゼントくれんかったで～」と言うと、三男が間髪入れずに答えました。
「それは、まだ心を入れ替える前じゃったんじゃがぁ」
これには一本取られました。
続けて「来年楽しみにしといて」と言ってくれた彼に、「コロコロ変わらず、どうか一年後まで心を入れ替えた状態でありますように…」と、私は祈るように伝えましたが、もちろんこれは冗談です。
そう思ってくれた「心」が嬉しいし、むしろ「心」だけで十分なんです。それが親というものだよなぁと思った時に、人間の親である神様も、きっと「行い」そのものよりも「心」がどうであるかを喜ばれるんだろうなぁと、あらためて感じました。
今日もまた、親神様に感謝の心で「ひのきしん」です。



御退屈でございましょう

教祖は、参拝人のいない時には、お居間にお一人でいるのが常でした。お寂しいのではないだろうか、と考える者は当然いて、そんな信者と教祖にまつわる色々な逸話が残っています。

井筒梅治郎さんは、いつも台の上にジッとお座りになっている教祖のご様子に、御退屈ではあろうまいかと、どこかへ御案内しようと思い、「さぞ御退屈でございましょう」と申し上げると、教祖は、
「ここへ、一寸顔をつけてごらん」
と仰せになり、御自分の片手を差し出されました。梅治郎さんがその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りが見えました。ちょうど牡丹の花の季節のことであり、梅治郎さんは、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と恐れ入ったといいます。（教祖伝逸話篇76「牡丹の花盛り」）

また、ある時、教祖は、村上幸三郎さんに、
「幻を見せてやろう」
と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が見えるようになされました。そこには、煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えました。そこで幸三郎さんがお屋敷から自分の村へ戻り、早速煙草畑へ行ったところ、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていたのです。それを見て幸三郎さんは、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏したのです。
というのも、幸三郎さんはおたすけに専念する余り、田畑の仕事は作男にまかせきりでした。まかされた作男は、精一杯煙草造りに励み、そのよく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたのですが、幸三郎さんはおたすけに精進する余り一度も見に行く暇がなかったのです。
もちろん、おたすけの日々の中でも、いつも心の片隅に煙草畑のことが気にかかっていました。そういう中でおぢばへ帰らせて頂いた時のことで、幸三郎さんは、教祖の子供をおいたわり下さる親心に、いまさらのように深く感激したのでした。（教祖伝逸話篇97「煙草畑」）

さて、教祖は、ある時、梶本ひささんに、
　「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と仰せられました。海の外までもこの御教えが広まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられます。（教祖伝逸話篇168「船遊び」）
教祖がもし自由に船遊びをされたなら、そのご様子はどのようなものであったのでしょうか。想像は果てしなく広がります。教祖はお屋敷にいながらにして、広い世界の様子を、いつでも隈なくご覧になっておられたのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 15 Aug 2025 09:28:42 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>待ちに待ったカラオケ</title>
        <description><![CDATA[待ちに待ったカラオケ
　　　　　　　　　　　　　　 埼玉県在住　　関根　健一

小学生のあこがれの職業に「YouTuber」がランクインした時、ニュースがこぞって取り上げて話題になったことは記憶に新しいですが、今ではランキングに並んでいても、特に話題にならなくなってきました。さらに時代は先に進んで、動画配信サービスやAIなどが日常にあふれて、人々の娯楽というものは多岐にわたっています。
私が小学生の頃はというと、専らテレビが娯楽の中心でした。その頃、同級生の間では戦隊ヒーローやアニメが流行っていましたが、印象的な子供向けのドラマもたくさんあったと記憶しています。
中でも「あばれはっちゃく」というドラマが、私にとっては毎週の楽しみの一つでした。やんちゃで情にもろい昔ながらのガキ大将の主人公を同世代の男の子が演じ、５代目まで続いた人気シリーズで、児童向け小説が原作でした。
各回の細かい内容は覚えていませんが、学校から自宅へ帰った主人公がランドセルを放り投げて一目散に遊びに出かけていくシーンや、主人公の破天荒ぶりに「父ちゃん、情けなくて涙が出てくらあ！」と父親が叱りつけるシーンなどが大好きで、放送された次の日に学校で友達とモノマネをしたことを今でもしっかり覚えています。
その頃の私は、あばれはっちゃくの主人公の性格とは真逆で、外で活発に遊ぶよりも家の中で遊ぶのが好きで、木登りや虫取りなど、当時の男の子達が夢中になっていた遊びがどちらかというと苦手でした。
自分が出来ないからこそドラマの主人公に憧れを抱き、毎週楽しみにしていたのかもしれません。そんな子供の頃の思い出もあってか、「元気に遊ぶ子供」のイメージは、いつもランドセルを放り投げて遊びに行くあばれはっちゃくの主人公の姿です。
やがて生まれてきた我が家の子供たちは、二人とも女の子だったので、あばれはっちゃくとはちょっと違いましたが、長女が特別支援学校に通うことになり、障害のある子供たちの「遊び」の環境には別の問題も多いことを教えてもらいました。
遊びは、子供たちに多くの学びを与えてくれます。小学生になると、ほとんどの子が、親がいなくても子供同士で約束して公園で待ち合わせをしたり、お互いの家を行き来したりするようになりますが、障害のある子供たちはそのようなことが出来ません。
そんな自分たちで遊ぶことが難しい子供たちのために、平成24年度から「放課後等デイサービス」という制度ができました。
一般の学童保育は保護者が働いていて不在の時間、子供を預かることが目的ですが、放課後等デイサービスは、障害があって支援が必要な子供に対して、様々な体験を提供し、健全な育成を保障していくことが目的です。
我が家の長女も、制度が始まった当初からこのサービスを利用してきました。放課後の時間、必要な支援を受けながら、本を読んだりゲームをしたり、同級生だけでなく、小学生から高校生までの幅広い年代の子供たちとの交流を通じて、色々な体験をさせてもらいました。この場で培われた感受性は、彼女の現在にまでとても大きな影響を与えています。
高校を卒業すると放課後等デイサービスの制度は使えなくなり、今度は成人向けの福祉サービスの中で暮らすことになります。長女は現在、生活介護サービスという制度を利用して、日中を事業所で過ごしています。
働くというよりも、日中を穏やかに過ごすことが目的ですが、ここでは最高65歳までの方がサービスの対象となるため、放課後等デイサービスの頃よりも、さらに幅広い年代の利用者さんと関わることになります。
人と関わることが好きな長女は、行き始めてすぐに施設の雰囲気に馴染みました。それと同時に、先輩たちが長年の経験から様々なサービスを使って充実した生活を送っていることを見聞きして、大いに刺激を受けました。
そのうち、自分から「お出かけに行きたい」などと言い出しました。施設の職員さんに聞いてみると、「この前、〇〇さんがお出かけした話を聞いたから、自分も行きたいと思ったのかもしれません」と教えてくれました。
そこで、長女にどこに行きたいのか聞いてみると、「Kさんとカラオケに行きたい」と言うのです。Kさんとは、おしゃれな服を着て、ピンクの可愛い車に乗って週に何度か送迎の介助に来ている女性のヘルパーさんのことで、いつも長女の話し相手になってくれるので、一緒に行きたいと思ったようです。
長女の希望を叶えるべく、Kさんの所属している事業所とも相談して、二か月後に移動支援サービスを使って、Kさんご指名でカラオケに行くことが決まりました。
長女にそのことを伝えると、翌朝、起きて着替える時から「Kさんとカラオケに行くんだ～」「嵐の歌を一緒に歌うんだ～」と、家を出るまでずっとその話をしています。帰宅しても、寝るまでの時間、思い出すと「Kさんとカラオケに行くんだ～」と二か月の間、ほぼ毎日繰り返し言っていました。
普段送迎に来てくれるKさんも、「当日は車で３時に迎えに行くね」とか、「カラオケは車椅子が入れるお店を予約したよ」と声を掛けてくれて、益々楽しみになっていったようです。
やがて当日を迎え、移動も含めて3時間を過ごして帰宅しました。大好きなＫさんと大好きなカラオケに行って、本人はご満悦の様子で、目をキラキラさせながら「楽しかった～！」「また行くんだ～！」と話してくれました。
そんな長女の姿を見て、次女がボソッと「教祖がおっしゃる『たんのう』の意味が少し分かった気がする」と言いました。それを聞いた私は「なるほど！」と膝を打つ思いでした。
自分で考えて自由に行動できる身で考えると、たった３時間、移動してカラオケに行くだけなら、今すぐにでも出来ます。しかし、障害のある長女は、海外旅行にでも行くかのように、数か月前から待ちわび、準備をして、当日、その時間を精一杯楽しんできました。
「たんのうは前生いんねんのさんげ」とも聞かせて頂きます。たんのうすることはなかなか難しいことだと常々思っていましたが、出来ないことに目を向けるのではなく、出来る中で精一杯楽しむ長女の姿に、たんのうすることのヒントをもらえた気がします。そして、そこに気づいた次女の素直さにも頭が下がります。
私たちの幸せは、どこかから持ってこなければ存在しないものではなく、今の自分の中に十分にあるのだと思います。心の中にある幸せをたくさん見つけられるように、長女の姿と次女の素直さをお手本にしていきたいと思います。



真実の願いは埋もれない

人間には誰しも欲があります。「よくのないものなけれども」と、みかぐらうたにあるように、欲のない人間はいないと親神様は仰っています。生きるうえで必要な欲もありますから、ある程度は許されていると考えても良さそうです。
ところが、人間というものはいかにも欲深くて厚かましい。おつとめで親神様に拝礼をしている時、どんなことを願っているでしょうか。自分の健康な身体にお礼を申し上げる、今日も結構な目覚めを頂けた、あるいは身近な家族か親戚が病気で臥せっているのでたすけて欲しい、上司との関係で悩んでいる友人の気分が少しでも晴れますように…。このような謙虚なお願いなら親神様はお受け取り下さるでしょう。
ところが、なかには「もっとお金が儲かりますように」だとか、努力もせずに「テストの点数が上がりますように」なんていうお願いをする人もいるでしょう。親神様も、時に何千、何万ものお願いを一度に聞かれるわけですから、そんな自分勝手なお願いまでは手が回らないかも知れません。
親神様は、そんなたくさんのお願いの中でも、「私のことはどうでもいいのです。困っているあの人のことを、どうかたすけてください」という声を、スーッと聞き入れて下さるのではないでしょうか。
「ほしい、ほしい」と求めてばかりいる人と、「あの人をたすけてください」と真剣に祈りを捧げている人とでは、神殿で額づく際にも、おのずと醸し出す雰囲気が違ってきます。ですから、後者のような真実の願いは、どんなに大勢の人の中でも埋もれず、確実に親神様の元に届くのです。
「おふでさき」に、

　　をやのめにかのふたものハにち／＼に　　だん／＼心いさむばかりや　（十五 66）

とあります。
人様のことを考え、そのたすかりを祈る時間が長いほど、心はますます勇んできます。そうして自らの欲の心は自然に取り払われ、親の思いに近づいていくことが出来るのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>待ちに待ったカラオケ
　　　　　　　　　　　　　　 埼玉県在住　　関根　健一

小学生のあこがれの職業に「YouTuber」がランクインした時、ニュースがこぞって取り上げて話題になったことは記憶に新しいですが、今ではランキングに並んでいても、特に話題にならなくなってきました。さらに時代は先に進んで、動画配信サービスやAIなどが日常にあふれて、人々の娯楽というものは多岐にわたっています。
私が小学生の頃はというと、専らテレビが娯楽の中心でした。その頃、同級生の間では戦隊ヒーローやアニメが流行っていましたが、印象的な子供向けのドラマもたくさんあったと記憶しています。
中でも「あばれはっちゃく」というドラマが、私にとっては毎週の楽しみの一つでした。やんちゃで情にもろい昔ながらのガキ大将の主人公を同世代の男の子が演じ、５代目まで続いた人気シリーズで、児童向け小説が原作でした。
各回の細かい内容は覚えていませんが、学校から自宅へ帰った主人公がランドセルを放り投げて一目散に遊びに出かけていくシーンや、主人公の破天荒ぶりに「父ちゃん、情けなくて涙が出てくらあ！」と父親が叱りつけるシーンなどが大好きで、放送された次の日に学校で友達とモノマネをしたことを今でもしっかり覚えています。
その頃の私は、あばれはっちゃくの主人公の性格とは真逆で、外で活発に遊ぶよりも家の中で遊ぶのが好きで、木登りや虫取りなど、当時の男の子達が夢中になっていた遊びがどちらかというと苦手でした。
自分が出来ないからこそドラマの主人公に憧れを抱き、毎週楽しみにしていたのかもしれません。そんな子供の頃の思い出もあってか、「元気に遊ぶ子供」のイメージは、いつもランドセルを放り投げて遊びに行くあばれはっちゃくの主人公の姿です。
やがて生まれてきた我が家の子供たちは、二人とも女の子だったので、あばれはっちゃくとはちょっと違いましたが、長女が特別支援学校に通うことになり、障害のある子供たちの「遊び」の環境には別の問題も多いことを教えてもらいました。
遊びは、子供たちに多くの学びを与えてくれます。小学生になると、ほとんどの子が、親がいなくても子供同士で約束して公園で待ち合わせをしたり、お互いの家を行き来したりするようになりますが、障害のある子供たちはそのようなことが出来ません。
そんな自分たちで遊ぶことが難しい子供たちのために、平成24年度から「放課後等デイサービス」という制度ができました。
一般の学童保育は保護者が働いていて不在の時間、子供を預かることが目的ですが、放課後等デイサービスは、障害があって支援が必要な子供に対して、様々な体験を提供し、健全な育成を保障していくことが目的です。
我が家の長女も、制度が始まった当初からこのサービスを利用してきました。放課後の時間、必要な支援を受けながら、本を読んだりゲームをしたり、同級生だけでなく、小学生から高校生までの幅広い年代の子供たちとの交流を通じて、色々な体験をさせてもらいました。この場で培われた感受性は、彼女の現在にまでとても大きな影響を与えています。
高校を卒業すると放課後等デイサービスの制度は使えなくなり、今度は成人向けの福祉サービスの中で暮らすことになります。長女は現在、生活介護サービスという制度を利用して、日中を事業所で過ごしています。
働くというよりも、日中を穏やかに過ごすことが目的ですが、ここでは最高65歳までの方がサービスの対象となるため、放課後等デイサービスの頃よりも、さらに幅広い年代の利用者さんと関わることになります。
人と関わることが好きな長女は、行き始めてすぐに施設の雰囲気に馴染みました。それと同時に、先輩たちが長年の経験から様々なサービスを使って充実した生活を送っていることを見聞きして、大いに刺激を受けました。
そのうち、自分から「お出かけに行きたい」などと言い出しました。施設の職員さんに聞いてみると、「この前、〇〇さんがお出かけした話を聞いたから、自分も行きたいと思ったのかもしれません」と教えてくれました。
そこで、長女にどこに行きたいのか聞いてみると、「Kさんとカラオケに行きたい」と言うのです。Kさんとは、おしゃれな服を着て、ピンクの可愛い車に乗って週に何度か送迎の介助に来ている女性のヘルパーさんのことで、いつも長女の話し相手になってくれるので、一緒に行きたいと思ったようです。
長女の希望を叶えるべく、Kさんの所属している事業所とも相談して、二か月後に移動支援サービスを使って、Kさんご指名でカラオケに行くことが決まりました。
長女にそのことを伝えると、翌朝、起きて着替える時から「Kさんとカラオケに行くんだ～」「嵐の歌を一緒に歌うんだ～」と、家を出るまでずっとその話をしています。帰宅しても、寝るまでの時間、思い出すと「Kさんとカラオケに行くんだ～」と二か月の間、ほぼ毎日繰り返し言っていました。
普段送迎に来てくれるKさんも、「当日は車で３時に迎えに行くね」とか、「カラオケは車椅子が入れるお店を予約したよ」と声を掛けてくれて、益々楽しみになっていったようです。
やがて当日を迎え、移動も含めて3時間を過ごして帰宅しました。大好きなＫさんと大好きなカラオケに行って、本人はご満悦の様子で、目をキラキラさせながら「楽しかった～！」「また行くんだ～！」と話してくれました。
そんな長女の姿を見て、次女がボソッと「教祖がおっしゃる『たんのう』の意味が少し分かった気がする」と言いました。それを聞いた私は「なるほど！」と膝を打つ思いでした。
自分で考えて自由に行動できる身で考えると、たった３時間、移動してカラオケに行くだけなら、今すぐにでも出来ます。しかし、障害のある長女は、海外旅行にでも行くかのように、数か月前から待ちわび、準備をして、当日、その時間を精一杯楽しんできました。
「たんのうは前生いんねんのさんげ」とも聞かせて頂きます。たんのうすることはなかなか難しいことだと常々思っていましたが、出来ないことに目を向けるのではなく、出来る中で精一杯楽しむ長女の姿に、たんのうすることのヒントをもらえた気がします。そして、そこに気づいた次女の素直さにも頭が下がります。
私たちの幸せは、どこかから持ってこなければ存在しないものではなく、今の自分の中に十分にあるのだと思います。心の中にある幸せをたくさん見つけられるように、長女の姿と次女の素直さをお手本にしていきたいと思います。



真実の願いは埋もれない

人間には誰しも欲があります。「よくのないものなけれども」と、みかぐらうたにあるように、欲のない人間はいないと親神様は仰っています。生きるうえで必要な欲もありますから、ある程度は許されていると考えても良さそうです。
ところが、人間というものはいかにも欲深くて厚かましい。おつとめで親神様に拝礼をしている時、どんなことを願っているでしょうか。自分の健康な身体にお礼を申し上げる、今日も結構な目覚めを頂けた、あるいは身近な家族か親戚が病気で臥せっているのでたすけて欲しい、上司との関係で悩んでいる友人の気分が少しでも晴れますように…。このような謙虚なお願いなら親神様はお受け取り下さるでしょう。
ところが、なかには「もっとお金が儲かりますように」だとか、努力もせずに「テストの点数が上がりますように」なんていうお願いをする人もいるでしょう。親神様も、時に何千、何万ものお願いを一度に聞かれるわけですから、そんな自分勝手なお願いまでは手が回らないかも知れません。
親神様は、そんなたくさんのお願いの中でも、「私のことはどうでもいいのです。困っているあの人のことを、どうかたすけてください」という声を、スーッと聞き入れて下さるのではないでしょうか。
「ほしい、ほしい」と求めてばかりいる人と、「あの人をたすけてください」と真剣に祈りを捧げている人とでは、神殿で額づく際にも、おのずと醸し出す雰囲気が違ってきます。ですから、後者のような真実の願いは、どんなに大勢の人の中でも埋もれず、確実に親神様の元に届くのです。
「おふでさき」に、

　　をやのめにかのふたものハにち／＼に　　だん／＼心いさむばかりや　（十五 66）

とあります。
人様のことを考え、そのたすかりを祈る時間が長いほど、心はますます勇んできます。そうして自らの欲の心は自然に取り払われ、親の思いに近づいていくことが出来るのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>待ちに待ったカラオケ
　　　　　　　　　　　　　　 埼玉県在住　　関根　健一

小学生のあこがれの職業に「YouTuber」がランクインした時、ニュースがこぞって取り上げて話題になったことは記憶に新しいですが、今ではランキングに並んでいても、特に話題にならなくなってきました。さらに時代は先に進んで、動画配信サービスやAIなどが日常にあふれて、人々の娯楽というものは多岐にわたっています。
私が小学生の頃はというと、専らテレビが娯楽の中心でした。その頃、同級生の間では戦隊ヒーローやアニメが流行っていましたが、印象的な子供向けのドラマもたくさんあったと記憶しています。
中でも「あばれはっちゃく」というドラマが、私にとっては毎週の楽しみの一つでした。やんちゃで情にもろい昔ながらのガキ大将の主人公を同世代の男の子が演じ、５代目まで続いた人気シリーズで、児童向け小説が原作でした。
各回の細かい内容は覚えていませんが、学校から自宅へ帰った主人公がランドセルを放り投げて一目散に遊びに出かけていくシーンや、主人公の破天荒ぶりに「父ちゃん、情けなくて涙が出てくらあ！」と父親が叱りつけるシーンなどが大好きで、放送された次の日に学校で友達とモノマネをしたことを今でもしっかり覚えています。
その頃の私は、あばれはっちゃくの主人公の性格とは真逆で、外で活発に遊ぶよりも家の中で遊ぶのが好きで、木登りや虫取りなど、当時の男の子達が夢中になっていた遊びがどちらかというと苦手でした。
自分が出来ないからこそドラマの主人公に憧れを抱き、毎週楽しみにしていたのかもしれません。そんな子供の頃の思い出もあってか、「元気に遊ぶ子供」のイメージは、いつもランドセルを放り投げて遊びに行くあばれはっちゃくの主人公の姿です。
やがて生まれてきた我が家の子供たちは、二人とも女の子だったので、あばれはっちゃくとはちょっと違いましたが、長女が特別支援学校に通うことになり、障害のある子供たちの「遊び」の環境には別の問題も多いことを教えてもらいました。
遊びは、子供たちに多くの学びを与えてくれます。小学生になると、ほとんどの子が、親がいなくても子供同士で約束して公園で待ち合わせをしたり、お互いの家を行き来したりするようになりますが、障害のある子供たちはそのようなことが出来ません。
そんな自分たちで遊ぶことが難しい子供たちのために、平成24年度から「放課後等デイサービス」という制度ができました。
一般の学童保育は保護者が働いていて不在の時間、子供を預かることが目的ですが、放課後等デイサービスは、障害があって支援が必要な子供に対して、様々な体験を提供し、健全な育成を保障していくことが目的です。
我が家の長女も、制度が始まった当初からこのサービスを利用してきました。放課後の時間、必要な支援を受けながら、本を読んだりゲームをしたり、同級生だけでなく、小学生から高校生までの幅広い年代の子供たちとの交流を通じて、色々な体験をさせてもらいました。この場で培われた感受性は、彼女の現在にまでとても大きな影響を与えています。
高校を卒業すると放課後等デイサービスの制度は使えなくなり、今度は成人向けの福祉サービスの中で暮らすことになります。長女は現在、生活介護サービスという制度を利用して、日中を事業所で過ごしています。
働くというよりも、日中を穏やかに過ごすことが目的ですが、ここでは最高65歳までの方がサービスの対象となるため、放課後等デイサービスの頃よりも、さらに幅広い年代の利用者さんと関わることになります。
人と関わることが好きな長女は、行き始めてすぐに施設の雰囲気に馴染みました。それと同時に、先輩たちが長年の経験から様々なサービスを使って充実した生活を送っていることを見聞きして、大いに刺激を受けました。
そのうち、自分から「お出かけに行きたい」などと言い出しました。施設の職員さんに聞いてみると、「この前、〇〇さんがお出かけした話を聞いたから、自分も行きたいと思ったのかもしれません」と教えてくれました。
そこで、長女にどこに行きたいのか聞いてみると、「Kさんとカラオケに行きたい」と言うのです。Kさんとは、おしゃれな服を着て、ピンクの可愛い車に乗って週に何度か送迎の介助に来ている女性のヘルパーさんのことで、いつも長女の話し相手になってくれるので、一緒に行きたいと思ったようです。
長女の希望を叶えるべく、Kさんの所属している事業所とも相談して、二か月後に移動支援サービスを使って、Kさんご指名でカラオケに行くことが決まりました。
長女にそのことを伝えると、翌朝、起きて着替える時から「Kさんとカラオケに行くんだ～」「嵐の歌を一緒に歌うんだ～」と、家を出るまでずっとその話をしています。帰宅しても、寝るまでの時間、思い出すと「Kさんとカラオケに行くんだ～」と二か月の間、ほぼ毎日繰り返し言っていました。
普段送迎に来てくれるKさんも、「当日は車で３時に迎えに行くね」とか、「カラオケは車椅子が入れるお店を予約したよ」と声を掛けてくれて、益々楽しみになっていったようです。
やがて当日を迎え、移動も含めて3時間を過ごして帰宅しました。大好きなＫさんと大好きなカラオケに行って、本人はご満悦の様子で、目をキラキラさせながら「楽しかった～！」「また行くんだ～！」と話してくれました。
そんな長女の姿を見て、次女がボソッと「教祖がおっしゃる『たんのう』の意味が少し分かった気がする」と言いました。それを聞いた私は「なるほど！」と膝を打つ思いでした。
自分で考えて自由に行動できる身で考えると、たった３時間、移動してカラオケに行くだけなら、今すぐにでも出来ます。しかし、障害のある長女は、海外旅行にでも行くかのように、数か月前から待ちわび、準備をして、当日、その時間を精一杯楽しんできました。
「たんのうは前生いんねんのさんげ」とも聞かせて頂きます。たんのうすることはなかなか難しいことだと常々思っていましたが、出来ないことに目を向けるのではなく、出来る中で精一杯楽しむ長女の姿に、たんのうすることのヒントをもらえた気がします。そして、そこに気づいた次女の素直さにも頭が下がります。
私たちの幸せは、どこかから持ってこなければ存在しないものではなく、今の自分の中に十分にあるのだと思います。心の中にある幸せをたくさん見つけられるように、長女の姿と次女の素直さをお手本にしていきたいと思います。



真実の願いは埋もれない

人間には誰しも欲があります。「よくのないものなけれども」と、みかぐらうたにあるように、欲のない人間はいないと親神様は仰っています。生きるうえで必要な欲もありますから、ある程度は許されていると考えても良さそうです。
ところが、人間というものはいかにも欲深くて厚かましい。おつとめで親神様に拝礼をしている時、どんなことを願っているでしょうか。自分の健康な身体にお礼を申し上げる、今日も結構な目覚めを頂けた、あるいは身近な家族か親戚が病気で臥せっているのでたすけて欲しい、上司との関係で悩んでいる友人の気分が少しでも晴れますように…。このような謙虚なお願いなら親神様はお受け取り下さるでしょう。
ところが、なかには「もっとお金が儲かりますように」だとか、努力もせずに「テストの点数が上がりますように」なんていうお願いをする人もいるでしょう。親神様も、時に何千、何万ものお願いを一度に聞かれるわけですから、そんな自分勝手なお願いまでは手が回らないかも知れません。
親神様は、そんなたくさんのお願いの中でも、「私のことはどうでもいいのです。困っているあの人のことを、どうかたすけてください」という声を、スーッと聞き入れて下さるのではないでしょうか。
「ほしい、ほしい」と求めてばかりいる人と、「あの人をたすけてください」と真剣に祈りを捧げている人とでは、神殿で額づく際にも、おのずと醸し出す雰囲気が違ってきます。ですから、後者のような真実の願いは、どんなに大勢の人の中でも埋もれず、確実に親神様の元に届くのです。
「おふでさき」に、

　　をやのめにかのふたものハにち／＼に　　だん／＼心いさむばかりや　（十五 66）

とあります。
人様のことを考え、そのたすかりを祈る時間が長いほど、心はますます勇んできます。そうして自らの欲の心は自然に取り払われ、親の思いに近づいていくことが出来るのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 08 Aug 2025 09:23:29 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>まいたる種は…</title>
        <description><![CDATA[まいたる種は…
福岡県在住　　内山　真太朗

　　にち／＼に心つくしたものだねを　　神がたしかにうけとりている

　　しんぢつに神のうけとるものだねわ　　いつになりてもくさるめわなし

　　たん／＼とこのものだねがはへたなら　　これまつだいのこふきなるそや

今日は、この三首のお歌に込められた神様の親心を悟った話。結婚14年目に突入し、現在教会長をつとめている私と妻との、ちょっと甘酸っぱい話をお聞き頂きたいと思います。
私と妻との出会いは今から20年前、お互いハタチの時です。私は天理大学の学生、妻は静岡県在住のOLで、当時はまだSNSもなかった時代、インターネット上の音楽系サイトで知り合い、未信仰だった彼女を初めておぢばに案内したことをきっかけに、交際が始まりました。
６年間にも及んだ遠距離恋愛の中で、何度もおぢばを案内し、お道の話をする機会も増え、別席も運んでくれました。私にとっては初めてお連れする別席者で、交際相手とあって丹精に熱が入っていました。
交際して６年の月日が流れ、「この人となら」と思い、お互い結婚を決意しました。しかし、私は福岡県の天理教の教会長後継者、妻は静岡県でお茶工場を営む社長の一人娘。あまりにも境遇がかけ離れていて、反対されるのを覚悟で妻のご両親へ挨拶に伺いました。
新調したスーツを着て、ご両親を前に、緊張しながら「どうか、娘さんと結婚させてください…」しばらく沈黙がありましたが、「二人で決めたことなら」と、ご両親とも快く結婚を承諾して下さいました。
すると妻のお母様から、「結婚の前に天理教の勉強をさせたい」との思いがけない申し出があり、妻は教えを学ぶため、結婚前に修養科を志願してくれました。さらに三か月間の修養科修了後には、教会生活を学ぶため、半年間大教会の住み込み女子青年としてつとめてくれました。
天理教のことを全く知らなかった妻は、結婚前に多くの教友と出会い、導いて頂き、お互い26歳の秋、大勢の方々に祝福されながら、大教会で結婚式と披露宴を挙げさせて頂きました。
世界中の人とつながれるインターネット上で、偶然出会った素敵な女性との結婚。私にとってこんなにありがたい事はありませんでした。
さて、話は結婚式の数日前に遡ります。教会の前会長夫婦である祖父母から「話がある」と、妻と二人で呼び出されました。80歳を超えて尚、誰よりも信仰に厳しい祖父母。よもや結婚を反対されるのでは？ そんな不安をもって祖父母のもとへ行くと、祖父がこのような話を聞かせてくれました。
「今回の結婚、本当に嬉しく思う。実は、おじいちゃんは今から60年前、戦争が終わってハタチの時、確かな信仰をつかむために、当時出来たばかりの天理教校専修科に入学したんだ。二年間色んなことを経験して学んだが、この信仰を信じ切ることが出来ず、神様をつかみ切ることが出来なかった。これではいけない、どうしても神様をつかみたいと思って、専修科を卒業してすぐに福岡から横浜へ単独布教に出ようと決意したんだ。でも当時お金がなくて、片道切符で横浜まで行こうとしたけれど、お金が足りずに静岡駅で下車して、その周辺を布教に歩いていたんだよ」
妻の実家であるお茶工場は静岡駅から徒歩10分ほど。何と、60年前に祖父が布教に歩いた地域とは、妻の実家がある場所そのものだったのです。
祖父は続けて、「60年前に布教した時は大した成果は見せて頂けず、あの時の布教は無駄だったと思ったし、今までずっとそう思っていた。でも、静岡の地で伏せこんだ種を神様はちゃんとお受け取り下さって、60年後に今こうして、お前のお嫁さんという形で芽を吹いて帰ってきた。私たちにとって、これほどありがたく、嬉しいことはない。本当にありがとう」と涙ながらに話してくれました。
話を聞いて鳥肌が立ちました。妻はインターネットでたまたま私と出会い、お道を知り、修養科を修了し教会の住み込みをつとめ、結婚して教会へ来ることになった。それはすべて自分の成したことだと思っていました。しかしそれは大きな間違いで、その背景には60年前の祖父の真実の伏せこみがあり、今にして思えば、妻との出会いは偶然ではなく、すべては親神様が出会わせて下さった必然だったのです。
天理教では「まいたる種はみな生える」と教えて頂きます。日々にまいた種、つまり自分の日々の行いは、やがては自分や子孫に返ってくるのです。
まいた種によっては一日で生えてくる種もあれば、一か月で生えてくる種もある。一年、二年で生えてくる種もあれば、このように60年経ってようやく生えてくる種もある。いずれにしても、真実の種をまけば親神様はお喜び下さり、いつか必ず素晴らしい形で芽吹かせて下さる。そのことを身をもって実感した妻との結婚でした。
私たち夫婦は4人の子供たちを授かっています。祖父をはじめ親々の伏せこみのおかげで今の自分達があるということを肝に銘じ、今度は私たちが子供達のため、そしてまだ見ぬ孫達のために、親神様、教祖にお喜び頂ける種をまくことを目標に通っていきたいと思います。



だけど有難い「『感謝』から『報恩』へ」

最近、親による子供の虐待や育児放棄が社会問題になっています。それに伴い、「親は子供を育てる責任と義務がある」とか、「子供には育てられる権利がある」というようなことが言われます。私は、この「責任」や「義務」「権利」というようなものからは、「感謝」の心は生まれないと思うのです。「責任があるから」「権利があるから」といった感覚では、子供は親に「育ててもらって当たり前」であって、そこに感謝の心の生まれる余地はありません。
お道では、そうしたことに気づいていただきたいとの思いから、「感謝　慎み　たすけあい」という標語を作って、教会の前などに横断幕を掲げてきました。
「感謝」という言葉は、一般社会でもよく使われます。「親に感謝しています」「お世話になって大変感謝しています」などと言いますね。しかし本当に大事なのは、その先だと思うのです。それは「報恩＝恩を報じる」ということです。「感謝」は、いわば「報恩」への入り口なのです。
三代真柱・中山善衛様は、教会巡教などの際に、よく「報恩感謝」とご揮毫くださいました。三代真柱様が真柱をお務めの時代は、真柱様が「報恩」とお書きになって、継承者であられた善司様が「感謝」と続けられました。善司様が跡をお継ぎになってからは、真柱様が「報恩」とお書きになって、三代真柱様が「感謝」とお書きになりました。
私は「感謝」という言葉は、「報恩」という言葉と結びつかないことには、あまり意味がないと思うのです。たとえば「親に感謝します」と口にするだけでなく、親に育ててもらった「恩」、産んでもらった「恩」を感じることが大切だということです。
「恩」には「返す」という行為が伴います。そう言うと、嫌々させられると感じる人もいるかもしれません。しかし実際には、恩を感じたら返したくなるものではないでしょうか。たとえば恩師に贈り物をするときに、嫌々する人はないでしょう。何を贈ったら喜んでくれるだろうかと、品物を選んでいるときからうれしいものです。恩返しというのは、そういうものだと思います。
親に恩を感じると、それを返したくなる。これは親孝行です。親孝行というのは、しなければならないからするのではなく、せずにおれないからするのです。
親神様のご恩も同じだと思います。この道は「ご恩報じの道」ともいいますが、ご恩を感じなければ通れないのです。親神様のご守護を有難いと思う心があればこそ、「させてもらいたい」「やらずにおれない」という気持ちになるのです。
私たちが毎日こうして元気でいられるのは、第一に親神様のご守護のおかげです。そして、産み育ててくれた親のおかげ、周囲の人たちのおかげ、学校の先生のおかげもあれば、仲間のおかげもあるでしょう。実は、人間はこうした「おかげ」を感じ、「恩」を感じて、それに応えようとするなかに、「生き甲斐」や「喜び」を見いだし、「幸せ」を味わうことができるのです。
私たちは、一人でも多くの人をおぢばへ連れ帰らせていただき、別席を運んでもらおうと努めさせていただいています。それは、私たちの親である教祖に、お喜びいただきたいからです。さらに一層、声掛けに努めて、教祖のご恩に、親神様から頂戴している限りないご恩に応えさせていただきましょう。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>まいたる種は…
福岡県在住　　内山　真太朗

　　にち／＼に心つくしたものだねを　　神がたしかにうけとりている

　　しんぢつに神のうけとるものだねわ　　いつになりてもくさるめわなし

　　たん／＼とこのものだねがはへたなら　　これまつだいのこふきなるそや

今日は、この三首のお歌に込められた神様の親心を悟った話。結婚14年目に突入し、現在教会長をつとめている私と妻との、ちょっと甘酸っぱい話をお聞き頂きたいと思います。
私と妻との出会いは今から20年前、お互いハタチの時です。私は天理大学の学生、妻は静岡県在住のOLで、当時はまだSNSもなかった時代、インターネット上の音楽系サイトで知り合い、未信仰だった彼女を初めておぢばに案内したことをきっかけに、交際が始まりました。
６年間にも及んだ遠距離恋愛の中で、何度もおぢばを案内し、お道の話をする機会も増え、別席も運んでくれました。私にとっては初めてお連れする別席者で、交際相手とあって丹精に熱が入っていました。
交際して６年の月日が流れ、「この人となら」と思い、お互い結婚を決意しました。しかし、私は福岡県の天理教の教会長後継者、妻は静岡県でお茶工場を営む社長の一人娘。あまりにも境遇がかけ離れていて、反対されるのを覚悟で妻のご両親へ挨拶に伺いました。
新調したスーツを着て、ご両親を前に、緊張しながら「どうか、娘さんと結婚させてください…」しばらく沈黙がありましたが、「二人で決めたことなら」と、ご両親とも快く結婚を承諾して下さいました。
すると妻のお母様から、「結婚の前に天理教の勉強をさせたい」との思いがけない申し出があり、妻は教えを学ぶため、結婚前に修養科を志願してくれました。さらに三か月間の修養科修了後には、教会生活を学ぶため、半年間大教会の住み込み女子青年としてつとめてくれました。
天理教のことを全く知らなかった妻は、結婚前に多くの教友と出会い、導いて頂き、お互い26歳の秋、大勢の方々に祝福されながら、大教会で結婚式と披露宴を挙げさせて頂きました。
世界中の人とつながれるインターネット上で、偶然出会った素敵な女性との結婚。私にとってこんなにありがたい事はありませんでした。
さて、話は結婚式の数日前に遡ります。教会の前会長夫婦である祖父母から「話がある」と、妻と二人で呼び出されました。80歳を超えて尚、誰よりも信仰に厳しい祖父母。よもや結婚を反対されるのでは？ そんな不安をもって祖父母のもとへ行くと、祖父がこのような話を聞かせてくれました。
「今回の結婚、本当に嬉しく思う。実は、おじいちゃんは今から60年前、戦争が終わってハタチの時、確かな信仰をつかむために、当時出来たばかりの天理教校専修科に入学したんだ。二年間色んなことを経験して学んだが、この信仰を信じ切ることが出来ず、神様をつかみ切ることが出来なかった。これではいけない、どうしても神様をつかみたいと思って、専修科を卒業してすぐに福岡から横浜へ単独布教に出ようと決意したんだ。でも当時お金がなくて、片道切符で横浜まで行こうとしたけれど、お金が足りずに静岡駅で下車して、その周辺を布教に歩いていたんだよ」
妻の実家であるお茶工場は静岡駅から徒歩10分ほど。何と、60年前に祖父が布教に歩いた地域とは、妻の実家がある場所そのものだったのです。
祖父は続けて、「60年前に布教した時は大した成果は見せて頂けず、あの時の布教は無駄だったと思ったし、今までずっとそう思っていた。でも、静岡の地で伏せこんだ種を神様はちゃんとお受け取り下さって、60年後に今こうして、お前のお嫁さんという形で芽を吹いて帰ってきた。私たちにとって、これほどありがたく、嬉しいことはない。本当にありがとう」と涙ながらに話してくれました。
話を聞いて鳥肌が立ちました。妻はインターネットでたまたま私と出会い、お道を知り、修養科を修了し教会の住み込みをつとめ、結婚して教会へ来ることになった。それはすべて自分の成したことだと思っていました。しかしそれは大きな間違いで、その背景には60年前の祖父の真実の伏せこみがあり、今にして思えば、妻との出会いは偶然ではなく、すべては親神様が出会わせて下さった必然だったのです。
天理教では「まいたる種はみな生える」と教えて頂きます。日々にまいた種、つまり自分の日々の行いは、やがては自分や子孫に返ってくるのです。
まいた種によっては一日で生えてくる種もあれば、一か月で生えてくる種もある。一年、二年で生えてくる種もあれば、このように60年経ってようやく生えてくる種もある。いずれにしても、真実の種をまけば親神様はお喜び下さり、いつか必ず素晴らしい形で芽吹かせて下さる。そのことを身をもって実感した妻との結婚でした。
私たち夫婦は4人の子供たちを授かっています。祖父をはじめ親々の伏せこみのおかげで今の自分達があるということを肝に銘じ、今度は私たちが子供達のため、そしてまだ見ぬ孫達のために、親神様、教祖にお喜び頂ける種をまくことを目標に通っていきたいと思います。



だけど有難い「『感謝』から『報恩』へ」

最近、親による子供の虐待や育児放棄が社会問題になっています。それに伴い、「親は子供を育てる責任と義務がある」とか、「子供には育てられる権利がある」というようなことが言われます。私は、この「責任」や「義務」「権利」というようなものからは、「感謝」の心は生まれないと思うのです。「責任があるから」「権利があるから」といった感覚では、子供は親に「育ててもらって当たり前」であって、そこに感謝の心の生まれる余地はありません。
お道では、そうしたことに気づいていただきたいとの思いから、「感謝　慎み　たすけあい」という標語を作って、教会の前などに横断幕を掲げてきました。
「感謝」という言葉は、一般社会でもよく使われます。「親に感謝しています」「お世話になって大変感謝しています」などと言いますね。しかし本当に大事なのは、その先だと思うのです。それは「報恩＝恩を報じる」ということです。「感謝」は、いわば「報恩」への入り口なのです。
三代真柱・中山善衛様は、教会巡教などの際に、よく「報恩感謝」とご揮毫くださいました。三代真柱様が真柱をお務めの時代は、真柱様が「報恩」とお書きになって、継承者であられた善司様が「感謝」と続けられました。善司様が跡をお継ぎになってからは、真柱様が「報恩」とお書きになって、三代真柱様が「感謝」とお書きになりました。
私は「感謝」という言葉は、「報恩」という言葉と結びつかないことには、あまり意味がないと思うのです。たとえば「親に感謝します」と口にするだけでなく、親に育ててもらった「恩」、産んでもらった「恩」を感じることが大切だということです。
「恩」には「返す」という行為が伴います。そう言うと、嫌々させられると感じる人もいるかもしれません。しかし実際には、恩を感じたら返したくなるものではないでしょうか。たとえば恩師に贈り物をするときに、嫌々する人はないでしょう。何を贈ったら喜んでくれるだろうかと、品物を選んでいるときからうれしいものです。恩返しというのは、そういうものだと思います。
親に恩を感じると、それを返したくなる。これは親孝行です。親孝行というのは、しなければならないからするのではなく、せずにおれないからするのです。
親神様のご恩も同じだと思います。この道は「ご恩報じの道」ともいいますが、ご恩を感じなければ通れないのです。親神様のご守護を有難いと思う心があればこそ、「させてもらいたい」「やらずにおれない」という気持ちになるのです。
私たちが毎日こうして元気でいられるのは、第一に親神様のご守護のおかげです。そして、産み育ててくれた親のおかげ、周囲の人たちのおかげ、学校の先生のおかげもあれば、仲間のおかげもあるでしょう。実は、人間はこうした「おかげ」を感じ、「恩」を感じて、それに応えようとするなかに、「生き甲斐」や「喜び」を見いだし、「幸せ」を味わうことができるのです。
私たちは、一人でも多くの人をおぢばへ連れ帰らせていただき、別席を運んでもらおうと努めさせていただいています。それは、私たちの親である教祖に、お喜びいただきたいからです。さらに一層、声掛けに努めて、教祖のご恩に、親神様から頂戴している限りないご恩に応えさせていただきましょう。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>まいたる種は…
福岡県在住　　内山　真太朗

　　にち／＼に心つくしたものだねを　　神がたしかにうけとりている

　　しんぢつに神のうけとるものだねわ　　いつになりてもくさるめわなし

　　たん／＼とこのものだねがはへたなら　　これまつだいのこふきなるそや

今日は、この三首のお歌に込められた神様の親心を悟った話。結婚14年目に突入し、現在教会長をつとめている私と妻との、ちょっと甘酸っぱい話をお聞き頂きたいと思います。
私と妻との出会いは今から20年前、お互いハタチの時です。私は天理大学の学生、妻は静岡県在住のOLで、当時はまだSNSもなかった時代、インターネット上の音楽系サイトで知り合い、未信仰だった彼女を初めておぢばに案内したことをきっかけに、交際が始まりました。
６年間にも及んだ遠距離恋愛の中で、何度もおぢばを案内し、お道の話をする機会も増え、別席も運んでくれました。私にとっては初めてお連れする別席者で、交際相手とあって丹精に熱が入っていました。
交際して６年の月日が流れ、「この人となら」と思い、お互い結婚を決意しました。しかし、私は福岡県の天理教の教会長後継者、妻は静岡県でお茶工場を営む社長の一人娘。あまりにも境遇がかけ離れていて、反対されるのを覚悟で妻のご両親へ挨拶に伺いました。
新調したスーツを着て、ご両親を前に、緊張しながら「どうか、娘さんと結婚させてください…」しばらく沈黙がありましたが、「二人で決めたことなら」と、ご両親とも快く結婚を承諾して下さいました。
すると妻のお母様から、「結婚の前に天理教の勉強をさせたい」との思いがけない申し出があり、妻は教えを学ぶため、結婚前に修養科を志願してくれました。さらに三か月間の修養科修了後には、教会生活を学ぶため、半年間大教会の住み込み女子青年としてつとめてくれました。
天理教のことを全く知らなかった妻は、結婚前に多くの教友と出会い、導いて頂き、お互い26歳の秋、大勢の方々に祝福されながら、大教会で結婚式と披露宴を挙げさせて頂きました。
世界中の人とつながれるインターネット上で、偶然出会った素敵な女性との結婚。私にとってこんなにありがたい事はありませんでした。
さて、話は結婚式の数日前に遡ります。教会の前会長夫婦である祖父母から「話がある」と、妻と二人で呼び出されました。80歳を超えて尚、誰よりも信仰に厳しい祖父母。よもや結婚を反対されるのでは？ そんな不安をもって祖父母のもとへ行くと、祖父がこのような話を聞かせてくれました。
「今回の結婚、本当に嬉しく思う。実は、おじいちゃんは今から60年前、戦争が終わってハタチの時、確かな信仰をつかむために、当時出来たばかりの天理教校専修科に入学したんだ。二年間色んなことを経験して学んだが、この信仰を信じ切ることが出来ず、神様をつかみ切ることが出来なかった。これではいけない、どうしても神様をつかみたいと思って、専修科を卒業してすぐに福岡から横浜へ単独布教に出ようと決意したんだ。でも当時お金がなくて、片道切符で横浜まで行こうとしたけれど、お金が足りずに静岡駅で下車して、その周辺を布教に歩いていたんだよ」
妻の実家であるお茶工場は静岡駅から徒歩10分ほど。何と、60年前に祖父が布教に歩いた地域とは、妻の実家がある場所そのものだったのです。
祖父は続けて、「60年前に布教した時は大した成果は見せて頂けず、あの時の布教は無駄だったと思ったし、今までずっとそう思っていた。でも、静岡の地で伏せこんだ種を神様はちゃんとお受け取り下さって、60年後に今こうして、お前のお嫁さんという形で芽を吹いて帰ってきた。私たちにとって、これほどありがたく、嬉しいことはない。本当にありがとう」と涙ながらに話してくれました。
話を聞いて鳥肌が立ちました。妻はインターネットでたまたま私と出会い、お道を知り、修養科を修了し教会の住み込みをつとめ、結婚して教会へ来ることになった。それはすべて自分の成したことだと思っていました。しかしそれは大きな間違いで、その背景には60年前の祖父の真実の伏せこみがあり、今にして思えば、妻との出会いは偶然ではなく、すべては親神様が出会わせて下さった必然だったのです。
天理教では「まいたる種はみな生える」と教えて頂きます。日々にまいた種、つまり自分の日々の行いは、やがては自分や子孫に返ってくるのです。
まいた種によっては一日で生えてくる種もあれば、一か月で生えてくる種もある。一年、二年で生えてくる種もあれば、このように60年経ってようやく生えてくる種もある。いずれにしても、真実の種をまけば親神様はお喜び下さり、いつか必ず素晴らしい形で芽吹かせて下さる。そのことを身をもって実感した妻との結婚でした。
私たち夫婦は4人の子供たちを授かっています。祖父をはじめ親々の伏せこみのおかげで今の自分達があるということを肝に銘じ、今度は私たちが子供達のため、そしてまだ見ぬ孫達のために、親神様、教祖にお喜び頂ける種をまくことを目標に通っていきたいと思います。



だけど有難い「『感謝』から『報恩』へ」

最近、親による子供の虐待や育児放棄が社会問題になっています。それに伴い、「親は子供を育てる責任と義務がある」とか、「子供には育てられる権利がある」というようなことが言われます。私は、この「責任」や「義務」「権利」というようなものからは、「感謝」の心は生まれないと思うのです。「責任があるから」「権利があるから」といった感覚では、子供は親に「育ててもらって当たり前」であって、そこに感謝の心の生まれる余地はありません。
お道では、そうしたことに気づいていただきたいとの思いから、「感謝　慎み　たすけあい」という標語を作って、教会の前などに横断幕を掲げてきました。
「感謝」という言葉は、一般社会でもよく使われます。「親に感謝しています」「お世話になって大変感謝しています」などと言いますね。しかし本当に大事なのは、その先だと思うのです。それは「報恩＝恩を報じる」ということです。「感謝」は、いわば「報恩」への入り口なのです。
三代真柱・中山善衛様は、教会巡教などの際に、よく「報恩感謝」とご揮毫くださいました。三代真柱様が真柱をお務めの時代は、真柱様が「報恩」とお書きになって、継承者であられた善司様が「感謝」と続けられました。善司様が跡をお継ぎになってからは、真柱様が「報恩」とお書きになって、三代真柱様が「感謝」とお書きになりました。
私は「感謝」という言葉は、「報恩」という言葉と結びつかないことには、あまり意味がないと思うのです。たとえば「親に感謝します」と口にするだけでなく、親に育ててもらった「恩」、産んでもらった「恩」を感じることが大切だということです。
「恩」には「返す」という行為が伴います。そう言うと、嫌々させられると感じる人もいるかもしれません。しかし実際には、恩を感じたら返したくなるものではないでしょうか。たとえば恩師に贈り物をするときに、嫌々する人はないでしょう。何を贈ったら喜んでくれるだろうかと、品物を選んでいるときからうれしいものです。恩返しというのは、そういうものだと思います。
親に恩を感じると、それを返したくなる。これは親孝行です。親孝行というのは、しなければならないからするのではなく、せずにおれないからするのです。
親神様のご恩も同じだと思います。この道は「ご恩報じの道」ともいいますが、ご恩を感じなければ通れないのです。親神様のご守護を有難いと思う心があればこそ、「させてもらいたい」「やらずにおれない」という気持ちになるのです。
私たちが毎日こうして元気でいられるのは、第一に親神様のご守護のおかげです。そして、産み育ててくれた親のおかげ、周囲の人たちのおかげ、学校の先生のおかげもあれば、仲間のおかげもあるでしょう。実は、人間はこうした「おかげ」を感じ、「恩」を感じて、それに応えようとするなかに、「生き甲斐」や「喜び」を見いだし、「幸せ」を味わうことができるのです。
私たちは、一人でも多くの人をおぢばへ連れ帰らせていただき、別席を運んでもらおうと努めさせていただいています。それは、私たちの親である教祖に、お喜びいただきたいからです。さらに一層、声掛けに努めて、教祖のご恩に、親神様から頂戴している限りないご恩に応えさせていただきましょう。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 01 Aug 2025 09:15:35 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>令和元年台風15号</title>
        <description><![CDATA[令和元年台風15号
千葉県在住　　中臺　眞治

今から6年前、令和元年９月の真夜中、強力な台風の到来により、私共の暮らす千葉県では多くの住居が被災しました。私共がお預かりしている教会も屋根が一部損傷し、雨漏りで壁が崩れる被害を受けました。轟音と共に建物は揺れ続け、停電し、私自身も恐怖を感じたのを覚えています。
夜が明け、台風が落ち着いたのを見計らって外へ出ると、道路には車が通れないほど屋根瓦やトタンなどが散乱し、電信柱が倒れている地域もありました。
被災から６日後、同じ市内に暮らす天理教の教会長さんから相談の電話がありました。「80代の信者さんが自分でブルーシートを張ろうとしているんだけど、困っているようなので行ってもらえませんか？」とのこと。「分かりました」と答えてすぐに向かいました。
聞いた住所地に到着すると、玄関前にそのご主人が立っておられたのですが、目を真っ赤に腫らして、身体は震えていました。話を伺うと、「何日も頑張ったけど、足が震えてこれ以上出来ません」とのこと。
早速2階の屋根に上がると、そこにはブルーシートと土嚢が置いてあり、ご主人が必至に作業をされた形跡がありました。
私は作業を終えた後、なぜ高齢のご主人がこんな危険なことを自分でしようと思ったのか不思議に思い、尋ねました。
「あちこちの業者に頼んだけれど、どこも百件以上待ちで、しかも築40年を超える家は受け付けできませんと断られてしまったんだよ。雨漏りで漏電しないか心配で夜も眠れなくて…」
ご主人の話を聞いて、今この街には同じ悩みを抱えて苦しんでいる方が大勢おられることを知りました。
その後、教会に戻り、妻とこれからのことについて相談しました。実はこの出来事の前日に、地域の社会福祉協議会の職員さんから「高齢者の方のお宅のブルーシートを張ってもらえませんか？」と相談の電話があったのです。
しかし、私たちには屋根に上がるための梯子もなければ、それを運ぶトラックもありません。さらにこの時、妻は次女を身ごもっており、すでに臨月を迎え、いつ生まれてくるか分からない状況でもありました。
そんな中で、私たち夫婦は神様から何を問われているのだろうか？ 一通り話を終え、妻に「ブルーシート張り、させてもらいたいと思うけど、どう思う？」と尋ねると、快く賛成し、背中を押してくれました。
今、当時のことを振り返ると、自分でしたことは最初に「させてもらおう」と覚悟を決めたことぐらいで、あとはすべて神様の段取りの中で動かせて頂いたように感じています。作業の初日から、70代の高所作業車のオペレーターの方が「一緒にやろう」と仰って下さり、梯子を使わなくても作業ができました。
さらに一週間ほどしてからは、災害ボランティア団体の方々が装備の貸し出しや技術提供をして下さり、おかげで安全に活動をすることができました。また、SNSを使い、協力して下さる方を募ったところ、４か月間で延べ300人以上、天理教を信仰する方々が全国から駆けつけて下さり、沢山のブルーシートを張ることができました。
どれも神様が巡り合わせて下さった不思議な出会いだと感じ、心が勇む日々でした。また、被災した私共の教会はそのままにしていたのですが、上級の報徳分教会長を務める兄が、「せっかくだからカッコよくしよう。材料費はうちで出すから大丈夫だよ」と、経済的に厳しい状況の私たち家族を気遣うばかりでなく、とてもおしゃれで素敵な空間にしてくれました。本当にありがたかったです。
こうした被災地でのひのきしんを経験された方々からは、同じような話を度々耳にします。
「最初に被害の光景を目にした時には、こんな不条理なことがあるのかという思いが沸き起こった。でもこうした状況にも、神様の何かしらの親心が込められていると信じたくて動き始めた。そうしていざ動き始めてみると、神様の『段取り』や『先回りのご守護』と感じられる出来事がいくつもあり、神様の親心を感じた」といったお話です。
天理教の原典「おふでさき」では、

　　だん／＼になにかの事もみへてくる　　いかなるみちもみなたのしめよ　（四 22）

と記されています。
このお言葉は、自分にとって都合の良いことだけではなく、たとえ不条理と感じる出来事が起きてきたとしても、そこにも神様の親心が込められているのだと信じ、勇んで通る。そうした中で、「神様によってたすけられている」という現実が立ち現れた時、陽気ぐらしへ導いてくださる親心を実感できる。そのことを教えられているのではないでしょうか。
少し話は変わるのですが、この活動に参加している天理教の信仰者は、社会福祉協議会の職員さんから「ひのきしんさん」と呼ばれていました。私たちがそのように名乗っていたわけではありませんが、「ひのきしん」という天理教用語やその意味をご存じで、そのように呼んで下さいました。
「ひのきしん」の意味について、『天理教教典』には、「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」と記されています。
ひのきしんは、神様のお働きによって生かされて生きていることを自覚し、そこから湧き上がる喜びの発露としての行いであり、周囲に向けては「一れつきょうだい」の教えに基づくたすけあいの実践へとつながっていきます。活動中、私自身がいつもこのような思いであったかどうかはともかく、駆けつけて下さった方々からは、常にそのような思いを感じていました。
令和元年台風15号での活動以降、多くの方とのつながりが生まれ、現在は教会として地域での様々なたすけ合い活動を行うようになりました。当時、被災地へひのきしんに駆けつけて下さった皆様のおかげであり、日々感謝しています。



いんねんというは心の道

病気になったり、経済的な苦境に陥ったり、人生の苦難は様々にやってきます。そうなるには社会的条件や、人間の目から見た運不運という要素もあるでしょうが、結局のところ、自分の身に降りかかってきたことは、自分の責任で受け止めなければなりません。
たとえば、子供が道で石につまずいて転んでしまい、なかなか泣き止まない時、親はどうするでしょう。石ころを手にして、「石がこんな所にあるから転んだんだ、悪いのはこの石だ！」と、石を蹴飛ばしてやる。この場合、子供は納得して泣き止むかもしれませんが、大人の世界では通用しない論理です。
これでは、お金で苦労している時、自分のせいではない、社会が悪いんだ、と泣き言をこぼしているようなもので、大人であれば、現実を直視し、それに耐えなければなりません。そして、天理教のいんねんという教理は、まさしく大人の世界の話なのです。
「いんねんというは心の道」（Ｍ40・4・8）
このお言葉がいんねんのはっきりした定義の一つです。道とは長く続くものです。つまりいんねんとして表れてくるのは、昨日今日の短い間の心の話ではないというのが大事な点です。
「人を理不尽に怒鳴りつけたら急にお腹が痛くなった」というような、すぐに短絡的に現れることなら分かりやすいのですが、そんな単純なものではないということです。
意識の流れには連続した歴史があります。その人が生きてきた年月の分だけ心の歴史があり、それが「心の道」と言われるものです。心は日々、瞬間々々に使うもので、それはすぐに消えてしまうかのように思えますが、神様の目を通して「理」として蓄積され、その人の人格を形成していきます。
お言葉にも、
「世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある」（Ｍ28・7・22）
と、はっきりと示されています。
いんねんとは言わば、心の倉庫のようなもので、毎日愚痴や不足で通っている人は、それが貯まって巨大な蔵を作っているわけですから、そこから良質な出来事は生まれにくいでしょう。日々の小さな喜びの積み重ねが、やがては大きな天の与えとなって、陽気づくめの暮らしへとつながるのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>令和元年台風15号
千葉県在住　　中臺　眞治

今から6年前、令和元年９月の真夜中、強力な台風の到来により、私共の暮らす千葉県では多くの住居が被災しました。私共がお預かりしている教会も屋根が一部損傷し、雨漏りで壁が崩れる被害を受けました。轟音と共に建物は揺れ続け、停電し、私自身も恐怖を感じたのを覚えています。
夜が明け、台風が落ち着いたのを見計らって外へ出ると、道路には車が通れないほど屋根瓦やトタンなどが散乱し、電信柱が倒れている地域もありました。
被災から６日後、同じ市内に暮らす天理教の教会長さんから相談の電話がありました。「80代の信者さんが自分でブルーシートを張ろうとしているんだけど、困っているようなので行ってもらえませんか？」とのこと。「分かりました」と答えてすぐに向かいました。
聞いた住所地に到着すると、玄関前にそのご主人が立っておられたのですが、目を真っ赤に腫らして、身体は震えていました。話を伺うと、「何日も頑張ったけど、足が震えてこれ以上出来ません」とのこと。
早速2階の屋根に上がると、そこにはブルーシートと土嚢が置いてあり、ご主人が必至に作業をされた形跡がありました。
私は作業を終えた後、なぜ高齢のご主人がこんな危険なことを自分でしようと思ったのか不思議に思い、尋ねました。
「あちこちの業者に頼んだけれど、どこも百件以上待ちで、しかも築40年を超える家は受け付けできませんと断られてしまったんだよ。雨漏りで漏電しないか心配で夜も眠れなくて…」
ご主人の話を聞いて、今この街には同じ悩みを抱えて苦しんでいる方が大勢おられることを知りました。
その後、教会に戻り、妻とこれからのことについて相談しました。実はこの出来事の前日に、地域の社会福祉協議会の職員さんから「高齢者の方のお宅のブルーシートを張ってもらえませんか？」と相談の電話があったのです。
しかし、私たちには屋根に上がるための梯子もなければ、それを運ぶトラックもありません。さらにこの時、妻は次女を身ごもっており、すでに臨月を迎え、いつ生まれてくるか分からない状況でもありました。
そんな中で、私たち夫婦は神様から何を問われているのだろうか？ 一通り話を終え、妻に「ブルーシート張り、させてもらいたいと思うけど、どう思う？」と尋ねると、快く賛成し、背中を押してくれました。
今、当時のことを振り返ると、自分でしたことは最初に「させてもらおう」と覚悟を決めたことぐらいで、あとはすべて神様の段取りの中で動かせて頂いたように感じています。作業の初日から、70代の高所作業車のオペレーターの方が「一緒にやろう」と仰って下さり、梯子を使わなくても作業ができました。
さらに一週間ほどしてからは、災害ボランティア団体の方々が装備の貸し出しや技術提供をして下さり、おかげで安全に活動をすることができました。また、SNSを使い、協力して下さる方を募ったところ、４か月間で延べ300人以上、天理教を信仰する方々が全国から駆けつけて下さり、沢山のブルーシートを張ることができました。
どれも神様が巡り合わせて下さった不思議な出会いだと感じ、心が勇む日々でした。また、被災した私共の教会はそのままにしていたのですが、上級の報徳分教会長を務める兄が、「せっかくだからカッコよくしよう。材料費はうちで出すから大丈夫だよ」と、経済的に厳しい状況の私たち家族を気遣うばかりでなく、とてもおしゃれで素敵な空間にしてくれました。本当にありがたかったです。
こうした被災地でのひのきしんを経験された方々からは、同じような話を度々耳にします。
「最初に被害の光景を目にした時には、こんな不条理なことがあるのかという思いが沸き起こった。でもこうした状況にも、神様の何かしらの親心が込められていると信じたくて動き始めた。そうしていざ動き始めてみると、神様の『段取り』や『先回りのご守護』と感じられる出来事がいくつもあり、神様の親心を感じた」といったお話です。
天理教の原典「おふでさき」では、

　　だん／＼になにかの事もみへてくる　　いかなるみちもみなたのしめよ　（四 22）

と記されています。
このお言葉は、自分にとって都合の良いことだけではなく、たとえ不条理と感じる出来事が起きてきたとしても、そこにも神様の親心が込められているのだと信じ、勇んで通る。そうした中で、「神様によってたすけられている」という現実が立ち現れた時、陽気ぐらしへ導いてくださる親心を実感できる。そのことを教えられているのではないでしょうか。
少し話は変わるのですが、この活動に参加している天理教の信仰者は、社会福祉協議会の職員さんから「ひのきしんさん」と呼ばれていました。私たちがそのように名乗っていたわけではありませんが、「ひのきしん」という天理教用語やその意味をご存じで、そのように呼んで下さいました。
「ひのきしん」の意味について、『天理教教典』には、「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」と記されています。
ひのきしんは、神様のお働きによって生かされて生きていることを自覚し、そこから湧き上がる喜びの発露としての行いであり、周囲に向けては「一れつきょうだい」の教えに基づくたすけあいの実践へとつながっていきます。活動中、私自身がいつもこのような思いであったかどうかはともかく、駆けつけて下さった方々からは、常にそのような思いを感じていました。
令和元年台風15号での活動以降、多くの方とのつながりが生まれ、現在は教会として地域での様々なたすけ合い活動を行うようになりました。当時、被災地へひのきしんに駆けつけて下さった皆様のおかげであり、日々感謝しています。



いんねんというは心の道

病気になったり、経済的な苦境に陥ったり、人生の苦難は様々にやってきます。そうなるには社会的条件や、人間の目から見た運不運という要素もあるでしょうが、結局のところ、自分の身に降りかかってきたことは、自分の責任で受け止めなければなりません。
たとえば、子供が道で石につまずいて転んでしまい、なかなか泣き止まない時、親はどうするでしょう。石ころを手にして、「石がこんな所にあるから転んだんだ、悪いのはこの石だ！」と、石を蹴飛ばしてやる。この場合、子供は納得して泣き止むかもしれませんが、大人の世界では通用しない論理です。
これでは、お金で苦労している時、自分のせいではない、社会が悪いんだ、と泣き言をこぼしているようなもので、大人であれば、現実を直視し、それに耐えなければなりません。そして、天理教のいんねんという教理は、まさしく大人の世界の話なのです。
「いんねんというは心の道」（Ｍ40・4・8）
このお言葉がいんねんのはっきりした定義の一つです。道とは長く続くものです。つまりいんねんとして表れてくるのは、昨日今日の短い間の心の話ではないというのが大事な点です。
「人を理不尽に怒鳴りつけたら急にお腹が痛くなった」というような、すぐに短絡的に現れることなら分かりやすいのですが、そんな単純なものではないということです。
意識の流れには連続した歴史があります。その人が生きてきた年月の分だけ心の歴史があり、それが「心の道」と言われるものです。心は日々、瞬間々々に使うもので、それはすぐに消えてしまうかのように思えますが、神様の目を通して「理」として蓄積され、その人の人格を形成していきます。
お言葉にも、
「世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある」（Ｍ28・7・22）
と、はっきりと示されています。
いんねんとは言わば、心の倉庫のようなもので、毎日愚痴や不足で通っている人は、それが貯まって巨大な蔵を作っているわけですから、そこから良質な出来事は生まれにくいでしょう。日々の小さな喜びの積み重ねが、やがては大きな天の与えとなって、陽気づくめの暮らしへとつながるのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>令和元年台風15号
千葉県在住　　中臺　眞治

今から6年前、令和元年９月の真夜中、強力な台風の到来により、私共の暮らす千葉県では多くの住居が被災しました。私共がお預かりしている教会も屋根が一部損傷し、雨漏りで壁が崩れる被害を受けました。轟音と共に建物は揺れ続け、停電し、私自身も恐怖を感じたのを覚えています。
夜が明け、台風が落ち着いたのを見計らって外へ出ると、道路には車が通れないほど屋根瓦やトタンなどが散乱し、電信柱が倒れている地域もありました。
被災から６日後、同じ市内に暮らす天理教の教会長さんから相談の電話がありました。「80代の信者さんが自分でブルーシートを張ろうとしているんだけど、困っているようなので行ってもらえませんか？」とのこと。「分かりました」と答えてすぐに向かいました。
聞いた住所地に到着すると、玄関前にそのご主人が立っておられたのですが、目を真っ赤に腫らして、身体は震えていました。話を伺うと、「何日も頑張ったけど、足が震えてこれ以上出来ません」とのこと。
早速2階の屋根に上がると、そこにはブルーシートと土嚢が置いてあり、ご主人が必至に作業をされた形跡がありました。
私は作業を終えた後、なぜ高齢のご主人がこんな危険なことを自分でしようと思ったのか不思議に思い、尋ねました。
「あちこちの業者に頼んだけれど、どこも百件以上待ちで、しかも築40年を超える家は受け付けできませんと断られてしまったんだよ。雨漏りで漏電しないか心配で夜も眠れなくて…」
ご主人の話を聞いて、今この街には同じ悩みを抱えて苦しんでいる方が大勢おられることを知りました。
その後、教会に戻り、妻とこれからのことについて相談しました。実はこの出来事の前日に、地域の社会福祉協議会の職員さんから「高齢者の方のお宅のブルーシートを張ってもらえませんか？」と相談の電話があったのです。
しかし、私たちには屋根に上がるための梯子もなければ、それを運ぶトラックもありません。さらにこの時、妻は次女を身ごもっており、すでに臨月を迎え、いつ生まれてくるか分からない状況でもありました。
そんな中で、私たち夫婦は神様から何を問われているのだろうか？ 一通り話を終え、妻に「ブルーシート張り、させてもらいたいと思うけど、どう思う？」と尋ねると、快く賛成し、背中を押してくれました。
今、当時のことを振り返ると、自分でしたことは最初に「させてもらおう」と覚悟を決めたことぐらいで、あとはすべて神様の段取りの中で動かせて頂いたように感じています。作業の初日から、70代の高所作業車のオペレーターの方が「一緒にやろう」と仰って下さり、梯子を使わなくても作業ができました。
さらに一週間ほどしてからは、災害ボランティア団体の方々が装備の貸し出しや技術提供をして下さり、おかげで安全に活動をすることができました。また、SNSを使い、協力して下さる方を募ったところ、４か月間で延べ300人以上、天理教を信仰する方々が全国から駆けつけて下さり、沢山のブルーシートを張ることができました。
どれも神様が巡り合わせて下さった不思議な出会いだと感じ、心が勇む日々でした。また、被災した私共の教会はそのままにしていたのですが、上級の報徳分教会長を務める兄が、「せっかくだからカッコよくしよう。材料費はうちで出すから大丈夫だよ」と、経済的に厳しい状況の私たち家族を気遣うばかりでなく、とてもおしゃれで素敵な空間にしてくれました。本当にありがたかったです。
こうした被災地でのひのきしんを経験された方々からは、同じような話を度々耳にします。
「最初に被害の光景を目にした時には、こんな不条理なことがあるのかという思いが沸き起こった。でもこうした状況にも、神様の何かしらの親心が込められていると信じたくて動き始めた。そうしていざ動き始めてみると、神様の『段取り』や『先回りのご守護』と感じられる出来事がいくつもあり、神様の親心を感じた」といったお話です。
天理教の原典「おふでさき」では、

　　だん／＼になにかの事もみへてくる　　いかなるみちもみなたのしめよ　（四 22）

と記されています。
このお言葉は、自分にとって都合の良いことだけではなく、たとえ不条理と感じる出来事が起きてきたとしても、そこにも神様の親心が込められているのだと信じ、勇んで通る。そうした中で、「神様によってたすけられている」という現実が立ち現れた時、陽気ぐらしへ導いてくださる親心を実感できる。そのことを教えられているのではないでしょうか。
少し話は変わるのですが、この活動に参加している天理教の信仰者は、社会福祉協議会の職員さんから「ひのきしんさん」と呼ばれていました。私たちがそのように名乗っていたわけではありませんが、「ひのきしん」という天理教用語やその意味をご存じで、そのように呼んで下さいました。
「ひのきしん」の意味について、『天理教教典』には、「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」と記されています。
ひのきしんは、神様のお働きによって生かされて生きていることを自覚し、そこから湧き上がる喜びの発露としての行いであり、周囲に向けては「一れつきょうだい」の教えに基づくたすけあいの実践へとつながっていきます。活動中、私自身がいつもこのような思いであったかどうかはともかく、駆けつけて下さった方々からは、常にそのような思いを感じていました。
令和元年台風15号での活動以降、多くの方とのつながりが生まれ、現在は教会として地域での様々なたすけ合い活動を行うようになりました。当時、被災地へひのきしんに駆けつけて下さった皆様のおかげであり、日々感謝しています。



いんねんというは心の道

病気になったり、経済的な苦境に陥ったり、人生の苦難は様々にやってきます。そうなるには社会的条件や、人間の目から見た運不運という要素もあるでしょうが、結局のところ、自分の身に降りかかってきたことは、自分の責任で受け止めなければなりません。
たとえば、子供が道で石につまずいて転んでしまい、なかなか泣き止まない時、親はどうするでしょう。石ころを手にして、「石がこんな所にあるから転んだんだ、悪いのはこの石だ！」と、石を蹴飛ばしてやる。この場合、子供は納得して泣き止むかもしれませんが、大人の世界では通用しない論理です。
これでは、お金で苦労している時、自分のせいではない、社会が悪いんだ、と泣き言をこぼしているようなもので、大人であれば、現実を直視し、それに耐えなければなりません。そして、天理教のいんねんという教理は、まさしく大人の世界の話なのです。
「いんねんというは心の道」（Ｍ40・4・8）
このお言葉がいんねんのはっきりした定義の一つです。道とは長く続くものです。つまりいんねんとして表れてくるのは、昨日今日の短い間の心の話ではないというのが大事な点です。
「人を理不尽に怒鳴りつけたら急にお腹が痛くなった」というような、すぐに短絡的に現れることなら分かりやすいのですが、そんな単純なものではないということです。
意識の流れには連続した歴史があります。その人が生きてきた年月の分だけ心の歴史があり、それが「心の道」と言われるものです。心は日々、瞬間々々に使うもので、それはすぐに消えてしまうかのように思えますが、神様の目を通して「理」として蓄積され、その人の人格を形成していきます。
お言葉にも、
「世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある」（Ｍ28・7・22）
と、はっきりと示されています。
いんねんとは言わば、心の倉庫のようなもので、毎日愚痴や不足で通っている人は、それが貯まって巨大な蔵を作っているわけですから、そこから良質な出来事は生まれにくいでしょう。日々の小さな喜びの積み重ねが、やがては大きな天の与えとなって、陽気づくめの暮らしへとつながるのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 25 Jul 2025 09:12:34 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>吐く息引く息一つの加減で内々治まる</title>
        <description><![CDATA[吐く息引く息一つの加減で内々治まる

東京都在住　　松村　登美和

先だって、仕事先の人間関係で悩む人から着信がありました。「一生懸命働いているのに、上司や同僚が認めてくれない」といった話でした。役目柄、そのような相談事によく出会います。
２、３０分話を聞いて電話を切った後で、妻が「いつもご苦労様」と言ってくれました。そして続いて、「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ～」と、少し冗談交じりの一言を付け加えました。
その言葉を聞いて、私は背筋がピンと伸びる思いで、忘れかけていた昔の出来事を思い出しました。
それは妻が20代で、私が30代の頃の経験です。私たち夫婦には現在３人の子供がおり、また妻は流産を２回経験しています。そのうち初めの数回、妻は産後に40度近い高熱が数日間続いたことがありました。病院で診察してもらっても原因がわからず、ただ熱が下がるのを待つばかりでした。
私たち夫婦は、普段は東京に住みながら、月に数回奈良県天理市へと足を運び、神様の御用を勤めています。今の時代では「マタニティハラスメント」とお叱りを受けてしまうかもしれませんが、その当時、私は出産前後も家を留守にすることが多く、妻が東京に残ることが重なりました。
何度目かの出産の後、私が天理にいるときに、妻が再び高熱を出しました。その報せを聞いて、私は一緒に御用を勤めていた先輩に「妻に、そうした発熱が度々起こるんです。それも私が東京を留守にしている時が多いんです」と話をしました。するとその先輩が、アドバイスを下さいました。
「奥さんに電話してる？ 天理で御用ができるのは、留守を預かる奥さんのお蔭だよ。すぐに帰れなくても、毎日一回はお礼の電話ぐらいしなくちゃ。俺はいつもしているよ」。
なるほど、それはそうだなと思い、それ以後、私も妻に一日一回は電話をかけて、感謝の言葉を伝えるようにしました。すると妻は、電話越しにも分かるほど喜んでくれて、熱はピタリと下がり、それからはひどい高熱が出ることはなくなりました。
天理教教祖・中山みき様が、ある男性にお諭しになったお言葉が残されています。
「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」
私たちは中山みき様のことを、親しみを込めて「おやさま」とお呼びしていますが、教祖は続けてその男性に、「あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」と仰せられました。
私は元来、腹立ちの性分を持っていることを自覚しています。同時に、教祖が仰るように、外では人付き合いが良いのですが、家に帰ると安心感からなのか、ぶっきらぼうになったり、ガミガミ腹を立てたり、めんどくさそうに家族と接してしまう自分がいます。
妻が発熱した時も、振り返ってみれば、人の相談事には耳を傾けるのに、常に私に愛情を注いでくれている産後の妻を顧みず、電話の一本もかけていないのが実情でした。
妻の「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ～」との言葉を聞いて、「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」との教祖のお言葉をあらためて思い出しました。妻の口から出た冗談交じりの言葉は、私の性分も抑え込んでくれる絶妙の加減で、本当に頭の下がる思いでした。教祖が140年以上も前にお話になったことなのに、まるで今の自分に向けてお諭し下されているように感じました。
口に出す言葉の加減で、家庭内や職場、近所付き合いが丸く治まっていく。それが「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」ということなのだと思います。もし腹が立ってしまった時に、その感情をそのまま言葉に乗せて相手にぶつけてしまえばトラブルに発展します。そのような気持ちになったら、一旦言葉を飲み込んで引いてみなければなりません。
また、妻の体調が悪い時には、「大丈夫か」と声をかけ、感謝の気持ちを伝える。そうした言葉を日頃から出すよう心がければ、内々は幸せに治まっていくでしょう。
人間の息は、冷たくなった相手の心を温めることもできれば、たかぶっている感情を鎮めることもできます。寒い冬、冷えてかじかんだ手に息を吹きかけて温めたり、また同じ息で熱い飲み物を冷ますこともできます。
心が弱っている人には温かく声をかけ、横断歩道を飛び出しそうな子供には大声で注意をする。
妻のように、言葉の使い方の加減ができるような人間になりたいと思います。それができれば、きっと私たちはお互いにもっと幸せになれるでしょう。



松村吉太郎さん

人は、何ごとも自分の勝手になるものと思い、とかく自分ひとりの苦楽や利害にとらわれがちになります。このような自己中心的な心遣いは、本人にとっては都合がいいかもしれませんが、まわりの人々や世の中にとっての迷惑、苦悩の原因となります。
人間は、きょうだいのように仲良くたすけ合って暮らすのが本来の姿ですから、私たちお互いは、自己中心的な心遣いを慎まなくてはなりません。
明治十九年の夏のことです。
当時ハタチの青年、松村吉太郎さんは、大阪の村役場へつとめながら、教祖のいらっしゃるお屋敷へ熱心に帰らせていただいていました。
ところが、若くて多少学問の素養もある吉太郎さんには、お屋敷へ寄り集う人々の教養のなさや、粗野な振る舞いなどが異様に映り、軽侮の念すら抱いていました。
ある日、吉太郎さんが教祖にお目通りすると、教祖は、「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになりました。
教祖からこのお言葉を承って、吉太郎さんは心の底から高慢のさんげをしました。そしてその生涯を、信仰の道一筋に歩んでいったのです。
後年、吉太郎さんは、「神様は身の内にある」と題して、このようなお話をしています。

「かりものの理とは、私ども人間の体は私どもがつくったものでもなければ、また、私どもの心のままに自由になるものでもありませぬ。すでに我がものでないとしますれば、だれのものでありましょう。すなわち、神様のものでありまして、神様はこの体を、ただしばらく、私ども人間にお貸し下されたのであります。
われわれのすること、思うことで、神様がお知りなさらぬことは一つもありません。どんな小さい心づかいでも、みな神様に響かぬということはないのです。
しかして、人間の心は肉体と同じく、初め神様から賦け与えられしものでありまするが、心だけは自由を付けて下さってあるがために、その心だけは借りものの肉体と異にして、心そのものが、すなわち自分ということになっているのでござります。
ゆえにわれわれは、自分の心をいずれのほうにでも自由に立て替え、どんな良いことでも悪いことでもすることができるので、そこでその心づかいがむずかしいのであります。
人間というものは、自分さえ都合よければよい、他人はどんなに困っていてもかまわぬなど、自分勝手の了見をのみ、出すことになりますが、これすなわち、ほしい、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、八つのほこりによるのであります。
八つのほこりと本来の誠とは、あたかも仇敵のごとく、八つのほこりがはびこれば、本来の誠は光をくらまし、本来の誠が強ければ、八つのほこりは自ら治まるというありさまにて、詮ずるところ、八つのほこりさえ起こらなければ、罪悪禍害の生ずる原因はないのであります。」
（終）]]></description>
        <googleplay:description>吐く息引く息一つの加減で内々治まる

東京都在住　　松村　登美和

先だって、仕事先の人間関係で悩む人から着信がありました。「一生懸命働いているのに、上司や同僚が認めてくれない」といった話でした。役目柄、そのような相談事によく出会います。
２、３０分話を聞いて電話を切った後で、妻が「いつもご苦労様」と言ってくれました。そして続いて、「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ～」と、少し冗談交じりの一言を付け加えました。
その言葉を聞いて、私は背筋がピンと伸びる思いで、忘れかけていた昔の出来事を思い出しました。
それは妻が20代で、私が30代の頃の経験です。私たち夫婦には現在３人の子供がおり、また妻は流産を２回経験しています。そのうち初めの数回、妻は産後に40度近い高熱が数日間続いたことがありました。病院で診察してもらっても原因がわからず、ただ熱が下がるのを待つばかりでした。
私たち夫婦は、普段は東京に住みながら、月に数回奈良県天理市へと足を運び、神様の御用を勤めています。今の時代では「マタニティハラスメント」とお叱りを受けてしまうかもしれませんが、その当時、私は出産前後も家を留守にすることが多く、妻が東京に残ることが重なりました。
何度目かの出産の後、私が天理にいるときに、妻が再び高熱を出しました。その報せを聞いて、私は一緒に御用を勤めていた先輩に「妻に、そうした発熱が度々起こるんです。それも私が東京を留守にしている時が多いんです」と話をしました。するとその先輩が、アドバイスを下さいました。
「奥さんに電話してる？ 天理で御用ができるのは、留守を預かる奥さんのお蔭だよ。すぐに帰れなくても、毎日一回はお礼の電話ぐらいしなくちゃ。俺はいつもしているよ」。
なるほど、それはそうだなと思い、それ以後、私も妻に一日一回は電話をかけて、感謝の言葉を伝えるようにしました。すると妻は、電話越しにも分かるほど喜んでくれて、熱はピタリと下がり、それからはひどい高熱が出ることはなくなりました。
天理教教祖・中山みき様が、ある男性にお諭しになったお言葉が残されています。
「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」
私たちは中山みき様のことを、親しみを込めて「おやさま」とお呼びしていますが、教祖は続けてその男性に、「あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」と仰せられました。
私は元来、腹立ちの性分を持っていることを自覚しています。同時に、教祖が仰るように、外では人付き合いが良いのですが、家に帰ると安心感からなのか、ぶっきらぼうになったり、ガミガミ腹を立てたり、めんどくさそうに家族と接してしまう自分がいます。
妻が発熱した時も、振り返ってみれば、人の相談事には耳を傾けるのに、常に私に愛情を注いでくれている産後の妻を顧みず、電話の一本もかけていないのが実情でした。
妻の「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ～」との言葉を聞いて、「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」との教祖のお言葉をあらためて思い出しました。妻の口から出た冗談交じりの言葉は、私の性分も抑え込んでくれる絶妙の加減で、本当に頭の下がる思いでした。教祖が140年以上も前にお話になったことなのに、まるで今の自分に向けてお諭し下されているように感じました。
口に出す言葉の加減で、家庭内や職場、近所付き合いが丸く治まっていく。それが「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」ということなのだと思います。もし腹が立ってしまった時に、その感情をそのまま言葉に乗せて相手にぶつけてしまえばトラブルに発展します。そのような気持ちになったら、一旦言葉を飲み込んで引いてみなければなりません。
また、妻の体調が悪い時には、「大丈夫か」と声をかけ、感謝の気持ちを伝える。そうした言葉を日頃から出すよう心がければ、内々は幸せに治まっていくでしょう。
人間の息は、冷たくなった相手の心を温めることもできれば、たかぶっている感情を鎮めることもできます。寒い冬、冷えてかじかんだ手に息を吹きかけて温めたり、また同じ息で熱い飲み物を冷ますこともできます。
心が弱っている人には温かく声をかけ、横断歩道を飛び出しそうな子供には大声で注意をする。
妻のように、言葉の使い方の加減ができるような人間になりたいと思います。それができれば、きっと私たちはお互いにもっと幸せになれるでしょう。



松村吉太郎さん

人は、何ごとも自分の勝手になるものと思い、とかく自分ひとりの苦楽や利害にとらわれがちになります。このような自己中心的な心遣いは、本人にとっては都合がいいかもしれませんが、まわりの人々や世の中にとっての迷惑、苦悩の原因となります。
人間は、きょうだいのように仲良くたすけ合って暮らすのが本来の姿ですから、私たちお互いは、自己中心的な心遣いを慎まなくてはなりません。
明治十九年の夏のことです。
当時ハタチの青年、松村吉太郎さんは、大阪の村役場へつとめながら、教祖のいらっしゃるお屋敷へ熱心に帰らせていただいていました。
ところが、若くて多少学問の素養もある吉太郎さんには、お屋敷へ寄り集う人々の教養のなさや、粗野な振る舞いなどが異様に映り、軽侮の念すら抱いていました。
ある日、吉太郎さんが教祖にお目通りすると、教祖は、「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになりました。
教祖からこのお言葉を承って、吉太郎さんは心の底から高慢のさんげをしました。そしてその生涯を、信仰の道一筋に歩んでいったのです。
後年、吉太郎さんは、「神様は身の内にある」と題して、このようなお話をしています。

「かりものの理とは、私ども人間の体は私どもがつくったものでもなければ、また、私どもの心のままに自由になるものでもありませぬ。すでに我がものでないとしますれば、だれのものでありましょう。すなわち、神様のものでありまして、神様はこの体を、ただしばらく、私ども人間にお貸し下されたのであります。
われわれのすること、思うことで、神様がお知りなさらぬことは一つもありません。どんな小さい心づかいでも、みな神様に響かぬということはないのです。
しかして、人間の心は肉体と同じく、初め神様から賦け与えられしものでありまするが、心だけは自由を付けて下さってあるがために、その心だけは借りものの肉体と異にして、心そのものが、すなわち自分ということになっているのでござります。
ゆえにわれわれは、自分の心をいずれのほうにでも自由に立て替え、どんな良いことでも悪いことでもすることができるので、そこでその心づかいがむずかしいのであります。
人間というものは、自分さえ都合よければよい、他人はどんなに困っていてもかまわぬなど、自分勝手の了見をのみ、出すことになりますが、これすなわち、ほしい、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、八つのほこりによるのであります。
八つのほこりと本来の誠とは、あたかも仇敵のごとく、八つのほこりがはびこれば、本来の誠は光をくらまし、本来の誠が強ければ、八つのほこりは自ら治まるというありさまにて、詮ずるところ、八つのほこりさえ起こらなければ、罪悪禍害の生ずる原因はないのであります。」
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>吐く息引く息一つの加減で内々治まる

東京都在住　　松村　登美和

先だって、仕事先の人間関係で悩む人から着信がありました。「一生懸命働いているのに、上司や同僚が認めてくれない」といった話でした。役目柄、そのような相談事によく出会います。
２、３０分話を聞いて電話を切った後で、妻が「いつもご苦労様」と言ってくれました。そして続いて、「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ～」と、少し冗談交じりの一言を付け加えました。
その言葉を聞いて、私は背筋がピンと伸びる思いで、忘れかけていた昔の出来事を思い出しました。
それは妻が20代で、私が30代の頃の経験です。私たち夫婦には現在３人の子供がおり、また妻は流産を２回経験しています。そのうち初めの数回、妻は産後に40度近い高熱が数日間続いたことがありました。病院で診察してもらっても原因がわからず、ただ熱が下がるのを待つばかりでした。
私たち夫婦は、普段は東京に住みながら、月に数回奈良県天理市へと足を運び、神様の御用を勤めています。今の時代では「マタニティハラスメント」とお叱りを受けてしまうかもしれませんが、その当時、私は出産前後も家を留守にすることが多く、妻が東京に残ることが重なりました。
何度目かの出産の後、私が天理にいるときに、妻が再び高熱を出しました。その報せを聞いて、私は一緒に御用を勤めていた先輩に「妻に、そうした発熱が度々起こるんです。それも私が東京を留守にしている時が多いんです」と話をしました。するとその先輩が、アドバイスを下さいました。
「奥さんに電話してる？ 天理で御用ができるのは、留守を預かる奥さんのお蔭だよ。すぐに帰れなくても、毎日一回はお礼の電話ぐらいしなくちゃ。俺はいつもしているよ」。
なるほど、それはそうだなと思い、それ以後、私も妻に一日一回は電話をかけて、感謝の言葉を伝えるようにしました。すると妻は、電話越しにも分かるほど喜んでくれて、熱はピタリと下がり、それからはひどい高熱が出ることはなくなりました。
天理教教祖・中山みき様が、ある男性にお諭しになったお言葉が残されています。
「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」
私たちは中山みき様のことを、親しみを込めて「おやさま」とお呼びしていますが、教祖は続けてその男性に、「あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」と仰せられました。
私は元来、腹立ちの性分を持っていることを自覚しています。同時に、教祖が仰るように、外では人付き合いが良いのですが、家に帰ると安心感からなのか、ぶっきらぼうになったり、ガミガミ腹を立てたり、めんどくさそうに家族と接してしまう自分がいます。
妻が発熱した時も、振り返ってみれば、人の相談事には耳を傾けるのに、常に私に愛情を注いでくれている産後の妻を顧みず、電話の一本もかけていないのが実情でした。
妻の「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ～」との言葉を聞いて、「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」との教祖のお言葉をあらためて思い出しました。妻の口から出た冗談交じりの言葉は、私の性分も抑え込んでくれる絶妙の加減で、本当に頭の下がる思いでした。教祖が140年以上も前にお話になったことなのに、まるで今の自分に向けてお諭し下されているように感じました。
口に出す言葉の加減で、家庭内や職場、近所付き合いが丸く治まっていく。それが「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」ということなのだと思います。もし腹が立ってしまった時に、その感情をそのまま言葉に乗せて相手にぶつけてしまえばトラブルに発展します。そのような気持ちになったら、一旦言葉を飲み込んで引いてみなければなりません。
また、妻の体調が悪い時には、「大丈夫か」と声をかけ、感謝の気持ちを伝える。そうした言葉を日頃から出すよう心がければ、内々は幸せに治まっていくでしょう。
人間の息は、冷たくなった相手の心を温めることもできれば、たかぶっている感情を鎮めることもできます。寒い冬、冷えてかじかんだ手に息を吹きかけて温めたり、また同じ息で熱い飲み物を冷ますこともできます。
心が弱っている人には温かく声をかけ、横断歩道を飛び出しそうな子供には大声で注意をする。
妻のように、言葉の使い方の加減ができるような人間になりたいと思います。それができれば、きっと私たちはお互いにもっと幸せになれるでしょう。



松村吉太郎さん

人は、何ごとも自分の勝手になるものと思い、とかく自分ひとりの苦楽や利害にとらわれがちになります。このような自己中心的な心遣いは、本人にとっては都合がいいかもしれませんが、まわりの人々や世の中にとっての迷惑、苦悩の原因となります。
人間は、きょうだいのように仲良くたすけ合って暮らすのが本来の姿ですから、私たちお互いは、自己中心的な心遣いを慎まなくてはなりません。
明治十九年の夏のことです。
当時ハタチの青年、松村吉太郎さんは、大阪の村役場へつとめながら、教祖のいらっしゃるお屋敷へ熱心に帰らせていただいていました。
ところが、若くて多少学問の素養もある吉太郎さんには、お屋敷へ寄り集う人々の教養のなさや、粗野な振る舞いなどが異様に映り、軽侮の念すら抱いていました。
ある日、吉太郎さんが教祖にお目通りすると、教祖は、「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになりました。
教祖からこのお言葉を承って、吉太郎さんは心の底から高慢のさんげをしました。そしてその生涯を、信仰の道一筋に歩んでいったのです。
後年、吉太郎さんは、「神様は身の内にある」と題して、このようなお話をしています。

「かりものの理とは、私ども人間の体は私どもがつくったものでもなければ、また、私どもの心のままに自由になるものでもありませぬ。すでに我がものでないとしますれば、だれのものでありましょう。すなわち、神様のものでありまして、神様はこの体を、ただしばらく、私ども人間にお貸し下されたのであります。
われわれのすること、思うことで、神様がお知りなさらぬことは一つもありません。どんな小さい心づかいでも、みな神様に響かぬということはないのです。
しかして、人間の心は肉体と同じく、初め神様から賦け与えられしものでありまするが、心だけは自由を付けて下さってあるがために、その心だけは借りものの肉体と異にして、心そのものが、すなわち自分ということになっているのでござります。
ゆえにわれわれは、自分の心をいずれのほうにでも自由に立て替え、どんな良いことでも悪いことでもすることができるので、そこでその心づかいがむずかしいのであります。
人間というものは、自分さえ都合よければよい、他人はどんなに困っていてもかまわぬなど、自分勝手の了見をのみ、出すことになりますが、これすなわち、ほしい、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、八つのほこりによるのであります。
八つのほこりと本来の誠とは、あたかも仇敵のごとく、八つのほこりがはびこれば、本来の誠は光をくらまし、本来の誠が強ければ、八つのほこりは自ら治まるというありさまにて、詮ずるところ、八つのほこりさえ起こらなければ、罪悪禍害の生ずる原因はないのであります。」
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 18 Jul 2025 09:30:06 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>「にをいがけ」ってこういう事！？</title>
        <description><![CDATA[「にをいがけ」ってこういう事！？
 兵庫県在住　　旭　和世

次女が小学一年生になった頃、学校の運動場にあるウンテイが上手になりました。嬉しくて毎日毎日休み時間になると練習をしていたようで、家に帰ってくると、「ママ～手にマメができた～」と嬉しそうに話します。私は、「わ～、そんなマメができるまで練習するなんてすごいね！」と親子で喜んでいました。
数日後、朝の登校時間になってランドセルを背負う時、娘が「腕が痛い…」と言いました。私は筋肉痛だろうと思い、「腕を使い過ぎたんだわ。日にち薬だから大丈夫！ いってらっしゃい！」と、不安そうな娘を見送りました。
そしてその日の夕方、娘は学校から帰ってくると、玄関に入るなりランドセルを下ろし、へたり込んでしまったのです。私があわてて駆け寄ると、とてもしんどそうな顔をしていて、額をさわると熱があります。驚いて、とにかくおさづけを取り次がせてもらい、娘を寝かしつけました。
夜になって会長である主人が御用を終えて帰ってきたので、事情を説明すると、すぐにおさづけを取り次いでくれました。
主人が娘に「大丈夫？しんどい？」と声をかけると、「痛い…」と言います。「どこが痛いの？」と聞き返すと、「手が痛い」とのことで、主人がふと見ると、手がグローブのようにパンパンに腫れていたのです。それを見て、これはただ事ではない！となり、急ぎ夜間の救急病院に走りました。
救急病院では、「ここでは見切れないので、明日、大きな病院に行ってください」との事で、翌日市民病院を受診しました。診察の結果は「蜂窩織炎」という病名で、傷口などから細菌が入り、それが炎症を起こして体に回ると重症化する可能性がある、とても怖い感染症だという事を知らされました。
抗生剤の点滴を24時間投与する必要があると言われ、あわてて入院することに。まさか、ウンテイのマメからこんな事態になるなんて思ってもみませんでした。私は気づいてあげられなかったことを後悔し、「本当にごめんね」と娘に謝り、しばらくの入院生活が始まりました。
点滴を開始し、数日間は安静にしていましたが、熱も下がり、腕の腫れも良くなると、すっかり元気になって、そのうち娘は「小児病棟のプレイルームで遊びたい！」と言うほど回復しました。
子供にとれば、ずっと病室にいるのは退屈です。「そうだね！遊びに行こう！」と、二人でプレイルームに行きました。そこにはすでに先客が何人かいて、みんな思い思いに遊んでいます。その中の一人のお母さんと挨拶を交わして中に入り、次女は嬉しそうに遊び始めました。
私はひとしきり遊ぶ我が子を見守っていましたが、ふと、さっきのお母さんが目に留まりました。まるでこの病棟の子供たちをみんな知っているかのように、来る子一人ひとりに声をかけ、色々とお話をしているのです。
このプレイルームの保育士さんかな？ いやいや、そんな感じでもない。きっと長い間入院されていて、いろんな子と知り合いになったのかな？ぐらいに思っていました。
そして翌朝、中庭でラジオ体操をするというのでデッキに行くと、またそのお母さんがよその子に声をかけ、面倒を見ている姿がありました。
「わ～すごいな。なんかすごくあったかくて、お道の人みたいに親切なお母さんだな～」と思っていました。
その後、しばらく娘の付き添いを義理の妹に任せ、その後、主人が交代して付き添ってくれていました。すると、しばらくして主人から電話が入りました。
「あのさ～、さっきプレイルームにさやかを連れて行ったら、知らないお母さんが『あら～さやかちゃ～ん！』って話しかけてくれて、うちの子のボサボサの髪の毛を見て気の毒に思ったのか、『髪の毛くくってあげよ～』って言って綺麗に結んでくれてさ～。えらい面倒見のいい方なんやな～と思ってたんだけど、そのお母さんと話してるうちに、同じ市内にある教会の奥さんだってことが分かったんよ！ しかも僕の知り合いのお姉さんでさ～、本当にびっくりしたわ～」と、主人は驚いています。
私はその話を聞いて、ビックリしたのはもちろんですが、「やっぱり！あのにをいは、お道のにをいだったんだ！やっぱり教会の奥さんだったんだ！！」と、むしろすごく納得したのです。
そのお母さんは息子さんが大けがをして、緊急で手術をし、ご守護頂きつつあるという事でした。そんな大変な事が起こっているとは思えないほど、とても明るく前向きなお道の女性だったのです。私は本当に感動して、このお母さんに私自身がお道のにをいをかけてもらったな～と思っていました。

「人の子も我子もおなしこゝろもて　おふしたてゝよこのみちの人」

という初代真柱様のお言葉があります。これは、天理養徳院という児童養護施設が設立された時のお言葉です。
「人の子も我が子も、どうか同じ心をもって隔てなく育ててほしい。この道を歩む人々よ」
実に、お道のあたたかい「にをい」がいっぱい詰まったお言葉です。このお母さんは、まさにこのお言葉通りの人だと思いました。そして、そんな素敵な方に巡り合わせて頂けた事を、私は神様に感謝しました。
その後、娘もその息子さんも神様のあざやかなご守護を頂き、元気に退院することが出来ました。それ以来、そのお母さんとなかなか会うチャンスはありませんでしたが、数年経って、お互いの教会が「こども食堂」を開催しているという共通点から、再会することが出来ました。今ではたびたび会う機会があり、いつも本当に元気をもらっています
あの日、娘が蜂窩織炎になっていなければ、こんな風に出逢う事もなかった私たちですが、きっと親神様が「お道のにをいがけというのはこういう事なんだよ」と、私に教えて下さったんだと思います。この出逢いは私にとって、大きなプレゼントになりました。
「人の子も我が子も同じ心をもって…」これは私の永遠のテーマです。教会の御用の時はもちろんの事、こども食堂を開催している時も、いつもこの気持ちを持っていたいと思います。
『教祖伝逸話篇』には、教祖が大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、丁寧な言葉をお使いになったお話が数多く残されています。
　教祖の分け隔てない、慈悲深いお心に少しでも近づき、あのお母さんから感じたようなお道のあたたかいぬくもりと「にをい」を、醸し出していけたらなあと思っています。



ひとことの言葉

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、ある日、飯降よしゑさんに、こうお聞かせくださいました。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」（教祖伝逸話篇112「一に愛想」）
日常のちょっとしたことであっても、何事にも「はい」と明るい返事をする。そして「愛想」と言われるように、ただ返事をするだけでなく、顔の表情や身のこなしなど、全身から素直さがにじみ出るような姿が大切でありましょう。
教祖は、別のお言葉においても、
「愛想の理が無けりゃ曇る。曇れば錆る」(M27・7・30)
とお諭しくださいます。一つの「はい」という返事にも心を込め、また、ちょっとした言葉づかいや態度の違いにも目を向けると、世界が違って見え始め、新たな扉が開かれてゆくのです。
教祖が教えられた「みかぐらうた」に、「ひとことはなしハひのきしん」（七下り目 一ッ）とあります。「ひのきしん」とは、神様への感謝を表すご恩報じの行いを指しますが、つまり私たちが発するひとことの言葉が、神様を介してどれほどの大きな意味を持つかもしれない、ということを表しているようにも悟れます。
こんな逸話が残されています。
小西定吉さんは、不治と宣告された胸の病を、教祖にすっきりたすけて頂きました。また、同じ頃、お産の重いほうであった妻のイエさんも、楽々と安産させて頂きました。
お屋敷へお礼に参った定吉さんが、教祖に、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。
そこで、「どうしたら、人さんが救かりますか」と再びお尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せ下さいました。（教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」）
自らたすかったことを、自らの言葉で伝えることこそ、神様への大きなご恩報じ、「ひのきしん」となるのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>「にをいがけ」ってこういう事！？
 兵庫県在住　　旭　和世

次女が小学一年生になった頃、学校の運動場にあるウンテイが上手になりました。嬉しくて毎日毎日休み時間になると練習をしていたようで、家に帰ってくると、「ママ～手にマメができた～」と嬉しそうに話します。私は、「わ～、そんなマメができるまで練習するなんてすごいね！」と親子で喜んでいました。
数日後、朝の登校時間になってランドセルを背負う時、娘が「腕が痛い…」と言いました。私は筋肉痛だろうと思い、「腕を使い過ぎたんだわ。日にち薬だから大丈夫！ いってらっしゃい！」と、不安そうな娘を見送りました。
そしてその日の夕方、娘は学校から帰ってくると、玄関に入るなりランドセルを下ろし、へたり込んでしまったのです。私があわてて駆け寄ると、とてもしんどそうな顔をしていて、額をさわると熱があります。驚いて、とにかくおさづけを取り次がせてもらい、娘を寝かしつけました。
夜になって会長である主人が御用を終えて帰ってきたので、事情を説明すると、すぐにおさづけを取り次いでくれました。
主人が娘に「大丈夫？しんどい？」と声をかけると、「痛い…」と言います。「どこが痛いの？」と聞き返すと、「手が痛い」とのことで、主人がふと見ると、手がグローブのようにパンパンに腫れていたのです。それを見て、これはただ事ではない！となり、急ぎ夜間の救急病院に走りました。
救急病院では、「ここでは見切れないので、明日、大きな病院に行ってください」との事で、翌日市民病院を受診しました。診察の結果は「蜂窩織炎」という病名で、傷口などから細菌が入り、それが炎症を起こして体に回ると重症化する可能性がある、とても怖い感染症だという事を知らされました。
抗生剤の点滴を24時間投与する必要があると言われ、あわてて入院することに。まさか、ウンテイのマメからこんな事態になるなんて思ってもみませんでした。私は気づいてあげられなかったことを後悔し、「本当にごめんね」と娘に謝り、しばらくの入院生活が始まりました。
点滴を開始し、数日間は安静にしていましたが、熱も下がり、腕の腫れも良くなると、すっかり元気になって、そのうち娘は「小児病棟のプレイルームで遊びたい！」と言うほど回復しました。
子供にとれば、ずっと病室にいるのは退屈です。「そうだね！遊びに行こう！」と、二人でプレイルームに行きました。そこにはすでに先客が何人かいて、みんな思い思いに遊んでいます。その中の一人のお母さんと挨拶を交わして中に入り、次女は嬉しそうに遊び始めました。
私はひとしきり遊ぶ我が子を見守っていましたが、ふと、さっきのお母さんが目に留まりました。まるでこの病棟の子供たちをみんな知っているかのように、来る子一人ひとりに声をかけ、色々とお話をしているのです。
このプレイルームの保育士さんかな？ いやいや、そんな感じでもない。きっと長い間入院されていて、いろんな子と知り合いになったのかな？ぐらいに思っていました。
そして翌朝、中庭でラジオ体操をするというのでデッキに行くと、またそのお母さんがよその子に声をかけ、面倒を見ている姿がありました。
「わ～すごいな。なんかすごくあったかくて、お道の人みたいに親切なお母さんだな～」と思っていました。
その後、しばらく娘の付き添いを義理の妹に任せ、その後、主人が交代して付き添ってくれていました。すると、しばらくして主人から電話が入りました。
「あのさ～、さっきプレイルームにさやかを連れて行ったら、知らないお母さんが『あら～さやかちゃ～ん！』って話しかけてくれて、うちの子のボサボサの髪の毛を見て気の毒に思ったのか、『髪の毛くくってあげよ～』って言って綺麗に結んでくれてさ～。えらい面倒見のいい方なんやな～と思ってたんだけど、そのお母さんと話してるうちに、同じ市内にある教会の奥さんだってことが分かったんよ！ しかも僕の知り合いのお姉さんでさ～、本当にびっくりしたわ～」と、主人は驚いています。
私はその話を聞いて、ビックリしたのはもちろんですが、「やっぱり！あのにをいは、お道のにをいだったんだ！やっぱり教会の奥さんだったんだ！！」と、むしろすごく納得したのです。
そのお母さんは息子さんが大けがをして、緊急で手術をし、ご守護頂きつつあるという事でした。そんな大変な事が起こっているとは思えないほど、とても明るく前向きなお道の女性だったのです。私は本当に感動して、このお母さんに私自身がお道のにをいをかけてもらったな～と思っていました。

「人の子も我子もおなしこゝろもて　おふしたてゝよこのみちの人」

という初代真柱様のお言葉があります。これは、天理養徳院という児童養護施設が設立された時のお言葉です。
「人の子も我が子も、どうか同じ心をもって隔てなく育ててほしい。この道を歩む人々よ」
実に、お道のあたたかい「にをい」がいっぱい詰まったお言葉です。このお母さんは、まさにこのお言葉通りの人だと思いました。そして、そんな素敵な方に巡り合わせて頂けた事を、私は神様に感謝しました。
その後、娘もその息子さんも神様のあざやかなご守護を頂き、元気に退院することが出来ました。それ以来、そのお母さんとなかなか会うチャンスはありませんでしたが、数年経って、お互いの教会が「こども食堂」を開催しているという共通点から、再会することが出来ました。今ではたびたび会う機会があり、いつも本当に元気をもらっています
あの日、娘が蜂窩織炎になっていなければ、こんな風に出逢う事もなかった私たちですが、きっと親神様が「お道のにをいがけというのはこういう事なんだよ」と、私に教えて下さったんだと思います。この出逢いは私にとって、大きなプレゼントになりました。
「人の子も我が子も同じ心をもって…」これは私の永遠のテーマです。教会の御用の時はもちろんの事、こども食堂を開催している時も、いつもこの気持ちを持っていたいと思います。
『教祖伝逸話篇』には、教祖が大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、丁寧な言葉をお使いになったお話が数多く残されています。
　教祖の分け隔てない、慈悲深いお心に少しでも近づき、あのお母さんから感じたようなお道のあたたかいぬくもりと「にをい」を、醸し出していけたらなあと思っています。



ひとことの言葉

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、ある日、飯降よしゑさんに、こうお聞かせくださいました。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」（教祖伝逸話篇112「一に愛想」）
日常のちょっとしたことであっても、何事にも「はい」と明るい返事をする。そして「愛想」と言われるように、ただ返事をするだけでなく、顔の表情や身のこなしなど、全身から素直さがにじみ出るような姿が大切でありましょう。
教祖は、別のお言葉においても、
「愛想の理が無けりゃ曇る。曇れば錆る」(M27・7・30)
とお諭しくださいます。一つの「はい」という返事にも心を込め、また、ちょっとした言葉づかいや態度の違いにも目を向けると、世界が違って見え始め、新たな扉が開かれてゆくのです。
教祖が教えられた「みかぐらうた」に、「ひとことはなしハひのきしん」（七下り目 一ッ）とあります。「ひのきしん」とは、神様への感謝を表すご恩報じの行いを指しますが、つまり私たちが発するひとことの言葉が、神様を介してどれほどの大きな意味を持つかもしれない、ということを表しているようにも悟れます。
こんな逸話が残されています。
小西定吉さんは、不治と宣告された胸の病を、教祖にすっきりたすけて頂きました。また、同じ頃、お産の重いほうであった妻のイエさんも、楽々と安産させて頂きました。
お屋敷へお礼に参った定吉さんが、教祖に、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。
そこで、「どうしたら、人さんが救かりますか」と再びお尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せ下さいました。（教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」）
自らたすかったことを、自らの言葉で伝えることこそ、神様への大きなご恩報じ、「ひのきしん」となるのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>「にをいがけ」ってこういう事！？
 兵庫県在住　　旭　和世

次女が小学一年生になった頃、学校の運動場にあるウンテイが上手になりました。嬉しくて毎日毎日休み時間になると練習をしていたようで、家に帰ってくると、「ママ～手にマメができた～」と嬉しそうに話します。私は、「わ～、そんなマメができるまで練習するなんてすごいね！」と親子で喜んでいました。
数日後、朝の登校時間になってランドセルを背負う時、娘が「腕が痛い…」と言いました。私は筋肉痛だろうと思い、「腕を使い過ぎたんだわ。日にち薬だから大丈夫！ いってらっしゃい！」と、不安そうな娘を見送りました。
そしてその日の夕方、娘は学校から帰ってくると、玄関に入るなりランドセルを下ろし、へたり込んでしまったのです。私があわてて駆け寄ると、とてもしんどそうな顔をしていて、額をさわると熱があります。驚いて、とにかくおさづけを取り次がせてもらい、娘を寝かしつけました。
夜になって会長である主人が御用を終えて帰ってきたので、事情を説明すると、すぐにおさづけを取り次いでくれました。
主人が娘に「大丈夫？しんどい？」と声をかけると、「痛い…」と言います。「どこが痛いの？」と聞き返すと、「手が痛い」とのことで、主人がふと見ると、手がグローブのようにパンパンに腫れていたのです。それを見て、これはただ事ではない！となり、急ぎ夜間の救急病院に走りました。
救急病院では、「ここでは見切れないので、明日、大きな病院に行ってください」との事で、翌日市民病院を受診しました。診察の結果は「蜂窩織炎」という病名で、傷口などから細菌が入り、それが炎症を起こして体に回ると重症化する可能性がある、とても怖い感染症だという事を知らされました。
抗生剤の点滴を24時間投与する必要があると言われ、あわてて入院することに。まさか、ウンテイのマメからこんな事態になるなんて思ってもみませんでした。私は気づいてあげられなかったことを後悔し、「本当にごめんね」と娘に謝り、しばらくの入院生活が始まりました。
点滴を開始し、数日間は安静にしていましたが、熱も下がり、腕の腫れも良くなると、すっかり元気になって、そのうち娘は「小児病棟のプレイルームで遊びたい！」と言うほど回復しました。
子供にとれば、ずっと病室にいるのは退屈です。「そうだね！遊びに行こう！」と、二人でプレイルームに行きました。そこにはすでに先客が何人かいて、みんな思い思いに遊んでいます。その中の一人のお母さんと挨拶を交わして中に入り、次女は嬉しそうに遊び始めました。
私はひとしきり遊ぶ我が子を見守っていましたが、ふと、さっきのお母さんが目に留まりました。まるでこの病棟の子供たちをみんな知っているかのように、来る子一人ひとりに声をかけ、色々とお話をしているのです。
このプレイルームの保育士さんかな？ いやいや、そんな感じでもない。きっと長い間入院されていて、いろんな子と知り合いになったのかな？ぐらいに思っていました。
そして翌朝、中庭でラジオ体操をするというのでデッキに行くと、またそのお母さんがよその子に声をかけ、面倒を見ている姿がありました。
「わ～すごいな。なんかすごくあったかくて、お道の人みたいに親切なお母さんだな～」と思っていました。
その後、しばらく娘の付き添いを義理の妹に任せ、その後、主人が交代して付き添ってくれていました。すると、しばらくして主人から電話が入りました。
「あのさ～、さっきプレイルームにさやかを連れて行ったら、知らないお母さんが『あら～さやかちゃ～ん！』って話しかけてくれて、うちの子のボサボサの髪の毛を見て気の毒に思ったのか、『髪の毛くくってあげよ～』って言って綺麗に結んでくれてさ～。えらい面倒見のいい方なんやな～と思ってたんだけど、そのお母さんと話してるうちに、同じ市内にある教会の奥さんだってことが分かったんよ！ しかも僕の知り合いのお姉さんでさ～、本当にびっくりしたわ～」と、主人は驚いています。
私はその話を聞いて、ビックリしたのはもちろんですが、「やっぱり！あのにをいは、お道のにをいだったんだ！やっぱり教会の奥さんだったんだ！！」と、むしろすごく納得したのです。
そのお母さんは息子さんが大けがをして、緊急で手術をし、ご守護頂きつつあるという事でした。そんな大変な事が起こっているとは思えないほど、とても明るく前向きなお道の女性だったのです。私は本当に感動して、このお母さんに私自身がお道のにをいをかけてもらったな～と思っていました。

「人の子も我子もおなしこゝろもて　おふしたてゝよこのみちの人」

という初代真柱様のお言葉があります。これは、天理養徳院という児童養護施設が設立された時のお言葉です。
「人の子も我が子も、どうか同じ心をもって隔てなく育ててほしい。この道を歩む人々よ」
実に、お道のあたたかい「にをい」がいっぱい詰まったお言葉です。このお母さんは、まさにこのお言葉通りの人だと思いました。そして、そんな素敵な方に巡り合わせて頂けた事を、私は神様に感謝しました。
その後、娘もその息子さんも神様のあざやかなご守護を頂き、元気に退院することが出来ました。それ以来、そのお母さんとなかなか会うチャンスはありませんでしたが、数年経って、お互いの教会が「こども食堂」を開催しているという共通点から、再会することが出来ました。今ではたびたび会う機会があり、いつも本当に元気をもらっています
あの日、娘が蜂窩織炎になっていなければ、こんな風に出逢う事もなかった私たちですが、きっと親神様が「お道のにをいがけというのはこういう事なんだよ」と、私に教えて下さったんだと思います。この出逢いは私にとって、大きなプレゼントになりました。
「人の子も我が子も同じ心をもって…」これは私の永遠のテーマです。教会の御用の時はもちろんの事、こども食堂を開催している時も、いつもこの気持ちを持っていたいと思います。
『教祖伝逸話篇』には、教祖が大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、丁寧な言葉をお使いになったお話が数多く残されています。
　教祖の分け隔てない、慈悲深いお心に少しでも近づき、あのお母さんから感じたようなお道のあたたかいぬくもりと「にをい」を、醸し出していけたらなあと思っています。



ひとことの言葉

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、ある日、飯降よしゑさんに、こうお聞かせくださいました。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」（教祖伝逸話篇112「一に愛想」）
日常のちょっとしたことであっても、何事にも「はい」と明るい返事をする。そして「愛想」と言われるように、ただ返事をするだけでなく、顔の表情や身のこなしなど、全身から素直さがにじみ出るような姿が大切でありましょう。
教祖は、別のお言葉においても、
「愛想の理が無けりゃ曇る。曇れば錆る」(M27・7・30)
とお諭しくださいます。一つの「はい」という返事にも心を込め、また、ちょっとした言葉づかいや態度の違いにも目を向けると、世界が違って見え始め、新たな扉が開かれてゆくのです。
教祖が教えられた「みかぐらうた」に、「ひとことはなしハひのきしん」（七下り目 一ッ）とあります。「ひのきしん」とは、神様への感謝を表すご恩報じの行いを指しますが、つまり私たちが発するひとことの言葉が、神様を介してどれほどの大きな意味を持つかもしれない、ということを表しているようにも悟れます。
こんな逸話が残されています。
小西定吉さんは、不治と宣告された胸の病を、教祖にすっきりたすけて頂きました。また、同じ頃、お産の重いほうであった妻のイエさんも、楽々と安産させて頂きました。
お屋敷へお礼に参った定吉さんが、教祖に、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。
そこで、「どうしたら、人さんが救かりますか」と再びお尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せ下さいました。（教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」）
自らたすかったことを、自らの言葉で伝えることこそ、神様への大きなご恩報じ、「ひのきしん」となるのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 11 Jul 2025 11:22:30 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>まことの人</title>
        <description><![CDATA[まことの人
助産師　　目黒　和加子

数年前、ラジオ天理教の時間に『テールランプを追いかけて』というタイトルで原稿を書きました。リスナーの皆さん、覚えておられるでしょうか。
その内容は私が４歳の時、父が事業に失敗し多額の借金を残して蒸発。その辛い経験を子供の視点で書いたものです。放送後、「そのあと、お母さんはどうされたのですか。お元気でしょうか」と母を心配してくださる声を沢山いただきました。今回は、母のその後の生きざまを書いてみます。
失踪してから７年後、私が小学５年生の時に父の居場所がわかりました。家庭裁判所の調停で離婚が成立し、私と弟が二十歳になるまで毎月養育費を送る約束でした。
しかし、送られてきたのは半年ぐらいでしょうか。しかも中身は五百円札が一枚とか、百円札が三枚とか、小さな子供にあげるおこづかいのような金額でした。現金書留の封筒を手に、悲しい顔でため息をつく母。そのうち途切れ途切れとなり、やがて届かなくなりました。
この頃から、母の中で何かが吹っ切れたのでしょうか。進んで人様のお世話をするようになり、子供の目から見ても変わっていくのがわかりました。
母は隣町の総合病院に看護師として勤めていたのですが、事情のある若い看護師さんや看護学生さんを抱えるようにお世話を始めたのです。
数年間、一緒に住んだ看護師さんも二人います。二人ともうちからお嫁に行き、うちで里帰り分娩しました。職場では救急外来と手術室の主任を兼任し、周囲から頼られる存在になっていったのです。
母が48歳の時、同じ病院で勤務するK先生が病院を開業することになり、総師長として来てもらいたいと引き抜きの声がかかります。悩んだ末に看護部門のトップである総師長として新たなキャリアをスタートさせました。
母がまず取り組んだのは、子供を持つ看護師や看護助手が働きやすい環境づくりです。病院内に24時間託児所や病児保育室を設置。その結果、離職するスタッフが減り、子育てと仕事が両立できる職場として地域に知られるようになりました。
また、その当時まだ珍しかった訪問看護ステーションを立ち上げ、自ら所長を兼務。地域医療の担い手として看護師を育てました。
そして、持ち前の粘り強さで周囲のスタッフを巻き込み、厚生労働省の定める看護基準の最高ランク「特A」の取得に多大な貢献をしたのです。当時、民間の中小病院では「特A」の取得が難しかった時代、周囲の同業者を驚かせました。
母は74歳で退職するまで25年間、総師長を務めました。長きにわたり続けてこられたのは、ゼロから立ち上げた管理職としての功績よりも、母の人柄によるものだと私は思います。
情に厚く、困っている人をほっておけない母。俗に言うガラの悪い地域にある病院なので、ヤクザの奥さんや刑務所から出てきた人など、びっくりする背景を抱えたスタッフもいたようです。嘘をつかれ、裏切られることもしばしば。それでも人を信じ、温かい情を貫いた母らしいエピソードを一つ紹介します。
木枯らし舞う二月の真冬日。看護助手の求人に応募してきた「橋本美加」と名乗る35歳の女性を面接しました。５歳の男の子を育てるシングルマザーで、埼玉から大阪に引っ越してきたばかりだと言います。身なりからは生活に困っている様子が漂い、深い事情がありそうです。
面接が終わると「子供を家に置いておけなくて、病院の玄関先で待たせています」と言うのです。その子は自動扉の向こうで寒さに震えながら待っていました。お母さんを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて、ピッタリくっついています。その姿に胸打たれ、一抹の不安を感じつつパートで雇うことにしました。
母は生活用品を揃えてあげたり、患者さんから頂いたお菓子を取り置きして持って帰らせたり、何かと心にかけていました。
それから一か月後のある朝、「橋本さんが出勤してきません」と病棟主任が報告に来たのです。橋本さんの携帯電話に掛けようとした時、総師長室の電話が鳴りました。橋本さんからではなく、なんと警察からです。
「総師長の佐々木さんですか。橋本美加を本日朝、駅の改札口で逮捕しました。橋本がそちらの病院で働いているのは間違いないですか」
「逮捕？ 橋本さんはうちの職員です。何をしたというのですか？」
「詐欺容疑で逮捕状が出ています。総師長さんに連絡してほしいというので電話をしました」
「橋本さんは今どこに居るのですか？」
「署で取り調べ中です」
「子供はどこに居るのですか？」
「知りません」
「知りませんって。５歳ですよ。急に親がいなくなってその子はどうするんですか！」
「こちらに聞かれても知りません」
と、一方的に電話が切れました。
母は仕事を切り上げ、履歴書に書かれた住所に飛んで行きました。古いアパートの一室。テレビも暖房も電灯さえもない部屋に、男の子がポツンと座ってお母さんの帰りを待っています。児童相談所に連絡して事情を説明し、緊急保護を依頼しました。
「お腹すいたよね。お弁当を買ってきたから食べよう」薄暗く寒い部屋で一緒に食べました。そして、「お母さんは必ず迎えに来るから。お利口にして待ってようね」と言い聞かせ、職員に引き渡しました。
母は警察署に電話をし、「子供は児童相談所で保護してもらいました。橋本さんに、母親としてのあなたを信じています。必ず迎えに行くようにと伝えてください」そう話したそうです。
母は順調に年を重ね、今年86歳になります。体調の良いときは体操教室で身体を動かし、弟夫婦に車であちこち連れていってもらってのんびり暮らしています。
母の人生を貫くのは、おたすけの精神です。相手を想い、出来ることを精一杯させてもらう。そのぶれない強さと温かさは、教祖の手をしかと握っているからなのでしょう。
母のような人を「まことの人」と言うのだと私は思います。



だけど有難い「お願いの仕方」

川中島の戦いをご存じでしょうか。戦国時代、現在の長野市郊外にある川中島を舞台に、戦国武将の武田信玄と上杉謙信の間で繰り広げられた戦のことです。当時の暦でいえば、永禄四年八月十五日、上杉謙信が兵を率いて川中島に陣を布きました。それを知った武田信玄は、十六日に出陣して、二十四日に川中島に着陣します。双方にらみ合いが続いたあと、有名な「鞭声粛々夜河を渡る」と漢詩に詠まれた決戦は、九月九日と十日に行われたということです。
私は講釈師ではありませんから、いまから合戦について長々と語るつもりはありません。なぜ、川中島の話をするかというと、このとき決戦を前にした武田信玄と上杉謙信は、それぞれ神仏にお願いをしていて、その願文（がんもん）が残っているのです。
上杉謙信は、「戦の神様」と称えられるくらい、戦上手だったといわれます。どんなお願いの仕方をしているのかというと、「義があるのは自分である。だから神仏は自分に味方せよ」。つまり、自分のほうが正しい。だから自分を応援するべきだという内容が願文に記されています。
武田信玄はどうかというと、「もし勝たせてくれたなら、斯く斯く然々のことをさせてもらう」と、こういう願い方をしているのです。
今日、私たちが神様にお願いをする仕方からすれば、二人ともあまり良い願い方とは言えませんね。特に上杉謙信のような願い方をする人は、ほとんどいないでしょう。よほどの自信家でないと、こうはいきません。たとえば、病気や事情で悩み苦しんでいる人が、「自分は決して悪くない。今日まで人に迷惑をかけた覚えはない。なぜ自分が病気になるのか」などと言い立てて、「だから、たすけろ」と言うのと同じです。
しかし、武田信玄のような考え方をすることは、私たちもあるのではないでしょうか。「たすけてくれたら、修養科へ行きます」「ご守護くださったら、別席を運びます」「たすけてくれるなら、お供えをさせてもらいます」。これらは一見、心定めに似ていますが、実は取り引きなのです。
病院で手術を受けるときに、「成功したら、お金を払います」というようなことは言わないでしょう。成功しようが失敗しようが、手術代は払わなければならないのです。注射を打ってもらったら、注射代を払うのです。成功報酬のようなものを病院は認めてくれません。当たり前のことですよね。
私たちが神様にお願いする場合も、決心することが大事です。「たすかったら、こうさせてもらいます」というのは決心ではありませんね。ここを間違わないようにしないといけません。
『稿本天理教教祖伝』に、清水ゆきという人が、をびや許しを戴く話があります。教祖のお子さんであるおはるさんが、をびや許しで楽々と安産するのを見て、ゆきさんも願い出ます。そして、教祖からをびや許しを戴くのですが、毒忌みや凭れ物といった当時の風習にも同時にすがりました。こういう願い方をしたところ、大変な難産で産後も三十日ほど寝込みました。いったいどうして、こんなことになったのかと教祖にお尋ねすると、「疑いの心があったからや」とおっしゃったのです。
翌年、ゆきさんは再度妊娠し、教祖の仰せ通り、素直にをびや許しだけを頼りに過ごさせていただいたところ、楽々と安産させていただきました。産後の肥立ちも大変良かったということです。これが、素直に信じて、もたれて通るということなのです。
たすけてほしいなら、まず、親神様、教祖におすがりすることです。そしてその際には、しっかりと決心する。おたすけ人として導かせていただく側からすれば、しっかり決心していただき、自分の真実も添えて、真剣にお願いをさせていただくことが大切です。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>まことの人
助産師　　目黒　和加子

数年前、ラジオ天理教の時間に『テールランプを追いかけて』というタイトルで原稿を書きました。リスナーの皆さん、覚えておられるでしょうか。
その内容は私が４歳の時、父が事業に失敗し多額の借金を残して蒸発。その辛い経験を子供の視点で書いたものです。放送後、「そのあと、お母さんはどうされたのですか。お元気でしょうか」と母を心配してくださる声を沢山いただきました。今回は、母のその後の生きざまを書いてみます。
失踪してから７年後、私が小学５年生の時に父の居場所がわかりました。家庭裁判所の調停で離婚が成立し、私と弟が二十歳になるまで毎月養育費を送る約束でした。
しかし、送られてきたのは半年ぐらいでしょうか。しかも中身は五百円札が一枚とか、百円札が三枚とか、小さな子供にあげるおこづかいのような金額でした。現金書留の封筒を手に、悲しい顔でため息をつく母。そのうち途切れ途切れとなり、やがて届かなくなりました。
この頃から、母の中で何かが吹っ切れたのでしょうか。進んで人様のお世話をするようになり、子供の目から見ても変わっていくのがわかりました。
母は隣町の総合病院に看護師として勤めていたのですが、事情のある若い看護師さんや看護学生さんを抱えるようにお世話を始めたのです。
数年間、一緒に住んだ看護師さんも二人います。二人ともうちからお嫁に行き、うちで里帰り分娩しました。職場では救急外来と手術室の主任を兼任し、周囲から頼られる存在になっていったのです。
母が48歳の時、同じ病院で勤務するK先生が病院を開業することになり、総師長として来てもらいたいと引き抜きの声がかかります。悩んだ末に看護部門のトップである総師長として新たなキャリアをスタートさせました。
母がまず取り組んだのは、子供を持つ看護師や看護助手が働きやすい環境づくりです。病院内に24時間託児所や病児保育室を設置。その結果、離職するスタッフが減り、子育てと仕事が両立できる職場として地域に知られるようになりました。
また、その当時まだ珍しかった訪問看護ステーションを立ち上げ、自ら所長を兼務。地域医療の担い手として看護師を育てました。
そして、持ち前の粘り強さで周囲のスタッフを巻き込み、厚生労働省の定める看護基準の最高ランク「特A」の取得に多大な貢献をしたのです。当時、民間の中小病院では「特A」の取得が難しかった時代、周囲の同業者を驚かせました。
母は74歳で退職するまで25年間、総師長を務めました。長きにわたり続けてこられたのは、ゼロから立ち上げた管理職としての功績よりも、母の人柄によるものだと私は思います。
情に厚く、困っている人をほっておけない母。俗に言うガラの悪い地域にある病院なので、ヤクザの奥さんや刑務所から出てきた人など、びっくりする背景を抱えたスタッフもいたようです。嘘をつかれ、裏切られることもしばしば。それでも人を信じ、温かい情を貫いた母らしいエピソードを一つ紹介します。
木枯らし舞う二月の真冬日。看護助手の求人に応募してきた「橋本美加」と名乗る35歳の女性を面接しました。５歳の男の子を育てるシングルマザーで、埼玉から大阪に引っ越してきたばかりだと言います。身なりからは生活に困っている様子が漂い、深い事情がありそうです。
面接が終わると「子供を家に置いておけなくて、病院の玄関先で待たせています」と言うのです。その子は自動扉の向こうで寒さに震えながら待っていました。お母さんを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて、ピッタリくっついています。その姿に胸打たれ、一抹の不安を感じつつパートで雇うことにしました。
母は生活用品を揃えてあげたり、患者さんから頂いたお菓子を取り置きして持って帰らせたり、何かと心にかけていました。
それから一か月後のある朝、「橋本さんが出勤してきません」と病棟主任が報告に来たのです。橋本さんの携帯電話に掛けようとした時、総師長室の電話が鳴りました。橋本さんからではなく、なんと警察からです。
「総師長の佐々木さんですか。橋本美加を本日朝、駅の改札口で逮捕しました。橋本がそちらの病院で働いているのは間違いないですか」
「逮捕？ 橋本さんはうちの職員です。何をしたというのですか？」
「詐欺容疑で逮捕状が出ています。総師長さんに連絡してほしいというので電話をしました」
「橋本さんは今どこに居るのですか？」
「署で取り調べ中です」
「子供はどこに居るのですか？」
「知りません」
「知りませんって。５歳ですよ。急に親がいなくなってその子はどうするんですか！」
「こちらに聞かれても知りません」
と、一方的に電話が切れました。
母は仕事を切り上げ、履歴書に書かれた住所に飛んで行きました。古いアパートの一室。テレビも暖房も電灯さえもない部屋に、男の子がポツンと座ってお母さんの帰りを待っています。児童相談所に連絡して事情を説明し、緊急保護を依頼しました。
「お腹すいたよね。お弁当を買ってきたから食べよう」薄暗く寒い部屋で一緒に食べました。そして、「お母さんは必ず迎えに来るから。お利口にして待ってようね」と言い聞かせ、職員に引き渡しました。
母は警察署に電話をし、「子供は児童相談所で保護してもらいました。橋本さんに、母親としてのあなたを信じています。必ず迎えに行くようにと伝えてください」そう話したそうです。
母は順調に年を重ね、今年86歳になります。体調の良いときは体操教室で身体を動かし、弟夫婦に車であちこち連れていってもらってのんびり暮らしています。
母の人生を貫くのは、おたすけの精神です。相手を想い、出来ることを精一杯させてもらう。そのぶれない強さと温かさは、教祖の手をしかと握っているからなのでしょう。
母のような人を「まことの人」と言うのだと私は思います。



だけど有難い「お願いの仕方」

川中島の戦いをご存じでしょうか。戦国時代、現在の長野市郊外にある川中島を舞台に、戦国武将の武田信玄と上杉謙信の間で繰り広げられた戦のことです。当時の暦でいえば、永禄四年八月十五日、上杉謙信が兵を率いて川中島に陣を布きました。それを知った武田信玄は、十六日に出陣して、二十四日に川中島に着陣します。双方にらみ合いが続いたあと、有名な「鞭声粛々夜河を渡る」と漢詩に詠まれた決戦は、九月九日と十日に行われたということです。
私は講釈師ではありませんから、いまから合戦について長々と語るつもりはありません。なぜ、川中島の話をするかというと、このとき決戦を前にした武田信玄と上杉謙信は、それぞれ神仏にお願いをしていて、その願文（がんもん）が残っているのです。
上杉謙信は、「戦の神様」と称えられるくらい、戦上手だったといわれます。どんなお願いの仕方をしているのかというと、「義があるのは自分である。だから神仏は自分に味方せよ」。つまり、自分のほうが正しい。だから自分を応援するべきだという内容が願文に記されています。
武田信玄はどうかというと、「もし勝たせてくれたなら、斯く斯く然々のことをさせてもらう」と、こういう願い方をしているのです。
今日、私たちが神様にお願いをする仕方からすれば、二人ともあまり良い願い方とは言えませんね。特に上杉謙信のような願い方をする人は、ほとんどいないでしょう。よほどの自信家でないと、こうはいきません。たとえば、病気や事情で悩み苦しんでいる人が、「自分は決して悪くない。今日まで人に迷惑をかけた覚えはない。なぜ自分が病気になるのか」などと言い立てて、「だから、たすけろ」と言うのと同じです。
しかし、武田信玄のような考え方をすることは、私たちもあるのではないでしょうか。「たすけてくれたら、修養科へ行きます」「ご守護くださったら、別席を運びます」「たすけてくれるなら、お供えをさせてもらいます」。これらは一見、心定めに似ていますが、実は取り引きなのです。
病院で手術を受けるときに、「成功したら、お金を払います」というようなことは言わないでしょう。成功しようが失敗しようが、手術代は払わなければならないのです。注射を打ってもらったら、注射代を払うのです。成功報酬のようなものを病院は認めてくれません。当たり前のことですよね。
私たちが神様にお願いする場合も、決心することが大事です。「たすかったら、こうさせてもらいます」というのは決心ではありませんね。ここを間違わないようにしないといけません。
『稿本天理教教祖伝』に、清水ゆきという人が、をびや許しを戴く話があります。教祖のお子さんであるおはるさんが、をびや許しで楽々と安産するのを見て、ゆきさんも願い出ます。そして、教祖からをびや許しを戴くのですが、毒忌みや凭れ物といった当時の風習にも同時にすがりました。こういう願い方をしたところ、大変な難産で産後も三十日ほど寝込みました。いったいどうして、こんなことになったのかと教祖にお尋ねすると、「疑いの心があったからや」とおっしゃったのです。
翌年、ゆきさんは再度妊娠し、教祖の仰せ通り、素直にをびや許しだけを頼りに過ごさせていただいたところ、楽々と安産させていただきました。産後の肥立ちも大変良かったということです。これが、素直に信じて、もたれて通るということなのです。
たすけてほしいなら、まず、親神様、教祖におすがりすることです。そしてその際には、しっかりと決心する。おたすけ人として導かせていただく側からすれば、しっかり決心していただき、自分の真実も添えて、真剣にお願いをさせていただくことが大切です。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>まことの人
助産師　　目黒　和加子

数年前、ラジオ天理教の時間に『テールランプを追いかけて』というタイトルで原稿を書きました。リスナーの皆さん、覚えておられるでしょうか。
その内容は私が４歳の時、父が事業に失敗し多額の借金を残して蒸発。その辛い経験を子供の視点で書いたものです。放送後、「そのあと、お母さんはどうされたのですか。お元気でしょうか」と母を心配してくださる声を沢山いただきました。今回は、母のその後の生きざまを書いてみます。
失踪してから７年後、私が小学５年生の時に父の居場所がわかりました。家庭裁判所の調停で離婚が成立し、私と弟が二十歳になるまで毎月養育費を送る約束でした。
しかし、送られてきたのは半年ぐらいでしょうか。しかも中身は五百円札が一枚とか、百円札が三枚とか、小さな子供にあげるおこづかいのような金額でした。現金書留の封筒を手に、悲しい顔でため息をつく母。そのうち途切れ途切れとなり、やがて届かなくなりました。
この頃から、母の中で何かが吹っ切れたのでしょうか。進んで人様のお世話をするようになり、子供の目から見ても変わっていくのがわかりました。
母は隣町の総合病院に看護師として勤めていたのですが、事情のある若い看護師さんや看護学生さんを抱えるようにお世話を始めたのです。
数年間、一緒に住んだ看護師さんも二人います。二人ともうちからお嫁に行き、うちで里帰り分娩しました。職場では救急外来と手術室の主任を兼任し、周囲から頼られる存在になっていったのです。
母が48歳の時、同じ病院で勤務するK先生が病院を開業することになり、総師長として来てもらいたいと引き抜きの声がかかります。悩んだ末に看護部門のトップである総師長として新たなキャリアをスタートさせました。
母がまず取り組んだのは、子供を持つ看護師や看護助手が働きやすい環境づくりです。病院内に24時間託児所や病児保育室を設置。その結果、離職するスタッフが減り、子育てと仕事が両立できる職場として地域に知られるようになりました。
また、その当時まだ珍しかった訪問看護ステーションを立ち上げ、自ら所長を兼務。地域医療の担い手として看護師を育てました。
そして、持ち前の粘り強さで周囲のスタッフを巻き込み、厚生労働省の定める看護基準の最高ランク「特A」の取得に多大な貢献をしたのです。当時、民間の中小病院では「特A」の取得が難しかった時代、周囲の同業者を驚かせました。
母は74歳で退職するまで25年間、総師長を務めました。長きにわたり続けてこられたのは、ゼロから立ち上げた管理職としての功績よりも、母の人柄によるものだと私は思います。
情に厚く、困っている人をほっておけない母。俗に言うガラの悪い地域にある病院なので、ヤクザの奥さんや刑務所から出てきた人など、びっくりする背景を抱えたスタッフもいたようです。嘘をつかれ、裏切られることもしばしば。それでも人を信じ、温かい情を貫いた母らしいエピソードを一つ紹介します。
木枯らし舞う二月の真冬日。看護助手の求人に応募してきた「橋本美加」と名乗る35歳の女性を面接しました。５歳の男の子を育てるシングルマザーで、埼玉から大阪に引っ越してきたばかりだと言います。身なりからは生活に困っている様子が漂い、深い事情がありそうです。
面接が終わると「子供を家に置いておけなくて、病院の玄関先で待たせています」と言うのです。その子は自動扉の向こうで寒さに震えながら待っていました。お母さんを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて、ピッタリくっついています。その姿に胸打たれ、一抹の不安を感じつつパートで雇うことにしました。
母は生活用品を揃えてあげたり、患者さんから頂いたお菓子を取り置きして持って帰らせたり、何かと心にかけていました。
それから一か月後のある朝、「橋本さんが出勤してきません」と病棟主任が報告に来たのです。橋本さんの携帯電話に掛けようとした時、総師長室の電話が鳴りました。橋本さんからではなく、なんと警察からです。
「総師長の佐々木さんですか。橋本美加を本日朝、駅の改札口で逮捕しました。橋本がそちらの病院で働いているのは間違いないですか」
「逮捕？ 橋本さんはうちの職員です。何をしたというのですか？」
「詐欺容疑で逮捕状が出ています。総師長さんに連絡してほしいというので電話をしました」
「橋本さんは今どこに居るのですか？」
「署で取り調べ中です」
「子供はどこに居るのですか？」
「知りません」
「知りませんって。５歳ですよ。急に親がいなくなってその子はどうするんですか！」
「こちらに聞かれても知りません」
と、一方的に電話が切れました。
母は仕事を切り上げ、履歴書に書かれた住所に飛んで行きました。古いアパートの一室。テレビも暖房も電灯さえもない部屋に、男の子がポツンと座ってお母さんの帰りを待っています。児童相談所に連絡して事情を説明し、緊急保護を依頼しました。
「お腹すいたよね。お弁当を買ってきたから食べよう」薄暗く寒い部屋で一緒に食べました。そして、「お母さんは必ず迎えに来るから。お利口にして待ってようね」と言い聞かせ、職員に引き渡しました。
母は警察署に電話をし、「子供は児童相談所で保護してもらいました。橋本さんに、母親としてのあなたを信じています。必ず迎えに行くようにと伝えてください」そう話したそうです。
母は順調に年を重ね、今年86歳になります。体調の良いときは体操教室で身体を動かし、弟夫婦に車であちこち連れていってもらってのんびり暮らしています。
母の人生を貫くのは、おたすけの精神です。相手を想い、出来ることを精一杯させてもらう。そのぶれない強さと温かさは、教祖の手をしかと握っているからなのでしょう。
母のような人を「まことの人」と言うのだと私は思います。



だけど有難い「お願いの仕方」

川中島の戦いをご存じでしょうか。戦国時代、現在の長野市郊外にある川中島を舞台に、戦国武将の武田信玄と上杉謙信の間で繰り広げられた戦のことです。当時の暦でいえば、永禄四年八月十五日、上杉謙信が兵を率いて川中島に陣を布きました。それを知った武田信玄は、十六日に出陣して、二十四日に川中島に着陣します。双方にらみ合いが続いたあと、有名な「鞭声粛々夜河を渡る」と漢詩に詠まれた決戦は、九月九日と十日に行われたということです。
私は講釈師ではありませんから、いまから合戦について長々と語るつもりはありません。なぜ、川中島の話をするかというと、このとき決戦を前にした武田信玄と上杉謙信は、それぞれ神仏にお願いをしていて、その願文（がんもん）が残っているのです。
上杉謙信は、「戦の神様」と称えられるくらい、戦上手だったといわれます。どんなお願いの仕方をしているのかというと、「義があるのは自分である。だから神仏は自分に味方せよ」。つまり、自分のほうが正しい。だから自分を応援するべきだという内容が願文に記されています。
武田信玄はどうかというと、「もし勝たせてくれたなら、斯く斯く然々のことをさせてもらう」と、こういう願い方をしているのです。
今日、私たちが神様にお願いをする仕方からすれば、二人ともあまり良い願い方とは言えませんね。特に上杉謙信のような願い方をする人は、ほとんどいないでしょう。よほどの自信家でないと、こうはいきません。たとえば、病気や事情で悩み苦しんでいる人が、「自分は決して悪くない。今日まで人に迷惑をかけた覚えはない。なぜ自分が病気になるのか」などと言い立てて、「だから、たすけろ」と言うのと同じです。
しかし、武田信玄のような考え方をすることは、私たちもあるのではないでしょうか。「たすけてくれたら、修養科へ行きます」「ご守護くださったら、別席を運びます」「たすけてくれるなら、お供えをさせてもらいます」。これらは一見、心定めに似ていますが、実は取り引きなのです。
病院で手術を受けるときに、「成功したら、お金を払います」というようなことは言わないでしょう。成功しようが失敗しようが、手術代は払わなければならないのです。注射を打ってもらったら、注射代を払うのです。成功報酬のようなものを病院は認めてくれません。当たり前のことですよね。
私たちが神様にお願いする場合も、決心することが大事です。「たすかったら、こうさせてもらいます」というのは決心ではありませんね。ここを間違わないようにしないといけません。
『稿本天理教教祖伝』に、清水ゆきという人が、をびや許しを戴く話があります。教祖のお子さんであるおはるさんが、をびや許しで楽々と安産するのを見て、ゆきさんも願い出ます。そして、教祖からをびや許しを戴くのですが、毒忌みや凭れ物といった当時の風習にも同時にすがりました。こういう願い方をしたところ、大変な難産で産後も三十日ほど寝込みました。いったいどうして、こんなことになったのかと教祖にお尋ねすると、「疑いの心があったからや」とおっしゃったのです。
翌年、ゆきさんは再度妊娠し、教祖の仰せ通り、素直にをびや許しだけを頼りに過ごさせていただいたところ、楽々と安産させていただきました。産後の肥立ちも大変良かったということです。これが、素直に信じて、もたれて通るということなのです。
たすけてほしいなら、まず、親神様、教祖におすがりすることです。そしてその際には、しっかりと決心する。おたすけ人として導かせていただく側からすれば、しっかり決心していただき、自分の真実も添えて、真剣にお願いをさせていただくことが大切です。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 04 Jul 2025 09:25:27 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>世界一れつ皆きょうだい</title>
        <description><![CDATA[世界一れつ皆きょうだい
フランス在住　　長谷川 善久

一般的に西洋人は個人主義だと語られることがありますが、そんなイメージとは違う統計数値を見つけました。それはボランティア活動をしている人の割合です。
年に一回以上参加した人の数ですが、日本人は五人に一人にも満たない割合で、２0代、３０代に限って言えば約15％、フランスは約30％なので、二倍もの差が生まれているのです。世界で評されてきた日本人の美徳の一つ、相互扶助の精神はもはや昔のものとなっているのかも知れません。
フランスにあるヨーロッパ出張所では、毎年５月に「チャリティーバザー」を開催しています。開催時間は午後の４時間のみと短いのですが、700名以上が出張所を訪れ、無料で提供された物品や軽食販売、指圧や散髪などによる収益金は、全額慈善団体へ寄付をすることになっています。
30年ほど前の開始当初は信者のみで運営していましたが、最近では未信者さん方の「ボランティア」が増えており、全体の３，４割を占めるようになってきました。未信者さんのスタッフの多くは、天理教が運営する文化交流団体「天理日仏文化協会」の会員さんです。
信者、未信者を問わずスタッフの国籍も職業も年齢も多種多様です。日本人、フランス人はもちろんのこと、アフリカ人や南米人などもいます。また医師や弁護士、芸人、学生がいるかと思えば、年齢も上は80代から下は10歳ぐらいと、祖父母と孫のような三世代にわたる年齢層の方々がいます。
開催当日、来場者一人ひとりに次のおふでさきの一首を記したビラを配っています。

　　このよふを初た神の事ならば　　せかい一れつみなわがこなり　（四62）

肌の色や言葉の違い、宗教の違いも問わず、老いも若きも共に一手一つになり、困っている人のために我を忘れて尽くす姿が出張所で実現出来ていることに、教祖も喜んで下さっているに違いないと確信しています。
チャリティーバザーと言えど、出張所としては、物を売り、寄付金を集めることで満足するべきではありません。ただ単純に安価な商品販売をすることで、結果的に来場者の物欲を増長するような場にはしないことを申し合わせています。
ある時のバザーでは、いかにも手癖の悪そうな若者が人目を避けるように入場してきました。数分もすると彼が入った売り場の未信者スタッフから私に連絡があり、「所長、万引きしそうな若者が来たので見張りに来てください」と言われました。当然、直ぐに駆け付けましたが、私が彼を見張った理由は、万引きを防ぐためではなく、彼の心の中で物欲が強くなるのを防ぐこと、「よく」の心を起こさせないように祈ることでした。
このチャリティーバザーの真の目的は、あくまでもボランティアや来場者を含めた関係者全ての人が、親神様のお膝元で、他者の救けにつながる行いをし、それによる他者とのつながりを通して、現代のストレスにまみれた心の皺を伸ばしてもらう場にすることだと思っています。
そのためにも、私たちが醸し出す雰囲気で、「世界一れつ皆きょうだいの精神」を感じてもらうことを目指すのが、必要不可欠な心構えだと、信者スタッフにはいつも伝えています。
なればこそ、来場者が何も購入しなくても、人とのつながりが楽しめるようなアイディアも取り入れています。天理日仏文化協会で公演をして下さった方々によるコンサートや演劇、パントマイムなどがそれで、私たちの真の目的を果たすための大きな役割を担ってくれています。
これら無料の文化プログラムがあるお蔭で、より多くの人が出張所の芝生の上で家族揃ってピクニックをするようになったのです。人種、宗教が違えど、偶然隣り合った人と一緒に美しい音楽に聞き惚れ、面白い演劇を見ながら笑い合うきっかけを、これら文化プログラムはもたらしてくれるのです。
そして、私たちがおぢばで迎えられた時に感じるような、スタッフの笑顔とゆったりとした優しい雰囲気の中で、心と心のつながりが生まれやすい環境を提供してくれています。
ある時、レジで黒人の女性が大声を出してスタッフと言い合いをしていたことがありました。しばらくは、その若いスタッフがどのように話を治めるかを見ていましたが、やがて罵り合いが始まってしまいました。
そこで私が介入して話を聞いてみると、女性曰く、あるスタッフにお願いして取り置きしてもらっていた支払い前の商品が無くなっているというのです。
しかし、レジの担当者はその話に全く聞く耳を持たなかったのです。実際、スタッフにはお客さんからは何も預からないという取り決めがなされていたので、支払い前の商品を預かったなどあり得ないことで、スタッフにしてみれば、単なる強欲な女性の戯言としか聞こえなかったのです。そして、そのようなスタッフの態度が彼女の気持ちを逆なでしていたのです。
私はまず、その女性の言い分を全部聞いた上で、不愉快な気持ちにさせてしまったことをひと言お詫びしました。それから、このバザーはスタッフも商品も、すべては他者のためにあること。物品は無料で持ち込まれ、スタッフも無償で自分の身体と時間を使っていることを伝え、あなただけが自分の利益を得ようと必死になっている現状をどう思いますか？と優しく質問をしました。
すると、それまで顔を赤らめて怒っていた彼女の顔色がスッと変わり、うつむき加減で騒いだことを悔やんでくれました。別れ際には、「また来年も絶対に来ますね」と笑顔で言ってくれました。
毎年のバザーは本当に骨が折れます。しかし、しんどければしんどいほど、そのお蔭で出張所で寝食や御用を共にする所員同士、お互いの癖性分をより知ることができ、気遣い合う中で個性を認め合うことが出来るようになるのは確かです。そして、それを機に出張所内の雰囲気も良くなっていくのが所長の私にはよく分かります。
また、外に向かっては、ある未信者のフランス人スタッフが帰り際に掛けてくれた言葉が心に強く残っています。彼は愛想もよく、終日周りから引っ張りだこだったので、さぞかし疲れただろうと思い、「今日はありがとう。使われまくったみたいだけど、これに懲りず来年もよろしく頼みますね」と声を掛けました。
すると彼は、「今日はたくさんお手伝いをさせてくれて、本当にありがとうございました」と、疲れた様子ながらも満面の笑顔で返してくれたのです。私は驚きと同時に、このような言葉が聞かせてもらえるとは、今日のバザーは大成功だったと、心から喜びが湧いてきました。
誰もが他者に喜んでもらいたいと思っています。ただ、それを一人で実行するには勇気がいります。ヨーロッパ出張所が、そのはじめの一歩を踏み出す場でありたいと願っています。



赤衣を召して

教祖のおわす教祖殿で参拝していると、お社の正面にご存命の教祖がお召しになっている赤い着物を見ることができます。教祖がお召しになったこの赤衣の一部を、おまもりとしてお下げくださいます。人類のふるさと、おぢばに帰った証拠としてお渡しくださる「証拠守り」です。
明治七年十二月二十六日、教祖は初めて赤衣をお召しになりました。直筆による「おふでさき」には、

　　このあかいきものをなんとをもている　　なかに月日がこもりいるそや　（六 63）

と記されています。
教祖は、五十年の長きにわたる「ひながた」を通して、人類の生みの親である親神様の思召しをお伝えくださいました。そして、赤衣を召して、教祖こそ地上における人間の親であり、「月日のやしろ」であることをお姿の上に示されたのです。
『教祖伝逸話篇』には、先人が赤衣を召した教祖にお目にかかった時のことや、赤衣を直にお着せ下されたことなど、数多くの逸話が記されています。

明治十二年、十六歳の抽冬鶴松さんは、胃の病で危篤状態となりました。鶴松さんが教祖にお目通りさせて頂くと、「かわいそうに」と仰せになり、それまで召しておられた赤の肌襦袢を鶴松さんに着せられました。そうして不思議なたすけを頂いた鶴松さんは、「今も尚、その温みが忘れられない」と、一生口癖のように言っていた、と伝えられています。（教祖伝逸話篇67「かわいそうに」）

また、明治十四年頃、岡本シナさんが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ」と仰せられ、一しょにお風呂へ入れて頂きました。
その後、何日か経って、再びお屋敷へ帰ると、教祖は「よう、お詣りなされたなあ。さあ／＼帯を解いて、着物をお脱ぎ」と仰せになりました。
何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣の襦袢を背後からサッと着せて下さいました。「その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった」と記されています。（教祖伝逸話篇91「踊って去ぬのやで」）

先人は、赤衣にこもった教祖の温もりを直接に感じられました。それは教祖がいつもそばにおられ、おたすけくださり、お導きくださっていることの証であり、私たちも「証拠守り」を肌身離さず身につけることによって、その温かな親心を感じ取ることができるのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>世界一れつ皆きょうだい
フランス在住　　長谷川 善久

一般的に西洋人は個人主義だと語られることがありますが、そんなイメージとは違う統計数値を見つけました。それはボランティア活動をしている人の割合です。
年に一回以上参加した人の数ですが、日本人は五人に一人にも満たない割合で、２0代、３０代に限って言えば約15％、フランスは約30％なので、二倍もの差が生まれているのです。世界で評されてきた日本人の美徳の一つ、相互扶助の精神はもはや昔のものとなっているのかも知れません。
フランスにあるヨーロッパ出張所では、毎年５月に「チャリティーバザー」を開催しています。開催時間は午後の４時間のみと短いのですが、700名以上が出張所を訪れ、無料で提供された物品や軽食販売、指圧や散髪などによる収益金は、全額慈善団体へ寄付をすることになっています。
30年ほど前の開始当初は信者のみで運営していましたが、最近では未信者さん方の「ボランティア」が増えており、全体の３，４割を占めるようになってきました。未信者さんのスタッフの多くは、天理教が運営する文化交流団体「天理日仏文化協会」の会員さんです。
信者、未信者を問わずスタッフの国籍も職業も年齢も多種多様です。日本人、フランス人はもちろんのこと、アフリカ人や南米人などもいます。また医師や弁護士、芸人、学生がいるかと思えば、年齢も上は80代から下は10歳ぐらいと、祖父母と孫のような三世代にわたる年齢層の方々がいます。
開催当日、来場者一人ひとりに次のおふでさきの一首を記したビラを配っています。

　　このよふを初た神の事ならば　　せかい一れつみなわがこなり　（四62）

肌の色や言葉の違い、宗教の違いも問わず、老いも若きも共に一手一つになり、困っている人のために我を忘れて尽くす姿が出張所で実現出来ていることに、教祖も喜んで下さっているに違いないと確信しています。
チャリティーバザーと言えど、出張所としては、物を売り、寄付金を集めることで満足するべきではありません。ただ単純に安価な商品販売をすることで、結果的に来場者の物欲を増長するような場にはしないことを申し合わせています。
ある時のバザーでは、いかにも手癖の悪そうな若者が人目を避けるように入場してきました。数分もすると彼が入った売り場の未信者スタッフから私に連絡があり、「所長、万引きしそうな若者が来たので見張りに来てください」と言われました。当然、直ぐに駆け付けましたが、私が彼を見張った理由は、万引きを防ぐためではなく、彼の心の中で物欲が強くなるのを防ぐこと、「よく」の心を起こさせないように祈ることでした。
このチャリティーバザーの真の目的は、あくまでもボランティアや来場者を含めた関係者全ての人が、親神様のお膝元で、他者の救けにつながる行いをし、それによる他者とのつながりを通して、現代のストレスにまみれた心の皺を伸ばしてもらう場にすることだと思っています。
そのためにも、私たちが醸し出す雰囲気で、「世界一れつ皆きょうだいの精神」を感じてもらうことを目指すのが、必要不可欠な心構えだと、信者スタッフにはいつも伝えています。
なればこそ、来場者が何も購入しなくても、人とのつながりが楽しめるようなアイディアも取り入れています。天理日仏文化協会で公演をして下さった方々によるコンサートや演劇、パントマイムなどがそれで、私たちの真の目的を果たすための大きな役割を担ってくれています。
これら無料の文化プログラムがあるお蔭で、より多くの人が出張所の芝生の上で家族揃ってピクニックをするようになったのです。人種、宗教が違えど、偶然隣り合った人と一緒に美しい音楽に聞き惚れ、面白い演劇を見ながら笑い合うきっかけを、これら文化プログラムはもたらしてくれるのです。
そして、私たちがおぢばで迎えられた時に感じるような、スタッフの笑顔とゆったりとした優しい雰囲気の中で、心と心のつながりが生まれやすい環境を提供してくれています。
ある時、レジで黒人の女性が大声を出してスタッフと言い合いをしていたことがありました。しばらくは、その若いスタッフがどのように話を治めるかを見ていましたが、やがて罵り合いが始まってしまいました。
そこで私が介入して話を聞いてみると、女性曰く、あるスタッフにお願いして取り置きしてもらっていた支払い前の商品が無くなっているというのです。
しかし、レジの担当者はその話に全く聞く耳を持たなかったのです。実際、スタッフにはお客さんからは何も預からないという取り決めがなされていたので、支払い前の商品を預かったなどあり得ないことで、スタッフにしてみれば、単なる強欲な女性の戯言としか聞こえなかったのです。そして、そのようなスタッフの態度が彼女の気持ちを逆なでしていたのです。
私はまず、その女性の言い分を全部聞いた上で、不愉快な気持ちにさせてしまったことをひと言お詫びしました。それから、このバザーはスタッフも商品も、すべては他者のためにあること。物品は無料で持ち込まれ、スタッフも無償で自分の身体と時間を使っていることを伝え、あなただけが自分の利益を得ようと必死になっている現状をどう思いますか？と優しく質問をしました。
すると、それまで顔を赤らめて怒っていた彼女の顔色がスッと変わり、うつむき加減で騒いだことを悔やんでくれました。別れ際には、「また来年も絶対に来ますね」と笑顔で言ってくれました。
毎年のバザーは本当に骨が折れます。しかし、しんどければしんどいほど、そのお蔭で出張所で寝食や御用を共にする所員同士、お互いの癖性分をより知ることができ、気遣い合う中で個性を認め合うことが出来るようになるのは確かです。そして、それを機に出張所内の雰囲気も良くなっていくのが所長の私にはよく分かります。
また、外に向かっては、ある未信者のフランス人スタッフが帰り際に掛けてくれた言葉が心に強く残っています。彼は愛想もよく、終日周りから引っ張りだこだったので、さぞかし疲れただろうと思い、「今日はありがとう。使われまくったみたいだけど、これに懲りず来年もよろしく頼みますね」と声を掛けました。
すると彼は、「今日はたくさんお手伝いをさせてくれて、本当にありがとうございました」と、疲れた様子ながらも満面の笑顔で返してくれたのです。私は驚きと同時に、このような言葉が聞かせてもらえるとは、今日のバザーは大成功だったと、心から喜びが湧いてきました。
誰もが他者に喜んでもらいたいと思っています。ただ、それを一人で実行するには勇気がいります。ヨーロッパ出張所が、そのはじめの一歩を踏み出す場でありたいと願っています。



赤衣を召して

教祖のおわす教祖殿で参拝していると、お社の正面にご存命の教祖がお召しになっている赤い着物を見ることができます。教祖がお召しになったこの赤衣の一部を、おまもりとしてお下げくださいます。人類のふるさと、おぢばに帰った証拠としてお渡しくださる「証拠守り」です。
明治七年十二月二十六日、教祖は初めて赤衣をお召しになりました。直筆による「おふでさき」には、

　　このあかいきものをなんとをもている　　なかに月日がこもりいるそや　（六 63）

と記されています。
教祖は、五十年の長きにわたる「ひながた」を通して、人類の生みの親である親神様の思召しをお伝えくださいました。そして、赤衣を召して、教祖こそ地上における人間の親であり、「月日のやしろ」であることをお姿の上に示されたのです。
『教祖伝逸話篇』には、先人が赤衣を召した教祖にお目にかかった時のことや、赤衣を直にお着せ下されたことなど、数多くの逸話が記されています。

明治十二年、十六歳の抽冬鶴松さんは、胃の病で危篤状態となりました。鶴松さんが教祖にお目通りさせて頂くと、「かわいそうに」と仰せになり、それまで召しておられた赤の肌襦袢を鶴松さんに着せられました。そうして不思議なたすけを頂いた鶴松さんは、「今も尚、その温みが忘れられない」と、一生口癖のように言っていた、と伝えられています。（教祖伝逸話篇67「かわいそうに」）

また、明治十四年頃、岡本シナさんが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ」と仰せられ、一しょにお風呂へ入れて頂きました。
その後、何日か経って、再びお屋敷へ帰ると、教祖は「よう、お詣りなされたなあ。さあ／＼帯を解いて、着物をお脱ぎ」と仰せになりました。
何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣の襦袢を背後からサッと着せて下さいました。「その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった」と記されています。（教祖伝逸話篇91「踊って去ぬのやで」）

先人は、赤衣にこもった教祖の温もりを直接に感じられました。それは教祖がいつもそばにおられ、おたすけくださり、お導きくださっていることの証であり、私たちも「証拠守り」を肌身離さず身につけることによって、その温かな親心を感じ取ることができるのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>世界一れつ皆きょうだい
フランス在住　　長谷川 善久

一般的に西洋人は個人主義だと語られることがありますが、そんなイメージとは違う統計数値を見つけました。それはボランティア活動をしている人の割合です。
年に一回以上参加した人の数ですが、日本人は五人に一人にも満たない割合で、２0代、３０代に限って言えば約15％、フランスは約30％なので、二倍もの差が生まれているのです。世界で評されてきた日本人の美徳の一つ、相互扶助の精神はもはや昔のものとなっているのかも知れません。
フランスにあるヨーロッパ出張所では、毎年５月に「チャリティーバザー」を開催しています。開催時間は午後の４時間のみと短いのですが、700名以上が出張所を訪れ、無料で提供された物品や軽食販売、指圧や散髪などによる収益金は、全額慈善団体へ寄付をすることになっています。
30年ほど前の開始当初は信者のみで運営していましたが、最近では未信者さん方の「ボランティア」が増えており、全体の３，４割を占めるようになってきました。未信者さんのスタッフの多くは、天理教が運営する文化交流団体「天理日仏文化協会」の会員さんです。
信者、未信者を問わずスタッフの国籍も職業も年齢も多種多様です。日本人、フランス人はもちろんのこと、アフリカ人や南米人などもいます。また医師や弁護士、芸人、学生がいるかと思えば、年齢も上は80代から下は10歳ぐらいと、祖父母と孫のような三世代にわたる年齢層の方々がいます。
開催当日、来場者一人ひとりに次のおふでさきの一首を記したビラを配っています。

　　このよふを初た神の事ならば　　せかい一れつみなわがこなり　（四62）

肌の色や言葉の違い、宗教の違いも問わず、老いも若きも共に一手一つになり、困っている人のために我を忘れて尽くす姿が出張所で実現出来ていることに、教祖も喜んで下さっているに違いないと確信しています。
チャリティーバザーと言えど、出張所としては、物を売り、寄付金を集めることで満足するべきではありません。ただ単純に安価な商品販売をすることで、結果的に来場者の物欲を増長するような場にはしないことを申し合わせています。
ある時のバザーでは、いかにも手癖の悪そうな若者が人目を避けるように入場してきました。数分もすると彼が入った売り場の未信者スタッフから私に連絡があり、「所長、万引きしそうな若者が来たので見張りに来てください」と言われました。当然、直ぐに駆け付けましたが、私が彼を見張った理由は、万引きを防ぐためではなく、彼の心の中で物欲が強くなるのを防ぐこと、「よく」の心を起こさせないように祈ることでした。
このチャリティーバザーの真の目的は、あくまでもボランティアや来場者を含めた関係者全ての人が、親神様のお膝元で、他者の救けにつながる行いをし、それによる他者とのつながりを通して、現代のストレスにまみれた心の皺を伸ばしてもらう場にすることだと思っています。
そのためにも、私たちが醸し出す雰囲気で、「世界一れつ皆きょうだいの精神」を感じてもらうことを目指すのが、必要不可欠な心構えだと、信者スタッフにはいつも伝えています。
なればこそ、来場者が何も購入しなくても、人とのつながりが楽しめるようなアイディアも取り入れています。天理日仏文化協会で公演をして下さった方々によるコンサートや演劇、パントマイムなどがそれで、私たちの真の目的を果たすための大きな役割を担ってくれています。
これら無料の文化プログラムがあるお蔭で、より多くの人が出張所の芝生の上で家族揃ってピクニックをするようになったのです。人種、宗教が違えど、偶然隣り合った人と一緒に美しい音楽に聞き惚れ、面白い演劇を見ながら笑い合うきっかけを、これら文化プログラムはもたらしてくれるのです。
そして、私たちがおぢばで迎えられた時に感じるような、スタッフの笑顔とゆったりとした優しい雰囲気の中で、心と心のつながりが生まれやすい環境を提供してくれています。
ある時、レジで黒人の女性が大声を出してスタッフと言い合いをしていたことがありました。しばらくは、その若いスタッフがどのように話を治めるかを見ていましたが、やがて罵り合いが始まってしまいました。
そこで私が介入して話を聞いてみると、女性曰く、あるスタッフにお願いして取り置きしてもらっていた支払い前の商品が無くなっているというのです。
しかし、レジの担当者はその話に全く聞く耳を持たなかったのです。実際、スタッフにはお客さんからは何も預からないという取り決めがなされていたので、支払い前の商品を預かったなどあり得ないことで、スタッフにしてみれば、単なる強欲な女性の戯言としか聞こえなかったのです。そして、そのようなスタッフの態度が彼女の気持ちを逆なでしていたのです。
私はまず、その女性の言い分を全部聞いた上で、不愉快な気持ちにさせてしまったことをひと言お詫びしました。それから、このバザーはスタッフも商品も、すべては他者のためにあること。物品は無料で持ち込まれ、スタッフも無償で自分の身体と時間を使っていることを伝え、あなただけが自分の利益を得ようと必死になっている現状をどう思いますか？と優しく質問をしました。
すると、それまで顔を赤らめて怒っていた彼女の顔色がスッと変わり、うつむき加減で騒いだことを悔やんでくれました。別れ際には、「また来年も絶対に来ますね」と笑顔で言ってくれました。
毎年のバザーは本当に骨が折れます。しかし、しんどければしんどいほど、そのお蔭で出張所で寝食や御用を共にする所員同士、お互いの癖性分をより知ることができ、気遣い合う中で個性を認め合うことが出来るようになるのは確かです。そして、それを機に出張所内の雰囲気も良くなっていくのが所長の私にはよく分かります。
また、外に向かっては、ある未信者のフランス人スタッフが帰り際に掛けてくれた言葉が心に強く残っています。彼は愛想もよく、終日周りから引っ張りだこだったので、さぞかし疲れただろうと思い、「今日はありがとう。使われまくったみたいだけど、これに懲りず来年もよろしく頼みますね」と声を掛けました。
すると彼は、「今日はたくさんお手伝いをさせてくれて、本当にありがとうございました」と、疲れた様子ながらも満面の笑顔で返してくれたのです。私は驚きと同時に、このような言葉が聞かせてもらえるとは、今日のバザーは大成功だったと、心から喜びが湧いてきました。
誰もが他者に喜んでもらいたいと思っています。ただ、それを一人で実行するには勇気がいります。ヨーロッパ出張所が、そのはじめの一歩を踏み出す場でありたいと願っています。



赤衣を召して

教祖のおわす教祖殿で参拝していると、お社の正面にご存命の教祖がお召しになっている赤い着物を見ることができます。教祖がお召しになったこの赤衣の一部を、おまもりとしてお下げくださいます。人類のふるさと、おぢばに帰った証拠としてお渡しくださる「証拠守り」です。
明治七年十二月二十六日、教祖は初めて赤衣をお召しになりました。直筆による「おふでさき」には、

　　このあかいきものをなんとをもている　　なかに月日がこもりいるそや　（六 63）

と記されています。
教祖は、五十年の長きにわたる「ひながた」を通して、人類の生みの親である親神様の思召しをお伝えくださいました。そして、赤衣を召して、教祖こそ地上における人間の親であり、「月日のやしろ」であることをお姿の上に示されたのです。
『教祖伝逸話篇』には、先人が赤衣を召した教祖にお目にかかった時のことや、赤衣を直にお着せ下されたことなど、数多くの逸話が記されています。

明治十二年、十六歳の抽冬鶴松さんは、胃の病で危篤状態となりました。鶴松さんが教祖にお目通りさせて頂くと、「かわいそうに」と仰せになり、それまで召しておられた赤の肌襦袢を鶴松さんに着せられました。そうして不思議なたすけを頂いた鶴松さんは、「今も尚、その温みが忘れられない」と、一生口癖のように言っていた、と伝えられています。（教祖伝逸話篇67「かわいそうに」）

また、明治十四年頃、岡本シナさんが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ」と仰せられ、一しょにお風呂へ入れて頂きました。
その後、何日か経って、再びお屋敷へ帰ると、教祖は「よう、お詣りなされたなあ。さあ／＼帯を解いて、着物をお脱ぎ」と仰せになりました。
何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣の襦袢を背後からサッと着せて下さいました。「その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった」と記されています。（教祖伝逸話篇91「踊って去ぬのやで」）

先人は、赤衣にこもった教祖の温もりを直接に感じられました。それは教祖がいつもそばにおられ、おたすけくださり、お導きくださっていることの証であり、私たちも「証拠守り」を肌身離さず身につけることによって、その温かな親心を感じ取ることができるのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 27 Jun 2025 09:25:07 +0000</pubDate>
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                <title>タイでのあざやかなご守護</title>
        <description><![CDATA[タイでのあざやかなご守護
タイ在住　　野口　信也

タイ国の首都バンコクの正式名称は、「天使の都」という意味の「クルンテープ」から始まる、タイ語で約100文字を超える、世界で最も長い首都名で、ギネスブックにも記録されています。
また、タイは仏教の国としてよく知られていますが、この首都名はただの都市の呼称ではなく、日々タイの仏教徒が敬う神々の名前や、教えに基づく平穏社会への理想などが反映されており、タイの仏教信仰や文化を象徴するものでもあります。
さて、そうした仏教の国タイではありますが、基本的には宗教はすべて良いものである、という思いを持つ方が多く、天理教の信仰をされているタイ人の方々も、天理教は排他的ではなく、他の宗教にも寛容で、仏教の教えに似ているといって信仰される方も多いのです。中には天理教のお話を聞いて、「これは本物の教えだ」と感じて、熱心に信仰する方もおられます。
今日ご紹介するチューンさんは、宗教には全く興味を示さなかった友人の夫が、天理教と出合い、いそいそと天理教の集まりに参加する姿を見て、この宗教は何か違う、と興味を持ったそうです。
そんなある日、チューンさんは体調を崩し、友人に誘われるまま、少し興味を持ち始めていた天理教のタイ出張所へ行きました。そして、夕づとめに参拝し、おさづけを取り次いでもらったところ、とても元気になり、驚くとともに大変喜んでおられました。その後、夕づとめや月次祭に顔を出すようになり、積極的におてふりや鳴物を学び始めました。
このチューンさんは小さな料理屋を営んでおられましたが、生活の苦しい方には大盛で安く料理を提供し、一方で人を押しのけてくるような図々しい人には、「あんたに食べさすご飯はもうないよ！」と断ることもあるといった、やさしくて強い肝っ玉母さんという感じの方です。
ある日、お店に全くお客さんが来なかったので、教祖に「お客さんが来てくれますように」とお願いをしました。するとたちまちお店がいっぱいになりました。また、やはりお客さんが全然来ない別の日、遠慮がちに教祖にお願いしました。すると、また急に来客でいっぱいになり、嬉しさのあまり天理教を紹介してくれた友人にこのことを話しました。
すると冗談交じりに、「自分のことばかりお願いして、教祖の手を煩わせてはいけないよ」と言われたとのこと。
そして三回目、ここ何日かお客さんが来ていませんでした。そこで、今日お客さんが来たら、今後は毎月26日は店を閉めて、出張所の遥拝式に参拝する。そう心に決めて教祖にお願いをしました。果たして、食材がなくなるほどお客さんが来たということです。
そんなある日、大変働き者の、チューンさんの84歳になる母親が、ドラム缶を持ち上げようとして、腰の激痛とともに倒れて病院へ。医師から、「腰椎の四カ所で圧迫骨折を起こしていますが、高齢のため手術もできません」と入院を断られ、自宅で寝たきりになったと連絡がありました。家庭の事情で母親と少し距離を取っていたチューンさんですが、やはり親子です。なんとかたすけてもらいたいと、すぐに連絡をくれました。
私はすぐに自宅へ駆けつけ、精一杯おさづけを取り次ぎました。高齢な上にこれほどの症状なので、どうなるかと不安な思いでいっぱいでしたが、チューンさんはこの時も自身の経験から「三日で治るから」と、信じ切った様子でお母さんに言って聞かせていました。チューンさんの兄弟たちも、大好きな母親のために車で私を送り迎えして応援してくれました。
私はお母さんの症状を考えて、何かチューンさんに神様との約束をしてもらいたいと思い、迷いながらも「チューンさん、今日から一週間は毎日参拝を…」と言いかけました。するとチューンさんは、「はい、今日から一カ月間、毎日出張所へ参拝に行きます」と、自分から進んで決心してくれました。
おさづけを取り次ぎ始めて三日目、腰の痛みは相変わらずで、座ることもできず、身動きができないためか便が全く出ておらず、その症状のお願いも加わりました。四日目、「便は出ましたか？」と聞くと、「出ません、苦しいです」との返事です。せめて便だけでも出るようにと、おさづけを取り次ぎましたが、まだまだ改善の兆しはありません。
ところが五日目、お母さんにお会いすると、元気な声で「先生、出ました！どばっ、どばっ、どばっ、と三回も出て、それも座って用を足すことができました」と。
私も驚きと嬉しさで、「そうですか、どばっと三回も出ましたか」「はい、どばっと全部出ました」「全部ですか、いやー良かった」。嬉しさのあまり無我夢中でこんな会話をしてしまいましたが、お互いふと我に返り、ばつが悪いやら、おかしいやらで、朗らかな笑いが起こりました。その後、お母さんは歩けるまでにご守護頂かれました。
親神様、教祖に素直にもたれ切り、人間思案を離れ、自分のなすべきことを精一杯努めれば、間違いなくお受け取り頂けるということを、チューンさん家族にあらためて気づかせてもらいました。
その後、お二人のわだかまりも薄らいだ様子で、チューンさんもお母さんも、天理教講座という、信者さん宅でお話をする会に未信者の方々を誘って参加するなど、親子仲良く熱心に信仰を続けておられます。



かなの教え

この教えは、「かなの教え」とも言われるように、教祖は私たちが得心しやすいように平易な表現でこの世の真実をお示し下さいます。それはしばしば、語呂合わせのような形で表されることもあります。

教祖は、病だすけのための金平糖の御供をお渡し下さる時、
「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで」
と、仰せられました。そして、
「一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理」
と、お聞かせ下さいました。（教祖伝逸話篇60「金平糖の御供」）

また、親神様のご守護にあふれる日々の喜びを、このように表現されました。

「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで」。
一日　はじまる　　二日　たっぷり　　三日　身につく　四日　仕合わせようなる五日　りをふく　　六日　六だいおさまる　　七日　何んにも言うことない八日　八方ひろがる　　九日　苦がなくなる　　十日　十ぶん十一日　十ぶんはじまる　　十二日　十ぶんたっぷり　　十三日　十ぶん身につく
二十日　十ぶんたっぷりたっぷり　　二十一日　十ぶんたっぷりはじまる三十日　十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり三十日は一月、十二カ月は一年、一年中一日も悪い日はない。（教祖伝逸話篇173「皆、吉い日やで」）

さて、私たちが、日々朝夕に唱える「みかぐらうた」は、一下り目からは、各下りともいずれも十首ずつの数え歌からなっています。
教祖は、「正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや」と。まさに「おつとめ」は、教祖自らが可愛い子供たちのためにお教え下されたものであり、陽気ぐらしの喜びに満ちあふれています。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>タイでのあざやかなご守護
タイ在住　　野口　信也

タイ国の首都バンコクの正式名称は、「天使の都」という意味の「クルンテープ」から始まる、タイ語で約100文字を超える、世界で最も長い首都名で、ギネスブックにも記録されています。
また、タイは仏教の国としてよく知られていますが、この首都名はただの都市の呼称ではなく、日々タイの仏教徒が敬う神々の名前や、教えに基づく平穏社会への理想などが反映されており、タイの仏教信仰や文化を象徴するものでもあります。
さて、そうした仏教の国タイではありますが、基本的には宗教はすべて良いものである、という思いを持つ方が多く、天理教の信仰をされているタイ人の方々も、天理教は排他的ではなく、他の宗教にも寛容で、仏教の教えに似ているといって信仰される方も多いのです。中には天理教のお話を聞いて、「これは本物の教えだ」と感じて、熱心に信仰する方もおられます。
今日ご紹介するチューンさんは、宗教には全く興味を示さなかった友人の夫が、天理教と出合い、いそいそと天理教の集まりに参加する姿を見て、この宗教は何か違う、と興味を持ったそうです。
そんなある日、チューンさんは体調を崩し、友人に誘われるまま、少し興味を持ち始めていた天理教のタイ出張所へ行きました。そして、夕づとめに参拝し、おさづけを取り次いでもらったところ、とても元気になり、驚くとともに大変喜んでおられました。その後、夕づとめや月次祭に顔を出すようになり、積極的におてふりや鳴物を学び始めました。
このチューンさんは小さな料理屋を営んでおられましたが、生活の苦しい方には大盛で安く料理を提供し、一方で人を押しのけてくるような図々しい人には、「あんたに食べさすご飯はもうないよ！」と断ることもあるといった、やさしくて強い肝っ玉母さんという感じの方です。
ある日、お店に全くお客さんが来なかったので、教祖に「お客さんが来てくれますように」とお願いをしました。するとたちまちお店がいっぱいになりました。また、やはりお客さんが全然来ない別の日、遠慮がちに教祖にお願いしました。すると、また急に来客でいっぱいになり、嬉しさのあまり天理教を紹介してくれた友人にこのことを話しました。
すると冗談交じりに、「自分のことばかりお願いして、教祖の手を煩わせてはいけないよ」と言われたとのこと。
そして三回目、ここ何日かお客さんが来ていませんでした。そこで、今日お客さんが来たら、今後は毎月26日は店を閉めて、出張所の遥拝式に参拝する。そう心に決めて教祖にお願いをしました。果たして、食材がなくなるほどお客さんが来たということです。
そんなある日、大変働き者の、チューンさんの84歳になる母親が、ドラム缶を持ち上げようとして、腰の激痛とともに倒れて病院へ。医師から、「腰椎の四カ所で圧迫骨折を起こしていますが、高齢のため手術もできません」と入院を断られ、自宅で寝たきりになったと連絡がありました。家庭の事情で母親と少し距離を取っていたチューンさんですが、やはり親子です。なんとかたすけてもらいたいと、すぐに連絡をくれました。
私はすぐに自宅へ駆けつけ、精一杯おさづけを取り次ぎました。高齢な上にこれほどの症状なので、どうなるかと不安な思いでいっぱいでしたが、チューンさんはこの時も自身の経験から「三日で治るから」と、信じ切った様子でお母さんに言って聞かせていました。チューンさんの兄弟たちも、大好きな母親のために車で私を送り迎えして応援してくれました。
私はお母さんの症状を考えて、何かチューンさんに神様との約束をしてもらいたいと思い、迷いながらも「チューンさん、今日から一週間は毎日参拝を…」と言いかけました。するとチューンさんは、「はい、今日から一カ月間、毎日出張所へ参拝に行きます」と、自分から進んで決心してくれました。
おさづけを取り次ぎ始めて三日目、腰の痛みは相変わらずで、座ることもできず、身動きができないためか便が全く出ておらず、その症状のお願いも加わりました。四日目、「便は出ましたか？」と聞くと、「出ません、苦しいです」との返事です。せめて便だけでも出るようにと、おさづけを取り次ぎましたが、まだまだ改善の兆しはありません。
ところが五日目、お母さんにお会いすると、元気な声で「先生、出ました！どばっ、どばっ、どばっ、と三回も出て、それも座って用を足すことができました」と。
私も驚きと嬉しさで、「そうですか、どばっと三回も出ましたか」「はい、どばっと全部出ました」「全部ですか、いやー良かった」。嬉しさのあまり無我夢中でこんな会話をしてしまいましたが、お互いふと我に返り、ばつが悪いやら、おかしいやらで、朗らかな笑いが起こりました。その後、お母さんは歩けるまでにご守護頂かれました。
親神様、教祖に素直にもたれ切り、人間思案を離れ、自分のなすべきことを精一杯努めれば、間違いなくお受け取り頂けるということを、チューンさん家族にあらためて気づかせてもらいました。
その後、お二人のわだかまりも薄らいだ様子で、チューンさんもお母さんも、天理教講座という、信者さん宅でお話をする会に未信者の方々を誘って参加するなど、親子仲良く熱心に信仰を続けておられます。



かなの教え

この教えは、「かなの教え」とも言われるように、教祖は私たちが得心しやすいように平易な表現でこの世の真実をお示し下さいます。それはしばしば、語呂合わせのような形で表されることもあります。

教祖は、病だすけのための金平糖の御供をお渡し下さる時、
「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで」
と、仰せられました。そして、
「一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理」
と、お聞かせ下さいました。（教祖伝逸話篇60「金平糖の御供」）

また、親神様のご守護にあふれる日々の喜びを、このように表現されました。

「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで」。
一日　はじまる　　二日　たっぷり　　三日　身につく　四日　仕合わせようなる五日　りをふく　　六日　六だいおさまる　　七日　何んにも言うことない八日　八方ひろがる　　九日　苦がなくなる　　十日　十ぶん十一日　十ぶんはじまる　　十二日　十ぶんたっぷり　　十三日　十ぶん身につく
二十日　十ぶんたっぷりたっぷり　　二十一日　十ぶんたっぷりはじまる三十日　十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり三十日は一月、十二カ月は一年、一年中一日も悪い日はない。（教祖伝逸話篇173「皆、吉い日やで」）

さて、私たちが、日々朝夕に唱える「みかぐらうた」は、一下り目からは、各下りともいずれも十首ずつの数え歌からなっています。
教祖は、「正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや」と。まさに「おつとめ」は、教祖自らが可愛い子供たちのためにお教え下されたものであり、陽気ぐらしの喜びに満ちあふれています。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>タイでのあざやかなご守護
タイ在住　　野口　信也

タイ国の首都バンコクの正式名称は、「天使の都」という意味の「クルンテープ」から始まる、タイ語で約100文字を超える、世界で最も長い首都名で、ギネスブックにも記録されています。
また、タイは仏教の国としてよく知られていますが、この首都名はただの都市の呼称ではなく、日々タイの仏教徒が敬う神々の名前や、教えに基づく平穏社会への理想などが反映されており、タイの仏教信仰や文化を象徴するものでもあります。
さて、そうした仏教の国タイではありますが、基本的には宗教はすべて良いものである、という思いを持つ方が多く、天理教の信仰をされているタイ人の方々も、天理教は排他的ではなく、他の宗教にも寛容で、仏教の教えに似ているといって信仰される方も多いのです。中には天理教のお話を聞いて、「これは本物の教えだ」と感じて、熱心に信仰する方もおられます。
今日ご紹介するチューンさんは、宗教には全く興味を示さなかった友人の夫が、天理教と出合い、いそいそと天理教の集まりに参加する姿を見て、この宗教は何か違う、と興味を持ったそうです。
そんなある日、チューンさんは体調を崩し、友人に誘われるまま、少し興味を持ち始めていた天理教のタイ出張所へ行きました。そして、夕づとめに参拝し、おさづけを取り次いでもらったところ、とても元気になり、驚くとともに大変喜んでおられました。その後、夕づとめや月次祭に顔を出すようになり、積極的におてふりや鳴物を学び始めました。
このチューンさんは小さな料理屋を営んでおられましたが、生活の苦しい方には大盛で安く料理を提供し、一方で人を押しのけてくるような図々しい人には、「あんたに食べさすご飯はもうないよ！」と断ることもあるといった、やさしくて強い肝っ玉母さんという感じの方です。
ある日、お店に全くお客さんが来なかったので、教祖に「お客さんが来てくれますように」とお願いをしました。するとたちまちお店がいっぱいになりました。また、やはりお客さんが全然来ない別の日、遠慮がちに教祖にお願いしました。すると、また急に来客でいっぱいになり、嬉しさのあまり天理教を紹介してくれた友人にこのことを話しました。
すると冗談交じりに、「自分のことばかりお願いして、教祖の手を煩わせてはいけないよ」と言われたとのこと。
そして三回目、ここ何日かお客さんが来ていませんでした。そこで、今日お客さんが来たら、今後は毎月26日は店を閉めて、出張所の遥拝式に参拝する。そう心に決めて教祖にお願いをしました。果たして、食材がなくなるほどお客さんが来たということです。
そんなある日、大変働き者の、チューンさんの84歳になる母親が、ドラム缶を持ち上げようとして、腰の激痛とともに倒れて病院へ。医師から、「腰椎の四カ所で圧迫骨折を起こしていますが、高齢のため手術もできません」と入院を断られ、自宅で寝たきりになったと連絡がありました。家庭の事情で母親と少し距離を取っていたチューンさんですが、やはり親子です。なんとかたすけてもらいたいと、すぐに連絡をくれました。
私はすぐに自宅へ駆けつけ、精一杯おさづけを取り次ぎました。高齢な上にこれほどの症状なので、どうなるかと不安な思いでいっぱいでしたが、チューンさんはこの時も自身の経験から「三日で治るから」と、信じ切った様子でお母さんに言って聞かせていました。チューンさんの兄弟たちも、大好きな母親のために車で私を送り迎えして応援してくれました。
私はお母さんの症状を考えて、何かチューンさんに神様との約束をしてもらいたいと思い、迷いながらも「チューンさん、今日から一週間は毎日参拝を…」と言いかけました。するとチューンさんは、「はい、今日から一カ月間、毎日出張所へ参拝に行きます」と、自分から進んで決心してくれました。
おさづけを取り次ぎ始めて三日目、腰の痛みは相変わらずで、座ることもできず、身動きができないためか便が全く出ておらず、その症状のお願いも加わりました。四日目、「便は出ましたか？」と聞くと、「出ません、苦しいです」との返事です。せめて便だけでも出るようにと、おさづけを取り次ぎましたが、まだまだ改善の兆しはありません。
ところが五日目、お母さんにお会いすると、元気な声で「先生、出ました！どばっ、どばっ、どばっ、と三回も出て、それも座って用を足すことができました」と。
私も驚きと嬉しさで、「そうですか、どばっと三回も出ましたか」「はい、どばっと全部出ました」「全部ですか、いやー良かった」。嬉しさのあまり無我夢中でこんな会話をしてしまいましたが、お互いふと我に返り、ばつが悪いやら、おかしいやらで、朗らかな笑いが起こりました。その後、お母さんは歩けるまでにご守護頂かれました。
親神様、教祖に素直にもたれ切り、人間思案を離れ、自分のなすべきことを精一杯努めれば、間違いなくお受け取り頂けるということを、チューンさん家族にあらためて気づかせてもらいました。
その後、お二人のわだかまりも薄らいだ様子で、チューンさんもお母さんも、天理教講座という、信者さん宅でお話をする会に未信者の方々を誘って参加するなど、親子仲良く熱心に信仰を続けておられます。



かなの教え

この教えは、「かなの教え」とも言われるように、教祖は私たちが得心しやすいように平易な表現でこの世の真実をお示し下さいます。それはしばしば、語呂合わせのような形で表されることもあります。

教祖は、病だすけのための金平糖の御供をお渡し下さる時、
「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで」
と、仰せられました。そして、
「一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理」
と、お聞かせ下さいました。（教祖伝逸話篇60「金平糖の御供」）

また、親神様のご守護にあふれる日々の喜びを、このように表現されました。

「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで」。
一日　はじまる　　二日　たっぷり　　三日　身につく　四日　仕合わせようなる五日　りをふく　　六日　六だいおさまる　　七日　何んにも言うことない八日　八方ひろがる　　九日　苦がなくなる　　十日　十ぶん十一日　十ぶんはじまる　　十二日　十ぶんたっぷり　　十三日　十ぶん身につく
二十日　十ぶんたっぷりたっぷり　　二十一日　十ぶんたっぷりはじまる三十日　十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり三十日は一月、十二カ月は一年、一年中一日も悪い日はない。（教祖伝逸話篇173「皆、吉い日やで」）

さて、私たちが、日々朝夕に唱える「みかぐらうた」は、一下り目からは、各下りともいずれも十首ずつの数え歌からなっています。
教祖は、「正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや」と。まさに「おつとめ」は、教祖自らが可愛い子供たちのためにお教え下されたものであり、陽気ぐらしの喜びに満ちあふれています。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 20 Jun 2025 09:23:54 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>「ありがたい」と思う</title>
        <description><![CDATA[「ありがたい」と思う
大阪府在住　　山本　達則

どのご家庭でも、毎日の生活の中で一日として「同じ日」というのは無いと思います。「今朝は夫がご機嫌斜め」「奥さんは体調が優れない」「子供はご機嫌で学校へ」こんな日があると思えば、次の日は「夫は仕事がうまくいって上機嫌」「でも、子供が朝から熱っぽい」「奥さんは子供の世話で朝からばたばた」など、よくあることと言えば、よくある家庭での日常だと思います。
しかし、「よくあること」で片付けられないような一大事が起きたり、「何でこんなことになってしまったのか」と頭を抱えるような経験をすることもあります。
以前、私の息子が大学生になってバイクの免許を取りました。息子は早速、先輩から中古のバイクを譲ってもらうことになり、それを先輩の自宅まで取りに行くことになりました。
天理教の教会である我が家の妻は、「バイクを取りに行くなら、神様にお礼とお願いをしてから行きなさいよ」と声をかけました。息子はちょっと邪魔くさそうに、「帰ってからするわ」と答えましたが、妻は負けじと「先にしなさい」と。息子は渋々でしたが、神殿に上がり、神様にお礼とお願いをしてから、意気揚々と出かけて行きました。
しばらくして、息子から家に電話がかかってきました。「先輩からバイクをもらって、帰る途中でスリップ事故を起こした」と。幸い単独事故で、どなたに迷惑をかけることもなく、バイクが少し壊れたのと、息子が軽い怪我をしたということで、迎えに行くことになりました。バイクは修理が必要で、車屋さんに修理をお願いして、息子を車に乗せて自宅へ戻りました。
息子は帰りの道中で、「最悪や、お願いしていったのに」とやり場のない怒りを妻にぶつけました。その息子の様子を見て、妻は「何言ってるの。神様にお礼とお願いをしていったから、このくらいの事故で済ましてもらったんやで。お願いをしていかなかったら、今頃病院かもしれんよ」と言いました。
私はその二人の会話を聞いて、正に「言い得て妙」だと思いました。物事には色んな捉え方があることを、改めて実感させてもらいました。
確かに息子が言うところの「最悪だ」ということも、うなずけると言えばうなずけます。でも、この時の息子に「嬉しい」という気持ちはありません。
同じ結果であっても、「この程度で済ましてもらえて良かった」と思うことができれば「嬉しい」。物事の捉え方によって、同じ結果でも「良かった」と思うこともできれば、「最悪だ」と思うこともある。物事の見方は決して一方向でないのです。
得てしてお互いは、自分に無いものを持っている人に心を奪われ、自分にとって損な出来事に出合うと心を濁します。当たり前と言えば当たり前かも知れません。
天理教では、人間の身体をはじめ、生活の中の人間関係、更には周りの環境や手にするものすべてが神様からの「かりもの」であり、私たちが自由にできる我がものは「心」だけだと教えられます。その心の持ちようが、自分の人生を良くもすれば、悪くもすると聞かせて頂きます。
自分に無いものを持っている人に出会った時、「うらやましい」「どうして自分にはそれが無いのか」と心を濁す時は、おそらく自分の見えている方向の半分しか見えていないのではないでしょうか。
自分に無いものを持っている人は、確かに目の前にいるのかも知れませんが、実は自分が持っているものを持っていない人も、目を凝らせば世の中には沢山おられるのです。
当たり前だと思いがちな、目が見える、話ができる、耳が聞こえる、歩ける、食べられる…。言い出せばきりがありませんが、その当たり前と思い込んでいることが出来ずに、悩み苦しんでいる方は、世の中に沢山おられます。
方向を変えて、そちらの方を見ることが出来れば、自分が持っていないものを持っている人に出会っても、「ありがたい」という心が湧いてくるのではないでしょうか。
私の息子のように、思い通りにならないことに出合って、不足をするという自由もあります。しかし、自由に使える心の最高の使い方は、どんなことが起きても、その中に喜びを見つけていくことだと教えて頂きます。
「喜べば　喜び事が喜んで　喜び連れて喜びに来る」という川柳を聞いたことがあります。
日々の生活の中の些細なことでも、あるいは人生の中で大きな分岐点になるような出来事でも、常に喜べる方向の見方をしていきたいと思います。それが、自分以外の誰かの喜びにつながっていれば、なお良いかもしれません。



いつも住みよい所へ

どんな人の人生にも、いつしか転機が訪れます。ある出会いが、その人の生き方自体を決定的に変えてしまうこともあるでしょう。
明治十七年二月のこと。神戸・三宮駅の助役をしていた増野正兵衛さんは、十数年来、脚気などに悩まされていました。また、妻のいとさんは、三年越しのソコヒを患っており、何人もの名医にかかっても為すすべなく、ただ失明を待つばかりという状態でした。その頃いとさんは、知人から「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である」と聞き、それなら一つ夫婦で話を聞いてみよう、ということになりました。
その時聞いた知人の話によると、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって、神様にもたれなさい」また、「食物は皆、親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない」と。
そこで正兵衛さん、病気のためにやめていたお酒でしたが、その日にあげたお神酒を頂いてみたところ、翌朝はすこぶる身体の調子がよく、さらにいとさんの目も、一夜のうちに白黒が分かるようになりました。
早速に夫婦揃って神様にお礼を申し上げ、話を聞いた知人宅へも行って喜びを告げました。ところが帰宅すると、どうしたことか、日暮れを待たずにいとさんはまた目が見えなくなってしまいました。
この時夫婦で相談し、「一夜の間に、神様の自由をお見せ頂いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない」と語り合い、夫婦心を合わせ、朝夕一心にお願いをしました。すると正兵衛さんは十五日間ですっきりご守護頂き、いとさんの目も、三十日間で元通り見えるようになったのです。
その年の四月、正兵衛さんは初めておぢば帰りをし、教祖にお目通りさせて頂きました。教祖は、「正兵衛さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで」と、やさしく仰せ下さいました。このお言葉に強く感激した正兵衛さんは、仕事も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、おたすけに奔走しました。しかし、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くありません。
そこで教祖に伺うと、「いつも住みよい所へ住むが宜かろう」と仰せられました。この時、正兵衛さんは、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのでした。(教祖伝逸話篇145「いつも住みよい所へ」)
おぢばを離れると身体の具合が悪くなり、訪ねていくと良くなるといったことを繰り返し経験した正兵衛さん。不思議なことに、教祖の御前に出ると、信仰的な疑問も家庭の悩みも一瞬にして解けてしまったといいます。
まさに教祖のお側こそ、正兵衛さんにとっての「住みよい所」でありました。後に明治二十三年、正兵衛さんといとさんは、夫婦揃ってお屋敷へ住み込むこととなったのでした。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>「ありがたい」と思う
大阪府在住　　山本　達則

どのご家庭でも、毎日の生活の中で一日として「同じ日」というのは無いと思います。「今朝は夫がご機嫌斜め」「奥さんは体調が優れない」「子供はご機嫌で学校へ」こんな日があると思えば、次の日は「夫は仕事がうまくいって上機嫌」「でも、子供が朝から熱っぽい」「奥さんは子供の世話で朝からばたばた」など、よくあることと言えば、よくある家庭での日常だと思います。
しかし、「よくあること」で片付けられないような一大事が起きたり、「何でこんなことになってしまったのか」と頭を抱えるような経験をすることもあります。
以前、私の息子が大学生になってバイクの免許を取りました。息子は早速、先輩から中古のバイクを譲ってもらうことになり、それを先輩の自宅まで取りに行くことになりました。
天理教の教会である我が家の妻は、「バイクを取りに行くなら、神様にお礼とお願いをしてから行きなさいよ」と声をかけました。息子はちょっと邪魔くさそうに、「帰ってからするわ」と答えましたが、妻は負けじと「先にしなさい」と。息子は渋々でしたが、神殿に上がり、神様にお礼とお願いをしてから、意気揚々と出かけて行きました。
しばらくして、息子から家に電話がかかってきました。「先輩からバイクをもらって、帰る途中でスリップ事故を起こした」と。幸い単独事故で、どなたに迷惑をかけることもなく、バイクが少し壊れたのと、息子が軽い怪我をしたということで、迎えに行くことになりました。バイクは修理が必要で、車屋さんに修理をお願いして、息子を車に乗せて自宅へ戻りました。
息子は帰りの道中で、「最悪や、お願いしていったのに」とやり場のない怒りを妻にぶつけました。その息子の様子を見て、妻は「何言ってるの。神様にお礼とお願いをしていったから、このくらいの事故で済ましてもらったんやで。お願いをしていかなかったら、今頃病院かもしれんよ」と言いました。
私はその二人の会話を聞いて、正に「言い得て妙」だと思いました。物事には色んな捉え方があることを、改めて実感させてもらいました。
確かに息子が言うところの「最悪だ」ということも、うなずけると言えばうなずけます。でも、この時の息子に「嬉しい」という気持ちはありません。
同じ結果であっても、「この程度で済ましてもらえて良かった」と思うことができれば「嬉しい」。物事の捉え方によって、同じ結果でも「良かった」と思うこともできれば、「最悪だ」と思うこともある。物事の見方は決して一方向でないのです。
得てしてお互いは、自分に無いものを持っている人に心を奪われ、自分にとって損な出来事に出合うと心を濁します。当たり前と言えば当たり前かも知れません。
天理教では、人間の身体をはじめ、生活の中の人間関係、更には周りの環境や手にするものすべてが神様からの「かりもの」であり、私たちが自由にできる我がものは「心」だけだと教えられます。その心の持ちようが、自分の人生を良くもすれば、悪くもすると聞かせて頂きます。
自分に無いものを持っている人に出会った時、「うらやましい」「どうして自分にはそれが無いのか」と心を濁す時は、おそらく自分の見えている方向の半分しか見えていないのではないでしょうか。
自分に無いものを持っている人は、確かに目の前にいるのかも知れませんが、実は自分が持っているものを持っていない人も、目を凝らせば世の中には沢山おられるのです。
当たり前だと思いがちな、目が見える、話ができる、耳が聞こえる、歩ける、食べられる…。言い出せばきりがありませんが、その当たり前と思い込んでいることが出来ずに、悩み苦しんでいる方は、世の中に沢山おられます。
方向を変えて、そちらの方を見ることが出来れば、自分が持っていないものを持っている人に出会っても、「ありがたい」という心が湧いてくるのではないでしょうか。
私の息子のように、思い通りにならないことに出合って、不足をするという自由もあります。しかし、自由に使える心の最高の使い方は、どんなことが起きても、その中に喜びを見つけていくことだと教えて頂きます。
「喜べば　喜び事が喜んで　喜び連れて喜びに来る」という川柳を聞いたことがあります。
日々の生活の中の些細なことでも、あるいは人生の中で大きな分岐点になるような出来事でも、常に喜べる方向の見方をしていきたいと思います。それが、自分以外の誰かの喜びにつながっていれば、なお良いかもしれません。



いつも住みよい所へ

どんな人の人生にも、いつしか転機が訪れます。ある出会いが、その人の生き方自体を決定的に変えてしまうこともあるでしょう。
明治十七年二月のこと。神戸・三宮駅の助役をしていた増野正兵衛さんは、十数年来、脚気などに悩まされていました。また、妻のいとさんは、三年越しのソコヒを患っており、何人もの名医にかかっても為すすべなく、ただ失明を待つばかりという状態でした。その頃いとさんは、知人から「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である」と聞き、それなら一つ夫婦で話を聞いてみよう、ということになりました。
その時聞いた知人の話によると、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって、神様にもたれなさい」また、「食物は皆、親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない」と。
そこで正兵衛さん、病気のためにやめていたお酒でしたが、その日にあげたお神酒を頂いてみたところ、翌朝はすこぶる身体の調子がよく、さらにいとさんの目も、一夜のうちに白黒が分かるようになりました。
早速に夫婦揃って神様にお礼を申し上げ、話を聞いた知人宅へも行って喜びを告げました。ところが帰宅すると、どうしたことか、日暮れを待たずにいとさんはまた目が見えなくなってしまいました。
この時夫婦で相談し、「一夜の間に、神様の自由をお見せ頂いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない」と語り合い、夫婦心を合わせ、朝夕一心にお願いをしました。すると正兵衛さんは十五日間ですっきりご守護頂き、いとさんの目も、三十日間で元通り見えるようになったのです。
その年の四月、正兵衛さんは初めておぢば帰りをし、教祖にお目通りさせて頂きました。教祖は、「正兵衛さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで」と、やさしく仰せ下さいました。このお言葉に強く感激した正兵衛さんは、仕事も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、おたすけに奔走しました。しかし、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くありません。
そこで教祖に伺うと、「いつも住みよい所へ住むが宜かろう」と仰せられました。この時、正兵衛さんは、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのでした。(教祖伝逸話篇145「いつも住みよい所へ」)
おぢばを離れると身体の具合が悪くなり、訪ねていくと良くなるといったことを繰り返し経験した正兵衛さん。不思議なことに、教祖の御前に出ると、信仰的な疑問も家庭の悩みも一瞬にして解けてしまったといいます。
まさに教祖のお側こそ、正兵衛さんにとっての「住みよい所」でありました。後に明治二十三年、正兵衛さんといとさんは、夫婦揃ってお屋敷へ住み込むこととなったのでした。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>「ありがたい」と思う
大阪府在住　　山本　達則

どのご家庭でも、毎日の生活の中で一日として「同じ日」というのは無いと思います。「今朝は夫がご機嫌斜め」「奥さんは体調が優れない」「子供はご機嫌で学校へ」こんな日があると思えば、次の日は「夫は仕事がうまくいって上機嫌」「でも、子供が朝から熱っぽい」「奥さんは子供の世話で朝からばたばた」など、よくあることと言えば、よくある家庭での日常だと思います。
しかし、「よくあること」で片付けられないような一大事が起きたり、「何でこんなことになってしまったのか」と頭を抱えるような経験をすることもあります。
以前、私の息子が大学生になってバイクの免許を取りました。息子は早速、先輩から中古のバイクを譲ってもらうことになり、それを先輩の自宅まで取りに行くことになりました。
天理教の教会である我が家の妻は、「バイクを取りに行くなら、神様にお礼とお願いをしてから行きなさいよ」と声をかけました。息子はちょっと邪魔くさそうに、「帰ってからするわ」と答えましたが、妻は負けじと「先にしなさい」と。息子は渋々でしたが、神殿に上がり、神様にお礼とお願いをしてから、意気揚々と出かけて行きました。
しばらくして、息子から家に電話がかかってきました。「先輩からバイクをもらって、帰る途中でスリップ事故を起こした」と。幸い単独事故で、どなたに迷惑をかけることもなく、バイクが少し壊れたのと、息子が軽い怪我をしたということで、迎えに行くことになりました。バイクは修理が必要で、車屋さんに修理をお願いして、息子を車に乗せて自宅へ戻りました。
息子は帰りの道中で、「最悪や、お願いしていったのに」とやり場のない怒りを妻にぶつけました。その息子の様子を見て、妻は「何言ってるの。神様にお礼とお願いをしていったから、このくらいの事故で済ましてもらったんやで。お願いをしていかなかったら、今頃病院かもしれんよ」と言いました。
私はその二人の会話を聞いて、正に「言い得て妙」だと思いました。物事には色んな捉え方があることを、改めて実感させてもらいました。
確かに息子が言うところの「最悪だ」ということも、うなずけると言えばうなずけます。でも、この時の息子に「嬉しい」という気持ちはありません。
同じ結果であっても、「この程度で済ましてもらえて良かった」と思うことができれば「嬉しい」。物事の捉え方によって、同じ結果でも「良かった」と思うこともできれば、「最悪だ」と思うこともある。物事の見方は決して一方向でないのです。
得てしてお互いは、自分に無いものを持っている人に心を奪われ、自分にとって損な出来事に出合うと心を濁します。当たり前と言えば当たり前かも知れません。
天理教では、人間の身体をはじめ、生活の中の人間関係、更には周りの環境や手にするものすべてが神様からの「かりもの」であり、私たちが自由にできる我がものは「心」だけだと教えられます。その心の持ちようが、自分の人生を良くもすれば、悪くもすると聞かせて頂きます。
自分に無いものを持っている人に出会った時、「うらやましい」「どうして自分にはそれが無いのか」と心を濁す時は、おそらく自分の見えている方向の半分しか見えていないのではないでしょうか。
自分に無いものを持っている人は、確かに目の前にいるのかも知れませんが、実は自分が持っているものを持っていない人も、目を凝らせば世の中には沢山おられるのです。
当たり前だと思いがちな、目が見える、話ができる、耳が聞こえる、歩ける、食べられる…。言い出せばきりがありませんが、その当たり前と思い込んでいることが出来ずに、悩み苦しんでいる方は、世の中に沢山おられます。
方向を変えて、そちらの方を見ることが出来れば、自分が持っていないものを持っている人に出会っても、「ありがたい」という心が湧いてくるのではないでしょうか。
私の息子のように、思い通りにならないことに出合って、不足をするという自由もあります。しかし、自由に使える心の最高の使い方は、どんなことが起きても、その中に喜びを見つけていくことだと教えて頂きます。
「喜べば　喜び事が喜んで　喜び連れて喜びに来る」という川柳を聞いたことがあります。
日々の生活の中の些細なことでも、あるいは人生の中で大きな分岐点になるような出来事でも、常に喜べる方向の見方をしていきたいと思います。それが、自分以外の誰かの喜びにつながっていれば、なお良いかもしれません。



いつも住みよい所へ

どんな人の人生にも、いつしか転機が訪れます。ある出会いが、その人の生き方自体を決定的に変えてしまうこともあるでしょう。
明治十七年二月のこと。神戸・三宮駅の助役をしていた増野正兵衛さんは、十数年来、脚気などに悩まされていました。また、妻のいとさんは、三年越しのソコヒを患っており、何人もの名医にかかっても為すすべなく、ただ失明を待つばかりという状態でした。その頃いとさんは、知人から「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である」と聞き、それなら一つ夫婦で話を聞いてみよう、ということになりました。
その時聞いた知人の話によると、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって、神様にもたれなさい」また、「食物は皆、親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない」と。
そこで正兵衛さん、病気のためにやめていたお酒でしたが、その日にあげたお神酒を頂いてみたところ、翌朝はすこぶる身体の調子がよく、さらにいとさんの目も、一夜のうちに白黒が分かるようになりました。
早速に夫婦揃って神様にお礼を申し上げ、話を聞いた知人宅へも行って喜びを告げました。ところが帰宅すると、どうしたことか、日暮れを待たずにいとさんはまた目が見えなくなってしまいました。
この時夫婦で相談し、「一夜の間に、神様の自由をお見せ頂いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない」と語り合い、夫婦心を合わせ、朝夕一心にお願いをしました。すると正兵衛さんは十五日間ですっきりご守護頂き、いとさんの目も、三十日間で元通り見えるようになったのです。
その年の四月、正兵衛さんは初めておぢば帰りをし、教祖にお目通りさせて頂きました。教祖は、「正兵衛さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで」と、やさしく仰せ下さいました。このお言葉に強く感激した正兵衛さんは、仕事も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、おたすけに奔走しました。しかし、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くありません。
そこで教祖に伺うと、「いつも住みよい所へ住むが宜かろう」と仰せられました。この時、正兵衛さんは、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのでした。(教祖伝逸話篇145「いつも住みよい所へ」)
おぢばを離れると身体の具合が悪くなり、訪ねていくと良くなるといったことを繰り返し経験した正兵衛さん。不思議なことに、教祖の御前に出ると、信仰的な疑問も家庭の悩みも一瞬にして解けてしまったといいます。
まさに教祖のお側こそ、正兵衛さんにとっての「住みよい所」でありました。後に明治二十三年、正兵衛さんといとさんは、夫婦揃ってお屋敷へ住み込むこととなったのでした。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 13 Jun 2025 09:29:15 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>不登校から学んだ親心</title>
        <description><![CDATA[不登校から学んだ親心
福岡県在住　　内山　真太朗

教祖ご在世当時、病気をたすけられた人に対して、教祖は神様へのご恩報じは人をたすける事だと説かれ、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せられました。
自分がたすけられたと思えるということは、それ以前に自分に大変な苦労や悩みがあったということです。人の苦労や悩んでいる気持ちは、経験していなければなかなか分かるものではありません。
私は小学四年生から中学三年生までの約６年間、全くと言っていいほど学校に行っていませんでした。いわゆる「不登校」です。
なぜ学校に行かなかったか？ いまだによく聞かれますが、自分でも理由はよく分かりません。いじめられていた訳でもなく、友達がいなかったり、勉強が嫌いだった訳でもなく、本当にただ行きたくないだけでした。
突然私が学校に行かなくなったので、当然、両親や家族、また周りの人たちには、「なぜ学校に行かないんだ？」「学校の何が嫌いなの？」と問いただされたり、「義務教育なんだから行きなさい！」などと説得されたりしました。
教会長であった父は、毎日のように嫌がる私を力尽くで連れて行こうとしましたが、私は意地でも逃げ回っていました。また、放課後には担任の先生が毎日のように、学校へ来るよう説得しに家を訪れて来ましたが、周りの大人に色々言われると余計に行きたくなくなりました。なるべく人と接するのを避けるようになっていき、昼夜逆転の生活を送っていました。
そうして中学三年生まで不登校が続いたある日、父から「高校はどうするんだ？」という話がありました。私が「将来の事を考えたら、高校には行きたい」と答えると、父からおぢばの学校を勧められ、本当に大きな親心のおかげで天理の高校に入学させて頂きました。
しかし、おぢばでの学校生活は予想以上に厳しいものでした。それまでの自分勝手な生活とは正反対の、規律ある学校と寮の生活に、毎日辞めたいと思い続けた三年間でした。
でも、辞められなかった。高校入学が決まった時、不登校の６年間、私を支えてくれていた沢山の人たちが、まるで我が事のように心底喜んでくれ、大きな期待を寄せてくれた。今ここで辞めてしまっては、その支えて下さっていた大勢の人たちを再び裏切ることになってしまう。そう考えると、毎日どんなに辛くとも、辞めるに辞められませんでした。
そうして高校卒業後、天理大学、天理教校本科へと進み、高校から数えて９年間、おぢばで学ばせて頂き、地元・福岡に帰ってきました。
すると驚いたことに、当時は自分しかいなかった不登校の子供が、周囲にたくさんいることに気づいたのです。当時私が全く通っていなかった中学校から連絡があり、「今、この学校では、君のように不登校に悩む生徒やその保護者がたくさんいる。不登校から、高校、大学へと進学した君の話が是非聞きたい」と依頼され、PTAの場で話をする機会を頂きました。以後、色々な方から不登校や引きこもりの相談を受けるようになりました。
この時初めて、なぜ六年間という長きにわたり、理由もはっきりせずに不登校をしていたのか。「なるほど、そういうことか」と得心できました。
教祖は、いま現在、不登校に悩むたくさんの子供やその親御さん達をたすけるために、また、社会問題として大きく取り上げられる前に、当時、六年間にも及ぶ不登校という経験を私にさせて下さったのではないか。そして今、そのことで悩み苦しむ多くの人たちをたすけなさいという、教祖の親心がそこに込められているのだと確信しました。あの時の不登校という経験が、私の人生にとって、特に人をたすける上での大きな財産になっています。
そんなある日、両親との会話の中で不登校の話になりました。私が「不登校だったことに何の後悔もない。今、本当に幸せだ」と父に話すと、父は、「そうか。でもな、お前がここまで成長させて頂けたことには、確かな裏付けがあるんだ」と言いました。裏付けとは何のことかと思い、話の続きを聞きました。
私が不登校をしていた時、両親は、我が子の事情を通して色々と思案を重ね、「子供が15歳になるまでは、親のいんねん通りの姿をお見せ頂く」との教え通り、まずは自分たちの通り方、信仰姿勢を見つめ直そうと、様々な心定めをしたのです。
特に、子供の事情を解決するには親へのつなぎが大切だ、とのことから、上級教会への日参を欠かさない。そして月に一度、教会の元をさかのぼり、おぢばまでつながる全ての上級教会へ参拝するという心を定め、約13年の長きにわたって、私のために懸命に通ってくれていたのです。
私はその話を聞くまで、自分が不登校の中頑張ったから、厳しい高校生活を頑張ったから、今こうして通れているのだとばかり思っていました。しかしその陰には、我が子を思う両親の長きにわたる真実の伏せ込みがあったのです。そのおかげで、今の自分があるのだということに気づかされました。
今、私は４児の父親であり、そして、自分と同じような境遇の子供達との関わりを与えていただいています。彼らに直接、たすけの手を差しのべると同時に、彼らが将来「不登校していたから、引きこもりの時期があったから今の幸せな自分がある」と思ってもらえるよう、神様への伏せ込みをさせて頂いています。
日々、心を尽くして伏せ込んでいれば、教祖は必ず良い方向へとお導きくださいます。親を立てたその先には、子供が立派に育っていきます。
人をたすけるにも子供を育てるにも、まずは自分が、神様や人に喜んで頂けるような真実の心で日々通ることを、大切にしていきたいと思います。



だけど有難い「匂い」

嗅覚というのは五感の一つです。五感とは、目、視覚。耳、聴覚。鼻、嗅覚。舌、味覚。そして手で触る、触覚の五つですね。なかでも嗅覚は、人間がはるか大昔に身につけた能力のようです。視覚は、どちらかというと新しい能力のようです。
なぜ、そんなことが分かるのか。五感で得た情報はすべて脳に伝えられ、脳が判断を下します。物を見たときに「これは花だな」「花のなかでもチューリップだな」「チューリップのなかでも綺麗だな」というふうに感じるわけです。これはかなり高度な処理です。
これに対して、嗅覚はもっと直接的です。たとえば、臭い匂いを嗅いだ瞬間に「臭い！」となります。識別も何もありません。いきなり臭いのです。これは嗅覚の特徴です。面白いものですね。
嗅覚には、ほかにもいろいろな特徴があります。たとえば、良い香りだと思う香水でも、濃くなり過ぎると臭く感じるようになります。しかし、その場に長くいると慣れてしまうのです。これも判断するとか、脳が感じるとかではありませんね。
私たちがテレビを見ているとき、その場面を視覚と聴覚で想像します。この二つで十分想像できるのですが、もし、さらにリアルになって、テレビから匂いが出てきたらどうでしょう。新鮮な海産物の調理のシーン。トイレで化粧直しをするドラマのシーン。画面が変わるたびに匂いがするとしたら、おそらく部屋がさまざまな匂いでいっぱいになって、テレビを見ていられなくなるでしょう。
一方、視覚は見たくなければ遮断できます。目をつぶればいいのです。聴覚も聞きたくなければ耳を覆えばいい。口は閉じれば食べずに済みます。触覚は触らなければいいのです。
嗅覚はどうでしょうか。鼻をつまめばいいようなものですが、呼吸の役割もありますから、いつまでもつまんでいるわけにはいきません。結局、匂いというのは拒絶できないのです。五感のうち、より本能的で避けられない感覚、これが嗅覚なのです。
女性は成長するにつれて、自分や家族とは違う匂いを本能的に求めるといいます。ですから年ごろになると、お父さんの匂いは嫌になる。彼氏の匂いがいいのです。結婚して子供が生まれると、今度は子供を守ろうとする本能が働いて、自分や子供、家族以外の他人の匂いがだめになります。つまり、夫の匂いがだめになるのです。
男からすれば困ったことで、父親は娘をいくら可愛がっても、年ごろになると相手にしてもらえない。夫は子供が生まれたら、妻から相手にしてもらえないのです。
教祖は「にをいがけ」と仰せられました。私たちは、自分の匂いは分からないけれども、他人の匂いはよく分かります。自分の家の匂いは分からないけれども、よその家の匂いはよく分かるのです。
私たちはみな、自分の匂いを持っています。どんな匂いを掛けるのか。お道の匂いを掛けなさいと仰せくださっているのです。それはどうやったら身につくのかといえば、教えを実行すれば身につくのです。
お風呂に入って石けんで体を洗うと香しい匂いがします。石けんの匂いというのは、だいたいみんな好きな匂いのようです。ですから、お風呂から上がった人は良い匂いがするのです。石けんで体を洗うように、教えで心を洗う。綺麗にして、その匂いを掛けて回るということが、私たちの大事な御用なのです。
世界に無臭のものはありません。どんなものにも必ず匂いはあるのです。人も同じです。ですから「にをいがけ」は、いつでも誰でも、知らずしらずのうちにしているのです。私たちの役目は、お道の匂いを掛けて回ることです。そのためには、相手に近づかなければなりません。隣の部屋にいたのでは分からないのです。私たちのするべきことは、教えを身につけ、人に声を掛けて回ることなのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>不登校から学んだ親心
福岡県在住　　内山　真太朗

教祖ご在世当時、病気をたすけられた人に対して、教祖は神様へのご恩報じは人をたすける事だと説かれ、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せられました。
自分がたすけられたと思えるということは、それ以前に自分に大変な苦労や悩みがあったということです。人の苦労や悩んでいる気持ちは、経験していなければなかなか分かるものではありません。
私は小学四年生から中学三年生までの約６年間、全くと言っていいほど学校に行っていませんでした。いわゆる「不登校」です。
なぜ学校に行かなかったか？ いまだによく聞かれますが、自分でも理由はよく分かりません。いじめられていた訳でもなく、友達がいなかったり、勉強が嫌いだった訳でもなく、本当にただ行きたくないだけでした。
突然私が学校に行かなくなったので、当然、両親や家族、また周りの人たちには、「なぜ学校に行かないんだ？」「学校の何が嫌いなの？」と問いただされたり、「義務教育なんだから行きなさい！」などと説得されたりしました。
教会長であった父は、毎日のように嫌がる私を力尽くで連れて行こうとしましたが、私は意地でも逃げ回っていました。また、放課後には担任の先生が毎日のように、学校へ来るよう説得しに家を訪れて来ましたが、周りの大人に色々言われると余計に行きたくなくなりました。なるべく人と接するのを避けるようになっていき、昼夜逆転の生活を送っていました。
そうして中学三年生まで不登校が続いたある日、父から「高校はどうするんだ？」という話がありました。私が「将来の事を考えたら、高校には行きたい」と答えると、父からおぢばの学校を勧められ、本当に大きな親心のおかげで天理の高校に入学させて頂きました。
しかし、おぢばでの学校生活は予想以上に厳しいものでした。それまでの自分勝手な生活とは正反対の、規律ある学校と寮の生活に、毎日辞めたいと思い続けた三年間でした。
でも、辞められなかった。高校入学が決まった時、不登校の６年間、私を支えてくれていた沢山の人たちが、まるで我が事のように心底喜んでくれ、大きな期待を寄せてくれた。今ここで辞めてしまっては、その支えて下さっていた大勢の人たちを再び裏切ることになってしまう。そう考えると、毎日どんなに辛くとも、辞めるに辞められませんでした。
そうして高校卒業後、天理大学、天理教校本科へと進み、高校から数えて９年間、おぢばで学ばせて頂き、地元・福岡に帰ってきました。
すると驚いたことに、当時は自分しかいなかった不登校の子供が、周囲にたくさんいることに気づいたのです。当時私が全く通っていなかった中学校から連絡があり、「今、この学校では、君のように不登校に悩む生徒やその保護者がたくさんいる。不登校から、高校、大学へと進学した君の話が是非聞きたい」と依頼され、PTAの場で話をする機会を頂きました。以後、色々な方から不登校や引きこもりの相談を受けるようになりました。
この時初めて、なぜ六年間という長きにわたり、理由もはっきりせずに不登校をしていたのか。「なるほど、そういうことか」と得心できました。
教祖は、いま現在、不登校に悩むたくさんの子供やその親御さん達をたすけるために、また、社会問題として大きく取り上げられる前に、当時、六年間にも及ぶ不登校という経験を私にさせて下さったのではないか。そして今、そのことで悩み苦しむ多くの人たちをたすけなさいという、教祖の親心がそこに込められているのだと確信しました。あの時の不登校という経験が、私の人生にとって、特に人をたすける上での大きな財産になっています。
そんなある日、両親との会話の中で不登校の話になりました。私が「不登校だったことに何の後悔もない。今、本当に幸せだ」と父に話すと、父は、「そうか。でもな、お前がここまで成長させて頂けたことには、確かな裏付けがあるんだ」と言いました。裏付けとは何のことかと思い、話の続きを聞きました。
私が不登校をしていた時、両親は、我が子の事情を通して色々と思案を重ね、「子供が15歳になるまでは、親のいんねん通りの姿をお見せ頂く」との教え通り、まずは自分たちの通り方、信仰姿勢を見つめ直そうと、様々な心定めをしたのです。
特に、子供の事情を解決するには親へのつなぎが大切だ、とのことから、上級教会への日参を欠かさない。そして月に一度、教会の元をさかのぼり、おぢばまでつながる全ての上級教会へ参拝するという心を定め、約13年の長きにわたって、私のために懸命に通ってくれていたのです。
私はその話を聞くまで、自分が不登校の中頑張ったから、厳しい高校生活を頑張ったから、今こうして通れているのだとばかり思っていました。しかしその陰には、我が子を思う両親の長きにわたる真実の伏せ込みがあったのです。そのおかげで、今の自分があるのだということに気づかされました。
今、私は４児の父親であり、そして、自分と同じような境遇の子供達との関わりを与えていただいています。彼らに直接、たすけの手を差しのべると同時に、彼らが将来「不登校していたから、引きこもりの時期があったから今の幸せな自分がある」と思ってもらえるよう、神様への伏せ込みをさせて頂いています。
日々、心を尽くして伏せ込んでいれば、教祖は必ず良い方向へとお導きくださいます。親を立てたその先には、子供が立派に育っていきます。
人をたすけるにも子供を育てるにも、まずは自分が、神様や人に喜んで頂けるような真実の心で日々通ることを、大切にしていきたいと思います。



だけど有難い「匂い」

嗅覚というのは五感の一つです。五感とは、目、視覚。耳、聴覚。鼻、嗅覚。舌、味覚。そして手で触る、触覚の五つですね。なかでも嗅覚は、人間がはるか大昔に身につけた能力のようです。視覚は、どちらかというと新しい能力のようです。
なぜ、そんなことが分かるのか。五感で得た情報はすべて脳に伝えられ、脳が判断を下します。物を見たときに「これは花だな」「花のなかでもチューリップだな」「チューリップのなかでも綺麗だな」というふうに感じるわけです。これはかなり高度な処理です。
これに対して、嗅覚はもっと直接的です。たとえば、臭い匂いを嗅いだ瞬間に「臭い！」となります。識別も何もありません。いきなり臭いのです。これは嗅覚の特徴です。面白いものですね。
嗅覚には、ほかにもいろいろな特徴があります。たとえば、良い香りだと思う香水でも、濃くなり過ぎると臭く感じるようになります。しかし、その場に長くいると慣れてしまうのです。これも判断するとか、脳が感じるとかではありませんね。
私たちがテレビを見ているとき、その場面を視覚と聴覚で想像します。この二つで十分想像できるのですが、もし、さらにリアルになって、テレビから匂いが出てきたらどうでしょう。新鮮な海産物の調理のシーン。トイレで化粧直しをするドラマのシーン。画面が変わるたびに匂いがするとしたら、おそらく部屋がさまざまな匂いでいっぱいになって、テレビを見ていられなくなるでしょう。
一方、視覚は見たくなければ遮断できます。目をつぶればいいのです。聴覚も聞きたくなければ耳を覆えばいい。口は閉じれば食べずに済みます。触覚は触らなければいいのです。
嗅覚はどうでしょうか。鼻をつまめばいいようなものですが、呼吸の役割もありますから、いつまでもつまんでいるわけにはいきません。結局、匂いというのは拒絶できないのです。五感のうち、より本能的で避けられない感覚、これが嗅覚なのです。
女性は成長するにつれて、自分や家族とは違う匂いを本能的に求めるといいます。ですから年ごろになると、お父さんの匂いは嫌になる。彼氏の匂いがいいのです。結婚して子供が生まれると、今度は子供を守ろうとする本能が働いて、自分や子供、家族以外の他人の匂いがだめになります。つまり、夫の匂いがだめになるのです。
男からすれば困ったことで、父親は娘をいくら可愛がっても、年ごろになると相手にしてもらえない。夫は子供が生まれたら、妻から相手にしてもらえないのです。
教祖は「にをいがけ」と仰せられました。私たちは、自分の匂いは分からないけれども、他人の匂いはよく分かります。自分の家の匂いは分からないけれども、よその家の匂いはよく分かるのです。
私たちはみな、自分の匂いを持っています。どんな匂いを掛けるのか。お道の匂いを掛けなさいと仰せくださっているのです。それはどうやったら身につくのかといえば、教えを実行すれば身につくのです。
お風呂に入って石けんで体を洗うと香しい匂いがします。石けんの匂いというのは、だいたいみんな好きな匂いのようです。ですから、お風呂から上がった人は良い匂いがするのです。石けんで体を洗うように、教えで心を洗う。綺麗にして、その匂いを掛けて回るということが、私たちの大事な御用なのです。
世界に無臭のものはありません。どんなものにも必ず匂いはあるのです。人も同じです。ですから「にをいがけ」は、いつでも誰でも、知らずしらずのうちにしているのです。私たちの役目は、お道の匂いを掛けて回ることです。そのためには、相手に近づかなければなりません。隣の部屋にいたのでは分からないのです。私たちのするべきことは、教えを身につけ、人に声を掛けて回ることなのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>不登校から学んだ親心
福岡県在住　　内山　真太朗

教祖ご在世当時、病気をたすけられた人に対して、教祖は神様へのご恩報じは人をたすける事だと説かれ、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せられました。
自分がたすけられたと思えるということは、それ以前に自分に大変な苦労や悩みがあったということです。人の苦労や悩んでいる気持ちは、経験していなければなかなか分かるものではありません。
私は小学四年生から中学三年生までの約６年間、全くと言っていいほど学校に行っていませんでした。いわゆる「不登校」です。
なぜ学校に行かなかったか？ いまだによく聞かれますが、自分でも理由はよく分かりません。いじめられていた訳でもなく、友達がいなかったり、勉強が嫌いだった訳でもなく、本当にただ行きたくないだけでした。
突然私が学校に行かなくなったので、当然、両親や家族、また周りの人たちには、「なぜ学校に行かないんだ？」「学校の何が嫌いなの？」と問いただされたり、「義務教育なんだから行きなさい！」などと説得されたりしました。
教会長であった父は、毎日のように嫌がる私を力尽くで連れて行こうとしましたが、私は意地でも逃げ回っていました。また、放課後には担任の先生が毎日のように、学校へ来るよう説得しに家を訪れて来ましたが、周りの大人に色々言われると余計に行きたくなくなりました。なるべく人と接するのを避けるようになっていき、昼夜逆転の生活を送っていました。
そうして中学三年生まで不登校が続いたある日、父から「高校はどうするんだ？」という話がありました。私が「将来の事を考えたら、高校には行きたい」と答えると、父からおぢばの学校を勧められ、本当に大きな親心のおかげで天理の高校に入学させて頂きました。
しかし、おぢばでの学校生活は予想以上に厳しいものでした。それまでの自分勝手な生活とは正反対の、規律ある学校と寮の生活に、毎日辞めたいと思い続けた三年間でした。
でも、辞められなかった。高校入学が決まった時、不登校の６年間、私を支えてくれていた沢山の人たちが、まるで我が事のように心底喜んでくれ、大きな期待を寄せてくれた。今ここで辞めてしまっては、その支えて下さっていた大勢の人たちを再び裏切ることになってしまう。そう考えると、毎日どんなに辛くとも、辞めるに辞められませんでした。
そうして高校卒業後、天理大学、天理教校本科へと進み、高校から数えて９年間、おぢばで学ばせて頂き、地元・福岡に帰ってきました。
すると驚いたことに、当時は自分しかいなかった不登校の子供が、周囲にたくさんいることに気づいたのです。当時私が全く通っていなかった中学校から連絡があり、「今、この学校では、君のように不登校に悩む生徒やその保護者がたくさんいる。不登校から、高校、大学へと進学した君の話が是非聞きたい」と依頼され、PTAの場で話をする機会を頂きました。以後、色々な方から不登校や引きこもりの相談を受けるようになりました。
この時初めて、なぜ六年間という長きにわたり、理由もはっきりせずに不登校をしていたのか。「なるほど、そういうことか」と得心できました。
教祖は、いま現在、不登校に悩むたくさんの子供やその親御さん達をたすけるために、また、社会問題として大きく取り上げられる前に、当時、六年間にも及ぶ不登校という経験を私にさせて下さったのではないか。そして今、そのことで悩み苦しむ多くの人たちをたすけなさいという、教祖の親心がそこに込められているのだと確信しました。あの時の不登校という経験が、私の人生にとって、特に人をたすける上での大きな財産になっています。
そんなある日、両親との会話の中で不登校の話になりました。私が「不登校だったことに何の後悔もない。今、本当に幸せだ」と父に話すと、父は、「そうか。でもな、お前がここまで成長させて頂けたことには、確かな裏付けがあるんだ」と言いました。裏付けとは何のことかと思い、話の続きを聞きました。
私が不登校をしていた時、両親は、我が子の事情を通して色々と思案を重ね、「子供が15歳になるまでは、親のいんねん通りの姿をお見せ頂く」との教え通り、まずは自分たちの通り方、信仰姿勢を見つめ直そうと、様々な心定めをしたのです。
特に、子供の事情を解決するには親へのつなぎが大切だ、とのことから、上級教会への日参を欠かさない。そして月に一度、教会の元をさかのぼり、おぢばまでつながる全ての上級教会へ参拝するという心を定め、約13年の長きにわたって、私のために懸命に通ってくれていたのです。
私はその話を聞くまで、自分が不登校の中頑張ったから、厳しい高校生活を頑張ったから、今こうして通れているのだとばかり思っていました。しかしその陰には、我が子を思う両親の長きにわたる真実の伏せ込みがあったのです。そのおかげで、今の自分があるのだということに気づかされました。
今、私は４児の父親であり、そして、自分と同じような境遇の子供達との関わりを与えていただいています。彼らに直接、たすけの手を差しのべると同時に、彼らが将来「不登校していたから、引きこもりの時期があったから今の幸せな自分がある」と思ってもらえるよう、神様への伏せ込みをさせて頂いています。
日々、心を尽くして伏せ込んでいれば、教祖は必ず良い方向へとお導きくださいます。親を立てたその先には、子供が立派に育っていきます。
人をたすけるにも子供を育てるにも、まずは自分が、神様や人に喜んで頂けるような真実の心で日々通ることを、大切にしていきたいと思います。



だけど有難い「匂い」

嗅覚というのは五感の一つです。五感とは、目、視覚。耳、聴覚。鼻、嗅覚。舌、味覚。そして手で触る、触覚の五つですね。なかでも嗅覚は、人間がはるか大昔に身につけた能力のようです。視覚は、どちらかというと新しい能力のようです。
なぜ、そんなことが分かるのか。五感で得た情報はすべて脳に伝えられ、脳が判断を下します。物を見たときに「これは花だな」「花のなかでもチューリップだな」「チューリップのなかでも綺麗だな」というふうに感じるわけです。これはかなり高度な処理です。
これに対して、嗅覚はもっと直接的です。たとえば、臭い匂いを嗅いだ瞬間に「臭い！」となります。識別も何もありません。いきなり臭いのです。これは嗅覚の特徴です。面白いものですね。
嗅覚には、ほかにもいろいろな特徴があります。たとえば、良い香りだと思う香水でも、濃くなり過ぎると臭く感じるようになります。しかし、その場に長くいると慣れてしまうのです。これも判断するとか、脳が感じるとかではありませんね。
私たちがテレビを見ているとき、その場面を視覚と聴覚で想像します。この二つで十分想像できるのですが、もし、さらにリアルになって、テレビから匂いが出てきたらどうでしょう。新鮮な海産物の調理のシーン。トイレで化粧直しをするドラマのシーン。画面が変わるたびに匂いがするとしたら、おそらく部屋がさまざまな匂いでいっぱいになって、テレビを見ていられなくなるでしょう。
一方、視覚は見たくなければ遮断できます。目をつぶればいいのです。聴覚も聞きたくなければ耳を覆えばいい。口は閉じれば食べずに済みます。触覚は触らなければいいのです。
嗅覚はどうでしょうか。鼻をつまめばいいようなものですが、呼吸の役割もありますから、いつまでもつまんでいるわけにはいきません。結局、匂いというのは拒絶できないのです。五感のうち、より本能的で避けられない感覚、これが嗅覚なのです。
女性は成長するにつれて、自分や家族とは違う匂いを本能的に求めるといいます。ですから年ごろになると、お父さんの匂いは嫌になる。彼氏の匂いがいいのです。結婚して子供が生まれると、今度は子供を守ろうとする本能が働いて、自分や子供、家族以外の他人の匂いがだめになります。つまり、夫の匂いがだめになるのです。
男からすれば困ったことで、父親は娘をいくら可愛がっても、年ごろになると相手にしてもらえない。夫は子供が生まれたら、妻から相手にしてもらえないのです。
教祖は「にをいがけ」と仰せられました。私たちは、自分の匂いは分からないけれども、他人の匂いはよく分かります。自分の家の匂いは分からないけれども、よその家の匂いはよく分かるのです。
私たちはみな、自分の匂いを持っています。どんな匂いを掛けるのか。お道の匂いを掛けなさいと仰せくださっているのです。それはどうやったら身につくのかといえば、教えを実行すれば身につくのです。
お風呂に入って石けんで体を洗うと香しい匂いがします。石けんの匂いというのは、だいたいみんな好きな匂いのようです。ですから、お風呂から上がった人は良い匂いがするのです。石けんで体を洗うように、教えで心を洗う。綺麗にして、その匂いを掛けて回るということが、私たちの大事な御用なのです。
世界に無臭のものはありません。どんなものにも必ず匂いはあるのです。人も同じです。ですから「にをいがけ」は、いつでも誰でも、知らずしらずのうちにしているのです。私たちの役目は、お道の匂いを掛けて回ることです。そのためには、相手に近づかなければなりません。隣の部屋にいたのでは分からないのです。私たちのするべきことは、教えを身につけ、人に声を掛けて回ることなのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 06 Jun 2025 09:22:33 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>真実の種と肥やし</title>
        <description><![CDATA[真実の種と肥やし
埼玉県在住　関根　健一

私の父は自営業で土木建築業を営んでいました。二人の姉の下に生まれた私は、いわゆる「末っ子長男」。父にとって待望の男の子だったこともあり、幼い頃から現場に連れて行かれ、作業を手伝う母と一緒にセメントを触りながら、遊び半分で手伝いの真似事をしていました。
現場の職人さんたちからは、「おう、関根さんとこの跡取り息子」とからかわれつつも、可愛がってもらった楽しい思い出があります。
中学生になる頃には身体も大きくなり、まだ一人前とは言えないものの、父からも戦力として期待されるようになりました。自然と「自分もいずれこの仕事を継ぐんだ」という意識が芽生えました。
しかし、それと同時に、幼い頃には気にならなかったことが気にかかるようになりました。現場に着くと、大工さんや水道屋さんなど、その日作業をする職人さんの顔が見えるたびに「おはようございます！」と挨拶をします。礼儀に厳しい父の姿を見て育った私にとって、それは当然のことでした。
しかし、わずかではありますが、こちらが挨拶をしても無反応の職人さんがいました。30年以上前のことですから、当時は昭和初期や大正生まれの職人さんも多く、「職人は黙って仕事で成果を出す」という昔気質の方も少なくなかったのでしょう。
ただ、必ずしも年配の人が挨拶をしないわけではなく、年代の問題というよりも、その人自身の性格や事情があったのかもしれません。とは言え、挨拶を返してもらえないと、やはり寂しさや違和感を覚えたものです。
建築現場では、人の出入りや材料の搬入がかち合わないように、職人同士の調整が欠かせません。現場監督が不在のことも多く、その場にいる職人たちが連携し、作業を進める場面も頻繁にあります。
そんな時、朝に気持ちよく挨拶を交わした人と、挨拶を返さなかった人を比べると、どうしても後者の人には協力的な気持ちが湧きにくいものです。
もちろん、当時の私の未熟さもあったとは思いますが、実際に多くの人が日常的なコミュニケーションによって仕事への影響を受けるものです。裏を返せば、挨拶一つで相手の態度が好意的に変わるということ。今風に言えば、挨拶はコストパフォーマンスの良い行動の代表例でしょう。
一方で、挨拶を無視することは、「あなたにマイナスイメージを持っていますよ」と表明しているのと同じで、実にもったいない行為だと思います。
先日、ある仕事で業者Aさんと、それに関連する工事を行う業者Bさんと顔合わせをしました。Aさんは知人の紹介で、今回初めて仕事を依頼する方でした。打ち合わせの場に現れたAさんは、咥えタバコのまま、ろくに挨拶もせず打ち合わせを始めました。
私は面食らい、注意するタイミングを逃してしまいましたが、なんとか打ち合わせは終わり、翌週から工事が始まりました。
しかし、順調に思えた工事の中で、Aさんの会社の作業ミスが発覚しました。急きょ、関連業者と対応策を検討することになりました。発注元である私は責任を認め、平身低頭お詫びをし、なんとか理解を得ることができました。
その時、関連業者の担当者がポツリと、「Ａさん、最初の打ち合わせの時に咥えタバコでしたよね。なんとなく心配してたんですよ…」と漏らしたのです。
この件に関しても私に責任があることなので、謝罪して翌日からＡさんの会社に改善を求めて対応しました。仕事の質はもちろん大切ですが、普段のコミュニケーションが相手の印象に影響を与えることを改めて痛感した出来事となり、私も深く反省して教訓としました。
教祖伝逸話篇の中のお話に、「言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」という教祖のお言葉があります。（137「言葉一つ」）
人間の息は、口を大きく開いて「ハ～」と吐くと温かく、小さくすぼめて「フ～」と吐くと冷たくなる。同じように、言葉も使い方次第で相手の心を温めることも、冷ますこともできる。そう教えて下さっていると解釈できます。
他にも教祖は、言葉の大切さについて様々な教えを残してくださいました。その思いを受け継いだ先人たちは、「声は肥」肥やしであると例えました。
これは「声」と「肥」の単なる語呂合わせではなく、深い意味を持つ言葉だと思います。肥やしは、それだけを土に蒔いても意味を成しません。作物を育てるためには、「種」が必要です。
仕事ならば、まずしっかりとした技術や誠実な取り組みが「種」となり、その上で気持ちの良い挨拶や言葉が「肥やし」となって、より良い仕事へとつながる。おたすけの現場であれば、「どうしてもたすかって頂きたい」という思いと、真実を尽くす行いが「種」となり、そこに温かい言葉が「肥やし」となってご守護へとつながる。
つまり、人生を豊かにするためには「種」となる誠実な心や行動が必要であり、そこで心からあふれ出す温かな言葉が発せられることで、種が芽を出し、豊かな実りにつながるのです。
人生の実りを豊かにするための種と肥やし、どちらも大切にしていきたいと思います。



待っていたで

私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供の帰りを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。
文久元年、西田コトさんは、歯が痛むので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」ということを聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と温かく迎えられました。（教祖伝逸話篇8「一寸身上に」）
また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のために、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かなお言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠回りをして」）
どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびておられたかのようにして、迎え入れられています。
様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安な中、「待っていたで」と温かく迎えられた人々は、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。
親神様が人類の親であるなら、私たちの生活は、親神様による壮大な子育ての中にあるのではないでしょうか。親は常に子供の成人を待ち、大きく立派に育つことを願っています。
お言葉に、

　　たん／＼と月日にち／＼をもハくわ　　をふくの人をまつばかりやで　　（十三 84）

　　この人をどふゆう事でまつならば　　一れつわがこたすけたいから　　（十三 85）

とあります。
親神様が「待つ」ということの背景には、「一れつわがこたすけたい」とあるように、子供が少しでも陽気ぐらしに近づけるように導いてやりたい、との大いなる親心があるのです。子供の成長には時間がかかります。私たちも時間をかけてじっくりと、親神様の思いに沿う、たすけ合いの心を培いたいものです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>真実の種と肥やし
埼玉県在住　関根　健一

私の父は自営業で土木建築業を営んでいました。二人の姉の下に生まれた私は、いわゆる「末っ子長男」。父にとって待望の男の子だったこともあり、幼い頃から現場に連れて行かれ、作業を手伝う母と一緒にセメントを触りながら、遊び半分で手伝いの真似事をしていました。
現場の職人さんたちからは、「おう、関根さんとこの跡取り息子」とからかわれつつも、可愛がってもらった楽しい思い出があります。
中学生になる頃には身体も大きくなり、まだ一人前とは言えないものの、父からも戦力として期待されるようになりました。自然と「自分もいずれこの仕事を継ぐんだ」という意識が芽生えました。
しかし、それと同時に、幼い頃には気にならなかったことが気にかかるようになりました。現場に着くと、大工さんや水道屋さんなど、その日作業をする職人さんの顔が見えるたびに「おはようございます！」と挨拶をします。礼儀に厳しい父の姿を見て育った私にとって、それは当然のことでした。
しかし、わずかではありますが、こちらが挨拶をしても無反応の職人さんがいました。30年以上前のことですから、当時は昭和初期や大正生まれの職人さんも多く、「職人は黙って仕事で成果を出す」という昔気質の方も少なくなかったのでしょう。
ただ、必ずしも年配の人が挨拶をしないわけではなく、年代の問題というよりも、その人自身の性格や事情があったのかもしれません。とは言え、挨拶を返してもらえないと、やはり寂しさや違和感を覚えたものです。
建築現場では、人の出入りや材料の搬入がかち合わないように、職人同士の調整が欠かせません。現場監督が不在のことも多く、その場にいる職人たちが連携し、作業を進める場面も頻繁にあります。
そんな時、朝に気持ちよく挨拶を交わした人と、挨拶を返さなかった人を比べると、どうしても後者の人には協力的な気持ちが湧きにくいものです。
もちろん、当時の私の未熟さもあったとは思いますが、実際に多くの人が日常的なコミュニケーションによって仕事への影響を受けるものです。裏を返せば、挨拶一つで相手の態度が好意的に変わるということ。今風に言えば、挨拶はコストパフォーマンスの良い行動の代表例でしょう。
一方で、挨拶を無視することは、「あなたにマイナスイメージを持っていますよ」と表明しているのと同じで、実にもったいない行為だと思います。
先日、ある仕事で業者Aさんと、それに関連する工事を行う業者Bさんと顔合わせをしました。Aさんは知人の紹介で、今回初めて仕事を依頼する方でした。打ち合わせの場に現れたAさんは、咥えタバコのまま、ろくに挨拶もせず打ち合わせを始めました。
私は面食らい、注意するタイミングを逃してしまいましたが、なんとか打ち合わせは終わり、翌週から工事が始まりました。
しかし、順調に思えた工事の中で、Aさんの会社の作業ミスが発覚しました。急きょ、関連業者と対応策を検討することになりました。発注元である私は責任を認め、平身低頭お詫びをし、なんとか理解を得ることができました。
その時、関連業者の担当者がポツリと、「Ａさん、最初の打ち合わせの時に咥えタバコでしたよね。なんとなく心配してたんですよ…」と漏らしたのです。
この件に関しても私に責任があることなので、謝罪して翌日からＡさんの会社に改善を求めて対応しました。仕事の質はもちろん大切ですが、普段のコミュニケーションが相手の印象に影響を与えることを改めて痛感した出来事となり、私も深く反省して教訓としました。
教祖伝逸話篇の中のお話に、「言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」という教祖のお言葉があります。（137「言葉一つ」）
人間の息は、口を大きく開いて「ハ～」と吐くと温かく、小さくすぼめて「フ～」と吐くと冷たくなる。同じように、言葉も使い方次第で相手の心を温めることも、冷ますこともできる。そう教えて下さっていると解釈できます。
他にも教祖は、言葉の大切さについて様々な教えを残してくださいました。その思いを受け継いだ先人たちは、「声は肥」肥やしであると例えました。
これは「声」と「肥」の単なる語呂合わせではなく、深い意味を持つ言葉だと思います。肥やしは、それだけを土に蒔いても意味を成しません。作物を育てるためには、「種」が必要です。
仕事ならば、まずしっかりとした技術や誠実な取り組みが「種」となり、その上で気持ちの良い挨拶や言葉が「肥やし」となって、より良い仕事へとつながる。おたすけの現場であれば、「どうしてもたすかって頂きたい」という思いと、真実を尽くす行いが「種」となり、そこに温かい言葉が「肥やし」となってご守護へとつながる。
つまり、人生を豊かにするためには「種」となる誠実な心や行動が必要であり、そこで心からあふれ出す温かな言葉が発せられることで、種が芽を出し、豊かな実りにつながるのです。
人生の実りを豊かにするための種と肥やし、どちらも大切にしていきたいと思います。



待っていたで

私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供の帰りを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。
文久元年、西田コトさんは、歯が痛むので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」ということを聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と温かく迎えられました。（教祖伝逸話篇8「一寸身上に」）
また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のために、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かなお言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠回りをして」）
どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびておられたかのようにして、迎え入れられています。
様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安な中、「待っていたで」と温かく迎えられた人々は、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。
親神様が人類の親であるなら、私たちの生活は、親神様による壮大な子育ての中にあるのではないでしょうか。親は常に子供の成人を待ち、大きく立派に育つことを願っています。
お言葉に、

　　たん／＼と月日にち／＼をもハくわ　　をふくの人をまつばかりやで　　（十三 84）

　　この人をどふゆう事でまつならば　　一れつわがこたすけたいから　　（十三 85）

とあります。
親神様が「待つ」ということの背景には、「一れつわがこたすけたい」とあるように、子供が少しでも陽気ぐらしに近づけるように導いてやりたい、との大いなる親心があるのです。子供の成長には時間がかかります。私たちも時間をかけてじっくりと、親神様の思いに沿う、たすけ合いの心を培いたいものです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>真実の種と肥やし
埼玉県在住　関根　健一

私の父は自営業で土木建築業を営んでいました。二人の姉の下に生まれた私は、いわゆる「末っ子長男」。父にとって待望の男の子だったこともあり、幼い頃から現場に連れて行かれ、作業を手伝う母と一緒にセメントを触りながら、遊び半分で手伝いの真似事をしていました。
現場の職人さんたちからは、「おう、関根さんとこの跡取り息子」とからかわれつつも、可愛がってもらった楽しい思い出があります。
中学生になる頃には身体も大きくなり、まだ一人前とは言えないものの、父からも戦力として期待されるようになりました。自然と「自分もいずれこの仕事を継ぐんだ」という意識が芽生えました。
しかし、それと同時に、幼い頃には気にならなかったことが気にかかるようになりました。現場に着くと、大工さんや水道屋さんなど、その日作業をする職人さんの顔が見えるたびに「おはようございます！」と挨拶をします。礼儀に厳しい父の姿を見て育った私にとって、それは当然のことでした。
しかし、わずかではありますが、こちらが挨拶をしても無反応の職人さんがいました。30年以上前のことですから、当時は昭和初期や大正生まれの職人さんも多く、「職人は黙って仕事で成果を出す」という昔気質の方も少なくなかったのでしょう。
ただ、必ずしも年配の人が挨拶をしないわけではなく、年代の問題というよりも、その人自身の性格や事情があったのかもしれません。とは言え、挨拶を返してもらえないと、やはり寂しさや違和感を覚えたものです。
建築現場では、人の出入りや材料の搬入がかち合わないように、職人同士の調整が欠かせません。現場監督が不在のことも多く、その場にいる職人たちが連携し、作業を進める場面も頻繁にあります。
そんな時、朝に気持ちよく挨拶を交わした人と、挨拶を返さなかった人を比べると、どうしても後者の人には協力的な気持ちが湧きにくいものです。
もちろん、当時の私の未熟さもあったとは思いますが、実際に多くの人が日常的なコミュニケーションによって仕事への影響を受けるものです。裏を返せば、挨拶一つで相手の態度が好意的に変わるということ。今風に言えば、挨拶はコストパフォーマンスの良い行動の代表例でしょう。
一方で、挨拶を無視することは、「あなたにマイナスイメージを持っていますよ」と表明しているのと同じで、実にもったいない行為だと思います。
先日、ある仕事で業者Aさんと、それに関連する工事を行う業者Bさんと顔合わせをしました。Aさんは知人の紹介で、今回初めて仕事を依頼する方でした。打ち合わせの場に現れたAさんは、咥えタバコのまま、ろくに挨拶もせず打ち合わせを始めました。
私は面食らい、注意するタイミングを逃してしまいましたが、なんとか打ち合わせは終わり、翌週から工事が始まりました。
しかし、順調に思えた工事の中で、Aさんの会社の作業ミスが発覚しました。急きょ、関連業者と対応策を検討することになりました。発注元である私は責任を認め、平身低頭お詫びをし、なんとか理解を得ることができました。
その時、関連業者の担当者がポツリと、「Ａさん、最初の打ち合わせの時に咥えタバコでしたよね。なんとなく心配してたんですよ…」と漏らしたのです。
この件に関しても私に責任があることなので、謝罪して翌日からＡさんの会社に改善を求めて対応しました。仕事の質はもちろん大切ですが、普段のコミュニケーションが相手の印象に影響を与えることを改めて痛感した出来事となり、私も深く反省して教訓としました。
教祖伝逸話篇の中のお話に、「言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」という教祖のお言葉があります。（137「言葉一つ」）
人間の息は、口を大きく開いて「ハ～」と吐くと温かく、小さくすぼめて「フ～」と吐くと冷たくなる。同じように、言葉も使い方次第で相手の心を温めることも、冷ますこともできる。そう教えて下さっていると解釈できます。
他にも教祖は、言葉の大切さについて様々な教えを残してくださいました。その思いを受け継いだ先人たちは、「声は肥」肥やしであると例えました。
これは「声」と「肥」の単なる語呂合わせではなく、深い意味を持つ言葉だと思います。肥やしは、それだけを土に蒔いても意味を成しません。作物を育てるためには、「種」が必要です。
仕事ならば、まずしっかりとした技術や誠実な取り組みが「種」となり、その上で気持ちの良い挨拶や言葉が「肥やし」となって、より良い仕事へとつながる。おたすけの現場であれば、「どうしてもたすかって頂きたい」という思いと、真実を尽くす行いが「種」となり、そこに温かい言葉が「肥やし」となってご守護へとつながる。
つまり、人生を豊かにするためには「種」となる誠実な心や行動が必要であり、そこで心からあふれ出す温かな言葉が発せられることで、種が芽を出し、豊かな実りにつながるのです。
人生の実りを豊かにするための種と肥やし、どちらも大切にしていきたいと思います。



待っていたで

私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供の帰りを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。
文久元年、西田コトさんは、歯が痛むので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」ということを聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と温かく迎えられました。（教祖伝逸話篇8「一寸身上に」）
また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のために、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かなお言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠回りをして」）
どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびておられたかのようにして、迎え入れられています。
様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安な中、「待っていたで」と温かく迎えられた人々は、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。
親神様が人類の親であるなら、私たちの生活は、親神様による壮大な子育ての中にあるのではないでしょうか。親は常に子供の成人を待ち、大きく立派に育つことを願っています。
お言葉に、

　　たん／＼と月日にち／＼をもハくわ　　をふくの人をまつばかりやで　　（十三 84）

　　この人をどふゆう事でまつならば　　一れつわがこたすけたいから　　（十三 85）

とあります。
親神様が「待つ」ということの背景には、「一れつわがこたすけたい」とあるように、子供が少しでも陽気ぐらしに近づけるように導いてやりたい、との大いなる親心があるのです。子供の成長には時間がかかります。私たちも時間をかけてじっくりと、親神様の思いに沿う、たすけ合いの心を培いたいものです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 30 May 2025 09:27:01 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>あっぱれスピーチ</title>
        <description><![CDATA[あっぱれスピーチ
 岡山県在住　　山﨑　石根

我が家の子どもたちが通う中学校では、毎年３学期になると「私の主張発表会」という行事が開催されます。受験生ではない中１と中２の生徒全員が３分ずつスピーチの原稿を作って、クラスで発表し、みんなで評価をし合う行事です。
発表会の日は参観日も兼ねているので、中２の娘が「お母ちゃん、聞きに来てよ」とお願いをしていましたが、当日、妻は教会の御用があったため、参加が叶いませんでした。ですので、私が「ととは行けるで」と伝えるも、「ととは来なくていい」と、悲しい返事です。
そして迎えた当日、私は都合をつけることが出来たので、学校に足を運びました。他のクラスも覗きましたが、どの生徒たちの発表も目を見張るような素晴らしい内容ばかりです。環境問題や人権問題、ＳＤＧsなど大人顔負けのテーマが続き、いよいよ娘の番になりました。
教卓の前に立った彼女は、「当たり前と有り難さ」と元気な声でタイトルを述べると、「皆さんは生きる有り難さを感じたことがありますか？ また、それはどんな時ですか？ 少し考えてみてください」と、雄弁に語り始めました。
私はタイトルを聞き、「おや？」と思いました。そして、話の内容を聞いていくうちに、「やっぱり！」という気持ちになりました。
それは約一年前の教会の行事で、私が参加した子どもたちに話した「神様の話」そのものだったからです。娘の話には「天理教」とか「神様」という単語は出てこないものの、「当たり前ということはこの世の中に一切ない。当たり前の対義語は〝ありがたい〟だから、日々の当たり前に感謝をして、生きる喜びを感じることが大切だ」というような、私たちが信仰生活で大切にしている内容だったのです。
親のひいき目を抜きにしても、娘の発表は実に圧巻のパフォーマンスであり、日頃から講話を務める教会長の私に勝るとも劣らない、少しも引けをとらない堂々としたスピーチでした。
帰宅後、妻に発表会での様子を伝えた私は、娘に「ととの真似やったなぁ」と少し意地悪を言いました。すると彼女は、「ととの真似じゃないし！ 私のオリジナルやし！」と怒ります。
すかさず妻が援護射撃をしてきました。
「いや、考えてみてよ。あなたの原稿を見て、今回のスピーチを考えたわけでもないし、一年も前に聞いた話をこうやって自分の言葉で再現できる、しかも自分の主張に変えられるって、これって考えてみたら、ものすごく立派なことじゃない？」
妻にそう言われ、私も「そうだよな…」と得心しました。
内容は私の影響を受けていたとしても、彼女自身がそれを胸の内に飲み込んで、「こういうことかな？」と消化し、そして「自分の言葉でみんなに伝えたい」と思って、スピーチで表現してくれたのです。そのことを思うと、私は何だかとても嬉しい気持ちになったのでした。
さて、この行事は、発表後に生徒同士で内容や原稿、パフォーマンスの部分をお互いに評価し合い、先生の評価とあわせてクラスの代表を選びます。さらに、その中から学年代表に選ばれると、市が主催する行事に出場できることになるのです。
残念ながら、娘はクラスの代表には選ばれたものの、学年の代表には選ばれませんでした。しかし、彼女が堂々とみんなの前で、私たちの信仰の基本中の基本である「感謝の気持ちの大切さ」を伝えてくれたことが、私たちにとっては大きな大きな喜びであり、金メダルをあげたくなるような雄姿でした。

「育てるで育つ、育てにゃ育たん。肥えを置けば肥えが効く。古き新しきは言わん。真実あれば一つの理がある」（M21・9・24）

という神様のお言葉があります。
私たち夫婦も、子どもを育てる前に、私たち自身が信仰的に育っていくことが大切だと、常々自分たちに言い聞かせているつもりです。素晴らしい神様の御教えや、教祖のぬくもりを何とか子どもたちに伝えたい。そのために私たちがまずこの教えを実践し、その後ろ姿を見て、子どもたちに伝わればと願ってやまない毎日なのです。
その中で、私たち夫婦が唯一「これだけは…」と自信を持って言える信仰実践は、「ありがとう」をたくさん口にしていることでしょうか。未熟な故に失敗や反省の尽きない毎日ですが、おそらくどの家庭にも、またどの夫婦にも負けないぐらい、「ありがとう」「ありがとう」とお互いに言葉にしているかなと自負しています。
もちろん、それなりに夫婦ゲンカもすれば、親子ゲンカもよくします。ですので、思春期を迎えたお年頃の娘は、最近では「ととの理不尽さにいっぱい気づくようになった」と度々指摘するようになってきました。
外でどんなに綺麗ごとや偉そうなことを言っていても、行動が伴っていない私の姿に思う所がたくさんあるのでしょう。
彼女にその矛盾を指摘される度に、神様から問いかけられているような心持ちになり、反省する毎日ではあります。とは言え、それと同じぐらい何かある度に妻にお礼を言い、子どもたちにお礼を言い、そして就寝前も必ずお互いにお礼を言い合うようにしています。
そんな私たちの後ろ姿もまた、彼女には感じる所がきっとあったはずです。なので、私たちは完璧なお手本にはなれていませんが、「当たり前のことは一切ない。毎日の当たり前に〝有り難い〟と感謝して、生きる喜びを味わおう」と友達に主張してくれた彼女の姿が、親として嬉しくて仕方がなかったのです。
長女に、「今回のととの話をパクったこと、『天理教の時間』の話に使っていい？」と尋ねました。すると彼女は、「だ・か・ら、ととの話をパクってないんだってば！」と怒ります。
そうですね。よくよく考えると、これは私の話ではなくて、教祖が教えて下さった教えであり、親神様のご守護のお話です。
私の話が素晴らしいのではなく、娘の話が素晴らしいのでもなく、親神様のご守護、教祖の教えが素晴らしいんだよなぁと改めて実感しました。そのことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと、切に願う毎日です。



この家へやって来る者に

「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」（教祖伝3章「みちすがら」）

これは、教祖がこの教えを伝え始められた当初、「貧に落ち切れ」との親神様の思召しのまにまに、食べ物や着る物、金銭に至るまで、次々と困っている人々に施される道中に示されたお言葉です。これこそ、私たち一人ひとりを可愛い我が子と思われ、その帰りを待ちわびておられる真の親のお言葉と言えるでしょう。
さて、人類のふるさと「ぢば」に帰って来た子供たちを、教祖はいかにお迎え下されたのか。具体的に数々の逸話が残されています。
文久三年、辻忠作さんが初めてお屋敷へ帰り、妹のくらさんの気の間違いのおたすけを願い出ると、教祖は、「此所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に」と仰せられました。
このぢばは、世界八方をご守護下される親神天理王命様がお鎮まりになる所であり、どんな病も必ずたすけて頂ける。しかし、お腹が減ったからご飯を食べて、さあ元気になった、という訳にはいかない。心迷わずしっかり信心する中に、日々だんだんと薄紙をはぐようにご守護頂ける、とお聞かせ下されたのです。
また、文久四年、山中忠七さんの妻・そのさんが、二年越しの痔の病が悪化して危篤の容態となりました。この時、忠七さんが初めてお屋敷へ帰らせて頂くと、教祖から次のようなお言葉がありました。

「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」（教祖伝逸話篇11「神が引き寄せた」）

親神様が深いいんねんを見定めて、引き寄せたのであるから、病気は心配することはないと、お話し下されています。
教祖は、直筆による「おふでさき」に、


　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　（十四　35）


と記されています。
真実の親の思案というものは、かわいい我が子たちをどのようにたすけようかと、いつもそのことばかりを思っている。誠に親神様の親心は、私たちには計り知れないほど、広く深いものなのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>あっぱれスピーチ
 岡山県在住　　山﨑　石根

我が家の子どもたちが通う中学校では、毎年３学期になると「私の主張発表会」という行事が開催されます。受験生ではない中１と中２の生徒全員が３分ずつスピーチの原稿を作って、クラスで発表し、みんなで評価をし合う行事です。
発表会の日は参観日も兼ねているので、中２の娘が「お母ちゃん、聞きに来てよ」とお願いをしていましたが、当日、妻は教会の御用があったため、参加が叶いませんでした。ですので、私が「ととは行けるで」と伝えるも、「ととは来なくていい」と、悲しい返事です。
そして迎えた当日、私は都合をつけることが出来たので、学校に足を運びました。他のクラスも覗きましたが、どの生徒たちの発表も目を見張るような素晴らしい内容ばかりです。環境問題や人権問題、ＳＤＧsなど大人顔負けのテーマが続き、いよいよ娘の番になりました。
教卓の前に立った彼女は、「当たり前と有り難さ」と元気な声でタイトルを述べると、「皆さんは生きる有り難さを感じたことがありますか？ また、それはどんな時ですか？ 少し考えてみてください」と、雄弁に語り始めました。
私はタイトルを聞き、「おや？」と思いました。そして、話の内容を聞いていくうちに、「やっぱり！」という気持ちになりました。
それは約一年前の教会の行事で、私が参加した子どもたちに話した「神様の話」そのものだったからです。娘の話には「天理教」とか「神様」という単語は出てこないものの、「当たり前ということはこの世の中に一切ない。当たり前の対義語は〝ありがたい〟だから、日々の当たり前に感謝をして、生きる喜びを感じることが大切だ」というような、私たちが信仰生活で大切にしている内容だったのです。
親のひいき目を抜きにしても、娘の発表は実に圧巻のパフォーマンスであり、日頃から講話を務める教会長の私に勝るとも劣らない、少しも引けをとらない堂々としたスピーチでした。
帰宅後、妻に発表会での様子を伝えた私は、娘に「ととの真似やったなぁ」と少し意地悪を言いました。すると彼女は、「ととの真似じゃないし！ 私のオリジナルやし！」と怒ります。
すかさず妻が援護射撃をしてきました。
「いや、考えてみてよ。あなたの原稿を見て、今回のスピーチを考えたわけでもないし、一年も前に聞いた話をこうやって自分の言葉で再現できる、しかも自分の主張に変えられるって、これって考えてみたら、ものすごく立派なことじゃない？」
妻にそう言われ、私も「そうだよな…」と得心しました。
内容は私の影響を受けていたとしても、彼女自身がそれを胸の内に飲み込んで、「こういうことかな？」と消化し、そして「自分の言葉でみんなに伝えたい」と思って、スピーチで表現してくれたのです。そのことを思うと、私は何だかとても嬉しい気持ちになったのでした。
さて、この行事は、発表後に生徒同士で内容や原稿、パフォーマンスの部分をお互いに評価し合い、先生の評価とあわせてクラスの代表を選びます。さらに、その中から学年代表に選ばれると、市が主催する行事に出場できることになるのです。
残念ながら、娘はクラスの代表には選ばれたものの、学年の代表には選ばれませんでした。しかし、彼女が堂々とみんなの前で、私たちの信仰の基本中の基本である「感謝の気持ちの大切さ」を伝えてくれたことが、私たちにとっては大きな大きな喜びであり、金メダルをあげたくなるような雄姿でした。

「育てるで育つ、育てにゃ育たん。肥えを置けば肥えが効く。古き新しきは言わん。真実あれば一つの理がある」（M21・9・24）

という神様のお言葉があります。
私たち夫婦も、子どもを育てる前に、私たち自身が信仰的に育っていくことが大切だと、常々自分たちに言い聞かせているつもりです。素晴らしい神様の御教えや、教祖のぬくもりを何とか子どもたちに伝えたい。そのために私たちがまずこの教えを実践し、その後ろ姿を見て、子どもたちに伝わればと願ってやまない毎日なのです。
その中で、私たち夫婦が唯一「これだけは…」と自信を持って言える信仰実践は、「ありがとう」をたくさん口にしていることでしょうか。未熟な故に失敗や反省の尽きない毎日ですが、おそらくどの家庭にも、またどの夫婦にも負けないぐらい、「ありがとう」「ありがとう」とお互いに言葉にしているかなと自負しています。
もちろん、それなりに夫婦ゲンカもすれば、親子ゲンカもよくします。ですので、思春期を迎えたお年頃の娘は、最近では「ととの理不尽さにいっぱい気づくようになった」と度々指摘するようになってきました。
外でどんなに綺麗ごとや偉そうなことを言っていても、行動が伴っていない私の姿に思う所がたくさんあるのでしょう。
彼女にその矛盾を指摘される度に、神様から問いかけられているような心持ちになり、反省する毎日ではあります。とは言え、それと同じぐらい何かある度に妻にお礼を言い、子どもたちにお礼を言い、そして就寝前も必ずお互いにお礼を言い合うようにしています。
そんな私たちの後ろ姿もまた、彼女には感じる所がきっとあったはずです。なので、私たちは完璧なお手本にはなれていませんが、「当たり前のことは一切ない。毎日の当たり前に〝有り難い〟と感謝して、生きる喜びを味わおう」と友達に主張してくれた彼女の姿が、親として嬉しくて仕方がなかったのです。
長女に、「今回のととの話をパクったこと、『天理教の時間』の話に使っていい？」と尋ねました。すると彼女は、「だ・か・ら、ととの話をパクってないんだってば！」と怒ります。
そうですね。よくよく考えると、これは私の話ではなくて、教祖が教えて下さった教えであり、親神様のご守護のお話です。
私の話が素晴らしいのではなく、娘の話が素晴らしいのでもなく、親神様のご守護、教祖の教えが素晴らしいんだよなぁと改めて実感しました。そのことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと、切に願う毎日です。



この家へやって来る者に

「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」（教祖伝3章「みちすがら」）

これは、教祖がこの教えを伝え始められた当初、「貧に落ち切れ」との親神様の思召しのまにまに、食べ物や着る物、金銭に至るまで、次々と困っている人々に施される道中に示されたお言葉です。これこそ、私たち一人ひとりを可愛い我が子と思われ、その帰りを待ちわびておられる真の親のお言葉と言えるでしょう。
さて、人類のふるさと「ぢば」に帰って来た子供たちを、教祖はいかにお迎え下されたのか。具体的に数々の逸話が残されています。
文久三年、辻忠作さんが初めてお屋敷へ帰り、妹のくらさんの気の間違いのおたすけを願い出ると、教祖は、「此所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に」と仰せられました。
このぢばは、世界八方をご守護下される親神天理王命様がお鎮まりになる所であり、どんな病も必ずたすけて頂ける。しかし、お腹が減ったからご飯を食べて、さあ元気になった、という訳にはいかない。心迷わずしっかり信心する中に、日々だんだんと薄紙をはぐようにご守護頂ける、とお聞かせ下されたのです。
また、文久四年、山中忠七さんの妻・そのさんが、二年越しの痔の病が悪化して危篤の容態となりました。この時、忠七さんが初めてお屋敷へ帰らせて頂くと、教祖から次のようなお言葉がありました。

「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」（教祖伝逸話篇11「神が引き寄せた」）

親神様が深いいんねんを見定めて、引き寄せたのであるから、病気は心配することはないと、お話し下されています。
教祖は、直筆による「おふでさき」に、


　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　（十四　35）


と記されています。
真実の親の思案というものは、かわいい我が子たちをどのようにたすけようかと、いつもそのことばかりを思っている。誠に親神様の親心は、私たちには計り知れないほど、広く深いものなのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>あっぱれスピーチ
 岡山県在住　　山﨑　石根

我が家の子どもたちが通う中学校では、毎年３学期になると「私の主張発表会」という行事が開催されます。受験生ではない中１と中２の生徒全員が３分ずつスピーチの原稿を作って、クラスで発表し、みんなで評価をし合う行事です。
発表会の日は参観日も兼ねているので、中２の娘が「お母ちゃん、聞きに来てよ」とお願いをしていましたが、当日、妻は教会の御用があったため、参加が叶いませんでした。ですので、私が「ととは行けるで」と伝えるも、「ととは来なくていい」と、悲しい返事です。
そして迎えた当日、私は都合をつけることが出来たので、学校に足を運びました。他のクラスも覗きましたが、どの生徒たちの発表も目を見張るような素晴らしい内容ばかりです。環境問題や人権問題、ＳＤＧsなど大人顔負けのテーマが続き、いよいよ娘の番になりました。
教卓の前に立った彼女は、「当たり前と有り難さ」と元気な声でタイトルを述べると、「皆さんは生きる有り難さを感じたことがありますか？ また、それはどんな時ですか？ 少し考えてみてください」と、雄弁に語り始めました。
私はタイトルを聞き、「おや？」と思いました。そして、話の内容を聞いていくうちに、「やっぱり！」という気持ちになりました。
それは約一年前の教会の行事で、私が参加した子どもたちに話した「神様の話」そのものだったからです。娘の話には「天理教」とか「神様」という単語は出てこないものの、「当たり前ということはこの世の中に一切ない。当たり前の対義語は〝ありがたい〟だから、日々の当たり前に感謝をして、生きる喜びを感じることが大切だ」というような、私たちが信仰生活で大切にしている内容だったのです。
親のひいき目を抜きにしても、娘の発表は実に圧巻のパフォーマンスであり、日頃から講話を務める教会長の私に勝るとも劣らない、少しも引けをとらない堂々としたスピーチでした。
帰宅後、妻に発表会での様子を伝えた私は、娘に「ととの真似やったなぁ」と少し意地悪を言いました。すると彼女は、「ととの真似じゃないし！ 私のオリジナルやし！」と怒ります。
すかさず妻が援護射撃をしてきました。
「いや、考えてみてよ。あなたの原稿を見て、今回のスピーチを考えたわけでもないし、一年も前に聞いた話をこうやって自分の言葉で再現できる、しかも自分の主張に変えられるって、これって考えてみたら、ものすごく立派なことじゃない？」
妻にそう言われ、私も「そうだよな…」と得心しました。
内容は私の影響を受けていたとしても、彼女自身がそれを胸の内に飲み込んで、「こういうことかな？」と消化し、そして「自分の言葉でみんなに伝えたい」と思って、スピーチで表現してくれたのです。そのことを思うと、私は何だかとても嬉しい気持ちになったのでした。
さて、この行事は、発表後に生徒同士で内容や原稿、パフォーマンスの部分をお互いに評価し合い、先生の評価とあわせてクラスの代表を選びます。さらに、その中から学年代表に選ばれると、市が主催する行事に出場できることになるのです。
残念ながら、娘はクラスの代表には選ばれたものの、学年の代表には選ばれませんでした。しかし、彼女が堂々とみんなの前で、私たちの信仰の基本中の基本である「感謝の気持ちの大切さ」を伝えてくれたことが、私たちにとっては大きな大きな喜びであり、金メダルをあげたくなるような雄姿でした。

「育てるで育つ、育てにゃ育たん。肥えを置けば肥えが効く。古き新しきは言わん。真実あれば一つの理がある」（M21・9・24）

という神様のお言葉があります。
私たち夫婦も、子どもを育てる前に、私たち自身が信仰的に育っていくことが大切だと、常々自分たちに言い聞かせているつもりです。素晴らしい神様の御教えや、教祖のぬくもりを何とか子どもたちに伝えたい。そのために私たちがまずこの教えを実践し、その後ろ姿を見て、子どもたちに伝わればと願ってやまない毎日なのです。
その中で、私たち夫婦が唯一「これだけは…」と自信を持って言える信仰実践は、「ありがとう」をたくさん口にしていることでしょうか。未熟な故に失敗や反省の尽きない毎日ですが、おそらくどの家庭にも、またどの夫婦にも負けないぐらい、「ありがとう」「ありがとう」とお互いに言葉にしているかなと自負しています。
もちろん、それなりに夫婦ゲンカもすれば、親子ゲンカもよくします。ですので、思春期を迎えたお年頃の娘は、最近では「ととの理不尽さにいっぱい気づくようになった」と度々指摘するようになってきました。
外でどんなに綺麗ごとや偉そうなことを言っていても、行動が伴っていない私の姿に思う所がたくさんあるのでしょう。
彼女にその矛盾を指摘される度に、神様から問いかけられているような心持ちになり、反省する毎日ではあります。とは言え、それと同じぐらい何かある度に妻にお礼を言い、子どもたちにお礼を言い、そして就寝前も必ずお互いにお礼を言い合うようにしています。
そんな私たちの後ろ姿もまた、彼女には感じる所がきっとあったはずです。なので、私たちは完璧なお手本にはなれていませんが、「当たり前のことは一切ない。毎日の当たり前に〝有り難い〟と感謝して、生きる喜びを味わおう」と友達に主張してくれた彼女の姿が、親として嬉しくて仕方がなかったのです。
長女に、「今回のととの話をパクったこと、『天理教の時間』の話に使っていい？」と尋ねました。すると彼女は、「だ・か・ら、ととの話をパクってないんだってば！」と怒ります。
そうですね。よくよく考えると、これは私の話ではなくて、教祖が教えて下さった教えであり、親神様のご守護のお話です。
私の話が素晴らしいのではなく、娘の話が素晴らしいのでもなく、親神様のご守護、教祖の教えが素晴らしいんだよなぁと改めて実感しました。そのことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと、切に願う毎日です。



この家へやって来る者に

「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」（教祖伝3章「みちすがら」）

これは、教祖がこの教えを伝え始められた当初、「貧に落ち切れ」との親神様の思召しのまにまに、食べ物や着る物、金銭に至るまで、次々と困っている人々に施される道中に示されたお言葉です。これこそ、私たち一人ひとりを可愛い我が子と思われ、その帰りを待ちわびておられる真の親のお言葉と言えるでしょう。
さて、人類のふるさと「ぢば」に帰って来た子供たちを、教祖はいかにお迎え下されたのか。具体的に数々の逸話が残されています。
文久三年、辻忠作さんが初めてお屋敷へ帰り、妹のくらさんの気の間違いのおたすけを願い出ると、教祖は、「此所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に」と仰せられました。
このぢばは、世界八方をご守護下される親神天理王命様がお鎮まりになる所であり、どんな病も必ずたすけて頂ける。しかし、お腹が減ったからご飯を食べて、さあ元気になった、という訳にはいかない。心迷わずしっかり信心する中に、日々だんだんと薄紙をはぐようにご守護頂ける、とお聞かせ下されたのです。
また、文久四年、山中忠七さんの妻・そのさんが、二年越しの痔の病が悪化して危篤の容態となりました。この時、忠七さんが初めてお屋敷へ帰らせて頂くと、教祖から次のようなお言葉がありました。

「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」（教祖伝逸話篇11「神が引き寄せた」）

親神様が深いいんねんを見定めて、引き寄せたのであるから、病気は心配することはないと、お話し下されています。
教祖は、直筆による「おふでさき」に、


　　にち／＼にをやのしやんとゆうものわ　　たすけるもよふばかりをもてる　（十四　35）


と記されています。
真実の親の思案というものは、かわいい我が子たちをどのようにたすけようかと、いつもそのことばかりを思っている。誠に親神様の親心は、私たちには計り知れないほど、広く深いものなのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 23 May 2025 09:00:15 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>出直し</title>
        <description><![CDATA[出直し
 千葉県在住　　中臺　眞治

今から21年前、私が大学を卒業して間もない頃の話です。ある日の朝、父から電話があり、「Aさんが今、入院していて、いつ出直してもおかしくない病気なんだけど、今日は用があってどうしても行くことが出来ないから、お前、代わりに行っておさづけを取り次いできてくれないか？」と言われました。
Aさんというのは80代の男性で、若い頃から熱心に信仰を続けてきた方です。
それに対して当時の私は、おさづけの理は拝戴していたものの、ほとんど取り次いだことはありませんでした。また、Aさんとは小さい頃に少し面識があっただけで、お話した記憶もほとんどありませんでした。
そういう自分が、病気でもうすぐ出直すかもしれないという人の所に行っていいのだろうか？と迷いましたが、父から「Aさんは昔から熱心に信仰をされてきた方だから。行けば喜んでくれるから」と言われ、「分かりました」とその御用を受けることにしました。
すぐに電車を乗り継ぎ、Aさんの入院している病院へと向かいましたが、道中は緊張でいっぱいでした。死は人間にとって大きな悩み。Aさんは身体的に苦しい中で、精神的にも死と向き合っておられる。今どんな気持ちなのだろうか？ どう声をかけたらいいのか？
頭の中ではそのことばかり考えていましたが、結局、答えの分からないまま病室へと入りました。
早速Aさんと目が合いました。長年お会いしていない方だったので、私が誰か分からないだろうと思い、まずは自己紹介と挨拶をしました。すると 「あー眞治君かい。大きくなったね」と私のことを覚えていて下さり、嬉しい気持ちになりました。
そして「ご飯は食べれてますか？」「眠れてますか？」と何気ない会話を始めたのですが、途中からはAさんの方から色々とお話をして下さいました。
30分ほどのお話の中で特に印象に残っているのは、戦後間もない物のない時代の話でした。
「教会につながる者同士で、みんながあったまれる場所を作ろうという話になったんだ。それぞれが貧しい中ではあったけれども、コートを買ったつもり、御馳走を食べたつもりになって、釘やトタン、垂木などの材料を買って持ち寄って、手作りで教会建物を建てたんだよ」と、若い時代に人のたすかりを願って歩まれた日々の事を懐かしそうに語っておられました。
さらに続けて、「僕はね、死ぬのは全然怖くないんだよ。借りた物を返すだけのことでしょ。これから神様の懐に抱かれると思うと、もう嬉しくて嬉しくて仕方ないんだよ」と、本当に嬉しそうな顔で私に聞かせて下さいました。
天理教の原典『おふでさき』では、

　　このものを四ねんいせんにむかいとり　　神がだきしめこれがしよこや　　（三 109）

と記され、神様によって迎え取られた魂は、そのあたたかい懐に抱かれるのだと教えて下さっています。
また、天理教では死ぬことを「出直し」と言います。死ぬことがこの世で生きることの終わりを意味するのに対して、出直しは、古くなった着物を新しい着物に着替えるように、お借りした身体を神様にお返しし、また新しい身体をお借りして、再びこの世に出直して帰ってくることを意味しています。
教祖・中山みき様は、末女こかん様の出直しに際して、「可愛相に。早く帰っておいで」と優しくねぎらわれました。先ほどのAさんの言葉は、こうした教えを信じ、人にもそう伝えてきたからこそ自然と湧いてきた思いだったのではないでしょうか。
その後のAさんですが、体調の回復にともない退院され、家族の元へと帰っていかれました。そして何度か入退院を繰り返し、数年後に出直されました。
葬儀の日、私はこの時のAさんの言葉を思い起こしながら、Aさんは悔いのない人生を生きたのだなと感じ、自分もそのような人生を生きられたらなと思いました。
この出来事から21年が経ち、今、私がどう考えているのかと言えば、「悔いもないし、いつ出直すことになってもいい」などという気持ちにはなっていません。まだまだ生かしていただきたいと願っています。
しかし、いつかは出直す。その現実は変えようがありませんが、だからこそ、今、生かされていることに感謝しながら、一日一日を大切に過ごしたいものだと考えています。そしていつの日かAさんのように、恐れずに穏やかに、その時を迎えることができたらと願っています。
また、身近な人の出直しを見送る側になった際には、深い悲しみや苦しみに心が覆われてしまい、その克服には長い時間がかかるかもしれません。しかし、信仰がそれらを受け入れるための支えとなり、生きる力を与えてくれるものになると信じています。



一あっての二

この教えでは、物事にふさわしい旬や、順序というものをとても重要な角目としています。旬に合わせて順序良く処すれば、物事はスムーズに運び、万事順調な道を歩ませて頂けるのです。
神様のお言葉に、
「席と言う一あっての二、何程賢うても、晴天の中でも、日々の雨もあれば、旬々の理を聞いてくれ。聞き分けねば一時道とは言わん」（Ｍ26・12・16）
とあります。
一があって二がある。二があって一があるのではない。それはいくら賢い者であっても、その順序を覆すことはできません。人間の知恵や考えだけでは、どうにもならないものがあるということです。
私たちの生活の源であるところの自然現象、晴天や雨のご守護、暖かい寒いというのは、人知の支配が及ぶところではありません。また、農作物を育てるには、それぞれの旬に応じて丹精を込めなければなりません。
ある道の先人は、このように語っています。
「考えてみまするに、神様のお恵みの大きいことは、人間心では計り知ることができませぬ。この寒い冬の日に、夏のあの暑い日がどこにあるかと思えましょう。また、夏の日に、この冬がどこにあると思えましょうか。けれども、天然自然の理が巡れば、ここに春夏秋冬の旬というものができて、それぞれに応じてご守護を下さるのであります。
これは、人間の力でどうすることもできません。ただ今、庭を見渡しますると、葉は落ち尽くしており、木の根を分けても、どこにも葉や花の影は見当たりませぬが、時至りて春来たれば、花も咲き、葉も茂り、実も結ぶのであります。
この道は、ただ人間心でこしらえた教えやない、元の神・実の神、親の道でありまして、天に口なし、教祖の口を借りて説いてくれた道でありますから、守らにゃならん、聞かにゃならん、通らにゃならん教えであります。
何ごとも天理に任せてさえおれば、なんにも案じることも心配もいりませぬ。それを、人間心としてどうやらすると、天理に逆らうと、例えば、南風の吹いているのに南に向かって行くようなもの。ゆえに舟が進まぬ。どうやらすると覆ることがあるけれども、南風の時には北へ向かって舟を進めさえすれば、早く港へ舟を着けることができる。天の理とてもそのとおり、理に従って行きさえすれば、苦しみもなく、安全にこの世を渡ることができるのであります。」
（終）]]></description>
        <googleplay:description>出直し
 千葉県在住　　中臺　眞治

今から21年前、私が大学を卒業して間もない頃の話です。ある日の朝、父から電話があり、「Aさんが今、入院していて、いつ出直してもおかしくない病気なんだけど、今日は用があってどうしても行くことが出来ないから、お前、代わりに行っておさづけを取り次いできてくれないか？」と言われました。
Aさんというのは80代の男性で、若い頃から熱心に信仰を続けてきた方です。
それに対して当時の私は、おさづけの理は拝戴していたものの、ほとんど取り次いだことはありませんでした。また、Aさんとは小さい頃に少し面識があっただけで、お話した記憶もほとんどありませんでした。
そういう自分が、病気でもうすぐ出直すかもしれないという人の所に行っていいのだろうか？と迷いましたが、父から「Aさんは昔から熱心に信仰をされてきた方だから。行けば喜んでくれるから」と言われ、「分かりました」とその御用を受けることにしました。
すぐに電車を乗り継ぎ、Aさんの入院している病院へと向かいましたが、道中は緊張でいっぱいでした。死は人間にとって大きな悩み。Aさんは身体的に苦しい中で、精神的にも死と向き合っておられる。今どんな気持ちなのだろうか？ どう声をかけたらいいのか？
頭の中ではそのことばかり考えていましたが、結局、答えの分からないまま病室へと入りました。
早速Aさんと目が合いました。長年お会いしていない方だったので、私が誰か分からないだろうと思い、まずは自己紹介と挨拶をしました。すると 「あー眞治君かい。大きくなったね」と私のことを覚えていて下さり、嬉しい気持ちになりました。
そして「ご飯は食べれてますか？」「眠れてますか？」と何気ない会話を始めたのですが、途中からはAさんの方から色々とお話をして下さいました。
30分ほどのお話の中で特に印象に残っているのは、戦後間もない物のない時代の話でした。
「教会につながる者同士で、みんながあったまれる場所を作ろうという話になったんだ。それぞれが貧しい中ではあったけれども、コートを買ったつもり、御馳走を食べたつもりになって、釘やトタン、垂木などの材料を買って持ち寄って、手作りで教会建物を建てたんだよ」と、若い時代に人のたすかりを願って歩まれた日々の事を懐かしそうに語っておられました。
さらに続けて、「僕はね、死ぬのは全然怖くないんだよ。借りた物を返すだけのことでしょ。これから神様の懐に抱かれると思うと、もう嬉しくて嬉しくて仕方ないんだよ」と、本当に嬉しそうな顔で私に聞かせて下さいました。
天理教の原典『おふでさき』では、

　　このものを四ねんいせんにむかいとり　　神がだきしめこれがしよこや　　（三 109）

と記され、神様によって迎え取られた魂は、そのあたたかい懐に抱かれるのだと教えて下さっています。
また、天理教では死ぬことを「出直し」と言います。死ぬことがこの世で生きることの終わりを意味するのに対して、出直しは、古くなった着物を新しい着物に着替えるように、お借りした身体を神様にお返しし、また新しい身体をお借りして、再びこの世に出直して帰ってくることを意味しています。
教祖・中山みき様は、末女こかん様の出直しに際して、「可愛相に。早く帰っておいで」と優しくねぎらわれました。先ほどのAさんの言葉は、こうした教えを信じ、人にもそう伝えてきたからこそ自然と湧いてきた思いだったのではないでしょうか。
その後のAさんですが、体調の回復にともない退院され、家族の元へと帰っていかれました。そして何度か入退院を繰り返し、数年後に出直されました。
葬儀の日、私はこの時のAさんの言葉を思い起こしながら、Aさんは悔いのない人生を生きたのだなと感じ、自分もそのような人生を生きられたらなと思いました。
この出来事から21年が経ち、今、私がどう考えているのかと言えば、「悔いもないし、いつ出直すことになってもいい」などという気持ちにはなっていません。まだまだ生かしていただきたいと願っています。
しかし、いつかは出直す。その現実は変えようがありませんが、だからこそ、今、生かされていることに感謝しながら、一日一日を大切に過ごしたいものだと考えています。そしていつの日かAさんのように、恐れずに穏やかに、その時を迎えることができたらと願っています。
また、身近な人の出直しを見送る側になった際には、深い悲しみや苦しみに心が覆われてしまい、その克服には長い時間がかかるかもしれません。しかし、信仰がそれらを受け入れるための支えとなり、生きる力を与えてくれるものになると信じています。



一あっての二

この教えでは、物事にふさわしい旬や、順序というものをとても重要な角目としています。旬に合わせて順序良く処すれば、物事はスムーズに運び、万事順調な道を歩ませて頂けるのです。
神様のお言葉に、
「席と言う一あっての二、何程賢うても、晴天の中でも、日々の雨もあれば、旬々の理を聞いてくれ。聞き分けねば一時道とは言わん」（Ｍ26・12・16）
とあります。
一があって二がある。二があって一があるのではない。それはいくら賢い者であっても、その順序を覆すことはできません。人間の知恵や考えだけでは、どうにもならないものがあるということです。
私たちの生活の源であるところの自然現象、晴天や雨のご守護、暖かい寒いというのは、人知の支配が及ぶところではありません。また、農作物を育てるには、それぞれの旬に応じて丹精を込めなければなりません。
ある道の先人は、このように語っています。
「考えてみまするに、神様のお恵みの大きいことは、人間心では計り知ることができませぬ。この寒い冬の日に、夏のあの暑い日がどこにあるかと思えましょう。また、夏の日に、この冬がどこにあると思えましょうか。けれども、天然自然の理が巡れば、ここに春夏秋冬の旬というものができて、それぞれに応じてご守護を下さるのであります。
これは、人間の力でどうすることもできません。ただ今、庭を見渡しますると、葉は落ち尽くしており、木の根を分けても、どこにも葉や花の影は見当たりませぬが、時至りて春来たれば、花も咲き、葉も茂り、実も結ぶのであります。
この道は、ただ人間心でこしらえた教えやない、元の神・実の神、親の道でありまして、天に口なし、教祖の口を借りて説いてくれた道でありますから、守らにゃならん、聞かにゃならん、通らにゃならん教えであります。
何ごとも天理に任せてさえおれば、なんにも案じることも心配もいりませぬ。それを、人間心としてどうやらすると、天理に逆らうと、例えば、南風の吹いているのに南に向かって行くようなもの。ゆえに舟が進まぬ。どうやらすると覆ることがあるけれども、南風の時には北へ向かって舟を進めさえすれば、早く港へ舟を着けることができる。天の理とてもそのとおり、理に従って行きさえすれば、苦しみもなく、安全にこの世を渡ることができるのであります。」
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>出直し
 千葉県在住　　中臺　眞治

今から21年前、私が大学を卒業して間もない頃の話です。ある日の朝、父から電話があり、「Aさんが今、入院していて、いつ出直してもおかしくない病気なんだけど、今日は用があってどうしても行くことが出来ないから、お前、代わりに行っておさづけを取り次いできてくれないか？」と言われました。
Aさんというのは80代の男性で、若い頃から熱心に信仰を続けてきた方です。
それに対して当時の私は、おさづけの理は拝戴していたものの、ほとんど取り次いだことはありませんでした。また、Aさんとは小さい頃に少し面識があっただけで、お話した記憶もほとんどありませんでした。
そういう自分が、病気でもうすぐ出直すかもしれないという人の所に行っていいのだろうか？と迷いましたが、父から「Aさんは昔から熱心に信仰をされてきた方だから。行けば喜んでくれるから」と言われ、「分かりました」とその御用を受けることにしました。
すぐに電車を乗り継ぎ、Aさんの入院している病院へと向かいましたが、道中は緊張でいっぱいでした。死は人間にとって大きな悩み。Aさんは身体的に苦しい中で、精神的にも死と向き合っておられる。今どんな気持ちなのだろうか？ どう声をかけたらいいのか？
頭の中ではそのことばかり考えていましたが、結局、答えの分からないまま病室へと入りました。
早速Aさんと目が合いました。長年お会いしていない方だったので、私が誰か分からないだろうと思い、まずは自己紹介と挨拶をしました。すると 「あー眞治君かい。大きくなったね」と私のことを覚えていて下さり、嬉しい気持ちになりました。
そして「ご飯は食べれてますか？」「眠れてますか？」と何気ない会話を始めたのですが、途中からはAさんの方から色々とお話をして下さいました。
30分ほどのお話の中で特に印象に残っているのは、戦後間もない物のない時代の話でした。
「教会につながる者同士で、みんながあったまれる場所を作ろうという話になったんだ。それぞれが貧しい中ではあったけれども、コートを買ったつもり、御馳走を食べたつもりになって、釘やトタン、垂木などの材料を買って持ち寄って、手作りで教会建物を建てたんだよ」と、若い時代に人のたすかりを願って歩まれた日々の事を懐かしそうに語っておられました。
さらに続けて、「僕はね、死ぬのは全然怖くないんだよ。借りた物を返すだけのことでしょ。これから神様の懐に抱かれると思うと、もう嬉しくて嬉しくて仕方ないんだよ」と、本当に嬉しそうな顔で私に聞かせて下さいました。
天理教の原典『おふでさき』では、

　　このものを四ねんいせんにむかいとり　　神がだきしめこれがしよこや　　（三 109）

と記され、神様によって迎え取られた魂は、そのあたたかい懐に抱かれるのだと教えて下さっています。
また、天理教では死ぬことを「出直し」と言います。死ぬことがこの世で生きることの終わりを意味するのに対して、出直しは、古くなった着物を新しい着物に着替えるように、お借りした身体を神様にお返しし、また新しい身体をお借りして、再びこの世に出直して帰ってくることを意味しています。
教祖・中山みき様は、末女こかん様の出直しに際して、「可愛相に。早く帰っておいで」と優しくねぎらわれました。先ほどのAさんの言葉は、こうした教えを信じ、人にもそう伝えてきたからこそ自然と湧いてきた思いだったのではないでしょうか。
その後のAさんですが、体調の回復にともない退院され、家族の元へと帰っていかれました。そして何度か入退院を繰り返し、数年後に出直されました。
葬儀の日、私はこの時のAさんの言葉を思い起こしながら、Aさんは悔いのない人生を生きたのだなと感じ、自分もそのような人生を生きられたらなと思いました。
この出来事から21年が経ち、今、私がどう考えているのかと言えば、「悔いもないし、いつ出直すことになってもいい」などという気持ちにはなっていません。まだまだ生かしていただきたいと願っています。
しかし、いつかは出直す。その現実は変えようがありませんが、だからこそ、今、生かされていることに感謝しながら、一日一日を大切に過ごしたいものだと考えています。そしていつの日かAさんのように、恐れずに穏やかに、その時を迎えることができたらと願っています。
また、身近な人の出直しを見送る側になった際には、深い悲しみや苦しみに心が覆われてしまい、その克服には長い時間がかかるかもしれません。しかし、信仰がそれらを受け入れるための支えとなり、生きる力を与えてくれるものになると信じています。



一あっての二

この教えでは、物事にふさわしい旬や、順序というものをとても重要な角目としています。旬に合わせて順序良く処すれば、物事はスムーズに運び、万事順調な道を歩ませて頂けるのです。
神様のお言葉に、
「席と言う一あっての二、何程賢うても、晴天の中でも、日々の雨もあれば、旬々の理を聞いてくれ。聞き分けねば一時道とは言わん」（Ｍ26・12・16）
とあります。
一があって二がある。二があって一があるのではない。それはいくら賢い者であっても、その順序を覆すことはできません。人間の知恵や考えだけでは、どうにもならないものがあるということです。
私たちの生活の源であるところの自然現象、晴天や雨のご守護、暖かい寒いというのは、人知の支配が及ぶところではありません。また、農作物を育てるには、それぞれの旬に応じて丹精を込めなければなりません。
ある道の先人は、このように語っています。
「考えてみまするに、神様のお恵みの大きいことは、人間心では計り知ることができませぬ。この寒い冬の日に、夏のあの暑い日がどこにあるかと思えましょう。また、夏の日に、この冬がどこにあると思えましょうか。けれども、天然自然の理が巡れば、ここに春夏秋冬の旬というものができて、それぞれに応じてご守護を下さるのであります。
これは、人間の力でどうすることもできません。ただ今、庭を見渡しますると、葉は落ち尽くしており、木の根を分けても、どこにも葉や花の影は見当たりませぬが、時至りて春来たれば、花も咲き、葉も茂り、実も結ぶのであります。
この道は、ただ人間心でこしらえた教えやない、元の神・実の神、親の道でありまして、天に口なし、教祖の口を借りて説いてくれた道でありますから、守らにゃならん、聞かにゃならん、通らにゃならん教えであります。
何ごとも天理に任せてさえおれば、なんにも案じることも心配もいりませぬ。それを、人間心としてどうやらすると、天理に逆らうと、例えば、南風の吹いているのに南に向かって行くようなもの。ゆえに舟が進まぬ。どうやらすると覆ることがあるけれども、南風の時には北へ向かって舟を進めさえすれば、早く港へ舟を着けることができる。天の理とてもそのとおり、理に従って行きさえすれば、苦しみもなく、安全にこの世を渡ることができるのであります。」
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 16 May 2025 09:23:42 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>自分は自分でいいんだと思える子供に</title>
        <description><![CDATA[自分は自分でいいんだと思える子供に
 静岡県在住　　末吉　喜恵

子供が生まれた瞬間は「本当に、無事に生まれてきてくれてありがとう」と心から思うものです。しかし、成長してくるとその思いも段々薄まってきて、もっとこうなって欲しいとか、もっと勉強ができるようになって欲しいとか、親として欲が出てくるのではないでしょうか。
子供にとっては、親が一番最初の「おもちゃ」だと言われています。どうして親がおもちゃなのでしょうか？ 実は子供は、親の反応を見て試しているようなのです。
親は自分が泣いたり動いたりすると感情豊かに反応してくれるので、子供からすれば面白いと感じるようです。子供はそんな親の反応が見たくて仕方ないのです。
ハイハイができるようになった頃から、いたずらをすると、親は自分の用事をほったらかしてすぐに対応してくれることを知っていて、その反応が見たくていたずらをしているのだと聞いたことがあります。
三女が３歳で、長男が１歳の時の話です。お絵描きが楽しくなってきた頃で、「まる」をとても上手に書いていました。
ある日、子供たちが外でケラケラ笑って遊んでいました。いつもはケンカもするのに、その日はやけに仲良く遊んでいるなと思っていました。
結構長い時間そのまま放っておいて私は家事をしていたのですが、外に出てみると、何と石を使って車にお絵描きをしていたのです。
我が家の大きなワゴン車の全面、ありとあらゆる場所にお絵描きをして、車は傷だらけになっていました。
私は驚きながらも、「すごく上手にまるや人の顔を描けてるな～。これだけ大きなキャンパスに書いたら、それは楽しかっただろうな～」などと脳天気に思いましたが…そんなこと言っている場合じゃありません！「どうしよう！夫に叱られる！」
そこで、どうやったらそのお絵描きの傷が消えるか考えました。当時いろんなアイデアを紹介しているテレビ番組があり、その中に、「歯磨き粉で簡単に車の傷が消える！」というアイデアを見たことを思い出しました。
子供たちと一緒にきれいに消そう！と、歯磨き粉とタオルを用意しました。思いの外、車がきれいになるので、子供たちも楽しそうに消す作業をしていました。
しかし、案の定この一件を知ったパパは子供たちを思い切り叱りました。子供たちも泣いて謝りました。
「人様の車に同じようなことをしたら、こんなことでは済まされない」「歯磨き粉で消したら、一時はきれいに見えても余計に傷がつく」と、私も子供たちと一緒になって叱られました。確かにそれはその通りだと反省しましたが、今となっては懐かしい思い出です。
その後も子供たちのいたずらは続きました。壁に書いてはいけないということは分かったようですが、押し入れの中だったらバレないとでも思ったのでしょうか？　今度は押し入れの中に入り、またまた絵を描いたのです。それもマジックペンで！　でもその時はなぜか「車よりはマシか」と思えるようになっていたから不思議です。
他にも、わざとボールを当てて障子を破ってしまったり、色々といたずらはしていましたが、命の危険が及びそうなこと以外は、大らかに見守ろうと思っていました。そんなにガミガミ怒らなかったのが良かったのでしょうか、そのうちにいたずらはしなくなっていきました。
ついつい、悪いことをしたら叱るということばかり考えてしまいがちですが、子供は親がどうすれば自分に反応してくれるのか？　どれぐらい自分のことを見てくれているのか？ 内容よりもその反応の大きさであったり強さを求めているのだと思います。
叱ってばかりいると、子供自身の自己肯定感が下がってしまうので、私は子供がいたずらをした時は、それをやめようとしたタイミングで、「ママの言うこと聞いてくれたね、やめようとしてくれたね」と、プラスの言葉をかけていました。
ついマイナスの言葉になってしまいそうな所を、プラスの言葉にしようといつも心がけました。たとえば、走ってはいけない所で走った場合、「走らない！」ではなく「歩こうね」と言ったり、机の上に登ったら「登らない！」ではなく「降りようね」と表現するなど、プラスの言い方に変換する方法はいくらでもあります。
何気ない日常で、やって当たり前だと思えることでも、ちゃんと出来たねと声を掛けることを大切にしてきました。
朝一人で起きてきたら、「ちゃんと時間通りに起きて、身支度も自分でできてるね」と言ったり、「朝ご飯ちゃんと食べたね。元気に食べれるって有難いね」など。普通のことが普通にできること、当たり前のことがどれだけありがたいことなのか、口に出して言うことが大切ではないかと思います。
ちょっと見方や視点を変えることで、至る所に親神様のご守護があることに気がつきます。そこに感動できるかどうか。もっとこうしてくれたらいいのに、と子供に不足をしてしまうこともありますが、生きていること、毎日学校に行くこと、帰ってくることが当たり前ではなく、これほど結構なことはないのです。
私はある時、左足首が腫れてしまい、くるぶしの所にコブのようなものができました。正座もできなくなり、歩き方もぎこちなくなってしまいました。病院で診てもらっても原因は不明でした。
自分の何がいけなかったのかな？ 正座した時にゴリっとやってしまったのかな？ いけない心遣いをしてしまったのかな？と、その痛いところばかりを気にしてしまっていました。でもある時、その原因を探すのではなく、他のご守護をもっと喜ぼうと思ったのです。
目は老眼っぽくなってきたけど、しっかり見える。耳も聞こえにくくはなってきたけど、しっかり聞くことができる。
ご飯を食べてもしっかり消化されて快便だし、手も指も自由に動かせて仕事もできるし、身体のあらゆる所が健康にご守護頂いていることを感謝するようにしました。
つい、痛いところや辛いところなど、気になるところばかりに目が行きがちですが、そうではなく、もっと視点を大きく持てば、喜びの種は毎日山ほどあります。その喜びの種を探す癖を習慣に出来れば、毎日嬉しいことだらけで、辛いことも辛くなくなるのかなと思っています。
同じように、子供に対しても出来ないところが気になりがちですが、出来ないことに比べれば、出来ていることはもっとたくさんあります。その出来ている所を喜んで、プラスの言葉を掛け続けていきたいと思います。



はらだちのほこり

腹を立てたことがないという人は、おそらくいないでしょう。腹を立てるのに理由などありません。冷静に振り返れば原因をたどることも出来ますが、その場の怒りにまかせ、つい言葉に出してしまうといった経験は、誰しもあると思います。
教祖は、私たちが日常使いがちな、陽気ぐらしに反する心づかいを「ほこり」にたとえて教えられていますが、その中で「はらだち」のほこりについて、次のようにお示しくださいます。
「はらだちとは、腹が立つのは気ままからであります。心が澄まぬからであります。人が悪い事を言ったとて腹を立て、誰がどうしたとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないから、腹が立つのであります。これからは腹を立てず、天の理を立てるようにするがよろしい。短気や癇癪は、自分の徳を落とすだけでなく、命を損なうことがあります」
教祖は常に、教えを求めて寄り来る人々のそれぞれの心づかいを見極められた上で、お諭し下さいます。
入信後間もない、生来気の短い青年に対しては、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」と仰せられました。
また、夫婦で熱心に信心していた桝井伊三郎さんには、次のようにお話し下さいました。
「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」
「伊三郎さん、あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」
伊三郎さんは、女房が告げ口をしたのだろうか、と疑いましたが、いやいや神様は見抜き見通しであらせられる、と思い返し、「今後は一切腹を立てません」と心を定めたところ、少しも腹が立たなくなったのでした。（教祖伝逸話篇137「言葉一つ」）
神様の教えをほうきとして、日々胸の掃除に努めるうちに、腹立ちの心は消え去ってしまう。実に尊い先人の歩みが示されています。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>自分は自分でいいんだと思える子供に
 静岡県在住　　末吉　喜恵

子供が生まれた瞬間は「本当に、無事に生まれてきてくれてありがとう」と心から思うものです。しかし、成長してくるとその思いも段々薄まってきて、もっとこうなって欲しいとか、もっと勉強ができるようになって欲しいとか、親として欲が出てくるのではないでしょうか。
子供にとっては、親が一番最初の「おもちゃ」だと言われています。どうして親がおもちゃなのでしょうか？ 実は子供は、親の反応を見て試しているようなのです。
親は自分が泣いたり動いたりすると感情豊かに反応してくれるので、子供からすれば面白いと感じるようです。子供はそんな親の反応が見たくて仕方ないのです。
ハイハイができるようになった頃から、いたずらをすると、親は自分の用事をほったらかしてすぐに対応してくれることを知っていて、その反応が見たくていたずらをしているのだと聞いたことがあります。
三女が３歳で、長男が１歳の時の話です。お絵描きが楽しくなってきた頃で、「まる」をとても上手に書いていました。
ある日、子供たちが外でケラケラ笑って遊んでいました。いつもはケンカもするのに、その日はやけに仲良く遊んでいるなと思っていました。
結構長い時間そのまま放っておいて私は家事をしていたのですが、外に出てみると、何と石を使って車にお絵描きをしていたのです。
我が家の大きなワゴン車の全面、ありとあらゆる場所にお絵描きをして、車は傷だらけになっていました。
私は驚きながらも、「すごく上手にまるや人の顔を描けてるな～。これだけ大きなキャンパスに書いたら、それは楽しかっただろうな～」などと脳天気に思いましたが…そんなこと言っている場合じゃありません！「どうしよう！夫に叱られる！」
そこで、どうやったらそのお絵描きの傷が消えるか考えました。当時いろんなアイデアを紹介しているテレビ番組があり、その中に、「歯磨き粉で簡単に車の傷が消える！」というアイデアを見たことを思い出しました。
子供たちと一緒にきれいに消そう！と、歯磨き粉とタオルを用意しました。思いの外、車がきれいになるので、子供たちも楽しそうに消す作業をしていました。
しかし、案の定この一件を知ったパパは子供たちを思い切り叱りました。子供たちも泣いて謝りました。
「人様の車に同じようなことをしたら、こんなことでは済まされない」「歯磨き粉で消したら、一時はきれいに見えても余計に傷がつく」と、私も子供たちと一緒になって叱られました。確かにそれはその通りだと反省しましたが、今となっては懐かしい思い出です。
その後も子供たちのいたずらは続きました。壁に書いてはいけないということは分かったようですが、押し入れの中だったらバレないとでも思ったのでしょうか？　今度は押し入れの中に入り、またまた絵を描いたのです。それもマジックペンで！　でもその時はなぜか「車よりはマシか」と思えるようになっていたから不思議です。
他にも、わざとボールを当てて障子を破ってしまったり、色々といたずらはしていましたが、命の危険が及びそうなこと以外は、大らかに見守ろうと思っていました。そんなにガミガミ怒らなかったのが良かったのでしょうか、そのうちにいたずらはしなくなっていきました。
ついつい、悪いことをしたら叱るということばかり考えてしまいがちですが、子供は親がどうすれば自分に反応してくれるのか？　どれぐらい自分のことを見てくれているのか？ 内容よりもその反応の大きさであったり強さを求めているのだと思います。
叱ってばかりいると、子供自身の自己肯定感が下がってしまうので、私は子供がいたずらをした時は、それをやめようとしたタイミングで、「ママの言うこと聞いてくれたね、やめようとしてくれたね」と、プラスの言葉をかけていました。
ついマイナスの言葉になってしまいそうな所を、プラスの言葉にしようといつも心がけました。たとえば、走ってはいけない所で走った場合、「走らない！」ではなく「歩こうね」と言ったり、机の上に登ったら「登らない！」ではなく「降りようね」と表現するなど、プラスの言い方に変換する方法はいくらでもあります。
何気ない日常で、やって当たり前だと思えることでも、ちゃんと出来たねと声を掛けることを大切にしてきました。
朝一人で起きてきたら、「ちゃんと時間通りに起きて、身支度も自分でできてるね」と言ったり、「朝ご飯ちゃんと食べたね。元気に食べれるって有難いね」など。普通のことが普通にできること、当たり前のことがどれだけありがたいことなのか、口に出して言うことが大切ではないかと思います。
ちょっと見方や視点を変えることで、至る所に親神様のご守護があることに気がつきます。そこに感動できるかどうか。もっとこうしてくれたらいいのに、と子供に不足をしてしまうこともありますが、生きていること、毎日学校に行くこと、帰ってくることが当たり前ではなく、これほど結構なことはないのです。
私はある時、左足首が腫れてしまい、くるぶしの所にコブのようなものができました。正座もできなくなり、歩き方もぎこちなくなってしまいました。病院で診てもらっても原因は不明でした。
自分の何がいけなかったのかな？ 正座した時にゴリっとやってしまったのかな？ いけない心遣いをしてしまったのかな？と、その痛いところばかりを気にしてしまっていました。でもある時、その原因を探すのではなく、他のご守護をもっと喜ぼうと思ったのです。
目は老眼っぽくなってきたけど、しっかり見える。耳も聞こえにくくはなってきたけど、しっかり聞くことができる。
ご飯を食べてもしっかり消化されて快便だし、手も指も自由に動かせて仕事もできるし、身体のあらゆる所が健康にご守護頂いていることを感謝するようにしました。
つい、痛いところや辛いところなど、気になるところばかりに目が行きがちですが、そうではなく、もっと視点を大きく持てば、喜びの種は毎日山ほどあります。その喜びの種を探す癖を習慣に出来れば、毎日嬉しいことだらけで、辛いことも辛くなくなるのかなと思っています。
同じように、子供に対しても出来ないところが気になりがちですが、出来ないことに比べれば、出来ていることはもっとたくさんあります。その出来ている所を喜んで、プラスの言葉を掛け続けていきたいと思います。



はらだちのほこり

腹を立てたことがないという人は、おそらくいないでしょう。腹を立てるのに理由などありません。冷静に振り返れば原因をたどることも出来ますが、その場の怒りにまかせ、つい言葉に出してしまうといった経験は、誰しもあると思います。
教祖は、私たちが日常使いがちな、陽気ぐらしに反する心づかいを「ほこり」にたとえて教えられていますが、その中で「はらだち」のほこりについて、次のようにお示しくださいます。
「はらだちとは、腹が立つのは気ままからであります。心が澄まぬからであります。人が悪い事を言ったとて腹を立て、誰がどうしたとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないから、腹が立つのであります。これからは腹を立てず、天の理を立てるようにするがよろしい。短気や癇癪は、自分の徳を落とすだけでなく、命を損なうことがあります」
教祖は常に、教えを求めて寄り来る人々のそれぞれの心づかいを見極められた上で、お諭し下さいます。
入信後間もない、生来気の短い青年に対しては、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」と仰せられました。
また、夫婦で熱心に信心していた桝井伊三郎さんには、次のようにお話し下さいました。
「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」
「伊三郎さん、あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」
伊三郎さんは、女房が告げ口をしたのだろうか、と疑いましたが、いやいや神様は見抜き見通しであらせられる、と思い返し、「今後は一切腹を立てません」と心を定めたところ、少しも腹が立たなくなったのでした。（教祖伝逸話篇137「言葉一つ」）
神様の教えをほうきとして、日々胸の掃除に努めるうちに、腹立ちの心は消え去ってしまう。実に尊い先人の歩みが示されています。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>自分は自分でいいんだと思える子供に
 静岡県在住　　末吉　喜恵

子供が生まれた瞬間は「本当に、無事に生まれてきてくれてありがとう」と心から思うものです。しかし、成長してくるとその思いも段々薄まってきて、もっとこうなって欲しいとか、もっと勉強ができるようになって欲しいとか、親として欲が出てくるのではないでしょうか。
子供にとっては、親が一番最初の「おもちゃ」だと言われています。どうして親がおもちゃなのでしょうか？ 実は子供は、親の反応を見て試しているようなのです。
親は自分が泣いたり動いたりすると感情豊かに反応してくれるので、子供からすれば面白いと感じるようです。子供はそんな親の反応が見たくて仕方ないのです。
ハイハイができるようになった頃から、いたずらをすると、親は自分の用事をほったらかしてすぐに対応してくれることを知っていて、その反応が見たくていたずらをしているのだと聞いたことがあります。
三女が３歳で、長男が１歳の時の話です。お絵描きが楽しくなってきた頃で、「まる」をとても上手に書いていました。
ある日、子供たちが外でケラケラ笑って遊んでいました。いつもはケンカもするのに、その日はやけに仲良く遊んでいるなと思っていました。
結構長い時間そのまま放っておいて私は家事をしていたのですが、外に出てみると、何と石を使って車にお絵描きをしていたのです。
我が家の大きなワゴン車の全面、ありとあらゆる場所にお絵描きをして、車は傷だらけになっていました。
私は驚きながらも、「すごく上手にまるや人の顔を描けてるな～。これだけ大きなキャンパスに書いたら、それは楽しかっただろうな～」などと脳天気に思いましたが…そんなこと言っている場合じゃありません！「どうしよう！夫に叱られる！」
そこで、どうやったらそのお絵描きの傷が消えるか考えました。当時いろんなアイデアを紹介しているテレビ番組があり、その中に、「歯磨き粉で簡単に車の傷が消える！」というアイデアを見たことを思い出しました。
子供たちと一緒にきれいに消そう！と、歯磨き粉とタオルを用意しました。思いの外、車がきれいになるので、子供たちも楽しそうに消す作業をしていました。
しかし、案の定この一件を知ったパパは子供たちを思い切り叱りました。子供たちも泣いて謝りました。
「人様の車に同じようなことをしたら、こんなことでは済まされない」「歯磨き粉で消したら、一時はきれいに見えても余計に傷がつく」と、私も子供たちと一緒になって叱られました。確かにそれはその通りだと反省しましたが、今となっては懐かしい思い出です。
その後も子供たちのいたずらは続きました。壁に書いてはいけないということは分かったようですが、押し入れの中だったらバレないとでも思ったのでしょうか？　今度は押し入れの中に入り、またまた絵を描いたのです。それもマジックペンで！　でもその時はなぜか「車よりはマシか」と思えるようになっていたから不思議です。
他にも、わざとボールを当てて障子を破ってしまったり、色々といたずらはしていましたが、命の危険が及びそうなこと以外は、大らかに見守ろうと思っていました。そんなにガミガミ怒らなかったのが良かったのでしょうか、そのうちにいたずらはしなくなっていきました。
ついつい、悪いことをしたら叱るということばかり考えてしまいがちですが、子供は親がどうすれば自分に反応してくれるのか？　どれぐらい自分のことを見てくれているのか？ 内容よりもその反応の大きさであったり強さを求めているのだと思います。
叱ってばかりいると、子供自身の自己肯定感が下がってしまうので、私は子供がいたずらをした時は、それをやめようとしたタイミングで、「ママの言うこと聞いてくれたね、やめようとしてくれたね」と、プラスの言葉をかけていました。
ついマイナスの言葉になってしまいそうな所を、プラスの言葉にしようといつも心がけました。たとえば、走ってはいけない所で走った場合、「走らない！」ではなく「歩こうね」と言ったり、机の上に登ったら「登らない！」ではなく「降りようね」と表現するなど、プラスの言い方に変換する方法はいくらでもあります。
何気ない日常で、やって当たり前だと思えることでも、ちゃんと出来たねと声を掛けることを大切にしてきました。
朝一人で起きてきたら、「ちゃんと時間通りに起きて、身支度も自分でできてるね」と言ったり、「朝ご飯ちゃんと食べたね。元気に食べれるって有難いね」など。普通のことが普通にできること、当たり前のことがどれだけありがたいことなのか、口に出して言うことが大切ではないかと思います。
ちょっと見方や視点を変えることで、至る所に親神様のご守護があることに気がつきます。そこに感動できるかどうか。もっとこうしてくれたらいいのに、と子供に不足をしてしまうこともありますが、生きていること、毎日学校に行くこと、帰ってくることが当たり前ではなく、これほど結構なことはないのです。
私はある時、左足首が腫れてしまい、くるぶしの所にコブのようなものができました。正座もできなくなり、歩き方もぎこちなくなってしまいました。病院で診てもらっても原因は不明でした。
自分の何がいけなかったのかな？ 正座した時にゴリっとやってしまったのかな？ いけない心遣いをしてしまったのかな？と、その痛いところばかりを気にしてしまっていました。でもある時、その原因を探すのではなく、他のご守護をもっと喜ぼうと思ったのです。
目は老眼っぽくなってきたけど、しっかり見える。耳も聞こえにくくはなってきたけど、しっかり聞くことができる。
ご飯を食べてもしっかり消化されて快便だし、手も指も自由に動かせて仕事もできるし、身体のあらゆる所が健康にご守護頂いていることを感謝するようにしました。
つい、痛いところや辛いところなど、気になるところばかりに目が行きがちですが、そうではなく、もっと視点を大きく持てば、喜びの種は毎日山ほどあります。その喜びの種を探す癖を習慣に出来れば、毎日嬉しいことだらけで、辛いことも辛くなくなるのかなと思っています。
同じように、子供に対しても出来ないところが気になりがちですが、出来ないことに比べれば、出来ていることはもっとたくさんあります。その出来ている所を喜んで、プラスの言葉を掛け続けていきたいと思います。



はらだちのほこり

腹を立てたことがないという人は、おそらくいないでしょう。腹を立てるのに理由などありません。冷静に振り返れば原因をたどることも出来ますが、その場の怒りにまかせ、つい言葉に出してしまうといった経験は、誰しもあると思います。
教祖は、私たちが日常使いがちな、陽気ぐらしに反する心づかいを「ほこり」にたとえて教えられていますが、その中で「はらだち」のほこりについて、次のようにお示しくださいます。
「はらだちとは、腹が立つのは気ままからであります。心が澄まぬからであります。人が悪い事を言ったとて腹を立て、誰がどうしたとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないから、腹が立つのであります。これからは腹を立てず、天の理を立てるようにするがよろしい。短気や癇癪は、自分の徳を落とすだけでなく、命を損なうことがあります」
教祖は常に、教えを求めて寄り来る人々のそれぞれの心づかいを見極められた上で、お諭し下さいます。
入信後間もない、生来気の短い青年に対しては、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」と仰せられました。
また、夫婦で熱心に信心していた桝井伊三郎さんには、次のようにお話し下さいました。
「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」
「伊三郎さん、あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」
伊三郎さんは、女房が告げ口をしたのだろうか、と疑いましたが、いやいや神様は見抜き見通しであらせられる、と思い返し、「今後は一切腹を立てません」と心を定めたところ、少しも腹が立たなくなったのでした。（教祖伝逸話篇137「言葉一つ」）
神様の教えをほうきとして、日々胸の掃除に努めるうちに、腹立ちの心は消え去ってしまう。実に尊い先人の歩みが示されています。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 09 May 2025 09:22:42 +0000</pubDate>
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                <title>メグちゃん、「ようぼく」になる</title>
        <description><![CDATA[メグちゃん、『ようぼく』になる
 助産師　　目黒　和加子

『ようぼく』。リスナーの皆さんには聞きなれない言葉ですよね。天理教教会本部で神様のお話を聴くことを「別席を運ぶ」と言うのですが、その別席を九回運び、おさづけの理を戴くと、ようぼくにならせて頂くことが出来ます。天理教が目指す「陽気ぐらし」に向け、教祖の手足となって働くのがようぼくです。
私の夫、メグちゃんは結婚前、天理教を全く知らない人でした。
「天理教？そんな宗教があるんだ。信教の自由は日本国憲法で保障されているから、結婚してからも遠慮なく信仰を続けてね。けれど、僕を勧誘しないでね」と言っていた彼。その彼が、ようぼくになるまでのプロセスを書いてみます。
あるお産の現場で重症仮死で生まれてきた赤ちゃんがいました。心臓はわずかに動いていますが、産声を上げません。直ちに新生児集中治療室に救急搬送したのですが、搬送先から戻ってきたドクターは思いつめた顔で、「かなり厳しい状況です…」とがっくり肩を落としています。
「こうなったら神さんしかない！」ロッカールームに飛んで行き、近所の鶴湘南分教会に電話をしました。
「赤ちゃんが重症仮死で大きい病院に運ばれました。大至急、神様にお願いしてください！」
「分かった。直ぐにお願いづとめにかかるから！」と、会長さんの力強い声。仕事が終わるや否や、車をぶっ飛ばして鶴湘南分教会へ。財布の中身を全部お供えして、赤ちゃんのたすかりを一心に祈りました。
帰宅するとメグちゃんが先に帰っていて、「今日は遅かったね。何かあったの？」と訊ねます。
「赤ちゃんが重症の仮死状態で産まれてきて、大きい病院に搬送になってん。どうでもたすかって欲しいから、鶴湘南さんに行って神さんにお願いしてきた」
「また財布をひっくり返して賽銭箱に入れてきたの？」
「だって、こうなったら神さんしかないやん」
「和加ちゃんがエラーしたから仮死状態になったの？」
「ちゃうよ。へその緒が首に三重に巻きついてて、産道通過の時に引っ張られて低酸素状態になったからやで」
「へその緒が三重に巻きついたのは和加ちゃんのせいなの？」
「ちゃうちゃう。私のせいでも、お母さんのせいでも、赤ちゃんのせいでもない。子宮の中で、たまたまそうなってん」
「それなら、どうして和加ちゃんが自分のお金をお供えするの？」
「だって、昔からのご縁があるから私が取り上げさせてもらったんやで。これは、たまたまとちゃうねん」
「昔からのご縁ってどうゆうこと？」
「前生からのご縁があるねん。今世では私が助産師としてお世話させてもらってるけど、前生では私が産婦さんや赤ちゃんにお世話になった御恩があると思ってるから。だから出来ることを精一杯させてもらうねん」
「前生？今世？御恩？よく分からないなあ。それと和加ちゃんはいつも自分のことより人を優先するのはどうして？」
「教祖がそうしてはったから」
「おやさま？おやさまって誰？ こないだも大出血した産婦さんのお願いに、ボーナス全部お供えしてたよね。自分が働いたお金を他人のために使うってどういうこと？」
「他人とちゃうって。お産でかかわる産婦さんや赤ちゃんは、前生からのご縁のある人やねんって」
「う～ん。僕が生きてきた中で初めて聞く考え方と行動なんだよ。和加ちゃんを理解するには、天理教を知らないといけないようだね」
そんなことを言い出した彼は、天理教基礎講座を受講し、別席も運び始めましたが、途中で足踏み状態に。うるさく言えば運んでくれるでしょうが、自ら求める気持ちになるまで待つことにしました。
そんなある日のこと、東京のＴ分教会から講演依頼がありました。今回はノートパソコン、プロジェクター、スクリーンを使い、『稿本教祖伝』の「をびやためし」についてお話をするのですが、私はこういう機器類の操作が苦手。システムエンジニアのメグちゃんについて来てもらうことにしました。
広い会場で「をびやためし」のお話をしていた最中の出来事です。前方の左手からすすり泣く声が聞こえます。どなたかしらと見回すと、なんとＴ分教会の会長さんでした。
教祖は44歳の時、妊娠七か月目で流産となり、自らのお体を通して「をびやためし」をされました。それについての私の考察を聞き、男性の会長さんが涙をポロポロ流して鼻水をすすり、子供のように泣いておられるのです。その姿をメグちゃんも見ていました。
会長さんは「読むだけで終わっていた『をびやためし』の中の教祖の親心が胸に迫って。途中から泣けて泣けて…」と、目頭を押さえておられます。
帰りの車中、メグちゃんは「天理教の人は教祖のことが大好きなんだね」と呟き、何か考えている様子。そして「和加ちゃんの人生の指針となっている教祖のことを、もっと知りたい。来週、天理に行って神様のお話し聴いてきます」と言い出したのです。
結婚して13年が経ち、メグちゃんは「ようぼく」になりました。それから数か月後、メグちゃんもようぼくになったんやなあと、確信する出来事が起きたのです。
その日、メグちゃんは帰宅するなり真剣な顔をしていました。
「今朝、電車で座席に座って本を読んでたら、急に周囲がざわざわし始めて。どうしたのかなと様子を見ると、ドアの近くに男の人がうずくまって、顔面蒼白で胸を押さえて苦しんでて。けれど、周りにいる人はスマホを見てたり、外を見てたり、見てみぬふり。誰も声をかけない。ほっとけないと思って次の駅でその人を降ろして、駅員さんに連絡して。救急隊が到着するのを見届けてから出勤したら、遅刻してね。もちろん会社に電話してあったけど、上司から『お節介もほどほどに』って苦笑いされた」
私は「メグちゃん、ようやったなあ。お節介とちゃうで。おたすけやで。教祖、めっちゃ喜んではる。わたしも嬉しいわあ♡」といっぱい褒めました。
ようぼくとして年々、頼もしくなるメグちゃん。今は夫婦で教祖のカバン持ち。重さは半分、喜びは２倍になりました。



だけど有難い「安らぎの場所」

フランスでは、「パックス」と呼ばれる未婚のカップルが多いようです。そのカップルから生まれる子供が、子供全体の50%を超えたというニュースを見ました。背景には、フランスでは離婚の際に財産分与が非常に厳しいなどの諸事情があるとのことですが、正式な夫婦よりもパックスのほうが一緒にいる期間が平均して短く、違う人と一緒になるケースが多いということです。子供から見れば、正式な家族ではない両親がいて、その多くが、別れてまた別の親と一緒に暮らすようになるということです。
アメリカでは以前から離婚率が50%を超えていて、互いに離婚歴のある者同士が子連れで再婚する「ステップファミリー」が増えています。それにより、子供が大きなストレスを受けることが社会問題になっています。また、実の親による子供の誘拐まで起こっています。動機は、別れた相手が幸せになることへの妬みや、自分の子供が別の親と一緒にいるのが耐えられないということです。
つらい目に遭うのは子供たちです。お父さんとお母さんが勝手に別れてしまったと思ったら、また違うお父さんやお母さんができる、違う兄弟ができる。以前は児童養護施設に入る子供というのは、親を亡くしたケースがほとんどでした。しかし、いまは親がいるにもかかわらず、何らかの理由で育てられないからと施設に預けられる。
家庭は本来、安らぎの場所です。その家庭がなくなったり、ストレスのたまる場所であったりするのですから、子供たちにとって受難の時代です。日本でも離婚率が37%、都会では40%を超えているということです。フランスやアメリカの話は決してよそごとではありません。
もちろん昔も今も、たとえ別れたくなくても、生別、死別するカップルはあります。添い遂げたくても添い遂げられない人がいるのです。そして、大変な思いをしている子供たちがいる。その子供たちをたすけるのは誰か、家庭の温もりを伝えるのは誰かと考えたときに、教会、そしてお道の者の役割は非常に大きいと思います。
教会は昔から、身寄りのないお年寄り、行き場のない若者や子供たちを預かってきました。血のつながりがなくても、一れつ兄弟姉妹という教えに基づいて、大家族として一緒に生活してきたのが教会なのです。すでに里親として預かる子供の一割以上を、お道の教会が担っています。
アルバート・ロトというピアニストがいます。この人はウクライナのユダヤ人村の出身で、子供のころ親と一緒にアメリカへ移住したそうです。のちに一度だけ故郷の村を訪れましたが、旧ソ連の時代に潰されて跡形もなかったそうです。それを見て、二度と行きたくないと思ったという話でした。
そんななかで天理教と出合い、教えを聞き、おぢばに帰ると、みんなが「おかえりなさい」と迎えてくれる。自分にも〝ふるさと〟があったと大変感激したそうです。こんな素晴らしい教えはないと、先祖代々のユダヤ教徒からお道のようぼくになりました。
私は、人間にとっての温かい家庭やふるさとは、なくてはならないものだと思うのです。お道では、夫婦が一番大切な陽気ぐらしの基本です。夫婦が互いにたすけ合い、親神様のお目に適う夫婦となり、明るく陽気な家庭を築き上げて、これを世に映していくことが大切なのです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>メグちゃん、『ようぼく』になる
 助産師　　目黒　和加子

『ようぼく』。リスナーの皆さんには聞きなれない言葉ですよね。天理教教会本部で神様のお話を聴くことを「別席を運ぶ」と言うのですが、その別席を九回運び、おさづけの理を戴くと、ようぼくにならせて頂くことが出来ます。天理教が目指す「陽気ぐらし」に向け、教祖の手足となって働くのがようぼくです。
私の夫、メグちゃんは結婚前、天理教を全く知らない人でした。
「天理教？そんな宗教があるんだ。信教の自由は日本国憲法で保障されているから、結婚してからも遠慮なく信仰を続けてね。けれど、僕を勧誘しないでね」と言っていた彼。その彼が、ようぼくになるまでのプロセスを書いてみます。
あるお産の現場で重症仮死で生まれてきた赤ちゃんがいました。心臓はわずかに動いていますが、産声を上げません。直ちに新生児集中治療室に救急搬送したのですが、搬送先から戻ってきたドクターは思いつめた顔で、「かなり厳しい状況です…」とがっくり肩を落としています。
「こうなったら神さんしかない！」ロッカールームに飛んで行き、近所の鶴湘南分教会に電話をしました。
「赤ちゃんが重症仮死で大きい病院に運ばれました。大至急、神様にお願いしてください！」
「分かった。直ぐにお願いづとめにかかるから！」と、会長さんの力強い声。仕事が終わるや否や、車をぶっ飛ばして鶴湘南分教会へ。財布の中身を全部お供えして、赤ちゃんのたすかりを一心に祈りました。
帰宅するとメグちゃんが先に帰っていて、「今日は遅かったね。何かあったの？」と訊ねます。
「赤ちゃんが重症の仮死状態で産まれてきて、大きい病院に搬送になってん。どうでもたすかって欲しいから、鶴湘南さんに行って神さんにお願いしてきた」
「また財布をひっくり返して賽銭箱に入れてきたの？」
「だって、こうなったら神さんしかないやん」
「和加ちゃんがエラーしたから仮死状態になったの？」
「ちゃうよ。へその緒が首に三重に巻きついてて、産道通過の時に引っ張られて低酸素状態になったからやで」
「へその緒が三重に巻きついたのは和加ちゃんのせいなの？」
「ちゃうちゃう。私のせいでも、お母さんのせいでも、赤ちゃんのせいでもない。子宮の中で、たまたまそうなってん」
「それなら、どうして和加ちゃんが自分のお金をお供えするの？」
「だって、昔からのご縁があるから私が取り上げさせてもらったんやで。これは、たまたまとちゃうねん」
「昔からのご縁ってどうゆうこと？」
「前生からのご縁があるねん。今世では私が助産師としてお世話させてもらってるけど、前生では私が産婦さんや赤ちゃんにお世話になった御恩があると思ってるから。だから出来ることを精一杯させてもらうねん」
「前生？今世？御恩？よく分からないなあ。それと和加ちゃんはいつも自分のことより人を優先するのはどうして？」
「教祖がそうしてはったから」
「おやさま？おやさまって誰？ こないだも大出血した産婦さんのお願いに、ボーナス全部お供えしてたよね。自分が働いたお金を他人のために使うってどういうこと？」
「他人とちゃうって。お産でかかわる産婦さんや赤ちゃんは、前生からのご縁のある人やねんって」
「う～ん。僕が生きてきた中で初めて聞く考え方と行動なんだよ。和加ちゃんを理解するには、天理教を知らないといけないようだね」
そんなことを言い出した彼は、天理教基礎講座を受講し、別席も運び始めましたが、途中で足踏み状態に。うるさく言えば運んでくれるでしょうが、自ら求める気持ちになるまで待つことにしました。
そんなある日のこと、東京のＴ分教会から講演依頼がありました。今回はノートパソコン、プロジェクター、スクリーンを使い、『稿本教祖伝』の「をびやためし」についてお話をするのですが、私はこういう機器類の操作が苦手。システムエンジニアのメグちゃんについて来てもらうことにしました。
広い会場で「をびやためし」のお話をしていた最中の出来事です。前方の左手からすすり泣く声が聞こえます。どなたかしらと見回すと、なんとＴ分教会の会長さんでした。
教祖は44歳の時、妊娠七か月目で流産となり、自らのお体を通して「をびやためし」をされました。それについての私の考察を聞き、男性の会長さんが涙をポロポロ流して鼻水をすすり、子供のように泣いておられるのです。その姿をメグちゃんも見ていました。
会長さんは「読むだけで終わっていた『をびやためし』の中の教祖の親心が胸に迫って。途中から泣けて泣けて…」と、目頭を押さえておられます。
帰りの車中、メグちゃんは「天理教の人は教祖のことが大好きなんだね」と呟き、何か考えている様子。そして「和加ちゃんの人生の指針となっている教祖のことを、もっと知りたい。来週、天理に行って神様のお話し聴いてきます」と言い出したのです。
結婚して13年が経ち、メグちゃんは「ようぼく」になりました。それから数か月後、メグちゃんもようぼくになったんやなあと、確信する出来事が起きたのです。
その日、メグちゃんは帰宅するなり真剣な顔をしていました。
「今朝、電車で座席に座って本を読んでたら、急に周囲がざわざわし始めて。どうしたのかなと様子を見ると、ドアの近くに男の人がうずくまって、顔面蒼白で胸を押さえて苦しんでて。けれど、周りにいる人はスマホを見てたり、外を見てたり、見てみぬふり。誰も声をかけない。ほっとけないと思って次の駅でその人を降ろして、駅員さんに連絡して。救急隊が到着するのを見届けてから出勤したら、遅刻してね。もちろん会社に電話してあったけど、上司から『お節介もほどほどに』って苦笑いされた」
私は「メグちゃん、ようやったなあ。お節介とちゃうで。おたすけやで。教祖、めっちゃ喜んではる。わたしも嬉しいわあ♡」といっぱい褒めました。
ようぼくとして年々、頼もしくなるメグちゃん。今は夫婦で教祖のカバン持ち。重さは半分、喜びは２倍になりました。



だけど有難い「安らぎの場所」

フランスでは、「パックス」と呼ばれる未婚のカップルが多いようです。そのカップルから生まれる子供が、子供全体の50%を超えたというニュースを見ました。背景には、フランスでは離婚の際に財産分与が非常に厳しいなどの諸事情があるとのことですが、正式な夫婦よりもパックスのほうが一緒にいる期間が平均して短く、違う人と一緒になるケースが多いということです。子供から見れば、正式な家族ではない両親がいて、その多くが、別れてまた別の親と一緒に暮らすようになるということです。
アメリカでは以前から離婚率が50%を超えていて、互いに離婚歴のある者同士が子連れで再婚する「ステップファミリー」が増えています。それにより、子供が大きなストレスを受けることが社会問題になっています。また、実の親による子供の誘拐まで起こっています。動機は、別れた相手が幸せになることへの妬みや、自分の子供が別の親と一緒にいるのが耐えられないということです。
つらい目に遭うのは子供たちです。お父さんとお母さんが勝手に別れてしまったと思ったら、また違うお父さんやお母さんができる、違う兄弟ができる。以前は児童養護施設に入る子供というのは、親を亡くしたケースがほとんどでした。しかし、いまは親がいるにもかかわらず、何らかの理由で育てられないからと施設に預けられる。
家庭は本来、安らぎの場所です。その家庭がなくなったり、ストレスのたまる場所であったりするのですから、子供たちにとって受難の時代です。日本でも離婚率が37%、都会では40%を超えているということです。フランスやアメリカの話は決してよそごとではありません。
もちろん昔も今も、たとえ別れたくなくても、生別、死別するカップルはあります。添い遂げたくても添い遂げられない人がいるのです。そして、大変な思いをしている子供たちがいる。その子供たちをたすけるのは誰か、家庭の温もりを伝えるのは誰かと考えたときに、教会、そしてお道の者の役割は非常に大きいと思います。
教会は昔から、身寄りのないお年寄り、行き場のない若者や子供たちを預かってきました。血のつながりがなくても、一れつ兄弟姉妹という教えに基づいて、大家族として一緒に生活してきたのが教会なのです。すでに里親として預かる子供の一割以上を、お道の教会が担っています。
アルバート・ロトというピアニストがいます。この人はウクライナのユダヤ人村の出身で、子供のころ親と一緒にアメリカへ移住したそうです。のちに一度だけ故郷の村を訪れましたが、旧ソ連の時代に潰されて跡形もなかったそうです。それを見て、二度と行きたくないと思ったという話でした。
そんななかで天理教と出合い、教えを聞き、おぢばに帰ると、みんなが「おかえりなさい」と迎えてくれる。自分にも〝ふるさと〟があったと大変感激したそうです。こんな素晴らしい教えはないと、先祖代々のユダヤ教徒からお道のようぼくになりました。
私は、人間にとっての温かい家庭やふるさとは、なくてはならないものだと思うのです。お道では、夫婦が一番大切な陽気ぐらしの基本です。夫婦が互いにたすけ合い、親神様のお目に適う夫婦となり、明るく陽気な家庭を築き上げて、これを世に映していくことが大切なのです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>メグちゃん、『ようぼく』になる
 助産師　　目黒　和加子

『ようぼく』。リスナーの皆さんには聞きなれない言葉ですよね。天理教教会本部で神様のお話を聴くことを「別席を運ぶ」と言うのですが、その別席を九回運び、おさづけの理を戴くと、ようぼくにならせて頂くことが出来ます。天理教が目指す「陽気ぐらし」に向け、教祖の手足となって働くのがようぼくです。
私の夫、メグちゃんは結婚前、天理教を全く知らない人でした。
「天理教？そんな宗教があるんだ。信教の自由は日本国憲法で保障されているから、結婚してからも遠慮なく信仰を続けてね。けれど、僕を勧誘しないでね」と言っていた彼。その彼が、ようぼくになるまでのプロセスを書いてみます。
あるお産の現場で重症仮死で生まれてきた赤ちゃんがいました。心臓はわずかに動いていますが、産声を上げません。直ちに新生児集中治療室に救急搬送したのですが、搬送先から戻ってきたドクターは思いつめた顔で、「かなり厳しい状況です…」とがっくり肩を落としています。
「こうなったら神さんしかない！」ロッカールームに飛んで行き、近所の鶴湘南分教会に電話をしました。
「赤ちゃんが重症仮死で大きい病院に運ばれました。大至急、神様にお願いしてください！」
「分かった。直ぐにお願いづとめにかかるから！」と、会長さんの力強い声。仕事が終わるや否や、車をぶっ飛ばして鶴湘南分教会へ。財布の中身を全部お供えして、赤ちゃんのたすかりを一心に祈りました。
帰宅するとメグちゃんが先に帰っていて、「今日は遅かったね。何かあったの？」と訊ねます。
「赤ちゃんが重症の仮死状態で産まれてきて、大きい病院に搬送になってん。どうでもたすかって欲しいから、鶴湘南さんに行って神さんにお願いしてきた」
「また財布をひっくり返して賽銭箱に入れてきたの？」
「だって、こうなったら神さんしかないやん」
「和加ちゃんがエラーしたから仮死状態になったの？」
「ちゃうよ。へその緒が首に三重に巻きついてて、産道通過の時に引っ張られて低酸素状態になったからやで」
「へその緒が三重に巻きついたのは和加ちゃんのせいなの？」
「ちゃうちゃう。私のせいでも、お母さんのせいでも、赤ちゃんのせいでもない。子宮の中で、たまたまそうなってん」
「それなら、どうして和加ちゃんが自分のお金をお供えするの？」
「だって、昔からのご縁があるから私が取り上げさせてもらったんやで。これは、たまたまとちゃうねん」
「昔からのご縁ってどうゆうこと？」
「前生からのご縁があるねん。今世では私が助産師としてお世話させてもらってるけど、前生では私が産婦さんや赤ちゃんにお世話になった御恩があると思ってるから。だから出来ることを精一杯させてもらうねん」
「前生？今世？御恩？よく分からないなあ。それと和加ちゃんはいつも自分のことより人を優先するのはどうして？」
「教祖がそうしてはったから」
「おやさま？おやさまって誰？ こないだも大出血した産婦さんのお願いに、ボーナス全部お供えしてたよね。自分が働いたお金を他人のために使うってどういうこと？」
「他人とちゃうって。お産でかかわる産婦さんや赤ちゃんは、前生からのご縁のある人やねんって」
「う～ん。僕が生きてきた中で初めて聞く考え方と行動なんだよ。和加ちゃんを理解するには、天理教を知らないといけないようだね」
そんなことを言い出した彼は、天理教基礎講座を受講し、別席も運び始めましたが、途中で足踏み状態に。うるさく言えば運んでくれるでしょうが、自ら求める気持ちになるまで待つことにしました。
そんなある日のこと、東京のＴ分教会から講演依頼がありました。今回はノートパソコン、プロジェクター、スクリーンを使い、『稿本教祖伝』の「をびやためし」についてお話をするのですが、私はこういう機器類の操作が苦手。システムエンジニアのメグちゃんについて来てもらうことにしました。
広い会場で「をびやためし」のお話をしていた最中の出来事です。前方の左手からすすり泣く声が聞こえます。どなたかしらと見回すと、なんとＴ分教会の会長さんでした。
教祖は44歳の時、妊娠七か月目で流産となり、自らのお体を通して「をびやためし」をされました。それについての私の考察を聞き、男性の会長さんが涙をポロポロ流して鼻水をすすり、子供のように泣いておられるのです。その姿をメグちゃんも見ていました。
会長さんは「読むだけで終わっていた『をびやためし』の中の教祖の親心が胸に迫って。途中から泣けて泣けて…」と、目頭を押さえておられます。
帰りの車中、メグちゃんは「天理教の人は教祖のことが大好きなんだね」と呟き、何か考えている様子。そして「和加ちゃんの人生の指針となっている教祖のことを、もっと知りたい。来週、天理に行って神様のお話し聴いてきます」と言い出したのです。
結婚して13年が経ち、メグちゃんは「ようぼく」になりました。それから数か月後、メグちゃんもようぼくになったんやなあと、確信する出来事が起きたのです。
その日、メグちゃんは帰宅するなり真剣な顔をしていました。
「今朝、電車で座席に座って本を読んでたら、急に周囲がざわざわし始めて。どうしたのかなと様子を見ると、ドアの近くに男の人がうずくまって、顔面蒼白で胸を押さえて苦しんでて。けれど、周りにいる人はスマホを見てたり、外を見てたり、見てみぬふり。誰も声をかけない。ほっとけないと思って次の駅でその人を降ろして、駅員さんに連絡して。救急隊が到着するのを見届けてから出勤したら、遅刻してね。もちろん会社に電話してあったけど、上司から『お節介もほどほどに』って苦笑いされた」
私は「メグちゃん、ようやったなあ。お節介とちゃうで。おたすけやで。教祖、めっちゃ喜んではる。わたしも嬉しいわあ♡」といっぱい褒めました。
ようぼくとして年々、頼もしくなるメグちゃん。今は夫婦で教祖のカバン持ち。重さは半分、喜びは２倍になりました。



だけど有難い「安らぎの場所」

フランスでは、「パックス」と呼ばれる未婚のカップルが多いようです。そのカップルから生まれる子供が、子供全体の50%を超えたというニュースを見ました。背景には、フランスでは離婚の際に財産分与が非常に厳しいなどの諸事情があるとのことですが、正式な夫婦よりもパックスのほうが一緒にいる期間が平均して短く、違う人と一緒になるケースが多いということです。子供から見れば、正式な家族ではない両親がいて、その多くが、別れてまた別の親と一緒に暮らすようになるということです。
アメリカでは以前から離婚率が50%を超えていて、互いに離婚歴のある者同士が子連れで再婚する「ステップファミリー」が増えています。それにより、子供が大きなストレスを受けることが社会問題になっています。また、実の親による子供の誘拐まで起こっています。動機は、別れた相手が幸せになることへの妬みや、自分の子供が別の親と一緒にいるのが耐えられないということです。
つらい目に遭うのは子供たちです。お父さんとお母さんが勝手に別れてしまったと思ったら、また違うお父さんやお母さんができる、違う兄弟ができる。以前は児童養護施設に入る子供というのは、親を亡くしたケースがほとんどでした。しかし、いまは親がいるにもかかわらず、何らかの理由で育てられないからと施設に預けられる。
家庭は本来、安らぎの場所です。その家庭がなくなったり、ストレスのたまる場所であったりするのですから、子供たちにとって受難の時代です。日本でも離婚率が37%、都会では40%を超えているということです。フランスやアメリカの話は決してよそごとではありません。
もちろん昔も今も、たとえ別れたくなくても、生別、死別するカップルはあります。添い遂げたくても添い遂げられない人がいるのです。そして、大変な思いをしている子供たちがいる。その子供たちをたすけるのは誰か、家庭の温もりを伝えるのは誰かと考えたときに、教会、そしてお道の者の役割は非常に大きいと思います。
教会は昔から、身寄りのないお年寄り、行き場のない若者や子供たちを預かってきました。血のつながりがなくても、一れつ兄弟姉妹という教えに基づいて、大家族として一緒に生活してきたのが教会なのです。すでに里親として預かる子供の一割以上を、お道の教会が担っています。
アルバート・ロトというピアニストがいます。この人はウクライナのユダヤ人村の出身で、子供のころ親と一緒にアメリカへ移住したそうです。のちに一度だけ故郷の村を訪れましたが、旧ソ連の時代に潰されて跡形もなかったそうです。それを見て、二度と行きたくないと思ったという話でした。
そんななかで天理教と出合い、教えを聞き、おぢばに帰ると、みんなが「おかえりなさい」と迎えてくれる。自分にも〝ふるさと〟があったと大変感激したそうです。こんな素晴らしい教えはないと、先祖代々のユダヤ教徒からお道のようぼくになりました。
私は、人間にとっての温かい家庭やふるさとは、なくてはならないものだと思うのです。お道では、夫婦が一番大切な陽気ぐらしの基本です。夫婦が互いにたすけ合い、親神様のお目に適う夫婦となり、明るく陽気な家庭を築き上げて、これを世に映していくことが大切なのです。
（終）</itunes:summary>
        <pubDate>Fri, 02 May 2025 09:27:53 +0000</pubDate>
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    <item>
                <title>本当のながいき</title>
        <description><![CDATA[本当のながいき
兵庫県在住　　旭　和世

私どもがお預かりさせて頂いている教会では、六年前に「こども食堂」を始めました。こども食堂を始めたきっかけは、そのスタートの少し前にさかのぼります。
当時、私は4人の子供の子育て真っ最中。三人の小学生に、末っ子は重度の心身障害児で在宅での医療的ケアをしていました。
末っ子の優子は「18トリソミー」という染色体に異常がある病気でした。病院の先生からは生涯寝たきり、一歳まで生きられる確率は一割と言われていましたが、ご守護をたくさんいただき、その頃優子は二歳を迎えようとしていました。
とはいっても自発呼吸ができないので、24時間呼吸器が手放せず、体重は新生児の赤ちゃん並みの4キロほど。発達はものすごくゆっくりで、首が据わることも、歩くことも、話すこともできず、小さなベビーベッドが彼女の居場所でした。
そんな24時間目が離せない彼女を育てながらも、教会でこども食堂ができないだろうかと考えていました。というのも、実は我が家には優子が産まれる前に、同じ18トリソミーの次男を子育てしていた経験があったので、医療的ケアにも、気持ちにも少し余裕があったのです。
次男の孝助の時は、想像を絶する医療的ケアの大変さに、ドキドキ、オロオロして気が休まることはなく、毎日が必死で余裕は全くありませんでした。私は外に出ることもなく、一日中孝助のベッドにへばりついて介護生活をしていました。
心はだんだん内向きになり、人に会うのもしんどくなり、訪問看護師さんに会う元気すらなくなっていく自分がいました。その頃はちょうど教祖130年祭の年祭活動一年目でした。「年祭の旬に一人でも多くの方にお道の素晴らしさを伝えて、おぢばに帰っていただこう！」という活気にあふれた周りの状況とは裏腹に、内向きな自分の心だけが取り残されているような気がしていました。
そんな中、教会につながる方が「孝助くんは教会の宝物だね」と言ってくださったり、近くの教会の奥さんが「和世ちゃん、孝ちゃんを連れてたとえ一軒でも二軒でもにをいがけに行くなら、私ついていくから！」と声を掛けてくださったり、「孝ちゃんに会うと元気もらえるわ！」と言って下さるかたなど、周りの皆さんの寄り添いのおかげで、私の心はだんだん外に向かうようになっていました。たとえ一軒でもにをいがけに行こう！ 毎日を喜ぼう！ と前を向けるようになり、大変だと思っていた日々に喜びが増えていきました。
その後、孝助は130年祭を迎える前に二歳で出直しました。突然のことに、辛い悲しい気持ちをたくさん感じながらも、それだけではない、これまでの感謝と信仰があったおかげで先を楽しみに通らせていただけることも実感していました。
その後のまさかの優子の出産！ もう「喜ぶ！」しか答えはありません。忙しい中にも喜びばかりでした。
しかし、ふと「こんなにありがたい、嬉しい毎日を過ごせるようになったのも、信仰のおかげ、周りの皆さんの寄り添いのおかげ…。何か神様や地域の方々へご恩返ししなければ申し訳ないな」と思うようになり、教会に居てでもできる「にをいがけ」はないかなと考えるようになりました。
そこで、以前からやってみたいと思っていた「こども食堂」はどうだろう？と思いつきました。本当にできるのか不安もありましたが、会長である主人が心配しながらも協力してくれることになり、お料理好きな母も快く承諾してくれて、何とか活動を始めることができました。
こども食堂の日には、訪問看護師さんがその日に合わせて優子のケアに来てくださったり、優子の薬を配達していた薬剤師さんもボランティアに来てくださったりと、色々な方が教会に出入りしてくださるようになりました。コロナ禍でも活動は継続し、優子のベッドのそばでたくさんのお弁当を作ったり、子供たちの学習支援もできるようになり、教会に新鮮であたたかい空気が流れていくような気がしました。
そんな活動が軌道に乗ってきたのを見届けるかのように、優子は４歳で神様の元に戻りました。どこかで心の準備はしていたものの、やはり我が子に先立たれる寂しさは言葉にできないほど辛いことでもありました。
そんな時、ある方がこんな言葉をかけてくれました。
「孝助くんと優子ちゃんは出直したけれど、これからも周りのみんなの心に孝ちゃん、優ちゃんの名前はずっと残っていくから〝名前〟が〝生き続ける〟。それが本当の〝ながいき〟だよ」と言ってくださいました。
その言葉が本当に私の心を救ってくれました。
孝助という名前の由来は「親孝行」の〝孝〟と「人助け」の〝助〟。そして、優子の優は人の憂いに寄り添うという意味。
孝助と優子のおかげでできるようになったこども食堂の活動を通して、私たちは人の憂いに寄り添い、一人でも多くの方に喜んでもらい、助かってもらえる場所になるよう、そして何より、親神様、教祖に喜んでいただける教会になればと思って今も活動を続けています。
そんな優子の出直しから二年ほどたった頃、私たち家族に予想だにしなかったことがまたまた起こったのです。会長の弟夫婦に結婚13年目にして待望の赤ちゃんが授かったのです。もう家族中が喜んで出産を心待ちにしていました。
おふでさきに

　　たいないゑやどしこむのも月日なり　　むまれだすのも月日せわどり　（6号 131）

というお言葉がありますが、出産当日、このお言葉を痛感することになります。
お産の最中に、あろうことか母胎の子宮が破裂し、緊急の帝王切開になったのです。赤ちゃんは仮死状態、母胎の止血にも時間がかかり、母子ともに命が危ないという知らせが入りました。私たちは、にわかに信じがたい状況に驚き、なんとかご守護頂きたいと皆で必死の「お願いづとめ」をつとめさせて頂きました。
その中で、命をいただけることは当たり前ではないこと、人間の力ではどうにもならないこと、親神様・教祖におすがりするしか方法がないことに改めて思い至りました。そして、奇跡的に二人ともたすけて頂くというご守護を頂いたのです。
親子共に命を落としていてもおかしくない状況の中、本当に親神様のご守護が身にしみた出産でした。
弟夫婦は生まれた男の子を「優助」と名付けました。「優子の優と孝助の助」をとったそうです。その名前を聞いて、主人も私も驚き、まるで孝助と優子が一度に帰ってきてくれたような気がして涙が出ました。
弟夫婦は親子共にない命を助けて頂いたことを心から感謝し、「これからの人生、神様にご恩返しできるように通らせて頂きたい」と、家族揃って教会の御用に勇んで勤めてくれています。
本当に思いもよらないことが幾度となく起こってきた十数年でしたが、我が子「孝助」と「優子」がこの世に産まれさせていただけた事、一緒に色々な事を乗り越え、成し遂げてきた事は、二人が生きた証としてずっと私たちの心の中に生きています。
そして今もなお、親神様のご守護の尊さを伝え続け、親孝行し続けて「本当のながいき」をしてくれています。



三才心

母親が見守る前で、幼子たちが戯れる姿は、純真無垢そのものです。きょうだい同士、たとえ掴みあいのけんかをしても、すぐにケロッと忘れて再び遊び戯れ、母親に笑顔を向けています。何ともうるわしい、無邪気な姿です。
天理教では、「さんさい心」という表現で、素直で純粋な心の大切さを教えられています。
お言葉に、

「この道の中はこうなってもどうなっても、これ三才の子供という心になってくれにゃならん」（Ｍ36･12･22）

とあります。また、体調の優れない六十代の男性へのお諭しに、

「めん／＼はもう生まれ更わりたように成れ。すれば、さあ／＼身上何も案じる事要らん。（中略）さあ／＼心は今日生まれた人の心に替えて了え。生まれ児には思わく無い」（Ｍ40･1･16）

とあり、生まれたばかりの純粋な心になるよう促されています。また、教祖をめぐって、こんな逸話も残されています。

明治九年頃のこと。年のころ五、六歳の林芳松という少年が、右手を脱臼してしまい、祖母に連れられて教祖のいらっしゃるお屋敷を訪ねました。
教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と仰り、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、「その茶碗を持って来ておくれ」と仰せになりました。
芳松少年が、右手が痛いので左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちら、こちら」と、ご自身の右手をお上げになり、痛めている右手で持つよう促されました。
威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛むはずの右手で茶碗を持とうとしたところ、不思議に持つことができました。芳松少年の素直な心を神様は見定められ、脱臼をしていた右手に結構なご守護を下されたのです。（教祖伝逸話篇49「素直な心」）

人は年とともに経験を積み成熟していきますが、その引き換えに純真な心を失い、ややもすれば神様の思いから離れてしまうことがあります。「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と、いくつになっても教祖から声を掛けて頂けるような、そんな「さんさい心」を持って通り切りたいものです。
（終）]]></description>
        <googleplay:description>本当のながいき
兵庫県在住　　旭　和世

私どもがお預かりさせて頂いている教会では、六年前に「こども食堂」を始めました。こども食堂を始めたきっかけは、そのスタートの少し前にさかのぼります。
当時、私は4人の子供の子育て真っ最中。三人の小学生に、末っ子は重度の心身障害児で在宅での医療的ケアをしていました。
末っ子の優子は「18トリソミー」という染色体に異常がある病気でした。病院の先生からは生涯寝たきり、一歳まで生きられる確率は一割と言われていましたが、ご守護をたくさんいただき、その頃優子は二歳を迎えようとしていました。
とはいっても自発呼吸ができないので、24時間呼吸器が手放せず、体重は新生児の赤ちゃん並みの4キロほど。発達はものすごくゆっくりで、首が据わることも、歩くことも、話すこともできず、小さなベビーベッドが彼女の居場所でした。
そんな24時間目が離せない彼女を育てながらも、教会でこども食堂ができないだろうかと考えていました。というのも、実は我が家には優子が産まれる前に、同じ18トリソミーの次男を子育てしていた経験があったので、医療的ケアにも、気持ちにも少し余裕があったのです。
次男の孝助の時は、想像を絶する医療的ケアの大変さに、ドキドキ、オロオロして気が休まることはなく、毎日が必死で余裕は全くありませんでした。私は外に出ることもなく、一日中孝助のベッドにへばりついて介護生活をしていました。
心はだんだん内向きになり、人に会うのもしんどくなり、訪問看護師さんに会う元気すらなくなっていく自分がいました。その頃はちょうど教祖130年祭の年祭活動一年目でした。「年祭の旬に一人でも多くの方にお道の素晴らしさを伝えて、おぢばに帰っていただこう！」という活気にあふれた周りの状況とは裏腹に、内向きな自分の心だけが取り残されているような気がしていました。
そんな中、教会につながる方が「孝助くんは教会の宝物だね」と言ってくださったり、近くの教会の奥さんが「和世ちゃん、孝ちゃんを連れてたとえ一軒でも二軒でもにをいがけに行くなら、私ついていくから！」と声を掛けてくださったり、「孝ちゃんに会うと元気もらえるわ！」と言って下さるかたなど、周りの皆さんの寄り添いのおかげで、私の心はだんだん外に向かうようになっていました。たとえ一軒でもにをいがけに行こう！ 毎日を喜ぼう！ と前を向けるようになり、大変だと思っていた日々に喜びが増えていきました。
その後、孝助は130年祭を迎える前に二歳で出直しました。突然のことに、辛い悲しい気持ちをたくさん感じながらも、それだけではない、これまでの感謝と信仰があったおかげで先を楽しみに通らせていただけることも実感していました。
その後のまさかの優子の出産！ もう「喜ぶ！」しか答えはありません。忙しい中にも喜びばかりでした。
しかし、ふと「こんなにありがたい、嬉しい毎日を過ごせるようになったのも、信仰のおかげ、周りの皆さんの寄り添いのおかげ…。何か神様や地域の方々へご恩返ししなければ申し訳ないな」と思うようになり、教会に居てでもできる「にをいがけ」はないかなと考えるようになりました。
そこで、以前からやってみたいと思っていた「こども食堂」はどうだろう？と思いつきました。本当にできるのか不安もありましたが、会長である主人が心配しながらも協力してくれることになり、お料理好きな母も快く承諾してくれて、何とか活動を始めることができました。
こども食堂の日には、訪問看護師さんがその日に合わせて優子のケアに来てくださったり、優子の薬を配達していた薬剤師さんもボランティアに来てくださったりと、色々な方が教会に出入りしてくださるようになりました。コロナ禍でも活動は継続し、優子のベッドのそばでたくさんのお弁当を作ったり、子供たちの学習支援もできるようになり、教会に新鮮であたたかい空気が流れていくような気がしました。
そんな活動が軌道に乗ってきたのを見届けるかのように、優子は４歳で神様の元に戻りました。どこかで心の準備はしていたものの、やはり我が子に先立たれる寂しさは言葉にできないほど辛いことでもありました。
そんな時、ある方がこんな言葉をかけてくれました。
「孝助くんと優子ちゃんは出直したけれど、これからも周りのみんなの心に孝ちゃん、優ちゃんの名前はずっと残っていくから〝名前〟が〝生き続ける〟。それが本当の〝ながいき〟だよ」と言ってくださいました。
その言葉が本当に私の心を救ってくれました。
孝助という名前の由来は「親孝行」の〝孝〟と「人助け」の〝助〟。そして、優子の優は人の憂いに寄り添うという意味。
孝助と優子のおかげでできるようになったこども食堂の活動を通して、私たちは人の憂いに寄り添い、一人でも多くの方に喜んでもらい、助かってもらえる場所になるよう、そして何より、親神様、教祖に喜んでいただける教会になればと思って今も活動を続けています。
そんな優子の出直しから二年ほどたった頃、私たち家族に予想だにしなかったことがまたまた起こったのです。会長の弟夫婦に結婚13年目にして待望の赤ちゃんが授かったのです。もう家族中が喜んで出産を心待ちにしていました。
おふでさきに

　　たいないゑやどしこむのも月日なり　　むまれだすのも月日せわどり　（6号 131）

というお言葉がありますが、出産当日、このお言葉を痛感することになります。
お産の最中に、あろうことか母胎の子宮が破裂し、緊急の帝王切開になったのです。赤ちゃんは仮死状態、母胎の止血にも時間がかかり、母子ともに命が危ないという知らせが入りました。私たちは、にわかに信じがたい状況に驚き、なんとかご守護頂きたいと皆で必死の「お願いづとめ」をつとめさせて頂きました。
その中で、命をいただけることは当たり前ではないこと、人間の力ではどうにもならないこと、親神様・教祖におすがりするしか方法がないことに改めて思い至りました。そして、奇跡的に二人ともたすけて頂くというご守護を頂いたのです。
親子共に命を落としていてもおかしくない状況の中、本当に親神様のご守護が身にしみた出産でした。
弟夫婦は生まれた男の子を「優助」と名付けました。「優子の優と孝助の助」をとったそうです。その名前を聞いて、主人も私も驚き、まるで孝助と優子が一度に帰ってきてくれたような気がして涙が出ました。
弟夫婦は親子共にない命を助けて頂いたことを心から感謝し、「これからの人生、神様にご恩返しできるように通らせて頂きたい」と、家族揃って教会の御用に勇んで勤めてくれています。
本当に思いもよらないことが幾度となく起こってきた十数年でしたが、我が子「孝助」と「優子」がこの世に産まれさせていただけた事、一緒に色々な事を乗り越え、成し遂げてきた事は、二人が生きた証としてずっと私たちの心の中に生きています。
そして今もなお、親神様のご守護の尊さを伝え続け、親孝行し続けて「本当のながいき」をしてくれています。



三才心

母親が見守る前で、幼子たちが戯れる姿は、純真無垢そのものです。きょうだい同士、たとえ掴みあいのけんかをしても、すぐにケロッと忘れて再び遊び戯れ、母親に笑顔を向けています。何ともうるわしい、無邪気な姿です。
天理教では、「さんさい心」という表現で、素直で純粋な心の大切さを教えられています。
お言葉に、

「この道の中はこうなってもどうなっても、これ三才の子供という心になってくれにゃならん」（Ｍ36･12･22）

とあります。また、体調の優れない六十代の男性へのお諭しに、

「めん／＼はもう生まれ更わりたように成れ。すれば、さあ／＼身上何も案じる事要らん。（中略）さあ／＼心は今日生まれた人の心に替えて了え。生まれ児には思わく無い」（Ｍ40･1･16）

とあり、生まれたばかりの純粋な心になるよう促されています。また、教祖をめぐって、こんな逸話も残されています。

明治九年頃のこと。年のころ五、六歳の林芳松という少年が、右手を脱臼してしまい、祖母に連れられて教祖のいらっしゃるお屋敷を訪ねました。
教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と仰り、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、「その茶碗を持って来ておくれ」と仰せになりました。
芳松少年が、右手が痛いので左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちら、こちら」と、ご自身の右手をお上げになり、痛めている右手で持つよう促されました。
威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛むはずの右手で茶碗を持とうとしたところ、不思議に持つことができました。芳松少年の素直な心を神様は見定められ、脱臼をしていた右手に結構なご守護を下されたのです。（教祖伝逸話篇49「素直な心」）

人は年とともに経験を積み成熟していきますが、その引き換えに純真な心を失い、ややもすれば神様の思いから離れてしまうことがあります。「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と、いくつになっても教祖から声を掛けて頂けるような、そんな「さんさい心」を持って通り切りたいものです。
（終）</googleplay:description>
        <itunes:summary>本当のながいき
兵庫県在住　　旭　和世

私どもがお預かりさせて頂いている教会では、六年前に「こども食堂」を始めました。こども食堂を始めたきっかけは、そのスタートの少し前にさかのぼります。
当時、私は4人の子供の子育て真っ最中。三人の小学生に、末っ子は重度の心身障害児で在宅での医療的ケアをしていました。
末っ子の優子は「18トリソミー」という染色体に異常がある病気でした。病院の先生からは生涯寝たきり、一歳まで生きられる確率は一割と言われていましたが、ご守護をたくさんいただき、その頃優子は二歳を迎えようとしていました。
とはいっても自発呼吸ができないので、24時間呼吸器が手放せず、体重は新生児の赤ちゃん並みの4キロほど。発達はものすごくゆっくりで、首が据わることも、歩くことも、話すこともできず、小さなベビーベッドが彼女の居場所でした。
そんな24時間目が離せない彼女を育てながらも、教会でこども食堂ができないだろうかと考えていました。というのも、実は我が家には優子が産まれる前に、同じ18トリソミーの次男を子育てしていた経験があったので、医療的ケアにも、気持ちにも少し余裕があったのです。
次男の孝助の時は、想像を絶する医療的ケアの大変さに、ドキドキ、オロオロして気が休まることはなく、毎日が必死で余裕は全くありませんでした。私は外に出ることもなく、一日中孝助のベッドにへばりついて介護生活をしていました。
心はだんだん内向きになり、人に会うのもしんどくなり、訪問看護師さんに会う元気すらなくなっていく自分がいました。その頃はちょうど教祖130年祭の年祭活動一年目でした。「年祭の旬に一人でも多くの方にお道の素晴らしさを伝えて、おぢばに帰っていただこう！」という活気にあふれた周りの状況とは裏腹に、内向きな自分の心だけが取り残されているような気がしていました。
そんな中、教会につながる方が「孝助くんは教会の宝物だね」と言ってくださったり、近くの教会の奥さんが「和世ちゃん、孝ちゃんを連れてたとえ一軒でも二軒でもにをいがけに行くなら、私ついていくから！」と声を掛けてくださったり、「孝ちゃんに会うと元気もらえるわ！」と言って下さるかたなど、周りの皆さんの寄り添いのおかげで、私の心はだんだん外に向かうようになっていました。たとえ一軒でもにをいがけに行こう！ 毎日を喜ぼう！ と前を向けるようになり、大変だと思っていた日々に喜びが増えていきました。
その後、孝助は130年祭を迎える前に二歳で出直しました。突然のことに、辛い悲しい気持ちをたくさん感じながらも、それだけではない、これまでの感謝と信仰があったおかげで先を楽しみに通らせていただけることも実感していました。
その後のまさかの優子の出産！ もう「喜ぶ！」しか答えはありません。忙しい中にも喜びばかりでした。
しかし、ふと「こんなにありがたい、嬉しい毎日を過ごせるようになったのも、信仰のおかげ、周りの皆さんの寄り添いのおかげ…。何か神様や地域の方々へご恩返ししなければ申し訳ないな」と思うようになり、教会に居てでもできる「にをいがけ」はないかなと考えるようになりました。
そこで、以前からやってみたいと思っていた「こども食堂」はどうだろう？と思いつきました。本当にできるのか不安もありましたが、会長である主人が心配しながらも協力してくれることになり、お料理好きな母も快く承諾してくれて、何とか活動を始めることができました。
こども食堂の日には、訪問看護師さんがその日に合わせて優子のケアに来てくださったり、優子の薬を配達していた薬剤師さんもボランティアに来てくださったりと、色々な方が教会に出入りしてくださるようになりました。コロナ禍でも活動は継続し、優子のベッドのそばでたくさんのお弁当を作ったり、子供たちの学習支援もできるようになり、教会に新鮮であたたかい空気が流れていくような気がしました。
そんな活動が軌道に乗ってきたのを見届けるかのように、優子は４歳で神様の元に戻りました。どこかで心の準備はしていたものの、やはり我が子に先立たれる寂しさは言葉にできないほど辛いことでもありました。
そんな時、ある方がこんな言葉をかけてくれました。
「孝助くんと優子ちゃんは出直したけれど、これからも周りのみんなの心に孝ちゃん、優ちゃんの名前はずっと残っていくから〝名前〟が〝生き続ける〟。それが本当の〝ながいき〟だよ」と言ってくださいました。
その言葉が本当に私の心を救ってくれました。
孝助という名前の由来は「親孝行」の〝孝〟と「人助け」の〝助〟。そして、優子の優は人の憂いに寄り添うという意味。
孝助と優子のおかげでできるようになったこども食堂の活動を通して、私たちは人の憂いに寄り添い、一人でも多くの方に喜んでもらい、助かってもらえる場所になるよう、そして何より、親神様、教祖に喜んでいただける教会になればと思って今も活動を続けています。
そんな優子の出直しから二年ほどたった頃、私たち家族に予想だにしなかったことがまたまた起こったのです。会長の弟夫婦に結婚13年目にして待望の赤ちゃんが授かったのです。もう家族中が喜んで出産を心待ちにしていました。
おふでさきに

　　たいないゑやどしこむのも月日なり　　むまれだすのも月日せわどり　（6号 131）

というお言葉がありますが、出産当日、このお言葉を痛感することになります。
お産の最中に、あろうことか母胎の子宮が破裂し、緊急の帝王切開になったのです。赤ちゃんは仮死状態、母胎の止血にも時間がかかり、母子ともに命が危ないという知らせが入りました。私たちは、にわかに信じがたい状況に驚き、なんとかご守護頂きたいと皆で必死の「お願いづとめ」をつとめさせて頂きました。
その中で、命をいただけることは当たり前ではないこと、人間の力ではどうにもならないこと、親神様・教祖におすがりするしか方法がないことに改めて思い至りました。そして、奇跡的に二人ともたすけて頂くというご守護を頂いたのです。
親子共に命を落としていてもおかしくない状況の中、本当に親神様のご守護が身にしみた出産でした。
弟夫婦は生まれた男の子を「優助」と名付けました。「優子の優と孝助の助」をとったそうです。その名前を聞いて、主人も私も驚き、まるで孝助と優子が一度に帰ってきてくれたような気がして涙が出ました。
弟夫婦は親子共にない命を助けて頂いたことを心から感謝し、「これからの人生、神様にご恩返しできるように通らせて頂きたい」と、家族揃って教会の御用に勇んで勤めてくれています。
本当に思いもよらないことが幾度となく起こってきた十数年でしたが、我が子「孝助」と「優子」がこの世に産まれさせていただけた事、一緒に色々な事を乗り越え、成し遂げてきた事は、二人が生きた証としてずっと私たちの心の中に生きています。
そして今もなお、親神様のご守護の尊さを伝え続け、親孝行し続けて「本当のながいき」をしてくれています。



三才心

母親が見守る前で、幼子たちが戯れる姿は、純真無垢そのものです。きょうだい同士、たとえ掴みあいのけんかをしても、すぐにケロッと忘れて再び遊び戯れ、母親に笑顔を向けています。何ともうるわしい、無邪気な姿です。
天理教では、「さんさい心」という表現で、素直で純粋な心の大切さを教えられています。
お言葉に、

「この道の中はこうなってもどうなっても、これ三才の子供という心になってくれにゃならん」（Ｍ36･12･22）

とあります。また、体調の優れない六十代の男性へのお諭しに、

「めん／＼はもう生まれ更わりたように成れ。すれば、さあ／＼身上何も案じる事要らん。（中略）さあ／＼心は今日生まれた人の心に替えて了え。生まれ児には思わく無い」（Ｍ40･1･16）

とあり、生まれたばかりの純粋な心になるよう促されています。また、教祖をめぐって、こんな逸話も残されています。

明治九年頃のこと。年のころ五、六歳の林芳松という少年が、右手を脱臼してしまい、祖母に連れられて教祖のいらっしゃるお屋敷を訪ねました。
教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と仰り、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、「その茶碗を持って来ておくれ」と仰せになりました。
芳松少年が、右手が痛いので左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちら、こちら」と、ご自身の右手をお上げになり、痛めている右手で持つよう促されました。
威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛むはずの右手で茶碗を持とうとしたところ、不思議に持つことができました。芳松少年の素直な心を神様は見定められ、脱臼をしていた右手に結構なご守護を下されたのです。（教祖伝逸話篇49「素直な心」）

人は年とともに経験を積み成熟していきますが、その引き換えに純真な心を失い、ややもすれば神様の思いから離れてしまうことがあります。「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と、いくつになっても教祖から声を掛けて頂けるような、そんな「さんさい心」を持って通り切りたいものです。
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        <pubDate>Fri, 25 Apr 2025 09:14:42 +0000</pubDate>
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    </item>
    <item>
                <title>親より深い愛情</title>
        <description><![CDATA[親より深い愛情
岐阜県在住　　伊藤　教江

親より深い愛情はない。しかし、親より深い愛情もある……親は子供を深い愛情で育て、子供はその愛情を受けて育って行くものだと信じています。しかし、そんな私の認識が揺らぐような出来事がありました。
当時、ある夫婦は二人の子供に恵まれ、新しく家も建て、家族４人で幸せに暮らしていました。しかし、いつ頃からかだんだんと、母親の喜怒哀楽の感情の起伏が激しくなり、家事も一切しなくなり、暴言・暴力が増えていきました。
そのため父親は、仕事はおろか慣れない家事もままならず、母親の暴力から子供たちを守るのに必死で、遂には疲れ果てて精神を病んでしまいました。そして家族４人は、教会長である主人に付き添われて、教会の門をくぐったのでした。
まだまだ親の愛情の必要な13歳の姉と9歳の弟の生活は、ゴミがあふれ足の踏み場もない家の中で、掃除・洗濯などはもちろん、どこでどう寝ていたのか、一体今日まで何を食べてきたのか、いつの残り湯かわからない泥水のようなお風呂にどう入っていたのか…。想像をするだけで涙がこぼれました。
子供たちは学校でも「気持ち悪い、臭い」といじめにあい、水をかけられたこともありました。それを知ってか知らずか、母親の暴言・暴力はますます酷くなっていき、姉のＡ子ちゃんは母親の罵声を浴びながら何度も馬乗りになられ、首を絞められたのでした。さらには心を病み、生きる気力を失った父親からも、「一緒に命を絶とう」と、二度にわたり無理やり海へ連れて行かれたこともありました。
Ａ子ちゃんは、そんな自分自身も辛く苦しい中、小さくて病弱な弟を必死で守ってきました。この子供たちは、主人と出会う前には泣くに泣けない、誰にもたすけを求められない、まさに地獄のどん底にいたのでした。
教会ではまず、この家族に温かいご飯をたくさん食べてもらい、私はA子ちゃんと一緒にお風呂に入りました。するとA子ちゃんは自ら「背中を流します！」と言って、私の背中を洗いながら懸命に気を使ってくるのです。
私は驚きました。「まだ13歳なのに…もっと甘えてもいいのに…」A子ちゃんから出る言葉や態度からは、「家には帰りたくない。たすけて欲しい」との思いが痛いほど伝わってきました。
家族４人は、その日から慣れない教会生活が始まりました。２人の子供は学校も転入することになりましたが、A子ちゃんは特に学校生活に辛い経験があり、登校することにとても不安を抱えていました。
幸いにも、A子ちゃんはうちの娘と同じ歳でしたので、娘と同じクラスにしてもらい、娘には「登校から下校までずっと、一緒にそばについて心寄り添って欲しい…」と頼みました。
一方、母親には主人が付き添い、幾つもの病院を回りながら検査を重ねた結果、脳が委縮していく「ピック病」と診断され、入院することになりました。父親は、妻の病名も分かり入院してくれたのでホッとしたのか、「もう教会にはいたくない。家へ帰りたい」と言うようになりました。
父親が家に帰ると言い出したその時、A子ちゃんは弟を連れて、私の前で突然、きちんと正座をして、手をついて頭を畳にこすりつけるようにしてこう言いました。「お願いです。私たちはこの教会に置いて下さい。お父さんと家には帰りたくないです。どうかお願いします…お願いします！」
その子供たちの姿を目の前にした時、私の中にあった「親と子」という認識が大きく揺らいだのです。私は「親」というのは、子供可愛い一条で、自分は寝なくても食べなくても子供のために尽くすのが親である。そして「子供」から「親」を見た時に、わけがあって愛情を持って育ててもらえなくても、子供は親のそばにいたいものであり、親のそばにいることが一番幸せなことであると信じていました。
しかし、この２人の子供の姿は、そうではなかったのです。子供は親以上に自分を大切に育ててくれる人のそばにいることを望んでいるのだと痛感しました。
その後、父親は２人の子供をおいて家へ帰っていきました。子供のことより自分のことを最優先にしていったのです。残された２人の子供は、何も分からない教会生活の中、「おはようございます」の挨拶から始まり、ご飯の食べ方、お風呂の入り方、ゴミはゴミ箱に捨てることなどを教わりながら、大勢の教会の人たちの愛情に抱えられ、教会の家族として穏やかに育てられました。
主人は、この２人の子供の運命を何とかたすけてやりたい、守ってあげたいという親心で抱え続け、我が子同様に、実の親よりも深い愛情で２人の子供を育て上げたのでした。
親よりも深い愛情はない。しかし、親よりも深い愛情もある･･･
教会長である主人から実の親よりも深い愛情で抱きかかえられた子供たちは、親神様・教祖の大きな親心を肌身で感じ取り、報恩感謝の心で日々を通るまで心の成長をしてくれました。私たち夫婦も、たすけ道場・陽気道場の使命を担う教会をお預かりする者として、立派なようぼくへと成長してくれた子供たちの今日に、この上ない喜びを味わう日々です。



「おしい」のほこり

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、陽気ぐらしに反する自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。
教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「おしい」のほこりについて、次のようにお聞かせ下されています。
「おしいとは、心の働き、身の働きを惜しみ、税金など納めるべき物を出し惜しみ、世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、借りたる物を返すのを惜しみ、嫌な事は人にさせて、自分は楽をしたいという心。すべて、天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いはほこりであります」。
私たちは、心や身体を十分働かせることによって楽しい暮らしができる。そのように、親神様によって造られているのです。心も尽くさず、身も働かせずに横着をしていると、いつしか親神様のご守護を十分に頂けなくなってしまいます。
明治七年のこと。当時十八才の西尾ナラギクさんがお屋敷へやって来て、皆と一緒に教祖の御前に集まっていました。やがて、人々が挨拶をして帰ろうとすると、教祖は娘のこかん様を呼んで、「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆、用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ」と仰いました。
こかん様が、「沢山用事はございますなれど、遠慮して出しませなんだのや」と答えると、「そんなら、出してお上げ」と教祖が仰せられたので、こかん様は糸紡ぎの用事を出しました。
皆が一生懸命糸を紡ぎ、やがてナラギクさんの所で一つ分出来上がりました。すると教祖がお側に来られ、ナラギクさんの肩をポンと叩いて、その出来たものを三度押し頂かれ、こう仰せられました。
「ナラギクさん、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに、神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今、しっかり働いて置きなされや」（教祖伝逸話篇37「神妙に働いて下されますなあ」）
若い時には身体を十分に働かせること。そして、たとえ身体が不自由を抱えても、心をしっかり働かせること。いずれにしても、生涯、働く者として親神様にお使い頂けるのですから、こんなに有難いことはありません。
（終）
]]></description>
        <googleplay:description>親より深い愛情
岐阜県在住　　伊藤　教江

親より深い愛情はない。しかし、親より深い愛情もある……親は子供を深い愛情で育て、子供はその愛情を受けて育って行くものだと信じています。しかし、そんな私の認識が揺らぐような出来事がありました。
当時、ある夫婦は二人の子供に恵まれ、新しく家も建て、家族４人で幸せに暮らしていました。しかし、いつ頃からかだんだんと、母親の喜怒哀楽の感情の起伏が激しくなり、家事も一切しなくなり、暴言・暴力が増えていきました。
そのため父親は、仕事はおろか慣れない家事もままならず、母親の暴力から子供たちを守るのに必死で、遂には疲れ果てて精神を病んでしまいました。そして家族４人は、教会長である主人に付き添われて、教会の門をくぐったのでした。
まだまだ親の愛情の必要な13歳の姉と9歳の弟の生活は、ゴミがあふれ足の踏み場もない家の中で、掃除・洗濯などはもちろん、どこでどう寝ていたのか、一体今日まで何を食べてきたのか、いつの残り湯かわからない泥水のようなお風呂にどう入っていたのか…。想像をするだけで涙がこぼれました。
子供たちは学校でも「気持ち悪い、臭い」といじめにあい、水をかけられたこともありました。それを知ってか知らずか、母親の暴言・暴力はますます酷くなっていき、姉のＡ子ちゃんは母親の罵声を浴びながら何度も馬乗りになられ、首を絞められたのでした。さらには心を病み、生きる気力を失った父親からも、「一緒に命を絶とう」と、二度にわたり無理やり海へ連れて行かれたこともありました。
Ａ子ちゃんは、そんな自分自身も辛く苦しい中、小さくて病弱な弟を必死で守ってきました。この子供たちは、主人と出会う前には泣くに泣けない、誰にもたすけを求められない、まさに地獄のどん底にいたのでした。
教会ではまず、この家族に温かいご飯をたくさん食べてもらい、私はA子ちゃんと一緒にお風呂に入りました。するとA子ちゃんは自ら「背中を流します！」と言って、私の背中を洗いながら懸命に気を使ってくるのです。
私は驚きました。「まだ13歳なのに…もっと甘えてもいいのに…」A子ちゃんから出る言葉や態度からは、「家には帰りたくない。たすけて欲しい」との思いが痛いほど伝わってきました。
家族４人は、その日から慣れない教会生活が始まりました。２人の子供は学校も転入することになりましたが、A子ちゃんは特に学校生活に辛い経験があり、登校することにとても不安を抱えていました。
幸いにも、A子ちゃんはうちの娘と同じ歳でしたので、娘と同じクラスにしてもらい、娘には「登校から下校までずっと、一緒にそばについて心寄り添って欲しい…」と頼みました。
一方、母親には主人が付き添い、幾つもの病院を回りながら検査を重ねた結果、脳が委縮していく「ピック病」と診断され、入院することになりました。父親は、妻の病名も分かり入院してくれたのでホッとしたのか、「もう教会にはいたくない。家へ帰りたい」と言うようになりました。
父親が家に帰ると言い出したその時、A子ちゃんは弟を連れて、私の前で突然、きちんと正座をして、手をついて頭を畳にこすりつけるようにしてこう言いました。「お願いです。私たちはこの教会に置いて下さい。お父さんと家には帰りたくないです。どうかお願いします…お願いします！」
その子供たちの姿を目の前にした時、私の中にあった「親と子」という認識が大きく揺らいだのです。私は「親」というのは、子供可愛い一条で、自分は寝なくても食べなくても子供のために尽くすのが親である。そして「子供」から「親」を見た時に、わけがあって愛情を持って育ててもらえなくても、子供は親のそばにいたいものであり、親のそばにいることが一番幸せなことであると信じていました。
しかし、この２人の子供の姿は、そうではなかったのです。子供は親以上に自分を大切に育ててくれる人のそばにいることを望んでいるのだと痛感しました。
その後、父親は２人の子供をおいて家へ帰っていきました。子供のことより自分のことを最優先にしていったのです。残された２人の子供は、何も分からない教会生活の中、「おはようございます」の挨拶から始まり、ご飯の食べ方、お風呂の入り方、ゴミはゴミ箱に捨てることなどを教わりながら、大勢の教会の人たちの愛情に抱えられ、教会の家族として穏やかに育てられました。
主人は、この２人の子供の運命を何とかたすけてやりたい、守ってあげたいという親心で抱え続け、我が子同様に、実の親よりも深い愛情で２人の子供を育て上げたのでした。
親よりも深い愛情はない。しかし、親よりも深い愛情もある･･･
教会長である主人から実の親よりも深い愛情で抱きかかえられた子供たちは、親神様・教祖の大きな親心を肌身で感じ取り、報恩感謝の心で日々を通るまで心の成長をしてくれました。私たち夫婦も、たすけ道場・陽気道場の使命を担う教会をお預かりする者として、立派なようぼくへと成長してくれた子供たちの今日に、この上ない喜びを味わう日々です。



「おしい」のほこり

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、陽気ぐらしに反する自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。
教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「おしい」のほこりについて、次のようにお聞かせ下されています。
「おしいとは、心の働き、身の働きを惜しみ、税金など納めるべき物を出し惜しみ、世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、借りたる物を返すのを惜しみ、嫌な事は人にさせて、自分は楽をしたいという心。すべて、天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いはほこりであります」。
私たちは、心や身体を十分働かせることによって楽しい暮らしができる。そのように、親神様によって造られているのです。心も尽くさず、身も働かせずに横着をしていると、いつしか親神様のご守護を十分に頂けなくなってしまいます。
明治七年のこと。当時十八才の西尾ナラギクさんがお屋敷へやって来て、皆と一緒に教祖の御前に集まっていました。やがて、人々が挨拶をして帰ろうとすると、教祖は娘のこかん様を呼んで、「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆、用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ」と仰いました。
こかん様が、「沢山用事はございますなれど、遠慮して出しませなんだのや」と答えると、「そんなら、出してお上げ」と教祖が仰せられたので、こかん様は糸紡ぎの用事を出しました。
皆が一生懸命糸を紡ぎ、やがてナラギクさんの所で一つ分出来上がりました。すると教祖がお側に来られ、ナラギクさんの肩をポンと叩いて、その出来たものを三度押し頂かれ、こう仰せられました。
「ナラギクさん、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに、神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今、しっかり働いて置きなされや」（教祖伝逸話篇37「神妙に働いて下されますなあ」）
若い時には身体を十分に働かせること。そして、たとえ身体が不自由を抱えても、心をしっかり働かせること。いずれにしても、生涯、働く者として親神様にお使い頂けるのですから、こんなに有難いことはありません。
（終）
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        <itunes:summary>親より深い愛情
岐阜県在住　　伊藤　教江

親より深い愛情はない。しかし、親より深い愛情もある……親は子供を深い愛情で育て、子供はその愛情を受けて育って行くものだと信じています。しかし、そんな私の認識が揺らぐような出来事がありました。
当時、ある夫婦は二人の子供に恵まれ、新しく家も建て、家族４人で幸せに暮らしていました。しかし、いつ頃からかだんだんと、母親の喜怒哀楽の感情の起伏が激しくなり、家事も一切しなくなり、暴言・暴力が増えていきました。
そのため父親は、仕事はおろか慣れない家事もままならず、母親の暴力から子供たちを守るのに必死で、遂には疲れ果てて精神を病んでしまいました。そして家族４人は、教会長である主人に付き添われて、教会の門をくぐったのでした。
まだまだ親の愛情の必要な13歳の姉と9歳の弟の生活は、ゴミがあふれ足の踏み場もない家の中で、掃除・洗濯などはもちろん、どこでどう寝ていたのか、一体今日まで何を食べてきたのか、いつの残り湯かわからない泥水のようなお風呂にどう入っていたのか…。想像をするだけで涙がこぼれました。
子供たちは学校でも「気持ち悪い、臭い」といじめにあい、水をかけられたこともありました。それを知ってか知らずか、母親の暴言・暴力はますます酷くなっていき、姉のＡ子ちゃんは母親の罵声を浴びながら何度も馬乗りになられ、首を絞められたのでした。さらには心を病み、生きる気力を失った父親からも、「一緒に命を絶とう」と、二度にわたり無理やり海へ連れて行かれたこともありました。
Ａ子ちゃんは、そんな自分自身も辛く苦しい中、小さくて病弱な弟を必死で守ってきました。この子供たちは、主人と出会う前には泣くに泣けない、誰にもたすけを求められない、まさに地獄のどん底にいたのでした。
教会ではまず、この家族に温かいご飯をたくさん食べてもらい、私はA子ちゃんと一緒にお風呂に入りました。するとA子ちゃんは自ら「背中を流します！」と言って、私の背中を洗いながら懸命に気を使ってくるのです。
私は驚きました。「まだ13歳なのに…もっと甘えてもいいのに…」A子ちゃんから出る言葉や態度からは、「家には帰りたくない。たすけて欲しい」との思いが痛いほど伝わってきました。
家族４人は、その日から慣れない教会生活が始まりました。２人の子供は学校も転入することになりましたが、A子ちゃんは特に学校生活に辛い経験があり、登校することにとても不安を抱えていました。
幸いにも、A子ちゃんはうちの娘と同じ歳でしたので、娘と同じクラスにしてもらい、娘には「登校から下校までずっと、一緒にそばについて心寄り添って欲しい…」と頼みました。
一方、母親には主人が付き添い、幾つもの病院を回りながら検査を重ねた結果、脳が委縮していく「ピック病」と診断され、入院することになりました。父親は、妻の病名も分かり入院してくれたのでホッとしたのか、「もう教会にはいたくない。家へ帰りたい」と言うようになりました。
父親が家に帰ると言い出したその時、A子ちゃんは弟を連れて、私の前で突然、きちんと正座をして、手をついて頭を畳にこすりつけるようにしてこう言いました。「お願いです。私たちはこの教会に置いて下さい。お父さんと家には帰りたくないです。どうかお願いします…お願いします！」
その子供たちの姿を目の前にした時、私の中にあった「親と子」という認識が大きく揺らいだのです。私は「親」というのは、子供可愛い一条で、自分は寝なくても食べなくても子供のために尽くすのが親である。そして「子供」から「親」を見た時に、わけがあって愛情を持って育ててもらえなくても、子供は親のそばにいたいものであり、親のそばにいることが一番幸せなことであると信じていました。
しかし、この２人の子供の姿は、そうではなかったのです。子供は親以上に自分を大切に育ててくれる人のそばにいることを望んでいるのだと痛感しました。
その後、父親は２人の子供をおいて家へ帰っていきました。子供のことより自分のことを最優先にしていったのです。残された２人の子供は、何も分からない教会生活の中、「おはようございます」の挨拶から始まり、ご飯の食べ方、お風呂の入り方、ゴミはゴミ箱に捨てることなどを教わりながら、大勢の教会の人たちの愛情に抱えられ、教会の家族として穏やかに育てられました。
主人は、この２人の子供の運命を何とかたすけてやりたい、守ってあげたいという親心で抱え続け、我が子同様に、実の親よりも深い愛情で２人の子供を育て上げたのでした。
親よりも深い愛情はない。しかし、親よりも深い愛情もある･･･
教会長である主人から実の親よりも深い愛情で抱きかかえられた子供たちは、親神様・教祖の大きな親心を肌身で感じ取り、報恩感謝の心で日々を通るまで心の成長をしてくれました。私たち夫婦も、たすけ道場・陽気道場の使命を担う教会をお預かりする者として、立派なようぼくへと成長してくれた子供たちの今日に、この上ない喜びを味わう日々です。



「おしい」のほこり

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、陽気ぐらしに反する自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。
教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「おしい」のほこりについて、次のようにお聞かせ下されています。
「おしいとは、心の働き、身の働きを惜しみ、税金など納めるべき物を出し惜しみ、世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、借りたる物を返すのを惜しみ、嫌な事は人にさせて、自分は楽をしたいという心。すべて、天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いはほこりであります」。
私たちは、心や身体を十分働かせることによって楽しい暮らしができる。そのように、親神様によって造られているのです。心も尽くさず、身も働かせずに横着をしていると、いつしか親神様のご守護を十分に頂けなくなってしまいます。
明治七年のこと。当時十八才の西尾ナラギクさんがお屋敷へやって来て、皆と一緒に教祖の御前に集まっていました。やがて、人々が挨拶をして帰ろうとすると、教祖は娘のこかん様を呼んで、「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆、用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ」と仰いました。
こかん様が、「沢山用事はございますなれど、遠慮して出しませなんだのや」と答えると、「そんなら、出してお上げ」と教祖が仰せられたので、こかん様は糸紡ぎの用事を出しました。
皆が一生懸命糸を紡ぎ、やがてナラギクさんの所で一つ分出来上がりました。すると教祖がお側に来られ、ナラギクさんの肩をポンと叩いて、その出来たものを三度押し頂かれ、こう仰せられました。
「ナラギクさん、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに、神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今、しっかり働いて置きなされや」（教祖伝逸話篇37「神妙に働いて下されますなあ」）
若い時には身体を十分に働かせること。そして、たとえ身体が不自由を抱えても、心をしっかり働かせること。いずれにしても、生涯、働く者として親神様にお使い頂けるのですから、こんなに有難いことはありません。
（終）
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        <pubDate>Fri, 18 Apr 2025 13:52:06 +0000</pubDate>
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