悠々まほろば散歩 [2] | 天理教・はじめてのかたへ

悠々まほろば散歩
南朝終焉の地、吉野を訪ねて page2/2

エッセイ・南朝終焉の地、吉野を訪ねて 「悠々まほろば散歩」 作家 片山 恭一×写真家 小平 尚典 < まえへ 1 2 つぎへ >

 蔵王堂を出た私たちは、西に石段を下って南朝妙法殿(なんちょうみょうほうでん)と呼ばれる八角堂へ向かう。右手に「吉野朝宮址(きゅうし)」と掘られた石碑が立っている。このあたりに南朝の拠点となった皇居が置かれていた可能性が高いと考えられている。もともと実城寺(じつじょうじ)というお寺があったが、京都を逃れた後醍醐(ごだいご)天皇が身を寄せた際に寺号を金輪王寺と改めた。

南朝妙法殿と吉野朝宮址の碑 【南朝妙法殿と吉野朝宮址の碑】このあたりに南朝の拠点となった皇居が置かれていた可能性が高いと考えられている。

 ここで南北朝の動乱について簡単に整理しておこう。まず語るべきは後醍醐天皇だろう。在位は1318年から1339年。剛毅な性格にして才智に長け、しかも反抗的。この人が政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、各地の武士や有力者を扇動する。そして実際に政変を成し遂げ、短期間とはいえ公家政権を樹立してしまったわけだから、有言実行の人であったと言える。

 蒙古襲来ののち、鎌倉幕府は弱体化していた。幕府に不満を募らせる御家人も多かった。この機に乗じて彼らを結集し……だが倒幕の計画は事前に察知されて失敗する。ひそかに2回目を計画する。これも密告によって露顕。初犯には寛大だった幕府も、さすがに今回は見過ごしにはできぬと、六波羅探題(ろくはらたんだい)に後醍醐の捕縛を命じる。身の危険を感じた天皇は、三種の神器を持って京都を脱出、笠置山(かさぎやま)に潜行して畿内の武士に決起を呼びかけるが、結局は捕らえられ隠岐(おき)島に流される。

堀家住宅・賀名生皇居跡 【堀家住宅・賀名生皇居跡】賀名生と書いて「あのう」と読む。もとの表記は穴生だった。改名したのは後村上天皇。京都奪還をめざす天皇は、「願いはかなう」ということで「賀名生(叶)」に変えたらしい。さすがは後醍醐の子、父に劣らず強引な男であったようだ。

 後鳥羽(ごとば)上皇も流刑になった島で、静かに余生を過ごそう。そう考えても不思議はない。年齢的にも40代半ば、当時の感覚では出家や隠居を考えてもいい年格好である。だが彼は諦めなかった。下世話なことながら、生涯に17の皇子(みこ)と15人の皇女(ひめみこ)をもうけたと言われる多産な天皇である。生命力も旺盛だったのだろう。1333年に隠岐島を脱出するや出雲(いずも)で挙兵、足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らの力を借りて、ついに鎌倉幕府を滅亡に追いやると、天皇は京都に戻り、いわゆる建武の新政を開始する。

如意輪寺 【如意輪寺】もとは金峯山寺の僧坊だったところで、裏山に後醍醐天皇の塔尾陵が残されている。後醍醐が吉野で過ごした期間は3年に満たない。延元4年(1339)、京都奪回を悲願とした後醍醐は失意のうちに52歳の生涯を閉じる。その御陵は本人の遺志により、京都のある北を向いている。

 こうして念願であった公家政治の復活を果たすわけだが、結果的に、新政は3年ほどしかつづかなかった。性急な改革や政策に無理があったと言われる。政務は停滞し、新政に期待した人々の失望と不満は高まった。これが尊氏の離反を招く。一度は尊氏軍を打ち破るが、九州に落ち延びた尊氏は態勢を立て直し、大軍を率いて東上、ついに京都を制圧してしまう。

 このとき尊氏は後醍醐を廃し、光明(こうみょう)天皇を擁立する。一時は尊氏と和睦をした後醍醐だが、わずか2カ月後に神器を携えて京都を出奔、吉野にこもって自らが正統な天皇位にあると主張した。不屈の人である。打たれても、打たれても立ち上がる。しぶといというか、往生際が悪いというか。こうして京都の北朝と吉野の南朝が対立する南北朝の時代が幕を開ける。やれやれ。

吉水神社 【吉水神社】吉野に逃れた後醍醐天皇の一行が、最初に居を構えたとされる吉水神社。

 京都を脱出した後醍醐天皇が河内経由で吉野に入ったのは、建武3年(1336)の年の瀬も押し迫った寒い日だった。天皇がまず身を寄せたのは、金峯山寺から少し離れた吉水院(よしみずいん)(現在の吉水神社)である。ここが手狭になったために、実城寺あらため金輪王寺に移ったとされるが、詳しいことはわからない。明治維新の神仏分離令によって金峯山寺は廃され、大きく衰退してしまったために資料が散逸してしまったらしい。南朝の皇居となった金輪王寺も、廃仏毀釈の嵐のなかで廃寺となってしまった。

後醍醐天皇玉座の間 吉水神社の書院には安土桃山時代に造られた「後醍醐天皇玉座の間」(写真)や、室町時代様式の「義経潜居の間」が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。

 人の計らいによってなされたことは儚い。世界各地に無数に残る遺跡や廃墟は、人為の儚さをいまに伝えているとも言える。吉野の山だけが、いまも昔と変わらず人を惹きつけつづけている。あとひと月もすれば山は桜に彩られ、今年も大勢の人が押し寄せるだろう。そのころに再び訪れたいものだと思った。

吉野遠景 吉野は古来より神霊のすまう霊地として崇められてきた。古くから天皇の行幸が繰り返された由緒正しい聖地でもある。役行者にまつわる不思議な伝承のことも知られていただろう。都を追われた天皇としては、吉野という土地に宿る霊力に縋る思いだったのかもしれない。懐深い吉野の風景を心の感光紙に写し取って、今回の旅も終わりとしたい。

【悠々まほろば散歩「南朝終焉の地、吉野を訪ねて」 おわり】

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