飯降表統領 「諸宗教平和の集い」でアピール(11・16)

■2008年12月8日

〝感謝・慎みの暮らし方〟世界へ

11月16日か ら18日にかけてキプロスの首都ニコシアで開かれた「2008 諸宗教平和の集い」(聖エジディオ共同体、キプロス正教会共催)に、本教から飯降政彦表統 領、永尾教昭・ヨーロッパ出張所長、尾上貴行・英国連絡所長、山口英雄・大ローマ布教所長らが出席。最終日の分科会でパネリストの一人として登壇した飯降 表統領は、「いまこそ私たち宗教者が、人間が生きることの意味を伝え広めていかなければならない」として、「感謝と慎みの暮らし方を社会に反映していくこ とが、陽気ぐらし世界の実現につながっていく」と世界の宗教者たちにアピールした。 カトリックの在家団体「聖エジディオ共同体」の主催によるこの集いは、世界の主だった宗教・宗派の指導者たちが一堂に会し、世界平和について話し合うもの。 1986年、時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世の呼びかけにより、世界の宗教者がイタリア・アッシジに集まったのを機に、翌87年から毎年ヨーロッパ各地を巡回して「集い」が開かれている。 本教も第1回から毎年のように招待を受けており、今回は5人が出席。飯降表統領は、1999年にバチカンで開催された「集い」にローマ法王庁から招聘されて以来、9年ぶりの出席となった。 また期間中、イタリア在住の教友が、翻訳・通訳のスタッフとして運営に携わった。 開催地となったキプロスは、東地中海に浮かぶ島国。1974年のクーデターを機にトルコの軍事介入を受け、83年には島北部の北キプロス・トルコ共和国とキプロス共和国に分断。現在は、再統合に向けての話し合いが進められている。 集いでは「平和の文化–宗教と文化の対話」をテーマに、初日のオープニングセレモニーに引き続き、市内のホテルや会館で22の分科会が持たれた。 本教は、最終三日目午前の分科会「経済発展と共存の文化–アジアにおける宗教の役割」に参加。神社本庁、曹洞宗、大本、立正佼成会、天台宗などの代表者とともに、飯降表統領がパネリストとして登壇した(スピーチ要旨別掲)。 その後の質疑応答では、「物質主義に満たされた現代における宗教の役割」「青少年の宗教教育」などに関する質問が来場者から寄せられた。 飯降表統領は教理に基づき、「学生生徒修養会」などの独自の取り組みを紹介しながら、本教の見解を示した。 午後は「平和の祈り」として、各宗派がそれぞれの様式にのっとって祈りを捧げる時間が設けられた。本教のブースでは、拍子木とちゃんぽんを入れて、座りづとめと六下り目までのてをどりまなびを勤めたほか、尾上所長が来場者に向かって英語でおつとめについて説明した。 閉会式では、平和宣言の採択に続き、平和への誓いを込めて、各宗派の代表者がろうそくに火を灯した。

なお飯降表統領は、これに先立つ14日、フランス・アントニーのヨーロッパ出張所に参拝。集い終了後の20日にはバチカンを訪れ、諸宗教対話評議会議長のジャン・ルイ・トーラン枢機卿と懇談した。

「2008 諸宗教平和の集い」飯降表統領スピーチ〔要旨〕

これまでアジアでは、自然との調和が大切な考え方として根づいていた。しかし、最近の急激な経済発展により、アジアは物質的にも大変豊かになり、世界で最も劇的に人々の生活が変化を遂げている地域になったのではないだろうか。 物質的な豊かさは人々の暮らし方を変える。暮らしが変わると、心のあり方が変わっていく。これは、どの地域でも、どの文明も経験してきたことだと思う。 さらに厄介なのは、あふれる情報である。消化しきれない刺激を伴った莫大な量の情報が、人々のあり方、人々の心を追い込んでいく。情報化の進展は、バーチャルな世界を蔓延させ、それが人間として生きることの本質を見失わせ、命を粗末にする傾向が顕著に表れている。 物が豊かな日本において、年間3万人が自らの命を絶っている現実がある。幸せを求めんがための物、幸せを大きくするための情報、それらが結果的に本当の幸せを見失わせているのだ。 世の中が激しく変動するなか、確かな拠り所を持たぬ人々の価値観は揺らぎ、人と人の絆が失われていく傾向は加速の一途をたどっている。いまこそ私たち宗教者が、人間が生きることの意味を伝え広めていかなければならない。 そもそも人間は、何のために存在しているのだろうか。私たち天理教の教えにおいては、「陽気ぐらしをするためである」と明確に示されている。これは、人間を造られた神、つまり人類の親から与えられた命題である。 親の思いとは何だろうか。子供を持つ親の立場に立って考えてみよう。答えは単純明快で、「わが子が一人残らず幸せになってほしい、喜びあふれた明るい人生を送ってほしい」。神の場合は、それが全人類に及ぶのであり、これを神の親心という。 全人類の陽気ぐらしこそわれわれ人類の親である神の心、神の願いである。この神の親心を本当に知り得たとき、親なる神のもと、兄弟姉妹である人間同士が 殺し合うことや傷つけ合うことがなくなり、互いに思い合い、たすけ合う心になって、陽気ぐらし世界の実現が可能になるのだ。 この神の心に近づく歩み、努力が大切である。私たちは神の思いに近づけるように、心を開拓し、心を修行しなければならない。 また、己の生き方やあり方を徹底的に反省するよすがとして、わが身に表れてくる病、わが身わが家庭の事情から地球的規模の災いまで、すべてを神の導きとして捉え、果てしない成人への糧とするのである。 アジアに限らず、世界はいま温暖化、酸性雨、オゾン層の破壊など、さまざまな環境問題に直面している。とりわけ地球温暖化の問題については、われわれの暮らしや経済発展と深く関わる問題である。 この夏、日本の北海道で開催されたG8サミットのメーンテーマも温暖化問題であった。対策を怠れば今後、地球そのものの存亡の危機につながるという共通の認識を持った。 半面、取り組み方によっては、国益が優先される政治の世界で新たな緊張を生み出し、紛争に発展する可能性さえあることも思い知った。 私たち宗教者は、宗教の普遍的価値に基づく別の観点から、力を合わせて、この環境問題についても提言していく必要がある。 われわれ人間は、神から心の自由を許され、知恵をお与えいただき、その知恵を駆使して、より便利に日々を暮らすことを目指してきた。しかし一人ひとりが「我さえ良くば、今さえ良くば」と、さらなる便利さや快適さを追求した結果、環境破壊などの大きな問題が起こっている。 天理教には「神のからだ」と教えられる世界観があり、その「神のからだ」における環境の危機は、単なる自然の危機ではなく、自然という”鏡”に映し出された、われわれ人間の現実の姿にほかならない。 つまり、自然環境が病んでいるということは、取りも直さず、われわれ自身が病んでいるということになる。環境問題は、現代人の心の問題であり、「神のからだ」に懐住まいしている人間の悪しき心づかいの表れ、結果である。 こうした教えに立脚すれば、環境は「保護」するものでも「保全」するものでもない。「神のからだ」と認識して環境に対するとき、人はおのずと自らの日常 を省み、畏敬の念と、人間が生きるために必要な神からの与えを喜び尊ぶ「感謝」の心を持つようになる。そして、そこから「慎み」をもって生きるという独自 のライフスタイルも生まれてくる。 つまり、環境問題を真の解決へと導く糸口は、法による規制や社会倫理に基づく抑制、あるいは単に個人や集団レベルでの節約の奨励、リサイクル運動の推進に留まらず、「感謝」と「慎み」の心をもって生きるような意識改革をすることにある。 全人類の生活様式を一変させることは至難の技だ。一つひとつ変えていくしかないと思う。金銭的価値や経済効果に照らして「もったいない」と考え、人間が 生きていくうえで困難になることが想像されるから我慢しなければならない、節約しなければならないという考え方も大切だ。だが、それ以上に、物そのものを 大切にしなければならない。天の与えに対する感謝の気持ち、便利でありがたい、うれしいという気持ちが大切だと思う。 これは小さな積み重ねのようだが、そういう暮らし方を社会に反映していくことが、環境問題の解決につながるだけでなく、われわれが目指している陽気ぐらし世界の実現という究極の目標につながっていくと信じる。

(立教171年12月7日号)