悠々まほろば散歩 [2] | 天理教・はじめてのかたへ

悠々まほろば散歩
阿倍仲麻呂と千三百年前の遣唐使 page2/2

エッセイ・阿倍仲麻呂と千三百年前の遣唐使 「悠々まほろば散歩」 作家 片山 恭一×写真家 小平 尚典 < まえへ 1 2 つぎへ >

 遣唐使の歴史的な意味付けについては、いろいろな見方ができて評価が難しいようだ。仏教文化を求めた遣随使にたいし、外交使節としての遣唐使という言い方がされる。中国(唐)という強国・大国と外交的にどうつきあうか。日本側は対等関係をめざすが、先方からすれば東の島嶼(とうしょ)に住む倭人に過ぎない。古い文献では朝鮮半島に住む人たちとひとまとめに「倭人」と呼ばれることもあったようだ。その朝鮮半島は、しばしば中国の支配を受けてきた。

地図 【遣唐使の主な航路】

 「日本」という国名を名乗るようになったのは、大宝律令(701年)のころからだとされる。律令という高度な法体系を運用する文明国であることを証明し、「日出(ひい)ずる国」を国名に掲げることで、日本が独立国であることを承認させる、それによって彼の国の侵攻を避けたいという思いもあっただろう。もちろん20年に一度の朝貢を約した上での「独立」ではあった。強国に仕えるというかたちをとりながら、国内には天皇(皇帝・天子)をいただく。当時の外交手腕は、なかなか巧みであったようだ。

大安寺 【大安寺】当時のいわばインターナショナルな仏教の教学センターであったところ。ベトナムなど海外の僧侶を受け入れる一方、遣唐使船で唐へ渡る僧侶たちの教育も行われた。最澄や空海もここで学んだと言われている。

 文化の面から見ると、遣唐使の時代はとりわけ中国のすぐれた文化を受容できた時代だった。この時代に入った外来の物品は、漢籍、仏教経典、仏像をはじめとする美術工芸品、薬物、香料、動植物などである。これらを滋養として、今日までつづく日本文化の基盤が形成されていった。面白いのは、国策として仏教を受容する一方で、道教の体系的な移入は抑制する、といった独自の取捨選択をしていることだ。自分たちの口に合わないもの、文化的摩擦を起こしそうなものは、あらかじめ濾過(ろか)した上で摂取している。

唐招提寺 【唐招提寺】戒律の精神と儀礼を本格的に伝え、唐招提寺の開祖となった鑑真(がんじん)。742年に日本からの熱心な招きに応じ来日を決意するが、当時の航海はきわめて難しく、5度の失敗を重ね、盲目の身となる。しかし意志は固く、753年12月、6度目でついに来日。翌年、東大寺に戒壇(かいだん)を築き、聖武天皇をはじめ400人余りの僧俗に戒を授けた。これは日本初の正式な授戒とされる。東大寺で5年過ごした後、759年に戒律の専修道場として唐招提寺をひらく。

 また漢字からかな文字を誕生させたり、独自の仏教美術を発達させたりというように、すぐれた文物に創意工夫をほどこし、自分たち流にアレンジして取り入れていく、といった精神的な自由闊達(じゆうかったつ)さをもっていたことも特筆される。よく言われるように、中国との地理的な距離が心理的な距離にも反映しているのだろうが、当時の人々が政治的にも文化的にもしたたかな国際人であったことは、この機会に確認しておいていいように思う。

唐招提寺内にある御廟付近の林と苔
【唐招提寺内にある御廟付近の林と苔】

 遣唐使の派遣には遭難が付き物だった。無事に帰還できた人数は6割程度とも言われている。それほどの危険を冒してまで異国へ渡り、最新の知識を身につけようとする者たちがいた。その知識によって、自分たちの国と社会が変わると信じていた。このこともまた、心に留めておきたい。

 いま1300百年の時を超えて、彼らの命を賭したひたむきさは、私たちに何を訴えようとしているのだろう。そんなことを思いながら、盛夏の大和路を後にした。

【悠々まほろば散歩「阿倍仲麻呂と千三百年前の遣唐使」 おわり】

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