災救隊 宮城・気仙沼 活動リポート(5月4日記)

■2011年5月4日

災害救援ひのきしん隊(=災救隊・田中勇一本部長)は、4月18日から津波で甚大な被害に見舞われた宮城県気仙沼市へ出動。沿岸部の住宅地で、倒壊家屋の解体や瓦礫の撤去作業を続けている。実動6日目の23日朝、岩手県一関市内の宿営地を出発する隊員たちに同行した記者のリポート(天理時報5月8日号掲載)から一部抜粋する。


一関市内の千厩宿営地から、出動現場の気仙沼市岩月千岩田地区までは車で約1時間。現場での作業開始は午前9時だが、先発隊は2時間前の7時に出発する。

気象庁発表のマグニチュード7以上の余震発生確率が10%未満に下がるまでは、津波に備えて重機やトラックを高台の空き地へ待避させてあるため、先発隊が毎朝、車両を現場へ移動させているという。

気仙沼市は、地震と津波により市街地一帯が大規模火災に見舞われた。市街地から5キロほど南にある千岩田地区は、火災の被害は免れたものの、数キロ沖に浮かぶ大島との間で増幅した波が押し寄せ、平地にある家屋はことごとく被害を受けた。

雨の中、9時の作業開始を前に地区内を歩くと、辺りには、磯の香りに油のようなにおいが混ざった独特の異臭が漂う。晴れた日には、粉塵が風で煽られるため、マスクが手放せないという。

「自衛隊が入った後も、道路脇や私有地の瓦礫は手つかず。家や家族を失った住民の多くは、懸命に前を向こうとしている。けれど、瓦礫を片づけないことにはその一歩が踏み出せない」と、この地区の自治会長は語る。

一時は「この地には、もう住めない」と諦めかけた住民の中にも、きれいに片づけられた家や、少しずつ元の姿を取り戻しつつある町の様子に勇気づけられ、生活再建を期して自宅へ戻るケースが増えているという。

この日、作業に当たったのは、埼玉教区隊の15人と三重教区隊の16人。次第に雨脚が強まり、足場がぬかるむなか、かっぱ姿の隊員たちは、道路脇に積まれた瓦礫や壊れた自動車などは重機を使って、住宅に流れ込んだ家財道具や側溝にたまった泥などはスコップや手作業で、手際よくトラックやダンプに積み込んだ。

大雨と強風の予報により、この日の瓦礫撤去作業は午前で終了。午後は、沖縄教区隊による気仙沼市内での炊き出しの様子を取材することになった。

実は、沖縄教区隊が海を越えて県外の被災地へ赴くのは、今回初めて。隊員6人は、4月18日の教祖誕生祭に参拝した後、陸路で現地入り。20日から各地の避難所を巡回して炊き出しを実施し、実動最終日となったこの日は、市南部の小泉中学校で夕食500食分の調理に取りかかった。

ほとんどの隊員は、東北地方へ来るのも初めて。隊員の一人は「朝晩の寒さに慣れるまでが大変だった」と笑顔を見せる。

「それでも、被災地の人たちに元気を出してもらえるのなら何度でも来たい」と口をそろえる。被災者の疲れが少しでも癒えればと、隊員らは沖縄から持参した黒砂糖を食事に添えた。

館内での配食。宿営地周辺に住む教友が差し入れた手作りのおかずや菓子とともに、隊員が豚汁の入った容器を手渡すと、避難住民たちにも笑顔が広がった。

その一人、自身も沖縄出身という女性は、隊員の中に実家近くの教会の関係者がいると知り、故郷の思い出話に花を咲かせていた。

「こちらへ嫁いで、かれこれ30年余り経つけれど、こんな所で“島人”に会えるなんて夢みたい。きっと、神様が出会わせてくれたのね」と涙交じりに微笑んだ女性は、隊員たちを最後まで見送っていた。

(5月4日記、天理時報5月8日号から一部抜粋)


[瓦礫や汚泥を、スコップや重機で取り除く隊員たち(4月23日、気仙沼市岩月千岩田地区で)]



[降りしきる雨の中、慎重に作業を進める(4月23日、気仙沼市岩月千岩田地区で)]



[調理した豚汁を配食する沖縄教区隊の隊員たち(4月23日、小泉中学校体育館で)]



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