悠々まほろば散歩 | 天理教・はじめてのかたへ

悠々まほろば散歩
南朝終焉の地、吉野を訪ねて page1/2

エッセイ・南朝終焉の地、吉野を訪ねて 「悠々まほろば散歩」 作家 片山 恭一×写真家 小平 尚典

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 いつから吉野は「吉野(よしの)」と呼ばれるようになったのだろう。山は神霊の棲むところ、里は人々が暮らすところ。すると「野」は人と神霊が交わる場所ということになる。そこで「吉」なることが起こる。何か喜ばしいこととめぐり合う。古代より、天皇とは「祈る存在」であった。天候の安定と豊穣を祈る。世の中の平穏無事を祈る。

片山恭一氏

『万葉集』には「吉野讃歌」と呼ばれる一連の歌が収められており、柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)、笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴旅人(おおとものたびと)、大伴家持(おおとものやかもち)といった万葉を代表する宮廷歌人たちが、それぞれに吉野を詠んでいる。こうした歌の多くは、プロの歌人たちが天皇の行幸に随伴して詠んだと考えられる。天皇自らが詠んだとされる歌もある。巻頭近くに出てくる天武天皇(在位673~686)の有名な歌。

よき人のよしとよく見てよしと言ひし
吉野よく見よよき人よく見つ (一・二七)

 たった31文字のなかに「よし」が活用変化みたいに8回も出てくる。まともな鑑賞を拒むかのような謎めいた歌、いったい何が言いたいのだろう。何度も繰り返すところなどは、ちょっと呪術っぽくもある。

「吉野」という地名は、すでに『古事記』の中つ巻、神武天皇のところに出てくる。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降り立った高千穂から、東へ東へはるばる大和をめざして進む。瀬戸内海を通り河内へ入ったところで、豪族たちの抵抗にあったために迂回して紀州へ向かった、と記紀は記している。その道中、一行は八咫烏(やたがらす)に導かれて吉野川の河口(現在の奈良県五條市あたりか)にやって来る。「簗(やな)を使って川魚を獲る漁師がいた」といった記述が見えるから、いかにも田舎である。秘境といった趣だったのかもしれない。

地図



 現在でも、吉野へのアクセスは楽ではない。今回、私たちは時間と体力の関係で車を使って入山、改修中の仁王門から散策を開始した。門を出てしばらく行くと、金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂であり、また吉野山のシンボルでもある蔵王堂が見えてくる。1592年建立と伝えられる国宝である。金峯山寺の執行長である五條永教(ごじょうえいきょう)さんから、堂内を案内してもらいながらお話を聞くことができた。

金峯山寺・蔵王堂 【金峯山寺・蔵王堂】金峯山寺の本堂であり、また吉野山のシンボルでもある蔵王堂。1592年建立と伝えられる国宝である。蔵王堂の三体の蔵王権現立像は秘仏であり、普段は開帳されていない。写真で見ると三体とも同じ姿の金剛蔵王権現である。中央が釈迦如来、右は千手観音、左は弥勒菩薩の権化であるらしい。

 金峯山寺は7世紀後半に、修験道の始祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角〈えんのおづぬ〉)によって開創されたと伝えられている。役行者は幼少のころから仏心が篤く、葛城山で修行を重ねたのち、金峯山頂(山上ヶ岳〈さんじょうがたけ〉)において千日の苦行の末に、修験道の本尊である金剛蔵王権現を感得した(祈り出した)。この金剛蔵王権現の姿を、役行者は桜の木に刻み、山上ヶ岳と吉野山の2個所に安置した。これが吉野山全体に広がる寺社・霊場である吉野一山(いっさん)(金峯一山)の草創であるとされる。

四本桜 【四本桜】蔵王堂の境内、石の柵のなかに植えられた4本の桜の木。北条勢に攻められた大塔宮護良親王が最後の酒宴を開いたとされる。

 蔵王堂の3体の蔵王権現立像は秘仏であり、普段は開帳されていない。3体の立像は、いずれも金剛蔵王権現であるが、「権現」とはもともと仮の姿。中央が釈迦如来(しゃかにょらい)、右は千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)(千手観音)、左は弥勒菩薩(みろくぼさつ)の権化であるとされる。つまり如来も菩薩も、本来は目に見えないものであり、それが可視化されたものが権現ということになる。釈迦は過去、観音は現在、弥勒は未来をあらわし、過去、現在、未来の三世にわたって民衆を救済するために、仮の姿となって現れたのが金剛蔵王権現である。

葛切り
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