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悠々まほろば散歩
阿倍仲麻呂と千三百年前の遣唐使 page1/2

エッセイ・阿倍仲麻呂と千三百年前の遣唐使 「悠々まほろば散歩」 作家 片山 恭一×写真家 小平 尚典

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 2004年、かつて唐の都があった西安の郊外で、1人の日本人留学生の墓誌が見つかった。唐名は「井真成(せいしんせい)」、享年36歳。ときの皇帝・玄宗は死者に最大級の恩恵を与え、葬儀は丁重に執り行われた、と墓誌には記されている。この人物、東野治之(とうのはるゆき)『遣唐使』(岩波新書)によると、養老の遣唐使に従って入唐した葛井真成(ふじいのまなり)の可能性が高いという。
 墓誌にはあわせて、つぎのような文章も見える。「死ぬことは天の常道だが、哀しいのは遠方であることだ。身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」。誰が哀しんでいるのか? 墓のなかの死者である。亡くなった本人が、異国の地で亡くなったことを嘆き、望郷の念を述べている。墓誌を刻んだのは中国(唐)の人たちだろう。彼らから見れば異邦人にあたる者に深く同情し、共感している。文章に心がこもっている。
 8世紀の日中関係はこのようなものだった。これがすべてではないだろうが、上記のエピソードを生む人と人の交流があった。

春日大社 【春日大社】遣唐使出発に先立ち、御蓋山の南で神々に祈る行事があったという。春日大社の境内に設けられた御蓋山遥拝所のあたりで行われたのかもしれない。仲麻呂の「天の原」の歌は、その神事が想起されたものと解釈されることが多い。

 養老の遣唐使船は717年に出ているから、来年はちょうど1300年目にあたる。このとき渡海した人たちのなかには、先述の「井真成」の他に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)、玄昉(げんぼう)といった重要人物が含まれている。今回の主人公、阿倍仲麻呂もまた有名な望郷の歌を詠んでいる。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる
御笠の山に 出でし月かも

 百人一首でもおなじみの歌、出典は『古今和歌集』で、詞書(ことばがき)には「もろこしにて月を見てよみける」とある。しかし仲麻呂については文献も少なく、歌が成立した事情など詳しいことはわからない。入唐後、科挙(かきょ)に合格して官職に就く。玄宗皇帝の愛顧も受けて順調に昇進を重ね、752年の遣唐使が帰国するとき願い出て許されるが、船はベトナムあたりに漂着して帰国は実現せず、770年に在唐のまま没したとされる。この悲劇の望郷歌人を、今回は追いかけてみる。

御蓋山 【御蓋山】いまの私たちの感覚で考えると、日本人である仲麻呂の中国での厚遇は不思議な気がする。しかし皇帝にたいして忠誠を誓い、その臣下となれば、少なくとも表向きは、出身地などが問われることはなかったらしい。実力があれば誰にでも受験資格が与えられ、科挙に及第すれば高位高官になることは十分に可能だった。国民に強い帰属意識を求める近代の国民国家とは、国家のありようが根本的に異なっていたのだろう。むしろこの時代のほうがグローバルに開かれていた感じがする。

 まず向かったのは、大和の古代豪族・安倍一族発祥の地に創建されたという安倍文殊院(あべもんじゅいん)。院内の金閣浮御堂(きんかくうきみどう)に仲麻呂像が秘宝として祀られている。お盆明けの平日とあって、人の姿はまばら。またひところの陰陽師ブームのせいか、いまは仲麻呂よりも子孫・晴明のほうが有名と見える。境内の掲示なども、どちらかというと晴明に重きを置いているようだ。金閣浮御堂で「七まいり」というのを体験する。七難即滅七福即生、人が一生のうちに出会う7つの災難を取り除き、即座に7つの福に転ずるという、ありがたいご利益があるらしい。受付の女性の説明に従って、日ごろは不信心な私たちも、神妙にお堂の回廊を7回まわり、7枚の「おさめ札」を収めていく。暑い。

安倍文殊院【安倍文殊院】 七まいり この7枚の御札を、回廊を1周するごとに1枚ずつちぎっては箱に収めていく。いかにも「お参りした!」という充実感。御札によって災厄を祓うという信仰は、道教から来ているのではないだろうか。

 仲麻呂ゆかりの場所は意外と少ない。つぎに私たちが向かったのは海龍王寺(かいりゅうおうじ)というお寺である。仲麻呂と同じ養老の遣唐使に従って入唐した留学僧・玄昉が、嵐のなかで船が遭難しかかったとき、海龍王経を唱えて無事に帰国できたことから、この寺の名があるという。聖武天皇・光明(こうみょう)皇后の手厚い庇護を受け、一時は大仏の造立(ぞうりゅう)や国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)の建立を進言するほどの力を持っていた玄昉だが、その栄達が妬まれたのか、晩年は太宰府の観世音寺(かんぜおんじ)に退けられ、746年に没している。

海龍王寺 【海龍王寺】734年に唐を出発した船は、 東シナ海で暴風雨に遭遇して遭難しかける。そのとき船に乗っていた玄昉が、狂瀾怒涛に漂いながらも海龍王経を一心に唱えたことで、九死に一生を得て種子島に漂着、翌年、無事に平城京へ戻ってくる。そんなことがお寺の縁起には記されている。 頭塔 【頭塔】古くより玄昉の頭を埋めた墓との伝説があり、その名の由来とされてきた。いまでは本来の「土塔(どとう)」がなまって「頭塔(ずとう)」になったと考えられている。

 もう1人の帰国組、吉備真備は帰路で種子島に漂着するも無事に帰朝、多くの典籍をもたらした。玄昉と同様、聖武天皇・光明皇后に重用されて政権の中枢を担う。今回取り上げる3人のなかで、いちばん順調に人生を送ったのは、学者から大臣にまで昇進し、83歳で没した、この人物かもしれない。しかし少しカメラを寄せて見ると、彼の人生もかなり波乱万丈である。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の専権時代には、玄昉と同じく左遷され、752年、60歳近くになって再び遣唐使として入唐、阿倍仲麻呂との再会を果たしている。翌年、屋久島や紀州へ漂着しながらも無事に帰朝する。強運の人でもあったらしい。

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